「斬首を伴う「死刑執行人」の配置に関する考察──公事方御定書から旧刑法にいたるまで」
櫻井 悟史 20090331 『Core Ethics』5:171-180
はじめに
死刑執行人とは、誰を指す言葉であるのか。現在の日本を例に検討すると、裁判官が死刑判決を下しただけでは、死刑囚は死なない。また、法務大臣が判子を押しただけでも、地下絞架式の死刑台に立たせただけでも、死刑囚は死なない。死刑囚が最後に立つ床の扉を開けたとき、はじめて死刑囚の死は決定的なものとなる。つまり、死刑執行命令の行き着くところは床を開くボタンを押す者の上であり、その者の行為によって、死刑囚は死に至る。ゆえに、本稿では、この最後にボタンを押す人間のような「死に至らしめる身体に介入する行為」者を死刑執行人と定義する(1)。ボタンを押すのは刑務官であるが、周知の通り、刑務官は死刑の執行だけを担っているわけではない。それどころか、刑務官の職務規定には、1991(平成3)年以降、死刑の執行を担うべし、という文言すら見当たらない(櫻井2008)。このように、本来の職務ではないところに、死刑執行の業務が配置されている職掌を「死刑執行人」と括弧に入れて呼ぶこととする。よって、現在の日本に存在しているのは、「死刑執行人」である。
死刑とは、他者にたいするいかなる行為/加害が、いかなる理由にもとづいて死に値するとされるのかを決定する「判決」/制度と、「判決」を下された者にたいして国家が「死に至らしめる身体に介入する行為」を行なう「執行」という二つの要素から成り立っている。前者の「判決」/制度には、法学を中心とした分野に重要かつ膨大な蓄積がある。しかし、後者の「執行」についての議論は、ほとんど見られず、「執行」に関する記述も「判決」/制度を主軸に置いた研究の中に散見されるだけである。
「執行」には、死刑執行人/「死刑執行人」が不可欠である。2008(平成20)年現在の日本の「死刑執行人」の配置は、奇妙なものとなっている。つまり、受刑者を社会に復帰させることを目的とする刑務官が、受刑者を社会に復帰させないことを目的とする「死刑執行人」も担っている。この相反する職務の接合は、古くは監獄学者である小河滋次郎によって指摘されたことであり(小河1902)、監獄の実務家からも訴えられてきた問題である(吉野1907)。しかし、その問題は解決しないどころか、それから約50年後、刑務官である板津秀雄が、死刑存廃論に「公務員が、あえて執行せねばならない立場が論ぜられていない」ことを批判しているように(2)、議論されることもあまりなかった。さらに、その約50年後、同じ刑務官である坂本敏夫は同じように「日本の死刑論議からは、重要な視点が抜け落ちていると思う。それは執行現場の視点、つまり刑務官の視点である」と述べている(3)。つまり、約100年前からこのような言説は繰り返されてきたにも拘わらず、「死刑執行人」はあまり問題としてとりあげられることはなかった。
もっとも、「死刑執行人」の問題が、死刑存廃の議論の中で全く問題とならなかったわけではない。刑務協会(現在の矯正協会)の会長であり、熱心な死刑廃止論者であった正木亮も、「死刑執行人」の配置を問題にし、『刑政』誌上に「死刑と矯正官の地位」という論文を発表した刑法学者であった(正木1956)。だが、そこで問題とされた配置は、実際の「死刑執行人」の配置と大きく異なり、そして、単なる事実誤認ですまされないものがある。したがって本稿の目的は、江戸時代後期から明治期にかけての斬首を伴う「死刑執行人」の配置について、従来無批判に受け入れられてきた「正木説」の無根拠性への批判と併せて考察することにある。
1節で正木の論文を検討したのち、2節から4節では、死刑を記述する際に多く参照される『近世行刑史稿』を主に用いて、斬首を伴う「死刑執行人」の配置を記述する。あえて基本的な文献を中心に据えたのは、その史料的価値の有用性を認めると同時に、本稿で批判する正木が同書を編集した刑務協会の会長で、序文も書いていることによる。
本稿では、江戸後期から旧刑法施行にいたるまでの斬刑の動向が明らかにされる。この背後には、絞首刑確立への動きもあり、獄丁から押丁へ、その後、明治の終りには押丁から看守へという現代の「死刑執行人」への流れがある。本稿で明示するように、牢役人に「死刑執行人」は配置されていなかったにも拘わらず、なぜ監獄の役人の上に「死刑執行人」が配置されることとなったのかは、牢屋と監獄の断絶/接続という問題と深く関係する重要な点である。しかし、紙幅に制限があるため、本稿ではあえて斬首を伴う死刑に問題を限定し、絞首刑については、別途論じることとする。
1 江戸時代の「死刑執行人」に関する従来の言説――正木亮を中心に
