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感情労働と他者

 西川 勝 2009/03/19
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20090319
安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働――異なる学知の交流から考える』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,248p. ISSN 1882-6539 pp.58-63



 こんにちは。大阪大学のコミュニケーションデザイン・センターから来た西川です。
 パム・スミスさん、カウイさん、どうもありがとうございました。
僕は大阪大学の特任教員で、もともと看護師なんです。看護師として、精神病院だとか血液透析、それから認知症介護の現場で働いてきました。つい3年前に、臨床哲学というものを学んだナースとしてコミュニケーションデザイン・センターに雇われました。
 臨床哲学というのは、従来の哲学とは違って、本を読んだりだとか、孤独な思索ではなくて、社会のさまざまな現場に行って、そこで対話をするというかたちの哲学を試みようしているという流れなんです。
 コミュニケーションデザイン・センターは、いわゆる社会のなかでいろいろあるコミュニケーション・ギャップというものを解決するためのコミュニケーション・スキルを教えるというよりは、コミュニケーションをさまざまに困難にしている「場」そのものを、どうデザインするかというようなことを実験的にいろいろ考えているセンターです。
 今日のお話を聞いて、僕はコメントというよりも自分のことで思い出したことがいくつかありますので、そのことを少しお話ししようと思います。
 スミスさんのご本のなかにも出てきたんですけど、イギリスのほうでは看護実習生が病棟の中で実際に働きながら研究をされていました。僕も、看護学校を卒業して資格を持ってから病院に入ったんじゃないんです。最初は無資格の看護助手というかたちで精神病院に入りました。だから最初は、まったく医学知識も看護知識もない普通の人間が白衣を着て鍵を持つという、そういうかたちで精神病院の医療のなかに入っていったわけですね。
 勤めてまだ間がないころですけれども、本当に、それまで社会から隔絶された精神病院の中身というのは想像することさえできなかったわけです。入っていった当初は、珍しさだとか、不気味さだとか、恐れだとか、さまざまな感情が自分のなかにわいてきましたけれども、こんな事件があったんですね。
 採血をするからということで、資格を持っている看護師たちは詰め所で採血の準備をしていました。僕が、「患者さんを呼んでこい」と言われまして、患者さんを呼びに行きました。なかなか来ない。それで、そこに行って話をします。そうすると、「おまえ、どこの馬の骨や」という感じで追いかけられて、僕は、もうびっくりして、怖くなって、詰め所に逃げて帰ってくる。そうすると、先輩ナースは笑っているわけですよ。「ふふふっ、やられたか」という感じで。
 そのときのことを、いま思い出しました。カウイさんのいじめの話にもありましたけれども、そのときに起きたことがいじめかどうなのか、ちょっと考えてみたいなと思います。
 いじめの話で思い出すのは、というかいじめというのは、だいたいみんな、いじめるほうが笑いながらしますよね、どっちかというと。1対1でいじめるということは、かなり対立的になって、それはものすごく目立つわけです。だから、そういうことがらは、あまり起きなくて、そのいじめられる一人以外はみんな笑っているという状況が、すごく特徴的かなという。
 そして、僕も、笑われたときに「えへっ」という感じで、やっぱりへらへら笑いをしてしまう。だから、そこで、ものすごい対立というのは感じられない。両方とも笑っている。でも、実際に起きているのは、助けを求めにきた、もしくは、患者さんがこんなことですごく興奮しているので僕の手には負えないと思って報告しに来たつもり。で、半ば助けてほしいというつもり、初心者ですからね。でも、そこで出会ったものが、みんなの笑いだったわけです。それを受けたときに、僕も怒ったりだとかではなくて、これは笑わないとしかたがないというかたちでごまかしてしまったということが、まずありました。
 それで僕は、その次から徐々に思うようになりました。ああいうかたちで自分がうろたえると笑いの種にされるだけだ。僕はまだ資格はなかったですけれども、ここで、つまり精神病院の中で白衣を着て、看護者という立場になるためには何が必要なのか、と。うろたえないということです。たじろがないという、どちらかと言うと、優しさを求める女性ナースというよりは、精神病院の男性看護師というものは、けっこう抑圧的な怖さみたいな、そういうものを期待されているんだということを感じながら。
 いわゆる怖くは、なかなかできないんですけれども、少なくとも患者さんのさまざまな変化に、いちいちうろたえないような感情的な平静さみたいなものを身につけるべきだと感じていったわけです。
 これは、ある意味ではナースの感情労働なのかもしれませんけれども、一方で、その患者さんというのは、僕にはそういうかたちで怒っている。ところが、その笑っていた先輩が「おいおい」と言って行くわけですね。すると、ニコっと笑って「はいはい」とかと言ってくるわけです。これって、いったいどういうことなのかな。
