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「重度障害者等包括支援を利用した持続可能なALS在宅療養生活支援モデルの実証的研究」

さくら会 2009/03/31
平成20年度厚生労働省障害者保健福祉推進事業障害者自立支援調査研究プロジェクト

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last update: 20160120


平成20年度厚生労働省障害者保健福祉推進事業
障害者自立支援調査研究プロジェクト
『重度障害者等包括支援を利用した持続可能なALS在宅療養生活支援モデルの実証的研究』
 〔※本報告書には図表などが含まれています。テキスト化するにあたって全て掲載したものの画質が落ちていますので、参考にされる場合は元のファイルをご参照ください(ファイル作成者)〕

プロジェクトメンバー

研究者
川口有美子 さくら会理事/(有)ケアサポートモモ代表取締役/日本ALS協会理事
伊藤佳世子 (株)りべるたす代表取締役/立命館大学大学院博士課程
佐藤 浩子 中野区区議会議員/立命館大学大学院博士課程
西田 美紀 立命館大学大学院博士課程
長谷川 唯 立命館大学大学院博士課程
堀田義太郎 日本学術振興会特別研究員/立命館大学大学院
山本 晋輔 立命館大学大学院博士課程

研究協力者
岡本 晃明 京都新聞社
小長谷百絵 さくら会理事/東京女子医大准教授
塩田 祥子 さくら会理事/(有)ケアサポートモモ取締役
田中 大輔 中野区区長
立岩 真也 立命館大学大学院先端総合学術研究科教授
中村記久子 さくら会理事
廣川美也子 東京総合保健福祉センター「江古田の森」障害者支援施設長
橋本 真  京都市保健福祉局保健福祉部障害保健福祉課在宅福祉第一担当 
橋本 操  さくら会理事長/在宅介護支援さくら会代表取締役/日本ALS協会会長
中野区、京都市、盛岡市、福岡市、千葉市

事務局
小河原 恵 さくら会
塩田 勝久 さくら会

研究班編成
総括班: 川口 橋本(操)小長谷 塩田(祥)中村 小河原 塩田(勝)伊藤
中野区調査班: 廣川 佐藤 
京都市調査班: 西田 堀田 長谷川 山本 立岩 岡本

事業目的
在宅療養中または病院から在宅療養へ移行予定のALS療養患者の在宅を可能とする重度包括的支援について、利用可能なプランを提示し、実施可能性や条件(可能な連携・必要コスト・スタッフのスキルなど)を調査研究することにより、重度障害者等包括支援の在り方を提言する。
  
調査の方法
1、アクションリサーチ
  ・独居ALS療養者のケアニーズの把握調査
  ・独居ALS療養者の在宅移行に関する相談支援にかかる時間とコストの調査
  ・NPPV(鼻マスク)の療養者のケアニーズと相談支援の内容の調査

2、実地調査
・盛岡市、中野区、京都市、福岡市、4市区町村の比較調査(財源、給付状況、医療的ケアの実施状況、地域資源の状況など)
・千葉市で在宅独居を開始する重度障害者のニーズ調査

3、調査の分担
1)総括班
プロジェクトの目的である在宅療養中または病院から在宅療養へ移行予定中のALS療養患者の在宅を可能とする重度障害者等包括支援について、利用可能なプランを提示し、京都市・千葉市などで実際に支援しながら、その実施可能性や条件(可能な連携、必要なコスト、スタッフのスキルなど)を調査研究した。

2)中野区調査班 
重度包括支援サービスにおける複数サービスの利用について、施設と在宅それぞれの制度の連携に関する調査を目的とする。
地域の施設と在宅サービスの連携の可能性をさぐり、重度障害者等包括支援の利用可条件の調査、施設スタッフの研修、初期段階のALS療養者のピアサポートのイベントをおこない、聞き取り調査を実施した。中野区、京都市、盛岡市の重度訪問介護の給付およびサービス実施状況、施設利用状況を比較した。

3)京都市調査班  
NPPVで一人ぐらしの者の在宅移行支援に関する実態調査を実施した。
実際の独居ALS患者の在宅移行に参与しながら、ケアプランにない臨時の対応、申請手続きや引っ越しの代行、有償ボランティアを重度訪問介護で利用する必要性の確認等、ALSの困難ケースの相談支援の在り方について調査した。

 結 果
1、 独居ALS患者の相談支援の難しさが浮き彫りになった。(パワーポイントと報告書)
2、 重度包括支援の基盤となる重度訪問介護の利用状況の地域間格差が浮き彫りになった。(パワーポイントと報告書)
3、 重度包括支援対象のALS療養者の相談支援において、人工呼吸療法や意思伝達装置に関する予備知識の必要性が明らかになった。(パワーポイントと報告書)
4、 ALSでは、医療保険、介護保険、自立支援法など複数の制度を利用するため、相談支援に関わる職務も難病医療専門員やケアマネージャーなど複数になり、これらの職種の連携がうまくいかないと、支援も円滑にいかないことがわかった。
5、 重度包括支援サービスに際しては、NPPV(鼻マスク式の非侵襲的人工呼吸)からTPPV(気管切開による長期人工呼吸)への支援プロトコルが必要である。特にNPPVの患者に対する支援は現行のままでは医療面での安定性を欠き、難しい状況である。(パワーポイント)
6、 収益面、運用面で重度訪問のほうが重度包括支援よりも融通が利き、経営も良好になるため、重度包括支援サービスを提供する事業所の増加は当面見込めそうもない。

提 案
1、 NPPVからの重度訪問介護(連続4時間以上の滞在)の利用と15%加算を提案する。コミュニケーション支援の難しさはNPPVもTPPVも変わらないことから、実施研修にかかる時間はほぼ同程度である。
2、 重度訪問介護の単価を上げ、各種加算により事業所とヘルパーを支援する。
3、 重度包括支援における重度訪問介護の単価を4時間800単位にあげる。
4、 重度包括支援により、施設内での付添いは、日ごろのケアに慣れた家族以外の人(有償ボランティア)が実施できるようにしたい。モデルプランを提案したい。
5、 同居家族の負担を考慮し、発症初期段階からの十分な給付について提案したい。最低1日18時間以上の給付は家族介護者の健康を維持する最低限の生活のために必要とされる目安である。国庫負担基準で月額およそ80万円。ただし、重度包括支援給付にも上限を設けてはいけないこと、独居者においては1日24時間の給付を行うことを通知などに明文化したい。
6、 重度包括支援において、有償ボランティアを利用する際には、本人と家族に管理、雇用、評価の義務があると考えるが、契約の在り方については検討を要する。
7、 医療・福祉との連携において、ヘルパーや有償ボランティア(パーソナルアシスタント)に対する研修・評価方法について提案する。(別冊ケアワークブック、パンフレット)
8、 各制度における相談支援の連携と分担について、簡略な図式にして普及することを提案する。(パンフレット)
9、 有償ボランティアから重度訪問介護従事者への資格取得を奨励する施策により、介護従事者増員の裾野を広げることを提案する。(パンフレット)
10、 重度訪問介護等のケアプランを立てる相談支援専門員の資格要件の緩和を提案する。
11、 ALS等を担当する相談支援専門員は、多数のケースは担当できなくなるため、相談支援専門員の所属する介護派遣事業所が、従来どおりケアプラン作成を行うのが妥当である。
12、 療養者のセルフマネジメント能力の開発のためにも、ピアサポートを相談支援業務の中に位置づけることを提案する。(パンフレット)
13、 訪問看護ステーションと居宅介護支援事業所(ケアマネージャー)に対し、重度障害者に対する支援の在り方に関する研修を義務付ける。

課 題
1、 相談支援の仕組みには工夫を要する。現在のままでは、相談支援専門員の職務内容が明確ではなく負担が大きすぎる。また制度ごとに配置されたソーシャルワーカー(難病医療相談員、ケアマネージャー、MSW,相談支援専門員、当事者団体の相談員など)の連携と分担が明確でない。これらの人々の連携は、今後各制度を次々に使って包括的なサービスを円滑に行うための鍵になるはずである。特に医療系と福祉系のソーシャルワークの連携不足が現実問題としてある。
2、 NPPVからTPPVへの移行の際の病院と診療所、看護と介護の連携、研修と評価のあり方に課題がある。
3、 全国でALS療養者も重度訪問介護を使えるようにするためには、吸引等を実施する重度訪問介護ヘルパーの増員と介護保険のケアマネージャーに対する研修が喫緊の課題である。
4、 訪問看護職によるヘルパーの実地研修を加算等で評価する。

 成果物:重度訪問介護と重度包括支援のパンフレット(関係各所に配布)
     重度訪問介護従事者研修用「ケアワークブック」
(有)ケアサポートモモ試作品



研究事業報告書 目次

1、総括班 
(1)「重度包括支援サービスによる在宅療養支援の在り方について」p6-12 川口有美子
(2)「24時間介護の必要な長期療養の重度障害者の退院支援とケアホーム構想について」p12-28                                伊藤佳世子

2、中野区調査班 
「重度障害者等包括支援について ―京都市・福岡市・中野区・盛岡市における調査から―」p29-37 佐藤 浩子
               
3、京都市調査班 
「独居ALS患者の在宅移行支援」
(1)――二〇〇八年三月〜六月  p38-58               西田 美紀
(2)
――二〇〇八年六月     p39-75               長谷川 唯
(3)――二〇〇八年七月     p76-93               山本 晋輔
(4)課題・要因・解決方策    p93-112              堀田義太郎

資料
 「重度障害者包括支援の取り扱いについて」
 京都市保健福祉局保健福祉部障害保健福祉課在宅福祉第一担当      橋本 真

成果物
重度訪問介護と重度包括支援のパンフレット(関係各所に配布予定)
重度訪問介護従事者研修用「ケアワークブック」((有)ケアサポートモモ試作品)
 
DVD(学会等での報告)
独居での在宅生活が困難となったALS療養者の事例検討 ――社会福祉の立場から―― 長谷川 唯・他
医療的ケアを必要とする重度障害者の単身在宅生活に向けての課題      西田 美紀
重度包括支援について、京都市・中野区・盛岡市における聞き取り調査から  佐藤 浩子
在宅独居ALS患者における住環境整備の現状と課題           山本 晋輔
重度障害者等包括支援サービスに関する研究と提言 中間報告       川口有美子

1、総括班
(1)「重度包括支援サービスによる在宅療養支援の在り方について」
川口有美子
1 調査概要
2008年6月から12月にかけて、日本各地で重度包括支援サービスのモデル事業が実施できそうな施設と事業所を探したが、結局は見つからなかった。
その理由は昨年報告したとおり、重度包括支援のほうが重度訪問介護よりも単価が安くなること、施設内では医療的ケアや特殊なコミュニケーションを必要とするALS療養者の受け入れが困難であること、移動にかかるコストは事業者の持ち出しになってしまうこと、などが筆頭に挙げられる。
 そこで、研究者は直接下記に列挙したような支援を行い、各地でALSに支援をおこなっている団体を重度包括支援サービスのモデル事業へと誘ってみた。
@ 中野区では、自治体に協力を仰いで中野区総合保健施設「江古田の森」施設で、呼吸器前の療養者に対するサービスの説明会をおこなった。
A 京都では、医療保険で難病デイケアに毎週4日通院しながら、在宅では重度訪問介護サービスを利用しているNPPVの男性独居者に対して参与観察をしながら、重度包括支援サービスの可能性を探った。
B 岩手県盛岡市では、週一回身体障害者通所施設に通いながら、在宅ホームヘルプサービスを利用している男性患者に対して制度利用を促し、重度包括支援サービスの可能性を探った。

しかし、いずれの地域でも、ヘルパーの医行為や人員補充については模索中であり
モデル事業には至らなかった。現行の重度訪問介護の低単価、医療行為、ヘルパー不足が解決されないうちには、さらに高度な連携や技術が要求される重度包括支援サービスは、非常にハードルが高いということであった。

表
ただし現在、サービス提供者側が抱えもつ問題、重度訪問のヘルパー不足や地域医療との連携、独居患者の支援などは、包括的支援の枠組みの中で解決される可能性もなくはない。

2 重度包括支援サービスによって、改善可能性のある課題の選別

2-1, 提案1、病院から在宅移行時における包括的サービスの利用

2-1-1,現状
現在、重度包括支援では在宅サービスと施設系サービスを併用することになっているが、居宅支援サービスと重度訪問介護サービスを分け、ふたつのサービスとして認めている京都市では、在宅系サービスのみでも連携ができていれば、重度包括支援の利用を認める体制である。それで、独自に重度包括支援の説明書を作成し、市内に配布しているが、まだ利用には至っていないという。担当者によると、単価の安さ、宣伝不足、包括支援のメリットのなさなどが利用されない要因として挙げられた。
介護派遣事業者の多くが、吸引等の医療的ケアを行わず、そのような地域では、ALSで在宅療養中の呼吸器装着者も少なかった。そもそも、地域に国立病院があり、筋ジストロフィの長期療養者の多くは永久入院してしまう。またそのような地域では、医師会や看護協会などの医療機関が、ALSの介護負担の軽減についての問題意識が薄く、そのため地域では、連携もほとんど取れていない状況にある。
このようなことから、まず、第一に地域での医療と介護の連携を促進し、その上で、重度訪問介護の利用促進が行われるべきであると考える。
そのため、親身な家族や友人のいない独居者などは、一度入院するとなかなか退院できないか、あるいは善意の保健師やケアマネ、訪問看護師らの業務外の負担になっているケースである。在宅移行に関する支援は、病院でMSWや地域のケアマネが行う一般的な相談支援とはまったく異質のものであり、患者や家族のアドボカシーとして地域のあちこちに出かけていき、場合によっては患者の立場に立って代弁し、交渉するなどの行為まで求められることもある。

2-1-2, 包括的支援による可能性
専門性を問わない相談支援のための介助サービス(書類作成、役所への提出、引越し準備など)を、重度包括支援の対象サービスとする。
 
2-2, 提案2、非侵襲的人工呼吸療法(NPPV)開始から給付の対象

2-2-1, 現状
現在、重度包括支援サービスT類型では、重度の進行性疾患全身性麻痺障害で、言語的コミュニケーションが困難、気管切開し人工呼吸療法を行っている者に限られている。これは医師法17条との関係から、ヘルパーの医療的ケアが制度上は評価できず、その代わりとして、意志伝達の困難と障害の重症度が評価されていると考えることができる。
しかし、重度包括支援の評価対象像とされる重度コミュニケーション障害も、呼吸麻痺に起因する危険性も、ALSに限っていえば、その対象になるかなり前から始まっている。したがって、現実では15%加算にならない重度包括支援対象前の、気管切開前後のNPPV患者に対する支援が、もっとも欠如しているといえるのである。
NPPVとは非侵襲的な人工呼吸器をさす。取り外しができる呼吸器であるため、TPPVと呼ばれる気管切開による半永久的な人工呼吸療法よりも気楽に使いだせる。しかし、ALSの場合は、必ずTPPVへの移行が必要になる時期がやってくる。
NPPVの患者は、まだ日中は呼吸器未装着で身体機能もわずかに残されているために、残存機能の維持に本人は大変に積極的である。動きたい要求が大変に強いが、筋力のない身体を支える介護には、相当の力と技術が求められる。そのため、常に転倒、窒息、誤嚥の危険がある。また、この時期に夜間の非侵襲的人工呼吸療法が開始されるが、その脱装着にも介助がなければ、リークや気管への唾液の垂れ込みなどの際に、大変危険である。食事もまだ口から食べることができるが、介助がなければ食べられない。しかしそれも時間を要するため、介護保険の身体介護3でも、時間内(1.5時間内)に終えることができない。
しかし、この時期になると、主になる家族介護者も仕事を続けられなくなり、家族全員が人生の岐路に立たされてしまっている。いわゆる、「非侵襲的呼吸器から侵襲的呼吸器への移行」に伴う生活激変期の患者家族に対する支援のあり方は、これまで幾度となく問題にされながら解決しがたく、支援困難な時期でもある。また、この時期の支援は制度化されていないインフォーマルな仕事も多いので、家族やボランティアがいなければ安全に在宅療養へ移行することができない。

2-2-3, 包括的支援による可能性
ALSではNPPVの時期がもっともクリティカルである。
介護保険では要介護度3〜5.自立支援法でも障害程度区分では5であるが、最重度ではないため長時間の見守りサービスが利用できない者もいる。利用者と家族が長時間介護の必要性に気がついていないことも多い。
ここに、重度包括支援サービスによる施設利用と見守りの併用ができれば有効である。
どうしても閉じこもりがちになってしまうが、週に何度か療養場所を変えることにより、家族のレスパイトと患者の外出支援も図れるなど、めりはりのある連続した長時間の見守り介護が制度により可能になる。
小規模市町村では、地域の施設利用が活発に行われているが、施設内では医療的ケアがネックになり、ALS療養者が単身でデイに参加することもあまり行われていなかった。 
そのため、ある療養者は家族を伴って施設通所し、家族にとっても気分転換にはなっていたが、家族の代わりに有償ボランティアを利用したいという本人の希望も強くあった。
あるいはまた、施設職員が医療的ケアやコミュニケーション支援全般を学ぶことにより、ALS患者も安心して身体障害者施設への通所ができるようになるはずである。
そのためには、まだ会話が可能な時期から定期的に近隣の施設を利用し、施設職員と信頼関係を築いておくことが望ましい。
その後、呼吸筋麻痺が進行して本格的な長期人工呼吸療法を開始したとしても、そのまま続けておなじ施設を利用することも可能になるかもしれない。
重度包括支援サービスの対象像を、非侵襲的人工呼吸療法の者にまで押し下げ、その病態における窒息や転倒の危険性を評価して、有償ヘルパーが同行しての施設利用ができるとよい。

2-3, 提案3、ALSのためのグループホーム

2-3-1, 現状
ALSのグループホームや、家族も居住できる多機能型集合住宅の希望は多い。看護師が自己資金で立ち上げた(買い取った)難病小規模施設は、昨年調査済みである。これは福祉ホームに賃貸入居し、看護介護サービスは訪問サービスを利用するという形態である。しかし、昨年も問題となったように介護保険サービスしか利用できないため、外出も滅多にできず、排泄介助や吸引も時間で決められるなど介護量は不足している。

2-3-2, 重度包括支援サービスの可能性
対象者がグループホームのような場所で、包括的な介護支援を受けて生活できないだろうか。
原則24時間の見守りと外出支援や身体介護には二人体制の介護が必要である。これらを自宅でそれぞれ行うとどうしても、24時間以上の介護者の滞在が必要であるが、少人数のグループホームでは、家事援助や見守りなどで、集約的なサービスも可能になる。

常時見守りが必要なALSを含む身体障害者2、3名用の重度包括支援を利用した住居を構想してみた。
ALS患者用住居(個室2か3、介護者待機室1、中央にリビングルーム、台所トイレ風呂は共同)、常勤(寮母)3名(交替で1日8時間勤務、)。各利用者の介護は有資格者と無資格者の組み合わせで介護保険と重度包括支援で、外部の事業所が行う。仕事の分担は全員の介護と施設での一般家事、事務等は常勤者が行い、個別の身体介護、見守り、外出支援、入浴介助はヘルパーか有償ボランティアが行う。1日複数回の訪問看護ステーションによる訪問看護、週1〜2回の入浴サービスを外部から受ける。建物と管理者は国か自治体が用意をし、施設サービスと在宅サービスを利用。

人件費(介護にかかる人件費のみ)
入居者2名〜3名の場合(最重度の呼吸器装着者と遷延性意識障害者の組み合わせなどで調整)
常勤30万〜/月。呼吸療法のALS在宅介護の経験のある者3名のシフト制。月90万円〜。
非常勤のヘルパーは無資格でもよく包括で100〜300万円。
入居者2,3名に対して、介護にかかる手当て月190〜390万円(介護保険込み)で運営する。
*利用者の家族で介護を希望する者は、家事か補助ヘルパーとして1日8時間を限度に採用。身内の場合は安くてもよい。
*無資格者も多く採用してコストカットを図る。経験次第で昇給。
*入浴サービスや福祉機器レンタルは集約的にサービスを提供できるので1,2割ほど安くしてもらう。
*施設コストとして部屋の賃貸料、食事光熱費等にかかる費用は別途。自己負担有り。ALSは人口10万人につき2、3人の割合で発症する。たとえば中野区30万人特別区なら、3箇所を区内に設置し、長期療養できるようにするとよい。最重度グループホームのイメージである。
呼吸器装着者は室内ではほとんど移動をしない。外出時のためにベッド周りと玄関、廊下が広ければ、施設は普通のマンションでも一軒屋でも、特別な住宅改造をせずに、借りて利用することができる。(橋本操宅を参照)
独居者のためには生保でも入居できることが重要である。

上記のプランはぜひ実施してみたいが、場所を持たない事業所ではモデル事業も困難。マンションの契約や年間の賃貸料、建物の改造などにかかるコストの助成をおこなう必要がある。

2-4,  提案4、有償ボランティアからパーソナルアシスタントやヘルパーへ 

2-4-1, 現状 
現行の重度訪問介護では、当事者が望んだヘルパーをマイヘルパーとしては任命できない。実地研修には半年以上もの時間がかかるが、その間は二人体制になるためいずれかの報酬は請求できないのが事業所の負担になっている。医療的ケアの実施も、現在はヘルパーと利用者個人との契約になっていて事業所の責任は問われないが、万が一を考えて、事業所がALSを倦厭する理由のひとつである。
支援費制度以前は、一部のALS患者は全身性障害者介護人派遣事業を利用していたが、この事業では、ヘルパーは資格を問われず、採用した日から自由に使うことができた。そして、利用者が自分の責任でヘルパーに介助方法を教えた。そのために研修コストはかからず、医療的ケアの責任の所在も当事者にあった。当事者が自己責任でヘルパーを使っていたのである。その頃は、介護事業者が介在しなかったため、プランの変更も柔軟にできた。今日休む代わりに明日の朝来るなどということが、電話一本で当事者と利用者の間のやりとりで行われていた。それにヘルパーも利用者を選んでいたので、利用者が一方的に傲慢になることは滅多になかった。もしそうなったとしても、ヘルパーは自分から介護を辞退することができた。しかし、現在は事業所の業務命令に従わないといけない。医療者とヘルパーとの関係がこじれても、仲介しなければならないサービス提供責任者のストレスは大変なものになっている。しかも、ヘルパーの欠勤には代行者を探さなければならないが、ALSの介護は誰にでもすぐに対応できるわけではないので、限られた人の中から代行者を見つけなければならない。これは相当困難である。
事業者による介護派遣は当事者にとって楽な部分も多いが、当事者の責任が見えにくくなり、事業者の負担は大幅に拡大した。その結果、重度訪問介護の事業者数は伸びず、利用者も弱い立場にある。

2-4-2, 包括的支援の可能性

 包括的支援の第一のメリットは、無資格者に対する支払いができる点である。
また、二人体制以上の介護ニーズに対しても、ボランティアを利用すれば柔軟な実施と支払いが可能である。反面、デメリットとしては、より良いサービスを目指せばそれだけ、持ち出しになるので、事業所の利益が減るという矛盾も生じる。
解決策としては、たとえば身体介護や移動介護など見守り以外のケアについては、単独で請求できるメニューを一部残しておき、包括的請求で生じる問題を回避する必要がある。
 重度訪問ヘルパーの不足が言われるが、当事者が一般市民に呼びかけ、自分のヘルパーを自分で確保し補充する活動に対して、支援するNPOがあるとよい。そのNPOではアドボカシーに関する様々な情報と資源を提供する。包括支援の相談支援専門員の所属先に当事者のエンパワメントを行う非営利機関を併設し、ヘルパーの雇用や年金等の金銭管理、ケアプラン作成についてアドバイスをするとよい。

3、相談支援専門員の役割

 京都市内の独居患者に対する参与観察と支援から、発症から呼吸筋麻痺に至るまでの、相談や支援の量と内容とが明らかになった。
しかし、その膨大な、毎日必要とされる仕事量を、誰がどのように行うのかは不明であったため、しょっちゅう支援者の間で混乱が起きた。高齢難病で身体障害者であるALS療養者は、難病事業、介護保険制度、障害福祉、医療保険などから、同時に支援を受けることができるが、それぞれ異なる領域の専門家が領域を争って支援する状態にあるか、あるいは遠慮しあって何もされていない状況のいずれかに陥りがちである。
従って、相談窓口の一本化と、総合的で包括的、柔軟な支援が望まれている。
しかし、相談支援に関する事務手続きは、できるだけ簡略にしなければ、月に何百時間も制度を使う者のケアプランを立て、調整するのは支援者の苦痛になりかねない。
また専門知識がいらない支援も少なくない。その代表がピアサポートである。入院中の当事者は外出困難なので、代理者の実働が求められているが、その点で重度訪問介護のヘルパーなら事務手続きの代筆も含む実質的な支援ができる。特に重度包括支援に期待される相談支援の内容については、京都班が調査し結果をまとめた。

(2)「24時間介護の必要な長期療養の重度障害者の退院支援とケアホーム構想について」    
                伊藤佳世子

 障害福祉サービスの事業所を営む報告者は、今年度千葉市で二人の筋ジストロフィー(以下、筋ジスという)をもつ長期療養者の地域移行支援を行った。その事例について報告しつつ、今後の選択肢として検討している重度障害者のケアホームの構想を報告する。

1、長期療養者の地域移行支援
 本章では筋ジス病棟で長期療養された方が、実際病院を出るに到るプロセスを書く。そして、病院を出るための阻害要因を明らかにしていく。
 筋ジスは長期療養ができる専門病院があり、それは旧国立療養所(注1)で、現在は障害者自立支援法上の療養介護指定を受けた施設となっている。大方が診療報酬の区分で言う障害者病棟などである。平成20年の診療報酬改定でも障害者病棟の診療報酬は出来高払いを維持している。これらの病院の多くが積極的な在宅支援を行っていない。障害者自立支援法は障害者基本法に則ってつくられているが、自立と社会参加という理念からは地域移行支援は当然だが、現在のところはあまりなされていない。施設職員たちは、在宅の制度さえ知らないことが多い。
 報告者は長期療養を行う筋ジス患者にアンケートをとっている。そこでのデータなどを紹介する。また、もっとも報告者に多くの情報提供してくださったR氏の願いは「病院からでたい」ということであったので、彼女の思いが実現できるようなアクションリサーチを行ったので紹介する。

1-1, 方法・対象
病院や施設を出て自立生活をされている方を対象としたアンケート調査(注2)、また、アクションリサーチを行った(注3)ここでのアクションリサーチは、参加型アクションリサーチというかたちで行った。具体的にはある筋ジス患者の平成19年7月から平成20年4月に地域生活移行するまでの支援プロセスの記録である。報告者が社会資源となり、ニーズをうめる支援を行い、その支援について時系列で起こったことをメモし、課題や反省点などを定期的に記録した。そこから、困難がなぜ起こったのかなどを振り返って分析した。

1-2,調査期間
平成19年7月から平成20年4月にかけて行った。
 長期療養生活を送る15人の患者のヒアリング、長期療養生活の後に24時間他人介護で独居生活をする方4人のヒアリングを行った。また、複数の療養患者と独居生活をする方へのEメールによるアンケート調査を行う。
 R氏の調査では、家族は同じ病気の兄がいることもあり資金と介護の援助ができないという主張をしており、家族からの介護面と金銭面などすべての支援を受けることができない。フォーマルな支援のみで自立生活への移行となるので、制度の実情が明らかになりやすい面があった。また、ボランティアの募集は、大学などで講演を利用して募ったが2人しか希望者がいない中、始まった。

1-3,ヒアリング、アンケート調査の結果
 ○長期療養生活を送る15人の患者のヒアリング
・ 環境さえ整えば、病院を出て地域(自宅)に帰りたいか? はい 13人 いいえ2人
・ 病院から地域生活に移行するに当たり不安なことはどんなことか?複数回答可
 @ 介助者がきちんといるかの不安  A 金銭面の不安  
B 具合が悪くなったときの不安
 ○長期療養生活の後に24時間他人介護で独居生活をする方6人のヒアリング
 ・ 病院に戻ることに抵抗はありますか?   はい5人 分からない1人
・ 病院を出て変わったことは何ですか?
 多かった回答:自分の時間がつかえるようになった

 介護環境が整えば多くの長期療養の重度障害者は病院を出たいと言っている。その時の不安としては、介護者、金銭面、具合が悪くなったときである。介護者については重度訪問介護などを利用し、確実な派遣をお願いすれば足りると思う、金銭面は障害福祉サービスにも上限があるし、障害年金や独居であれば生活保護で生活は可能と思われる。また、具合が悪くなったときは在宅医、専門医、訪問看護とホームヘルパー事業所などと連携がきちんと取れていれば可能と思われる。
課題としては、介護者不足といわれる中で、介護者が確保できるかということと、在宅医と専門医の連携はどこもそううまく言っているわけではないという問題がある。
                              
1-4,アクションリサーチ
 アクションリサーチでの調査対象者は、8歳から約30年間筋ジス病棟に入院している脊髄性筋萎縮症SMAV型(クーデル・ヴェルグランダー、略してK−W)をもつ37歳の女性R氏である。
@ アクションリサーチの調査対象者の紹介、概要、R氏について
○略歴
  R氏は父、母、兄2人の末っ子として昭和45年に生まれる。彼女は3歳のときに、大学病院の神経内科医から筋ジスと診断される。確かに、身体障害者手帳にも筋ジスとは書いてあったが、実際は筋ジスではなく、脊髄性筋萎縮症である。R氏の母が妊娠したとき、同病の兄がいたために、また同じ病気の子供を生むかもしれないと思い、このまま妊娠を続けるかを躊躇し、遠方の産婦人科病院で堕胎の手続きまでするが今日は先生が居なくてできないのでまた明日来てくれといわれて、出直すのが面倒になり、堕胎をやめたという。その後、産まれたのが女の子で、それはとてもうれしく、特にお父さんは毎日かわいがっていたという。小学校1年生まで地元の小学校に通い、家族と暮らしていた。学校の入学は母が授業中も付き添うことが条件であった。当時、彼女と他の子どもとの違いは歩くのが遅いくらいであった。2年生に進級したところから、学校からの勧めもあり、養護学校に通うこととなる。R氏が入ることになった病院併設の養護学校(注4)は入院が原則であるし、そこまでの送迎を親が毎日するのは大変であったので、転校からR氏の療養生活が始まる。R氏は12歳まで歩行していたが、その後病気の進行により、歩くことが困難になり、電動車いすとなる。車いすに乗る頃は、過酷なリハビリや歩くことからもう開放される喜びでいっぱいだったという。養護学校高等部を卒業する頃、学校の教員から就労支援も、大学進学の話もなく、そのまま病院で療養生活を続けることになる。R氏は大学にも言ってみたいと思ってはいたが、それは選ばれた人たちのことで、自分などは到底願いのかなわないものだと思っていた。
R氏は筋ジスでも進行が遅い型であるが、筋ジス病棟にはデュシェンヌ型などの進行が早い型(注5)が多いため、たくさんの友の死を見てくることになった。彼女は男性ではないしデュシェンヌ型でないことも分かっている。10代や20代で死ぬことはないだろうけど、死はそう遠くない未来にあると考えていた。変わり映えのない日々の中、ずっと病院を出たいとは思っていた。思ってはいたものの、具体的にはどうしてよいかも分からなかったし、ずっと病院にいることがいいことだと言われてきたことに逆らうほど社会を分かっていなかったという。また、1、2ヶ月に1度の外出のためのボランティアでさえも探すことが容易ではない中、病院を出て自分の介護者を毎日募ることは到底無理だと思っていた。

