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感情の用法:感情による用法──感情労働概念の再構築に向けて

 崎山 治男 2009/03/19
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20090319
安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働――異なる学知の交流から考える』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,248p. ISSN 1882-6539 pp.145-163


 
1 はじめに

 本企画の中での議論、ないしはそこから示唆を得つつ、感情研究を進めていく際に重要なポイントは、主に三点ぐらいに分けられるように思われる。
 第一には、「管理」されない感情などは存在しえないこと。エリアスやその後継者たちが明らかにしてきたように、文明化のプロセスの中では、いわば剰余とも感受されるわれわれの感情をいかに制御し、産業労働や異文化間・階層間での社交圏を増大させるという作業がいわば伏流線として常に存在してきた。たとえば、この企画の最中に暑さや疲れ、日英の制度や言語の違いから生じる混乱から不快な感情を感受し、それに身を任せた場合。あるいは、この論考を書く際に――もちろん、「アカデミズム」な媒体という制約もあるが――仮に私が今経験している感情を書くこと・ないしはそれに身を任せた場合。この企画や論考は一瞬にして、学術交流という体裁・ないしは学術的論考という体裁を失うことだろう。
 これらの事柄は、しばしばホクシールドによる感情労働という概念の「発見」に際してしばしば忘却されてしまうが、感情研究の基礎付けとして重視してしすぎることはない。われわれは、感情を制御された世界に生きている/生きざるをえない。このことは、感情社会学・感情労働という分野が確立される以前から、エリアス学派の文明化論を縦軸とし、ゴッフマンの相互行為分析を横軸としながら、いわばタペストリーとして基調にあった考えである。だからこそ、逆にそれが破綻する場面・労働・相互行為を分析するツールとして、感情労働という概念がインパクトを持ち得た/持ちうるのではないだろうか。そうであるならば、照準するべきことはむしろ、われわれがある種の感情規則の命題に縛られることではなく、逆にそれが破綻するようなままならない自己感情を感受させられた際にどのように振る舞うか/振る舞わされるのか、という点にシフトすべきであろう。
 この前提にたった上で、第二の課題が浮かび上がるだろう。それは、感情の用法をめぐる概念の貧困であり、その豊饒が今後目指されるべきである、ということである。感情労働という概念が登場した後、それが産業構造のサービス産業への大転換にともなう自己感情からの疎外であるか否か、といった問いは、実際にホクシールドとエリアス学派との論争のポイントともなった。そして現在進行形でも、さまざまな職種、あるいは職種間でのバーンアウト・ストレスの相違、ないしはその有無として争われてもい。
 だが、前述したように、われわれはその原初から自己感情から「疎外」されており、いわば感情労働を行う存在としてすでに社会の中に織り込まれているのだ。しばしばホクシールドの感情労働論に対して、いわゆるサービス産業ではない第一次・第二次産業に属する労働者、ないしは日常生活でも感情労働が行われているのでないか?といった批判があった。すなわち、第一次・第二次産業であるならば、自然や機械の「力」に対する諦念、ないしは没感情的に振る舞うこと。こうした批判は、企業・組織体による労働者への精神的な抑圧といった感情労働概念の本質をとらえていない、あるいは素朴すぎるものとして無視されてきた。
 だが、これは感情の用法を考える上で看過されるべき問題ではない。この企画の講演・討論の中でもたびたび登場してきた事柄であるが、われわれは組織の中で・仕事の上で、決して狭義の意味での感情労働だけを行っているのではない。さまざまな感情の用法が渦巻く中で、ままならない自己感情を持たされてしまうことによる行為だけにとどまらず、感情を利用した差別・抑圧、ないしは「肯定的」な感情を演出するといった、多種多様な事柄が行われてきた/いるのだ。
 もしかしたら、これまでの感情労働をめぐる議論は──半ばは自省を含むが──ホクシールドの感情労働概念、とりわけ疎外論図式にとらわれすぎていたために、このような感情の用法を見逃してきたのではないだろうか。
 その先に、今回の企画を受け、われわれが感情を「社会学」的にとらえる際に、困難ではあるが一番重視すべき第三の課題が浮かび上がる。それは、現代社会・ないしは企業・組織における感情の用法を描き出すことを通して、どのような相互行為が行われうるのか、あるいは行わされているのか。そして、誰がどのようにそこから利得を得たり、価値付けを行いうるのか、という問いである。これは、ただ単純に企業・組織体が感情労働をいわばシャドーワークとして行わせることによって利潤を得ていたり、それを現代労働の疎外として価値付ける、といった事柄だけに収まらないはずだ。
 今回の企画をみても、H・カウイ氏の研究報告にみられたように、組織体の効率・能率を上げるために、企業・組織側だけではなくむしろそこで働く人々が、「肯定的」な感情を積極的に欲する面もある。また、H・カウイ氏の講演にみられたように、企業・組織体の能率とは相反する形で、ある個人間で感情を元にしたネゴシエーション・「巧妙な」差別が自発的に行われることもある。さらには幾人かのコメンテーターが述べていたように、われわれがどうしても感受してしまうままならない感情にいかに対処するか、といった問題もある。
 この地点にたった上で、現在の感情社会学・感情労働論においていかなることが再構想されうるのか、が問われるだろう。少なくとも、問いは企業・組織体による労働者の自己感情の抑圧だけにとどまるものではない。むしろそこに自閉している限りでは、前述してきたさまざまな感情をめぐる用法を見逃すばかりか、感情労働をいかに価値付け、ケア行為や現代社会の中に位置づけるかといったより大きな問いを見逃してしまうであろう。
 本章では、今回の企画に触発されつつ、前述した三つの課題について、まず感情の制御という事柄、われわれはすでに「感情労働者」であるということを再度確認し、その中で持たされてしまうままならない自己感情にいかに・どのように対処しているのか、という事柄を示す。その上で、こうした自己感情の用法を、現在の感情労働論の内部において、どのような概念で位置づけうるのか、といった点についての示唆を試みる。それらの作業の後に、感情労働という概念と、現代社会における感情をめぐる主要な用法を描きつつ、われわれが現代社会で行っている/行わされている感情労働の特徴を描写しつつ、それをいかに再考できるのかという問いに一定の解を示していきたい。