 にこやかに対応する。あるいは、怒りで威嚇する。彼のなかで、採血という事態が引き起こしているものは一つであるはずなのに、相手によって彼の感情の表出が違うわけです。ということは、僕が考えてみるに、感情労働というか、感情をコントロールするんだとかということは、別段ナースだけじゃなくて、患者さんのほうが、それこそ死活をかけた問題として、すでにやっていると言えるかなと思います。
 これが、一番最初の自分が看護の道に入ったときに感じたエピソードと、いまのお話とを少し関連づけて思い出したことです。
 もう一つ。それから、30年近く看護師をやっていましたけれども、一番最近やったことは、認知症の人たちの介護と看護です。いわゆるお年寄りが好きだった、お年寄りとの時間を楽しみたいとかと思って優しい気持ちで、お年寄りのお世話をするのが好きなんですという気持ちで入ってくる介護職員がいっぱいいたんですね。
 ところが、単純に、いろいろケアをしたつもりでも、それが感謝で常に迎えられるとは限らないわけです。相手は、「お風呂に入りましょう」と言われても、なぜ、いまお風呂に入りましょうと言われるのかがわからない。自分が、それにどう答えていいのかわからないということで戸惑いがあって、「いや、いいよ、いいよ」というかたちで拒否したりする。そうすると、自分がいくら優しく言ったところで、なかなか伝わらないというかたちで、ずいぶん介護の人たちが悩んだりするわけですね。
 優しさというもので何とかなると思っていた介護というものが、優しさでは、とうてい成り立たない。例えば、何度も同じことを聞かれるときに、ついついいらいらして、「もう、それはさっき言ったでしょう」と言う人にたいして、「あなた、もっと優しく言わないと、だめですよ」というようなことを言うけれども、でも、優しくしようと思っても、その優しさができないということがあるんですね。
 これは、一緒に認知症ケアなんかを語り合った精神科医で小澤勲さんという人がいるんですけど、彼は、「ケアをする人たちに優しくあれということは、私は言わない。正しい判断というか、理解をするべきだ」とおっしゃったわけですね。
 それこそ、認知症の人とのコミュニケーションを辛抱強く繰り返すということを、個人に優しさに求めるのではなくて認知症という病気を正しく知れば、また自分が何度も言ったからといって新しい効果を生まないということをちゃんと知的に判断すれば、気持ちが優しいとか優しくないとかじゃなくて、対応の方法が変わるはずだ。だから、「優しくあれ」というようなことではなしに、「正しい認識を持ちなさい」というふうに、小澤さんは言われたわけです。
 スミスさんもカウイさんも、感情労働というものを看護のなかで正当に評価する、正当に機能させるためには、組織、特にリーダーが、そういう感情労働を評価したり教育したりという、組織での取り組みが必要だというふうなことをおっしゃったと思います。
 普通、感情と言われると、個人の内部に起きることがらと理解しがちなわけです。だから、その看護のなかで感情労働というものが非常にコアになる、ケアの核心になるような部分。ところが、それを個人の資質というか、専門職になるのであれば、そういう資質を持つ、ないしは、鍛錬して、優しさだとか共感性だとかというものを個人のなかに持つべきだととらえるのはどうかと、やっぱり僕も思うわけです。
 実は、感情というのは、そんなに個人の内というものの、それこそ日本語だけではないかもしれませんが、腹が立つとか、頭に来るとか、感情を表すときには、しばしば身体的な言葉が媒介になって表現されます。
 だから、単純に人に見えない心の内ではなくて、感情とは常に人に見える、この身体にあらわれてくるものだし、腹が立ってきたり何かしたら、身体が実際に変わってくるわけですね。そういう意味で、個人の内の、中にあるわけです。
 また、感情は人と人とのあいだで生じてくる。向こうが、わっと怒ってきたら、僕のなかで自然に発生してきた恐れではなくて、ある人と出会うことによって引き起こされてしまう。だから、自発的なものではなくて、非常に受動的なものとして、感情というのは体験されたりするものなのです。
 だから、個人の内でもなく、人と人とのあいだのなかで出てくるということなんですけど、その「人と人」いうのも人間と人間の単なる関係ではなくて、いまこの場で、例えば僕がこの前にいて、こちらを向いて話をしているというのと、そこに座っているだけで、ずいぶん自分の感じるものというのは変わってくるのです。
 僕はいまここにいますが、一所懸命しゃべろうと思っています。何とかやろうと思う責任感だとか、いろんなことを感じていますけれども、そういうものが、これがもっと場所の配置が変わったり、ここが教室でなくて、何かもっとリラックスできるような場所であれば、もっと変わってくるかもしれない。
 その意味では、環境だけでなくて、人がどういう配置でいるかという舞台みたいなものですよね。単純に、人を抜きにした環境じゃなくて、人がそこでさまざまな振る舞いをする「場」みたいなもの、人の感情だとか雰囲気みたいなもの。その場の雰囲気という言葉と気持ちというのは、日本語では「気」というものでつながっているんですけれども、そういう個人のなかでもないし人間関係だけでもないようなところに、感情のさまざまな触手というのが伸びていて、決して個人だけでコントロールできるものではない。
 だから、看護における感情の側面に関して、注目して、それをプラスにはたらかせていこうと言ったときに、いったいどのようなことを考えないといけないのか。単に個人の周辺でもなく、教育でもなく、組織論でもなく、何か新しい、人と人との在り方みたいなものを、感情を仲介にしてするときのデザインみたいなものを、やっぱり考えないといけないんだなというのが、僕の感想です。どうもありがとうございました。

