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井田良「[基調報告]終末期医療における刑法の役割」
「座談会」(井田良・今井猛嘉・有賀徹・原田國男・佐伯仁志・橋爪隆・山口厚(司会))

Jurist, no. 1377 20090415 現代刑事法研究会: 80-109.



■井田良「[基調報告]終末期医療における刑法の役割」 Jurist, no. 1377:80-85

T はじめに

「刑法学に要請されているのは、生命倫理の観点から見て望ましいとされる意思の行動基準を明らかにすることではなく(それもまた重要なことに違いないが)、医療従事者が決して踏み越えてはならない一線(逆からいえば、生命保護のために刑法が介入することのできる限界)を明確化することにほかならない」(80)

U 安楽死をめぐって
1 現在の問題状況

積極的安楽死について
「実際面についてみると、医療の現場において「4要件」が充たされる事態は(鎮痛医療・緩和ケアの進展にともない)もはや生じえないものとみられる。また、医療従事者の認識としても、積極的安楽死行為が医師の行うべき行為でないことにつきそれ自体として異論はなく、それが行動の1つの選択肢として考慮されることはないといえよう」(80)

→ 検討すべき問題
@ 「治療中止の過程で行われる「作為的行為」の法的評価」
A 「積極的安楽死と間接的安楽死との関係・区別をめぐる問題」(80-81)

2 治療中止の過程における「作為的行為」

問題状況 「治療中止の過程において「作為的行為」が行われたとき(人工呼吸器の停止がその典型的な例である)、その場面の一コマを(コンテクストから切り離して)取り出せばそれは積極的安楽死行為のように見える、そして、そのとき、上記「4要件」が充足されない自体であるがゆえに(仮に「4要件」が充足されるときには行為は適法されるとする見解を前提にしたとしても)当然に違法として評価される、という形においてなのである」(81)

→ 刑法解釈論の課題 「積極的安楽死の場合の「作為的行為」と、治療中止のプロセスにおいて行われる「作為的行為」とを、(困難ではあっても)相互に区別し、異なった評価を可能とするところに求められる」(81)

3 間接的安楽死との関係

・積極的安楽死と間接的安楽死の関係
「苦しみの除去・緩和という(文句のつけようがない)治療行為が生命の短縮(死期の繰り上げ)を引き起こすという事態はしばしば生じる」

→ それを違法とする議論はない。

だが、「ここから、「間接的安楽死の日常//化」と「積極的安楽死のタブー視」は、奇妙なアンバランス現象を生じさせているのも事実である」(81-82)

たしかに、苦痛緩和のための縮命は治療行為であるのに対して、積極的安楽死は殺害であり断じて異なる、という議論が無意味だとは言えないだろう。
しかし、「そこでは、適法か違法かの判断が、実際上、主観的な認識・意図によって決まるというのに近い適用とならざるをえないこともまた否定できない」(82)

V 尊厳死(治療中止)の問題

1 脳死問題への対応

脳死患者を死亡させたことで捜査・立件・訴追が行われてはならない。(82)

2 治療中止はいつ適法となるか

「治療中止の問題の解決のためのアプローチ」
「@本人の自己決定権を根拠として治療中止の適法性を判定しようとする見解(具体的には、いわゆる「事前指示」に従うべきものとする見解)が存在する。また、その亜型(サブタイプ)というべき見解として、家族の意思決定を尊重するものがある」(83)
「A治療義務の限界を問うことにより、治療義務の限界を超えたところで行われる治療中止は違法とはならないことを根拠に治療中止の適法性を肯定しようとする見解がある」(83)
「B治療中止に至るまでの手続きの履践の有無を重視する見解」(83)

これらのアプローチの検討:
B 「Bの最後の見解(手続きアプローチ)についていえば、手続的考慮が重要・不可欠であることは言うを俟たない」
「ただ、そのことは、実質的基準(いかなる行為が適法であり、いかなる行為が違法であるのか)に関する議論を棚上げにしてすますことができるということを意味しない。」
「手続が適正であったことは、それが実質的にも正しい判断であったことをせいぜい推測させるものにすぎない。」(83)