2 感情管理の原初形態:感情を制御された主体であること

 われわれがを感情を制御する/させられている主体であるということは、恐らくは二層ないしは三層の構図を持っているものと考えられる。第一には、エリアスないしはその後継者たちが述べてきた、文明化・インフォーマル化のプロセス、ないしはフーコー等が指摘してきた、近代の「主体」として自己が立ち上がる側面。エリアス学派が繰り返し述べてきたように、「社会的なるもの」が立ちあらわれるにしたがって、感情・暴力を制御することが要請されてきたことは疑いようもない。たとえそれが「権力」にまみれていたとしても、「社会」が立ちあらわれる際には、他者の他者性とでも呼ぶべき偶発性を出来る限り減少することがまず必要とされるだろう。
 それは、必ずしも感情に限った話ではないかもしれない。言語、振る舞い、知識等々が近代化のプロセスの中で、馴致されてきたことはさまざまな研究で語られてきたし、現在においても指摘されている。その中であえて感情に焦点を絞るならば、二つぐらいの事柄が特徴としてあげられるだろう。
 まずは、他者のみならず自己にとっても──それそのものが社会的に構成された考えがあろうとも──ままならないものである、ということがある。私たちが感受する感情は、果たして完全に管理できる、あるいは管理されうるものとして感受できるだろうか?。常に何らかの形で、自らの感情を制御していると感受しているのではないだろうか。このような、自己の内部における他者性として、われわれは自らの感情をマネージメントしている。
 さらには、それが「暴力」と親和性を持つことがある。前述した、自己にとってもままならない感情であるがゆえに、われわれはしばしばある種の感情経験と同時相即的に「暴力」と形容しうる行為を行ったりする。あるいは、そうした行為のいわば動機の語彙として、感情が持ち出されることもあるだろう。
 だからこそ、近代社会においては感情を制御し、さらにはそれを通して暴力を制御することによって成り立ちうると考えられきた。それは必ずしもエリアス学派が指摘してきたように、他者の他者性を出来るだけ縮減すること、そしてそれによって「社会」の拡大が可能になったことにとどまるものではない。いわば自己の内部の他者性としての自己感情といかに折り合いをつけるか、そしてそのことによって自己が「社会」へと踏み出すことができるか、という命題もまた、存在するだろう。
 これらの事柄は、感情規則としてこれまで定義されてきた、労働場面や日常生活での感情をめぐる規則群に規定されたものとはかけ離れた水準でわれわれが日々行っているものである。それはまた、固有の文化圏における感情の用法である感情文化とも位相を異にするものであるといえよう。われわれは、自己の内部の他者性とでも呼ぶべき自己感情をいかにマネージメントするかという命題に囚われており、またそのことによって社会や自己は、はじめて可能なものとなる。これらは善悪の彼岸にあり、誰が・どのように感情を統治し、それにより利得を得ているかという分配の問題でもない。ただ端的にそのようなものとして、近代・現代社会が可能となっているという事実に過ぎないのだ。
 その上に、私たちの相互行為における感情のやり取り、感情労働へのこだわりと利潤ないしは排除・統治という課題が浮かび上がってくるだろう。前述した、感情の他者性ということを自覚しているからこそ、われわれは感情労働を行わざるをえないし、またそこからの逸脱に敏感になる。
 ゴッフマンやホクシールドが明らかにしてきたように、私たちは日常生活において/労働場面において、さまざまな相互行為場面のセッティングや振る舞いを規定する用具、あるいは場の論理の中で感情管理を行っている。逆にそれを「上手く」行えない者に対する寛容さは薄れ、しばしば排除・「統治」の次元において、感情管理を行えないものは、「他者」として排除され、あるいは労働場面では何らかの過程で制裁を受けるという構図が立ちあらわれてくる。これが感情制御の第二の層と呼べるだろう。