1-5,調査対象者の主な困難
  ・ 体の障害と病気について
   現在の障害の状態としては四肢・体幹機能全廃、しかし指先や手首くらいまでは少し動くことができる。また、言語障害がない。車いすには長く座ることができる。座位はコルセットなどの補助具をつければ、4〜5時間くらい可能である。今のところ嚥下機能の低下などはない。10年近く機能低下の目立った進行はないと思われる。介護方法はさほど難しいわけではないが、筋ジス特有の介護方法である。具体的には体のバランスをとるのが難しいので、首や手足を数センチ単位で調整する。
  30年間の療養生活と言っても、病気の治療をしているわけではない。毎日体温だけは測った。また、医師と病気の話をすることも年に1、2回風邪を引いたときくらいである。年に一度、検査をするくらいであとは特に治療はしていない。
 ・ 生活における問題
  7歳から30年に及ぶ病院生活において、社会経験が欠如している。患者という立場でしかなく、一人の責任ある人間主体として物事を判断したことがないこと。病院の中の人間関係のトラブルなどは全て病棟の職員を通して解決してきたこともあり、自分で困難に対応するといった経験がないという。
更に、ほとんどカーテンで仕切ることのない4〜6人部屋におり、まったく一人で時間をすごしたことがない。そのため、いきなりアパートでの独居になりヘルパーと二人きりは不安だとR氏は主張した。壁を作らないでほしいという。家事を横で見ている経験もほとんどなく、生活をどうつくればよいのか分からないから不安であるという。
食事はいつも病院のなかで出されているし、洗濯や掃除もすべてやってくれるので、生活の設計が自分ではできない。生活費にはどういったものが必要なのかを想定することが難しい。病院では外出の支援はないし、学校も廊下でつながっていて病院に併設されていたために、路上を一人歩きはもちろんそう多いわけではない。介助者を探して外出の際に介助をお願いして外出する経験も月1回程度である。そのために、病院側は年齢相応の社会的経験が欠如しているために、彼女には判断能力がないとしている。また、R氏は生活をつくっていく自信がないと言っている。でも、生活をつくることを悩みたいとも言っている。
  30年間流れ作業的な介護を受けてきており、受身的にすごしているので、能動的に動くことが難しいとのことである。支援者による意志決定を促すための積極的な介入がなければ、R氏の自立生活は困難であった。
  そんな中、2007年7月、彼女は「私は来年春に退院をします」と、病院にはっきりと伝えたという。このようなことは今までもち得なかった強い彼女の意志だった。そうして、彼女は支援者と思いの実現に向けての行動を開始した。

1-6,R氏の病院での経済状況
 ・ R氏の病院での社会保障制度の活用状況
@ 身体障害者:四肢機能障害、身体障害者手帳1級認定(昭和48年3月認定)、障害基礎年金1級(年間99万100円)を受給する。
A 重度心身障害者医療制度による医療費の助成を受ける。
B 障害者自立支援法施行後の療養介護指定を受けた病院の中の福祉施設にて療養介護を受ける。
 ・ R氏の病院での経済状況
(収入) 月約82000円の障害基礎年金、
  (支出)
@ 病院での支払い(平成19年7月)
○障害福祉サービスに係る費用
介護給付費総額(療養介護) 265670円
自治体等請求額 241070円
利用者負担額計 24600円
○療養介護医療に係る費用
療養介護医療費総額 609150円
保険者等請求額 594040円
利用者負担額計 15110円 (償還払いで返金)
     ○食事療養費総額 59150円
保険者等請求額 44750円
利用者負担額計 14400円
A 有償ボランティアさんに外出、身の回りの世話を依頼。一時間700円(近隣のNPOがやっているサービス)×必要時間
B 電話代、雑費で1万円程度かかる。
 これまでR氏は上記のうちからあまった数万円で、月に1回か2回外出をすることが楽しみであった。ボランティアさんや有償ボランティアさんの食事代や宿泊費、交通費、入場料なども全部払うために(注6)、外出にはいつもお金がかかる。また、市外に出るには介護者を2人以上つける必要があった(注7)。しかし、たまの外出が生きがいであったため、常々お金を貯めようと思ってはきたが、貯金は中々困難であった。また、生きがいの部分には制度的な支援はない。

2, 退院し在宅へ戻るまでのアクションリサーチ
以下で、在宅移行時の問題点を時系列的に記述する。その後、そこから在宅への移行に壁となる部分を明らかにしていきたい。

2-1,病院を出る思い
まず、在宅で暮らそうと思ったR氏の思いを聞いてもらいたいと思う、そこにはR氏の病院を出て在宅独居に対する強い希望が思いが伝わってくる。
R氏の思い。(平成19年10月に自立をするための介助者を集めるためのビラにかいたものからそのまま引用)

「私は29年、病院生活をしきました。病院で生活していると自分の思いや考えを言う機会が少なく、いくつになっても子供扱いされてしまいます。決定権は、私にありません。医師や看護師やその他のスタッフに委ねられます。小さい頃から患者さんという役割しかなく危ない事・責任のかかる事からは遠ざけられていました。それに甘えてしまえば楽ですが、時々そんな自分が悲しくなります。私という存在が、そこには無いからです。私は、患者の○○(※)ではなく『○○』になりたい。無機質・無色じゃない生活・・・食事を楽しんだり、洋服を選べる喜びだったり、仲間との交流や娯楽だったり趣味を満喫したり時間を気にせず彩り豊かに生活をしたい。喜びはもちろんですが、痛い失敗や苦い思いも経験したい。自分らしくイキイキと生きたいです。『したい』『やりたい』という思いがたくさんあります。これらを実現させるには、病院にいては無理です。社会に私達の役割をみつけ地域で暮らしたい。そこで、私は自立生活を目指す事にしました」※○○は個人名

R氏は長く療養生活を営んできていたために医療職、施設職員、家族以外との接点がない。病院以外の社会経験もない。先も述べたように、医療者側には筋ジス患者は年齢相応の社会経験がないために、生活の諸問題への判断能力がないといわれていた。そのためか、彼女が病院を出ることを決めたときから、「あなたは騙されている」と病院のスタッフに毎日のように言われてきたという。
かれこれ20数年前は同じ病院を出た人たちが何人かいた。兄もその一人であったし、先にも述べた先駆者である高野岳志氏(9歳から15年間入院していた筋ジス患者)は病院や両親と戦っての退院だった。その彼も同じように父親に判断能力がないといわれていた。
私たちがアクションリサーチを行ったときも、本人の思いの側に立っての支援であるにも関わらず、ご家族や医療側からこの点が非常に問題視されてきていた。病院から出ることは支援者の「そそのかし」であり、さらにその責任は当事者ではなく、支援者たちにあるという重たい空気の中、アクションリサーチが始まる。

2-2,病院を出るプロセス
 <平成19年9月〜12月>
 R氏は平成20年4月退院を目指し、病院から行政機関へ行くことや不動産探しなどの細かな支援をしてくれる介助者を募る必要があった。彼女のそんな悩みを聞きつけて近隣のS大学のY先生が学生のボランティア集めに協力するために、Y先生の障害者福祉論の授業の時間にR氏が自ら赴いて講演する機会をつくってくれることとなった。そこで、自立生活への協力者を募らせてもらった。そこで一人の看護学生との出会いがあり、その後も継続的に協力してもらえることとなる。
 この時期に、24時間他人介護を実現している3人の患者から、アドバイスを受ける。そのうち一人は16年間筋ジス病棟で生活していた経験があり、24時間人工呼吸器を装着していた。彼を見た瞬間、急に自立生活が身近になり、自分も病院を出られる気持ちになったという。自分は何をグズグズしているのだろうとも思ったという。彼は兵庫に住む男性でデュシェンヌ型の筋ジスをもっていた。呼吸器を車いすに乗せて、日に焼けた姿で彼女の前に登場した。同席した会場でのパーティーではお酒も少し飲んでいた。「自分も5年悩んで、病院を出たんや。色々不安やったし、病院の中にいると、分からなくなることがあってな。出たらな、生活は大変やけど楽しいわ。洗濯して、取り込むのを忘れて、びしょび濡れになったこともあったし、色々知らんことだらけでな。けど、慣れるとおもしろいもんやで」「なんでも相談に乗るで、いつでも連絡しといで」そう言ってくれたという。こんなデュシェンヌ患者はみたことがなかったそうだ。病棟にいる患者たちはみんな、顔色は真っ白だったり真っ青だったりして、元気はなかった。彼から色々な生活の失敗談を聞く中で、初めはヘルパーさんが気を利かせて洗濯物を取り込んでくれないのが意地悪というか仕事のできなさに感じていたが、こう言うことが生活なのだと思うようになったという。病院みたいに、看護師同士の申し送りで自分たちの生活を管理しているのとは全く違う常識がそこにはあった。そんな介護者とのやり取りは大変そうだけれども、生活を自分でつくることなのだと認識していった。
 報告者のアクションリサーチとしては、相談支援事業者(注8)に病院を出るための方法を聞き、実際に出るための準備も手伝ってもらえるように、R氏に電話をかけるようアドバイスをした。その後、地域の相談支援事業者は一ヶ月に一度くらいずつ病院に話をしにきてくれるようになった。相談支援員は病院を出るという支援はしたことがないし、どうしてよいのかはよく分からないとのことだった。どこに住むのかを決めて、その住まいの近くのヘルパーステーションに相談することと、どのような介護を頼むのかの介護計画を立てることをアドバイスしてくれた。
 どこに住むかを考えていく中で、障害者が地域に生活できるような活動をしている団体である全国広域協会(注9)にも連絡をしてみた。そこでは、未だ24時間の他人介護を出していない市町村を選んで、交渉するべきであるというアドバイスをもらう。ひとまずどこがどうなっているのかもよく分からないため、相談支援事業者から重度訪問介護を引き受けてくれるというヘルパー派遣事業所の紹介を受ける。そこから、その派遣事業所の近隣に引越しをすることで話を進めていたのであるが、突然、12月の最後の週にそこの事業所が来年2月末で閉鎖することになったと連絡をしてくることになる。ここで、話は振り出しに戻ってしまう。
R氏はすでに病院側には来年春には退院の旨を伝えてあった。その時、病院の療育指導室という福祉部門に退院の意志を伝えても、期待通りの反応は返ってこなかった。なぜか、かなり慎重な姿勢であった。いつもどちらかと言えば病院の中でも患者側に近い立場である彼らがなぜそんなに喜んでくれないのかの理由は分からなかった。また、ほかの患者の親たちもこの話については怪訝な顔であった。口では「すごいね、頑張って」と言われることもあるのだが、何か大きな反対勢力を感じていた。それが具体的に何かは分からなかったという。そんな経緯がある中、話が振り出しに戻るというのはかなりの衝撃で聞いた。一度、病院を出ようと思ったとたん、病院にずっといるという気持ちはもうなくなっていたという。
 このアクションリサーチは中途半端で終わってしまう恐れがあった。研究として彼女に関わっている私は単に「重度訪問介護サービスを引き受ける事業所が少ない」として、重度障害者の地域移行を妨げる要因を明らかにしてもよかったと思う。しかし、彼女を傍観するだけではアクションリサーチとはいえないと考え、重度訪問介護サービスを引き受ける事業所を作ることにする。このようなアクションを起こすことにより、その数ヵ月後にもう一人、病院からの自立生活を行う希望者が出て、実際に支援を始めていることもあり、効果的なアクションであったという感触がある。しかし、研究というよりは活動に近いこともあり、彼女たちの人生を変えてしまう大きな取り組みにもなってしまう。そう言う意味で、研究として第三者としてあるというよりは、一つの当事者となっているという面もある。客観性にかける記述になりかねない。

彼女は「一度、病院を出たら、二度と入れない」状況の中にあり、病院側は受身的な対応のみにとどまっている。
これから報告者がつくる事業所にヘルパーが集まるかも分からない。新しく住むところでR氏の在宅医療の病院を探しても、見つかるのかも分からない。この先はどうなるのかも分からない不安だらけの中、怯むことなく、挑もうとする強い気持ちをただ一人彼女は持ち続けていた。

 <平成20年1月〜3月>
 年が明けて、白紙状態のまましばらくが過ぎる。アクションリサーチ継続のためにも事業所の立ち上げをしなくてはならないけれども、その労力を考えるより、東京への引越して重度訪問介護を潤沢に受けることなどを考えたらどうかなどとアドバイスをしていた。
 そこで、東京の某CILに掛け合うが、介護者不足であるという理由からしばらく待ってほしいと言われた。R氏の目標の来春はもうすぐそこに迫っていたので、報告者は重い腰を上げることにし、会社設立と障害福祉サービスの指定申請を1月末に行うことにした。準備には事業所が足りないC市は協力的であった。なんとか指定を出せるようにするから、急いで準備せよと、市の担当者がかなりの労力を費やしてくださった。
 そして、3月1日、晴れて障害者自立支援法に基づく、障害福祉サービスの居宅介護、重度訪問介護、地域生活支援事業の指定を受けた事業所を設立した。
 それにより、アクションリサーチは継続することになる。
 3月1日をもって彼女は病院側に4月1日退院を伝える。また、住民票の住所地の市役所にも4月1日に退院することを伝えた。市の担当者は「一度出たら、もう病院に入れないかもしれません。よいのですか」と、聞いたという。自立の話は同じ患者仲間は、応援してくれている。しかし、話が具体化すればする程、病院側と親の会からは冷ややかな対応があった。それがどうしてなのかははっきりと分からなかった。「あなたは騙されてるわよ」、「一生面倒見てもらえるの?」そんな中、今度はアパートが見つからない。事業所の近くのアパートを当たってみるも、「生活保護を受ける見込みの人にはアパートは貸せない」「難病の人が一人で住むのは困る」と言われてしまう。電動車いすで入れそうなアパートがそもそも少なく、また、生活保護を受けるに当たって、家賃45000円以下という厳しい制約のある中での物件探しは容易ではなかった。もしものときに、誰かが駆けつけることができるようにするためにも、事業所の近くのアパートを探すことも一つの大きな制限となっていた。このような条件をすべてクリアしている住まいなんてないかもしれないと、半分諦めかけていた。良い条件のところには不動産屋側に「難病の人が一人で住むのは、死なれてたときに困るので駄目だ」と言われてしまう。
 こうして、いくつかアパートの不動産屋に電話をかけていると、不動産屋側から事業所が住宅を借りて、住まう形をとるのはどうか、それなら空き店舗を紹介できるという提案を受けた。この提案をR氏に話したところ、二つ返事で了解が出た。会社が大家と直接契約をすること、R氏が住むことは良いが、24時間一人にすることはないという条件を大家さんが希望しているということであった。他に住めるところを選べなかったし、何はともあれ住まいが確保できたのは喜ばしいことであった。保証人は保障会社に依頼してみたが、断られた。その理由が何かは分からない。そうして、連帯保証人をR氏の家族にもお願いしなくてはならなかった。事業所と報告者が個人的に連帯保証人になったが、どうしてもR氏側からの連帯保証人が必要であるということであり、R氏の健常者の兄が連帯保証人となった。それにもかなりの説得を要した。こうして入居がきまることになる。
 同時進行で3月には色々なことをしていた。以下に詳しく記載する。
 ・ 生活保護申請
 R氏は2008年1月新しく住む千葉市中央区の生活保護課に行く、しかし、新住所予定地の生活保護課では住民票が新居に移るまでは申請はできないといわれる。そこで、現在の居住地の四街道市の生活保護課へ行く。退院に備えて、居住地に引っ越すために、敷金礼金18万、家賃45000円の費用の捻出を相談する。入院しながら生活保護の決定を出すことは基本的に難しいと言われ、一旦は相談扱いにとどめられたものの、引っ越し費用がないことにはどうしようもないため、生活保護申請を行う。ケースワーカーには入院継続状態では却下となりますよと言われる。すでに療養介護を受けており、病院という住まいが保証されていることが理由であった。それでは、退院して新居に引っ越しをしてから、引っ越し費用をさかのぼって請求できるかを尋ねたら、それはできないといわれる。
 そこで、病院側の療育指導室に療養介護を短期入所という形にしてもらえないかと依頼するが、そうなると神経内科病棟への一般入院という形しかないので、結局入院という形をとらなくすることができなかった。
よって、退院と同時に必要となる住宅のための費用確保を、入院中の生活保護申請から受給することはできないことが明らかになる。
 それでも、生活保護申請を行うが、却下となる。生活保護のケースワーカーに千葉市の社会福祉協議会の生活福祉貸付金制度(注10)をつかうように薦められる。ケースワーカーからも社会福祉協議会に電話をして説明をしてくれる。しかし、千葉市の社会福祉協議会では「今後、生活保護を目的に自立生活を行う人にお金を貸すことはできない」という回答で、金銭を借りることができなかった。逆に生活保護を受けている人が、そこから抜け出すためならお金を貸すことはできるが、このようなケースはダメだと言われる。そのために、ひとまず支援者にお金を借りることになる。
 R氏は30年間の病院生活では、毎年支給された上下セットのスゥエットをベースにあとはブラウスを上に着ることが多い程度であった。たまの外出着は姪っ子からもらっていた。年に一枚くらいの服を買うかどうか位であった。もしも買ったとしてもなかなか着る機会もない。外出のときに着るくらいだった。病院では介護しやすく、破れにくい服を着ていた。病院内での家財道具は病院の消灯台と棚が一つ、それから、壁に大き目の棚があるだけだったが、これらは全て病院から借りているものなので、購入しなくてはならなかった。もちろんタンス、テレビ、冷蔵庫などはなかった。お金もなく、新居の住所地で生活保護を申請し、一時金をもらうまでは、家具をそろえることがかなわない。しかし、事業所の一部にしてあったので、そこで事業所のものを借りて使うことで何とか生活をまかなう。しばらくはダンボールに穴を開けて使う状態であった。
・ 相談支援事業者
 病院の中にいる間は、病院の中の療育指導室がソーシャルワークをするという前提であったため、地域の相談支援事業者が一緒にアパートを探すなど具体的な動きをしてはくれなかった。また、彼女の地域の相談支援事業者は相当の件数をかかえている実情もあり、細めに電話したりお願いすることはかなわなかった。引っ越しのことや、引っ越してからのことを話すと相談支援事業はエリアがあるので、引っ越し先の相談支援事業所に引き継ぐということであった。それはR氏にとっては予想外の話であった。事前に話をするのは、なかなか時間が取れないということであったので、引っ越しの当日に新たな相談支援事業所に来てもらうこととなる。
 <平成20年4月>
 R氏は退院日を4月16日水曜日に設定する。そのため、退院の一週間前に新居の場所へ住民票を異動することになった。住民票の異動日に、障害福祉サービスの申請ができることになる。ただしこの時点ではおおよその概算で出る障害福祉サービスの重度訪問介護の一ヶ月の時間数は200時間と言われる。あとの話は実際に退院をしてからになるということ。また、障害福祉サービスの審査会があるのが5月22日になるので、それまでは区役所で出せる時間数はそれほど多くはできないといわれる。事業所側はどれだけのヘルパーを雇ってよいのか見通しが立たない。その中で、病院から何人のヘルパーを用意しているのか、と詰問され、混乱は深まる一方であった。
 また、R氏は生活保護課にも行くが、援護課の職員からは退院しなければ申請の受付をしてもまた却下になるだけだからと言われ、相談扱いになる。
 居住地の近隣の訪問看護と往診をしてくれる病院に依頼するも、看護師は引き受けることは可能であるが、生活保護がどうなるのか分からないので、すぐに派遣はできないといわれる。更に、本人に会う前に30代後半の筋ジス患者は、病院に再入院をする時期であって、新たに地域生活をする年齢ではないと地域移行には難色を示される。
 16日午前退院。午前中に退院の手続きを行う。新居のエリアの相談支援事業者に退院時に払う金銭の手続きをしてもらう。退院をしたその足で、生活保護課へ行く。生活保護課では住居の形態が完全なる独居でないので難しいなど指摘される。また、14日で審査することはできませんといわれる。その日から、病院に居たときと全員違う介助者で介助を行う。そのために、慣れている支援者の一人である報告者がR氏と一緒に約10名の新たな支援者に24時間分の介護の説明をしなくてはならなかった。筋萎縮症者の介護は一般的な介護とは全く違っていたために、介護者が不安にならないようにすることが重大であった。R氏は17日に近隣の病院へ行く。筋ジスは嚥下が悪い、毎日ネブライザーをつかうものであるという偏見があったが、「そのようなことは人により、自分は違うのだ」ということを、直接、在宅医に伝える。
 退院当日に、区の障害福祉課から重度訪問介護の支給量を月295時間もらうことが決まる。
22日に関連の事業所とケース会議を本人主催で福祉サービスを提供者の方々を集めて行う。地震になったらどうするのかということ、火事になったらどうするのかという医療側の意見がつづき、あまり前向きな話ができず、R氏はかなりストレスをためることになる。そんなこともあり、R氏の疲れがたまってしまう。R氏のみならず支援者たちも退院から手続きなどで休まらない日々が続く。
その後3週間たっても生活保護課からは連絡がなく、訪問看護も往診もなく、家財も買えず、日用品を買うお金もない状況のまま日が過ぎる。経済的な見通しがたたず、困窮状態に、窮状を訴えに、生活保護課へ行く。

図

2-3,病院を出ることを阻害するもの
 今までの経緯を踏まえ、R氏のような長期間にわたり療養をしていた方が病院から出て24時間他人介護の独居しようとする場合の困難をまとめる。
@ 介護者の確保
 病院側のソーシャルワーカーは退院に対しては不安もあり、基本的には反対していると言うことで受身的に対応をしていた。そのために病院側からの協力が得られず、連携のないまま、R氏とその支援者数人で新たな生活や介護をつくることとなる。R氏は退院したとたんに、全く知らない人から支援を受けることになる。新たな支援者も筋ジスと言う病気が分からず、どのような介助が必要なのか不安が募る。準備期間に病院内で介助者との顔合わせをしたり、少し研修はしたものの、全員にはできなかった。何時間のヘルパーの時間がつくのかぎりぎりまで分からず、ボランティアをしてくれる学生を集めるべきか、お金を払って働いてくれるヘルパーをお願いするべきか迷っていたのが一因である。ヘルパーをしている人たちは基本的にボランティアでは仕事についてくれないし、ボランティアさんは資格をもつておらず、どちらもできる人たちはほとんどいなかった。
A 病院を退院することへの偏見
 R氏の病院を出たい、と言う気持ちとは反対に、大方の専門職が反対意見を述べている。生活保護課のケースワーカーは「このような長期療養のケースでは病院から出てもすぐに時間数を出せないし、病院を出てから独居することはむりなのだとおもいます」と言っている。家族も反対であった。R氏の兄は病院から出てボランティアで独居生活をしていたが、次第に介護者がいなくなり、暮らせなくなり実家に戻っている。その中で、独居を決意し、やり遂げることにはR氏は後ろめたさを感じていたとのこと。また、在宅の訪問看護や医療ソーシャルワーカーたちも「30歳後半の筋ジス患者は再入院の時期だ」と本人に会う前から述べていた。入院していた病院からの申し送りの情報からの判断であるが、主治医が「退院はとてもできない」と書いていたそうである。
 主治医の意見は地域医療との連携を困難にしていた。
B 経済的見通しが立たない
入院中に生活保護の申請ができないために、住居の確保ができない。また、往診なども保護の決定が下りるまで、来てもらえなかった。
C 相談するところがない
病院を出て移転をすると言う場合に相談支援事業者の管轄問題などがあった。もしかしてこれはこの地区特有なのかもしれないが、包括的に個人を支援することができない状況にある。また、この病院の中には民生委員は来ていなかった。病院のソーシャルワーカーと言うか、主治医が退院を否定的に捉えると、医療と福祉の連携は一切取れなくなる。
 2-4,制度上の困難
生活保護障害福祉サービス相談支援事業者
入院時の申請が不許可となってしまう独居先が変わるので、支給時間が退院まで不透明管轄により、病院にいるときと退院後は変わった
申請から決定まで一ヶ月以上かかる上記により、事業所側のヘルパーの確保の困難病院内の支援が困難
居住場所に制限があり標準支給量を超えて、審査会にかかると時間がかかる多くの件数をかかえているため、まめな支援が困難

2-4-1,明らかになった課題
 多くの長期療養者が病院を出たいことを考えている中、それが実現しないことには多くの原因があると思われる。制度上の問題と、家族や医師の主観による否定的な捉え方により、地域の連携を妨げてしまうことの二つの問題があるように思われた。
 現行制度では、サービス提供側や専門職側のテリトリーの中で支援を行っており、本人を中心とした支援を行うことができない。そこには医療職と福祉職の連携の悪さ、管轄や申請の条件などの縦割り行政の制度上の問題点も大きくあると思われる。
 また、一人の人の支援をするにあたり、それが病院であっても、地域であっても、実現が難しい事例であっても、本人の気持ちの寄り添う支援が一番大切であるはずだ。特に医師は他の人間の人生の決定権者になり得ないことを自覚する必要がある。
人権擁護の観点からも、このような支援は必要である。また、地域に出るにあたり、病院で一定期間、地域移行後の支援者が練習に入る必要がある。それは介助者となる人にも必要である。そのためにはこの期間は介護保険(障害福祉サービスも)と医療保険の二重給付を認める必要がある。その移行期間は介護保険と医療保険の二重給付を行ってよく、その期間(例えば1ヶ月)は診療報酬と介護報酬との折半することを制度上可能にするべきである。そのようなことから、連携をできるようにすること。又、その期間に生活保護の申請や、自立後のサービスの支給量を決定できるようにしておくことで、ヘルパーの確保も可能となる。そうすれば、患者側はある日突然すべての介助者が変わる、とか、明日の生活が金銭面を含めてどうなるのかと言う不安をしなくてよいこと、また、空白期間をつくらずに済むことができるようになる。そうすれば、社会的入院の解消にもつながることができる。

そのため、こちらの事例については、福島県から千葉県への家族の引っ越しが見込めないため、中断中である。
現在は、一時退院を12月25日から始めると言うことになっているが、正式な退院は未だ見込めないままである。彼女に病院を出る自由は言い渡されぬままである。


2-5, 昨年12月に病院を出たM氏の状況
 次に昨年12月に、病院を出たM氏の状況について報告する。彼女は10歳から21年間筋ジス病棟で入院している肢帯型筋ジスの女性である。R氏と同じ病院で暮らしていた。
2-5-1,調査対象者の主な困難
  ・ 体の障害と病気について
   現在の障害の状態としては四肢機能全廃、しかし指先はほんの少し、言語障害はない。車いすには長く座ることができるが、細かな調整が必要となる。座位はコルセットなどの補助具があれば可能。嚥下機能の低下もある。夜間は鼻マスク人工呼吸器を装着している。肢帯型筋ジスと呼ばれる型である。介護方法はさほど難しいわけではないが、筋ジス特有の介護方法がある。具体的には体のバランスをとるのが難しいので、バランスをとれるように首や手足の動かし方をミリ単位で行う。R氏とおなじで21年間の療養生活と言っても、病気の治療をしているわけではない。毎日体温だけは測った。また、医師と病気の話をすることも年に1、2回風邪を引いたときくらいである。年に一度、検査をするくらいであとは特に治療はしていない。
 ・ 生活における問題
  R氏と同じで、21年に及ぶ病院生活による社会経験の不足。
・ 制度上の困難
 彼女の自立に最も困難であったのは、夜間の人工呼吸器の電源を誰が入れるのかという問題であった。これは医療的ケアと呼ばれている行為である。(注11)
10月に行われたサービス調整会議にて担当医師のM先生が発言した内容では「人工呼吸器の操作は医療行為ですから、人工呼吸器のスイッチは医療者でないと入れることはできません。(注12)本来はご家族もダメなのに、どうにかご家族ならよいというのが今の法律のぎりぎりのラインです。ですから、ご家族が引っ越してきて面倒を見るとか、訪問看護が必ず夜間来て装着できなくては、病院側として退院を承諾することはできません」ということであった。地元の訪問看護は月曜日から金曜日まで朝と夕方に鼻マスク人工呼吸器の装着に来るという。
そして、土日に関しては親が面倒を見ることになる。しかし、現実的には毎度は来られない。訪問看護側もホームヘルパーは医療行為をやってよいとは思えないという。そんな中、ご本人もご家族も同意をするのでホームヘルパーに鼻マスク人工呼吸器の装着をしてほしいという。
緊急の対応のためにも、病院の主治医に人工呼吸器の操作方法やアンビューの使い方などの研修をお願いするが、家族以外のものにはできないと言われてしまう。
 その後、生活保護を受ける予定で45000円のアパートを探し、受け入れてもらえたが、入り口にスロープを作りたいので、市に住宅改修費の申請をしたところ、車椅子ユーザーであるのに、バリアフリーのアパートを探さないこと自体がおかしいと市の担当者に言われ、住宅改修工事の補助を受けられなかった。生活保護を受けての自立生活では、居住の場が制限される。一つに生活保護者を受け入れないアパートが多いこと。そして、家賃がこの地区では45000円となっていることがある。この地域ではかなり安い家賃の45000円以内でバリアフリーの住宅など見つけることはほとんどありえない。
 その後、S氏は最初は年末年始だけという条件でひとまず退院した。
病院を出て、マンツーマンの介護を受けるようになり、よく眠れると言っていた。更に数日後には、どうしても病院に戻りたくないと主張し始めた。
障害福祉サービスの標準支給量を超える部分について審査する日程は、1月22日であった。それまではヘルパーが使える時間数は295時間であったので、到底足りず、44万円の介護費用の自費が発生することになってしまうので、病院に一度戻るように勧めた。市の担当者も「他の市町村からの転入だと、退院前に審査会を通せない制度の不備がある」と、言っていた。
その後、Sさんは「44万円を分割払いしても良いので病院には絶対に戻らない」と、強く主張し、それを受けて、市の担当者が、44万を特例給付で償還払いしてくれたので、地域生活は継続できることになった。

図

3, まとめ   
3-1, 病院を出てから、重度訪問介護での地域での経済状況を見る
 R氏S氏共に障害福祉サービスのみの利用である。
@ R氏 重度訪問介護 時間数804時間
     入浴援護サービス 月10回(うち6回は生活保護の他人介護料から)
     福祉用具 ベッド
 AS氏 重度訪問介護 時間数(事業所の請求金額)
     入浴援護サービス 月10回(うち6回は生活保護の他人介護料から)
     (どちらも住宅改修費がかかっている)

3-2, 問題点
@ 住宅探し(生活保護との絡みから家賃の制限があり更に困難)
A 住宅改修費がでなかったので、高い自己負担で行った。
B 重度訪問ではコストがかかりすぎる。
C 多くの介護者を雇っていても、一人の利用者が入院したとたんに介護者は職を失ってしまう。

3-3, 難病ケアハウス構想
@ 事業所が同じ敷地に事業指定をとる
A 2〜4名の難病の方の部屋をつくる(余った部屋はレスパイト、あるいはチャレンジハウスにする)
B 一人月140万〜170万円の上限でサービスを展開(サービス内容、常時の介護、入浴、家事全般、食事提供)
C 行政側が利用者1人7〜10万円の家賃補助を事業所側に出す。(10年間は事業を行うということを約束の上で)。
D 訪問看護や往診との連携をとる。
E 利用者側の自己負担は30000円とする。生活保護を受け居ている方でも入れるようにする。

バリアフリーになっているマンションの1室を借りて、事業指定をとる。
個室2〜4部屋、リビング、台所、介護者待機と事務室を作る。トイレ、風呂は共同とする。夜間は常時2人以上のスタッフがおり、日中はマンツーマンで介護者をつけることにする。夜間は2名体制で行う。


1.現在の独立行政法人国立病院機構である。
2.3箇所の自立生活センターに依頼し、15名に施設や病院を出て自立生活を始めた方を対象にその違いや、出るに当たって困ったことなどに答えてもらった。
3.アクションリサーチとは、心理学、教育学、組織論で発展してきた実践的な手法であるが、それぞれ少しずつ違う。しかし、共通している点は「アクションリサーチは当事者の力づけによって社会実践の改善を目指すための一連の研究活動である」というところであると、草郷孝好(2007;254)は言っている。
4.現在、「特別支援学校」と名称変更。
5.筋ジストロフィーの主な型 デュシェンヌ型、肢体型、
6.病院の中でボランティアを使う場合のボランティア委員会の中での決まりにより、ボランティアとはこのような関係になっている。
7.病院の外出の規則による。外泊届けは、外出する当日の1日前までに(土日は受付はない)、行き先、時間、付き添い者、食事の欠食や雨天はどうするのかなどの項目を外出許可書を療育指導室へ提出し、サインをもらって、医師からの承諾を得る。
8.障害者自立支援法第77条第1項第1号に規定「障害者等が障害福祉サービスその他のサービスを利用しつつ、その有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、地域の障害者等の福祉に関する各般の問題につき、障害者等、障害児の保護者又は障害者等の介護を行う者からの相談に応じ、必要な情報の提供及び助言その他の厚生労働省令で定める便宜を供与するとともに、障害者等に対する虐待の防止及びその早期発見のための関係機関との連絡調整その他の障害者等の権利の擁護のために必要な援助を行う事業」
9. 全国広域協会HP http://www.kaigoseido.net/ko_iki/index.shtml
10. 他からの融資の受けられない所得の比較的少ない世帯、家族の中に日常生活において介護が必要な高齢者(65歳以上)や身体障害者(身体障害者手帳所持)、知的障害者(療育手帳所持)、精神障害者(精神障害者保健福祉手帳所持)のいる世帯の自立と安定に役立てていただくための貸付制度で、市区町村の社会福祉協議会が窓口となって運営している。
11. 医療的ケアとは「経管栄養・吸引などの日常生活に必要な医療的な生活援助行為を、治療行為としての医療行為とは区別して『医療的ケア』と呼ぶことが、関係者の間では定着しつつある」 日本小児神経学会社会活動委員会『医療的ケア研修テキスト』かもがわ出版 2008(8)
12. 医師法第17条「医師でなければ、医業をなしてはならない」
医師法17条に規定する「医業」とは、当該行為を行うにあたり、医師の医学的判断および技術をもつてするので案蹴れば人体に危害を及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為(医行為)を、反復継続する意思をもつて行うことであると解している。(在宅及び養護学校における日常的な医療の医学的・法律学的整理に関する研究会 第一回 厚生労働省からの提出資料)


