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コメント「『動物からの倫理学入門』の一つの読み方――倫理・正当化・正義」

京都生命倫理研究会 伊勢田哲治著『動物からの倫理学入門』合評会
於:京都女子大学 20090321
野崎 泰伸


コメント「『動物からの倫理学入門』の一つの読み方――倫理・正当化・正義」
野崎泰伸(立命館大学グローバルCOE生存学創成拠点ポストドクトラルフェロー)


「倫理」の位置

 私たちは、何がよい行為であり、何が悪い行為であるのかについて気にかけながら生きている存在である。もう少し正確に言うと、四六時中そんなことは通常考えないし、それでよいとも思う。ただ、何かしら判断や決断を求められたとき、それらをよいか悪いか決定する基準(を考えるための)がほしくなるし、そのうえでできればよい行為を行いたいと願うのが心情である(1)。
 私たちは、倫理学が追求すべきものの一つの要素として、「行為に関する判断やガイド(について考えさせるようなもの)」というものを、あまりにも自明なものとして受け入れすぎているのではなかろうか。そして、その結果として、倫理学の仕事の一つとして、「行為を正当化する判断基準」を議論することであるとされ(2)、多くの論争が起こっているように思えるのである。
 古来より哲学者たちは、「私はどう生きればよいのか」について考え、自説を開陳し、議論を展開してきた。この問いには、実は二種類の問いが混濁している。一つには、「私はどういう行いをなして生きれば道徳的によいのか」という問いであり、もう一つには、「私はどうすれば「よく生きる」ことができるのか」という問いである(野崎 [2007])。「よく生きる」とは、「道徳的によい行いをすること」ではなく、「“いい人生でしたね”とひとからも祝福され、自分でも“これでいいのだ”と肯定できるような生を歩む、ということに他ならない」(大庭 [2006:v])。
 現代においては、この前者の問いが肥大化してきているように私には思われる。その背景を問う問い、すなわち「なぜ倫理学という学問は「行為の道徳的価値判断の正当性」に焦点化して議論されるようになったか」という問いは、歴史学的手法によって解かれるべき興味深い問いであると思うが、今回は趣旨には合わないので割愛する。もし私の推測が事実として正しいとすれば、その一つの要因には急速に発展してきた医療技術による医療資源の分配の問題があるだろう。もう少し雑駁に言えば、とりわけ「いのち」にかかわる、特に緊急に判断を下さなければならないなかで、どういう判断が「正しい」とされるか、またその根拠は何か、ということが主題化されてきたのであろう。そしてそのなかに、「財の希少性」の問題も、「動物のいのち」の問題も含まれる、という構図なのではなかろうか。
 価値判断など無用だ、などと述べているのではない。むしろ私も価値判断は倫理学が示すべき重要なものであると考える。ただ、その手前において、言い換えれば上述した「私はどう生きればよいのか」について分岐するそのまさに地点において佇んでみる必要があろうとも思っている。本稿ではそれを試みる。

形而上学/分析哲学?

   「日本で言えば、和辻哲郎という哲学者は『人間の学としての倫理学』という本を書い
   た。(中略)和辻先生本人はそこで形而上学に向うのだけれども、わたしにはよく分か
   らないのでここではそれはやめておいて、…(後略)」(p.99)