@ 「自死についての自己決定を制限している(いいかえれば、本人の反対意思にもかかわらず生命保護を貫徹しようとしている)刑法202条と整合的かという根本的な問題をもつ」が、それはひとまず措く。
→ むしろ「家族の意思決定の尊重」に可能性があると思われるかもしれない。だが、それは「本人意思とのつながりが間接的であって、刑法を生命保護から撤退させるための理論的な説明と結びつきにくい」
→ では、「事前指示」はどうか。しかし、日本には事前指示を有効とするような「文化がいまだ育っておらず(すなわち、行う側の意識においても、その名宛人となる側の意識においても、それが根を下ろしているとは言えない)、事前指示書に効力を認めようとすると、現状ではフィクションに陥りかねないことから、現実適合的であるとはいえない」(84)

A「治療義務の限界論に立脚しつつ、一定の「作為的行為」も、医療従事者の、患者の受入れからはじまる一連の治療行為の全体の中において見たとき、継続してきた治療の中止のために行われたといいうる限りは、それを法的には「不作為」に振り分けるというアプローチをとるべきであろう。その上で、「治療の不開始」と「治療の中止」を等価値のものとして扱うことを徹底させることにより、刑法的介入の限界づけのための一線を引くことができるのではないか」(84)

「患者の病態を前提としたとき、当該治療措置を開始することが刑法的に義務づけられない場合なのであれば、同じ病態の患者に対して継続している治療措置を中止するための「作為的行為」が行われたとしても、刑事責任は生じない(そもそも殺人罪や同意殺人罪の構成要件に該当しない)という原則を個々に適用すべきである」(84)

「もちろん、これに対しては、およそ治療行為を行わないことと、いったん開始した治療行為を中止することとは、刑法的評価としては異なる、という異論が予想されるところである。しかし、患者の治療と救命を原則的//に義務づけられた医療従事者とおよそ救命しえない患者との関係においては、この2つに区別はないと私は考える」(84-85)

刑法上適切な線引きができなくなるし、また、その区別を設けると、治療差し控えの方向に進みかねない可能性もある。

3 法律家の役割 【省略】



■ 座談会 (井田良・今井猛嘉・有賀徹・原田國男・佐伯仁志・橋爪隆・山口厚(司会)) Jurist, 1377:86-109
 【要約と引用。「」内は引用】

T 安楽死をめぐって
1 緩和ケアと積極的安楽死

佐伯…… 横浜地裁の4要件は、現在の医療の中では充たされることはないのではないか。第3要件は苦痛緩和の方法が死なせる以外にないとされているが、セデーションで緩和できるならば、まずその手段を採らねばならず、その手段を採ると明示の意思表示が不可能になり、第4要件を充たせなくなる。このような理解で正しいかどうか。(87)

有賀……正しいと言えばその通り。ただ、そもそも「患者が耐え難い肉体的苦痛に苦しんでいること、ということそのものが結構上手に回避できるような状況になった」(87)。とはいえ意識レベルを下げなければ仕方がないケースもあるというのも正しい。

2 間接的安楽死と積極的安楽死との違い

佐伯……間接的安楽死は認められるということで異論がないだろうし実際広く行われてもいる。しかし、薬の量がどんどん多くなっていって、ある時点で縮命ではなく「生命が失われてしまう状況に達するのではないか」。仮にそうだとすると、そうした「限界事例」では、積極的安楽死と間接的安楽死の区別は微妙なものではないかという疑問がある。(88)

有賀……論理的には全くその通り。ただ、医師の作業はバランス感覚。最終的には積極的安楽死と差がないように見えるケースでも、薬は「突然増えた」ということはなく、苦痛緩和のために徐々に増えていく。そのプロセスに主治医・本人・家族は違和感を感じていないことが多い。むしろ「全体像としての心のバランスの問題」がある(88)。

佐伯……では逆に、「ある段階で苦痛が残っているけれども、これ以上使ったら生命が危険ですトいう段階、家族は望んでいるのだけれども使えないという段階というのが現実にあるのかどうか」(89)

有賀……「やはり使ってはいけないだろう」という判断もあるだろう。ただそれは法的にそうだからではなく、「バランス感覚の問題」だと思う。(89)

井田……それはたとえば「モルヒネの投与量を増加させるという形での対応はありえても、筋弛緩剤を注射するということはしない。主観的な意図とは別に客観的な方法として、やってよいことと、いけないこととの間には、はっきり区別されるものがある」と理解してよいか。(89)

有賀……筋弛緩剤は呼吸と止めるからみるみる死ぬ。カリウムで心臓を止めるのと同じ。それはない。(89)

