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償いでもなく、報いでもなく、必要だから

――公的扶助の<無条件性>と<十分性>を支援する――

後藤 玲子(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
2009/06/07 福祉社会学会第7回大会シンポジウム「「共助」の時代再考」
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jwsa/taikai.html
福祉社会学会


■報告要旨

   遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもつてきたんだ。
   君達のせいぢやない。ぼくのせいでは勿論ない。みんな寂
   しさがなせるわざなんだ。
   寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあって、旗のなびく方へ、
   母や妻をふりすててまで出発したのだ。
   かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、
   風にそよぐ民くさになって。
   ・・・
   僕、僕がいま、ほんたうに寂しがっている寂しさは、
   この零落の方向とは反対に、
   ひとりふみとどまって、寂しさの根元をがつきとつきと
   めようとして、世界といつしょに歩いているたつた一人の
   意欲も僕のまはりに感じられない。そのことだ。
   そのことだけなのだ。
   (金子光晴、「寂しさの歌」『金子光晴詩集』現代詩文庫、思潮社、1975より)。

  この詩に出会ったのは、国の戦争責任を考えているときだった。当時、被爆者援護法の制定を阻む最大の壁は「国民の受忍義務」だと知った、国民にまったく戦争責任がなかったと言い切ることは難しい、でもそこには「寂しさの釣出し」があったのだ、問題とすべきはそのことで、考えるべきはそのプロセスだ、この詩を読んで強く思った。
  国家賠償とは、国の財政支出を意味し、結局は国民の税金から支払われるのだから、議論はまた国民に戻される、といった事柄に気づいたのはずっと後のことだった。それが、生産と消費の流れを見据えながら、分配のあり方を考える経済学の基本問題であることを知ったのは、さらに後のことである。本報告では、生産と消費、そして福祉の流れを見据えながら、公的扶助のあり方を考えたい。
  
  2009年3月18日、広島地裁は「職務上の注意義務を尽くすことなく漫然と認定申請を却下した」として、初めて国家賠償の判決を下した。「厚生労働大臣は、放射線起因性の判断基準などに不十分な点がある場合、是正を促したり必要な調査をする義務を負う」と指摘し、3人の認定申請を却下したことは違法として計99万円の賠償を命じた。そこでは2000年の最高裁判決が当時の認定方法に疑問を呈した後も、国が審査分科会に再検討を促したり、自ら資料収集して適正な判断をする措置を取らなかったことが問題とされた。
  この判決の意義は大きい。なぜなら、これは国には自ら十分な調査と十分な審議を尽くして被爆者援護を積極的に遂行する義務のあることを明示したからである。この判決は、現在係争中の他の問題、たとえば、国が自ら十分な調査と十分な審議を尽くすことなく、生活保護の老齢加算・母子加算を廃止した件を不当とする判断にも、つながる可能性がある。今回の判決は、ひとたび保障されることの正当性が認められたとしたら、国家はそれを完全に遂行する義務をもつことを明確にしたのである。
  ただし、被爆者援護と生活保護とは、国家が保障する義務をもつその根拠と内容において異なっている。前者は国の戦争責任と原爆被害を根拠とし、もたらされたさまざまな損害の補償を要求するのに対し、後者は、ある個人(厳密には世帯)が、いま、ここで困窮している事実をストレートに根拠とし、基本的福祉を保障するための必要に応じた分配を要求する。
  前者の争点が国家責任の存否と個々の被爆者における被害の同定におかれるのに対し、後者の争点は生活保護の無条件性と十分性の是非と個々の受給者の困窮の同定におかれる。前者は、アリストテレスの矯正的正義を敷衍することにより、正当化可能であるのに対し、後者は、アリストテレスの正義概念をもってきて正当化するのはむずかしい。
  いま、ここで、ある個人が困窮しているという事実のみを根拠とし、必要に応じた分配を要求する日本の生活保護は、<無条件性>と<十分性>を謳っている点で、歴史的にも世界的にもきわめてめずらしい。裏返せばそのことは、その根拠の確からしさがいまだ人々には十分理解されていないおそれ、それを安定的に実行するための<条件>がさほど明確ではないおそれを示唆する。
  
  アリストテレスに端を発する3つの正義概念、「配分的正義(功績に応じた分配)」、「矯正的正義(損害への補償)」、「応報的正義(当事者間の交換)」は、いまやわれわれの常識として広く受容されている。個人間あるいは国家間での財の一方向的な移転を、権利義務関係として制度化しようとするときにも、これらの正義概念が喚起されることがある。たしかに、これらの概念は、その意味と適用範囲が適切に拡張され、十全に再解釈されるとしたら、かなりの程度、一方向的な資源移転関係を正当化する根拠を提供しうる。
  たとえば、ある社会で権利や福祉が質的にも量的にも高まって行く途上で、<適用除外>とされた人々が被る不利益は、それらから得られたはずの利益を逸すること(逸失不利益)にとどまらない、それらを享受できる人々がいるというまさにその事実が、そうすることのできない人々の不利益を倍増することがある(追加的不利益)といった論拠のもとでは、矯正的原理が発動されうる。
  また、たまたま相互に近接した空間に居住し、日常生活を共にする人々の暮らしを共通の基盤とする住民評価型福祉は、住民たちの行いや在りようを、互いの関係性を通して社会的にも、経済的にも評価しあうことにより、市場的価値システムを超えた貢献原理の適用を可能とする。
  だが、これらの正義概念によってはカバーしきれないケースがある。あるいは、これらの正義概念には依拠せずに議論した方がよい場合もある。たとえば、自然的・社会的偶然と個人的な生や行動様式が分かち難く絡まりあって、いま、ここで困窮している場合、あるいは、集団間での社会的排除の問題が、目前の個人の責任と償いの問題に、凝縮されて捉えられるおそれのある場合などである。
  本報告の目的は、公的扶助の可能性について再考することにある。公的扶助がもちうるはずの射程はきわめて広い。それは、個人の福祉にストレートに焦点をあて、その実現を目的としながら、マクロ的・長期的な経済環境や世代間移転・社会間移転のあり方を論じる力をもっている。それは、また、資源の受給と提供がマッチングされる限り、既存の集合体の時間的・空間的ボーダーを越えて実現される可能性をももっている(アイロニカルだが、論理的には、市場とよく似た普遍性を有している)。
  はたして、どのような<条件>のもとであれば、困窮している事実のみを根拠とし、必要に応じた分配を、<無条件>に、<十分>に、実行することができるのだろうか。


UP:20090525 REV:
後藤 玲子福祉社会学会・2009
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