 『動物からの倫理学入門』では、功利主義を中心にしながら、義務論、徳倫理学、あるいは厚生経済学や社会契約、動物解放論や菜食主義などの倫理学的主題が詳述されている。そして、それらはどちらかと言うと英米圏の現代倫理学、つまり分析哲学の系譜に属するものである。
 ところで、私は常々哲学、あるいは倫理学を研究するというとき、形而上学と分析哲学の二つでセットのような感じを持っている。イメージ的に言うならば、分析哲学は人間の外延、すなわち言語を哲学の主な研究対象とし、形而上学は存在(の理由)をそれとする。加えて言えば、この「言語と存在」をめぐっては、「社会構築主義」に関する社会学者の研究もあり、社会学においても議論になっているところである(3)。確かに、分析哲学は、言語の/言語による論理的な分析を守備範囲としており、それは言うまでもなく哲学や倫理学研究において必要なものである。ただ、そのことは「分析哲学だけをやることが哲学・倫理学研究である」ということを意味しない。言語分析だけでは、言語を分析する当人の存在については論理的に分析は不可能である。形而上学が奇妙な心理学と結託し、論理的整合性に欠けるような人間学を作ってしまうならば、確かに問題であろう。しかしながら、分析哲学の没主体的だとも思える態度もまた、問題ではないか。なにより、言語を発するのが主体であるところの身体(の物質性)であり、行為として言語によって名指されるところの行動を起こすのは主体に他ならないではないか。すなわち私は、論理的明晰さを与えてくれ、認識というものを言語分析によって明確にする分析哲学と、言語を使用し、言語によって指し示されるような「主体」の内実を問う形而上学をうまく接合できればよいと思っている。その意味において、「形而上学/分析哲学」のような荒い二分法には問題があると考えている。いわゆる「分析形而上学」というのもあるが、これは私の目指しているものとは少し違うような感を受ける。

正当化にはどういう問題点があるか

 さて、ある行為を正しいかどうか判断するということを行うためには、それが拠って立つところの基準が必要である。それでは、なぜその基準が正しいと言えるのか。たとえば、徳倫理学、義務論と帰結主義は、それぞれ行為の正当性を行為の性格・動機、行為の意図、そして行為の帰結によって判断しようとする(pp.8-9)。つまり、行為の正当性の着眼点に関してこれら三つの間では相違があるのであり、「ある着眼点をもって行為の正当性をはかる」という営為はどの立場も同じである。「行為の正当性」によって価値判断を下すことに一定の意味があることを私は認めるが、完全にそれでうまくいくとは思えない。ではなぜ、私は「行為の正当性」を求める姿勢に完全には乗れないのか。
 一つには、正当化すなわち根拠を問う営為に不可避の無限背進の問題があるからだ。たとえば、「人を殺してはいけない」というとき、その理由として「自分が殺されたくないから」というものは、有力なもののうちの一つであろう。ただし、これに対して「自分は殺されてもよい」と言う人が現れるなら、その理由は破たんする。正当化の理由に納得できない人がいた場合、正当化の作業を続けていけば、それは原理上無限に続けられねばならない。それを回避しようとすれば、どこかで打ち切りにせざるを得ず、結局「XだからXである」という同語反復を避けることはできない。
 正当化の作業に意味があるとすれば、こうして同語反復となった命題を公理とする公理系を作ることに関してであり、その意味において、もうこれ以上正当化できない命題はドグマと化す。ちょうど、幾何学における平行線の公準のように、平行線と交じりあう一本の直線が作る向かい合う内角の和が180度か、180度より小さいか、180度より大きいかによってまったく違った幾何学が得られるのに似ている。端的に言えば、「人を殺してはいけない」という世界に住む人と、「人を殺してよい」という世界に住む人とは、住む世界が違うのである(4)。ドグマ同士の争いであるから、最終的には決着がつかず、決着をつけるために殺し合いになってしまうかもしれない(5)。
 いま一つには、正当化という営為にはどうしても自己欺瞞的な側面がついてまわるからである。たとえば、理論の内的整合性は私も大切だと思うが、そのために意識や感覚がない――「人格」ではない――人間(や動物)のいのちについて、生きていても(苦痛を感じないように)殺されてもかまわないと言うのは、私には許し難い(これも「ドグマ同士の争い」である)。これは「正当性」の問題ではなく、あくまで「周りの者の都合」と考えるべきではないか。つまり、「誰を殺してよいか」という線引きができないものとして、できるだけ殺さないようにすべきだが、ときには殺さざるを得ない、そう考えるよりないのではないだろうか。人間/動物、人格/非人格という線引きの種類ではなく、線引きの正当化という思想そのものに疑問を呈しているのである。
 私のような「線引きの正当化はできない」という立場は、殺してはいけないにもかかわらず、現実には殺してしまっているという、理論上一見すると矛盾するような困難を引き起こすように見える。だが、現実に殺すということと、殺すという行為を正当化するということは違うことである。理論的にも矛盾がないようにする、つまりこの立場の内的整合性を保とうとするならば、「倫理的には正当化などできないが、殺す」という道が残されているのではないか。このとき、「殺すな」という倫理的要請には答えていない、裏切ることになっているのだから、「悪をなしている」ということになるだろう。すなわち、こういうことである。私たちは生命に関して線引きを現実的にはするし、しなくては生きてはいけない。ただそれは、私たち自身の都合でしかない。線引きは「現実的にはなされるものだが、その倫理的な根拠づけはできない」ものとして粛々と行われるべきものではないだろうか。そしてもちろん、「私たちの都合」によって殺される生命がなるべく少なくなるように社会の制度は整えられていくべきである。言い換えれば、社会がどんなに変わったとしても、悪をなす生があるかもしれないが、それでも、行わざるを得ない悪を最小限にとどめられるような社会の仕掛けは作られるべきである。