井田……「あくまでも苦痛緩和のためにこそ行われるのであって、死なせるために行われるのではないという医師の側の主観的意図が、行為の客観的態様ないし方法として現れていると理解できそうですね」。(89)

有賀……慢性期の患者を最後まで看取っている医者に聞いた方がよいかもしれない。おそらく法律ではなく、宗教的・文化的な話で回っている世界があるということが分かるのではないか。(90)

原田……川崎協同病院の事件も筋弛緩剤を使ったことが起訴の理由の一つになっていたかもしれない。そこだけみると殺人罪は当然という考えが医師サイドにはありえる。
しかし、1審も控訴審も、「その前の抜管を中心に取り上げて、筋弛緩剤は、患者の方の苦悶の状態があまりにひどいので考えあぐねて使ったという設定をしています。前の部分がなくて、後だけだったらこれまでのお話からすれば殺人罪の成立は認められるということかもしれませんが、判決では、前の抜管があって、そこに付随するという位置付けをしています」
積極的安楽死が問題になり得るのはそういう場面くらいしかないのではないか。(90)

山口……家族が見るに見かねてということか。(90)

原田……「どうにかしてください」という場面が一般的にあると思う。(90)

井田……それを理屈でどう説明するかが問題。たとえば、筋弛緩剤の使用という最終場面だけを全体の文脈から切り離してみてはならない、という説明がありうる。だが「全体的考察方法」は学説では評判が悪い。それ以外にも、最後の筋弛緩剤を「緊急避難で正当化することや、医師の側の殺意を否定することも考えられ」る。他に何らかの理屈がありうるだろうか。(90)

佐伯……縮命の程度が一つの問題になりうるのではないか。末期状態で10分・20分死期が早まることがどれくらいの意味をもつのかは問題になりうる。呼吸器を止めて不起訴になった事例もあるそうだが、その理由は呼吸器停止と死亡との因果関係が証明できないということだったようだ。(90)

原田……安楽死も若干早めただけだから刑法的に殺人として評価しないということになるのか。(90)

佐伯……そういう考え方もあるかもしれない。苦痛除去のために消極的安楽死が違法性阻却されるとすると、苦痛除去の利益が生命の利益を上回ることになり、問題の核心は積極的安楽死と大きく違わない。(90)

山口……私も質的に違うとは思えない。(91)

原田……筋弛緩剤は即座の死になるから少し早めたとは言えないのではないか。(91)

佐伯……抜管はどうか(91)

原田……筋弛緩剤と抜管の違いはあるのだろうか。(91)

井田……抜管と筋弛緩剤の注射は「治療からの撤退行為と積極的な殺害行為ということで全く違うし、行為の一般的な性質の問題として」異なった扱いをされてよいということだと思う。ただ、それだけで有罪と無罪が決まるかどうかは議論の余地がある。(91)

橋爪……川崎協同病院事件の事実関係についてだが、静脈注射か点滴投与かが問題になっているようだ。しかし、その「方法の相違が、果たして法的に何らかの意味があるのだろうか」は疑問がある。ただ、たとえば「静脈注射によって直ちに死を招くのか、それとも、点滴投与によって、いわば「ゆっくりと死に向かっていく」かの相違は、積極的安楽死と間接的安楽死の関係に、ある種近いような気もする」。(91)

井田……たとえば筋弛緩剤を希釈して使うことはあるのだろうか。(91)

有賀……「筋弛緩剤というのは、基本的には呼吸筋や腹筋が今止まってほしいというときに使う薬ですので、ポタポタ落とすとか筋肉注射をしてジワッと効くとか、そういうことをそもそも想定していない」。
「一般的には長期的に使う場合でも、そろそろ切れてきたのでショットで使っているというのが実際」であり、「ジワットという話には、ならないのではないか」(91)

山口……行為に対するイメージが議論に影響を与えていると思う。救急医学会ガイドラインでは、「人工呼吸器を取り外す方法のほかに、人工透析を行わないとか昇圧剤を使わないという方法もあがっていますが、何となく昇圧剤を使わないとか透析を行わないでジワジワというのは割と受け入れやすいのに対し//て、呼吸器を止めてパッタリというのは、結局は同じ効果をもっているとしても、受け取られ方が違うように思います」(91-92)

橋爪……「殺人罪の構成要件該当性を認めるためには、当該行為が患者の死期を早めたことを認定する必要」があるが、その条件関係の認定において手段によっては、それがどの程度縮命したかが証明できない場合があるように思える。(92)