David T. Johnsonは、死刑廃止運動団体「フォーラム90」にインタビューを行なったさい、真剣に死刑を研究している日本人学者は二人だけだ、と言われたという(Johnson 2007:99)。一人は団藤重光で、もう一人は菊田幸一である。
その菊田は、著書『死刑──その虚構と不条理』の中で、「わが国でも武家時代の死刑の執行は武士にやらせないで非人谷の者という、特殊の階級層があてられていた」(菊田1988:102)と書いている。これは、新版になっても一言一句同じである(菊田1999:112)。武家時代とは、鎌倉時代から江戸時代の終りまでを指す語である。「死刑執行人」について、菊田はこれ以上述べておらず、また、この一文がどのような文献に依拠して書かれたかも明示されていない。
このような記述がなされた背景には、菊田が継承した正木亮の死刑廃止運動があると考えられる。菊田が所属していた「犯罪と非行に関する全国協議会」(JCCD)とは、正木が発足した「刑罰と社会改良の会」を引き継ぐ形で1975(昭和50)年に発足した団体である(菊田1988:254)。「刑罰と社会改良の会」とは、戦後の死刑廃止運動第一期(1955年から1970年代まで)を支えた団体である(年報死刑廃止編集委員会1996:107)。この団体は市民運動団体というより、正木をはじめとする熱烈な死刑廃止論者たちが個人的に活動するための媒体であった。実際、この死刑廃止運動の流れは、その後の市民運動には継続されていない(年報死刑廃止編集委員会1996:107)。また、菊田は生前の正木に「死刑廃止運動には、一人の英雄が必要なのではなくて、多くの人の力の結集にある」(菊田1988:254)と意見したことがあるほど、「刑罰と社会改良の会」にとって、正木の存在は非常に大きなものであった。1971(昭和46)年に正木が亡くなったことで、翌年「刑罰と社会改良の会」が発行していた『社会改良』も廃刊となったことからも、当時の死刑廃止運動が正木によって支えられていたことが見てとれる。
1956年3月、「刑法等の一部を改正する法律案」が七人の参議院議員によって提案されるなど(藤岡1990:202)、戦後の死刑廃止運動が盛り上がりを見せていたなか、同年同月に発行された『刑政』第3号の中で、正木は「死刑と矯正官の地位」という論文を発表した。その中で正木は、徳川の用いた死刑における執行人は、全て「非人」であったと記述している(正木1956:11-12)(4)。さらに、「此のように、武家時代の死刑は残虐極まりのないものであったが、此等の執行を武士にやらさなかったこと、そしてその執行人が非人谷の者という、特殊の階級者があてられたというところに、武士そのものですら死刑の執行をさけたということを考証することができるのである」(正木1956:12)とも述べている。文言を分析すると、「武家時代」、「非人谷の者という、特殊の階級者」、「武士にやらさなかった」は、先に見た菊田の記述とほぼ一致する。つまり、明示していなかったが、菊田はこの論文を参照した可能性が極めて高い。
また、正木は、刀の様(ためし)斬りの副業として、死刑執行を担うことがあった山田浅右衛門について、別の論文で「昔徳川家康は首斬浅右衛門の制度を設けた。首斬浅右衛門は、家康からその子々孫々に至るまで罪人の首斬りをその世襲職業として認められた。しかし、家康は浅右衛門を武士として認めることはなかった」(正木1968:35)とも述べている(5)。ここから、正木は山田浅右衛門を武士とはみなしていなかったことが見てとれる(6)(7)。
「死刑と矯正官の地位」では、江戸時代の「死刑執行人」について述べることで、現代の「死刑執行人」の配置に対する憤りが述べられている。それと同時に、「死刑執行人」の配置について何も述べない刑務官への批判も展開されている。正木によれば、現代の「死刑執行人」の配置と刑務官の問題は、以下のように収斂される。
矯正官とは本来囚人を矯正し之を人間に復帰せしめることがその職務であるに拘らず、その教育官が素顔で人間を殺さねばならぬということに無反省であり得るならば矯正官ということは名のみで徳川時代の牢番の地位にあまんじて居るというそしりを受けてもやむを得まい。徳川時代の死刑は、武士に対する刑の場合を除いては非人谷の者が穢多頭弾左衛門の指揮によって行なったものであるが、徳川時代でさえ死刑の執行は常人の行なうものに非ずとされていたものを今日無反省のままそのことに当たることは全く、矯正官として、立場を省みないことにもなると思われる。(正木1956:9)