2、中野班 「重度障害者等包括支援について ―京都市・福岡市・中野区・盛岡市における調査から―」

佐藤 浩子 
1,はじめに

ほとんどの自治体で、障害者自立支援法の介護給付のメニューの一つである「重度障害者等包括支援」(以下、「重度包括支援」という)のサービスが利用されていない。(注13)1.なぜ、使われていないのか? 2.なぜ、重度包括支援の事業者がいないのか? 3.重度包括支援は必要とされているのか? 4.どうすれば重度包括支援が使えるのか?  主にこの4つの問題点を検討するために、京都市、福岡市、中野区、盛岡市の4つの自治体を調査した。京都市、中野区、盛岡市は、重度包括支援の対象になる在宅のALS患者の協力が得られ、当事者への聞き取り調査もできることから、調査対象地域に選んだ。また、福岡市については京都市と人口規模が近いこと、南の地域であることから、比較のために調査対象地域に追加した。


2,重度障害者等包括支援サービスの利用はゼロ

京都市、福岡市、中野区、盛岡市は、在宅のALS患者等、重度包括支援の対象者はいるが、重度包括支援の支給決定者数は0となっている。
本来「重度包括支援」の支給決定の対象となるえる対象者数は、中野区の場合を例にとると、重度訪問介護サービス利用者47名のうち、ALS等により気管切開を伴う呼吸管理を要する身体障害者が9名、身体障害と知的障害の重複する重度心身障害者が4名、計13名存在する。また、中野区内の指定重度障害者等包括支援事業者は2事業所あり、近隣区(新宿、渋谷、練馬)にも4指定事業所が存在する。しかし、重度包括の利用者はいない。
中野区は、重度包括支援のサービス内容についてのPRが不足していること、サービス事業所の確保が課題であるとしている。盛岡市は、重度包括支援を行う指定介護事業所が0ヵ所であること自体が課題だとしている。では、事業者の確保に対して、自治体はどのような働きかけを行っているのだろうか。


3, 事業者へ重度障害者等包括支援実施の働きかけ―京都市の事例―

京都市が具体的に独自の文書を作成し、事業者への働きかけを行っている。京都市は、2008年4月、各訪問系サービス事業所へ「重度障害者等包括支援の取り扱いについて」の通知を出し働きかけた。京都市の包括支援事業所は、2ヵ所とも、元は訪問系サービスの事業所(居宅介護、重度訪問介護、行動援護事業所)であり、これ以外の日中活動系サービス(生活介護等)や居住系サービス(共同生活介護等)等を包括的に提供できる体制が整備されていない状況である。また、他に同一法人でこれらのサービスの事業所を包括的に有するところも少ない状況にある。したがって、現在の京都市内の重度包括支援事業所が、生活介護や共同生活介護に相当する部分を含め、重度包括支援を提供するためには、別の指定事業所と委託契約を結ぶこととなる。このような京都市内の状況・特性を踏まえ、市内の重度包括支援事業所の指定及びサービス提供を促進する観点等から、同一事業所が、重度訪問介護と居宅介護の組み合わせでも、支給決定できる(2008年2月4日に国から確認)重度包括支援のモデルプラン(注14)や、重度障害者等包括支援委託契約書の雛形(注15)を作成して配布した。このように、京都市は、自治体の地域特性に配慮した文書を出し、事業者確保と支援に努力した。しかし、利用に結びついていない。自治体の努力だけではカバーできない問題があると考える。


4, なぜ、重度障害者等包括支援が利用されないのか
 
 なぜ、重度包括支援が利用されていないのか、各自治体の担当者に意見を聞いた。聞き取りの中から、主に以下のような問題点が浮き彫りになった。

@ 対象となる重度障害者にとってメリットがない
・ 京都市や中野区は、重度訪問介護サービスを、必要なだけ幅を持たせて支給決定しているので、対象者にとって、重度包括支援のサービスの必要性が感じられない。
・ 重度包括支援は、居宅介護や生活介護など、単独のサービスの組み合わせであり、全身性障害者介護人派遣事業(注16)のように、一定の枠内でサービスを自由に使えない。全身性障害者介護人派遣制度の方が融通のきく使い方ができた。
・ ALS等により気管切開を伴う呼吸管理を要する人が、利用できる短期入所や通所事業など、組み合わせることができるサービスがない。

A 事業者にとってメリットがない
・ 複数のサービスをパッケージで提供する重度包括支援は、1つの法人で複数のサービスを行っているところが受ければよいが、ほとんどの場合、居宅介護事業所が、個別にサービスを、他の事業者に委託契約することになる。手続きが煩雑になるのに、報酬単価が低く、居宅介護事業者にとってのメリットが感じられない。
・ 責任がコーディネートする居宅介護事業所にかかり、委託契約した他の事業者との報酬の分配においても、頭を悩ますことになるが、それに対する評価がない。
・ 重度包括支援より、居宅介護や重度訪問介護などの単独のサービスを組み合わせた方が、介護報酬がいいので、重度包括支援を受ける事業者がない。

 以上のような理由で、対象者にとっても、事業者にとっても、重度包括支援はメリットがなく、4つの自治体とも、重度包括支援の利用者がいないという結果になっている。問題点を解決するための、見直し策が必要であると考える。


5, 重度障害者等包括支援をどう見直せばよいか

 自治体への聞き取り調査の中で、以下のような意見、提案が出された。
・ コーディネート費用、サービス計画作成費用等を換算するなど、手間に見合うよう報酬単価を上げる。
・ 重度包括支援の中に、相談支援料を使えるように見直す。
・ 重度包括支援の対象者を緩和する。
・ 全身性介護人派遣事業のような融通のきく使い方ができるように見直す。
・ 通所施設や短期入所施設等での、ALS難病患者など医療的ケアを必要とする障害者の受け入れ体制を整備する。
・ 重度訪問介護のヘルパー付で通所施設や短期入所施設等が利用できるようにする。
・ 重度包括支援の仕組みやサービス内容についてのPRをする。
 
 一番必要な見直しは、重度包括支援の報酬単価を引き上げ、事業所を確保することである。そして、短期入所施設や通所施設等を、医療的ケアを必要とする障害者が利用できるよう仕組みを整えることが必要だと考える。


6, 自治体の障害福祉計画における重度障害者等包括支援

@ 重度障害者等包括支援の見込量

重度包括支援の見込量は単独では算定されておらず、京都市、福岡市、盛岡市は訪問系サービス(居宅介護・重度訪問介護・行動援護・重度包括支援)として一括して算定されている。中野区は重度訪問介護として見込量を計上している。現状では重度包括支援の利用がなく、計画においても必要量が見込めないということだと思う。

・ 京都市―訪問系サービスの月あたりの見込量
平成23年度見込量 98,477時間分・利用者見込数2,698人分
(平成18年度見込量 70,846時間分・利用者見込数1,941人分)

・ 福岡市―訪問系サービスの月あたりの見込量
平成23年度見込量 93,725時間分
(平成18年度見込量 55,025時間分)

・ 中野区―重度訪問介護の月あたりの見込量
        平成23年度見込量 14,046時間分・利用者見込数60人
(平成18年度実績 10,757時間分・利用者数41人)
      居宅介護の月あたりの見込量
        平成23年度見込量 5,820時間分・利用者見込数603人
        (平成18年度実績 4,008時間分・利用者数270人)
      行動援護の月あたりの見込量
        平成23年度見込量 168時間分・利用者見込数7人
        (平成18年度実績 57時間分・利用者数3人)
   合計 訪問系サービスの月あたりの見込量
        平成23年度見込量 20,034時間分・利用者見込数670人
        (平成18年度実績 14,822時間分・利用者数314人)

・ 盛岡市―訪問系サービスの月あたりの見込量
平成23年度見込量 4,482時間分
(平成18年度見込量 3,199時間分)



A 障害福祉計画への重度障害者等包括支援についての記述

・ 京都市、福岡市の第1期障害福祉計画への記述はなし。

・ 盛岡市障害福祉実施計画における重度包括に関する記述
訪問系サービスの項で記述
「重度障害者等包括支援では、障害程度が重く意思の疎通に著しい困難を伴う人に対しして、居宅介護等の複数のサービスを包括的に行います。」
「重度訪問介護や重度障害者等包括支援については、サービス内容や対象者等について十分な情報を提供するとともに、サービス提供事業者の参入の促進を図るなど事業者の確保に努めます。」

・ 中野区第2期障害福祉計画における重度包括に関する記述
重度障害者等包括支援の項をもうけている。
「介護の必要性が特に高い人に、居宅介護等複数のサービスを包括的に行います。」
「サービス見込量については、指定事業者のサービス提供が進まない現状から利用見込者数及び時間数を見込むことが困難であり、重度訪問介護に合わせて計上します。常時医療的なケアを必要とする障害者等が複数のサービスを組み合わせて利用することで、地域生活を支援するものですが、東京都内でも利用実績のないのが現状です。対象となる重度障害者に対して包括的なサービスを提供できる事業者が極めて少ないことが理由と推測されますが、可能な限り区内でサービスを利用できる環境を整備するために、事業者の支援・確保に努め、必要な支援を適切に実施します。」
中野区では、第1期計画では重度障害者等包括支援の利用者見込数を、18年度計画11人、19年度計画12人、20年計画13人と、計画見込数を記述していたが、いずれも実績がなかったことから、第2期計画では、見込量を重度訪問介護に合わせて計上することとした。

 中野区の計画における重度包括支援の記述が一番詳しい。重度包括支援に対する、問題意識の現われだと考える。その背景には、ALS難病患者団体や関係事業所の地域での熱心な取り組みがある。


7, 考察

 中野区では、ALS難病患者を専門にサポートする重度訪問介護を行う事業所があり、重度包括支援に対する行政の関心が高い。そのため、障害福祉計画への記述も詳しくされていると考える。中野区は、中野区だけでなく都内でも利用実績がないのは、包括的なサービスを提供できる事業者が極めて少ないことが理由だと推測している。盛岡市も、重度包括支援を行う指定介護事業所がないことが課題であると言っている。京都市は、事業者確保のために、訪問系サービスの組み合わせによる重度包括支援のプラン事例や、委託契約書の雛形まで用意し、情報提供に努めたが、重度包括支援を実際に提供する事業所は現れなかった。手間がかかるのに介護報酬が低いことが、重度包括支援を行う事業所が現れない、最大の原因だと考えられる。
 京都市と福岡市は、人口が約140万人で人口規模が似ている政令指定都市である。また、中野区と盛岡市も、人口が約30万人と人口規模では似ている自治体である。資料の「重度障害者等包括支援サービス等に関する自治体比較表」を参照していただきたい。人口規模は似ているが、居宅介護費が大きく違う。
 2007年度決算で比較した、中野区の保健福祉費は約302億6500万円、障害福祉費は約49億4000万円、盛岡市の保健福祉費は約269億円、障害福祉費は約37億円と、盛岡市が少し少ないくらいで、金額の桁はあまりかわらないが、居宅介護費等は、大きく違う。中野区が約4億1千万円に対して、盛岡市は約7700万円で、とても少ない。障害者手帳の所持者数は、盛岡市は身体障害者手帳所持者が約9300人、中野区が約7500人、療育手帳の所持者数は、盛岡市が約1700人、中野区が約1100人と、盛岡市の方が若干多いくらいなのに、在宅サービスの中心である居宅介護費が、盛岡市は中野区の約5分の1くらいと、圧倒的に少ない。また、京都市と福岡市は人口規模が同じくらいだが、居宅介護費等は、京都市が約31億7200万円であるのに対して、福岡市は約17億9千万円とかなり少ない。
都市部と地方では、介護に関する地域性が大きく違うと考えられる。居宅介護等の最高利用時間数も、京都市900時間、中野区744時間に対して、福岡市186時間、盛岡市372時間で、地方都市の方が利用時間数も少ない。盛岡市など雪国の地方都市では、施設入所や家族介護が中心になり、重度障害者の在宅サービスの利用が進んでいないと考えられる。そのため、重度包括支援どころか、重度訪問介護を行う事業所も少ないと考えられる。
盛岡市も福岡市も、重症心身障害児・者数の把握がされておらず、医療的ケアを利用している人数や、ALS難病患者の人数も把握されていなかった。重度包括支援の対象になる、重度の医療的ケアを必要とする障害者は、在宅福祉の領域よりも、医療の領域の病院や療養型施設などの入所対象になっていると考えられる。
ALS難病患者の在宅生活を支えることなど、具体的な事例を通して、自治体は、医療的ケアを必要とする障害者の在宅サービスの充実に関心を持たざるを得なくなることが、中野区の例を見てもわかる。今回、盛岡市、中野区、京都市では、具体的に、ALS難病患者の在宅生活の支援を通して、重度包括支援のあり方についても考えていただき、さまざまな資料提供やご意見をいただいた。
対象者の実態を把握することから、制度設計ははじまると考える。重度障害者の具体的な事例に自治体が関わり、実態を把握することで、重度障害者の在宅生活の支援に実効性がある、重度包括支援の改善策について、自治体側からも提案していけるものと期待する。

8、中野調査班のまとめ

「なぜ、重度包括支援が使われていないのか?」「なぜ、重度包括支援の事業者がいないのか?」その理由について、4つの自治体の調査の中からも明らかになった。「重度包括支援は必要とされているか?」との問いには、現在のしくみでは、必要とされない、利用しにくいことも明らかになった。「どうすれば重度包括支援が使えるのか?」との問いにも、「4.重度障害者等包括支援をどう見直せばよいか」の項のところで、触れたように、「報酬単価の引き上げ」「相談支援の評価と位置づけ」「全身性介護人派遣事業のような切れ目のない使い方への改善」など、見直しの課題も見えてきたと考える。今後、これらの問題点や課題等が、重度障害者等包括支援の仕組みの改善に生かされることを期待したい。


参考資料

・ 「在宅療養中のALS療養者と支援者のための重度障害者等包括支援サービスを利用した療養支援プログラムの開発」事業完了報告書:2008年3月31日 特定非営利活動法人ALS/MNDサポートセンターさくら会
・ 盛岡市障害者福祉計画:2005年3月 盛岡市
・ 盛岡市障害福祉実施計画(平成18年度〜平成23年度):2007年3月 盛岡市
・ 盛岡市平成19年度決算に係る主要な施策の成果に関する実績報告書:盛岡市
・ 京都市障害保健福祉のしおり:2008年3月 京都市保健福祉局保健福祉部障害保健福祉課
・ 第1期京都市障害福祉計画:京都市
・ 京都市保健福祉局保健福祉部障害保健福祉課 事務連絡「重度障害者等包括支援の取扱いについて」:2008年4月7日 京都市保健福祉局保健福祉部障害保健福祉課
・ 重度障害者等包括支援委託契約書(雛形):京都市保健福祉局保健福祉部障害保健福祉
・ 福岡市の障がい福祉:2008年7月 福岡市保健福祉局
・ 第1期福岡市障がい福祉計画:2007年3月 福岡市
・ 平成19年度決算説明資料 保健福祉局分:福岡市
・ 第1期中野区障害福祉計画:2007年3月 中野区
・ 第2期中野区障害福祉計画:2009年3月 中野区
・ 中野区平成19年度決算説明資料:中野区
・ 中野区における医療的ケアを必要とする障害者及びALS患者の実態について:2008年11月18日 中野区障害福祉担当

表

表


13.在宅療養中のALS療養者と支援者のための重度障害者等包括支援サービスを利用した療養支援プログラムの開発」事業完了報告書より
14.モデルプラン例「重度訪問介護と身体介護の組み合わせ」―総費用額1,819,458円
 資料:京都市保健福祉局保健福祉部障害保健福祉課 平成20年4月7日事務連絡「重度障害者等包括支援の取り扱いについて」参照
15.資料:京都市保健福祉局保健福祉部障害保健福祉課作成「重度障害者等包括支援委託契約書(雛形)」参照
16.全身性障害者介護人派遣事業:
「全身性障害者介護人派遣事業」は、東京都が他の自治体にさきがけてつくった。在宅の重度の全身性障害者に介護人を派遣する事業。障害者自身が介護人を推薦でき、研修も必要とせず、硬直したホームヘルパー制度の欠点を補い、障害の重い人が地域社会で生活する上で、極めて利便性が高い。しかし、支援費制度導入で廃止となり、都内では重度脳性まひ者介護人派遣制度は残っている。

3、京都班 「独居ALS患者の在宅移行支援」
(1)――二〇〇八年三月〜六月
西田 美紀

■はじめに/経緯

 本稿は、以下に続く山本・長谷川・堀田の論文で報告・分析される参与観察研究の、いわば「前史」となる経緯を記述するものである。本稿を含めて以下四本の論文が報告し検討するのは、独居ALS患者の病状の進行に合わせた生活支援体制構築の過程である。今回、私たちは、一人暮しをしていたある患者の病状が悪化し、生活支援体制を立て直すために入院し、そして体制を再構築して退院するまでの過程にインフォーマルな支援者として随行し、様々な問題に衝突し、それに翻弄され、対策を探る中で、独居ALS患者の在宅生活を可能にするための諸課題の一端を垣間見ることができた。本稿では、この一連の過程の中でも、主に、進行により在宅生活が困難になって、在宅生活体制立て直しのために入院するに至るまでの過程を記述する。そして、長谷川・山本・堀田は入院してから退院するまでの期間の後半、とくに諸機関と交渉・調整を繰り返しつつ病状に合わせた支援体制で退院する体制を構築するまでのプロセスを記述し、そこにあった様々な課題とその要因を分析する。
本稿の筆者は、現在は外来診療と認知症・難病デイケア併設のC診療所で看護師をしながら、大学院で研究に従事している。二〇〇七年まで二年間在籍していた立命館大学・大学院応用人間科学研究科では、サトウタツヤ教授(文学研究科心理学専攻)の紹介により、厚生労働省の難治性疾患克服研究事業「特定疾患の生活の質(QOL)の向上に資するケアのあり方」★01に関する研究班の主任研究者であった中島孝医師(川口有美子によるインタビューに中島・川口[2008])が推奨するSEIQoL−DW(個人の生活の質評価表)を用い、独立行政法人国立病院機構新潟病院協力のもと入院中の筋ジストロフィー患者(男性三名・平均年齢六三歳)を対象にQOLの調査研究を行った。この研究を論文『SEIQoL−DWから捉えた個人のQOL−筋ジストロフィーの病を伴う人の語りから−』(西田[2007])としてまとめた直後、『ALS――不動の身体と息する機械』(立岩[2004])を読む機会を得て、ALS患者の生存に様々な課題があることを知り、筆者は、立岩真也教授のもと(立命館大学大学院・先端総合学術研究科)に二〇〇八年四月から進学する予定となっていた。
そして、進学の直前に、勤務先のデイケアで、深く沈み込む一人暮らしのALS患者に話しかけたのが、以下の一連の報告の主役となるSとの最初の出会いであり、また、本研究のはじまりだった。

■倫理的配慮と研究期間

入院中に支援者として関わることになったS(実名記載については、本人から直接同意を得られているが、以下ではSと記す)には、研究に関する説明書に沿って、研究目的・方法・倫理的配慮についての説明を行い、自署が困難であったため代筆者による署名によって同意を得た。本稿を含む四本の論文全体を確認してもらい、発表の承諾を得た。発表に関する承諾について、さらに付言しておくべき点がある。本調査研究の報告者は、同時にSにとって支援者でもあり、利害関係者であるため、Sには私たちの依願を拒否することが困難であるという可能性があるからである。この可能性(危険性)には十分に配慮したつもりだが、今後もつねに配慮が求められる点としてここに明記しておきたい。
調査期間は、二〇〇八年三月から同年七月一三日の退院に至るまでである。本稿では、Sが入院し、研究事業(山本論文のはじめに/経緯と★02を参照)に組み込まれて、在宅療養生活体制の再構築に向けて事態が展開し始めるまでの経緯を描く。長谷川論文および山本論文がその後、退院後の生活支援体制再構築に向けた支援の経緯と退院に至るまでを記述し、堀田論文でとくに支援体制再構築に必要な課題を整理する。七月一三日に退院して以降、Sの独居生活は本稿執筆時点(二〇〇八年十二月)において継続されている。今回、私たちが報告する内容についても、退院後の生活の記述も合わせて大幅に改稿して、厚生労働省事業報告書の一部として二〇〇九年三月に別途発表される予定である。
なお、本研究の記述と分析は、独居ALS患者の生活支援体制を構築するための過程に、私たちが支援者として関与した中で、支援者としての目に映った限りの知見★02に基づいており、その意味では、必ずしも「中立的」な観点からのものではないという限界がある。しかし同時に、以下四本の論文で詳細に記述し分析していくように、独居ALS患者Sの在宅生活を十分に安全かつ快適に営むために必要な体制構築にとって、既存の制度に多くの壁が存在したこともまた事実である。そこでは、私たちは既存の諸制度にときには対立する立場をとらざるをえなかった。また、今後のSと医療・福祉機関との関係への配慮に基づいて、記載・報告を断念せざるをえなかった事実も存在する。

四本の論文で記載されている内容は、あくまでも患者Sと支援者の立場からの記録に基づく考察であり、看護師やケアマネージャー、ケースワーカーらの立場からの多角的な分析には及んでいない。たしかに私たちが、看護師やケアマネージャーの対応に困惑し、翻弄されたことは事実である。しかし一方で、彼らの役割が社会的に規制されているという事実から、看護師やケアマネージャー、ケースワーカーがそのような態度、対応をせざるを得なかったことも十分に考えられる。つまり、少なくとも彼ら自身の態度や言葉は、彼らを取り巻く社会的な背景(職域、労働環境)が影響しており、必ずしも彼ら個人の考えに基づいたものではないということである。私たちは研究者という立場から、そのような態度・対応をせざるをえなかった背景に目を向け、その要因をSの事例から検討することが求められる。

■S(60歳・男性)の生活暦 病状経過
 Sは一般企業に長年勤務していたが早期退職、最後の職はタクシーの運転手だった。事情により一〇年前程から単身生活をしており、二〇〇六年夏頃より左手指の握力・感覚低下を自覚し近くの医院を受診する。原因不明で経過観察となったが、左肩から手指にかけての痛み、自転車で転倒するなどの症状が悪化したため、二〇〇七年五月に他の病院を受診し、大学病院であるB病院を紹介され、六月の検査入院によりALSと診断された。七月の退院と同時に会社を退職し、自宅で訪問看護と介護(要介護度二)を受けながら生活し通院していた。同年一二月に胃ろう★03造設目的で再入院し、二〇〇八年一月に退院。二月より筆者の勤務先であるC診療所に通所するようになった。 

■三月・診療所で

 筆者がSと出会ったのは三月二二日だが、三月上旬に診療所のA医師(神経内科医)から独居のALS患者が通所し始めたことは事前に聞いていた。A医師は表情を強張らせながら、Sが人工呼吸器を装着しないと事前指示書にサインしていることを気にしていた。A医師はこれまでの臨床経験から、インフォームドコンセントや事前指示書にまつわることで、ALS患者の生死の自己決定を懸念していた。医師の告知や病状説明の仕方には個人差があり、その差が患者の生死に大きく影響しているということだった。筆者が、立岩が書いたALSをめぐる本に中にもそのようなことが書かれていることを伝え、進学する大学院に日本ALS協会とNPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会の理事を務める川口有美子が在籍しており、ALSの研究や支援をしているようだと話すとA医師の表情が少し変わった。A医師は、とりあえず現状では濃厚な医療管理が出来ないので、徐々にデイケアの回数を増やしたいと、三月十日よりデイケア一回/週から二回/週に増加となった。
 大学院の紹介はしたものの、筆者には難病=家族介護のイメージしかなく、研究科の具体的な活動についても知らなかった。帰宅後に、インターネットで川口について検索し、川口の母の療養記録を読み、生存学のホームページを辿ってALSに関する項目を検索した。その中で、ALS患者の独居生活支援に研究科が携わっていたことを知った。その人はK氏で、Sと同じ市に居住していた。

 *後に、一月三一日の初診時のカルテを確認すると、A医師は「家族のサポートが望めず、本人は在宅で生きたいという希望はあるもののあきらめている。その中でどう本人の希望を引き出すかが問題。最終的には療養型への入院を考えているようだが、果たして療養型で入院できる病院があるのか?特定疾患病棟はどうか?当院が濃厚に関わり、本人のニーズを確認し、そういう方向でのプランはどうか?」と、疑問符の目立つ記載をしていた。

三月二二日
 デイケアのフロアに涙目で顔を歪めているSがいた。声をかけると「体が…体が…どんどん動かなくなっていく」「痛くて…痙攣も強くて…眠れなくて」と泣き崩れた。数分後、Sはこれまでの経過や現在の生活について話しだした。
 「おかしいと気づいてから診断されるまで一年程かかった。診断される直前まで仕事をしていたので、不自由な体で不安だった。診断後に主治医より、家族介護がないと難しいと言われ、人工呼吸器をつけるかつけないか尋ねられ、病気のこともこれからのこともいったい何がどうなっているのか状況がつかめなかった。その後は病気のことを調べたり、書類の手続きで役所に何度も足を運んだが、思うように体が動かず、疲労感も強くなり、いろいろ考えているうちにもうしんどくなってきた。最近はすぐこける。体の痛みと痙攣で夜も眠れない。ヘルパーが雑炊を作り置きしてくれているが、食欲がないからエンシュア(総合栄養剤)を飲んでる」。
 事前指示書のサインについては、「一人暮らしやし、家族には頼れないから、迷惑かけたくないから…あー書くしかなかった。仕方ない…」と言い、献体に申し込んでいることを誇らしげに話した。理由を尋ねると、「この体でそれぐらいしか役立てんやろ」と苦笑いした。返す言葉がなかった。
「あの…Sさんは仕方ない、と思ってるんですか?介護する人がいないから?いたらどうですか?生きられる環境があれば?」(筆者)
 「そりゃー生きたいわ、誰でも生きたいやろ」(S)
 「独居だろうが、誰だって生きる権利はあるじゃないでしょうか」(筆者)
著者が誰に向かって言っているのか分からないようなことを言うと、Sは再度泣き崩れた。少し時間をおき、近くに独居で在宅生活をしているALS患者がおり、筆者が通学する大学がそれに関与していることを伝えると、Sは目を見開き驚いていた。「家で生活できるかどうか一緒に考えましょうよ」と言うと、Sはうなずいた。
 Sと話した後、カルテから医療・介護サービス状況を確認した。要介護度三・障害者手帳(四肢機能障害三級)で、生活援助:四日/週(一時間〜一・五時間/日)。大学病院一日/月受診・近医往診一日/月・訪問看護三日/週(胃婁管理・浣腸)・デイケア一日/週(三月三日より二日/週)であり、ケアマネージャーからの申し送りには、以下のような内容が記載されていた。
 「本人は在宅生活を希望されています」「人工呼吸器については現時点では意思をもっておられず、医師より書面で確認した方がよいと説明され、確認書に表記されています。しかし、生きていたいが周りの状況(家族に頼れない)をみると不可能であるからとも思われており、弱気になり精神的にも不安が大きいと思われます。今後のために、家族からも聞き、ご本人も納得の上、療養型の申請が行われています」。
 日常生活面については、「左手指は握ったまま拘縮しており少し感覚はあるが力は入らない。右手も同様で徐所に筋力低下があり細やかな動作は困難です」「筋力低下により更衣は困難になっています」「ズボンの上げ下ろしが行いにくくなっています」「調子がよい日は散歩されるなどできる事は意欲を持って行われます。しかし、自分が思っているように体も動かなくなってきており、今後の生活に不安を持っておられます」とあった。
 在宅生活を続けたい、生きたいというニーズを周囲が知りながら、家族の介護力を理由に事前指示書において〈人工呼吸器装着・気管切開をしない=死の選択〉をせざるをえない状況になっていること、日常生活が困難になっているにもかかわらず、訪問介護がわずかしか入っていない現状に驚いた。A医師にSのニーズとこれまでの経過、家での生活について伝えると、A医師は、訪問介護の増加と、カンファレンスの必要性をケアマネージャーに伝え、デイケアの利用回数をさらに増やしてみることを提案した。
 
 *その後、ファックスでケアマネージャーから診療所にサービス計画書が届いていた。訪問介護が六日/週で三〇分〜一・五時間/日に増えてはいたが、Sの身体状態を考えると、このプランでは足りない。筆者は、この時、独居で在宅生活をしている人もいるのでどうにかなるのではという思いと、どうにかなっている人がいるのに何故このような状況にSが陥っているのかが理解できていなかった。

三月二九日
 「痛み」「痙攣」「不眠」「食欲不振」の症状は変わっていなかったが、Sの表情は穏やかだった。職歴について、同じ病気の人との出会いについて、あきらめの心情などを話していた。
 「若い頃は自衛隊をしていた。その後は一般企業に長年務めたが、早期に退職した。退職してからは、ビルの設備管理やいろんな職場を転々とした。景気も悪く、慣れない仕事でなかなか安定した仕事につけなかった。最後はタクシーの運転手をしたが、給料が安く生活が大変だった」。
 「外来に通院しているとき、待合室で偶然同じ病気の女性と出会った。話しているとその人も単身で介護者がいなかった。二人でこの病気は死ぬしか仕方ないんだねと言い合ってた。あの人は今頃どうしているんやろう。入院中はALSの人もいたと思うが話したことがない。もう少し同じ病気の人と知り合いたかった」。
 「分からないから患者は専門の勉強をしてきた人に相談する。その人に難しいと言われると、多くの患者はもう無理だと思ってしまうのではないか。どんどん体が動かなくなっていくし、目の前の生活もあるし、僕は自分の体のことで精一杯だった」。
 二二日以降ケアマネージャーからの連絡はない。家での生活も変わっていないようで、「転倒するのでできるだけ動かないようにしている」と言っていた。食欲がないとのことであったが、デイケアでは勢いよくすべて食べた。
 A医師は「診察のとき、Sから入れ歯が合ってないので最近は肉を食べてないと聞いた。義歯の調整をするという理由でデイケアの利用回数を増やし、三一日にデイケアでバーベキューパーティーをしよう」と提案した。

 *A医師は、この時期Sとの信頼関係を築く努力をしていた。以前より、「治療に患者との信頼感が大きく影響するので、まずそのことに心がけたい。一方的に自分の考えを押し付けるようなことはしたくない」と言っていた。著者はA医師の意見はもっともだと感じる一方、Sの身体や生活状況を考えると、週に二回のデイケア利用で、関係性を築く時間的余裕はあるのだろうか、ケアマネージジャーからの連絡を待つだけでよいのだろうかなど戸惑いがあった。
 また、Sが入れ歯を作っていなかったこと、食欲がないというわりに、デイケアでは勢いよくすべて食べていたことの理由は、後に精神面、身体面からだけではなく、経済的事情も含まれていることが分かった。そのことは、筆者がSの自宅に訪問した四月十二日以降の記載に書かれており、詳細は(西田[2008])に、単身ALS患者の経済事情として記している。

三月三一日
 Sは「症状の変化はないが、デイケアに来るようになって気分的にましになった」と言う。勤務終了後、スタッフとSを囲みバーベキューパーティーを開いた。A医師のポケットマネーでSに柔らかい高級肉が準備された。ビールを渡すとSはニヤッとし、そのままでは飲みにくかったのでストローでビールを飲むことになった。Sはビールを口にすると「あーっおいしぃー」と満面の笑みを浮かべ、久しぶりの肉に「ヒャーうっまー」と喜んだ。楽しい雰囲気の宴が終わると、Sは皆に「ありがとう」「ありがとう」と繰り返し、泣いた。片づけをしていると、Sが「ALSには感情失禁★04があるんやけど、僕のは失禁ではないから、感情やから」と照れていた。

 *四月に入り、ケアマネージャーからB病院でカンファレンスをする予定になったと連絡が入った。四月一六日に決定したが、やはり家での生活はまだ変わっていないようだった。入院中に患者に転倒やリスクが発生したとき、あるいは予測されるとき、看護師は早急にリスク回避のために対応する。しかし、生活の場が地域に移行した場合、その対応は誰が担うのか、週に数回の訪問看護師が対応できるのか、それともケアマネージャーが生活面の全てを担うのか、著者もこの時点では知らなかった。後に、保健師が中心となり調整していくことを知り、相談したが、五月までは保健師も対応できていなかった。その状況については、四月十七日に記している。
 大学院の歓迎交流パーティーが四月五日に予定されていた。大学院のメーリングリストで川口も東京から参加することを知った。一六日まで待つべきか悩んだ。しかし、今の状況ではSの生活環境は一六日まで変らないような気がした。五日に会わないと今度いつ川口に会えるか分からない。専門職の規範である患者のプライバシー保護と、支援づくりに必要な情報の共有の間で葛藤があった。