佐伯……証明しにくいから責任を免れるということか。(92)

橋爪……もちろん何分早めたか等の具体的認定の必要はないだろうが、末期患者については、その行為が死期を早めた、と確実にいえない場合もあるのではないか。その場合、既遂犯の罪責を問うのは困難では。(92)

佐伯……確かに立証の問題で差が出ることはあるかもしれない。(92)

U 脳死と脳死判定
1 脳死への対応 【省略】
2 脳死の判定 【省略】

V 治療中止の評価
1 ガイドラインの意義

山口……治療中止の適法性の問題について

今井……すでに多くの論点がでている。たとえば「間接的安楽死と積極的安楽死は、量的な基準では上手く区別ができず、医療として行われた行為なのか、殺意を持ってなされた行為なのかという点、あるいは外からどのように見える行為であったのかという点からの区別も大切だということ」。また、「患者を看取っていくプロセスが、家族に受容されるような適切な手続きを踏んでなされることが大事」だという点。(94)
 厚労省の「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」(プロセス・ガイドライン)について、まずそれが「法的にどのような意義を持つのか。また実際の医療においてどのように受容されているのか」(95)。
 また、救急医学会ガイドラインとの違いについて、救急医学会ガイドラインでは「延命措置の中止の方法の選択肢として人工呼吸器、ペースメーカーなどの中止が挙がっていますが、調べてみますと、医療機関や倫理委員会等においては、この中止方法についてかなりの抵抗感を示す方者られるようです」。このガイドラインの理論的側面と実際の医療現場での受容について伺いいたい。(95)

佐伯……私自身プロセス・ガイドラインの検討会のメンバーだったので3点ほど。@ 検討会でも「実体的ルールを決めなければ手続き的ルールを決めただけでは意味がない」という意見があったが、「仮にこの手続きがきちんととられるようになれば、それは非常に大きな実務的意義を有している」
A ガイドラインに従えば刑事責任から解放されるのかどうか。検討会では言いにくかったが、検討会に参加した法律家はそう考えていたはず。
B 実体的ルールを厚労省の検討会が決めるべきことかどうかに疑問があった。(95)

山口……第二点について、樋口範雄氏もガイドラインに従っていれば刑事責任は問われないと言っているが同感。しかし逆に、もしガイドラインに反したら刑事責任が問われるようになるとすれば、それは「間違った考え方ではないかと思われる」。
また、厚労省の検討会が実体的ルールを決めるべき場ではないという点も同感するので、この検討会のアプローチは支持できる。(95)

佐伯……井田さんの基調報告で「治療中止の適法性を判定する見解の3つの類型の3番目に手続的アプローチ」があったが、それには整理として異論がある。手続は適法性を判定しようとするルールではないと思われる。(95)

山口……手続には意味はあるが、「それに反すると処罰されるかどうか」という意味でこの問題を律することができるかどうか。むしろ「実際の診療に当たる医師の職業倫理、言い換えれば医師の裁量に委ねざるをえない部分が大きい」のではないか。ただ、手続には外形的コントロールとしての意味はある。

井田……佐伯さんに消極的に弁明したい。手続的アプローチを加えた理由。殺人罪になるかなならないかについて、従来「患者の自己決定権を基礎におくものと、治療義務限界論に基づくもの」があったが、いずれも弱点がある。それを打開するための策として「内容」ではなく「手続的アプローチ」が脚光を浴びた文脈がある。(95)
プロセス・ガイドラインについて言えば、要求水準が高いので、「ガイドラインに反した場合の中で、こういう場合は殺人だし、こういう場合には殺人にならないという中身の基準がない限りは、結局、問題の先送りになってしまう」。手続ガイドラインは重要だが、問題を棚上げにした部分はある。(97)

佐伯……それはもちろんある。棚上げにしている間にルールを作ってもらいたい。(97)

今井……ガイドラインは純粋な手続というよりもむしろ、自己決定権と治療義務の限界に関わる手続ではないか。現在の議論に乗った上での手続であり、現在の医療を止めないという方向性を持っていると思う。だからこそそれが現場で受容・利用されているあり方を知りたい。(97)

佐伯……純粋な手続は難しいのではないか。患者の意見を聞くと言っても何を聞くのかが問われるだろう。

今井……プロセス・ガイドラインにも自己決定権を行使可能な場合にはそれを使い、それが無理な場面では患者の意思を推測して検討すべきとされており、実体的な判断は入っていると思う。(97)