正当性の宙吊りと正義

 それでは、私はどういう社会が正しいと考えるのか。それは「どのような生も無条件に肯定される」ような社会である。不法滞在の移民の生も、重度の知的障害者の生も、ゴキブリの生も、アメーバの生も、無条件に肯定されるべきである。そして、そのような社会が、正義の社会であると私は主張するのである。なぜそうした社会が正義の社会と言えるのか、という根拠はない。そこにあるのは、こういう社会を正義だと考えるという決断なのである。こうした正義は、ある種の宗教性を帯びるものかもしれない。
 「生の無条件の肯定」とは、誰のどのような状態の生でも、「生きていてよい」というテーゼである。誰が誰の生を肯定するのか、ということではなく、生は、現にあるもの、あってしまうものとして肯定されるべきだと私は述べているのである。重度の障害者、痴呆性高齢者、パーキンソン病患者、ALS患者、がん患者、などなど、みんな生きていてよい。生きて、その人が十全な生を享受できるように、社会のほうが変わるべきなのだ。原理的にはそう考えるのが「生の無条件の肯定」である。そのためにこそ、財源が分配されるべきなのであって、誰か特定の状態をさして「この生を生かしておくコストは無駄だ」ということがあってはならない。逆に言えば、50万円あれば十全な生を送るに事足りるところに100万円を分配する必要はない。余った50万円は別の十全な生を送るに事欠く者に分配すべきである。それをコスト計算だというならば、そのようなコスト計算はなされるべきである。だが、50万円必要なところに30万円しか分配しないということは絶対にあってはならない、ということである。つまり、すべての者が十全な生を享受できるためのコスト計算はむしろ奨励されるべきだが、コストを盾にして特定の状態の生をないがしろにすることがあってはならないのである。
 けれども、現実的に考えてみれば、「生の無条件の肯定」を貫くことは、きわめて難しいことであるのは言うまでもない。それは、「無条件に他者の生を歓待する」ことを明らかに含んでいる。しかし、「あなたの生を無条件に肯定しますよ」と、面と向かって言える者がいるのであろうか。夜中に誰か見知らぬ者を家に受け入れる=歓待することを、できることなら避けて通りたいと思うのが普通だろう。そして、こうした現実を直視せずに、ただ単に「生を無条件に肯定せよ」と言うならば、それは無責任というものであろう。私たちが自分自身の、あるいは他者の生を肯定しようとするとき、多かれ少なかれ、条件つきであらざるを得ないのが現実である。
 しかし、実行不可能であるならその企図をあきらめるべきなのか。「生の無条件の肯定」の定立を私たちは断念しなければならないのだろうか。そうではない。その企図の実現が無理である、そういうものとして「生の無条件の肯定」をこの社会における正義として要求したいのである。それは、「不可能なるものの経験」としての正義である。
 こうした正義の不可能性をめぐっては、デリダの思考を導きに説明し得る。

