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〈老い〉をめぐる政策と歴史・素描

――なぜゆえに高齢者を生かそうとしてきたのか――

天田 城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
2009/06/07 福祉社会学会第7回大会シンポジウム「「共助」の時代再考」

http://wwwsoc.nii.ac.jp/jwsa/taikai.html
福祉社会学会

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■報告要旨

  私は老齢者たち、私たちの社会における彼らの孤立と悲惨について語られることに関してかなり冷淡で、積極性に欠けることを認めます。たしかに〔パリ郊外の〕ナンテールやイヴリーなどの養老院などは、一種みすぼらしいイメージを呈しています。しかし、ひとがそのことに眉を顰めるという事実は新しい感性を示しており、この感性そのものも新しい状況に結びついています。(Foucault 1994=2001:225/傍点(→下線)引用者/天田:2009a:156の引用の再掲)

  拙稿にてすでに言及したことであるが、1983年の『社会保障』にて掲載されたR.ボノとの対談「無限の需要に直面する有限の制度」において、フーコーは《私たちの社会において高齢者たちがみすぼらしい状況に置かれている事態に対して『眉を顰める』という事実こそが新しい感性であり、その感性そのものも新しい状況に結びついていること》を語った。フーコーのこの発言の要諦は、第一に、1980年代初頭の社会保障システムは上限枠にぶち当たっていること、第二に、社会の闘争・対立を緩和・解消せんとする両大戦間に策定されたシステムが現代社会における政治的・経済的・社会的合理性に躓き、その限界の只中にあること、第三に、社会保障には「ある種の依存のメカニズムおよび状況が増大する硬直という『邪悪な効果』」があることを論じたことにある(Foucault 1994=2001:208/天田 2009a:156)。だが、かりにこのフーコーの言明が事実の一端について言及しているとすれば、なぜゆえに/いかにして、私たちの「眉を顰める感性」と「ある種の依存のメカニズムおよび状況が増大する硬直」という「邪悪な効果」とは結びつくのであろうか。両者の関係は何か。
  ここに思考的補助線として「生−政治(ビオ・ポリティック)bio-politique」を引かざるを得ない。詳細は割愛するが、彼にとって、死亡率や寿命などを管理することで「人口」全体の維持・増大・減少を調整・管理する権力である「生-政治」とは「ヒトという種における基本的な生物学上の特徴が、政治の内部に入りこめるようになるにあたって用いられる、さまざまなメカニズムからなる総体」(Foucault 2004a=2007:3)であり、それこそが〈経済(エコノミー)〉と〈治安(セキュリティ)〉を包括する〈安全(セキュリティ)〉を可能たらしめている力なのだ――だからフーコーを「主体化=隷属化論」としてのみ仕立ててしまうことは間違いであり、また、たんに「生-政治」を「生物学的生」の管理・統制としてのみ解読するのでは全く足りないのだ――。
  極めて乱暴に言ってしまうと、「生-政治」が調整・管理の対象とする「人口」とはw〈社会〉という観念とともに語られる人間の形象のことであり、なぜゆえに〈経済〉を通じた「人口」の管理・調整を遂行することで「統治」するかといえば、あるいはより正確に言って、〈経済〉を通じて「人口」に内在する「社会の自然性」――「世界の本性という意味に理解されるような自然自体のプロセスではなく、人間どうしの関係に特有の自然性、人間たちが共住したりいっしょにいたり交換したり労働したり生産したりするときに自発的に起こることに特有な自然性」(Foucault 2004b=2008:432)――の自然的な調整を遂行することで「統治」するかといえば、それが「国力増強と秩序増強」「国力の基礎としての富の増大」を可能にするからであると彼は答えるのだ(Foucault 2004b=2008:18)。
  とても平たく言ってしまうと、〈経済〉を通じて〈社会〉の法則・規則性・機制――生産・労働・交換・友愛・敵意・贈与などにおいて自発的に生じる特有な自然性――がうまく働くように調整することを通じて、この社会において人間が生きていくことが可能となり、そのことをもって「国力増強と秩序増強」「国力の基礎としての富の増大」が可能となるという「見立て」なのである。逆に言えば、最良の「統治術」とは〈経済〉を通じた〈社会〉の法則・規則性・機制をうまく働かせるよう調整するような「控えめ」な手立てを行使することなのだ。おそらく、フーコーは、そんなふうに〈経済〉を通じて〈社会〉の法則・規則性・機制がうまく働くよう巧妙に調整させられる只中で、人々が生きさせられ、死に任せられる社会にただただ生きざるを得ないことを「邪悪な効果」と呼んだのだ。だからこそ、人間がよりよく生存することできていない「みすぼらしい状況」に対して「眉を顰める感性」に強い懐疑を抱いたのであろう。これが「眉を顰める感性」と「邪悪な効果」の関係だ。
   本報告では、こうしたフーコー流の「統治論」は戦後日本社会における老いをめぐる政策と歴史についていかほどの回答を与えることが可能であるのか、あるいは「共助の時代」を解読する上でどれほど説得的かつ妥当な回答を提示することが可能であるのかを論考することを目的としたい。もっと言えば、戦後日本社会において、とりわけ1970年代以降における私たちの社会においてなぜゆえに老いてゆく人々が生きていくことを可能とするための社会サービスを――その総量としては全く不足・過少であるにしても――供給しようとしてきたのかを思考することを最大の射程圏域としたい。
  むろん、こうした問いについて論考することはそれ自体で至難なことでもあるから、本報告でその回答を提示することはできない。だが、こうした「問い」に対して思考を重ねていくためにも、私たちは戦後日本社会において、とりわけ1970年代以降において〈老い〉をめぐる政策がいかに遂行され、それはいかなる歴史として描出することが可能であるのかを考えてみることは重要であろう。
  これまでも上記の問いに対して、福祉国家論、福祉社会多元論、総力戦体制論、ケインズ主義的解釈、雇用/福祉レジーム論、政治学的解釈、財政論、社会防衛論などなど、様々な立場からこれらの問題(の一部)は説明されてきたし、そしてそれらは重要な知見でもあった。それらの知見を踏まえつつ、実際に起こったこと/起こっていることを解読し、「私たちは、なぜゆえに/いかにして、老いゆく人々を生かすのか、死ぬに任せるのか」という問題を論考することは決して無駄ではないだろう。

