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「ケアの「社会化」を再考する」

第7回福祉社会学会予稿
於:日本福祉大学 2009/06/07
安部 彰・佐藤 靜・有馬 斉


ケアの「社会化」を再考する

○安部 彰(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)
佐藤 靜(東京大学大学院教育学研究科博士後期課程)
有馬 斉(東京大学大学院医学系研究科特任助教)

 本報告の課題は、ケアの「社会化」の再考を試みることである。この予稿では、ケアの「社会化」について少なからず実質のある議論をしようとするなら押さえておくべきポイントを論点として提起しておく。
 第一に、いうまでもないことだが、ケアの「社会化」について云々するさいには、そこでいわれる「ケア」が何であるかということを明確にしておく必要がある。「社会化」の対象である「ケア」が「(子どもの)保育」(「(乳幼児の)養育」を含む)なのか、「(病人の)看護」なのか、「(高齢者や障害者の)介助」なのかによって―つまりそれぞれの「ケア」の特性と、それが置かれている経済的/政治的/文化的な布置によって―、その議論の射程や妥当性は大きく異なってくるからである。とはいえ、そこには共通の認識もある。それは、ケアを必要とするのは日常生活において何らかのかたちで「依存するひと」であるということである。
 第二に、ケアの「社会化」の主題化にかんしてまず押さえておくべきは、@「ケアの社会化は必要である」という前提に立つのか、あるいはA@の前提じたいを問うのか―ケアの社会化は必要かどうか―という区別である。いずれの立場に立つかによって、その議論の射程と帰結は当然異なってくるからである。ここでは@について。上野千鶴子は「ケアは社会現象である」と述べるが、これは「ケアの「社会化」は社会現象である」と正しくいい直されるべきだろう。上野自ら指摘するように、「依存するひと」がどれだけ数多くいても、それらの人びとをケアの対象とみなし、かつケアにたいする責任を「社会」が負うべきだという認識/了解が存在しなければ、そもそもケアの「社会化」は主題となりえない―つまりケアの社会的な分配の配置が問題となることはない―からである。かくして@の前提は、ケアは「負担」であるという認識と、(ゆえに)社会的に分担する「べき」という規範にさらに分節化されるが、かかる認識と規範じたいを問い直す視点―つまりA―の重要性はあらためて強調されてよい。後続の佐藤・有馬・安部報告ではまさそうした問い直しを試みる。
 第三に、「社会化」とは何であるかについて、あらためて問い直してみるべきである。まずそれは、ケアの「脱家族化」だけでも「市場化」だけでもない。また、近年主張されるように、NPOやコミュニティ・ビジネスなどの「協セクター」(上野千鶴子)がケアの担い手となることがすなわち「社会化」というわけでもない。その実際的な解は、たしかに現在の社会状況―実現可能性―に依存するしかない面もある。そのうえでしかし「ケアの社会化 (socializing care)」を「ケア倫理の公共生活への応用 (application of care ethics in public life)」ととらえなおすことで、「社会化」をめぐる従来の認識地平―公私区分―を超えた議論が開かれる可能性を示唆しておくことは必要でも有用でもあるはずだ。
 第四に、ケアの「社会化」をめぐる日本の議論動向(偏向?)から喚起される疑問を呈しておくのも意義あることだろう。周知のように、日本ではケアの「社会化」は「介助」の「社会化」としてもっぱら云々されているが、それに比して子育てにかかわるケア、とりわけ「保育」の「社会化」が云々されることは少ないように思われる。たしかに1948年の児童福祉法制定以来、「保育の社会化」の必要性は継続して認識され、さまざまな施策もとられてきている。にもかかわらず、なおそうした印象が拭いきれないとすれば、それはいかなる消息によっているのだろうか。まずそれはたんに少子高齢化という社会変動上の事由のみに還元できない。また、「保育」の「社会化」はもう十分に達成されているという認識に立つこともできない―各地で待機児童の問題が生じている事実を想起せよ。では、なぜなのか。「保育」は「介助」とは違って「負担」ではない―つまり「負担ではないから分配しなくてもよい」―からか。また逆にやはりそれは「負担」なのだから「社会化」された方がよいとするなら、たとえば「赤ちゃんポスト」の制度化をもよいと私たちはするはずだが、それもありそうに思えない。他方で、その「負担」は子どもが社会的再生産の担い手になることで相殺されるとする向きもあるかもしれない。だがその場合でも、ケアが「負担」であることには変わりない。だとすれば、その背後にはいかなる要因があるのか。ひとつに、そもそも「保育」は「社会化」には馴染まない―親密な他者との愛情的な関係が不可欠だ―とする直観が私たちにはあるのではないか。またひとつに、子どもと老人ではケアのあり方にかんする私たちの側の態度にある種の非対称性があるのではないか。このように問うてくると、まさにこれらの問いに答えることの困難さこそが「保育」の「社会化」論が前景に出てこないことの要因なのではないかとさえ思えてきたりもする。しかしそれは、にもかかわらず/そうであるからこそ正面から論じられるべき主題であるといわねばならない。
第五に、ケアをめぐる権利と義務についてさらなる吟味が不可欠である。まずケアの権利論も多種多様であり、その精査じたいが重要な課題であることは押さえておきたい。そのうえで、たとえば「ケアへの人権アプローチ」(上野千鶴子)によれば、ケアの権利は、@「ケアする権利」、A「ケアされる権利」、B「ケアすることを強制されない権利」、C「ケアされることを強制されない権利」の各要素からなるとされる。だがここには、親は「子どもをケアしたい」、もしくは「ケアから逃れることができない」という認識がある。つまりケアする側の「善意」や「良心」をあてにしており、その点で問題なしとはしない。H. L. A. ハートが「自由権」について述べたことを権利一般に拡張し、権利にはその対象となる行為を「してもしなくてもよい」という両面的性格があるとするならケアしない権利もまたあるということになるが、それは翻ってケアする義務やケアを受ける権利と矛盾することになるからである。もちろんそうした「善意」や「良心」は一方であるだろう。他方でしかし、やはりそうした「善意」や「良心」をもちあわせていない親がまたいるのも事実であり、前者のケアする権利を尊重するかぎり同様に後者のケアしない権利をも認容せざるをえない。また同じ問題は、親ではなく「協セクター」の場合でも、ケアの担い手の調達が準市場においておこなわれるかぎり依然残る。ゆえに、かかる問題を解消しようとするならば、特定の個人ではなくすべての個人にケアする義務はあるとしたうえで、誰が/誰を/どこまでケアする義務を担うかという―当たり前すぎるがゆえに厄介でもある―問題にやはり正面から取り組まねばならない。
 当日の報告では、以上のすべての論点に触れるつもりだが、いずれかに焦点を絞るかもしれない。いずれにせよ、解を出すというよりは問いを喚起することで、セッション参加者との討議(という名の宴)を楽しむことに主眼を置きたい。


*作成:安部 彰・佐藤 靜・有馬 斉
UP: 20090610
全文掲載  ◇第7回日本福祉学会
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