   「私たちは夢想家ではありません。この観点からすれば、どんな政府や国民国家も、
   その境界を完全に開くつもりがないことは承知していますし、正直なところ、私たち自
   身もそうしていないことも承知しています。家を、扉もなく、鍵もかけず、等々の状態
   に放っておきはしないでしょう。自分の身は自分で守る、そうですよね? 正直なとこ
   ろ、これを否定できる人がいるでしょうか? しかし私たちはこの完成可能性への欲
   望をもっており、この欲望は純粋な歓待という無限の極によって統制されています。も
   しも条件つきの歓待の概念が私たちにあるとしたら、それは、純粋な歓待の観念、無
   条件の歓待があるからです」(パットン・スミス編 [2001=2005:123])

 つまりは、実現可能性という意味において正義の完遂は無理である。しかしながら、そういうものとして、正義を措定しておかなければならない、正義とはそのようなものなのである。実現不可能な正義に向かって私たちは実現可能なことを行い、正義に漸進的に近づいていくのである。デリダはそう述べている。

   「私たちは法や法体系を改善することができます。改善することは脱構築することを意
   味します。それは法の以前の状態を批判し、それをよりよいものに変えるためです。他
   方で、人が法をその名において脱構築するところの正義は、脱構築可能ではありません。
   ですから、法と正義という二つの異質な概念、別の言い方をすると、二つの異質な目的
   があるのです。 けれども、両者間のラディカルなこの異質性にもかかわらず、両者は
   不可分です。(中略)なぜなら、正しくありたいならば、法を改善しなければならないか
   らです。そして法を改善する――つまり以前の体制を脱構築する――とすれば、それ
   はより正しくあるためであり、正義に向かうためです。(中略)しかしもちろん、それは
   正義には適っていません。(中略)それは十分ではありませんが、しかし何もないよ
   りはましです。このように脱構築は進行します。それは終わりのない過程でしょう。両
   者の対立のない――正義が法に対立せず、法が正義に対立しないといった――差異性
   や異質性は、永遠に開かれたままでしょうし、永遠に還元することはできないままでしょ
   う。正義は脱構築不可能だと私が言うのはこの意味においてです。なぜなら私たちが脱
   構築するのは正義の名においてであり、人はその名において脱構築するものは脱構築で
   きないからです」(パットン・スミス編 [前掲書:103-105])

 私たちが正義という極にひかれてなすべきこととは何か。それは法の脱構築である、そうデリダは述べる。無条件性としての正義は、法という条件つきのものには到底書き込めない。その意味において法と正義とは峻別されなければならない。デリダに添う形で私の正義論を述べれば、「すべてのひとが十全に生を享受することが、無条件に肯定される」ためにこそ、法が必要なのであり、また法の改良が必要なのである。もちろんここでいう「改良」とは、「すべてのひとが十全に生を享受することが、無条件に肯定される」ことに向けてなされるものである。
 さて、デリダの正義論によって、「正義としての生の無条件の肯定」という倫理体系が一層明確になってきた。それは私たちが決して経験し得ないものである。たとえば、医療現場において、瀕死の患者たちを限られた医療資源と時間で全員救うのは至難の業である。こう言ってもよいなら「不可能」であるだろう。しかし、全員の生を無条件に救うことを、たとえ不可能であっても正義として立てておかない限り、部分的な救出さえ不可能である、そんなことを言っているのである。そのとき、部分的な救出、つまり現実にできることというのは妥協の産物でしかない。それは、どのような決定であっても現実になされる決定である限りにおいて決して正当化されないのである。
 ここで、デリダの「正義」の意味を再確認しておこう。

   「法/権利の、または――こう言ってよければ――法/権利としての正義の、この脱構
   築可能な構造こそが、脱構築の可能性の保証者にもなっている。正義それ自体はという
   と、もしそのようなものが現実に存在するならば、法/権利の外または法/権利のかな
   たにあり、そのために脱構築しえない。脱構築そのものについても、もしそのようなもの
   が現実に存在するならば、これと同じく脱構築しえない。脱構築は正義である」(デリダ
    [1994=1999:134])