原田……「手続に反していれば実体的にも殺人が成立すると考えられるのではないか」。「基本的なことを履践していない場合には、実体的な要件で違法性を阻却しているからいいと言えるか」というとそうではないのではないか。(97)

有賀……終末期医療のガイドラインと急性期の患者とは相当違う。実際に罪から逃れるかどうかという話は、たしかにある。ただ救急医学会ではそれとは違うところでガイドラインをまとめていったつもりだ。(97)
現場に効果があったかどうかはアンケートを行ったところ、あったと言えることは間違いないと思う。(98)
チーム医療の「物差し」のようなものができたと考えている。それは法律的なものというよりも倫理的な対応についての実学的な「雛型」として。倫理的にきちんとすれば法的に咎められることもないだろうという意味で書いた。(98)

2 患者の意思について

今井……終末期医療と救急では違うのは理解できたが、共通する問題として、「患者の意思をどのように確認するか」がある。事前意思表示をどう考えるかも大きな問題。(99)

山口……それには刑法理論の問題としても関心がある。「本人の治療中止の意思と言っても、それがたとえ明確なものだとしても、一体どのような状態で、どのような認識を持った上で治療中止の意思を示しているのかが、まず基本的に問題ではないかと思います。もちろんそれがあったからといって、なぜ治療義務がなくなるのかというのは、刑法202条の同意殺人罪あるいは自殺関与罪の規定があることとの関係で、理論的にさらに詰めていかなければならない問題」(99)
また、患者の中止意思が明確にあったとして、「それが治療中止についての究極的な適法根拠になりうるのか」は疑問。さらに「推定的な意思」になると、より問題は大きくなる。また、家族の意思はますます疑問が大きくなる。(99)
とすると「患者の意思といいながら、治療中止の根拠が本当に患者の意思に求められているのかについては、かなり疑問があるのではないか」。「究極的な根拠は別のところにあるのではないか」。(99)

井田……究極的な根拠とは(99)

山口……それについては揺れている。意思を尊重しなければいけないのは当然だが、それを前提にした上で治療中止が適法になることをどう説明できるのか。それが理論的課題になる。(99)

井田……推察だが、「本人の意思」プラス「治療義務の限界」を合わせて、結論的に適法になる、ということか。(99)

山口……その考え方に惹かれつつある。

原田……刑法202条が一番気になる。「死なせて下さい」→「はい、わかりました」では同意殺人罪の構成要件にそのまま当たる。それを違法性阻却だと言うために「自己決定権と言っても説明にならない」。(99)
刑法で説明するなら「202条の「人」から終末期の患者を除くという解釈を、罪刑法//定主義に反しない方向だから縮小解釈でとる」というなら理解できる。(99-100)

井田……「決して末期ではない、つまり、非常に重い病気だというのではない患者がいるとして、ただ、その患者にはある薬剤がどうしても必要であり、その薬剤が点滴を介して入っている限りは、今の状態を維持できているが、切られたら死んでしまうというとき、その患者が「切ってくれ」と言い、医師がそれに従ってやめて、その結果、患者が死んでしまったというケースでは、これは同意殺人罪化、少なくとも自殺関与罪を構成するのではないか」。(100)

原田……ALSの場合がまさにそう。

今井……終末期であるという要素と、医師に要求されないという要素が入ってはじめてクリアできる。(100)

原田……そうなると治療義務の限界というものがあるということになる。ただ、ではなぜ終末期の患者の場合だけが違法ではないといえるのか。(100)

今井……202条の「人」から「終末期の患者を除く」という解釈は、脳死説に親和的。脳死状態に近づき、治療もほぼ不可能になっている場合には「202条の「人」に当たらない」という解釈の余地もあるかもしれない。(100)

原田……比喩として適切ではないが強姦罪の場合、妻を除くという解釈はある。

井田……脳死説では脳死者は「人」に入らないので、脳死に近い状態の患者についてそう解釈できるかが問題になる。

今井……「患者の自己決定権という主張が、どのような根拠から主張されてきて、どこまでの射程範囲を持っているのか、ということだろう」(100)
「治療行為としての正当化という観点が前面に出てこなければ、解決できない問題ではないか」(101)