■四月・可能性

四月五日
 大学院の歓迎交流パーティーで川口にSの概略を伝えた。川口はすぐ名刺をくれ、自治体で福祉の仕事をしていた院生などを引き合わせてくれた。翌日、A医師に川口と会ったことを伝えた。A医師は「一六日のカンファレンスで主治医の交代を要請してくるので、独居の人にどのような支援が可能なのか知りたい、川口と直接連絡がとりたい」と希望した。翌日からA医師は、緊急時と今後のことを考えベッドの確保に動いた。緊急時対応可能な病院としてA病院を、療養型の病院として特殊疾患療養型のF病院を確保できた。
 川口にA医師の希望を伝えると、「あらゆる資源を集めてどんな状況にも対応できるように準備しておく。この時期は転倒が怖い時期である。早急に介護の支援体制作りが必要だが、独居在宅を続けるにあたって本人に一度会いたい。Sが自分と会いたいかどうか確認してほしい」とのことであった。

 *数日後、本人はすぐ承諾した。SはALS協会に申し込みをしており川口に会いたいようだった。しかし、A医師は「本人の意思や気持ちについては慎重に対応したい。専門職は患者を通して成長するので、その視点も大切にしたい。既存の支援ネットワークや地域の連携も重要なので、具体的な動きは一六日まで待ってほしい」と、SやSを囲む専門職達への気遣いを見せた。著者はそのことの重要性を認識しながらも、緊急対応されていないSの身体面、精神面のことが気になっていた。

四月九日
 川口とA医師が電話でSについて話した。後から川口より、「A医師は福祉のことをよく認識している。地域の輪を作る努力をされようとしており、専門職の育成といった視点も重要なことである。進行性疾患なので安心はできないが、一六日まで待ってもよいのでは」という返事をもらった。

 *七日〜九日の間、A医師は、介護保険や自立支援法に関する資料を集めたり診療所の相談員に尋ねたり、積極的に情報を集め勉強していた。筆者も福祉のことは理解できていなかったので、診察室でA医師と資料を見たりインターネットで制度のことを調べたりした。A医師は、デイケアの利用を増やすようにし、四月七日からの一週間は四日/週の利用となった。

四月一二日
 Sの表情が思わしくない。声をかけると、Sは「書類を取ろうとして頭部を打撲した。緊急通報システムを押して協力員★05に体を起こしてもらい、救急車でB病院を受診した。頭の検査では問題ないと言われた」という。左耳の下にステリストリップ(創部を繋ぎとめるテープ)が貼られていた。午前中は表情が硬く、Sはそれ以上は話そうとはしなかった。昼食を促すと食欲がないのでいらないという。「介助するので一口でも食べてみませんか?」と食事を口にはこぶとSが号泣した。フロアから個室に誘導した。
 Sは「体が痛くて…」「痙攣も強くて…」「体がどんどん動かなくなっていくんや…」と大声で泣いた。自分の体をさすりながら「この手が…この足が…どんどん駄目になる」「怖いです…死ぬのは怖いです」と泣き崩れた。
 返す言葉がなかった。Sの体をさすりながら一緒に泣いた。一〇分程の沈黙があり、その間にSが進行していく恐怖を抱えながら一人で生活している光景が目に浮かんできた。
 四月一〇日にケアマネージャーから送られてきたファックスを見つけた。
 「本日一五時、自宅で転倒され緊急通報にてB病院に搬送されました。左後頭部を打撲、顔面を裂傷しておられ、縫合していただいております。今の所、特別変化は見られませんが、時間がたってから硬膜下血腫になることも考えられるので経過を見ておくよう医師から指示があったと、地域ネットワーク(B病院)から連絡を頂きましたので、ご報告させていただきます。経過観察の方よろしくお願い致します」。
 A医師のもとに行き、Sの状況を確認した。対応に戸惑っている様子だった。その後、A医師が診察室でSに説明した。
 「一六日にB病院でカンファレスがあります。今のままでは医療的管理が難しいので主治医を交代してもらおうかと思うのですが、それでいいですか。今後、呼吸状態が悪化したとき、呼吸器をつけていても受け入れてくれる病院先はある。在宅の選択もある。このまま呼吸器をつけないでという選択もある。そして、その選択は変更可能なものです。本人の意思として一六日のカンファレンスまでにSさんの意思を知っておきたいので、どう思っているのか聞きたい」。
 しかし、Sはただうなずくだけでその場では答えなかった。A医師は「一六日に自分の考えを言えるように準備しておいてほしい」と言った。
 Sが診察室を出た後、筆者がA医師に「家での生活環境が整っていない状態で、転倒し気分が落ち込んでいるときに呼吸器装着の選択をさせると、本人の精神的負担になるだけではないだろうか」と伝えると、A医師は「そのことはよく分かっている。しかし、辛くても周囲ではなく本人が考えなければならないと思う。S自身にいろんなことを乗り越えていく強さをもってほしい」と言った。その後、Sの自宅での生活環境を見てきたいと希望すると、A医師は快く承諾してくれた。
 勤務終了後に、Sの自宅を訪問した。Sの部屋には福祉関係の書類や請求書、領収書が散乱しており、Sは請求書を眺めながら「何が何やら、よー分からへん」とやや混乱していた。数枚のメモ書きを手にとってみると、発症時からの公的手続きや入金の詳細が記されていたが、月日と共に筆跡は崩れており、二月以降は空白となっていた。そのメモ書きをもとにSはこれまでの経済的事情を話し出した。
 「診断直後は一時期生活保護に切りかえ生活していた。傷病手当と数ヵ月後からは年金が入るようになり、生活保護は中止になった。平均すると月一六万円ほどの生活費はあるが、月々自分で申請しないと傷病手当はもらえないし、二ヶ月に一度の年金も含めて、入金日と金額が月によってまちまちだ。給付に必要な書類はもう自分では書けない。特定疾患は認定の後で医療費免除となるので、検査入院費用の約十二万円は自己負担だった。生活保護で引越しをした時のアンテナやクーラーの取り付け工事費、新たに必要となった電化製品の購入などでお金がたくさんかかった。借金があるので支払いに焦るが、領収書の開封も思うようにいかない。足に力が入らないので自分で外出することも難しい。ヘルパーに外出をお願いして払っているが、ヘルパーの仕事ではないみたいで困った顔をされる。無理を聞いてもらえそうなヘルパーにお願いしている」。
 Sは壁に体を押し付けながら室内を移動し、ベッドと台所までの中間地点に置いた椅子を目指してまず進み、その場でいったん休憩し、頭と肩で扉を開け、何とか胸まで上げることができる右手で冷蔵庫に作り置きされた食事を取り出していた。しかし、手に力が入らないため思うように食事が取り出せておらず、台所には病院で処方された総合栄養剤のダンボールが山積みになっていた。隣の部屋には、引越しの時の荷物がダンボールに入ったままの状態となっていた。ベッドサイドに置かれた自動採尿器をあて排尿しているが、体調が悪いときは下着を自分で下ろせず失禁してしまうこともあるようだ。ポータブルトイレが隣の部屋に置いてあった。大便の時はどうしているのかと尋ねると、「部屋でしても自分では片付けられないし臭いが残るのでトイレまで行っている」と言っていた。トイレまでには五メートル程距離があり扉もある。Sは「こうしていくんや」と、台所に向かうときと同じように壁に這いながら、頭と肩で扉を開け、ふらつきながら移動してみせた。
 部屋ではペット(チンチラ)を飼っていた。名前はチビというらしい。事情があって一緒に暮らせない家族が「寂しくないように」と贈ってくれたようである。「こいつは僕のことをよー分かっとるんや」「おいチビ、チビさんよ」と何度もペットに話しかけていた。部屋で転倒すると柵まで近づいて来て本人を眺めて鳴くらしい。ペットの籠に敷き詰めた草の手入れが自分ではできないことを気にしていた。Sはペットを眺めながら、チビの寿命と自分の進行状況からするとちょうど同じ頃ではないかと思い、人工呼吸器をつけるかつけないかと聞かれたとき「チビ、仕方ないから一緒にいこか、お前もその方が寂しくないやろ」と話したという。Sは数分黙り、「あの時はもう仕方ないと思って。無理だろうと思って言っただけや。今まで、頑張って働いてきてやっと年金ももらえるようになったから、何とか生活したいわ……生きたい……」と涙ぐむ。著者が「自分の思いをA医師に伝えたらどうか」と言うと、Sはうなずいた。
 帰宅前、保健師の存在について尋ねると、Sは「去年の特定疾患の手続きの時に会った。それから数回ポータブルとか緊急電話を持ってきてくれた。一月に退院した時は一度様子を見に来てくれたがそれからは会ってない」と言っていた。

 *初めて見たSの在宅生活に衝撃を受けた。このような生活環境の中では転倒を繰り返さざるを得えない。本来なら、家族が負担しているのであろう日常生活の細かい部分や、お金や制度面の手続きを、Sは診断後より全て一人でおこなってきた。しかし、その生活は限界に近づきつつあった。後に、ケマーマネージャーや訪問看護師が、Sの引越しの手伝いをしていたことを聞いたが、このような生活環境までは改善できていなかった。その事情や要因については、四月二〇日のB病院でのカンファレンスや、六月以降の長谷川・山本の論文のアクションリサーチにより徐々に分かってくる。

四月一三日〜一五日
 勤務終了後からSの自宅を訪問した。右手が口まで上げづらくなっており、左手は皿も支えられていない。無理をしようとすると右手がだるくなってしんどいという。食事を暖め部屋まで持っていき、時折食事を介助をした。エンシュア(総合栄養剤)を、股の間に挟み、アイスピックを口にくわえ、胸と右手で上手に開けていた。排尿をスムーズにできるよう一緒に工夫し考えた。一六日のカンファレンスが近づくにつれ、Sはケアマネージャーが引越しの手伝いや掃除をしてくれたこと、訪問看護師がガスストーブをくれたことなど話し、「今までお世話になった。こんな生活になったのは自分にお金がないからだろう」と、周囲を気遣っていた。C診療所でSが義歯を作ることを拒否されたと聞いていた。また、Sがパンが好きだというので一袋八個入りの菓子パンを持っていくと、食欲がないと言うわりに一晩で食べ、診療所での昼食もすべて食べていたのが気になっていた。Sに「食費を節約しているのですか?」と尋ねると、領収書を眺めながら苦笑いした。一緒に領収書を開封し必要なお金や支払いを計算したりすることにした。

四月一六日
 B病院の地域医療ネットワーク室で合同カンファレンスが開かれた。参加者は、S、B病院の主治医、B病院の地域ネットワークの担当者、訪問看護師、往診先の看護師、ケアマネージャー、訪問介護の事業所、福祉用具の担当者、A医師、C診療所の相談員と看護師(筆者)であった。ケアマネージャーが司会を務め、一月の退院から現在に至る経過が報告された。A医師が「本人は在宅生活を望まれているので、今後は濃厚な訪問サービスが必要となる。デイケアの利用回数を増加させ、今後のこと考え主治医を交代させていただき、こちらで医療的管理を行えればと思うのですが」と言うと、B病院の主治医はすぐに承諾された。Sの思いが聞かれ、泣きながら語った。
 「どうしても無理なら仕方ないんですが、できる限り家で生活したい。今、背中が痛み初め痙攣もきている。機能が低下する時は、左手も右手も足もまず痛みがきて痙攣がきて少しずつ動かなくなり、それがおさまるとストンと動かなくなる。今は呂律が回らない程度だが、この状況だと夏過ぎた頃、秋頃には呼吸の症状が強く出てくると思う。人工呼吸器のことは、その時は僕は何も知らなかったのでああ書くしかなかった。でも、人工呼吸器をつけても一人暮らしている人がいると聞きました。今まで一生懸命働いてきて、やっと年金をもらえるようになったし、あと半年だと思うと惜しい。僕も頑張ってみたい。これからは同じ病気の人とも交流して、他の人のために頑張りたい。A先生と相談しながらこれからのことを考えていけたらと思う」。
周囲はSの言葉に驚いていた。
 「デイケアに行くようになってSが明るくなった。本人がそう思うならできる限りのことを考えていければと思います」(ケアマネージャー)
 「今後はデイケア利用を四日/週に増加したい。本人も承諾しているので、訪問介護をもう少し増やして欲しいんですが…」(A医師)
 「お金が…厳しいんです。退院前のカンファレンスでもそれが問題というか課題のままになってしまって。あまり増やすと自己負担額が増えるので。本人には一定の収入はあるんですが借金返済もあって。一度は生活保護に切り換えましたが、傷病手当や年金の収入で打ち切られました。何度も福祉事務所に足を運びましたが、生活保護を再申請することは難しいかと思います」(ケアマネージャー)
 「借金返済に無理があるのでは」(C診療所の相談員)
 「本人が、入金が入ると無理な返済しようとするんです。お金の支払いや外出支援のこともあるので、今後は支援費について支援課に相談してみるつもりです。とりあえず、毎日訪問介護が導入できるよう事業所と相談し検討してみます」(ケアマネージャー)
 概ね以上のような話し合いを行い、カンファレンスは終了した。A医師は、B病院を後にしながら、「自分が主治医になったので、これからは川口に相談しながら在宅生活環境を具体的に整えていきたい」と力強く言った。

 *A医師によれば、その後、B病院の医師から連絡が入り、「お礼の言葉とB病院でできることがあればできる限りの協力をさせてもらいたいと言われた」ということだった。A医師は、「B病院の医師も在宅支援のことを知らなかったのであろう。自分も大学病院にいた時代に情報やネットワークをもっていなかったら、患者の気持ちを分かっていてもどうしようもできなかったかもしれない」と語った。経済的な課題に対して、地域ネットワークの相談員は生活保護に切りえ、訪問看護師は、一日に処方できる最大限のエンシュア(総合栄養剤)を出してもらえるよう主治医に依頼していたようだ。しかし、複雑な給付の要件を整理し、月々の収支を本人に把握できるかたちで呈示するコーディネート機能の存在はなく、将来的な生活設計のプランニングまでは保障されていなかった。また、この時点で、Sは一人で外出することができないにもかかわらず、支払いなどの外出支援や契約行為を補助したり、支援する仕組みはなかった。
 後に、B病院のカンファレンスでのことを聞くと、Sは「人工呼吸器のことは、正直に言うと、つけないと生きていけないことは分かっていたけど、自分にはまだ呼吸症状があまり出てないから、実感できなかった。だからぎりぎりまで先生に答えられなかった。生きていたいというより、あと半年そこらで死ぬのが怖かった」と振り返っていた。

四月一七日
 川口より、地域の患者の生活は保健師が中心となり調整していくと聞いていたが、カンファレンスには参加していなかった。そこで、区役所の担当保健師に連絡し、Sのことを聞いてみた。独居在宅に向けて支援の可能性や選択、相談窓口について尋ね、在宅訪問の働きかけをお願いした。保健師は、Sの病状進行の早さに驚き、「生活保護の受給は厳しいだろう。借金とか個人的事情については、こちらからは同じ職場内で言いにくい場合もあり、家族や本人に直接言ってもらった方がよい」と言われた。著者が「本人には家族が傍にいないこと、外出も一人ではできない」と伝えると、「行政、福祉への働きがけに関して対応できる窓口を探してみるが、五月で転勤になるので次の担当者に伝えておく」とのことだった。

 *後に、保健師やケアマネージャーの資格をもつ友人に独居生活の支援について尋ねた。すると、「通常は、対応できなければ地域難病支援相談センターに相談するだろう。しかし、高齢者も含めて独居者は仕事時間以外に呼び出されたりすることもあり、どこまでが自分の仕事なのか分からないことまでしないといけないので、それは個人の価値観による。また、職場の中で自分がしたくてもその枠を越えてできないこともある」と言っていた。筆者も後に、仕事以外で多くの時間をSの支援に費やしていくことになる。また、枠を超えてできないということも徐々に実感していく。

四月二〇日
 A医師と川口が、Sの支援についてC診療所で話し合うことになった。川口は、厚生労働省から重度包括支援の研究事業費(山本論文の★02を参照)をもらえそうなのでそれを用いることができるがどうかと提案した。本来なら障害程度区分六以上で人工呼吸器装筆者が対象であるが、それ以外でも濃厚な社会的支援が必要な一人暮らしの人に、施設と在宅ケアを組み合わせた包括的モデルプランを立て、重度包括支援サービスによる独居のモデルプランを考え実証してみてはどうかとのことであった。翌日、Sは了解した。

四月二一日〜四月三〇日
 自宅での介護体制についてSに確認すると、カンファレンス以降訪問介護の増加はないとのことであった。「呂律が回りにくい」と言っていたので、作業療法士に「以前Sは仕事でパソコンを使用していたので、今後のことを考えてコミュニケーション手段に向けての対応ができないだろうか」と相談すると、「様子を見ながらやっていきます・・・・」ということであった。後に、A医師より、コミュニケーションのことは作業療法士が見極めながら進めていく。また、Sの在宅生活についても直接動かず相談員を通じて対応してはどうかと助言された。

四月二五日
 代診のB医師がSを診察し、「一六日以降、デイケアの回数は増えているが、在宅生活が変わっていない。デイケアでの過ごし方についてもプランニングが必要である。栄養状態もよくなさそうなので、在宅環境がすぐ整わないなら、その間に入院してもらった方がよいのではないか」とスタッフに伝えられた。
 翌日、B医師がA医師に上記の考えを提案した。A医師は「入院をするにしても支援体制にある程度のめどがつかないと依頼しづらい」と言っていた。医師同士の話し合いの結果、A医師が四月二八日に、京都府難病支援相談センターとケアマネージャーに連絡し相談することになった。
 
 *一六日のカンファレンス以降、スタッフの様子が普段と違っていた。「本人の思いを直接聞いていない。筆者とSとの関係の中で言ったことなので・・・」「生への誘導のように感じる」、「誰が責任を持って彼の生活を支えていくのか」「人工呼吸器をつけて生きていくことはそんなに簡単なことではないのでは」といった意見を、直接あるいは間接的に聞くようになった。
 A医師は「あまり関わり過ぎると本人がしんどくなる。Sは転倒すると落ち込み、サポート体制の可能性を聞くと前向きになり、まだ気持ちに揺らぎがあるように感じる。どんな状況でも生きていくという強さや、確固たる意志を本人に持ってほしい」と言っていた。
 たしかに、Sはこれまで周囲に対して受身だった。筆者にはよく話すのだが、他のスタッフとはあまり会話することがなかった。そのため、カンファレンスでのS言動に周囲が驚き、筆者との関係が生んだ決断と言われたとしても無理はない。しかし、「家族がいないので難しい」「お金がないので難しい」といったネガティブな評価の中で、これまでSは自らの生活する力を失っていた、あるいは自己の権利を主張できなかったのではないか。この時点においても、具体的な支援の方向性は見出せていなかった。刻々と機能低下しつづける体で、Sは果たして、どんな状況でも生きていく強さを主張できるのだろうか。人工呼吸器を装着する=生きる、人工呼吸器を装着しない=死ぬ、ということは事実であるが、Sが言っていたように、呼吸症状が出ていない時期に、まだ先の生死は実感をもって考えられない。呼吸器をつけてもつけなくても、Sの目の前には生活があり、暮らしていかなければならない。

四月二七日
 ケアマネージャーよりSが自宅で転倒し、頭部打撲と左肋骨強打したと連絡が入り、緊急でデイケア利用となった。表情が硬い。左肋骨部の疼痛があり、「体が思うように動かない」と泣いている。食事を食べようとしなかったが、介助すると、すべて食べた。翌日(四月二八日)、A医師は、「左肋骨骨折の疑いもあり、現状での在宅はやはり厳しい。安静と在宅生活の再構築目的で入院するのが妥当あろう」との判断を下し、A病院に連絡した。病院に承諾が得られ、四月三〇日入院予定となった。

四月二九日
 この日もSの表情は硬い。食欲なく昼食はいらないという。食事を介助すると七割程度を食べた。Sは「仕方ないです。今の状態で生活するのは厳しいと自分でも思うから。仕方ない。体がどんどん動かなくなっていくから辛い。昨日できていたことが今日できなくて、今日できないことが明日できたりすることもするから自分でもどう動いていいのか。だからすぐこけてしまうんや」と言っていた。
 A医師に「自分のマンションではペットが預かれないので預かって欲しい」とお願いすると、快く引き受けてくれた。四月二九日、Sからペットを預かり、入院の準備し、帰宅した。

 *四月二一日〜四月二九日の間、できるだけSの自宅には訪問していたのが、対応できなかった。

四月三〇日
 A病院に肋骨骨折の疑いによる安静目的と在宅生活の再構築のため入院となった。
 
■五月・入院

五月二日
 C診療所でSのカンファレンスを行った。参加者は、A医師、筆者、ケアマネージャー、診療所の相談員二名、ケースワーカー、保健師であった。ケースワーカーは保健師が急きょ連れてこられ、他のメンバーはこの日初めてケースワーカーと出会った。
 A医師が、これまでの経過、入院の目的と理由について説明した。また、将来的にはSが人工呼吸器をつけても在宅生活をしたいという思いをもっていることが伝えられた。ケースワーカーは、「転倒を繰り返しているので、至急要介護度を最大限に上げ、足りない部分は支援費で補う」とケアマネージャーに伝えた。
 「介護保険を最大限使わなくても状況により障害サービス給付優先で使えるように数年前からなったと聞きました。ALS患者で独居生活をしている人もいます」(筆者)
 「その優先順位は聞いたことがありません。Kさんという方は特別だから。人工呼吸器を装着して家で生活することはできないこともないが・・・」(ケースワーカー)
 「お金の問題が・・・」(ケアマネージャー)
 「お金問題はいいからまず介護度を上げて」(ケースワーカー)
 「どうにかしないと現状で暮らしていくことは不可能で、生命の危険性もあります。以前からお金のことがネックになっているなら、具体的にSの経済的なことを検討しないと先に進まないのではないでしょうか」(筆者)
 「(お金の管理は)社会福祉協議会に依頼できますが、支払いや経済的な管理を依頼するにも時間一〇〇〇〜一五〇〇円ほどのお金がかかります。それがSに可能か・・」(ケースワーカー)
 「とりあえず要介護度を上げて、できるだけヘルパー入れてみます」(ケアマネージャー)
 「とりあえず一ヶ月の入院予定としてその間に検討しましょう」(A医師)
 結局、お金の具体的なことは検討されず、カンファレンスは終了後した。A医師より「ケースワーカーが来るとは聞いていなかったが、誰が呼んだのか」と指摘された。職域や既存の支援ネットワークを越えた行動をしている著者の行動を懸念していた。

五月二日から、西田・川口・立岩間でメールをやりとりした。川口から次のような助言があった。
 「介護保険と重度訪問の自己負担金について、低所得者には減免措置がある。リサーチ兼アルバイトは重度包括のからお金を支払うことができる。今年に関しては、介助を手伝いながら記録をとる者にも研究費から謝金として支払うことができるし、学生も介助は勉強になる。研究の分に使える研究費が尽きるまでに重度訪問介護の時間給の交渉をしなければならない。いずれにしてもアルバイトが必要である。そのアルバイトは重度訪問の資格を取る前は研究費で、リサーチの傍ら介助も手伝い、その後、研修を受けてもらってヘルパー資格を取得し制度のヘルパーで入ることができる。資格についてはさくら会で重度訪問介護従業者養成講座(山本論文の★04を参照)を受けることが可能である」。
 筆者はこの日からアルバイトできる学生を探した。まずC氏のところに行った。C氏は人工呼吸器を装着し、ボランティア学生の支援により学校生活を送っていた。アルバイトをしてくれそうな学生がいないか尋ねた。しかし、自分のところで精一杯であり、重度訪問介護従業者養成講座にC氏のボランティア学生も受講させてもらえないか、と頼まれた。その後、立命館大学の学生ボランティアルームに行き学生に声をかけた。しかし、大学内の学生を対象にボランティアを募っている場所なのでと断られた。その後は、京都駅でチラシを配ってみたりもしたがそう簡単には見つからなかった。

五月四日
 立岩、川口との協議結果をA医師に報告したところ、「介護保険と支援費を使って、既存の支援ネットワークからプランしたほうがよい。特別扱いや、過剰に周囲が支援していくことは控えて欲しい。そこまでしてもらったから生きるとなったらそれは自分の人生ではない。もしそうなったとき、誰が責任を持って彼の人生を支えていくのか。誰が二四時間彼の介護ができて、彼の人生を背負えるのか。Sには人工呼吸器をつけていくことにまだゆらぎがまだある。本人が強い意志をもたないと無理だ」(A医師)
 「今は在宅生活がどうにかならないかを考えている。生活環境や条件が整っていない中で人工呼吸器を選択させるのは本人に負担がかかるだけである。フェアーじゃない。理解できないです」(筆者)
 途中でA医師に電話が入ったため、筆者はメモに「冷静になって考えてみます」と書き残しその場を去った。
 その後、A病院に面会に行った。Sは会った瞬間泣きながら「退院したい」と言った。その後、「浣腸をして便を出していたのに、ここはトイレでさせてもらえない。何故かよく分からない。感染がどうのこうの……と言っていた。ベッド上でゴム便器を使うように言われたが、寝たまま便をしたことがないので出来ない。入院してから痙攣が強くなって眠れない。看護師に言ったが伝えておきますといったままで対応してくれない」。また、「看護師から、Sさんは将来的に人工呼吸器をつけるのですかと尋ねられので、そうですと言うと、あなたは人工呼吸器のことを楽観的にとらえている。入院するにしろ、在宅にしろ、人工呼吸器をつけて生きることは、あなたが思ってるほど楽じゃない、と言われた。ならもう早く死なせてくれたらいいのに…やっぱり一年後に死ぬのは嫌や」など言い、混乱しているようだった。著者は、「また来るから、どうにかならないか考えるからもう少し頑張って」と言い、病院を後にした。

 *このとき、Sは環境の変化にストレスを溜め、看護師の言動に傷ついていた。専門職の各人が、これまでの経験からALSの生存観をもつことは自由である。しかし、その価値観を患者に押しつけることがあってよいのか。Sは以前、「専門の勉強をしてきた人の難しいと言われると、多くの患者はもう無理だと思ってしまうのではないだろうか」と言っていた。専門職の知識の幅や価値観は様々である。にも関わらず患者への影響力は大きい。
 
五月五日
 A医師は「昨晩考えて、第三者によるリサーチの必要性は了承した」と言った。ただし、「本人から人工呼吸器をつけて生きるという言葉を聞いてからだ」とも。そして、「本人の意思のもとで、重度包括支援に向けてのリサーチ研究をすること。それで話が進みそうなら自分もできる限りの協力はする」ということだった。

 *後に、A医師は「周囲が関わる前に、もう少し自分の生き方を自分で悩み、考える時間をSに与えたかった。しかし、Sの進行を考えると、今どうするのか決心してもらうべきではないかと思った」と振り返っていた。

五月八日
 Sの家族から筆者に連絡が入り、今のSの状況を知らせてほしいと言われた。著者が、Sの身体面、精神面について、また、研究科の説明とリサーチ研究の目的などを説明すると、家族は心情を語り出した。
 「面会に行ったときにSがおまえには迷惑かけないから、人工呼吸器つけて生きてみようと思うと言っていた。Sは以前より明るく前向きだったが、呼吸器をつけての生活の大変さとか、いったん装着するとはずせないこととか、この先のことをSがどこまで考えられているのだろうか。自分自身にも呼吸器をつけてまで生きることや、他人に迷惑をかけるのではないだろうかとか戸惑いがある。しかし、Sが頑張るなら最終的にはSの人生なので思う通りにさせてあげたい。B病院で人工呼吸器のことや介護のことを確認されたとき、自分の病気のことを含め週数間考えに考えた末、無理ですと言ってしまった。その後、自分はSを見殺しにするんだ、と何度も自分を責めた。辛かった・・・・・。皆さんにご迷惑かけて申し訳ありません。Sをよろしくお願いします」。

五月九日
 A医師と筆者とでA病院へ行った。本人に意思確認を求めた。Sは「B病院では生活していける情報がなかったのでそう言うしかなかった。でも、もし生きていけるならやっぱり生きたい。人工呼吸器をつけても頑張ってみたい。これから、自分と同じ病気の患者さんともっと交流したい。同じ立場の患者さんに役立つことがしたい」と言い、A医師は了解した。

五月一七・一八日
 川口の誘いにより、東京都内で開催された重度訪問養成講座に参加した。A医師も一七日のみ加わった。川口に、橋本みさお氏、T氏を紹介された。橋本氏は日本ALS協会の会長で、人工呼吸器を装着して独居生活をしている(さくら会[1999-]にその文章が掲載されている)。T氏は、ALS患者K氏の独居在宅移行を中心的に支援した人である。A医師、川口、T氏、筆者とでT氏のこれまでの支援経過を聞いた。
 その後、橋本氏の自宅に伺った。橋本氏は学生ヘルパーの支援を得て生活しており、その日は重度訪問養成講座で受講した学生も自宅訪問したのでにぎやかであった。橋本氏の家に、気管カニューレの交換に来た医師がカレーをご馳走になっていた。
 翌日、T氏と昼食を一緒にした。T氏はK氏の機能低下していた頃のことや、入院生活を振り返りながら、「今のSのストレスは相当なものだろう」と涙をためて言っていた。

五月二〇日
 A病院に面会に行き、東京での出来事をSに伝えると、「僕も同じ病気の人に何かできることをしたい」と泣いていた。看護学生がSを受け持っているようで、Sは「自分の病気や体のことをいろいろ学生に教えてあげている」と嬉しそうだった。

 *入院中にSを受け持っていた看護学生の一人が、後に、長谷川、山本に入院中に体のケアや介護の方法を指導してくれ、退院後には、重度訪問ヘルパーの資格をとりSの在宅生活を支えていくことになる。

五月三〇日
 ケアマネージャーから完成したというサービス計画書が送られてきた。しかし、介護保険で使えるはずのサービスが最大限プランに盛り込まれておらず、A医師が再度プランの立て直しを求めた。少し苛立っているようであった。

六月二日
 ALS患者のK氏と在宅移行支援を行った支援者のT氏らがA病院に面会に来た。Sは皆に会った瞬間号泣した。それを見たK氏も興奮しながら文字盤で、「ALSには感情失禁があるんです」と説明していた。K氏は気管切開により発声ができないため文字盤を介して周囲と意思疎通を図っていた。K氏が「入院生活はどうですか?」と尋ねると、Sは「ナースコールを押してもなかなか来てくれない。目薬の処方すら数日間かかる。浣腸はトイレではできないからベッド上でしてほしいと言われる。排便後の脱肛を雑に入れようとするので痛くてたまらない。忙しそうなので脱肛は出しっぱなしで我慢している。他の患者のできないことも見て見ぬふりをするので患者同士で助け合っている。(福祉に関して)三級はバスの無料券は出るが、いろんな手続きも一度では終わらないので、不自由な体で何度も福祉に足を運ばなければならなかった。一級になるとタクシーの無料チケットをもらえたがその時は一人では外出できなくなっていた。今は、看護学生に病気や体についていろいろ教えている。学生はやさしい」と話した。また、K氏の「家に遊びに来てください」という誘いに、Sは大変喜んでいた。

六月六日
 川口がA病院に面会に来た。Sは「早く退院したい」と病院への不満や体の経過と現状について話した。川口は、資金と研究のこと、支援のことを説明し、「時期的に転倒に気をつけること。今後のことを考えてコミュニケーション手段を習得していくこと。外出の訓練と共に自分でいろんなことを調べたり考えたりしていくことが重要」とSにアドバイスした。また、病院でインターネットが使えるかどうか、車椅子乗車できるバスの時間帯について、調べておくことが宿題と伝えた。

六月七日
 立岩から同研究科の院生、M氏を紹介された。Sや研究について説明すると、快くリサーチのアルバイトを引き受けてくれた。

六月一〇日
 研究と支援について、川口、立岩、Mらと話し合った。川口と立岩から、長谷川とK氏の支援や研究にかかわった堀田、山本を紹介された。アルバイトでリサーチ兼介助にはいってくれる学生(女子二名)も、サトウタツヤ教授の紹介で見つかった(翌日、男子学生一名追加となる)。川口より、重度包括支援サービスのモデル事業として単年度の研究費が使える(山本論文の★02を参照)との説明があった。筆者が、六月一二日の退院前のカンファレンスと現行のサービスを伝えると、周囲は「支援体制が整っていないのに退院するのは危険ではないか、退院日をもう少し延期した方がよいのでは」と提案した。