 この地点から先が、感情労働と呼ばれうる特定の問題圏の課題であるといえるだろう。なぜならば、そこは「労働」の場面であるがゆえの感情管理に関するある程度の厳格さが求められるし、またそうであるからこそ、ある特定の感情を感受してしまう/させられることに関する困難が生じてくるものであるといえるからである。
 これまでの感情労働研究が明らかにしてきたように、感情労働における感情規則は職務における自己評価と密接に結びつく。だからこそ、バーンアウトや精神的な消耗といったこととも結びつく。
 ただ、それは感情規則からの逸脱→バーンアウト、といった単純な事柄だけではないだろう。職務であるがゆえに課される感情規則と、前述した自己の他者性とでも呼ぶべき感情のままならなさとの交差点でもありうるのだ。だからこそ、ケア行為を行う人々は──もちろん、それだけに限定されるものではないだろうが──ある種の感情を、クライエントとの相互行為の中で、まなならぬもの自己感情として感受していく。そのことによって、感情労働における感情規則としばしば折り合わない形においてまで、ケア行為を過剰なまでに行おうとしてしまったり、逆に全く行えなくなってしまったりすることが生じうる。
 これまでの感情労働研究は、これらの点への視点がいささか不足していたのではないだろうか。より具体的にいうならば、感情規則を起点とし、それへの順応/逸脱のみに注目しつつ、感情労働が自己に与える肯定的/否定的効果やそれに応じた自尊心やバーンアウト、といった事柄にのみ注目しすぎていたのではないだろうか。
 もちろん、これらの研究が全く意味をなさないということではない。過去・現在の感情労働研究の蓄積からみると明らかである。感情労働における感情規則の強弱や監視の程度・度合い、感情規則の重層性、感情規則と他の規則との不整合性など、さまざまに豊かな知見をもたらしてきた。そして、そのことによって現代社会におけるサービス産業、介護・看護の困難を暴き出してきた功績は正当に評価されるべきものであろう。
 ただ、むしろ問題は別の方向にもありえることを指摘したい。それは、感情規則からの順応/逸脱といった事柄ではなく、むしろケア行為において──もちろん、こうした場面だけではないだろうが──感受される自己感情のままならなさ、そしてそれによって行われる相互行為や対人援助の過剰/過小、あるいはクオリティといった問題により視点を向けるべきではないだろうか。
 本企画におけるP・スミス氏、H・カウイ氏が提起した問題は、英国における感情労働、あるいはその概念史にとどまるものではないだろう。むしろこのような、自己の内部の他者性とでも呼ぶべき、自己感情のままならなさから生じる問題であったように思う。
 この観点からみた場合、P・スミス氏の研究報告は、「三つのE」という考え方を起点とし、対人援助場面における自己感情のままなさなさと、組織として要請される効率性・公正性との整合性をいかにつけるか?という問題提起であろう。また、H・カウイ氏の研究報告は、NHSという組織において、自己感情のままならなさに起因する暴力やいじめに対してどのような対処が個人的・ないしは組織的に可能でありうるのか? という問題提起であろう。
 繰り返しになるが、これらの点は感情労働研究では殆ど提起されてこなかった。しかし、これまで述べて来た感情制御の三層構造が交差する地点で、折り合いをつけなければならないものとして感受されてしまう、自己にとってままならない他者性としての感情であり、それらにどのように対処すべきか?といった点は、少なくとも職業上の感情労働から反転してきて生じるものであるがゆえにこそ、単にその事実性を指摘するだけではなく、その先をも見通すべき課題なのではないだろうか。次節では、これらの点について感情労働という概念がいかなる有効性を持ちうるのかを、いくつかの議論を手がかりとしながら、考察を加えていく。

