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「小澤勲『自閉症とは何か』について」』

片山 知哉 2009/04/01


■■小澤勲『自閉症とは何か』について
 先端総合学術研究科博士課程 片山知哉

■ はじめに

 はじめに留意点を述べる
。  下記に挙げたのは,僕(=片山)が2008年2月に,知人に宛てたメールの部分再掲である。それは,知人からの問い,「 小澤勲『自閉症とは何か』が,現時点における自閉症研究の到達点に立って読み返したとき,有している限界とは何か」への僕なりの返答であった。
 下記はそのメールのうち,ウェブ上で公開することを鑑みて挨拶や近況報告など,僕および知人の個人的な情報については全てカットしている。ただし,議論の骨子そのものは概ね残している。ご覧になった方に,何がしか有益であれば嬉しく思う。

■ 小澤勲『自閉症とは何か』の主張の図式化

 どうしても初めに述べなければならないことは,小澤のこの大著は実に魅力的で,優れた仕事であるということです。彼が当時の京都学派,特に学会闘争など闘争的局面における理論的支柱であったことが,この本だけからもはっきりと読み取ることが出来る。
 1980年代前半の時点で,こうした著作が存在していたこと自体が驚くべきことであり,間違いなく自閉症研究の,ひいては精神医学史研究の一つの到達点であったことは疑う余地の無いことです。僕自身も感銘を受けた研究ですし,○○さん(=上記の「知人」)がこの本に着目されたのも尤もなことと感じます。

 小澤勲『自閉症とは何か』における主張を,現時点から振り返って端的に要約すれば,次の二点に纏めることが出来るでしょう。

@ コミュニケーション領域における個人モデル批判
 (第一部〜第三部)
A 社会的排除の根拠付けとしての精神医学という指摘
 (第四部〜第五部)

 やや冗長になりますが,前者とは関係性・コミュニケーションの成立/不成立の原因を,自閉症児の身体状況のみに求めようとする(障害というラベリングにより)こと,への批判です。小澤が随所で執拗に,代案としての関係性の主張を繰り返しているところから判断すると,小澤の中では個体化と関係化が二項対立概念として把握されていることが読み取れます。
 そしてそうした個人モデルを可能にし,また推進したのは当時の社会構造である。精神医学はその後追いをして,根拠付けたに過ぎず,それが児童精神医学における自閉症論だったのだ,と。それが小澤がこの著作一冊使って主張していることです(類似の構図は,スクトナブ=カンガスが手話言語について,ブルデューの文化資本概念を用いて議論しています)。

■ 1980年代後半以後の自閉症論の動向

 このように要約したときの小澤の主張は,個々の学説レベル(第一部〜第三部で執拗に検討されている個々の学説)を超えて,1980年代後半以後の医学・心理学・教育学研究にも妥当するものです。何故ならそれらの研究領域は,関係性の不成立の要因について,個人モデル(=自閉症児がコミュニケーション能力がないから関係が成立しないという立場)を採用しているからです。
 確かに基礎理論も,教育手法も,1980年代初期の時点よりも広がりを見せています。いまは自閉症の基礎理論として,単に言語を主としたコミュニケーション領域の障害としてでなく,より社会的な認知の障害として論じられています。よく挙げられるのは,心の理論や,ジョイントアテンションの障害です。また社会的認知障害を脳画像研究などを駆使して,原因脳領域を探る動きもあります。
 教育手法としても,応用行動分析の手法により自閉症児により効率的にスキルを学ばせるものや,TEACCHにより理論・実践両面で整理された構造化という手法により自閉症児の障害特性に合わせた教育セッティングを整備するもの(最近日本で出版されている自閉症系の教育・就労支援本にはこの種のアイディアが溢れています)など,個々の領域ごとに見ると進展は確かにある。
 だが,(後で少し触れるTEACCHの「理念」を除けば――残念ながらTEACCHの理念の詳細は文字化された形では紹介されていない)小澤が提示した批判の構図を,本質的な意味で乗り越えるものにはなっていない。それは医学・心理学・教育学が学的本質として個人モデルを採用しているからでしょう。

 むしろ,小澤の批判の限界は,以上のような専門家ではないところで明らかになる。それが1990年代以降の,「本人の時代」です。アスペルガー症候群(自閉症の軽症版ということになっていますが,本人たちは自閉症との違いをあまり語りません)本人たちが,自分たちを固有の(身体に基づく)文化を持つ存在であると主張し始めたのです。
 そして実はTEACCHもまた,こうした変化に合わせて部分的にではありますが理論的に変容を遂げていく。「自閉症者本人」たちの身体状況に基づいた文化の尊重,本人同士の関係性の場の確保というベクトルへと,シフトしていく。尤も,TEACCH自体が元々,訓練という視点は弱く,自閉症者自身の認知特性に合わせた環境作り,街作りという理念で動いていましたから,全くの大転換というわけでもないのですが,逸早く本人同士の関係の尊重という視点で動いたことは評価されて良い(のですが,TEACCH自身による論考が乏しく評価しにくい)。