 私たちが現実に何事かを決定していく中では、「完全なる」決定は不可能である。私たちの環境や社会的条件によって、決定は統制され、現実には妥協の産物としてしか実現しないかもしれない。それは、外国人の権利や、あるいは終末期医療におけるガイドラインなどを想起すればわかることである。どんな人であっても、生きることが権利であると認められているかと言われれば、法や指針のレベルにおいては現実にはそうであるとは言えない。そうでなければ、彼らはすでに人から排除された「人でなし」である。そう考えないことには、論理的に辻褄が合わない。ただ、そうであるとしても、「生きることが無条件に肯定されるということ」は、夢想できるであろう。
 法/権利の排他性は、ここにある。法を措定するということは、必ず「法によっては守られない者」の存在を露呈させるし、権利付与も、無権利な者との差異を図るためにこそ行われる。全員に権利があるなら、原理的に言って権利概念など不要であるはずだからだ。
 私たちは、現実には生命の線引きを行う。だが、だからといってそれが正当化されるわけではない。たとえば、私自身が生存するためには、他の生物を何らかの形で食らうほかない。しかし、「どの生物なら食らうことが正当化され、どの生物なら正当化されえない」という線引きによって画定することは、デリダの意味において正義ではない。正義とは、そのような形で現出しないし、いまだかつて現出したことのないものである。正義は、もしそのようなものがあるとすれば「来たるべき」ものである。正義がもし存在するとすれば、それは生を無条件に肯定するものでなければならない。

「正しく食べなくてはならない」――シンガーの菜食主義とデリダの「生命倫理学」

 シンガーは意識があるかないか、感覚があるかないかによってシンガーの言う倫理的配慮の対象であるかどうかを判断する。それゆえ、脊椎を持つ動物もシンガーにとっては倫理的配慮の対象者なのである。苦痛を感じるようなら、人間であっても動物であっても苦痛を減らさなければならないというのが、シンガーの倫理の原則だからである。繰り返しになるが、このように選好功利主義の立場をとるシンガー倫理学は、自己意識のある「人格」、感覚はあるが意識はない生、感覚もない生という三つのレベルで生命の価値を序列づける。
 だから、シンガーは脊椎を持つ動物を食べないという類の菜食主義が倫理的だと考え、実際にシンガー自身がそれを実践してもいる。なぜなら、脊椎を持たなければ、苦痛を感じることもないからである。このようにシンガーは、功利主義の立場から菜食主義を正当化している。たとえば、次の個所では、「動物を殺すことが正しいのか、不正であるのか」という問いを立てる。

   「ある存在が自分自身を時間的な広がりの中で存在する個として見る能力を持ってい
   ることを根拠として、そのような存在を殺すことに反対する議論は、人間以外の動物の
   あるものにも当てはまる。しかし、こうした動物の他に、おそらく意識は持っていても、人
   格であるとほんとうのところ言えそうにない動物がいる。人間が日常的に大量に殺して
   いる動物の中で、魚は意識があるが人格ではない、動物も明瞭な事例であるように見
   える。これらの動物を殺すことが正しいのか、不正であるのかは、功利主義的な考慮
   によって決まるように思われる。というのは、これらの動物は自律的ではなく、生きる権
   利を認められない――トゥーリーの権利の分析が正しいならば――からである」(シン
   ガー[1993=1999:145])

 動物を食べるということは、動物を殺すということでもある。この点において、動物を殺す正当性と、「動物を食べることは倫理的に正しいか」「どんな動物を食べるのが倫理的に正しいか」という問いは、直接的な関連をもつ。こうしたシンガーの「何を食べるのが正しいか」という問いに対して、真正面から「対決」するような思想を、デリダは主張する。デリダは、もし生き延びるために食べるということを行うのならば、それはどうあっても正しい、あるいは正しくあるべきだと言う。

   「さて今、生物と非生物の間の境界も、「人間」と「動物」の間のそれと同様、少なく
   とも対立的境界としてはきわめて怪しいものになり、「食べ=話し=内化する」(象徴
   的ないし現実的)経験において、倫理的な境界線はもはや、(人間を、汝の隣人を)
   「殺すなかれ」と「生物一般を死なせてはならない」の間に厳格に走っているのではな
   く、他者の概念〔=懐胎 conception〕=自己固有化=同化の、いくつもの、無限に異
   なった様態の間に走っているのだとすれば、その場合には、あらゆる道徳の善〔Bien〕
   に関する問いは、自己を他者に、また他者を自己に関係づける最良の仕方、もっとも
   尊敬に満ちた、もっとも感謝にあふれた、そしてまた、もっとも多く贈与する仕方を規定
   することに帰着するだろう」(デリダ [1989=1996:176])