そして、この論文は、「刑務官は牢番ではない。刑務官は教育者である。教育者たる為に死刑制度の反省を」(正木1956:14)という言葉で締めくくられている。つまり、正木の論法に従えば、刑務官は死刑について何も反省しておらず、それは牢番の地位にあまんじているがゆえである、となる。
正木は別の論文で、昔の刑務官は死刑廃止という理想を持っていたが、「今日の矯正官からは誰一人の声としてもこの死刑問題に関する所見が出されていない。『刑政』誌としてはまことに恥しい次第であり、また、矯正官たちの人命への無関心さがまことに、まことに淋しく感じられてたまらない」(正木1968:309)と、当時の現状を深く嘆いている。そのような思いから、刑務官たちに死刑問題を考えさせようとして、「死刑と矯正官の地位」という論文も書いたのだろう(8)。しかし、正木が「死刑執行人」の配置の問題について正しく認識できていたのかといえば、必ずしもそうとはいえない。したがって、以下では、江戸時代の斬首を伴う「死刑執行人」の配置を詳述し、そこから、正木の「死刑執行人」批判が妥当かどうかを検討していく。
2 江戸時代の刑罰・死刑観と身分観
江戸時代は、藩ごとによって刑罰の形態が異なっていた。1875(明治8)年1月7日に各藩の刑罰について調べることを各府県に指示した司法省布達が出されたが(内閣記録局編1890:6)、江戸時代を通して同じ地方に藩を保ったところ以外、ほとんど成文法典や判例集は失われてしまっており(布施1983:484)、諸藩の死刑の実態は必ずしも明らかではない。そのため本稿では、あくまで幕府法における死刑の配置に記述を限定する。
幕府法としての刑罰が成文化されたのは、1742(寛保2)年に制定された「公事方御定書」上・下巻による。その下巻が、一般に「御定書百箇条」として知られるものである。その非公開の文書によれば、江戸時代の刑罰の大系は、正刑、属刑、閏刑に分かれる(財団法人刑務協会編 上1943:7-10)。さらに正刑は、呵責、押込、敲、追放、遠島、死刑に分けられ、属刑は晒、入墨、闕所、非人手下、吉原の廓内の犯罪に適用される大門口晒に分けられる。閏刑は身分ごとによって課される刑罰が厳密に違っており、士族には逼塞、閉門、蟄居、改易、預、切腹、斬罪が、僧侶には晒、追院、構が、庶人には過料、閉戸、手鎖が、婦人には剃髪、奴が、それぞれ課せられた(9)。
この公事方御定書は、厳密に形式にのっとって運用されることはなかったが(重松2007:71)、これらの刑罰の種類を概観すると分かるとおり、牢屋に閉じ込めるだけの刑罰は想定されていなかった。自由を剥奪する刑罰は自宅監禁が主であり、社会との隔離は追放によって達成された。
では、牢屋とはどのような装置であったのか。公事方御定書以降の牢屋の機能は3つある(荘子・大塚・平松編1972:36-37)(大越2008:44-45)(10)。まず、未決拘禁所としての機能。犯罪の嫌疑をかけられた者は、まず奉行所で簡単な取り調べを受け、その後、有罪の疑い有りとなると牢屋に入れられ、吟味されることとなる。ただし、軽犯罪者については、宿預、町村預とされたので、牢屋に入れられるのは重罪の者だけである(石井1964:20)。次に、有罪判決を受けた者を刑の執行まで拘置する場としての機能。最後に、身体刑──入墨刑、一部の死刑──執行の場としての機能である。これらの牢屋の機能は、自由刑執行の場として想定されている監獄/刑務所とは根本的に異なるものである(11)。死刑執行の変遷や行刑職員について分析する際、この点は非常に重要となる。
江戸時代の刑罰は身分と切り離せない関係にあった。そのため死刑が身分によって違った形で運用されていたことも、公事方御定書から明らかとなる。庶民に対する死刑としては、下手人が一番軽い(12)。下手人の刑に処せられた者は首を斬られるが、その死体が様斬りに用いられることはなく、受刑者の家屋敷や家財の没収などの属刑も課されなかった(財団法人刑務協会編 上1943:655)。次に重い死刑として死罪がある(13)。これは、斬首の後、受刑者の死体を様斬りに用い、また家屋敷や家財の没収などの属刑も課したものである。さらに、犯罪の悪質さによっては、斬首の前に引き廻しの刑も付加された。その上に、獄門があり、これは斬首の後、刑場に首を晒す刑罰である(財団法人刑務協会編 上1943:685-689)。これら下手人、死罪、引き廻しのうえ死罪、獄門の執行に当たるよう配置されていたのは、いずれも士族身分の者であった。このことについては、次節で詳述する。