■ 小澤の自閉症論の限界の所在:財という問題

 さて,「本人の時代」から振り返ったとき,小澤の自閉症論の限界を次の二点,指摘することが出来ます。

@ 自閉文化という視点の不在
A 自閉症児にとって必要な財を提供する視点の不在

 前者は換言すれば,関係性のカテゴリー化,そしてその間の質的差異についての議論が為されていないということです。言語の比喩を使うと分かりやすいと思います。言語は世界に複数存在し,同一言語話者同士はそうでない場合よりも容易にコミュニケーションでき,そのコンテクストの上に様々な個々の文化要素を産出することが出来る。同一言語を共有しているか否かで,関係性の質が変化するわけです。
 コミュニケーションの阻害因子として言語の違いというのは歴然と存在する。そしてそれは,どちらか一方の個体因に還元することはできず,異なる言語話者の間にある関係性からしか理解できないとは言い得るでしょう。しかしそうした社会モデル的観点に立ったところで(最近のケア理論はこうした傾向があります),その先にいかなる解決策を肯定的に言いうるだろうか。何も言い得ないのです。
 必要なことは,もっと常識的なことです。言語というコミュニケーション様式が世界に複数存在し,それぞれが一定程度体系化されているという現実からすれば,異言語話者との関係成立のためには相手の言語,「そのコミュニケーション様式」を学ぶ必要がある,ということでしかない。漠然と,個体因ではなく関係性だと言ったところで何も解決策は出て来ず,いかなる言語を用いればよいかという選択を論じなければならない。
 言語の喩えが出てきたことに当惑されたかもしれません。しかし(あえて僕自身の経験を根拠とさせて頂くなら),自閉症者自身のコミュニケーションの仕方や,視点のありよう,快のありようは,固有の身体文化と呼ぶにふさわしいものだと感じます。それは言語の違いとも感じます。事実,自閉症者のコミュニケーション様式に習熟しているかどうかで,彼らとのコミュニケーションの成立/不成立が決まりますし,彼ら自身の言からもそれは言えます。

 後者に移ります。少なくとも自閉症「児」,つまりこどもを対象に議論するのであれば,彼らにいかなる「財」を取得させればよいかという論点を避けることは出来ないはずです。「財」は個体に内在化するものですから,これを単に「関係」の議論に融解することはできない。
 確かに,他のこども一般と同様に,自閉症児の視点や思いを,理解し共感しようとすることは不可欠ではあるでしょう。周囲の大人やこどもが,自閉症児と触れ合い付き合っていく中で,自閉症児との関係性に慣れ,馴染み,関係が深まっていくことは事実としてあるでしょう。
 しかしそれとて,自閉症者の文化やコミュニケーション様式という一般化された次元で捉えられたものでないならば,周囲の人間側にそれ以上の展開・広がりは期待できない。それだけでなく,自閉症児自身に,認識の基盤となり,世界を広げ,自身の身体状況を共有できる相手を探すための「自閉文化」という財を習得させるという視点がなければ,それは自閉症児への大いなる不利益となるでしょう。
 これは,上農正剛『たったひとりのクレオール』に挙げられた「たったひとりのクレオール」問題そのものです。聴覚障害児に対して,いかなる言語と文化を教えるべきなのか,という真の問いを避けて,「関係性」と言って逃げる著作は散見されます。そうしたヌルい議論は,聴覚障害児にとっての不利益を温存・助長させる。小澤の関係性の議論も,(意図は異なるとしても,効果としては)それと同型性を持っていますし,受容的交流療法への理論的距離が明確化できないのも,「財」の議論が深化できなかったからだと僕は思います。
 無論,これを小澤に求めるのは無いものねだりであり,現在から過去を批判するという歴史研究領域における禁じ手ではあるでしょう。小澤が生き,闘争していた歴史的コンテクストとは,包摂型福祉国家です。そこでは包摂を求め,排除を批判するという理念が(実現していないという意味で)闘争において優勢であったし,小澤もまたその時代的制約の中で考え抜いたのだと僕は思います。レインやクーパーなどの反精神医学もそうであり,彼らは支配者の立場から精神病者を排除する社会実践を自己批判したのでした。
 現代は同化型権力が批判される,多文化主義イデオロギーが出現し展開している時代です。それもまた実現していないという意味で,求められるべき理念であると思う。しかし,上に記した「本人の時代」と,その視点からの自閉文化の主張はおそらく,やはりこの時代的制約の中で考えられたものでしかないという限界はあると思います。特にこの自閉文化の主張がアメリカ合衆国という自助努力を重んじる地理的背景の中で生まれたものだということ,それゆえ(上で僕が記したような)こどもが受動的なままであっても適切な文化の継承が可能となるような制度設計の議論が抜けていることが,指摘できるでしょう。
■ おわりに

 以上が,僕が知人に送ったメールの本論部分である。自分で読み返してみると,不適切な記述や,力点のアンバランスさなどがあった。全部書き直そうかと思ったが,おそらく今後当分書き直す時間が取れないので,一旦ウェブに掲載することにした。ご批判を賜りたく思う。
(2009年4月1日記)


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■この文章への言及

◆立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※


*ファイル作成:片山 知哉
UP:20090401 REV:20140824
全文掲載  ◇小澤勲『自閉症とは何か』
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