 デリダはこのように述べ、「何を食べるのが倫理的か」というシンガー流の問いから、他者を「善く」自己の体内に取り入れる、あるいは自己を「善く」他者の体内へと取り入れられることに関する問いへと変換する。「いずれにせよわれわれは他者を食べるのだし、他者によって食べられるのだから」(デリダ [前掲書:177])、シンガー的な回答は、デリダに即せば回答にはなっていないことになる。「問題はもはや、他者を「食べる」のが、またどんな他者を「食べる」のが、「よい」〔=美味しい bon〕かどうか、あるいは「正しい」〔bien〕かどうかではない」(デリダ [前掲書:177])。デリダの言明からは、生命倫理学がともすれば陥りがちな「(食べてよい、という)境界線の画定とその正当化」によって道徳を基礎づけようとする態度を徹底的に排除しようとする姿勢がうかがえる。

   「道徳的な問いは、食べなければならないのは、あるいは食べてはならないのはこれ
   であってあれではない、生物か非生物か、人間か動物かということではない。かつて
   一度たりとそうであったことはない。そうではなく、いずれにせよとにかく食べねばなら
   ない〔il faut bien manger〕」以上、そしてそれが〈正しい=快適な〉〔bien〕ことであり、
   〈よい=適切な=美味しい〉〔bon〕ことであり、〈善〉〔le bien〕にはこれ以外の定義は
   ない以上、問題は、いかに正しく〔善く=適切に=快適に=美味しく〕食べるべきか
   〔comment faut-il bien manger〕ということになる」(デリダ [前掲書:177])

 つまり、「どの」他者を食べてよいか、ではなく、いずれ他者を食いながら生きざるを得ない以上は、真に道徳的な問いとは、「いかに正しく」他者を食らうか、ということである、そうデリダは述べる。さらに、「いかなる点で、なお肉食であるのか?」(デリダ [前掲書:177])を問い、「単に〈私〉にとってだけ栄養豊かであってはならない」(デリダ [前掲書:177])と述べる。すなわち、デリダにとって、他者と肉=栄養を分有することこそ、「正しく」食べることがまずもって意味することなのだ。「けっして自分だけで食べないこと、これが「正しく食べなくてはならない」の規則だ。それは無限の歓待の掟だ」(デリダ [前掲書:177-178])。
 このように、「食べる」ということは、他者を取り込むこと、同一化することである。つまり、一見他者を一方的に犠牲にするような「食べる」という行為は、このように考えることで自己同一化を経て他者を「理解=包摂」する契機となる。だからこそ、「他者に対する尊敬の崇高な洗練は、また「正しく食べること」あるいは「善を食べること」のある仕方でもある」(デリダ [前掲書:178])。こうして、「誰が」食べるのか、食べることによる「供犠」とは何なのか、このような問い自体がいわば狂気と化すのである。その意味において、「供犠」とはどのようなものかわからないようなものである。
 そのようなデリダの理解を踏まえれば、生命倫理学、とりわけシンガーのような「境界線の画定とその正当化」に主眼を置いたものは、「狂気」を「正常」へと差し戻す。正確にいえば、「供犠」とは、「狂気」であるべき殺害に他ならないのに、それにもかかわらずそれを隠蔽するために「狂気」であることを否認するという「正常化」なのである。

   「「供犠」というこの言葉を規定するための指標を一つだけ取り上げよう。致死の必要、
   欲望、許可、正当化、すなわち殺害の否認としての致死だ。この否認は言う、動物を
   死に至らしめることは殺害ではない、と。ぼくはこの「否認」を、主体としての「誰が」
   の、暴力的な制定に結びつけるだろう。強調するまでもなく、主体と生ける「誰が」の
   この問いは、現代社会におけるもっとも差し迫った諸々の不安の中心にある」(デリダ
    [前掲書:178])