3 感情労働概念の多様性:多様性と暴力

 前述したように、感情労働は必ずしも、企業・組織体が定めた感情規則に沿って行われるわけでもなければ、またその強制によってだけ、感情労働における自己感情からの疎外が生じるわけでもない。むしろ、ある種のケア行為を行う際に感受してしまう、自己の内なる他者としての感情のままならなさと折り合いをつけ、ケアを行っていくのかがもう一つの大きな課題となるだろう。 
 この点について、組織論の観点からケア・看護を研究しているボルトンは、感情労働はそもそも、ホクシールドが提唱しているように感情労働者ばかりが行うのではなく、しばしば、その受け手であるクライアントとの相互行為における互酬的な関係を持つものとしてとらえるべきだと主張している。
 彼女は「感情管理はいつも単に賃金のために売られるのではなく、しばしば相互にとって“贈り物”(gift)として遂行される」[Bolton, 2000a, p.162]と述べた上で、感情労働について・「金銭的なやり取り」(pecuniary)、・「規範的」(prescriptive)、・「感覚的」(prescriptive)、・「慈悲的」(philanthropic)、といった区分が必要である、とする[Bolton, 2000a, 2000b, 2003, 2005]。
 このうち・と・は、従来ホクシールドの感情労働概念で議論されてきたことであり、企業組織体が要請する感情規則にしたがった振る舞いをせざるをえず、それを金銭的な報酬に還元することによって、自己感情の葛藤を処理するありさまを指す。
重要なのは、・と・の側面であろう。ケア行為を行う中で──もちろん、ケア行為だけにとどまらず、ある意味で感情労働といった側面を含む行為全てにも含まれうるだろうが──感受される自己感情は、決して感情規則や感情文化といった概念だけでとらえきれるものではない。むしろ、ボルトンが述べるように、感情労働者とクライエントとの相互行為が生起する中で、感情労働という概念からみるならば、いわば余剰とでも呼ぶべき、「感覚的」と形容されうるままならない自己感情といった側面を常に含みこみうるのである。
 この種の自己感情を「社会学的」にとらえようとする試みは、当然ありえるであろうし、また感情社会学のいわば「傍流」としてしばしば試みられてきたものでもあ。しかし、さらなる問いとして浮かぶのは、ボルトンが述べるように、それが必ずしも「慈善的」なものばかりであろうか、という点である。感情労働という概念がケア・看護に導入されて以来、ケア行為においては、ケア遂行者──クライエント間の関係の中で「贈り物」としての感情労働がなされ、それ故にしばしばホクシールドが述べる意味での疎外を含まない、という主張は存在してきた/い。
 もちろん、そのような側面がありうることを否定することはできないし、次節で述べるように、社会意識としてそうした感情を持つように仕組まれている側面はある。ただ、こうした主張ばかりでは、まずは感情労働論という側面からみるならば、アンペイド・ワークといった主張を見落とし、かつそれにはまってしまうのみであろう。
 むしろまず問題とすべきなのは、「感覚的」と形容されうるままならない自己感情が持つ「慈悲的」な側面ではなく、それが持ちうる暴力性なのではないだろうか。ケアを行う人々は、もちろんまずは「慈悲的」な感情労働を行おうとするだろうし、また、受け手もそれを行おうとするであろう。だが、それのみを強調することには二つぐらい問題があるように思える。
 第一には、いうまでもなくそれがある意味で規範化されることにともなう困難である。「慈悲的」に感情労働を──その「与え手」ばかりではなく、「受け手」も──行おうとつとめればつとめるほど、それは感情労働論で指摘されてきたバーンアウトにつながりうる。
 第二には、さらに「慈悲的」であろうとつとめればつとめるほど、それが破綻した際に反動として生じうる暴力性である。エリアス学派が指摘するように、近代・現代社会は感情を制御することを要請するが、他方では感情の解放・感情が持つ暴力性を表しうる空間を用意してきた。それが不在である中で「慈悲的」な側面ばかりを強調することは、ケア行為の中で感受されるままならない自己感情の解放の回路を閉じ、場合によってはその暴力性の突発的な現れへとつながってしまうことになる。その危険性は、P・スミス氏、H・カウイ氏の研究報告の中で示された通りである。
 その上で、ケア行為におけるままならない自己感情をどのように扱うべきであろうか。まず第一には、当然のことながら企業・組織体によるケア行為者間でのピア・サポート、ないしは企業・組織内部におけるスーパーバイザーや上司によるサポート・システムの充実であろう。このことは看護・ケア論の中で繰り返し指摘されていることであるがその重要性は指摘してしすぎることはない。
 第二の方向性としては、たとえば岡原が指摘するように[岡原, 1988]、常にままならない自己感情を、ケアの与え手──受け手双方が表出しあうという方向性である。もちろん、こうした行為はしばしば感情労働概念にとってはその破綻・破壊へと至ることもありうるだろう。しかし、もしかしたらそうした行為こそが感情「労働」と呼べるものなのかもしれない。
 なぜならば、前述したように感情労働は、決して企業・組織体による感情の強制とその応答だけにとどまるものではなく、「感覚的」と形容されうるようなままならない自己感情をいかに制御・ないしは「上手く」コントロールしていくか?という問いも当然ながら射程に収めなくてはならないからである。この点についてブライナーらは、心理学の立場から、感情労働ではしばしば企業・組織体と感情労働者、ケアの与え手と受け手等々が感情を表出し、それをフィードバックしていく仕掛けが必要である、と強調している[Briner&Conway ,2005]。
 この方向性は、やはり相互行為の偶有性に依拠したものであり、そこには、ケア行為そのものの破綻、といった可能性も含みこまれてしまうかもしれない。さらには、企業組織体──ケアの与え手──受け手といったフィードバック関係の中でのズレが絶えず生じる可能性もまたある。だが、それら総体を含めて、感情労働を考える必要があるのではないだろうか。たとえそれが感情労働の「成功」につながらなくとも──もちろん、過剰な精神的負担やバーンアウト等は避けられなければならないだろうが──感情労働の総体を把握するためには更新され、考慮に入れられる点なのではないだろうか。
 だが他方では、このような形でままならない自己感情を処理・ないしは対処していくことへのためらいもあるように思われる。前述したように、われわれは──特にケア行為においては──感情を、その否定性や暴力性を含めた形で表出したり保持することへのためらい、ないしは感情労働を丁寧に行うことの重要さと、そこでの肯定的な経験が強調されやすい。これは、どのような社会意識に起因するのだろうか。