【文献】
天田城介.2008a.「〈ジェネレーション〉を思想化する――〈世代間の争い〉を引き受けて問うこと」.東浩紀・北田暁大編『思想地図 vol.2』日本放送出版協会.203-232.
――――.2008b.「死の贈与のエコノミーと犠牲の構造――老い衰えゆく人びとの生存という戦術」『現代思想』第36巻3号.82-101.
――――.2009a.「「脆弱な生」の統治――統治論の高齢者介護への「応用」をめぐる困難」『現代思想』第37巻2号.156-179.
――――.2009b.「労働の分業/労働を通じた統治――感情労働の位置について」.安部彰・有馬斉編『ケアと感情労働――異なる学知の交流から考える』(生存学研究センター報告8)立命館大学生存学研究センター.164-192.
天田城介・大谷いづみ・立岩真也+小泉義之・堀田義太郎.2009.「生存の臨界V」.立命館大学生存学研究センター編『生存学Vol.1』生活書院.239-262).
Foucault, Michel.1994.Dits et ?crits, tome W 1980-1988.edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald.Gallimard.=蓮實重彦・渡辺守章監修.小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編.2001.『ミシェル・フーコー思考集成W 自己/統治性/快楽』筑摩書房.
――――.2004a.S?curit?, territoire, population:Cours au Coll?ge de France(1977-1978).ed. Michel Senellart.Gallimard/Seuil.=高桑和巳訳.2007.『安全・領土・人口 コレージュ・ド・フランス講義 1977-1978年度[ミシェル・フーコー講義集成Z]』筑摩書房.
――――.2004b.Naissance de la biopolitique;Cours au Coll?ge de France (1978-1979).Gallimard/ Seuil.=慎改康之訳.2008『生政治の誕生 コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度[ミシェル・フーコー講義集成[]』筑摩書房.


UP:20090525 REV:20140612
天田 城介  ◇福祉社会学会・2009
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