 デリダは誕生/死/精子/卵子/代理母/遺伝子工学などの「生倫理学ないし生政治学」(デリダに言わせればそれらは「〈生ける主体〉とは何かの規定における、あるいはその保護における国家の役割はいかなるものであるべきか?」(デリダ [前掲書:178]))の取り扱いをその一例として挙げる。こうして、デリダの思想の生命倫理学への接近がよりいっそう明瞭になる。シンガーの言うような菜食主義も、植物のいのちを奪うことには変わりはない。あるいは、重度の障害を持つ者は生きていても殺されてもかまわない、とする考え方によって「殺害の否認」として「死に至らしめる」こともまた、このデリダの言明によって批判されよう。まさに、「〈生ける主体〉とは何か」、すなわち、そうしたメンバーシップを画定し、規定し、正当化することによって、「殺害」を巧妙に隠蔽しているのである。
 この結果、〈生ける主体〉から外されたメンバーを死に追いやることは、なんら悪いことではないということになる。言い換えれば、そのようにして作られた「正しい」ルールに則って生きていさえすれば、「後ろめたさ」も「責め」も感じなくてよいということだ。
 森岡正博は、このシンガーのような考えを、次のように述べる。

   「悪い行ないに手を染めないためには、どうすればいいか。そのためには、その殺害行
   為を理論的に「悪くない」と言いくるめてしまえばよい」(森岡 [2001:118])

 倫理的にどのような行為がよい行為か、どのような行為が悪い行為かを画定することに意味がない、とは私は思わない。ただし、行為のよし悪しをこのような正当化という手法によって判断するような思考法には、大いなる欺瞞がある。それは、この私が行ってしまった、あるいは行ってしまわざるを得ない「後ろめたい」行為とどう向き合うのか、という視点に欠落していることである。
 動物の肉を食らうとき、その動物を殺戮しなければ私たちの口には入らない。そのことを思えば、たとえ技術が発達して、功利主義的には問題なく「安楽」に殺すことができたとしても、その動物のいのちを奪うことには、私はどうしても後ろめたさを感じる。同時に、「では菜食主義であればよいのか」と自問するとき、「菜食主義は倫理的に正当化される」という言い方もまた後ろめたさを隠蔽するような物言いになると思うのだ。植物に自己意識も感覚もないとしても、太陽のほうへ向かって伸びる営為は、たとえそのスピードが遅くても、確実に生あるものだとは言えまいか。だとすれば、動物を殺して食べるのと同じ後ろめたさを、私は植物に対しても感じざるを得ない。
 そのうえで、私たちは何かを食らうことなしには生きてはいけない。つまり、私たちが生あるものを殺し、食べるということは、事実として「私が食らう生よりも、私の生のほうを優先している」ということである。私は、肯定されるべき生を殺し、食らっていることによってしか生をつなぐことはできない。肯定されるべき生を殺すことが悪ならば、私は悪を行っていることになる。ここを思考の起点にしよう、そう私は主張しているのだ。

   「私は、通常の規則にのっとって無条件の歓待をつくり上げることができないのです。
   だからこそ、原則的に、私は自責の念(a bad conscience)をもつわけです。私は、や
   ましくない気持ち(a good conscience)をもつことができません、なぜなら、私の家、
   アパート、国家、お金、土地などを私と共有したいと思う多くの人がいることを知りつ
   つ、私は自分の家の扉の鍵を閉めることがわかっているからです。けれども私は次のよ
   うに言います。無条件の歓待は、原則的にではないが、ときに、例外的に、起こるかも
   しれないと。私はそれが起こる瞬間を統制し、支配し、確定することはできませんが、
   それは起こるかもしれません。それは赦しの行為とちょうど同様です。なんらかの赦し、
   純粋な赦しが起こるかもしれません。確定的な、規定的な判断を行なって、「これは純
   粋な赦しだ」とか「これは純粋な歓待だ」と言うことはできません。認識の行為として
   見ると、規定的判断に相当する行為はありません。こういうわけで、行動や実践理性の
   領域は、ここでは、理論および理論的判断とは絶対的に異質なのです。しかし、たとえ
   私がそれ(=無条件の歓待)を知らなくても、それを意識しなくても、それを設定する
   ための規則をもたなくても、それは起こるかもしれません。無条件の歓待は制度ではあ
   りえませんが、それは奇蹟として起こるかもしれません……」(パットン・スミス編
   [2001=2005:124])