4 感情労働を求める心性:「肯定的」であろうとすること

 このように、感情労働を尊重すること、そしてその肯定性が語られる理由としては、もちろん、第一にケア行為を行う人々の業務内容や、そこから派生してくる意識もあるだろう。多くの論者が指摘しているように、ケア行為を行う人々はその行為を「善」なるものとしようとするために、クライエントに尽くそうとするがために「巻き込まれ」(involvement)を起こしたり、逆に患者の感情を絶えず気にかけ、それをコントロールしようとし、そこでままならない自己感情を感受することなどがあ。
だが、それは果たしてケア行為だけに限られる事柄なのだろうか。私たち自身が──もちろん、程度の差はあれ──日常的に行っていることでもあるのではないだろうか。たとえば、私たちは友人が困難な状況にあっている際に感受するままならない感情に突き動かされ、何らかの行為を行おうとする。あるいは、たとえば近年の日本社会における「KY」といった用語の流通にみられるように、過剰なまでに「良き」感情労働を行おうとつとめることが要請されていたりする。
 もちろんこうした事柄は、ゴッフマンやホクシールドが指摘しているように、相互行為秩序の維持、あるいは感情労働を上手く行えない際に付される負のレッテルとしての「感情逸脱」(emotionla deviance)を避けるために行われているとみることもできる。あるいはエリアス学派の指摘にみられるように、インフォーマル化したがゆえに生じる複雑な感情制御の進展だとみることもできるだろ。
 だが、私たちが過剰なまでに「良き」感情労働を行おうとすることは、相互行為という次元、あるいは文明化という歴史的次元だけに還元されるものでもないだろう。相互行為という次元は、現代社会で感情労働の過剰さが求められる実態をつきとめるものであろうし、また、文明化という次元だけでみるならば、特に現代において求められる過剰さの内実を射程に収めにくい。
 そこで、その内実を示す一つの足がかりとして、「EQ」(Emotional Intelligence)という概念を元に考察してみたい。この概念は1995年にゴールマンの『EQ:心の知能指数』によって提唱され、その続編や類書を含め、世界的なベストセラーとなった。日本においても1996年に翻訳され、続編・類書を含めて爆発的な流行となり、現在でもその影響は続いている。
 この概念と「良き」感情労働を求める心性のつながりに注目した代表的な論者として、ファインマンがいる。彼が注目するEQの用法には二つのものがある。
 第一には、その内実は決して、ままならない自己感情への対処ではなく、むしろ「良き」感情労働へと感情を自閉化させていくことがある。彼によれば、EQとは決して、感情そのものに照準したものではなく、感受されうるままならない感情を企業組織体の効率性の下に還元していくものである。「EQとは、決して『感情』ではなく『知』(intelligence)に焦点が当てられた評価基準である。言い換えるならば、目標とされているのは思考と判断のプロセスなのである」[Fineman, 2000, p.110]。
 そのためEQの向上を唄うこと、あるいはそれのみ求めることには大きな危険性が潜む。なぜならば、感情労働において感受されるままならない自己感情は尺度化・数値化される中で縮減されていき、ただ「良き」感情労働を行うことを煽ることにつながりうるからである。その際には、ままならない自己感情は犠牲にされ、逆に企業組織体にとってのみ都合がよい場合にだけ活用されたり、さらなる利潤追求のための思考・判断の材料になるだけである。
 さらには、ままならない自己感情を感受させられてしまうことを自己にのみ帰責させてしまう側面もある。EQという概念にそぐわないようなままならない自己感情を感受してしまうこと、そしてそこで「良き」感情労働を行えないことは、前述したEQの特性──「良き」感情労働を行うことが尺度化・数値化されてしまうこと──から、容易に企業組織体によって断罪されうる。そしてそれは、EQという概念が表面上持っている、感情労働のスキルの向上、あるいはそれによって「健全」な感情を保つことによって巧妙に隠されてしまう[Fineman, 2000, 2001]。
 このように、「EQ」といった概念に代表されるような、「良き」感情労働を行っていくための概念や教育・訓練をただ提唱することには大きな危険性がある。それは、感情労働で感受されるままならない自己感情を、一定の型へと巧妙に縮減しつつ、それに耐えきれない心性を持つものを排除してしまう。
 それにも関わらず、なぜ人々はままならない自己感情を抱いてしまうがゆえに、「良き」感情労働を行おうとするために、「EQ」といった概念に代表されるような知を現代社会で求めてしまうのだろうか。
 もちろん、それにはこれまで述べてきたことと直結する答えが用意されている。感情労働で感受されるままならない自己感情と、企業組織体から要請される感情労働との整合性を切りひらく「知」がまだ用意されていないことがまずある。さらには、特に日本においては、ままならない自己感情をいかにサポートしていくかという、ケアする人々へのケアとでも呼ぶべきプロジェクトが未だ端緒であることや、企業組織体内部でのフィールドバック・システムが確立されていない、といったこともまたあるだろう。