士族に対する一番軽い死刑は切腹である。切腹は、腹を自分で斬ったあと、介錯人によって首を刎ねられる刑罰であるが、この切腹が一番軽いとされた理由は、介錯人の名を問うことができたことによる。なぜなら、名のある武士に介錯してもらうことが名誉であるとされていたからである(布施1983:367)。次に斬罪がある。これは庶民の死罪と同じ執行方法であるが、その死体が様斬りに用いられることはなく、斬首のさいに目隠しを施されることもなかった(財団法人刑務協会編 上1943:746)。庶民でいうところの下手人よりも軽い死刑として設定されている。
このほか、士庶共通の死刑として磔があり、これが江戸時代の死刑の中で最高刑とされていた(布施1983:367)(14)。この刑罰が最も重いとされた理由は、執行人が士族身分ではなく、下賎の者とされていたいわゆる「非人」であったからである(布施1983:367)。以上のことから、死刑は、執行される者の身分だけでなく、執行する者の身分もまた、問われていたことがわかる。
3 江戸時代の牢役人≠死刑執行人
現行刑法第11条第1項に「死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する」とある。そこから、刑事施設内で執行するのだから刑事施設の職員が行なうということになり(坂本2006:37)、本稿冒頭で述べたとおり、現在は刑務官が「死刑執行人」となっている。2節で見たとおり、牢屋の機能にも刑場としての機能があった。それでは、江戸時代の牢役人も死刑の執行を担うことがあったのだろうか。小傳馬町にあった江戸の牢屋を例に、江戸時代の牢役人を概観してみる。
小傳馬町の牢屋は町奉行の支配に属するものである。そこにはまず、頂点として俗に牢屋奉行と称された囚獄が配置されている。この囚獄は石出氏が代々世襲して石出帯刀を名乗っていた(石井1964:105)。その職権は、牢屋敷一切の監督取締にあり、死刑、敲の執行、赦宥の申渡等に立ち会うことにある(財団法人刑務協会編 上1943:16)。現在でも刑事施設の長(または代理人)は死刑に立ち会うことが刑事訴訟法第477条で定められており、共通している点がある。しかし、囚獄も刑事施設の長も、自ら死刑を執行することはない。
次に囚獄の下に同心が配置されている。この同心は、欠員が出た場合、概ね組同心家族中から推挙されていたところから(財団法人刑務協会編 上1943:34)、一般に広く公募されていたような職ではなかったことがうかがえる。その勤務方法は、1716(享保元)年の「本牢当番所法度書」等で定められており、鎰役、小頭、世話役、打役、物書所詰、平番、物書役、賄役、勘定役といった職務があるが、この中で打役が、牢問(拷問)及び敲の打役を引き受けるほか、遠島、入墨、死刑の執行も司っていた(財団法人刑務協会編 上1943:37)。ただし、ここでいう同心が「死刑執行人」の役目を担っていたわけではない。
「刑罪大秘録」中の死罪図を見ると(15)、打役同心とは別に首討役同心がおり、打役同心は刑場の入り口の警固をしていることが分かる。では、首討役同心とは何者かというと、それは町奉行同心の内当番若同心のことである(16)。打役同心は正確には囚獄組同心で、たしかに囚獄は町奉行の支配に属してはいたが、内当番若同心とは区別されるものである。「百箇条調書内々篇」には、「死罪ハ申渡候上牢屋敷ニおゐて両御町組同心首を刎、死骸ハ取捨ニ相成」とあり、「刑罪大秘録」の死罪について書かれた箇所にも「首打役町同心討」とある。斬罪についてもこれは同じで、「御定書百箇條御仕置仕形之事」に「於淺草品川兩所之内、町奉行組同心斬之」とあり、「刑罪大秘録斬罪御仕置之事」には、「於評定所申渡、上下之儘羽がひ?に致し、駕籠ニ乗せ、直ニ淺草御仕置場所江召連れ、目隠無之、染繩ニ而縛り候、羽がひ?の儘、町方同心、首を討」とある。また、「牢獄秘録」の打役の説明には、「拷問之時打役也、敲之時も打也」とあるだけで、死刑執行については特に書かれていない。これらの史料からも、斬首を伴う死刑の執行には、牢役人ではなく、町奉行同心が配置されていたことが見てとれる。
同心の他には、下男、辻番、医師なども配置されているが、日雇いとして「非人」も傭役していた。引廻の上獄門、磔、鋸挽刑の執行のさいには、数十人の「非人」が使役されたが(財団法人刑務協会編 上1943:65)、基本的に「非人」には、「死に至らしめる身体に介入する行為」が期待されていたわけではなく、どちらかといえば、罪人の身体に直接触れることが求められていた。再び先ほど参照した「刑罪大秘録」の図を見てみると、受刑者を押さえている死刑人介添非人の姿を確認することができる。それはただ押さえているだけであって、「死刑執行人」の役目を担っているわけではない。「非人」に「死に至らしめる身体に介入する行為」が期待された例外は、磔である(布施1983:377)(17)。