(1) 「私の考えでは倫理学とは、なにより、われわれになんらかのガイドを与えてくれる
  ことが期待されるものだからだ。我々は日常的にさまざまな選択を強いられており、優
  れたガイドと、またそのガイドの本性についての知識を必要としている。これが誰もが
  倫理学に関心をもたざるをえない理由でもある。倫理学者は「倫理とはどんなものか」
  とぼんやり抽象的に考えるだけでなく、まさに「わたし(たち)はどう生きるか」を理
  性的に考えねばならず、その際には、どのガイドが優れたガイドなのかを判断しなけれ
  ばならない。(中略)私はできれば自分の人生に適用できるガイドが欲しい」
  (江口 [2008:9])
(2) 「倫理学とは、「正しい行為」や「善いもの」「善いこと」とは何かということを筋道だ
  てて追求する学問なのである」(p.5)
(3) たとえば、天田城介は構築主義が「なぜ構築を言うのか」という問いに理論的に答えることが困難であるという(天田 [2004])。また、私の拙い記憶によれば、天田の集中講義の後に開催された研究会で、天田は「言語には回収され得ない何か」を「身体の物質性」だとし(天田 [2007])、構築主義ではかかる部分が不問になると述べていた。会場からは、「構築主義の不備を埋めるために、お手製の倫理学に陥ってしまっている」という反論もあったように記憶している。
(4) ただし、ここで排中律は前提・仮定されている。もちろん、排中律を前提にしない世界体系も可能ではある。しかし、排中律を仮定しない世界体系に、倫理的な意味はあるのであろうか。
(5) 「人を殺してはいけない」体系の中にいる人たちが人を殺すことについても後述する。


文献
天田 城介 2004 「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」,日本社会学会発行,『社会学評論』219号(Vol.55, No.3),223-243
―――― 2007 「<異なりの身体>を社会学する――老い・障害・病いに照準して」,スティグマとノーマライゼーション研究会
 http://www.josukeamada.com/bk/bsp070802.htm
Derrida, Jacques 1989 (=1996 鵜飼 哲 訳,「「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算――ジャン=リュック・ナンシーとの対話」,ナンシー編 [1989=1996:146-184])
――――――― 1994 Force de Loi(=1999 堅田 研一 訳,『法の力』,法政大学出版局)
江口 聡 2008 「品川哲彦『正義と境を接するもの』への質問」,生命・環境倫理における「尊厳」・「価値」・「権利」に関する思想史的・規範的研究会
 http://melisande.cs.kyoto-wu.ac.jp/eguchi/papers/sinagawa-care2008.pdf
森岡 正博 2001 『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』,勁草書房
Nancy, Jean-Luc ed. 1989 Cahiers Confrontation 20: Apres le Sujet qui Vient,(=1996, 港道 隆 他訳,『主体の後に誰が来るのか?』,現代企画室)
野崎 泰伸 2007 「どのように<倫理>は問われるべきか」,Web評論誌『コーラ』2号
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-2.html
大庭 健 2006 『善と悪――倫理学への招待』,岩波書店
Patton, Paul; Smith, Terry ed. 2001 Jacques Derrida: Deconstruction Engaged, the Sydney Seminars(=2005 谷 徹・亀井 大輔 訳,『デリダ、脱構築を語る――シドニー・セミナーの記録』,岩波書店)
Singer, Peter 1993 Practical Ethics 2nd.Edition(=1999 山内 友三郎・塚崎 智 監訳,『実践の倫理[新版]』,昭和堂)

*作成:岡田 清鷹
UP: 20090320 REV:
倫理/倫理学  ◇Singer, Peter  ◇Derrida, Jacques
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