 だが、このような「知」の不足、あるいは企業組織体の制度設計の問題だけに還元しうるのだろうか。これまで述べてきたように、われわれは感情「労働」という場面に限らなくとも──ボルトンが「慈悲的」と形容するような──「良き」感情労働を行おうとつとめてしまう。感情規則といった範囲を超えた、私たちが感受してしまうままならない自己感情を抱いたとしても、そしてそれが「否定的」なものであったとしても、「肯定的」な感情労働を行おうとしてしまう。このような心性もまた、EQといった概念に代表されるような感情労働のツールを求める社会意識と結びついているのではないだろうか。
 ホクシールドやファインマンは、こうした心性について、それぞれの観点から感情の表出・保持について親密性(intimate)や肯定性(being positive)が現代社会において強く要請され、そのような感情労働・感情管理を行うことが、現代社会における「宗教」と化していると述べる。
 ホクシールドは、親密であること・肯定的であることを示す語りや振る舞いを人々が演出することが、現代社会における関係性や自己評価の指標となっており、またそのような語りや振る舞いを導出するためのさまざまな知が商品として流通していると指摘している[Hochschild, 2003]。またファインマンは、EQという概念を足がかりとしながら──もちろん肯定的であることは、人々にとっても望ましいことでもあり、また前述した企業組織体でのフィードバック・サポート体制において重要な意味を持つという留保をつけながらも──「肯定的であることが企業組織体の利益につながるように、EQを通して人々を訓練し、またそのような状態へと感情労働者として形作ることが現代の企業組織文化、ひいては現代社会の脅迫的な要請である」[Fineman, 2006, pp.279]と述べている。
このように、自らが感受する自己感情を「肯定的」なものに保とうとすることは、必ずしも感情労働という場面だけに限らず広く現代社会において広まっている。
 もちろん、ホクシールドやファインマンが慎重に留保をつけているように、それそのものは人々にとって望まれるべき状態でもある。また、P・スミス氏が講演の中で述べていたように、企業組織体の中での効率性・有効性・公正性を保つために、時と場合によっては、あえてそのような振る舞いをすることが重要であることも論を待たないだろう。
 だが、他方で残るのは、これまで述べてきた感情労働において感受されてしまうままならない自己感情が、果たしてこうした方向性にのみに回収されるべきか、という問いである。常に何らかの「肯定的」な感情を感受することが要請される社会、逆に何らかの「否定的」な感情を感受することが許されにくい社会に、私たちは生きている。
 そこで利得を得ているのは、心理主義や医療化批判の立場からみるならば、臨床心理学的な「知」であったり、「肯定的」な感情を作り出す娯楽・製薬産業などの物理的な利得を得る立場にある人々へと還元されていくだろう。あるいは、「肯定的」な感情を持つことによって効率性があがったり、いわゆる感情労働を要請する企業組織体などへも還元されていくだろ。
 だが、現代社会において「肯定的」な感情を感受することが要請されることの利得は、このような単線的な話だけにとどまるものではないだろう。第一には、これまで述べてきたように、それは他方では人々が望むものであり、いわば「肯定的」な感情労働へと積極的に動員されていくという側面がまず指摘できるだろう。感情労働に──もちろんそれだけに限られたものではないが──人々が自発的に動員され、積極的に「疎外」されていくといった、現代の統治理論へと接合されるべき回路がまずありえ。
 さらに、それをも踏み越えた大いなる仕組みもまたある。それは、感情労働で感受される多様なままならぬ自己感情を、「肯定的」なそれへと縮減していくものである。そこで利得を得ているものは感情労働者でもあり、また社会そのものでもある。
 ままならぬ自己感情を「肯定的」な感情へと転換・縮減することは、確かにケア行為に携わる人々に対して有効なものであり、そうした体制を構築する必要があることは論を待たない。だが、それが多様に感受される自己感情を単に「肯定的」であることへと縮減することにとどまることは、かえって三節で述べたようなフィールドバック・システムの構築を阻害するだけではなく、ケア行為に携わる人々が感受してしまう多様な感情を踏みにじるものであろう。
 そこで利得を得るのは、ケア行為にともない感受される多様なままならぬ自己感情を──もちろん、感情だけにとどまる問題ではないが──単線化することにより封じ込めることを通して、ケア行為のままならなさを封殺し、その困難さに直面しすることを回避しようとする制度・政策、ひいてはわれわれの心性なのではないだろうか。そして、それこそが現代社会における感情労働による疎外の形態なのではないだろうか。