井田……たとえば、末期癌で余命1週間とされる患者が点滴の薬剤を止めたところ翌日死亡したという場合、明示の事前意思がないと殺人になるのか、家族の希望の場合はどうか、家族の意思に反していた場合にはどうか、といったことが問題になるだろう。この種のケースは治療義務の限界をもはや超えているように思える。つまり「本人や家族の意思にかかわりなく、治療中止が適法になりうるのではないか」(101)

佐伯……治療義務の限界を超えているといわれる際の理由が問題。たとえば、救急医学会のガイドラインの、延命措置が患者の利益にならず、その尊厳を損ねる、という記述には同感するが、他方、「どんな状態であってもできるだけ長く生きることが本人の利益であり尊厳である。それを実現するのが医療の義務であるという考えもある」。(101)
自己決定権だけでは説明できないのと同じく、治療義務からの説明も、終末期の生命について特別扱いをしている。(101)

山口……「こういうことがいいのだという別の判断が既に取り込まれた上で、本人の意思というものが、さらにそれを補強するものとして使われているという理解」(101)

原田……自己決定権は権利だから、それに医師が従わないと違法になる、と。終末期の場合もそういうふうにならざるをえないのか。

橋爪……自己決定権からのアプローチも、死ぬ権利というものを認めているわけではなく、どのような形で死を迎えるかを選択する権利がある、と考えているのではないか。とすれば、「医学的に不合理」であり、たんある自殺と同視できるような場合までが、自己決定権の行使として正当化されるわけではない。(101)

佐伯……患者の選択に医師は従わなければならないということか。

橋爪……「死の迎え方」を自己決定権の一つとして尊重するならばそうなる。(101)

佐伯……従わないと専断的治療行為として暴行罪ないし傷害罪になる、と。

原田……それはいき過ぎではないか。自己決定権だけから説明するのは「恐ろしくて使えない」というべき。(101)

橋爪……医師の裁量で治療義務の限界を画する発想も、患者の事前の意思や家族の意思を資料として何がベストかを判断するという理解に立っている。また自己決定権を重視しないとなると、患者本人も親族も治療継続を要望している場合でも、それはもう意味がないから、として治療を中止することも許容されることになると思う。医師の裁量判断が自己決定権に基づく選択を覆せる余地はそれほど広くないと思える。(102)

今井……延命余地がないが家族が希望する場合、実際現場ではどうなのか。

有賀……葬式は本人のためでなく残された人たちのためだという考え方がある。同じく、最終局面を、家族の意思を容れた形で迎えるという考え方がいいだろう。(102)

3 治療義務の限界について

橋爪……自己決定権と治療義務の限界について二つの理解がある。
@ 無益な治療を行う義務はないので、その場合、患者や家族の意思に反していても治療継続の必要はないとしつつ、それ以前の段階でも患者の自己決定権に基づいて治療行為を中止できる場合があるという理解。これは、治療義務の限界の場面と自己決定権に基づく中止の場面を並列的に理解するものと言える。
A 自己決定権の行使によって治療義務の限界が画されるという一元的理解。とはいえ、全面的に自己決定権が治療義務の存否を決定づけるわけではないが、患者の自己決定権は治療義務の判断基準としていりづけられ、結局は治療義務の存否として一元的に把握される。

問題は、客観的に意味のない治療行為があるという理解が前提だが、その内容に幅がある点。(102)
また、死期が切迫していない段階では治療義務は消失しないのか。ALSの人工呼吸器非装着についてはどうか。不開始と中止をどう考えるか。
まず「意味のない治療」をどう考えればよいかお聞きしたい。(103)

井田……難しい問題。「無益な治療」は「無益な生」を認めることになりそうで批判があるかもしれない。ただ、実体としては認めざるをえない。(103)

山口……無益とは具体的に何か。

有賀……救急医学会ガイドラインは無益という語は使っていない。「これ以上は酷い」という意味かと。

今井……人間としての尊厳ということか。(103)

有賀……ある意味ではそうだが、「ここまでするのは違うのではないかという感覚」。(103)
ただ、脳死でもレスピレーターを切らないこともある。そこには「情の世界」が入ってきている。そもそも死を看取るというのはそういうものであり、その点を理解してほしい。(104)

井田……治療義務の限界について。本人に意識があることは決定的。「本人に意識があるのにもはや治療の可能性がない、治療義務がないということは到底言えない」(104)
治療措置を行うことがどうしても躊躇されるような状態。たとえば、救命可能性がなく、植物状態になる可能性が高いと考えられる場合、殺人罪を成立させるべきではない。(104)