「非人」に配置された死刑執行と、町奉行同心に配置された死刑執行との大きな違いは、その道具である。「刑罪書」の磔御仕置仕法によれば、「非人」に要求された磔の際に用いられる「死に至らしめる身体に介入する行為」のための道具は槍である。同書によれば、槍は三十回ほど突くとあり、斬首の場合のように一撃で首を落とすような技術は必要とされていない。また、三十回突くということは、死刑囚の死に至るまでの苦痛の軽減も考慮されていないといえる。つまり、プロセスにおいて問われるのは、槍で突くという一点のみで、後は死に至れば磔刑は完成する(18)。ここから、槍を持つことの出来る人間であれば、誰でも磔刑の執行人になることができたといえる。では、なぜ、この誰でもなることのできる執行人に「非人」が配置されたのか。それは、2節でもみたとおり、どの身分の者が執行するのかが、死刑の軽重を左右していたからである(19)。
以上のことから、「徳川時代でさえ死刑の執行は常人の行なうものに非ずとされていた」(正木1956:9)とした正木の説は、誤りであるといえる。ここでいう「常人」でないものとは、正木が死刑の執行は全て「非人」によって担われていたと述べているところから、「非人」を指していると思われる。だが、本節で見たとおり、正木も用いたはずの『近世行刑史稿』からは、江戸時代の「死刑執行人」が全て「非人」であるなどとは確認できない。さらに正木は、1955(昭和30)年に出版した『死刑』で、「刑罪大秘録」を引いて、「打役は町同心が之に当る」と記述してもいる(正木1955:55)(20)。それにも拘わらず、このように述べるのは、単なる事実誤認にとどまらず、「非人」に対する不当な史料操作であるとすらいえる。
また、本節で、牢役人には「死刑執行人」という職業は配置されていなかったことが明らかとなったのだが、ここから、正木が述べたように、仮に矯正官が徳川時代の牢番の地位にあまんじていたとしても、牢番であるがゆえに死刑を執行しているとはいえないということが分かる。ただ、例外として、牢屋で最下級の職掌に位置づけられていた「非人」が「死に至らしめる身体に介入する行為」を担うこともあったが、「非人」は傭人であったため、牢屋の中に配置されていたわけではなかった。つまり、江戸時代において、「死刑執行人」は牢屋内部に配置されていたのではなく、外部に発注されていたといえる。そのため、山田浅右衛門の一族のように、死刑の執行を代わりに担う者がいたとしても不思議なことではなかった。この山田浅右衛門は、打役でもなければ、牢役人でもない。
4 江戸後期から旧刑法施行までの山田浅右衛門の立場の変遷
麹町平河町に住む山田浅右衛門とは、刀の様斬りと鑑定を生業とする浪人である。様斬りとは、死罪に処せられた者の死体を用いて、刀の切れ味を試すことを意味する(財団法人刑務協会編 上1943:661)。しかしそのうち、死体を斬るなら首打ちもということで、死刑の執行も兼務するようになっていった(21)。この背景には、内当番若同心が、精神的苦痛と技術的困難から、死刑執行を嫌がったということがある(櫻井2008:95)。そのため、佐久間長敬の「刑罪詳説」によれば、首討役同心は礼金を支払って山田浅右衛門に首討ちを依頼し、そして、そのことをその他の役人も黙許していた(原・尾佐竹解題1982:99)。よって、首斬浅右衛門と称されることのある山田浅右衛門であるが、それは事情を知らぬ庶民がつけた別称であり、実際は、専門の死刑執行人ではなかったのである(原・尾佐竹解題1982:99)。
ここから分かるのは、どの役職の誰が殺人の責務を担うかよりも、「斬る」という「死に至らしめる身体に介入する行為」の方が重視されていたことである。死体を斬るなら首打ちもという論理は、死体を斬るなら生きている死刑囚を斬るのも同じだろうというところから生じている。無論、死体と生者では、その技術から行為の意味するところまで違う。だが、「斬る」という行為自体はどちらも同じで、人体に刀を通すことで刀の性能を試すという意味も同じである。さらに、山田浅右衛門は浪人であり、その身分は曖昧であるものの一応士族であったため、死罪・斬罪の執行を担うことができる身分にあった。この「斬る」という行為と、士族という身分の二つの条件が揃ったことにより、山田浅右衛門は特に違和感なく、斬首の執行に従事することが可能になったものと思われる。この山田浅右衛門の立場は、明治期以後、変容を余議なくされるのだが、そのことについて述べる前に、旧刑法公布までの明治期の死刑について概観しておく。