◆編者註
(1)小澤勲。1938年神奈川県生まれ。京都大学医学部卒業。精神科医。京都府立洛南病院勤務。同病院副院長、介護老人保健施設「桃源の郷」施設長、種智院大学教授、同大学名誉教授、同大学客員教授を歴任。2008年11月逝去。
  主な著作に、『反精神医学への道標』(めるくまーる社1974年)、『呪縛と陥穽―精神科医の現認報告』(田畑書店1975年)、『自閉症とは何か』(悠久書房1984年→洋泉社2007年)、『痴呆老人からみた世界―老年期痴呆の精神病理』(岩崎学術出版社1998年)、『痴呆を生きるということ』(岩波書店2003年)、『物語としての痴呆ケア』(土本亜理子との共著、三輪書店2004年)『認知症とは何か』(岩波書店2005年)、『認知症と診断されたあなたへ』(黒川由紀子との共編著、医学書院2006年)、『ケアってなんだろう』(編著、医学書院2006年)がある。著作を含めた詳細な情報は「生存学」のホームページを参照のこと。http://www.arsvi.com/w/oi02.htm



崎山:西川さん、ありがとうございました。現場での実践から感情管理の多様性や、それが個人だけではなしえないといったご指摘だったかと思います。全ての方々のコメント後に、スミス先生、カウイ先生からご返答をいただけるということなので、次は安部さん、よろしくお願いします。


□西川 勝 20090319 「感情労働と他者」 安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働――異なる学知の交流から考える』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,pp.58-63.



UP:20090911 REV:
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