5 終わりに:感情労働概念の再編成に向けて

 この企画を通した上で、感情労働概念を再定義する方向性について私からの二つの視点を再確認しておきたい。
 第一には、感情労働という概念は、ホクシールドが当初提唱したある特定の感情経験の表出・保持が強制されることにともなう困難と疎外、といった図式を踏み越えて用いられるべきだと考える。これまで述べてきたように、従来の用法での感情労働という概念を用いてケア行為を分析すること──もちろん、この種の分析は重要であり、現代においてもなお有効であることはいうまでもないが──には一定の限界がある。感情規則という概念とそれにともなう感情労働という視座を大きく踏み越えた多種多様な、ままならぬ自己感情をいかに記述し、その様態をまず精査する地点へと立ち返るべきである。そのためにこそ感情労働という概念は、ブルーマーが述べる意味での感受概念として用いられるべきであろう。
 第二には、感情労働における疎外、といったテーゼも再定義されるべきであると考える。ホクシールドが当初意図していた、感情労働におけるある特定の感情表出・保持の強制とそれにともなう自己感情からの疎外、といった考えだけに自閉するべきではない。むしろ、現代社会で生じているのは、感情労働といった相互行為を踏み越えた地点で、ケア行為に携わる人々、ひいては私たち全てが感受するままならぬ多様な自己感情を「肯定的」な感情へと縮減していく作用である。
 このように、多種多様な感情から疎外されてしまうこと、そしてそれに抗い、いかに感情労働のままならなさを受け止めつつ、かつそれを支える体制の重要さを説いたのが、P・スミス氏の研究報告であろう。また他方で、多種多様な感情の複雑性から生じるハラスメントをどのように受け止め、かつ介入・解決していくことの重要さを説いたのが、H・カウイ氏の研究報告であろう。
 本企画を通してわれわれが考えるべき事柄は、感情労働という概念についてホクシールドのフレームワークを越えつつ、ケア行為の中で感受されるままならぬ自己感情を、いかにその多様性をそこなわない形で寄り添う方向性、あるいはそれを堅持しつつ、ケアする人々へのケアと形容しうるプロジェクト・体制を構築することにあるのではないだろうか。