1868(明治元)年10月29日に制定された仮刑律は、新律の指定まで刑罰の執行は旧幕府の公事方御定書に依ると定めたものである(重松2007:129)。ただし、死刑の形態は変化しており、死刑は、刎、斬、磔、焚、梟の五種と定められることとなった。このうち、磔、焚、梟は、例外的な刑罰として温存されていたに過ぎず、刎と斬の二つが主に用いられていた死刑といえる(布施1983:565)。
刎とは斬首のことであるが、斬とは袈裟斬りのことで、首を落とす江戸時代の各種斬刑とは異なる性質をもっている。刎の方が首と胴を離すことから重い死刑であるとされたのだが、注目すべきは、死刑の軽重が斬り方によって定められている点で、このときから「身首処を異にす」ということが注目されはじめた(櫻井2008:94-95)。
身分差別の撤廃と罪刑法定主義をかかげた旧刑法が、1880(明治13)年7月17日に公布されるまでは、身分によって課せられる刑罰に違いがあり、仮刑律では、「官人と諸藩士には刎首、自尽を行い、梟首は行わない」(布施1983:561)となっている。これも江戸時代と違うのは、庶民よりも士族の方に重い死刑が課せられている点であるが、これは斬り方によって死刑の軽重が決まったために生まれた偶然の産物である可能性が高い。なぜなら、梟首が最も重い死刑であるのだが、それは士族には課せられていなかったからだ。
仮刑律制定から二週間後の1868(明治元)年11月13日の通達によって、絞首刑が追加されると、死刑は絞、梟、刎の三等とするという話が持ち上がった。これによって、死刑は刎、斬の二等か、絞、梟、刎の三等かという議論がなされたが、これは、その決定がなされる前に新律綱領が定められたため、明確な決着は見なかった(布施1983:565)(22)。
以上のような背景の中での山田浅右衛門の動向には、注目すべきものがある。江戸時代には刀の様斬りのため雇われていた山田浅右衛門であったが、1869(明治2)年の2、3月頃に東京府では、様斬りが差し止められることとなった(高塩1998:25)。そのため同年6月に山田浅右衛門は様斬りの継続を求めた嘆願書を提出している(高塩1998:22-23)。しかし、1870(明治3)年4月15日、太政官布告によって全国的にも様斬りは禁じられてしまう。山田浅右衛門としては、廃業ということになり、牢屋とは縁が切れるはずであった。だが、1869(明治2)年の5月27日に山田浅右衛門は南裁判所に出頭した際(23)、市政裁判所所属を命じられ、従来通りの仕事をするよう指示されている(高塩1998:23)。このとき、山田浅右衛門は浪人から官吏となった。さらに1869(明治2)年8月、山田浅右衛門は首討役を手当金1ヵ月金5両で申し付けられてもいる(重松2007:131)。つまり、ここで指示された従来通りの仕事とは、斬首のことであり様斬りのことではない。そして、これは南裁判所が、山田浅右衛門の職業を死刑執行人としてとらえていた証左ともいえる。これは山田浅右衛門の認識とはずれているのだが、そのずれは是正されず、山田浅右衛門は官吏として、そして、死刑執行人として牢屋に再配置されることとなった。
1871(明治4)年8月9日に斬髪・廃刀が許されているといったことからも見てとれるように、刀の重要性が急速に失われつつある時代であった。それは、斬り手の確保が難しくなることも意味する。実際、斬り手を見つけるのが困難なことから、司法省は、斬首の役を担った者に特別ボーナスを出すという指令を出しているほどである(日本史籍協会編1983:124-125)。
そのような事情から、東京府は江戸時代に死刑を執行することもあった山田浅右衛門を死刑執行人として雇ったのだろうが、山田浅右衛門にしてみれば、死刑執行人は本来の職業ではない。そのため、江戸時代から活躍した七代目山田浅右衛門吉利は、1869(明治2)年11月に依願免となっている。そして、同年同月から新律綱領が定められた1870(明治3)年12月20日まで死刑の処断は停止されていた。しかし、死刑執行が再開されると、結局八代目山田浅右衛門吉亮がその後を継ぐこととなった(24)。「首斬浅右衛門」としてその名を知られた山田浅右衛門の一族であるが、専門の死刑執行人は、この山田浅右衛門吉亮のみといえる。
この山田浅右衛門の動向からわかるのは、東京府は斬首を伴う死刑の存続にさいし、新たな専門の斬首刑執行人を養成するといったことはせずに、江戸のシステムであった山田浅右衛門という制度に変化を加えて存続させた事実である。つまり、牢屋外部に発注していた「死刑執行人」が、牢屋内部で調達されるような空間の配置に変化した。この配置は、1872(明治5)年の監獄誕生後も踏襲されている(25)。ここに、江戸と明治の断絶を見てとることができる。しかし、その一方で、実際の担い手は、江戸の社会状況の連続線上で配置されたので、この意味においては江戸と明治は連続しているのである(26)。