六月一二日
 A病院でのカンファレンス結果をA医師から聞いた(筆者は都合で参加できなかった)。ケアマネージャーのプランは就寝前の訪問介護が追加になっただけで、あまり変わっていなかった。日曜日に関しては、介護事業所が見つからなかったようで、ほとんど空白だった。筆者は、「入院直後のカンファレンスでは、介護保険のサービスを最大にして足りなければ自立支援法でという話だったのでは?」とA医師に確認すると、「日曜もデイケアに来るのはどうかとは提案した。しかし、それ以上のことはケアマネージャーの仕事なので医師の立場からは言えない・・」と言葉を濁された。筆者は「ケアマネージャーと直接コンタクトをとりたい」と言った。A医師からは「生活面で関われるのは家族で、家族がいなければ本人の意思だと思う。君が本人と生活の見直しをし、Sがやっぱり無理と思い、ケアプランの見直しを自分から直接に言った方がよい。他種職が違う領域に入るとケアマネージャーのプライドもあるのであまりよくない。地域と連携していくことも大切である。とりあえずいったん退院させて、退院後の状況を見てはどうだろうか。リスクが発生するような状況であれば、その時に対応してみてはどうか」という答えが返ってきた。

 *連携していくことは確かに重要である。しかし、他種職の立場を配慮するがゆえに、ケアの不足を埋めるための介入や提案を阻む壁にもなりうるのではないだろうか。入院して一ヶ月以上が経過していた。著者が医師の助言を聞かず動くことで職場に迷惑をかけるかもしれない。それ以上に、研究科のメンバーがこの連携の中に入っていくことが果たして可能なのだろうか。しかし、その間にもSの病状は刻々と進行していた。このまま退院すると、Sが在宅生活を続けることは難しいだろう。どのように介入するべきなのか戸惑った。このことが、後に周囲の不信の元になってしまったことは認めざるをえない。

六月一三日
 A病院に面会に行き、Sにサービス計画書を見せ、このプランで生活できそうか尋ねた。「難しいかもしれない・・・」とSは言う。カンファレンスでその考えを伝えなかった理由について尋ねると、「入院が長引くと特別障害手当が切れてしまう。この病院からは早く退院したい。家に帰りたい」と言う。筆者が「在宅生活が整わないとまた入院することになる」と伝えると、「ケアマネージャーには最大限のプランにして欲しいと言った。でも、考えてもこれなら後は自分が頑張るしかないのかと思った」と言う。二人でサービス計画書を見直し、どこが足りないのか話し合った。Sが入院が長引くことで生活費の支払いが滞ることを気にしていたので、支払い用紙とお金を預かり振り込んでおくことを約束し、帰宅した。

六月十四日〜二一日
 Sの入院生活のストレスは続いていたが、アルバイトの学生達が集まったことを伝えると、会えるのを楽しみに待っていた。看護学生の一人も支援に協力したいと申し出てくれた。
 
 *そして六月二二日、長谷川、堀田、山本を含む九名の会議がA病院のカンファレンスルーム行われた。この時に初めて、長谷川、山本はSに会う。三月にデイケアで筆者がSに出会ってからちょうど三ヵ月が過ぎていた。
この後、川口、長谷川、山本をはじめとして、K氏の支援にかかわった多くの人々の有形無形の援助を受けながら、退院後の生活体制構築に向けて事態は急速に展開し始めることになる。この後のことについては長谷川論文・山本論文に記録・記述される。そして、そこにどんな問題があったのか、ではどうしたよいのか、それは堀田論文で分析される。

■注

★01 「特定疾患」は、わが国において稀少難治性疾患の調査研究事業の対象疾患を示すいわば行政用語であり、ALSも神経・筋疾患群として含まれている。「難病」と同義語として用いられており、難病対策要網に基づき、原因不明、治療方針未確定かつ後遺症を残すという医学的観点と、患者の身体的・精神的に加え経済的負担と、加えて、障害を残して社会復帰が極度に困難もしくは不可能となったり、介護等により家族への負担が著しい疾患という社会的観点からの捉え方があり(杉江[2004])、一九九六年からは、難病対策として調査研究の推進、医療施設などの整備、医療費の自己負担の軽減の他に、地域における保険福祉医療の充実と連携及びQuality of Life(生活の質 =以下QoLと略す)の向上を目指した福祉施設の推進が掲げられている。

★02 四本の論文(西田・長谷川・山本・堀田)記載内容・分析は、S自身およびサービス提供に関する福祉・医療機関からのヒアリング・日々の記録から得られた概要である。また、その後にわかったことについては、*を先頭につけた。その理由は、事態の全体がその時点では私たちに見えなかったり、ときには誰にも見えないこと、間違って理解してしまうこと、先行きがときに見えないこと、にもかかわらず次の生活のことを早く決めねばならないこと、しかし、決められないこと、これらのことごとが、ここで起こった現実そのものであるからである。ICレコーダーの使用により、聞き間違いを防いだり中立的な情報を入手することは可能だが、聞き取りをされているといった感覚の中で、自由で開放的に本音を語れない場合もある。また、その時の表情やその場の雰囲気など非言語的な情報も重要であり、支援者はSとの信頼関係も考慮し、できるだけ録音することを控えた。

★03 胃ろうとは、お腹から胃に管を通すためにお腹に作られる小さな穴のことである。症状の進行に伴い、誤嚥の危険性や口からご飯を食べることが難しくなることを考えて、体力がある間に胃ろう造設手術をSは受けることにした。

★04 ALSの人たちの中に、実際にはうれしいのではないのに笑ってしまい、悲しくないのに泣いてしまうといったことが起こることがあり、それが「感情失禁」と呼ばれることがある。

★05 緊急通報システムは、重度身体障害者に病気や事故などの緊急事態が発生したときに、ペンダント型無線発報器を押すと消防庁に通報され、救急車や地域の協力員(事前登録している)がかけつけ、救助を行うシステムである。Sの場合大家が協力員となっていた。

(2)――二〇〇八年六月

長谷川 唯

 筆者は、二〇〇八年三月にD市で在宅独居生活を実現したALS患者K氏の支援者と出会ったのをきっかけに、ALSの人たちの支援に関わり始め、Sの支援に参加することになった。同年二月からの経緯については西田論文に書かれている。本稿では、長谷川と山本がとった記録を用い、筆者がSに会った六月二二日から三〇日に起こったことを記述する。七月の初めから一三日の退院までについては山本論文に記される。
 Sの支援は、厚生労働省の委託研究の一環としてもなされた(このことの説明についても西田論文を参照のこと)。そこで、Sのような人たちが暮らせるようにするために今何が欠けていて、何が必要なのかを知るために、私たちは、毎日起こることを記録していくことにした。以下は、まず、そのメモを文章化したものである。西田論文の注(西田論文:注★02)に述べたように、その後に知ったことわかったことについては、*を先頭につけ、両者が区別できるように記述する。以下で記すことは、ほんの数日、十数人の間に起こったことである。しかし、その短い間に、Sは、そして私たちは、十分に翻弄され、また疲労し疲弊することになった。そして、その時々のことを記述することに意味があると考えた。

■Sとの出会い

二〇〇八年六月二二日(日)
 この日初めて、A病院の会議室で、長谷川と山本はSに会った。この時のメンバーは、Sの介助のアルバイトをする予定の学生と、退院支援を行う堀田・山本・長谷川、そしてすでにD市で在宅独居生活をしているK氏の支援者と西田、Sの九名だった。
 Sから現在の身体の状況と、西田論文で記述されているような経緯を聞いた。Sは、自宅で転倒を繰り返し、今回、肋骨骨折の疑いから緊急入院となった。この事故をきっかけに、在宅生活を再構築する必要性が認識され、ケアプランを見直すことになったとのことだった。
入院以前にSが利用していた介護保険のケアプランは以下のようなものだった。

二〇〇八年三月(入院以前)のケアプラン

表

またこのときSが訴えた身体の症状は次のようなものだった。
 ひとりでは食事が困難である/右手が上げられなくなってきた/左手はまったく動かすことができない/ひとりでは外出が困難である/歩行が困難なため、移動には車椅子が必要である/入院した頃から症状の進行が早い/背中が痙攣する
実際にみなの前でSが自分の名前を書いてみせたが、それはかろうじて読み取れるような力の入らない文字だった。
 そしてSと西田から、入院中の支援者および介助アルバイトの仕事について説明を受けた。トイレ介助、食事介助、外出支援をしてほしいとのことだった。仕事について説明を受けたあと、Sは現在の病院生活について話をしてくれた。
 「病院生活はもうこりごり。トイレが終わっても一〇〜一五分待たされ、看護師が来ない。今日もけんかした。ナースコールを押しても来ないし、目が痛いから目薬ちょうだいと言ってもくれない。入浴は週一回、清拭は週二回。頭の湿疹がひどくなっている。薬、食事でもめても我慢するしかない。病院は嫌や。入りたくない。体が動かないのに車椅子を押すのがつらい。日によっても身体の調子が違う。実習で来ている看護学生は優しい。病院に入院してから話すのがしんどくなった。まだしばらく身体が持つと思って、病気を甘く見ていて、がんばってたけど、それが病気の進行を早めた。」
 Sは入院生活がいかに苦しいかを語り、早く退院をしたいという気持ちが支援者らに伝わった。Sは、支援者が集まってくれたことが嬉しかったようで、時折泣きながら話をした。
 「この病院にいたら早く死ぬと思う。まだ少しでも体が動くうちに早く退院して、動かしたい。足は朝方に痙攣して痛い。これで病院に三回入院したけど、B病院はこんなに悲惨ではなかった。ここは暗いことばっかりで気が滅入る。となりのおばあちゃんのところへ家族が来るけど、かわいそうや。食事を食べるのがこんなに苦しいとは思わなかった。時間が来たら下げられる。手伝ってはもらえない。だから(病室に戻って)あんパンばっかり食べている。看護師が少ない。」
 しかしK氏の在宅生活移行を経験した支援者は、Sに以下のように話をした。
 「在宅移行の準備が十分にできるのか、病気の進行に対応できるのかが心配。進行によってニーズが日々変わるので。退院はあわてすぎなくてもいい。支援者は、在宅移行後のこんなはずじゃなかったっていうのを一緒に乗り越えることが大事。」
 たしかに現状では、在宅移行の準備も退院後の生活の見通しも立っていない。ケアプランも介護保険のみで組まれており、Sの在宅生活を支えるには不十分だった。また同居家族がおらず他人の介護に頼るしかないSを介助する態勢も整っていない。七月中旬から下旬に退院が予定されているが、約一ヶ月の間にどこまでのことができるか、まるで分からない状況だった。退院を実現するために何をどう支援したらよいのか。不安を抱えたまま、Sの支援が始まった。
 Sとの話の後、病院の正面玄関ロビーで、介助アルバイトを希望する学生と支援者たちで、今後について話し合いを行なった。西田がみなに今後Sが呼吸器を装着する決意があることを知らせた。またSの家族関係についても説明をした。
 みなで話し合い決めた今後の予定は、六月二七日に障害者自立支援法の利用について詳細を知るために福祉事務所を訪ねること、再来週にはSが大学に行けるように態勢を整えることの二点だった。福祉事務所には、堀田・長谷川・山本、そして介助アルバイトの学生一名が同行することになった。
 また退院後の生活を考えた住環境整備の話もなされた。西田からは、現在のSの自宅は賃貸であるため、改修工事は行えず、ベッドの位置を変える、車椅子が通りやすいようにドアを外すなど簡単な対応しかできないことが伝えられた。
 この場ではケアプランや制度については話されなかったが、この日、ケアマネージャーから新しいケアプランが提出された。ケアマネージャーからは、新しいケアプランでは介護保険サービスの利用限度額を超えたので障害者自立支援法を併用した対応が今後必要になってくるとのことであった★01。
 ケアマネージャーから提出された新しいケアプランでは、デイケア送迎と夕食時、そして就寝前の合計三時間の訪問介護しか入っていなかった。またデイケアがない日は、多い日で訪問介護五時間半と訪問看護の一時間で、最も少ない日は二時間半の訪問介護だけだった。いずれにしても、午後二二時以降は空白のケアプランだった。Sが障害者福祉サービス受給のための障害程度区分認定調査を受けているのかについて不明だったが、すでに介護保険制度の利用だけでは現在のSのニーズを満たせないことは明らかであった。六月二〇日時点で提出されたケアプランは介護保険とデイケアのみを使い、一週間に二回の訪問看護を入れた、入院以前と大きくは変わらないものだった。

二〇〇八年六月二〇日 ケアプラン

表
 
もちろん、このプランをそのまま受け入れることは、身体状況が全く変わってしまっている以上、独居生活を逼迫させることは明らかだった。この時点で考えられるSの支援課題は以下にまとめられる。
  @ケアプランの見直しが必要であること
  A独居患者であるため、介助者とその登録先になる事業所を確保すること
  Bコミュニケーション支援が必要であること
  C入院生活中の外出支援
 @介護保険だけではニーズを満たせないことは明らかで、ケアマネージャーが提出した新しいケアプランでは到底在宅生活を維持できるものではなく、障害者自立支援法を併用した対応が必要だった。病院側からは七月中旬から下旬のあいだでの退院を迫られており、S本人もまた早く退院したいとの思いが強かった。退院予定日までの約一ヶ月間で、毎日の夜間帯が空白の状態から本人のニーズを反映した二四時間介護に近いケアプランに変更していくためには、ケアマネージャーや福祉事務所との交渉が必要となる。しかし日々病が進行している状態で、Sの「できること」「できないこと」をどのように見極めてケアプランに反映させていくのか、そして実際に在宅移行をしてみなければ本当のケアニーズを把握できないという点は支援者にとっても悩ましい点であった。
 ASは一人暮らしで、家族介護に期待できず、他人による介護に頼らざるを得ない状況にある。西田は、立岩(教員)にも相談しながら、Sの介護や支援が可能な人間を募っていた。そこで集まったのは、立命館大学学部生の三名(女性二名、男性一名)、大学院から四名だった。またK氏の在宅移行の新聞記事を読み興味を持った看護学生も協力してくれることになった。こうして学生を中心に集まることになった。
 しかしSの在宅生活にどのようなニーズがあり、どの程度の人手がいるのかは不明であった。特に学生が介護や支援を中心に行う場合、実際にSのケアニーズに応えられるかも問題だった。S本人の「したいこと」「できること」について、介助者が見極めを誤ることはSの生命に直接関わるし、それを考えると学生には負担が大きい。また在宅生活で必要となる支援は、調理や洗濯などの生活支援、排泄介助などの身体介護、日中や夜間の見守り、外出支援、そのほかにも制度上の提案を含むソーシャルワーク支援、パソコンを使用したコミュニケーション支援など多岐にわたる。これらを学生がどこまでできるのかを考慮する必要があった。それに伴って、ボランティアでしてもよいことと有償にしなければならない支援など、雇用形態についても考える必要があった。
 ケアニーズを把握できない状況でどの程度の人材が必要かは不明だった。ただ、この時点で集まった学生だけでは足りないことは容易に考えられ、新たに確保しなければならないという課題もあった。また、学生に声をかけるとすれば、立命館大学からSの自宅が離れていることも人材を確保する際に壁となった。Sの自宅は、賃貸で改修工事も許されていなかったため、大学に近い低家賃の物件を探すことも考えられていた。
 B介護保険だけでなく障害者自立支援法を併用したケアプランに変更するためには、@で述べたように、S本人がケアマネージャーや福祉事務所に訴え、交渉することが必要である。そのためには情報収集が不可欠だが、入院中のSはパソコンを使用できず、介助がなければ移動も満足にできない。情報にアクセスすることが困難な環境に置かれていたSは、自身がどのような制度を利用可能であるかを知らないまま、交渉にのぞまなければならない。また、Sは症状が進行すると発話困難となりコミュニケーションに障害を来たすため、意思伝達装置「伝の心」などの訓練が必要であるが、病院ではパソコンが使用できなかった。
 C病院からの外出支援は、障害年金や傷病手当など様々な手続き、行政との交渉、日常生活に必要な買い物や支払いに必要であった。しかし、そもそも介助アルバイトの学生を募集する際に提示した条件が「夜間の見守り」であり、支援者も仕事を抱えながら支援を行っているために、入院生活での日中の活動を頻繁に支援できる人がいなかった。

* 西田たちの活動があって退院後の支援にあたれそうな人が初めてSに会ったのが退院の二一日前ということになる。この時点で――というより一貫して――Sは早期の退院を望んでいた。ただ、現実には、Sの在宅生活を可能とする態勢を整えるのには時間がかかりそうであり、そしてそれがいつまでにできるのかもわからなかった。早期退院という限りでは、病院、本人、そしてこの時点でのケアプランでよしとするケアマネージャーの意向は一致してもいる。他方に、しかしそれでは準備ができないとして、退院時期を延ばすしかないと考え、そして実際にいつ退院させられるのかわからない状態で、時間を稼ぎつつ、具体的に何が必要なのか確定できないまま焦りながら準備を進めるといった状況だった。
* 同時にそれでもその困難なことがここでは不可能ではなかった。そしてここにその条件がたまたま存在していた。人を集めないことには退院後の生活は考えられなかった。西田論文にあるように、その募集は簡単にはいかなかった。この切迫した状況において、それでも最低限の人を集められたのは、K氏とのかかわりにおいて在宅独居生活支援の経験者がいたこと、そして研究事業の一環としてこの支援に人件費の支払いができたからであった。同じことを別に言えば、そうしたたまたまの条件がこの時になければ――実際には、さらにそれを受け入れる事業所がなければ――Sは作られたケアプランで暮らし始める以外なかった。


■Sと支援者たちが抱える課題

六月二三日(月)
 Sに出会って一日しかたっていないのに、すでにさまざまな課題があった。
 中でも在宅生活移行にあたっての一番の課題はケアプランだった。この時点でのSのケアプランは介護保険のみで立てられており、毎日の夜間と日曜日は空白の状態だった。このケアプランを見た川口は、夜間帯と日曜日の空白部分に障害者自立支援法のサービスをいれるべきだとし、また実現不可能でもいいから一週間のケアプランをS本人が作成することを提案した。Sのところに枠組みだけの白紙を持っていき、支援者が希望の詳細を聞き取りながら書き込んでいくことになった。
 だがこの時点でもSが障害者福祉サービスを受給する際に必要となる障害程度区分認定調査を受けているのかどうかは不明だった。そのため、堀田が福祉事務所にこの調査について聞き、可能なら早急に介護給費支給申請書を受け取りに行く予定をしていた。そして至急に申請書をSに届け、金曜日(三〇日)に福祉事務所に提出し、認定調査の申請をする予定だった。Sはすでに自筆困難だったために、申請書の記入は支援者が代筆することも考えていた。
 そこで堀田は福祉事務所に電話で連絡した。だが、福祉事務所からは「ケアマネージャーを通さなければ申請できない」として取り合ってもらえなかった。また福祉事務所は、Sのような重度障害者のケースでは、障害者自立支援法を優先的に利用できる可能性があることを知らず、介護保険を優先的に利用し、その不足分を障害者自立支援法で補うという認識だった。これについては、二〇〇七年三月に厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部から各都道府県の障害保健福祉主管部に提出された通達「障害者自立支援法に基づく自立支援給付と介護保険制度との適用関係等について」において、一律に介護保険サービスを優先的に利用するものとはしないとしている★02。
 しかし、福祉事務所のケースワーカーは介護保険が優先されるという認識だった。障害者自立支援法を申請したくても、ケアマネージャーを通さなければ申請できないという福祉事務所の対応では先に進めることができない。そもそもケアマネージャーは介護保険専門員であって障害者サービスの専門員ではない。どこまでケアマネージャーが権限を持っているのかについては疑問だった。ケアマネージャーを通さなければ申請できないという決まりはどこにも存在しないことを、福祉事務所に正確に、そして巧みに伝えて納得させる必要がある。このことについては西田がすでに一度ケースワーカーに指摘したことがあったが、その時も受け入れてもらえなかった。今回は福祉事務所に対して粘り強く、厚生労働省にその場で直接電話をして確認を行うぐらいの勢いで交渉をすることが求められた。
 Sの退院予定日まで時間がない中で、支援者たちの間では、介護保険と障害者自立支援法を併用したケアプランの実現を目指す方向性が決まりつつあった。長谷川・山本は、堀田から、ケアマネージャーが動かず自分自身で障害者自立支援法による支援を勝ち取った人のブログである「心は動くぞ…わくらばの日記」★03の一部と前述の通達を預かり、翌日Sに渡して、説明することを頼まれた。

* この制度の優先関係についての行政側の認識は変わることはなかった。しかしそれでも、認識がまちがっていることをSと支援者側は知っていて指摘することができた。またケアマネージャーに格別の権限がないことについても知っていて指摘することができた。そうでなければ、ケアマネージャーに作成されたケアプランと別のものを提示し、それを通すことはできなかったはずだ。このSと支援者側の知識・対応は、ケースワーカーとケアマネージャーとの関係を対立的なものとする方向にも働くことになる。それは双方を疲労させ悲しませることになることをこれからも見ていく。またそれは双方にとって辛く無駄な仕事であった。しかし、制度の不具合や制度についての誤認がある場合には、制度を使う側には知識が必要であり、それをもって対抗するしかない。そしてやはり、その知識をもたず使わないのであれば、生活可能な在宅生活への移行はその時点で不可能になる。

六月二四日(火)
 お昼にSの病室を訪ねた。病室で、また喫煙所で、生い立ちのこと、これまでのこと、身体のこと、住まいのことなど様々な話を聞いた。
 病室にSを担当している実習中の看護学生が様子を見に来た。Sは自分の病気を通して看護学生にいろいろ教えているようで、看護学生もSを受け持つことができてとても勉強になっていると言っていた。長谷川と山本は、看護学生とSに病院の中を案内してもらうことになった。看護学生が車椅子を押し、Sが案内し、外来やリハビリの部屋などを教えてくれた。
 途中、休憩室でコーヒーを飲みながら、ペットのチンチラの話を聞いた。Sは家族からプレゼントしてもらったペットのチンチラをとても可愛がっている。入院中はデイケアの医師に預かってもらっているとのことで、とても心配していた。Sにとってペットのチンチラは、退院したいという気持ちを突き動かす大きな存在となっていた。Sは入院生活にとても不満を感じており、入院生活は過酷で看護師はあまり介助をしてくれないと言う。そういった病棟看護師のケアに対する不満を吐き出せる場所が、リハビリの時間であった。リハビリを担当している作業療法士との時間がSのストレス発散になっていた。
 再び病室に戻ると、Sと看護学生に清拭を教えてもらった。清拭は月曜日に一回だが、看護学生がいる間は毎日やってくれるとのことだった。以下は清拭の手順である。
 腕が上がらないので頭から脱ぐ→ホットタオルを使用して背中を温める→上半身の清拭
(Sの手は常に握った状態にあり、自分の爪が手のひらにささることがあるため、こまめに爪を切る必要がある。)→湿らせた綿棒で胃ろう周辺部の汚れを取る(汚れが固まって肌に触れると痛みを伴う。また、放置すると炎症を引き起こすことがある。胃ろうは手術後一週間程度、強い痛みが続いた。)→下半身の脱衣と清拭→パンツの履き替え→ズボンと一緒に着衣→足湯
 清拭が終って間もなく、K氏の支援者がSの様子を見にやってきた。K氏の入院中の話をしながら、Sにマッサージを行った。K氏も病気の進行が早かったがマッサージをし始めたら病気の進行が遅くなったようだと語った。Sは、「リハビリではここまで丁寧にマッサージをやってくれない」と言い、気持ちよさそうにマッサージを受けていた。マッサージをし終えたK氏の支援者は、「(マッサージをする前と比べて)身体がやわらかくなったね」とSに伝えた。身体に触れることは、コミュニケーションをすることだとK氏の支援者は語った。
 K氏の支援者が帰ってからすぐ、堀田から長谷川に電話があった。Sからケアマネージャーに連絡をとってほしいとのことだった。
 前日、堀田は障害者自立支援法の申請手続きのために福祉事務所に電話をしていた。しかしケアマネージャーを通さなければ申請手続きができないとの理由で拒否されていた。支援者たちは、ケアマネージャーを通さなくてもS本人で交渉可能という見解を持っていたので、当初の予定通りに二七日にSと支援者たちで福祉事務所に交渉に行くことにしていた。再び、堀田が障害者自立支援法の利用について交渉にいくことを福祉事務所に確認したところ、ケアマネージャーが同席しなければ話自体に応じないと伝えられた。そこで堀田は、「Sからケアマネージャーに、二七日の交渉に同席してほしい。同席が無理な場合は、障害者自立支援法でニーズがどれだけ満たされるのかについて、Sが聞きに行くことに、ケアマネージャーから了承を得ていると福祉事務所の方に説明できるようにしてほしい」とSに伝えることを長谷川に頼んだ。また、堀田はこの間、障害者主体の自立生活支援組織Eに相談しており、交渉する際には、同センターに所属しているメンバーに同席してもらう約束も得ていた。
 長谷川は、以上をSに伝え、至急ケアマネージャーに連絡を取ってもらうように頼んだ。Sは携帯電話を持ち操作することができなかったため、山本と長谷川が代わりに操作をして電話を持ち、Sの耳に当てた。病院では、インターネットに接続され障害者でも操作できるパソコンは患者に提供されていない。外との連絡手段は携帯電話と病棟に設置された公衆電話だけで、この環境はSにとって大きな障害となっていた。しかし、結局ケアマネージャーとは連絡がとれず、長谷川は堀田から伝えられた内容をメモに残した。
 それからSは生活のことを話した。ALSを患って、当初は経済的な重圧を感じたとのことだった。
 「年金の手続きなどバタバタしていた。傷病手当は申請してもなかなか下りてこないし、その間お金は入ってこない。今も家賃は支払っている。ここでの入院費、特定疾患の申請が通るまでは、一時的に自分で支払う必要がある。四月二三日に保健所に特定疾患の申請をした。かれこれ二ヶ月経つけど、証明書が送られてこない。自宅に届いているのかもしれない。こんなに入院するとは思っていなかったから、支払いが全部ストップ。ガス代、電気代の支払いが大変だった。病気のことを考えたら、生活保護にしたほうがいい。」
 Sの収入は、年金と傷病手当、特別障害者手当で、全部を合計しても約一七万円、そこからガス代や電気代、家賃などの生活費を支払えばたちまち残金は少なくなってしまう。そのうえ一時的に入院費を支払わなければならないが、生活保護は年金などの収入があるため受給できない。それぞれがまとまった日時に振り込まれないので、お金の管理も難しい。独居のため、金銭面での管理をしてくれる家族もいない。管理や支払いは自分でしなければならない。入院中であっても、看護師やケアマネージャーが支払いをしてくれることはない。こうした経済的な負担を抱えながら日々病気と向き合わなければならない。
 また、Sはこれまでの気持ちと今の気持ちについても話してくれた。
 「B病院を退院してから一度呼吸器の装着をあきらめた。周りに迷惑をかけられない。家族に頼ることができないし、介護が全然期待できない。B病院を退院するときに人工呼吸器をどうするかを聞かれた。いらんと言った。動けるうちに動いて好きにしたらいいと思う。B病院の献体の会に入って、あとは散骨してくれといった。あきらめた。でも川口さんやいろんな人に出会って、がんばっていこうと思った。」
 家族介護を期待できない独居者にとって、支援者が集まったこと、いることはとても心強いことである。支援者の存在は、一度あきらめた人工呼吸器の装着や人生をも考え直させるぐらい大きな力になるのだと感じた。
 こうして一日Sの話を聞きながら一緒に過ごした。この日に長谷川と山本が行なった介助・支援は、車椅子を押したこととタバコ介助、携帯電話を持つぐらいだった。しかしこうして一緒に過ごし話を聞くこと、これからの生活について一緒に考えることが独居患者には支援として重要な意味を持つと感じた。

六月二五日
 昼に西田から、山本と長谷川にSが飼っているペットのチンチラの"チビ"の容態が悪いと連絡があった。Sが入院している間は、デイケアの医師が預かって面倒をみている。西田から「昨日の夜からぐったりしており、デイケアにチビを連れてきているから、Sに会わせてあげたい。このことはすでにSには連絡してあり、外出届けを出して、お昼にデイケアにSを連れてきてほしい」と伝えられた。
 病院にSを迎えに行くと、ちょうどSはリハビリ中で病室にはいなかったため、リハビリを担当している作業療法士のところを訪ねた。その際にリハビリの様子を見学させてもらい、歩行時の支え方や注意点など介助について教えてもらった。またリハビリ担当の言語聴覚士からSに、嚥下の状態を懸念して、飲み物にとろみをつけるように指示が出された。このときSは呼吸がしづらい、話しづらい状態であった。話す言葉も聞き取りにくくなっていた。
 リハビリが終わって病室に戻り、外出の準備を始めた。長谷川が外出届けを代筆し、提出した。本人が独居で、自筆が困難であることがわかっていても、病院側は外出届けの記入、提出を求める。
 チビについて電話で報告を受けてからSは悲しいようで泣いていたと、実習中の看護学生から報告を受けた。不安定な状態だったので看護学生が付き添っていたとのことだった。看護学生に見送られ、山本の車でデイケアに向かった。到着し、多くのスタッフに迎えられたSは嬉しそうだった。二階にある奥の部屋でSはチビに再会し、面倒をみてくれた医師に感謝の言葉を伝え、しばらくチビとの時間を過ごした。医師が戻ってきて、チビの最悪の場合はどうするのかと尋ねると、Sは「土に埋めてください。ありがとうございます。」と言った。
 またこの時、Sの自宅に届いていた郵便物を西田が回収して持ってきていた。西田はSの確認のもとで郵便物を開封した。家族のいない入院患者は自宅に郵便物が届いても、それを確認することができない。郵便物の中には特定疾患の証明書があった。それはSが二ヶ月も前に申請したものだった。特定疾患医療受給申請は、国の定める特定疾患治療研究事業対象疾患四五疾患が対象となっている。管轄の保健所に申請を行い、都道府県ごとに設置される医療審査会で認定基準に合致すると認定されると、医療費の公費負担制度を受給することができる。特に重症であると認定された場合は、自己負担は免除される。このような重要な書類が自宅に届いていても、家族のいないSは確認できない。
チビとの一、二時間の再会で病院に戻る時間が来た。長谷川と山本はSに依頼されてお金の引き出しと携帯電話のプリペイドカードを購入し、Sを病院まで車で送り届けた。
 このような動きがあった一方で、デイケアにはケアマネージャーから連絡が入っていた。金曜日に予定されている福祉事務所との交渉には行かないし、ケアプランの空白部分にヘルパーの時間数を追加したから七月一日に退院の方向で考えているとのことだった。
 Sは金曜日に、障害者自立支援法での夜間の見守りを含む介護保障を求めるため、福祉事務所へ交渉に行く予定をしていた。しかし福祉事務所は「ケアマネージャーを通さなければ話し合いに応じない」とのことだった。そのため、支援者側は、ケアマネージャーとの関係などを考慮し、交渉にケアマネージャーを加える方向で考えていた。仮にケアマネージャーの都合が悪ければ、了解を得た上で当初の予定通りにSと福祉事務所で交渉するということで話を進め、Sからケアマネージャーにその旨を伝えてもらった。
 ケアマネージャーはこの話を聞いて、自分の知らないところで話が進んでいることに動揺したのか、すぐにケースワーカーに連絡をした。そのとき、担当の福祉事務所のケースワーカーは、「金曜日にそのような予定はなく、自分は聞いていない」と回答したとのことだった。しかしここには行き違いがあった。堀田はケアマネージャーの都合を確認した上で、ケアマネージャーが同席可能な日程で、あらためて福祉事務所に面談を申し込む予定だったが、ケアマネージャーは、すでに支援者が面談の日程を決めたものと認識していたようだった。このような行き違いに基づくやり取りは、Sや支援者にとっては、ケアマネージャーとケースワーカーが必要なサービスの提供に消極的であるようにしか思えなかった。
 続けてケアマネージャーは、「日曜日の空白部分にヘルパーを数時間追加したので、七月一日に退院の方向で考えている。障害者自立支援法に関しては、入院時に福祉事務所が調査に行ったので時間数はすぐ出る。今の介護プランの超過分のみ障害者自立支援法での対応をする。再調査となると申請までに時間がかかり、退院が延びるので今のプランで退院してもらおうと思っている。」とデイケアの相談員に伝えた。デイケアの相談員が、「本人の意向は?」と聞くと、「明日本人にプラン見せて許可を得て、その足で福祉に行って手続きしてきます。」と答えたという。
 しかし、ケアマネージャーが新たに作成したケアプランは、以前と変わらず夜間が空白の状態で、加わったのは日曜日の日中二〜三時間程度だった。
このまま退院させられる危険性があったため、堀田は、@そのケアプランでは全然ニーズが満たされないこと、A障害者自立支援法でのケアプランは本人が作成して申請することができることを、S本人からケアマネージャーに主張することを提案した。今までSは、ケアマネージャーにお世話になっているという意識が強く、また制度について詳しく知らなかったために、ケアマネージャーが持ってきた書類に印鑑だけを押していた。しかし、翌二六日にケアマネージャーが病院に来た時には、Sは以下を自身で伝えることにした。
・障害者自立支援法の併用についてはケアマネージャーの領域ではないし、自分の今後の生活のことなので、自分でプランニングする。
・入院時からは確実に進行しているので新しいケアプランでは無理。体の進行に書類申請が追いついてこない状況なので、先を見越したケアプランが必要。
・夜間の見守りを含む介護保障については自分で福祉事務所に交渉に行く。
・障害者自立支援法を併用したケアプランを作成しない限り退院はできない。
・もし理解が得られないなら、ケアマネージャーとの契約は解消したい。
 以上をケアマネージャーに伝え、ケースワーカーには他の用事もあるので金曜日に福祉事務所に行くことを連絡することになった。