有賀……しかし、植物状態になる可能性も年齢に応じて変わる。高校生以下のような人に「植物状態になる可能性が高いと考えて」と言うことは難しい。(104)

橋爪……井田さんの話については、意識が人間にとって重要だという点と、他方「意識活動のない人間に対する軽視という危険」を回避するために、議論の射程を例外的状況に限定する点の二点で納得できる。(105)
しかし、死期の切迫の認定には具体的に疑問があり、それが残るのではないか。

有賀……たしかに救急救命では「どう考えても3日だよ、5日だよ、せいぜい1週間ではないか」と分かる。だが、たとえば癌では1ヶ月と言って10年生きたという話もある。一般論化できないのではないか。(105)

佐伯……救急医学会ガイドラインも終末期の定義が1)の脳死は別として、2)3)4)の3)だけ数日以内となっているが、2)と4)はな日にちが入っていないのはそういう理由からか。

有賀……あまり考えずに書いた。20日以内とすると判断にブレが生ずるので、数日というところだけ入れた。

佐伯……4)は末期ガン、3)は出血多量のような場合か。(105)

有賀……レスピレーターを付けてもいずれ脳死になるという程度の脳出血がイメージされている。植物状態の場合無益だとはいいにくい。(106)

W その他の問題について

山口……他に論じるべき点として、たとえば、人工呼吸器の取り外しは作為か不作為か、あるいは治療不開始と中止を同じ考え方で律してよいのか。(106)

佐伯……井田さんが指摘する点で、開始と中止が完全に同じかどうか自信がないが、同じように考えていくべきだという点は共感できる。辰井論文にALS患者の呼吸器中止が禁止されているから開始に躊躇して死んでいく患者がいると書かれているが、それは非常に不当。この点からも開始と中止は同じように考えるべきと思う。
とはいえ、それを刑法理論として説明する方法は、井田さんの議論にも納得できていない。(106)

山口……井田さんに共感できるが、人工呼吸器取り外しを端的に不作為とできるかどうかは要検討と思う。「取り外しを作為とする理解が十分可能なのに、なぜそれを無視してよいかが明らかではない」から。
ただ、作為と不作為の問題と、人工呼吸器取り外しの適法性問題は必ずしも直結しないし、取り外しをつねに違法として処罰すべきだとも考えていない。外せないので付けないという事態があるならばそれは問題だから、取り外しが違法にならないための要件を詰めていく必要がある。(106)

井田……取り外しに「作為」があることは確か。報告でも「作為的行為」という用語をあえて使ったが、しかし「刑法においては本質的に不作為犯として取り扱うことが最も事実に即している」のではないか。(106) 刑法解釈論としては「ドイツで主張されている「作為による不作為犯」という理論構成に賛成している」。(107)
解釈論とは別の観点から言えば、学説では評判が悪いが、ここでは一種の全体的考察方法を採るべきだ、ということになるかもしれない。患者受け入れから始まる医師と医療機関の行う全体的行為のなかで、「将来との関係で「行うべき治療を中止した」ものとして位置づけることがより説得力をもつ」。(107)
将来に向けて治療義務がない以上、「作為ではあるが禁止規範違反ではない」という言い方ができると思う。(107)

有賀……レスピレーターを付けると外せないから、付けたくないという意見がある。だがそれは間違っている。「付けるべき人には付けるべき」。「治療すべき患者さんにはきちんと治療する」。(107)
「医師としてのというか医学としてのというか、比較的毅然とした倫理的かつ医学的に正しいことをきちっとすることができるということがないと、いつまでもふらふらしながら医療をやっていることになってしまう」。(107)

井田……ただ急性期でも付けると外せないから最初から付けないという話を聞いたことがある。

有賀……そのような状況はあるが、それはガイドラインがないからという話になっていたのだろうと思える。急性期でも挿管しないという話の背景には「患者さんの治療歴など」への考慮があると考えた方がよい。
たとえば自殺未遂者は死にたいから蘇生術をしなくていいという議論はない。(107)

最後に 【省略】


■言及



*作成:堀田 義太郎 
UP:20100428 REV:
安楽死・尊厳死  ◇安楽死・尊厳死2009  ◇安楽死・尊厳死 文献解説  
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