正木も、江戸から明治にかけての「死刑執行人」の配置について、「死刑と矯正官の地位」の中で、「徳川時代の死刑に関する執行人の問題が、今日の行政制度上少しも考慮に入れられていないのではなかろうかとの疑を持つのである」(正木1956:12)と指摘している。山田浅右衛門の例から、この指摘の一部は正しいといえる。だが、これまで見てきたとおり、正木は「死刑執行人」の配置について、正確に把握できてはいなかった。ゆえに、山田浅衛門に見られるような、「死刑執行人」の配置をめぐる江戸と明治の断絶と連続についての的確な批判はなしえず、疑いを持つのみに終わってしまったのである。
おわりに
冒頭で示したように、日本の「死刑執行人」の問題は、100年以上にわたって継続している問題である。そのような問題を考察するためには、過去から現在までを正確に把握する視点と、過去と現在の連続性/非連続性をとらえる視点が必要となる。そのため、筆者は刑法学ではなく、歴史社会学という手法をあえて用いている。
本稿では、紙幅の制限上、公事方御定書から旧刑法にいたるまでの、斬首を伴う「死刑執行人」の配置についてのみの記述となった。今後は、本稿で明らかにすることができなかった牢屋と監獄の断絶/接続や、現代に至るまでの「死刑執行人」の配置についての歴史を記述していく予定である。それによって、日本の死刑執行をめぐる諸条件が、具体的にどのように作り上げられてきたかが明らかになると考える。そこには、公開刑から非公開刑へ、残酷な身体刑から穏やかな刑罰へ、といった近代化論の枠組みだけではとらえきれない、より複雑な合法的な殺人の配置が存在すると思われる。それを解明することが、今後の課題である。
〔参考文献〕
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〔註〕
(1) 「死に至らしめる身体に介入する行為」とは、あえて英語に訳すと、"interventions on a person's body that result in his death"となる。つまり、殺人行為を指す言葉である。殺人がよい/わるいという価値判断をせず、その行為のみを注目するために、本稿ではあえてこの語を用いている。
(2) 『朝日ジャーナル』1959(昭和34)年11月29日号(1巻38号)85ページ参照。
(3) 『朝日新聞』2002(平成14)年9月14日朝刊「オピニオン欄」参照。
(4) 正木は死刑の種類を詳細に書いているが、斬罪を省略している。「武士に対する刑の場合を除いては非人谷の者が穢多頭弾左衛門の指揮によって行なった」(正木1956:9)と記述してあるので、そのためと思われるが、斬罪の死刑執行は誰が担っていたかについては、特に言及がない。
(5) 家康が首斬浅右衛門の制度を設けたとあるが、これは史料から事実誤認であることがわかる。なぜなら、初代山田浅右衛門貞武は1657年生まれで(氏家1999:217)、その頃には家康は没していたからである。
(6) 山田浅右衛門には、「賤民」説と浪人説があるようだが(網淵1972)、氏家幹人は、山田浅右衛門だけが、なぜ御様御用として残ったかの経緯が、「賤民」説のような誤解を生んだのだろうと推測している(氏家1999:105)。
(7) 4節で明らかにするように、これは事実誤認であるのだが、この誤認が起こった背景には、正木がフランスの死刑執行人Sansonと山田浅衛門を混同したことが挙げられる(正木1968:35)。Sansonの社会的地位は低かったようであるが(安達2003:8)、山田浅右衛門が浪人であったことは間違いない。日本の「死刑執行人」の話と、海外の死刑執行人の話は、しばしば並列して語られる。だが、日本の「死刑執行人」の配置と海外の死刑執行人の配置の状況は異なっている。イギリスは専門職であったし(Elis1928)、フランスは世襲制の専門職である(安達2003)。対して、日本は町奉行同心や、様斬りを本職とする者の副業として「死刑執行人」があった。
(8) 「死刑と矯正官の地位」が掲載された号の『刑政』の「読者のサロン」では、三人の刑務官が執行する者の立場から死刑にたいする発言を行なっており、その中で、「妻にかくしていること」を書いた刑務官は、正木の死刑廃止運動について言及してもいる。刑務官たちが、正木の死刑廃止運動に注目していた一つの証左といえる。
(9) 闕所とは動産、不動産の没収、預とは他家に禁錮すること、構とは宗門の一派を除却、あるいは一宗を除却すること、奴とは本籍を剥奪し、その者を請う者に下付すること、請う者がなければ禁獄されることを指す(財団法人刑務協会編 上1943:7-9)。