* 支援者たちと福祉事務所およびケアマネージャーとの最初のやり取りにおいてすでに行き違いがあったことは不幸だった。支援者たちには、福祉サービスの支給量について裁量権をもつ人たちが、Sに必要なサービスを認めていないように見えた。逆に、ケアマネージャーとケースワーカーにとっては、誰とも分からない支援者が突然介入し、物事を一方的かつ強引に進めようとしているように見えたことだろう。

■ Sのニーズを実現するために

 六月二六日
 昼頃にSを訪ねた。昨日、リハビリ担当の言語聴覚士から、飲み物にとろみをつけるように指示が出されたので、売店にとろみ剤を買いに行った。病室から売店までは距離があるため、長谷川が車椅子を押して行った。売店のおばさんに「息子さんと娘さんですか?」と尋ねられ、Sはそうだと答えて笑った。毎日通っていると周囲には家族だと思われる。
またSに自宅からエンシュア(総合栄養剤)、傷病手当申請書、年金の書類が入った袋、湿布剤、軟膏を持ってくるように依頼された。Sから自宅の場所を聞き、鍵を預かり、あとで取りに行くことにした。独居の場合は、必要なものがあっても届けてくれる家族がいない。また病院から外出することも困難なため、自分で取りに行くことは難しい。
 この日は、ケアマネージャーが障害者自立支援法を併用したケアプランを持って来る予定だったので、Sと一緒に待っていたが、結局来られずに電話での確認と交渉になった。Sはケアマネージャーが立てた介護保険でのケアプランには反対しないが、現在の状況を考えると、障害者自立支援法を活用して二四時間介護に近いケアプランが必要だと主張した。

 「発作、喉をつまらせたりするとナースコールを押したりもできないから二四時間欲しい。制度では二四時間の介護が難しいかもしれないけれど、それに近い状態にしてほしい。」

 そして、現状を福祉事務所に直接自分自身で伝えたいと主張し、ケアマネージャーに了承を取り福祉事務所に電話をした。福祉事務所からは、ケアマネージャーよりケアプランが届いていることが伝えられた。しかし、Sはその内容では不十分であるとし、障害者自立支援法でできるところまで、二四時間介護に近い形でのケアの必要性を強く訴えた。

 「身体が動かないから二四時間見守りでもいいから入れてほしい。病気がこれから進行して、いつ二四時間必要になるか分からないから福祉事務所に行く。手が動かない、足が動かない現実を福祉に伝えたい。今までは動けたから自分でカバーできたけど、次はできない。ケアマネージャーのプランには反対していないが、それにプラスして介護がほしい。ケアマネージャーも一緒に頑張ってきた。頑張らないと苦しいのは僕だけ。退院したって何にもできない。でも病院はずっと置いてくれない。すぐ追い出される。治らない病気を誰がみてくれる。僕のことを考えてくれなかったら困る。見て欲しい。ケアマネージャーのプランは反対していない。しっかりして僕は退院したい。空いた時間は見守りでいてほしい。行政がこれ以上できないというなら、支援団体でカバーしてもらう。同じ失敗したらダメ。良くも悪くもケアマネージャーは一緒に頑張ってきた。」

 しかし、ケアマネージャーから福祉事務所にSの意向が正確に伝わっておらず、Sの身体の状態が理解されていないところがあった。Sは「空いた時間を見守り介護で埋めてほしい。しっかりと体制を整えた状態で退院したい。行政がこれ以上出来ないというところまでやって、カバーしきれないところをボランティアで補う」との主張を繰り返した。その結果、ケアプランについて話し合う場を三〇日の月曜日に病院で設けることになった。
 Sは、ケアマネージャー、ケースワーカーとの交渉を自分で行った。しかし、そもそもSのように重度の身体障害を伴う場合は、携帯電話を操作し受話器を持つ人がいなければ交渉が成立しない。携帯電話はSに連絡を取るための窓口となっている。各種手続きを進める上でもS本人に確認が必要な場面は何度もある。Sにしても思いついたときに自分の意向を伝えることはできないし、代わりに伝えることのできる家族もいない。介助者がいなければ、実質的にこの携帯電話は機能しない。確認を取るために頻繁に入院中のSのもとを訪れる必要が生じる。さらにSの場合、携帯電話はプリペイド式であり、使い切ってしまえば、病棟の公衆電話を利用するしかない。公衆電話では受話器を持てないことに加えて、財布から硬貨やテレフォンカードさえ取り出せない。一方で携帯電話のプリペイドカードを再度購入し使用するためには、外出支援が必要となる。
 この時点でSが抱える課題は以下であった。
  @介護保険担当のケアマネージャーが障害者自立支援法を一日数時間程度使うような不十分なケアプランで退院させようとしていること。
  A障害者自立支援法で使用できる介護サービスの支給時間数が未だに示されていないこと。
 まず@について、このケアプランのもとでの退院はS本人が拒否した。Sは、ケアマネージャーによって作成されたケアプランについては反対していない。だが障害者自立支援法の支給時間があまりに少なく見積もられ、その上見守りが必要だと訴える夜間帯が空白のままだったことに不満を抱いていた。そのため、S本人は空白の夜間帯を障害者自立支援法で埋めたケアプランを自分自身で作成し、それをケアマネージャーのケアプランと合わせた形で申請・提出する方向で考えていた。一方で、福祉事務所は介護保険の不足分を障害者自立支援法で補うという優先順位に固執しており、ケアマネージャーを通さなければ対応をしてもらえないといった困難が予想された。
 またAについては、Sが入院直後にすでに障害程度区分認定調査を受けているとのことだったので、区分認定決定待ちの状態だった。Sの希望は、夜間の一〇時間分×三〇日=三〇〇時間が障害者自立支援法で保障されることだった。
 仮に三〇〇時間が保障されたとしても、それを支える事業所が見つからないことが次の課題だった。在宅生活移行後にヘルパーとして入る学生アルバイトは集めていたが、その学生たちに障害者自立支援法に対応するヘルパーの資格を取ってもらうことが必要条件であった。しかし、学生ヘルパーたちによる態勢を構築するためには、彼らを引き受けることが可能な事業所を確保しなければならない。ヘルパーを登録してもらえる良心的な事業所を探す必要があった。堀田は、Sのようにセルフコーディネートをしようとしている人の支援をしている大阪のA事業所に相談した。
 このA事業所は、D市内で二四時間他人介護による在宅独居生活を実現しているALS患者のK氏を支援している。K氏の在宅独居生活移行支援には川口と堀田がかかわっていた。それで堀田には障害者自立支援法の重度訪問介護事業を行っているA事業所とつながりがあった。K氏の在宅独居生活移行の時も、K氏の友人や知人の輪を通じて支援者を集め、支援者に障害者自立支援法に対応するヘルパーの資格を取得してもらったのだが、その次に、ヘルパーを引き受ける事業所が必要だった。そこで、ヘルパーの登録が可能な事業所を探して、A事業所を見つけた。事情を説明して相談すると引き受けてくれることになった。今回もそのA事業所に相談することになった。
 A事業所代表者の協力が得られ、Sの支援グループの自主性を尊重し、学生ヘルパーを登録してくれることになった。また必要ならヘルパーを派遣することも可能だとのことだった。たとえ希望通りの時間数が獲得できたとしても、学生ヘルパーの登録が可能な事業所を確保することは福祉事務所との交渉でも大きな課題だった。そのため、この事業所が見つかったことは、これからの交渉においてもきわめて大きな意味を持つものであった。
 障害程度区分認定も決定しておらず、ケアプランの作成が困難な状況だったのはたしかである。しかし、ケアマネージャーが作成したケアプランは、介護保険と障害者自立支援法を併用しても週二五時間、月一〇〇時間足らずで、入院生活以前のケアプランとほぼ同じであった。入院中も病状の進行するSにとって、このプランで在宅生活を送るには明らかに時間数が不足していた。介護保険枠は限度額まで利用しているが、夜間帯に加えて日曜日の日中も空白のままであった。夜間の見守りだけでも最低三〇〇時間を必要とSは主張している。だが、ケアマネージャーの作成したケアプランを福祉事務所が認めており、Sは孤立してしまっていた。

* 生活可能なケアプランを作るには、@必要な時間数の介助供給が決定され、Aそれを担う人がいて、B(現行の制度下では)その人が所属する組織が必要である。A、Bが存在しなければ@が実現しても、実質的にそれを使うことができない。この日に提示されたケアプランも、D市におけるA、Bの現実から示されたものであったのだろう。Sにとって生活可能とされる、障害サービスを利用したケアプランを現実的なものとして提示するためには、A、Bがあることを、こちらから、示す必要があった。しかしそれは、支援者に在宅移行支援の経験があり、ネットワークを持っていたからできたことである。もしもそのような経験やネットワークを持たなかったとしたら、Sの在宅可能なケアプランは実現しなかっただろう。

六月三〇日
 福祉事務所のケースワーカー、ケアマネージャー、そして保健師とケアプランについて話し合いが行われた。場所はSのいる病棟に設置されたカンファレンスルームで、支援者側からは堀田・長谷川・山本が同席した。
 まずSは、@入院期間が延びていることについて質問し、加えてA現在のニーズをケアプランに適切に反映してほしいと主張した。
 @については、Sが転倒して肋骨骨折の疑いがあるから静養治療のためだとケースワーカー、ケアマネージャーは説明した。Sは、自分はケアプラン見直しのために入院していると認識しており、ケアプランの作成が遅れているから入院期間が延びているのではないかと主張したが、受け入れられなかった。医師から肋骨骨折の疑いがあることは説明されたが、それ以後は説明を受けていないとSが伝えると、自分の体のことは自分で聞かないといけないだろうとケースワーカーから責められることになった。
 また、障害者自立支援法の障害程度区分については、本日(三〇日)付けで「六」という決定が通知された。これにより、障害者自立支援法を活用したケアプランの話を具体的に進めることができると思ったが、ケースワーカーは「介護保険のケアマネージャーがケアプランを作らなければ受け付けられない」と主張した。介護保険と障害者自立支援法の優先関係は本人の状態に合わせた適用が可能であるという厚生労働省の通知を堀田が提示したが、ケースワーカーとケアマネージャーの理解は得られなかった。彼らは一貫して、障害者自立支援法の利用はできないと主張した。本人の医療的ニーズに応じて障害者自立支援法の利用が可能であり、現在のSの状態では気管切開もしておらず痰の吸引も行なっていないために必要ないと判断したのである。これに対してSは、「特に夜間は身体も固まって動かないし、痰を吐き出すこともできない。ナースコールさえ押すことができないときがある。」と強く訴えた。すると、ケースワーカーは「そんなときはどうしてるの?」と質問した。Sは「ずっと我慢している。息もできない。なんとか頑張って痰を飲み込むしかない。」と答えた。これを聞いたケースワーカーは「それなら大丈夫ですね。」と言い、ケアマネージャーもそれに相槌を打った。
 ケアマネージャーから移行後のケアプランが提示された。Sのニーズを満たしたとされるケアプランは、介護保険のみで組まれており限度額を大幅に超過していた。そのため、八万円に上る自己負担額は、家族の援助が期待できず経済的な不安を抱えるSにとって承諾できない内容だった。
 夜間介護(一日一〇時間分)について、堀田が自立生活支援組織Eから得た知見にもとづいて、「D市でも、緊急事態にナースコールを押せない状態は見守りが必要な状態だと認識されているのではないか」と言ったところ、ケースワーカーは「その程度の状態では必要ない」と答えた。そしてケアマネージャーは、「転倒は健常者でもするのだから」と言った。
 夜間介護については、ケースワーカーとケアマネージャーから「事業所・ヘルパーの調整が困難である」と伝えられた。障害者自立支援法で夜間介護をケアプランに組み込むことは、引き受ける事業所そのものがないために不可能だと判断されたのである。
 そこで支援者側が、すでにヘルパー候補者は集まっており、資格の獲得も予定されていること、そしてヘルパー候補者の登録先である事業所が夜間介護を引き受けてくれることを伝えた。すると、ケースワーカーの態度が一変し、「医師の意見書」があれば夜間を障害者自立支援法で賄うことも不可能ではないという回答が得られた。「審査を通すには私も説明できるものが必要なんだ」とケースワーカーは話した。ただ、空いている一〇時間の全部を埋められるかどうかについては確約を得ることはできなかった。いずれにしても、「医師の意見書」が全てということであった。入院直後に障害程度区分認定調査を受けた段階で医師の意見書は提出されているにもかかわらず、再び提出が求められたのは、障害程度に対する定型的な時間数を超える時間を引き出すためには別途審査が必要になるという理由だった。
 また、ケアマネージャーには、障害者地域生活支援センターの相談支援員と連携してケアプランを作成することを提案した。障害者地域生活支援センターは、障害を持つ患者と家族、支援者を対象に、障害者の地域生活の相談に応じる相談機関である。障害者自立支援法についての相談の窓口の役割も担っている。ケアマネージャーに障害者地域生活支援センターへの相談を勧めたが、ケアマネージャーからは具体的な回答は得られなかった。
 Sはここ数週間で呂律がまわりにくくなる、食事介助が必要になるなど症状が非常に進行しているにもかかわらず、それはまったくケアプランに反映されていなかった。支援者にとっての課題は、S本人は一日も早く退院したいが、現在の身体の状態に合わせた在宅独居生活に見合う介護支給時間やケアプランの作成、学生のヘルパー候補者のスキルアップや資格取得が間に合うかどうかだった。
 交渉後にSの病室に主治医が様子を見に来たので、医師の意見書が必要なので書いてほしいとSが依頼した。意見書については、入院先の病院の医師かもともとの主治医であるデイケアの医師が書くことが考えられた。しかし、入院先の医師は入院してから二回ほどしか病室に様子を見に来ていないので、Sの状態を把握しているのか疑問だった。また主治医であるデイケアの医師は、そもそも入院中の状態を把握することが難しい状況にある。Sの身体の状態を一番よく理解しているのは、リハビリを担当している作業療法士であるが、どちらかの医師が書くことになった。

* この話し合いは双方にとって、すべての参加者にとって、きわめて厳しい、消耗するものだった。ただ、それは結局、Sと支援者たちが必要とするものを行政側が用意できないことに要因があるようだ。支援者側が用意できることを示したとき、対応は一変した。そしてそれ以降、事態は、Sと支援者たちが示した方向に向かって動くことになる。しかしそれも、やはり、こちら側が具体的に示すことができなければ、あるいは示さなければ、話し合いは平行線のままで、Sは不十分な態勢のままの在宅生活に送り込まれることになっただろう。

■注
★01 介護保険では、要介護度状態によって利用できる介護サービスと介護保険から給付される利用限度額が決められている。利用限度額は地域によって多少異なる場合があるが、利用者負担は原則としてサービス費用の一割と決められている。利用限度額の超過分は、利用者が全額を自己負担しなければならない。Sの場合は、要介護度が「五」と認定されていたため、月に約三七六〇〇〇円分の介護サービスが受けられることになっていた。つまりケアマネージャーが作成した新しいプランでは、約三七六〇〇〇円分を超過したために、障害者自立支援法を併用した対応が必要とのことだった。

★02 障害者であれば、四〇歳以上六五歳未満であっても六五歳以上であっても、医療保険加入者は、原則として介護保険の被保険者となる。介護保険の被保険者である六五歳以上の障害者が要支援、あるいは要介護状態となった場合は、要介護認定を受け、介護保険の規定による保険給付を受けることができる。また、SのようなALS患者は六五歳未満であっても、特定疾病で第二号被保険者に該当するため、介護保険を利用することができる。その際の介護保険と障害者自立支援法の適用関係は、介護保険が障害者自立支援に優先される。そのため、介護保険を優先的に利用して介護サービスを使い切らなければ、障害者自立支援法での介護サービスを受けることができない。
 しかしこれについては強い批判がなされ、本文に紹介した通達が出された。以下のように記されている。
 「サービス内容や機能から、障害福祉サービスに相当する介護保険サービスがある場合は、基本的には、この介護保険サービスに係る保険給付を優先して受けることとなる。しかしながら、障害者が同様のサービスを希望する場合でも、その心身の状況やサービス利用を必要とする理由は多様であり、介護保険サービスを一律に優先させ、これにより必要な支援を受けることができるか否かを一概に判断することは困難であることから、障害福祉サービスの種類や利用者の状況に応じて当該サービスに相当する介護保険サービスを特定し、一律に当該介護保険サービスを優先的に利用するものとはしないこととする。
 したがって、市町村において、申請に係る障害福祉サービスの利用に関する具体的な内容(利用意向)を聴き取りにより把握した上で、申請者が必要としている支援内容を介護保険サービスにより受けることが可能か否かを適切に判断すること。」

★03 http://plaza.rakuten.co.jp/wakuraba/diary/200806100000/ (二〇〇八年一二月一〇日確認)


(3)――二〇〇八年七月
山本晋輔

■はじめに/経緯

 二〇〇七年六月二二日、筆者は西田・堀田・長谷川とともに入院中のA病院にSを訪れる。その直前の六月十日に、立命館大学の国際シンポジウムの一環として、K氏宅に立岩をはじめとして大学院生・研究者が集まった折に、Sのことは西田から聞いていた。またこのときに、川口からはアクションリサーチへの参加を打診されていた。その背景には、二〇〇七年度にK氏の在宅独居生活支援に、居住空間デザインと建築の実施側面から、筆者自身が中心的に関与していたという経緯があった。
筆者は、修士課程(二〇〇六〜七年度)で建築計画学を専攻していた。そのとき所属していた研究室で、三年余り入院生活を強いられていたALSのK氏の支援に協力し、K氏の住まい探しとその改修工事の設計・施工に取り組んだ。筆者もその企画当初から関わり、その場を一つの調査地として展開された居住環境や介護・医療等の制度・実際をめぐる調査研究に参加し、各地のALSの人を訪問した(その報告として山本・森田・阪田・高木[2008]、中院・野谷・森田・阪田・高木[2008])。その後、筆者は二〇〇八年四月に立命館大学大学院博士課程に進んだ。それ以前に、二〇〇七年度のK氏の生活空間の設計改装工事を行ったメンバーを含めて、支援者や研究者で構成されるメーリングリストが開設されており、堀田とは既知であった。
二〇〇八年六月八日に、K氏の支援者グループと大学関係者の入るメーリングリストに、Sを訪問した川口から、IT支援を呼びかけるメールが流された。筆者はさっそく堀田に連絡を取り、Sには症状の進行に合わせてスイッチの改良が必要であること、会話が可能であるためニーズが拾いやすいと思われること、そして住空間的な面での支援も考えているという理由で、Sの支援にかかわりたいという意向を伝えた。堀田もまた、3月以降にメーリングリストに西田が流す報告でSのことは気になってはいたが、きっかけが見出せずにおり、この機会にSの支援にかかわろうと思いはじめる。そして、その六月一〇日に、筆者は堀田・長谷川とともに立命館大学のシンポジウム企画の一環としてK氏の自宅で催された交流会に参加し、その場で西田からあらためて具体的な話を聞くことができ、Sの支援に参加することになった。
支援をしながらの人も含め、院生たちはこの間、K氏とSの在宅移行を巡る研究をし、その成果を学会報告などで報告してきた★01。本稿はその一部であるとともに、それらの報告ではごく簡単にしか紹介することのできなかったこの間の経緯の詳細を記述し、そして記録しようとするものである。筆者と長谷川はSの入院後期にほぼ毎日病棟を訪れ、Sの入院生活に密着して退院移行を支援しつつ記録をとった。なお、長谷川・山本が報告するのは、特定非営利活動法人ALS/MNDサポートセンターさくら会が厚生労働省より受託した平成二〇年(二〇〇八年)度障害者保健福祉推進事業「重度障害者等包括支援を利用した持続可能なALS在宅療養生活支援モデルの実証的研究」の支援を得て行ったアクションリサーチの成果の一部である。当委託研究事業の2年目にあたる本年の調査研究では、在宅療養中または病院から在宅療養へ移行予定のALS療養者の在宅生活を可能とする重度障害者等包括支援サービスの利用について、二〇〇七年度に実施した調査研究で明らかとなった課題を踏まえて、利用可能なプランを示し、また実施可能性があるモデルを全国から選定し、そのモデルプランを実施して実現可能性や実施条件(現行制度内で可能な連携、必要コスト、看護介護技術、家族のケア、その他)をさらに探ることを目的として行われた。★02
 本稿は、Sに対する支援がこの研究事業に組み込まれて、在宅療養生活体制の再構築に向けて事態が展開し始めるまでの経緯を描く。


■本稿の対象期間
Sをめぐる同年二月からの経緯については西田論文に書かれている。筆者がSに初めて会った六月二二日から三〇日に起こったことは長谷川論文に記されている。本稿もまた、筆者と長谷川がとった記録を用いて、七月一日から、A病院を退院した同月一三日の間に起こったことを文章化したものである。その後に理解されたことは、*を先頭につけて記述する。


■病院とのうまくいかない関係

七月二日(水)
 午前中にケアマネージャーがSのところに来て、障害者自立支援法を併用した形でケアプランを見直してくれると言ってくれた。自己負担になっていた超過分と夜間の部分を、障害者自立支援法で埋めるようなプランを作る方向で考えていて、退院と同時に生活保護に移行するように手続きを進めるということだった。また「至急、支援者から連絡がほしいとケアマネージャーが言っていた」と、Sから長谷川・山本・堀田が報告を受けた。
 この日の夕食時に、食事介助を行なっていると病棟看護師から注意を受けた。これまでにもSが自力での食事に疲れたときには、支援者が食事介助を行なっていた。この時点では、そのように家族のいないSを支援者が介助することを看護師らはとくに問題視する様子もなく、むしろ支援者に対して「ご苦労さま」と労いの言葉をかけるなど歓迎するような態度を見せていた。この日はフォークにご飯をさしても途中で落としてしまい口元まで運べなくなってしまったのである。ところが、病棟看護師に「あなたたちは何をしているのですか」と問い詰められた。その看護師によると、Sの日常生活動作(ADL)を評価記録するために本人がどこまで自力でできるのかを見極める必要があり、ボランティアだとしても介入されるのは評価の妨げになるとのことだった。
だが、このときSはフォークをもつ手の力のコントロールができず、フォークの歯を一部折ってしまっていた。折れた先は皿に入ったままだった。それを見て介助をはじめたのだった。そこで、堀田が介助を始めた理由を、「フォークを折ってしまって危なかったから」と説明したが、看護師はフォークが折れたことを知らなかった。
 夕食後、病棟の看護師長とS、支援者との間で話し合いの場が設けられた。このときSは、入院中に症状が進行し腕も上がらなくなったため、介助がなければ食事を満足に食べることはできないと訴えた。師長は、看護師が認識している状態とSの主張する介助の必要な状態との間にギャップがあり、看護師が「できるはずなのに」と思っているためではないかと説明した。そこで師長は、明日の朝に会議を開き、その場で病棟看護師にそのギャップを埋めるように指示するとのことだった。
 夕食時の看護師の対応は、意見書を求められた医師が、看護師に入院生活の様子を観察するように指示したためではないかと考えられた。同時に、看護師からは、ケアマネージャーに確認すると何度も言われていたので、ケアマネージャーが依頼した可能性も考えられた。いずれにしても、看護師の態度が支援者を忌避するように変化した理由はSや支援者には不明で、これまでまったく注意を受けることなく支援者が行なっていた食事介助については、このときから看護師が行うこととなった。看護師とSの主張に齟齬が生じた一方で、同室の患者からSと支援者らは次のように注意を受けた。「看護師とうまくやってくれ。私たちにも迷惑がかかる。僕らもまたなんかあったらこの病院に入ることになる。あなたもどんどん身体が動かなくなるんだろう。ここにいる間はここのやり方に従ってうまくやった方がいい。郷に入れば郷に従えというだろう。あんな態度をしたらあかん。ここにはここのやり方がある。わたしたちはここにいてお世話になっている以上、ここのルールに従わなあかん。みんな誰も病気になりたくてなっているわけじゃないんやから、我慢しなあかん。みんないろいろ思っているけど、我慢しているんやから。」

 *後でSは次のように言った。
 「あの患者さんもALSや。あの患者はまだ動けるからいい。動けるうちは看護師に文句は言わへんねん。僕も最初はそうやった。でも動けなくなって介助が必要なときになってはじめて僕のような状況にぶちあたるということがわかる。」
 Sの場合、Sと支援者たちとの関係が、看護師との間の関係の悪化に影響したことはたしかである。そして、この時から始まった関係の悪化はSの退院まで続いた。その要因として考えられることを本稿でいくつか記し、堀田論文でそれらを詳細に考察する。
 ただ、同室の患者の発言が示しているように、おそらく他の患者との「バランス」という要因はやはり大きかったのだろう。支援者側としても、Sとの関わり方について戸惑いを感じ始めていた。Sが依存的になっているという看護師の評価を完全に否定できる自信をもてないでいたからである。看護師もまた、厳しい勤務体制での労働を強いられていることも事実である。たとえば、約二〇名の患者の食事を看護師一人で見守っている。看護師一人がみなの食事を見守っているため、個々に対応できない。そのような中で支援者がSに対して積極的に関わったことで、病棟看護師だけでなく、他の患者との関係も悪化したことが考えられる。

七月三日(木)
 長谷川と山本は夕食時にSを訪ねた。
 病室に行くと、ちょうど看護師がSを車椅子に移乗させているところだった。移乗が終わると、看護師は「がんばって食堂まで来てね」と言ってSの病室を後にした。支援者はいつも食堂まで車椅子を押していたが、昨日の一件があり、今回はそれができる雰囲気ではなかった。
 食堂へ向かっている途中に、支援者は別の看護師から様々な質問を受けた。支援者がどういう立場なのか、ケアマネージャーは支援者の存在を知っているのか、ケアプランとは関係があるのか。しかし、支援者のことについては、すでにSから病棟の看護師長に、自分に必要な支援を家族の代わりにしてもらっている人たちであると説明していた。看護師間では承諾されているはずであったが、連絡を受けていない看護師もいたようである。
この日の夕食時にも、看護師が食事介助をすることはなかった。Sが自力で食事をしているところを見ている様子もなく、ご飯を膝の上にこぼしたことにも気付かなかった。Sはおかずに一切手をつけることなく、ご飯を半分食べただけで夕食を終えてしまった。Sは、朝食も昼食も看護師の食事介助はなかったと話していた。
 夕食を終えた後、西田が病院を訪ねて病棟看護師と話をした。このとき、看護師から西田に伝えられたことは以下である。

 @支援者が何者で何を目的にしているのか病院は聞いてない。
 A病棟の患者から、Sに対して支援者が食事介助や身の回りの世話をしていることについて羨ましく思っており、自分達にはそういった支援者がいないことについて苦情がきている。
 B本人が支援者に依存的になっている。支援者が不在の時は、自分で食事や間食・タバコなどを吸っている。車椅子も自分の足で進めている。Sは自力でできるのに都合のいい時だけできないことを主張する。食事も含めて、できることを自分でするのはリハビリでもある。家族が介助することは認められるが、支援者が食事介助しているときに食べ物を喉に詰めたり、車椅子操作で事故でも起きたら誰が責任をとるのか。入院している以上、そういった責任は病院が問われるので控えて欲しい。
 Cケアマネージャーとどこまでこの支援を共有しているのか。勝手な行動をしているのではないのか。

 こうした看護師の問いに西田は以下のように答えた。
 @在宅生活移行に向けて、家族がいないSが入院中であるためにできないことを代行している。同時に、パソコンを使用したコミュニケーションの訓練も大学構内でするつもりである。ただし、Sは体調に日内変動があり、外出できない時がある。また、病院側で介助してもらっている様子が見られなかったので見かねてSの介助を行っていた。
 A食事介助や入院中の生活ニーズは、本来医療者がすることであり、それが他の患者に対しても満たされていない。そういった苦情は同時に医療者側のものとしても受け取れるのではないか。
 B体調によって一日の間でも、できたりできなかったりすることがある。Sは自分の足で車椅子を進めることはできるが、リハビリを担当している作業療法士によると、その状況は今のSにとっては疲れさせるだけだろうと評価をしていた。S本人が依存的になって「できない」と言うと病棟スタッフが主張するのであれば、そこはリハビリ担当の作業療法士に確認するべきである。また、家族なら認められる介護を他人がすると、何かあった場合に病院側の責任になるのであれば、支援者はそこから手を引く。
 Cケアマネージャーとは先日のカンファレンスで今後の生活・支援体制について伝えている。現在は支援者が一部でSの窓口になっている。
 上記のほか、障害者自立支援法を併用したプランを立てるには「医師の意見書」が必要であると西田は伝えた。
 看護師は、病棟に出入りする支援者の人数は二名までにしてほしいこと、医師の意見書については指定の様式があるのかが不明であるため、確認して医師と直接話し合ってほしいことの二点を要求した。

■退院の日取りを巡って

七月四日(金)
 二日にS氏から伝言を受けていたため堀田はケアマネージャーに連絡を取った。その際、次の五点を伝えられた。

 @A病院から、早急に在宅生活の準備を整え、一五日を目途に退院できるように求められている。また、Sも退院を強く要求しており、できればその期間までに支援体制を整えたい。
 A福祉事務所は、医師の意見書さえあれば、審査会にかけなくともすぐに時間数は出せると言っている。医師の意見書を速やかに提出してほしい。
 B来週中に、本人と訪問看護、介護保険事業者、夜間対応の事業者で、カンファレンスをもちたい。病院内で開くことは難しいので、ケアマネージャーが所属する事務所で行う。緊急事態の対応を含めて話し合う。
 C退院後は生活保護を考えている。八月までは現在のケアプランを使うことになるかもしれないが、在宅移行後にはできるだけ早く生活保護に切り替えるつもりである。
 D本日、以上についてSに相談するために病室を訪ねる。

 ケアマネージャーがSを訪問する時間帯に合わせて、学生アルバイトのヘルパー登録を引き受けるA事業所の代表者がSを訪問した。このときの話し合いに参加したのはS、ケアマネージャー、A事業所の代表者、支援者(堀田・長谷川・山本)の六名だった。
 この話し合いで、在宅生活に向けて確認したことは以下の三点だった。

@七月一四日の退院を目標にして、それまでに在宅移行が可能な体制を整えること
A「緊急体制」として一、二ヶ月の間は時間数を出して対応が可能であること
 Bケアプランで障害者自立支援法の利用が必要な箇所はA事業所が引き受け、Sは、これを口頭で承諾したこと★03。

 @の突然に退院日が決定したことについては、病院側の説明によると、Sのベッドに次の予約がすでにあること、また支援者のいるSが早期の退院を希望したことだとしていた。しかし、在宅生活の基盤となるケアプランはS本人のニーズを満たしたものには未だになっていなかった。この時点でのケアプランは障害者自立支援法で支給される時間数が不明であったため、以下に示すように前回の六月三〇日の話し合いで示されたケアプランのままであった。

二〇〇八年六月三〇日/七月四日 ケアプラン

表 
Aで述べたこの期間は「医師の意見書」に基づいて暫定的に福祉事務所で対応し、改めて時間数を再申請するとのことであった。しかし、現時点では、どれだけの時間数が獲得できるのかは不明である。また、入院先の主治医が「夜間の見守りが必要」という旨を記載した意見書を書き、ケアマネージャーはこれをすでに福祉事務所に提出していた。
 Bについては、登録予定であるヘルパー候補者の学生に資格を取得させなければならなかった。障害者自立支援法の枠でヘルパーとして入るためには、重度訪問介護従業者養成講座を受講しなければならない★04。重度訪問養成講座は、七月二〇・二一日に予定されていたため、Sの退院には間に合わない。二一日までは、看護師の資格を持つ西田と重度訪問介護従事者の資格を持つ堀田、そしてヘルパー二級の資格を持つ学生の一名で介助にあたり、足りないところはA事業所からヘルパーを派遣してもらって乗り切っていくことになった。

