ここに収録した研究交流会は、2008年8月1日(本冊子第一部に収録した国際研究交流企画の翌日の午後)、立命館大学創思館「生存学」研究センターにて行なわれた。前日の国際研究交流企画では、あらかじめ内容が準備された講演と指定質問だけにほぼ終始し、自由かつ踏み込んだやりとりをする時間を取ることがあまりできなかったため、翌日に、より少人数での交流会が企画されたのである。
本研究交流会に先立って、パム・スミス氏とヘレン・カウイ氏は、当日の午前中に京都市内の介護ケア関連施設を見学した(同行者は、崎山治男氏、法政大学社会学部准教授の三井さよ氏、有馬)。ここで見学してきた施設について、以下でも言及されているので、簡単に午前中のスケジュールを紹介しておく。
当日、一行は10時前から京都市上京区下立売通にある「むつき庵」を見学した。「むつき庵」は、高齢者の排泄ケアに関する情報提供や相談への対応を目的として、2003年にオープンした情報館である(ホームページはhttp://www.mutsukian.com/)。館内は、壁一面にさまざまなニーズに応じて開発された約300種類の紙製・布製のオムツが展示されている。また床には、さまざまなデザインのポータブル・トイレが置いてあり、実際に触れてみることができるようになっている。一行が訪れた際は、代表の浜田きよ子さんから、展示品の特徴や、むつき庵の活動内容についての解説を聞くことができた。なかでも、オムツの品質が良くなかったり、利用している人の体質に合わなかったりして、内側の蒸れや取り外しの困難などの問題があると、利用している高齢者はどうしても不快に感じるため、いらいらしたり怒りっぽくなったりすることがあるという浜田さんのお話は、カウイ氏とスミス氏にとっても特に興味深かったようである。以下冒頭でもカウイ氏がこの話に言及し、介護の場面における感情の扱いの問題に関係づけている(また、同じ話題について、本冊子第三部に収録したスミス氏とカウイ氏の共著論文「Impressions and Comments Arising from the Meeting on Emotional Labour: Ritsumeikan University, July 31st, 2008」でも、さらに考察が展開されている。論文に付した「解題」もあわせて参照されたい)。
その後、一行は12時半から、京都市上京区和泉通にあるデイサービスセンターを訪れた。聚楽は、京都の伝統的な町屋を改装した建物の落ち着きのある作りが特徴的な介護施設である(ホームページはhttp://www.nananokai.com/shisetsu/juraku.html)。ここでも主任の黒田貴哉さんから、施設の活動や、利用者の抱える困難、介護者の側の工夫やこだわりなどについてお話を伺うことができた。センターの利用者の誰もが楽しんで参加できる活動がなかなか見つからないなかで、演歌歌手の氷川きよし氏に宛ててファン・レターを書くことを企画した際には、利用者のほとんどが参加したといったお話は、センターの具体的な工夫を知るうえでも、一行にとってもとくに興味深かった。また、聚楽では家庭的な雰囲気を重視しており、食事の出し方や内容にも気を配っているということであった。実際、一行は利用者の方々と共に昼食をご馳走になったが、手作りの和食(ひじき、豆腐、おから、煮魚等)が陶製のお皿やお椀に盛られて6品ほども出てきた。頂いた食事は非常に美味で量も多かったが、小食であるスミス氏でさえ、ベジタリアンとして食べなかった品を除いては「おいしい」といって全てたいらげていた。また、食事のあとも一行は実際にセンターの利用者の方のさまざまな活動や催し、取り組みなどを見せていただいた。
その後、一行は立命館大学衣笠キャンパスへ向かい、立命館大学大学院社会学研究科教授の大谷いづみ氏と安部が参加しておこなわれた研究交流会は、午後3時から5時まで約2時間にわたった。以下に収録したのはその記録である。
安部:ですね。ただそのときに、じゃあ感情の「そもそも論」みたいなところにいくのかという話になってくると、僕自身はちょっと違うかなとも思うわけです。
たしかにそんなことを思ったこともあったというか、たとえば博士論文にも文献を挙げたのですが、エヴァンズ(Dylan Evans)という人がEmotion: A Very Short Introduction(邦訳:遠藤利彦訳『感情』岩波書店、2005年)というのをOxford University Pressから出しています。簡単な「感情科学の現在」の紹介みたいな本なんですけど。そこに基本的感情の話も出てきて、それはそうなんだろうとは思うんです。それで、その本に書いてあるわけではないのですが、それを読んで思うに、基本的な感情として、まずいくつかがある。そこからいろんな成長のプロセスを経て、たとえば人に共感するようになったり、痛い思いをしている人をみたら自分もそんな気持ちになって。それでそこから、痛いこと、人に痛みを与えるのはやめよう……というような、すごく乱暴にいってしまえば素朴なお話というか。そして「そのプロセスじたいも人間の自然なんだぜ」というようなお話といいますか。
だけど自然っていうけど、それが本当に自然なものとしてあったらね、と思うわけですよ。「じゃあ何で、こんなふうになっちゃってるの、世の中?」と(笑)。つまりみんなが自然にそういう感情をもっているのであれば、要は「自然な」共感を「自然に」できるのであれば、みんなもっとわかりえてるはずじゃないの、でも現実はそうじゃないよね、と。まあこの返しじたいもかなり素朴なんですが、思うわけで。
そういうわけで、基本的な感情や、基本的に人間は共感能力をもっているというようなところをいくら科学的な見地で裏づけても、というかそっちの方向に向かっても少なくとも僕自身にとってはあまり意味がないかなと。「ほらね、科学で人間をちゃんと客観的に調べたらこうなっているのだ。そもそもそういうデバイスがあるのだ」ということをいわれても、何かそっちにもちょっと乗れないというか。もちろんそれはそれで重要だとは思うんですけど。