(10) 大越や平松によれば、牢屋の機能は4つあるとされている。しかし、その3つ目の機能である永牢(無期禁錮)と、過怠牢(30日から50日の禁錮)という刑罰は、本稿で確認したとおり、「御定書百箇條」には配置されていなかったので、ここではあえて外した。
(11) 江戸時代に自由刑がなかったわけではない。たとえば、1790(寛政2)年2月19日に老中松平定信によって設けられた石川島人足寄場などでは、自由刑としての徒刑が行なわれていた。さらに、熊本藩では、1755(宝暦5)年に明律による刑法典「刑法草書」が施行されたさい、徒刑が復活し、他藩に先駆けて徒刑場が設けられている。しかし、いずれも牢屋に自由刑執行の場を付加した場所ではなく、あくまで牢屋とは別の人足寄場/徒刑場として設置されていた。
(12) 下手人は、喧嘩や口論が原因で相手を死に至らしめた庶民などに適用された(財団法人刑務協会編 上1943:655)。
(13) 死罪は、盗賊(十両以上)、追剥などの財産犯に適用された(財団法人刑務協会編 上1943:655)。
(14) 鋸挽による死刑は、磔の附加刑である(布施1983:367)。
(15) http://www.arc.ritsumei.ac.jp/kouchiku/photo/98.jpgを参照。刑罪大秘録死罪圖(財団法人刑務協会編 上1943:657-658)。紙幅の都合上、図はweb上に掲載した。
(16) 以下を参照。(松平1919:859)(財団法人刑務協会編 上1943:660)(石井1964:39)(森川1970:125)(原・尾佐竹解題1982:99)(布施1983:369)(大久保1985:75)(村野1995:92)(冨谷編2008:267)(大越2008:45)。
(17) 例外的な死刑として、鋸挽の刑がある。鋸挽きにおいて、竹の鋸を挽くよう期待されたのは町行く人たちであった。鋸挽の刑は、実際にはそれほど行なわれることはなく、ほとんど形骸化していた(財団法人刑務協会編 上1943:739)。また、火罪は、『近世行刑史稿』によれば弾左衛門が点火することになっているが(財団法人刑務協会編 上1943:707)、「刑罪大秘録」では下役同心が点けたとも理解できるおそれがあるため、本稿の考察からはあえて外している。
(18) 体のどの部位を突くかについては取り決めがあり、たとえば刑の終わりに最初の突き手に命じて咽喉を右から貫くことを「止めの槍」と呼んだ(松平1919:863)。だが、それも特段の技術を必要とするものではない。
(19) もう一つ、重要な点がある。それは、斬首を伴う死刑は基本的に牢内において非公開で行われていたのに対し、磔や火罪といった「非人」が多数動員される死刑は公開されていたことである(冨谷編2008:261)。つまり、庶民が眼にする死刑は、「非人」が「死刑執行人」となっている死刑であった。おそらく、このことは1節で詳述した「死刑執行人」言説と関係している。ただ、なぜ「非人」が公開され、町方同心は非公開であったのかについては、より慎重な議論が必要とされるため、脚注で示唆するに留めておく。
(20) もっとも、この『死刑』では、死罪と斬罪は同じものとして扱われている(正木1955:55)。また、家康が山田浅右衛門に首斬りを命じたとも書かれており、こちらは特に参考史料が明示されていない。
(21) 『報知新聞』1908(明治41)年7月7日(村野1990:173)。
(22) ただし、それ以前の1869(明治2)年8月5日に刎首が斬罪と改められた段階で、袈裟斬りによる斬刑はなくなっている。つまり、袈裟斬りによる斬刑は9ヶ月しか日本に存在しなかった。
(23) 市政裁判所は町奉行所の後身なので南北があった(高塩1998:23)。
(24) 吉亮は三人兄弟の三男であり、実際に跡を継いだのは長男吉豊であった。しかし、吉豊は役目を勤めることができなかったため、1874(明治7)年2月12日付で差免ぜられている。そのため、実質上の八代目は吉亮といえ、吉亮自身も八代目を名乗っている(重松1985:44-45)(村野1990:172)。また、吉亮は回想で、1870(明治3)年12月28日に米沢の藩士雲井龍雄を斬ったとも述べており、その頃から実際の死刑執行人の役も担っていた。『報知新聞』1908(明治41)年7月8日(村野1990:173)参照。
(25) 山田浅右衛門吉亮が死刑執行人を廃業したのは、1881(明治14)年7月24日である。『報知新聞』1908(明治41)年7月7日(村野1990:173)参照。
(26) この連続は、絞首刑についてもいえるのではないかと考えるが、紙幅の関係上、ここでは示唆するのみに留めておく。
*作成:櫻井 悟史