*このとき、支援者は、K氏の支援者から、現段階での退院はあまりに早急すぎるというアドバイスを受けており、実際の支援体制が構築されていない段階で退院期日が早まりつつあることに大きな不安を抱いていた。ところが、在宅生活支援体制を整えるための調整のために、病院を支援者が訪れる機会が増えれば増えるほど、病院スタッフとの緊張が高まり、Sの退院希望をさらに強める、という悪循環が存在していた。支援者はSに対して、我慢して退院をもう少し待って欲しいとは言い出せず、しかし病院の指示に従って訪問を控えるわけにもいかない、という袋小路に行き当たっていた。
支援者の間にも揺れがあった。Sの要望を最優先する立場をとるならば、できるかぎり早く退院してもらうために、周囲はできる限り支援を行うべきだということになる。だが、退院後の夜間の見守りを行う人が実際に足りていない現状では、誰かが集中的に空白時間を補う必要が出てくる。しかし、誰がそれをするのか。A事業所と西田は退院後の夜間体制を整えるための調整を頻繁に行ったが、退院直後の一〜二週間は、西田は、昼にデイケア勤務とSの夜間見守りを往復するという過酷な生活を週に何度も強いられることになる。
学生にはこの時点では未だ資格がなく、事業所に登録して保障サービス時間を埋めることはできなかったからであり、そもそも、実際の介助を担ってくれる人が少なかったからである。この人手不足の問題は、このあともずっと続くことになる。

七月八日(火)
 ケアマネージャーが所属する事業所でカンファレンスが行われた。この施設と病院のあいだのSの送迎は、自立支援法の移動介護を利用できないため、山本と長谷川が行なった。
 カンファレンス参加者は、S、ケアマネージャー、デイケアの相談員と看護師、福祉事務所ケースワーカー、保健師、訪問看護師、介護保険対応のヘルパー派遣事業所(二箇所)から各一名、福祉器具業者、介護タクシー業者、学生ヘルパー登録先で夜間を障害者自立支援法で対応するA事業所から二名、そして支援者(西田・山本・長谷川)の合計十六名であった。入院先の病院スタッフの参加はなかった。主に二つについて話し合われた。
 @病院から七月一〇日または一一日に退院を迫られていることについて
 A障害者自立支援法の利用について
 @については、ケアマネージャーによると、この日に病棟主任から次のような連絡があった。一四日より今のSがいる病室は女性用の部屋となるため、男性患者は早急に退院してほしいと強い要請があったとのことだった。カンファレンス参加者は、Sの退院日を一四日と認識していたため、驚いた。準備が明日の一日しかなく、また一四日に合わせてそれぞれの事業所は調整を図っていたので急には対応できない。一方でSの退院希望が強いことが告げられたが、Sは次のように述べた。
 「看護師が急に言ってきた話。準備がちゃんとできるようならいつでも退院してもいい。人員がちょっと心配。僕の気持ちを分かってくれる人を集めだして、立ち上げた段階だから心配は心配。訪問看護とかこれまでのヘルパーは継続しつつ、できないところをボランティアにやってもらいたい。バタバタしている状況のなかでの話で、僕の予想と違う形で動き出した。」
 カンファレンスの参加者の間でもできるだけ整った形での退院が望ましいという意見が強かった。そのため、ケアマネージャーが退院日を延長してもらえるよう病院に交渉することになった。
 Aの障害者自立支援法の利用については、福祉事務所からその支給時間数が未だに示されない状況にあった。福祉事務所のケースワーカーは以下のように説明した。
「具体的に事業所が決まり時間数がとれた。月に八三時間だったらD市でもすぐにできる。だけど、それ以上はD市の認定審査会にかける必要がある。時間数の決定がおりるまでの二ヶ月くらいはとりあえず暫定的に決めて、在宅生活を始めてもらう。その際、介護保険の点数を使うことは大前提。それでも足りない場合、障害者の制度で上積みする。これはその人にあわせて実態と制度が落ち着くところで出発するしかない。D市では月に三二時間までは外出支援が認められている。これは、Sさんの実際のところで考えてもらう。夜間の見守りについては、気管切開しているとか、人工呼吸器を装着しているとか、発作が頻繁に起こるなどが前提となっている。それが見られない場合、夜間の状態が記載された医師の意見書が必要になる。」 
これに対して、障害者自立支援法の枠で夜間の介助を引き受けてくれるA事業所は次のように答えた。
 「うちのヘルパーは昼でも夜でも入ることができる。学生が資格を取るまでの二、三ヶ月はうちのヘルパーでいける。公的に支給されない時間帯はボランティアで入る。できれば、障害者自立支援法の重度訪問介護枠を五〇%加算がつく夜の二三時から朝の九時までやらせてほしい。できれば介護保険も入れてほしい。」
 このカンファレンスで提示されたケアプランで問題になったのは、重度訪問介護の時間数がまだ二四時間を埋めるに至っていないこと、そして、夜中の二二時半から二四時までが空白になっていたことだった。この時点で提示されていたケアプランを示す。

二〇〇八年七月八日 ケアプラン
表
 また、福祉事務所のケースワーカーは、同じ事業所が障害者自立支援法の重度訪問介護と介護保険の訪問介護を受け持つことは、懸案事項になると答えた。しかしA事業所は、一つの同じ事業所が介護保険と重度訪問介護を同じ事業所が担うのは当然許されるはずであると主張した。福祉事務所から支給時間数が示されていないこともあり、ケアマネージャーがケアプランを修正する方向で話がまとめられた。どこまでA事業所の要望が反映されるかは不明であった。
これらのほかにも医療的ケアやSの自宅を訪ねて住環境整備をする必要性についても話し合われた。緊急時に備えて、訪問看護師は仕事場で余った吸引器をSに提供することになった。また、住環境整備についてはその日に集まったメンバーで参加できる人が明日の夕方にSの自宅を訪ねるということになった。ケアプランが立っていない状況では、それぞれの事業所が担う具体的な仕事のすみわけはできなかった。緊急連絡先の確認などを行い、カンファレンスは終了した。
 カンファレンスに参加した支援者たちはその後、ヘルパー候補者の学生ら、立岩(教員)、川口と、今後のS支援について話し合いをした。主に、Sの退院後の在宅生活を支えることになるヘルパー候補者の学生らの態勢について、四つのことが話し合われた。

@時給について
A勤務シフトについて
B在宅生活移行後のSの介助内容について
CA事業所、支援者、学生アルバイト同士の連絡網について

 @はじめリサーチの謝金から一五〇〇円という条件で募集をしていたが、ヘルパーの登録先となるA事業所との関係があったので、もう一度考え直して提示するということになった。医療的ケアの必要がないSの夜間の見守りだけで、一五〇〇円ではあまりにも高すぎるということだった。A事業所はプロのヘルパーを養成し切り盛りする立場として、研修中の学生に千円を超える時給を払うことには反対した。
A西田・山本・長谷川で学生アルバイトの勤務シフトを作成することになった。「一ヶ月前には来月のシフトを作成しないと在宅生活が成り立たない」という川口のアドバイスを受けて、学生アルバイトは一ヶ月前には山本、長谷川に予定を知らせることになった。そして、山本らが学生アルバイトの勤務可能な日程を取りまとめ、西田とA事業所の代表者でSの夜間介護にあたる介助者の具体的な調整を行うこととなった。
B西田から学生アルバイトの介助内容が告げられた。学生アルバイトには、主として夜間の見守りとトイレ介助をしてほしいとのことだった。しかし、現在のSが在宅生活に移行したとき、夜間帯にどのような介助が必要になるかは具体的にわからないこと、学生アルバイトにSの基本的な介助と緊急時の対処法を教える必要があることから、重度訪問介護養成講座とは別にSのパーソナルアシスタントとして育成するための研修期間を設けることになった。その研修期間中は、西田やA事業所のヘルパーが学生アルバイトとともに入ることになった。
C山本がメーリングリストを作成し、これを連絡網として利用することになった。A事業所の代表者、西田を含む支援者、学生アルバイトを登録し、各々がメーリングリスト上でSの在宅生活に関わることを報告することで、情報を共有できる。また、互いに面識のない学生アルバイト同士でも連絡が取りやすくなり、予定されていた勤務シフトに入れなくなった場合などは、学生間で連絡を取り合い、代わりのものを見つけて対応することになった。そのほか、Sの在宅生活の様子や身体の状態を常に確認し、必要があれば支援者が関係諸機関との調整などの対応ができる体制を構築することも目的の一つであった。
 またこの場では、Sの経済的な状況から生活保護制度の利用についても話し合われた。生活保護には「他人介護加算」という制度がある。この制度は生活保護上の在宅介護に関する唯一の給付制度である。生活扶助であるため、介護扶助のような現物支給ではなく、一定の要件を満たす場合に介護人をつけるために必要な費用を給付する制度である(尾藤他[2000])。つまり、在宅生活を送る利用者に限り、行政機関から支給されたお金をもとに介助者を雇用することができる。しかし、現在の年金給付を放棄し、生活保護を受給することができるのかは不明であった。

*実際は年金給付を放棄することはできず、Sが抱える借金は個人的な事情であるほか、現在も十分な収入があるとして生活保護の対象にはならなかった。ただ、この時点は、収入の総額が正確には把握されておらず、また現在の支給がずっと続のかどうかも明らかでなかった。そのためにこの時点では、生活保護を利用した場合の検討も行っておく必要があった。

七月一〇日(木)
 この日は長谷川も山本も病院には寄らず、直接Sの自宅に向かった。だが家の前で待っていても誰も来なかった。しばらく経って、長谷川にA事業所の代表者から電話があった。退院予定日のことで西田が病棟師長と話をしているから、到着が遅くなるとのことだった。長谷川と山本は病院に向かうことにし、到着すると、西田から退院が七月一三日に決定したことを知らされた。
 七月八日のカンファレンス後に、西田とケアマネージャーが病棟師長に退院日を延長するように交渉をして七月一三日までの延長なら認めるという回答を得ていた。A事業所は、退院が早くともSの希望であるならば対応するとのことであった。
 Sの退院日が決まったことを報告されると同時に、ケアマネージャーから新しいケアプランが提示されたことをA事業所の代表者から知らされた。Sもそれを確認したいとのことで、ケアマネージャーが所属する事業所を訪ねることになった。
 ケアマネージャーから提示されたケアプランは二種類あった。
 主な共通点は次のとおりであった。@週四日はデイケアに通所し、送迎のための前後三〇分と、夕食時の一時間を介護保険の訪問介護で対応していたこと、Aまたデイケアがない日は、夕食時の一時間に加えて、昼間に約三時間半の訪問介護が組み込まれていたこと、B週二日、昼に訪問看護が入っていること、C毎日の深夜帯は障害者自立支援法の重度訪問介護で対応していることの4点である。
 このケアプランを基本形として、プランAでは二一時から二二時までの一時間を介護保険の訪問介護で対応するというものであり、プランBではその時間を障害者自立支援法の重度訪問介護で対応するというものであった。月当たりに換算すると、プランAでは障害者自立支援法の重度訪問介護分が月三〇〇時間となり、プランBでは月三三〇時間ということになる。しかしこの時点では、まだ障害者自立支援法の重度訪問介護の時間数が決定されていなかったので、福祉事務所がどう判断するのかはわからなかった。ここで提示されたケアプランA・Bは次のようになっている。



二〇〇八年七月一〇日 ケアプランA
表

二〇〇八年七月一〇日 ケアプランB
表
 
ケアプランの確認をしたあと、Sの自宅に向かった。そこで堀田も合流して、Sと西田・長谷川・山本、A事業所の代表者とヘルパー二名で部屋の片付けを始めた。しかし、時間のない中でSの病状に合わせた整備をどのように行えばよいのか分からなかった。結局、ヘルパーが仕事をしやすいように、キッチンに積み上げられていたエンシュア(総合栄養剤)を洗面所の隣室に移動しただけで終わった。
 自宅で束の間の食事を楽しんだあと、西田・山本・長谷川でSを車に移乗させ病院まで送った。病院に到着し、西田は病棟看護師にSが帰ったことを伝え、食後の服薬について報告した。長谷川は車椅子を押して、山本と一緒にSを病室に送り届けた。

■退院の準備と退院

七月一一日(金)
 この日、福祉事務所のケースワーカーから電話で、障害者自立支援法の重度訪問介護の時間数が七月一〇日付けで決定したことが伝えられた。Sは、毎月三一〇時間(夜間介護一日一〇時間)+移動介護三二時間(例えば日曜の日中五〜八時間が四〜五回)+緊急対応一〇時間=合計三五二時間うち移動中加算時間三二時間が認められた。
 現在、ケアマネージャーより提案されている二つのケアプランについて、ケースワーカーは次のように言った。「障害福祉サービスのことしか自分はわからないから、ケアマネージャーが各事業所と協議して決めることになるだろう。また、重度訪問介護が二二時から朝まで続いても問題ない。」
 しかし、今日はケアマネージャーが休暇のため確認が取れず、結局ケアプランがどのような形で落ち着くのか不明なまま、支援者らは手探りでSの在宅生活移行の準備を整えるしかなかった。


七月一二日(土)
 退院前日のこの日は、Sと支援者(西田・長谷川・山本)とA事業所の代表者そしてA事業所のヘルパー三名で、再びSの地域生活移行に向けて住環境を整備する予定だった。
 昼過ぎに山本と長谷川がSを病院まで迎えに行った。長谷川が外出届けを代筆し、看護師に渡した。長谷川と山本は看護師より夕食時の薬を受け取った。
 タクシーを利用して自宅に向かった。長谷川はSの隣に座り、身体を支えていた。山本は助手席に座り、運転手にSの自宅まで案内した。このときSも同様に道案内をするのだが、呂律がまわらないため、慣れていなければ聞き取りにくい。Sの自宅近くで降ろしてもらった。支払いは、Sに確認しながら山本が代わりに行なった。Sはタクシーチケットを支給されているが、初乗り運賃分しか使用できず、超過分は支払う必要がある。タクシーを利用した頻繁な外出はお金がかかってしまう。
 家の前に到着すると、Sに確認しながら鞄から鍵を取り出した。玄関を開けると、段差解消機にSを移乗させ、靴を脱がせる。そして段差解消機を操作し、Sを玄関に上げると、今度はベッドまで歩行介助をする。こうしてはじめてSは家の中に入ることができる。
 しばらくしてA事業所の代表者とヘルパー三名がやってきた。A事業所は、ダイニングテーブルと、夜間の見守りをするヘルパーのために布団を買ってきた。一三日の退院についても、他の事業所は一四日からサービスが開始されるため、自宅に帰ってきた日には介護する事業所がない。そのため、A事業所は、退院日の丸一日と、ケアプラン上の空白の時間帯はボランティアで介護にあたると申し出た。
 その後、西田もSの自宅を訪問すると、みなで住環境整備を開始した。主な目的は二つあった。

 @室内における車椅子の動線確保
 Aヘルパーのためのスペース確保

 @Sは家の中でも車椅子を使った生活になることが考えられたので、部屋を片付け、床に這ったコード類をテープで固定するなどして、車椅子でスムーズに家の中を行き来できるようにした。また、このとき支援者から転倒の危険性を指摘されつつも、S本人は歩行介助を受けながらトイレで排泄することを希望していた。
 A夜間における長時間の見守り介護に伴って必要となった。Sのベッドが置かれた和室の隣に、四畳半の部屋がある。この部屋からはSの様子が確認できるため、夜間に入るヘルパーの待機場所として使うことになった。その室内は、段ボール箱に詰められた荷物やDVD、ビデオなどが密集して積み上げられていたため、一部を洗面所の隣に移動させた。Sによると、以前住んでいたマンションから引越しした直後に入院となり、その際に運び込まれた荷物がそのままに置いてあるとのことだった。Sは自分で荷物を片付けることもできず、また家族がいないために片付ける人もいなかった。
 また、Sの生活場所となる部屋とヘルパーの待機する部屋との間にあったふすまを外した。ふすまを外した理由は@A以外に、冷房の風通しをよくするためだった。Sの自宅には冷房が一つしかなく、ヘルパーの待機部屋に設置されていた。以上の作業のほか部屋の掃除などがあり、約三時間かけてこれらを行なった。
 自力で身体を動かせないSはベッドに座ったまま、どの荷物をどこに移動させるのかを支援者に口頭で指示していた。上述したように、家族のいないSのような立場ではボランタリーな支援者がいなければ住環境整備をすることができない。しかし、その一方でALSは進行性の病であり、今後もSの状態に合わせた住環境整備を行う必要性が生じることが考えられる。
 病院に戻ると、長谷川は病室までSを送り届け、西田は病棟看護師にSが帰ってきたことと食後の服薬について報告した。

七月一三日(日)
 Sの退院日。支援者にとっては、在宅生活を支える体制が整っていないままの退院という思いであったが、Sはやっと家に帰れるこの日を心待ちにしていたことだろう。午前一一時にSの自宅でケアマネージャーらと打ち合わせがあったため、午前一〇時には病院を出る予定だった。長谷川と山本は午前九時に病院に到着した。
退院準備の主な内容は、Sの荷物をまとめること、またSを自宅にまで送り届けることである。
 Sの持ち物はタオルや着替え類、貴重品のほかに、病気に関する本や行政の書類が綴じられたファイルがいくつかある程度だった。これらの荷物をSの鞄と紙袋に詰める作業は、山本と長谷川が代わりに行なった。しかし、いざ詰め始めると荷物が入りきらなかったため、Sから売店で紙袋を買ってくるように頼まれた。長谷川と山本は、Sに確認して、鞄から取り出した財布を預かり、売店へ紙袋を買いにはしった。
 荷物をまとめ終わると、Sは同じ病棟の患者に挨拶をしてまわり、最後にスタッフのステーションを訪ね、病棟看護師に挨拶をした。山本と長谷川は病棟看護師から看護サマリーと薬を受け取った。そして退院の手続きをするために正面玄関の受付に向かった。受付にはA事業所のヘルパーが待機していた。これから夜の二二時までボランティアで入ってくれるとのことだった。受付でSは手続きをすませ、正式に退院となった。
じつはこの時点では、ケアプランは未決定のままだった。この日、午前一一時から訪問介護に入る事業所とケアマネージャーがSの家に集まり、プランを見直すことになっていた。最終的にケアプランが決定したのは翌七月一四日になってからである。

 *長谷川論文から本稿で記述した六月二二日から七月一三日までの期間は、退院移行に向けてもっとも集中的に支援が行われた時期である。この間、とくに西田・長谷川・山本は、諸機関との調整・連携に文字通り奔走した。
しかし、病院側の要求による退院期日の短縮により、十分に体制が整った状態で退院できたわけではなかった。この間、誰が退院後の生活を支えるのか、空白になっているシフトを埋めるためにヘルパーとして入る意向があるのか、という問いが支援者には突き付けられていた。結局、西田が多くの負担を負い、またA事業所のスタッフが長時間の勤務に入ることで、退院直後の生活は半ば強引に始まった。また一四日にプランが決定したとはいえ、その後も事業者とケアマネージャー、事業者間での調整が続けられることになる。こうした退院直後の様々な動きを含めて、その後の独居生活については、あらためて別途報告する。
 
■注

★01 堀田・北村・渡邉・山本・堀川・中院・小林・定行・高橋・阪田・川口・橋本[2008]、堀田・渡邉・仲口・長谷川・山本・北村[2008]、仲口[2008]、仲口・長谷川・山本・北村・堀田[2008]、西田[2008]、西田・堀田[2008]、山本・仲口・長谷川・北村・堀田[2008]、長谷川・堀田[2009]、長谷川 ・西田・堀田[2008]、長谷川・竹林・西田・山本・堀田・川口[2008]、長谷川・山本・堀田・北村・仲口[2008]。

★02 D市内におけるアクションリサーチには国庫補助協議額五一〇万円のうち一三〇万円を計上し、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授の立岩真也による指導とさくら会の川口の助言のもとに、当研究科の院生により独居ALS男性患者Sに対する長期の参与観察として行われた。また、D市と並行して東京都と岩手県盛岡市で、それぞれ異なる環境において療養するALS療養者と家族にたいして、重度包括支援モデルプランを提示し、その実現可能性をインタビューと自治体の財政規模の比較から探った。そのリサーチも立命館大学大学院先端総合学術研究科に所属する院生とNPO法人さくら会の研究員によるものである。こちらの調査については現在進行中でもあり、結果がまとまり次第、立命館大学大学院とNPO法人さくら会で同時に公表していく予定である。
この研究事業は二〇〇七年度の研究事業を引き継ぐものであり、これにも同じ研究科の院生が参加した。この年度の研究報告書として(特定非営利活動法人)ALS/MNDサポートセンターさくら会[2008]がある。この中で院生が参加して書かれたのが堀田・北村・渡邉・山本・堀川 ・中院・小林・定行・高橋・阪田・川口・橋本[2008]。そして上記K氏の在宅移行を支援しながらの研究はこの事業の一環としてなされたものでもある。
K氏の在宅独居移行支援についての学会報告として、二〇〇八年六月の日本地域福祉学会大会では、山本・仲口・長谷川・北村・堀田[2008]、堀田・渡邉・仲口・長谷川・山本・北村[2008]、仲口・長谷川・山本・北村・堀田[2008]、長谷川・山本・堀田 ・北村・仲口[2008]、同月の日本建築学会近畿支部研究発表会では、山本・森田・阪田・高木[2008]、八月の日本難病看護学会大会では、仲口[2008]。また、Sの在宅独居移行支援についての学会報告として、八月の日本難病看護学会大会では、西田[2008]、長谷川・竹林・西田・山本・堀田・川口[2008](またこの大会のシンポジウムでの全般的状況を報告し課題を示した報告として川口[2008b])、一一月の日韓中住居問題国際会議(居住福祉学会)では長谷川・西田・堀田[2008]、西田・堀田[2008]、二〇〇九年三月の日本保健医療社会学会関西地区例会では、長谷川・堀田[2009]、西田[2009]が予定されている。
 これらの研究事業は、いくつかの別の、内容において連関する厚生労働科学研究費補助金による研究を引き継ぐものであり、それらに川口らが参加してきた。その報告書として中島他[2005](その中に川口[2005])、川村他[2006](その中に川口・古和・小長谷[2006])、中島他[2007](その中に川口[2007])、川村他[2007](その中に川口・古和・安藤・堀田・杉田[2007])、川村他[2008](その中に川口・橋本・塩田・中村[2008]、川口[2008a])がある。なお、文献表は堀田執筆担当の論文の末尾にまとめて掲載する。

★03 障害者自立支援法は、障害者の自立支援を目的とした様々な障害サービスから構成されている。障害者自立支援法の障害サービスを受けるためには、障害程度区分の認定を受ける必要がある。市町村は、認定された障害程度区分を参考にして、支給されるサービスの決定を行なう。障害者自立支援法の障害サービスは、@介護給付、A訓練等給付、B地域生活支援事業の三つに大きくわけられる。@介護給付には、自宅で入浴や食事の介助を行なう居宅介護や、短期間、施設で夜間介護や食事介護などを行なう短期入所(ショートステイ)などの障害サービスがある。A訓練等給付には、就労に必要な知識および能力の向上のために訓練を行なう就労移行支援や、自立した生活ができるように身体機能または生活能力の向上のために必要な訓練を行なう自立訓練などの障害サービスがある。Bの地域生活支援事業については、各市町村に委ねられている事業であるため、それぞれの地域によって内容が異なるが、外出のための移動支援などが行われている。
 今回、Sが必要とした障害サービスは、@介護給付に含まれる「重度訪問介護」であった。重度訪問介護とは、肢体不自由者であって常時介護を必要とする障害者・障害児が在宅生活を送る場合に、食事や排泄などの身体介護、食事の調理や洗濯などの家事援助、コミュニケーション支援、外出時における移動介護などを総合的に、長時間連続で提供できる介助サービスである。重度障害をもつ人の生活を全般的に、フレキシブルなニーズに応ずるには現行の制度ではもっとも使いやすいが、報酬の標準単価も一時間一六〇〇円と最も安く、事業所にとっては、重度訪問介護だけでは採算をとることはきわめて難しい。Sと支援者はこの重度訪問介護を利用して、空白である毎日の夜間部分と日曜日を補うことを希望していた。A事業所は、障害者自立支援法の重度訪問介護や医療的ケアに対応しているので、支援者が依頼したところ介護に入ってくれることを承諾し、Sも承諾した。

★04 重度訪問介護従業者養成講座は、長時間の介助を必要とする障害者に対して介助を行なう重度訪問介護従事者を育成する養成研修である。養成研修を受講し、修了すると、長時間介護を必要とする障害者の介助をすることが認められる。この資格は、障害者自立支援法施行に伴って新たに創設されたものであり、障害程度区分三以上の全身性障害者への訪問介護や移動支援などの介助に携わる際に求められる。障害者自立支援法における「重度訪問介護」で適用できる資格である。重度訪問介護従事者は、重度の障害者が自立生活を営めるように、本人の要望に応じて、入浴、排泄、食事などの介護を行なうほか、外出移動中の介護など在宅生活に必要な総合的な介護を行なうという重要な役割を担う。重度訪問養成講座の講習時間は、講義が一〇時間、実習一〇時間の合計二〇時間で構成されている。川口が理事を務めるNPO法人さくら会では、東京都の練馬区及び中野区で一・二ヶ月に一度、ALS等の人工呼吸療法が必要な障害者のために、重度訪問介護従業者養成研修講座「進化する介護」を開催している。今回は、川口がD市内のALS療養者の支援体制を考慮して、D市でもさくら会主催の重度訪問介護従業者養成研修講座「進化する介護」を開催できるように指定事業の申請をした。この講習は「進化する介護」として、第一回目は七月二〇日・二一日に行われた。


(4)課題・要因・解決方策

堀田義太郎

1, はじめに/経緯の概要

これまでの三つの論文で詳細に記述してきたように、Sのような重度の身体障害を持ち、かつ、支援する家族をもたない場合は、在宅療養生活を送ろうとするとさまざまな場面で困難が生じてくる。以下では、Sの事例を通して、その課題と要因を考察し、課題をクリアするために必要かつ望まれる対策を示す。まず、在宅生活移行までの経緯を述べる。表1はSが入院する直前から退院までの流れを示したものである(長谷川・竹林・西田・山本・堀田 ・川口 [2008])。

表1
表
 入院直前の四月十六日に合同カンファレンスが開かれている。Sは自宅での転倒を繰り返し、また症状の進行に伴って家事や外出が困難になり、医療保険で給付されるドリンク状の総合栄養剤を中心とした食生活を送るという状態にあり、医療的管理を含めた在宅生活の再構築の必要性が生じた。これを受けて、デイケアを週四日にし、介護サービスを増やしていくという方針が示された。だが、介護事業所と人材(ヘルパー)の調整が長引き、結果的に具体的生活プランの立案は延期された。
また、この四月十六日のカンファレンスでは担当のケースワーカーはいなかった。この後もSは自宅で転倒を繰り返し、四月三〇日、肋骨骨折の疑いから緊急入院となり、改めて在宅生活の再構築の必要性が認識された。
 五月二日には、退院後の生活支援体制を再構築するために、デイケアで合同カンファレンスが開かれる。この場で、要介護度を五に上げ、介護保険制度枠内で最大限の支援プランを立て、その不足分を障害者自立支援制度で補うというケアプランの方向性が示された。
 このカンファレンス後の五月末、ケアマネージャーからサービス計画表が提出されたが、それはカンファレンス前とほぼ同じプランだったため、主治医が計画の立て直しを要請し、六月十二日に入院先でケアプラン立て直しのためのカンファレンスが行われた。
 この間、一貫してデイケアの看護師であった西田が中心的支援者として、病棟を頻繁に訪問し、Sとケアプラン作成に向けた相談・連絡を行っていた。Sは入院中にも病が進行し、日々身体が動かなくなっていることから、退院後の在宅生活を継続するには提出されたプランでは不十分であると認識しはじめていた。
 六月下旬に、西田の呼びかけに応じて支援者が病院を訪問し、障害者自立支援法による長時間介護を組み合わせたプランによって退院後の在宅独居生活を支援する方針が固まった。S自身も、自立支援法を活用したケアプランを作成するようケアマネージャーに指示し、二四時間介護に近いかたちでのケアを実現するように福祉事務所に訴えた。Sは、六月上旬に提示されたケアプランで空いた時間を「見守り」で埋め、体制を整えた状態で退院することを希望していた。そのためには、障害者自立支援法の枠内で夜間の見守り介護を引き受ける事業所が必要であった。
 この間、支援者は、Sの夜間介護を担うヘルパー候補を探しつつ、同時にすでに昨年から京都市内でALS独居在宅生活を営むK氏の生活を支援している事業者を支援者が知っていたため、連絡し連携して、支給量決定を見越した支援体制を整えつつあった。
 六月三〇日のカンファレンスにおいて、Sはケースワーカーから当日付けで障害程度認定区分「六」の決定通知を受けるとともに、自立支援法を併用したケアプランを作成するには、やはり介護保険制度を最大限に使った上でないと認められないと告げられた。また、以前からケースワーカーらは特に夜間帯の見守り介護について、そもそも引き受ける事業所がないということから難色を示していた。しかし支援者側が夜間介護可能な事業所を提示すると、ケースワーカーから「医師の意見書」があれば夜間介護を自立支援法で賄うことも不可能ではない、という回答を得ることができた。
 このような経過を得て、Sの在宅独居生活の自立支援法を併用したケアプランは作成されたが、四月十六日のカンファレンス時に在宅生活の再構築の必要性が挙げられてから実際にケアプランが作成されるまで、およそ三カ月弱の期間を要したことになる。

1-1, 支援総時間と内容

入院後退院に至るまでのあいだの在宅移行の課題は、今回私たち支援者が行った支援そのものである。我々が行った支援を内容別に分類し、それぞれの支援に要した時間数を挙げる。

病院訪問 135時間
 ・入院の状況把握と調査
 ・生活支援(食事介助を含む)
・支援体制についての相談と希望の確認、状況の連絡
・携帯電話での連絡補助とメモ(ケアマネ・福祉事務所との連絡)
・入院生活に必要な物品や書類を自宅から配達
・傷病手当記入と提出
・支払い・書類記入の代行

外出支援 …… 30時間
・区役所へ障害年金への切り替え他サービスなどの相談、自宅での郵便物の回収・病院〜区役所〜自宅の送迎・入院生活支援
・ATMでの引き出し
・病院〜介護事業所(ケアプラン受け取り)および自宅〜病院の送迎
・退院に必要な荷物の整理

入院時の自宅の整理整頓・退院後の環境整備・掃除 …… 10時間
・緊急入院に応じた自宅の整理・電気ガス水まわりの整理
・入院中の自宅の掃除・整理
・退院後の生活環境の整備(清掃および必要物品の整備)
・入院中の自宅への郵便物の回収、自宅からの書類回収

在宅生活支援の打ち合わせ …… 35時間
・在宅生活支援に向けた打ち合わせ(ケアマネ、医師、デイケア、事業所、福祉事務所、地域生活支援センターとの連絡および連絡内容の患者への伝達)
・支援体制の相談(デイケアで川口氏・医師と)
・退院後に向けた患者とのケアプランに関する打ち合わせ
・ALS協会、保健師への相談
・退院後の支援体制について事業所との打ち合わせ