◆註
(1)これらの論点については、職種間での差異や、感情労働が疎外をきたさない要件などが議論されてきている。詳細は拙著[崎山2005]を参照されたい。
(2)このように、「感覚」と形容されうるような感情を、むしろ感情「社会学」の対象としようとすべきだ、と論者たちもいる。代表的なものとしてはデンジンの現象学を取り込んだ研究や、エリスの「感情的社会学」(emotional sociology)などがある。それらをまとめたものとしては、拙稿[崎山2007]がある。
(3)代表的なものとしては、ヒメルヴァイトの論考[Himmelvite, 1999]などがある。
(4)「巻き込まれ」の可能性を指摘した論者には、たとえばヤナイや[Yanay, 1999]やミラボー[Meerabeau, 1998]らがいる。逆に、患者の感情をも統制しようとする傾向を指摘した論者には、フォックス[Fox,2000]などがいる。詳細は拙著を参照されたい。
(5)エリアス学派の基本的な主張は、文明化論におけるエリアスの感情制御の増大が文明化 と同時並行的に生じるという立場の後に生じた、感情制御の弛緩を、「コントロール化された脱コントロール」(controlled decontolling of emotional control)[Wouters, 1986, p.3]とみなし、むしろより高度かつ複雑な感情制御が自他の差異化の指標となっていくというものである。
(6)これらの論点の整理と、その暴露効果が持つ可能性と限界については、拙稿[崎山, 2008]を参照されたい。
(7)このように、感情労働を欲する心性により人々が積極的に「疎外」されていく有り様を現代統治論から記述したものとしては、たとえば渋谷の論考[渋谷, 2003]がある。

◆文献
Bolton, S. C., 2000a. “Who cares? Offering emotion work as a ‘gift in the nursing labour process”. Journal of Advanced Nursing, 32-3, pp. 580-586.
────2000b,“Emotion Here, Emotion There, Emotional Organisatios Everywhere”, Critical Perspectives on Accounting, 11, pp.155-171
────&Boyd, C. 2003, “Trollet Dolly or Skilled Emotion Manager? Moving on from Hochschild’s Managed Heart”,Work Employment Society 17-2, pp.289-308.
────2005, Emotion Management in the Workplace, Palgrave.
Briner, R. B. &Conway, N. 2005, Understanding Psychological Contracts at Work; A Critical Evaluation of Theory and Research, Oxford University Press.
Fineman, S. 2000“Commodifying the Emotionally Intelligent”, in Fineman, Stephen (ed.)Emotion in Organization Second Edition,Sage., 2000, pp.101-114.
────2001 “Emotions and Organizational Control”, in Roy L. Payne & Gary L. Cooper (eds.) Emotion at Work Theory, Research and Applica-tions in Management, John Willy&Sons., 2001, pp.219-240.
────2004 “Getting the Measure of Emotion-and the Cautionary of Emotional Intelligence”, Human Relations, 57-6, pp.719-740.
Fox, N. 2000 “The Ethics and Politics of Caring: Postmodern Reflec-tions”, in Williams, Simon, J., Gabe, Jonathan, and Calnan, M. iceal, (eds.)Health, Medicine, and Society: Key Theories, FutureAgendas, Roultledge, pp.333-349.
Himmelwelt, S. 1999 “Caring Lavor”, Steinberg, Ronnie,J. & Figart, Deborah, M.(eds.) The Annals of the American Academy of Political and Social Science: Emotional Labor in the Service Economy, Sage., pp.27-38.
Hochschild, A. R. 2003 The Commercialization of Intimate Life: Note from home and work, University of California Press.
Meerabeau, L. & Page, S. 1998“Getting the Job Done: Emotion Management and Cardiopulmonary Resucitation in Nursing”, Bendelow, G. & Williams, S. J. (eds.)Emotions in Social Life:Critical Themes and Contemporary Issues, Roultledge., pp.295-312.
岡原正幸1998『ホモ・アフェクトス:感情社会学的に自己表現する』世界思想社.
崎山治男2005『「心の時代」と自己:感情社会学の視座』勁草書房.
────2007「感情「社会学」という暴力:生きられた感情経験をめぐって」『立命館大学産業社会学論集』41-3, pp.25-37
────2008「心理主義化と社会批判の可能性」崎山治男他編『〈支援〉の社会学:現場と向き合う思考』青弓社, pp.164-185. 
渋谷望2003『魂の労働:ネオ・リベラリズムの権力論』青土社.
Yanay, N. & Shahar, G. 1998 “Professional Feeling as Emotional Labor”, Journal of Contemporary Ethnography, 27-3, pp.346-373
Wouters, Cas. 1986 “Formalization and Informalization: Changing Tension Balances in Civilizing Process”, Theory, Culture, & Society, 3, pp.1-13.



崎山 治男 20090319 「「感情の用法:感情による用法──感情労働概念の再構築に向けて」」 安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働――異なる学知の交流から考える』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,pp.145-163.



UP:20090911 REV:
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