カンファレンス(×四回) …… 14時間

Sの五月末の入院から七月一四日の退院までの間に、支援者が病院を訪問した時間は、約一三五時間であった。これとは別に、本人の生活保障制度手続きや相談、自宅からの荷物の整理等のための外出支援が約三〇時間であり、入院時の自宅および持参品の整理、退院に向けた自宅の環境整備(買い物を含む)や掃除に費やされた時間が一〇時間であった。在宅生活支援に向けた支援体制構築のための事業者とのやり取りや、支援内容についての支援者間での打ち合わせの合計時間は三五時間、さらに在宅介護体制構築に向けて病院内で行われたものも含めて、カンファレンスが四回開かれ、その総時間は一四時間である。その他、ここに算入できなかったものとして、個別調整や準備等がある。記録に残されている支援時間の合計は約二二四時間である。
Sの場合、四月三〇日に入院後、七月十三日に退院するまでの七四日間で約二二四時間の支援を、複数の支援者が協力して行うことで、退院後の生活支援体制を辛うじて構築することができた。仮に業務として行う場合、七四日を週五日勤務割りで計算すると、業務日数は五二.八三日になり、一日当たりの業務時間は、約四.二四時間となる。また、カンファレンスが合計四回行われており、ケアマネージャー・主治医・行政のケースワーカー・介護保険事業所・自立支援法事業所・訪問看護ステーション・デイケア職員といった、複数の専門職がそのつど参加している。
次節で見るように、入院中の訪問時間の大部分は、入院生活そのものの介助と、福祉サービス受給とケアプラン作成のための各機関への連絡補助、退院後の生活環境への要望確認や書類の送達や代筆などに費やされた。
以下で整理していくように、ケアプランの立て直しが遅れた要因は大きく二つある。第一に、ケアプランの基礎となるSのニーズが的確に評価されておらず、プランに反映されるのが遅れたことである。第二に、障害者自立支援法にもとづく長時間の介護を引き受ける事業所が京都市内にはそもそも乏しく、さらに事業者の調整が介護保険専門のケアマネージャーに委ねられていたことである。
長谷川論文から山本論文に至るケアプランの内容の変移にみてとられるように、当初のプランは介護保険制度に基づく短時間のヘルパー派遣のみだったが、最終的には障害者自立支援法の「非定型」としての支給が認められ、大幅にヘルパー派遣時間が伸びている。最終的なプランは、六月末にSに会って以来頻繁に病棟を訪れていた支援者たちにとっては、当初から想定されていたが、数回のカンファレンスを繰り返し、最終的には医師の意見書を待ってはじめて認められた。
支援者が行ったことは、介護保険を超える部分を障害者自立支援法に基づくサービス時間として保障できるようにすることと、その時間を埋める障害者自立支援法に基づくサービス提供を行ってくれる事業所を探し、また人材を募集し育成することであった。今回これらの支援が可能だったのは、複数の異業種・専門職の支援者が存在したことである。とくに第一に、中心的な支援者である西田が、Sの退院後の日中生活を支えるデイケアの看護師であり、医師およびケアマネージャーといった裁量権をもつ専門職にアクセスしやすかったことがある。また第二に、日本ALS協会理事の川口のアドバイスにより、ヘルパー候補を募集して事業所に新たに登録してもらって生活を支える方策を進められたこと、募集を容易にできる立場にある大学教員が複数人関与していたこと、そして何よりも、新たにヘルパーを引き受けてくれる事業者が存在しており、これらのネットワークが存在したことである。
しかしもちろん在宅生活に至る過程は、スムーズに進んだわけではない。そこには様々な壁があり課題があった。そして、これらの課題は単にSにとって偶然生じたものではなく、現在の医療福祉制度のあり方そのものに起因するものである。
以下、第二節ではSのニーズを的確に把握することを阻んでいたと思われる要因を整理し、第三節では、入院中の患者が退院後の生活環境を整備するための諸課題をまとめ、そのために必要とされる支援内容を確認する。第四節では、サービス供給の問題を再確認し、最後に第五節で、全体から見える課題をあらためて整理し、解決のための方策を仮設的に提示する。

2 , 退院移行支援の課題(1)――ケアプラン作成・ニーズ把握の遅れとその要因
2-1, 問題の所在

 上記の支援項目別総時間のなかで最長を占める病院訪問時間は、入院時のSの身体ニーズを把握すると同時に、入院患者に対して家族に求められている日常生活支援を行うために必要とされた時間である。ここで把握されたニーズを踏まえて、支援体制構築のための諸機関に対する連絡業務と支援会議が行われた。連絡業務や会議、そしてカンファレンスは、ニーズに応じたサービス体制を準備するために、退院後の支援体制に反映させるために必要とされた。ではなぜ、このような頻回の訪問と連絡そして会議が必要になったのか。
退院後の生活支援体制の核となる介護サービス量を決定するためには、入院中に正確にSのニーズを把握する必要がある。だが、Sのプランの基礎になるニーズは、六月二二日の段階で的確に把握されていたとは言い難かった。入院中のSに対する継続的な生活支援を通して支援者に把握されていたニーズは、六月末のカンファレンス時に至っても、プランには反映されていなかった。そのため、支援者は障害者自立支援法を用いたプラン作成を可能にするために、他方面に交渉せざるをえなくなった。

2-2, 要因

その要因を以下分析・考察する。今回、Sの入院中のニーズ把握が遅れていた要因で考えられるのは以下である。
まず、在宅生活支援体制を構築する際に、入院以前から密接に関与していたのは介護保険のケアマネージャーであった。ケアマネージャーの職務は基本的に介護保険制度内に限定されるため、介護保険枠を超えて障害者自立支援法を活用する方向へと、積極的に進めることができなかった可能性がある。これに加えて、入院中のSの状態把握は病院内医療専門職のアセスメントに委ねられる、という職域区分についての暗黙の前提があったことも考えられる。@Sに必要な介護時間数が介護保険枠を超えることがケアマネージャーの職務の範囲を超えることを意味しており、A病院内で医療専門職を超えて入院患者のニーズ把握のための活動をすることが職域区分に抵触すると理解されていたとすれば、ここには二つの意味で、ケアマネージャーの通常の職務を超過する状況があったということになる。言い換えれば、介護保険枠で対応しきれないニーズを、入院中の患者に対するアセスメントを通して認めること自体が、ケアマネージャーに通常要求される職責を超過していた、と言えるかもしれない。
こうした要因が重なり、障害者自立支援法の活用可能性を念頭に置いたSのニーズ把握は、病院内の医療専門職に委ねられたと考えられる。
では、病院内の専門職とくに看護師は、Sの症状とADLを的確に把握していたと言えるだろうか。残念ながら言えない。それは、人員配置基準や診療報酬制度の改定等の制度的な制約に起因する。
病院内の看護師がSの症状やニーズを的確に把握することを阻んだ最大の要因は、看護師一人あたりの担当患者数が多すぎることである。つまり、病棟の看護師の人員配置に問題があった。たとえば、食事の際に食堂に集まる約二〇名の患者に対して、それを見守る看護師は一名〜二名であり、その看護師も別の仕事を同時に行いながらの見守りであった。実際、ある看護師は、Sのニーズに対応できない理由として、「やりたくても忙しくてできない」とSに直接述べていた。
こうした人手不足により、病棟の看護師は個々の患者の具体的ニーズをすべて的確に把握することは困難であったと思われる。じじつ、Sの場合にも進行に応じたニーズは認識されておらず、自力で移動し食事をとることが「リハビリ」として認識されていた。たしかに、入院患者の中には、リハビリで廃用性症候群を防止できるようなケースもある。その場合には、自力で移動し食事することを促す対応は妥当である。だが、今回のSの場合にはそれは当てはまらなかった。
また、ADLを正確に把握するために、「どこまでできないか」を見極める際に、入院後に病状が進行していることや、日によって体調が異なることが考慮されていなかったことが考えられる。入院直後の状態を前提にすれば、その後の病状の進行によって本人が「できなくなった」ことも、本人が「しようとしていない」というかたちで認識されてしまう。個々の患者の進行の程度を見極めることができないというのも、基本的には病棟の看護師の対患者人数が少なすぎることに起因する。そしてそれにより、看護師は、本来すべき業務をできていないことに対する自責を、患者自身の怠惰として患者の問題へと転嫁するような自己防衛的な心理機制が生じていた可能性がある。
以上から、介護保険枠を超えるケアプランが作成されるのが遅れた要因は、医療福祉専門職の職務および職域の制約と、看護師にニーズを的確に把握できなくさせるような人員配置にあったと考えられる。Sにとっては、ケアマネージャーに身体の状態を何度も訴えていたにもかかわらず、その訴えがケアプランに反映されず、ケアマネージャーが看護師の「できる」という意見を採用することで、両者に強い不信感を抱くこともあった。★01
 
2-3, 認定調査後のサービス利用時に至るまでの身体状態の変化

ADL把握においても問題になった病状の進行に対する対応の遅れは、退院後のケアプランの基礎になる認定の時点と、実際にサービスを利用する時点との間のズレについても指摘できる。前項では、時間数決定の基礎情報となるニーズ把握者が、Sの障害の進行を適切に評価できなかったことを指摘した。そのため、ケアプランの基礎となる情報収集そのものが遅れた。
ここではさらに、仮にもし認定調査が的確になされたとしても生じうる問題として、次の点が指摘できる。調査結果に基づいて出されたサービス内容(量)が、実際に利用する段階では、調査時よりも状態が進行していることによって、不十分なものになってしまう、ということである。ALSのような進行性の病を持つ患者は、認定調査時と区分認定決定時の身体状況は異なる可能性が大きい。Sの場合は、認定調査時にはスプーンとフォークを使って自力で食事できていたが、区分認定決定時にはスプーンとフォークを持つのも難しく、自力での食事は半分にも満たない状況であった。しかし、ケアプランを作成するケアマネージャーや障害者自立支援法に基づくサービス支給量のニーズを判定する福祉事務所のケースワーカーは当初、認定調査時での身体状況でのニーズを判定しようとしたため、Sが主張する夜間の「見守り」は認められていなかった。
 このようなズレが生じた要因は、障害程度区分の認定調査からその結果が通知され、ケアプランが作成に着手されるに至る期間が長いことである。Sは、入院以前から自宅で転倒を繰り返すなど、介護保険制度のみで組まれていたケアプランの不足分を障害者対象の制度で補う必要性があったことは明らかであった。そこでSは自立支援法を利用するために障害程度区分の認定調査を五月初旬に受けたが、実際に区分認定が下りたのは、六月三〇日と約二ヶ月を要している。この二カ月間で、すでにSの病状は変化し、身体機能は大きく低下していた。
 障害者自立支援制度を利用するには、障害程度区分認定調査を受け、区分認定を受ける必要があり、通常、認定調査時点から認定が下りるまで約一ヶ月を要する。認定調査から認定が下されるまでの間、障害者自立支援法に基づく介護サービス支給量が示されないため、障害者自立支援法を活用した介護サービスプランの作成ができない。そのため、区分認定決定までに長時間を要する場合は、退院が長引くか、あるいはサービスが支給されない状態で在宅生活移行をしなければならない状況になる。また、重度包括対象者のような非定型の障害ヘルプサービス支給申請には三ヶ月以上の時間がかかる。そのため、サービス支給量が決定されないままに退院をし、支給決定を待たざるを得ないことが容易に予測される。
今回は最終的には、医師の意見書によって夜間の見守りが認められケアプランが変更された。医師の意見書が提出されると、サービス支給量(時間数)の増加、夜間の見守りは即座に認められ、在宅生活に向けた支援体制の前提が構築できた。
医者が患者のニーズを判定した「医師の意見書」の持つ効果は非常に大きかった。だがじつは医師でなくても、すでに支援者には本人のニーズは明確に認識されていた。

2-4, 解決策

 上記の諸問題を解決するためには、入院中に正確にニーズを把握し、それに基づいて迅速にプランを策定し、さらに、進行によって当初のプランが変更されうることを視野に入れてフレキシブルな支援体制を組めるような仕組みが必要である。
 そのためには、ニーズ把握を入院生活に一定期間付き添いつつ正確に把握して、病院・事業者等から独立した評価を下すことができる人間が必要である。
 また、認定調査時点と区分認定決定との間の期間をできるかぎり短縮し、公的なサービスが不足する空白期間をなくすことが必要である。あるいは、認定調査時点から、その後の進行を見通した介護サービスプランを作成できるような仕組みが必要である。さらに、緊急時の支給決定の裁量権――これは現制度でも認められている――を発揮することである。

3, 退院移行支援の課題(2)――生活支援制度へのアクセスと手続き
3-1,  問題の所在

ニーズ把握や認定と実施のタイムラグに加えて、支援者が病院を頻繁に訪問せざるをえなかった理由としては、制度を使う(使い始める)ための手続きが、すくなくともSのような人が使えるものとしては存在していなかったことが挙げられる。
多くの生活支援制度は、制度を利用する以前に、利用申請が必要になる。だが、利用申請を行う人は、すでにその時点で支援を要する状態になっている。つまり、日常生活に他人の支援を要する状態になってはじめて制度利用申請を行うことになるのだが、利用申請を行う時点では、当人には制度的支援は得られていない。ここには、支援を申請する人は、すでに支援が必要であるにもかかわらず、申請時には未だ制度的な支援は得られていない、というパラドックスがある。
 支援を得るための申請や要求活動を支援するのは、通常は家族が行うことにされている。逆に言えば、家族がいない人は、現状ではボランタリーな支援を受けることができない限り、制度を利用することさえできないということである。
 制度利用申請および支援制度利用のためのアクセスを支える支援者の必要性は明らかである。以下、必要とされる支援の内容とそれを制度外の支援者が行うことに随伴する困難、そしてその要因を分析する。

3-2, 制度外の支援者の必要性

今回、Sの場合、制度利用のための支援やケアプランの検証、連絡業務といった仕事は、入院中に本人に付き添って行われた。支援者は家族の役割を代行したことになる。では、じっさいにALSをはじめとする難病患者が生活支援制度を利用するために、家族が行うべきとされている役割とはどのようなものだろうか。
 ALSという診断がついてから、患者は社会的資源を受給するために必要な、「特定疾患医療受給申請」や「身体障害者手帳交付」などの申請が必要となる(湯浅・廣島[2007:202-210]、日本ALS協会編[2005])。さらに、介護者をはじめとする生活支援制度をいまだ利用していない段階であるため、家族は介護を行いつつ、これらの申請手続きをしなければならない。これを含めて、ALS患者家族は、さらに以下のような手続きを行う必要がある。

 特定疾患医療受給申請/高額療養費の還付制度/障害者医療費助成制度/身体障害者手帳交付申請/介護保険制度利用申請/医療保険による訪問看護/難病施策による訪問看護/難病患者等居宅生活支援事業/難病患者援助金支給制度など

 患者家族として行わなければならない仕事は、これらの申請手続きのほかにも、在宅支援の体制づくりがある(湯浅・廣島[2007:202-210])。これらの支援を家族に期待できないALS患者にあっては、家族以外の制度外の支援者に頼らざるを得ない。状態によっては自筆や発話が困難な場合もあり、Sの場合もすでに電話の受話器を持つこともできない状態だった。Sのように家族支援者をもたない単身の入院患者にとっては、支援者が補助しないかぎり、行政との交渉やヘルパー派遣事業所を探すことは不可能である。つまり、退院準備も在宅生活への移行も不可能である。
 Sの在宅移行に向けて支援者が介入した理由は、(1)Sに様々な福祉制度の活用を積極的に提案する機関や人の存在は見られなかったこと、(2)Sは自分で情報収集することが困難な環境に置かれていたことの二点にまとめられる。今回、支援者がSに対して行った支援内容をあらためて表にまとめておこう。それは具体的には、入院中の日常生活支援と在宅移行支援の二つに分けられる(表2:長谷川・竹林・西田・山本・堀田 ・川口 [2008])。

 表2 具体的な支援内容
表
 
入院中のSの日常生活支援では、食事介助・移乗介助・移動介助を行った。Sは入院当初には自力で可能であったことも、症状の進行とともに困難となり満足にできない状態にあった。通常、病棟では面会時間を除き、家族の付添も禁じられている。しかし、現行の看護体制では、ALS療養者の要求に十分に応えることができないため、付添いは歓迎される傾向がある。だが、Sは入院生活に付き添って介護する家族がいないため、支援者が在宅移行支援を行うと同時に、生活全般にかんする介助にあたった。
 また、在宅移行支援の内容としては、外出支援・郵便物の確認(書類等の収集)・住環境整備・事業所との調整があった。まず、外出支援としては、役所の交渉などに必要な外出を介助すること以外にも、退院直前には入院中の症状の進行に合わせて、住環境整備を行う必要性があった。さらに、夜間の介護を担う事業所の探索と調整を行った。
 また、Sの自宅に届いた郵便物を回収する必要性も生じた。郵便物の中には、各種請求書以外に、役所との交渉時にも必要な特定疾患の通知書類(西田がデイケアで開封したもの)などがあった。自宅にある必要書類を探すためS本人が自宅に戻る必要も生じた。
 住環境整備が必要とされた理由は、(1)Sは入院中にも症状が進行しており、在宅移行後の療養生活を具体的にイメージできないこと、療養環境整備について助言する人間がいないこと、また、(2)療養環境整備の必要性が生じた場合に、それを担う人間がいないことである。

3-3, 困難とその要因――協力と委譲を阻むもの

 だが、今回、家族以外のインフォーマルな支援者が入院中の患者の支援を行うことには困難が生じた。
 Sの場合は、入院中の生活援助が不足しており、売店に行って買い物をすることもできないでいた。洗濯は高いコストを支払って専門の業者に依頼していた。上記諸手続きのための連絡を兼ねて、私たち制度外の支援者が病院を頻繁に訪問する必要が生じた。
前述したように、病棟の看護師は、入院時の能力を前提としてADL評価を行おうとしていたため、食事をはじめとした入院生活援助を差し控えていた。したがって、支援者はSに不足している介助を補わざるをえなかった。
しかし病院内ではヘルパーによる介護は認められていないため、不足分の介助を支援者が補ったところ、病棟の看護師の理解が得られずに何度も説明が求められた。とくに退院直前になると、他の患者から苦情が来たことなどをおそらく要因として、支援者が入院中のSを訪問することについて、「家族ではない」という理由から看護師は忌避した。また、Sの日常生活介助を含めた支援を行うことに対して、病院側は「何かが起こった場合に責任を持てない」として歓迎しなかった。
そして、こうした状況が患者と病棟の看護師の関係を悪化させ、双方が不信感を抱く結果となった。家族であれば許される行為でも家族以外の支援者が行うとなると許されない行為となり、悪循環を引き起こした。
 「支援者」が病棟の看護師に歓迎されなかった理由も、ADL把握を困難にした要因と基本的には同じだが、次の点が考えられる。
 第一に、病棟の看護師は、他の人たち(患者たち)との「バランス」に配慮していた可能性が要因として考えられる。その背景には、現に病棟の看護師が入院患者のニーズを十分に満たす介助を行えていないという状況がある。それはさらに、多数の入院患者を少数の看護師が担当させられていることに起因する。
 第二に、入院患者に対して「完全看護」を標榜しているため、仮にすべきことができていないということが自覚されていたとしても、「できない」とは言えない状況が、病棟の看護師に強いられている。

3-4, 解決策

 患者が退院を望むと同時に、病院側としても平均在院日数の低減のために入院に期限を設けるなどしてそれを要求するのであれば★02、家族の有無にかかわらず、当人ができない場合には、諸制度の外部に位置しつつ制度間で利用可能性に関して調整し、連携をとることができるような知識・ネットワーク・裁量権を有するエージェントが必要である。

4, 退院移行支援の課題(3)――制度的諸問題
4-1, 制度間の関係性

退院移行支援の課題として、本人の進行にニーズ把握が対応できない点、またサービス量決定時と利用時との時間差が不足を生じさせる点、入院中に制度外の支援者が頻繁に病院を訪れる必要があるが、それが病院スタッフに忌避され、病棟看護師と患者の関係が悪化するという点をあげた。これらに加えてさらに次のような問題があった。
 ALSのような進行性の病をもつ患者が地域で独居生活をする場合には、介護保険と障害者自立支援法、そして生活保護を併用した包括的な支援が必要となる。しかしこれらの現行の福祉制度の仕組みでは、現状にしか対応できないことが、Sの事例を通してあらためて明らかになった。介護保険・障害者自立支援法・生活保護の間には、優先関係と条件づけ関係が存在し、組み合わせて利用しなければ生活困難であるにもかかわらず、実際には組み合わせることが困難になっている。
この点は、昨年度にアクションリサーチを行ったK氏の事例でも、介護保険と自立支援法そして生活保護の複雑な優先関係が、退院移行支援と退院直後の生活を混乱させたことが明らかになっている。まず、障害者自立支援法は例外を除いて、介護保険をすべて使い切った後にしか使えないことになっている。つまり、「優先関係は固定したものではない」という通知は、少なくとも京都市という自治体レベルではじっさいには運用されていなかった。同時にK氏の場合、退院後に収入がないため、生活保護を申請することが決まっていた。生活保護受給が開始すると医療保険から脱退することになり、自動的に介護保険の被保険者ではなくなるため、障害者自立支援法と介護保険制度との優先関係が逆転する。生活保護を受けている場合には、障害者自立支援法が介護保険制度に優先する。これを見越して入院中から障害者自立支援法優先のケアプランを立てようとしていたが、入院中には生活保護を受給することができないため、介護保険制度優先のプランで退院を迎えざるをえなかった。K氏の場合、退院直後に生活保護受給が決定したため、じっさいに介護保険制度優先のケアプランが実施されたのは退院後の一週間に満たなかった。

4-2, ネットワークの問題/供給不足

 また、Sのように、医療と福祉の両面からの支援を必要とする場合、医療と福祉のネットワークが重要になってくる。しかしながら、医療と福祉の連携、医療における諸制度・サービスから福祉における諸制度・サービスへとつなげつつ支えるネットワークが存在していない。
 病院のケースワーカーは、医療保険や介護保険を対象とした患者を対象としているため、介護保険だけではなく障害者自立支援法も併用して在宅支援を行うことについてイメージを持ちにくい状況にある。ケアマネージャーも介護保険を専門に扱う職種であることから、障害者自立支援法については詳しくなく、併用したプランを作成するのは困難である。そもそも、障害者自立支援法をマネジメントする役割をもつ地域生活支援センター自体が活用されていなかった。
 こういった状況から、Sのように介護保険と障害者福祉サービスの併用が必要な患者は、在宅生活移行のためにどんな制度を活用すればいいのかなどの情報が非常に乏しく、かつ情報へのアクセスが困難な状況にある。そのため、スムーズに在宅生活移行への手続きがとれない状況が生じる。Sの場合にも、ケアマネージャーが有している事業者のネットワークには障害者自立支援法における「重度訪問介護」で長時間ヘルパーを派遣可能な事業者がなく、ケアプランが遅れた一つの要因となった。障害者自立支援法を併用するとしても、事業所が見つからなくては実際にプランとして成立させることは不可能である。入院患者には、福祉制度についての情報へのアクセスが難しい状態にあるため、制度そのものの情報を知らないで在宅生活へ移行し、苦しい状況に置かれるケースも起こりうる。
 もちろん、これはネットワークの問題だけでない。実際のサービスを提供する人や事業者というノード(結節点)が存在しなければ、ネットワークの作りようがないからである。この点、今回のケースでは、実際にサービスを請け負う事業者が存在しなかったことが、最大の問題だった。とくに、京都市内では、重度訪問介護の枠組みで夜間介護を長時間請け負ってくれる事業者を見つけることは困難をきわめた。
 支援者は、障害者の地域自立生活に取り組む当該地域の事業所や、市の障害者地域生活支援センターなどに、当該自治体における障害福祉サービスの現状を聴取した。その際、「単身のALS患者が地域生活に移行すれば、重度訪問介護等で月四〇〇時間以上のサービス支給が決定されるかもしれないが、どこの事業所もヘルパー不足に悩んでおり、現状の利用者へのローテーションを維持するだけでも精一杯である」との厳しい現状を伝えられた。Sも、障害者自立支援法の重度訪問介護を使って夜間の見守りを補うことを考えたが、事業所を見つけることが困難であった。そのため、介護保険と障害者自立支援法を併用するにしてもケアプランを成立させることが難しい状況にあった。
 また、たんの吸引などを必要とする医療度の高いALS患者の介護・介助ということで、さらに引き受け先が激減する。医療政策の展開の中で、医療行為が必要な人も在宅で療養生活を送るようになってきたにもかかわらず、たんの吸引などの医療行為とされている行為が許されているのは、基本的に家族であり、ヘルパーには例外的にしか認められていない。患者の自己責任で個人的に誓約書を交わしたヘルパーに限られている。事業者も個々のヘルパーも、リスクを鑑みてそうした利用者を忌避する傾向にある。
 Sの事例を通して、地域でひとり暮らしするだけの介護支援、暮らしの場での政策が乏しいことがわかる。実際に療養するSはもちろんのこと、それを支える事業所に対しての政策も乏しい。

4-3, 供給不足と保障時間抑制の悪循環

 障害者自立支援法のサービス時間の支給決定の判断と、サービス時間を埋める夜間介護を担う事業者の存在とは、相互に連関していた。事業者が存在しないことがサービス時間支給決定を差し控える理由とされていた。
 Sは、夜間の就寝時に誤嚥の危険性が高まっていたため、介護保険と障害者自立支援法を併用し、できるだけ二四時間介護に近いかたちでのケアプラン作成を望んでいた。だが、Sの病状の進行や状態にかかわらず、「事業所がない」という理由で夜間介護の必要性や時間数の検討がなされなかったため、Sにとっては自立支援法を利用するためにも、夜間の見守りを引き受けてくれる事業所を探すことが何より先決であった。その際、ケースワーカーから事業所の名簿は入手できたが、事業所探しそのものは本人に任された。Sは受話器も自力では持てず発話も困難な状態であったため、支援者が代理で事業所を探す必要性が生じた。Sと支援者は、ケアマネージャーや福祉事務所に対して最大限の時間数を要求するとともに夜間の見守りの必要性を訴えたが、福祉事務所は〈夜間帯の介護を引き受けてくれる事業所がない〉という理由から自立支援法の併用には消極的であった。逆に、六月三〇日のカンファレンスで、夜間介護を引き受ける事業者が存在することを福祉事務所に伝えると、夜間介護を自立支援法で賄うことも不可能ではない、という回答が引き出された。
 支援者が依頼した事業者は京都市内の事業者ではなかったため、ケアマネージャーおよびケースワーカーの知識とネットワークの不備は、供給体制そのものの限界に起因する、ある意味では必然的なものであったとも言えるかもしれない。今回、隣接する自治体の事業者からヘルパーを派遣してもらうことができたため、夜間介護の時間を埋めることができたが、継続的かつ安定的にヘルパーを供給するには限界がある。遠隔地からの派遣を継続するには事業者にとっても大きな負担であり、ボランタリーな意思をもつ稀有な事業者に完全に依存していることになる。
 京都市内でも隣接する自治体にも、長時間かつ自由度の高いサービスを提供できる重度訪問介護ヘルパーを派遣する事業者は、つねにヘルパー不足となっている。その最大の要因は、ヘルパーの賃金がきわめて低賃金に抑えられており、事業者としても採算がとれず、またヘルパー自身も負担に見合った対価を得られないため担い手が少ないことにある。

4-4, 解決策

 これらの制度的諸問題を解決する方策は、まずネットワークについては、進行性の病気に対応した福祉制度の仕組みを構築することである。
 具体的には、病院・ケアマネージャー・障害者地域生活支援センター・事業者との連携が必要になる。障害者地域生活支援センターは、障害を持つ患者やその家族、支援者を対象に、生活における様々な相談に応じる相談機関である。障害福祉サービスについて、どのような制度があり、どうすれば利用できるのかなどの相談に応じている。障害者自立支援法についての相談の窓口の役割も担っている。
 しかし、障害者地域生活センターの存在はあまり知られていない現状がある。病院のケースワーカーやケアマネージャーから、障害者地域生活支援センターへアクセスすることも少ない。患者や家族は福祉事務所を通してその存在を知ることが多いが、その機会自体が少ないため、実際に障害者地域生活支援センターに足を運ぶことは少ない。
 そもそも病院・ケアマネージャー・障害者地域生活支援センターとの連携が制度化されているわけではないため、制度やしくみとして医療から福祉へ結びつける仕事にインセンティブが存在しない。Sのような重度の身体障害を伴う難病患者が、家族介護に頼らずに地域で生活をしようとした場合は、医療・福祉・社会保障をつなぎコーディネートし、包括的に支援するしくみが必要である。
 またもう一つの、そして最も重要な点として、夜間を含む長時間の自由度の高いサービスを提供する事業者およびヘルパーが業務として十分に安定的に経営可能であるように、報酬単価を上げ、当該事業者に対する支援策を講ずる必要がある。

5, 課題と解決策のまとめと提案
5-1, 制度アクセス支援と制度間の調整役割

 ここで、あらためて課題と解決策をまとめておこう。まず、今回Sの退院移行支援の合計時間は、約二二四時間であった。そのなかから見えてきた課題は三つに分けられるが、そのそれぞれが連関して大きな困難としてSと支援者の前に立ちはだかっていた。
 第一に解決が必要とされる課題は、ケアプラン作成の基礎になるニーズ把握の不備と、認定調査からサービス利用時の時間差によって生ずるサービス量の不足である。第二の課題は、入院生活全般への支援不足と制度へのアクセス時に必要な支援の不足である。第三の課題は、諸制度を重複利用する必要があるにもかかわらずそれが困難になっていること、そして供給可能なサービスリソースの不足に起因する支援の停滞である。
 これらに対する解決策としては、第一点のニーズ把握と入院生活全般への支援および制度アクセスへの支援については、ともに、入院中の生活支援を行いつつニーズを的確に把握し、それに基づいて必要な制度にアクセスする可能性を探る、既存の諸制度から独立したエージェントが存在していることである。第一点の認定から実施までの時間差に起因するサービス量不足と第三点の諸制度の重複利用の困難については、制度が必要に応じてフレキシブルかつ迅速に活用できるようにすることである。第三点目の供給可能なサービスリソースについては、現在、重度障害者が介護制度として活用するに最も適している重度訪問介護の報酬単価の増額が、最大のカギを握っている。
 ニーズ把握については、頻繁に行われたカンファレンスの結果が示している。カンファレンスは、患者Sの退院後の生活支援体制構築に不可欠のニーズ認識のズレに起因していたが、最終的には、支援者(たち)の認識が基本的に認められた。そのため、最終段階の具体的な業務分担以外の会議は、仮に支援者が独立した裁量権とコーディネート役割を委ねられていれば、不要であった。とりわけ、入院中の生活支援を行うこととニーズ把握、そして認定とサービス量の決定とサービスの質的な選択は、すべて一連の連続したプロセスであり、これを単一の機関が担うことができれば、諸専門職間の調整業務の必要はなくなる。逆に現在のように、複数の制度にそれぞれ縦割りの形で専門職が存在している場合、制度間の調整に時間と人材を費やし、さらには混乱を生じさせる原因にもなる。
 今回のSの退院移行支援にかかわって費やされた多くの時間のうちで、とくに会議の時間は、諸制度の利用について総合的に担いつつ、諸機関・専門職に対する一定の裁量権を有するコーディネート役割を担う人材と機関が存在すれば、大幅に省力可能なものである。

5-2, 重度包括支援制度の活用可能性

 本ケースから見えてきた様々な課題とその解決策は、「重度包括支援制度」の活用可能性の一つを示唆していると言えるかもしれない。
 とくに長時間の介護が必要な重度障害者や難病患者には、介護保険ではまったく足りない。しかし他方で、障害者自立支援法の重度訪問介護はあまりに単価が低いため、サービス提供者自体が少ない。現在の状況では、複数の制度を利用している個人に対して提供されている実質的なサービスの総額に、複数制度間の調整コストが付加されていない。
 あるいは、現在、事業者が兼務している「サービス提供責任」業務以外の仕事を切り離し、実際のサービスを提供する事業所とは別に、別の仕事として相談業務を位置づけることもありうるかもしれない。事業者は完全にサービス提供責任のみの業務負担になり、別機関が、ヘルパー募集および研修育成・退院移行支援・利用者に対する自立支援プログラム・他業種とのコーディネートを一括して担うようにする方法である。
 さらに、仮に介護者との契約と日常生活の介助講習を利用者当人に委ねることができ、それが利用者にとってもよいことであるならば、事業者の取引コストが減るため、双方にとって利益になりうる。ただ、いわゆる医療的ケアについては医療機関との連携が必要なこともあり、別立てとしたほうがよいだろう。実質的に効果的な「介助者養成」に金を出す必要はあるが、利用者に委ねた方が当人にとって、養成・取引コストを超えて「よさ」があると言えるような場合には、日頃のコーディネート業も含めて利用者に委ねるという方法もありうる。それにより、事業者にとっては育成や資格に要するコストや、ヘルパーの急な欠勤に対する代行責任が軽減され、サービス提供従事者の負担も軽減することで、必要に応じたサービスの質を、現在よりも高められるような仕組みが可能になるかもしれない。
 いずれにしても今回の退院移行支援のプロセスにおいて明らかになったのは、医療を含む複数の制度的支援を要する利用者にとっては、多業種間の連携が必要であるにもかかわらず、職域や裁量権等による行き違いや様々な不備があり、退院移行支援を困難にしていたということである。そしてこれを家族に委ねることには、家族成員自身の福祉の観点からみても大きな限界がある。以上は、業種と制度の差異を超えて、患者のアドボカシーの立場からアセスメントと支援を総合的に行う独立機関ないし組織の必要性を強く示している。

※ 本稿は、「特定非営利活動法人ALS/MNDサポートセンターさくら会」が厚生労働省障害者保健福祉推進事業から受託された重度包括支援制度パイロットスタディおよび日本学術振興会科学研究費(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。

■注

★01 Sと看護師のあいだにもニーズに対する理解について、大きな相違が生じていた。その理由の一つとしてリハビリ担当の作業療法士と病棟看護師の連携不足が考えられた。作業療法士は、Sの日常生活上のニーズに基づいて具体的に助言するなど身体の状態を詳しく把握していた。上記の「食事」においても、それをリハビリとする必要性は特になく、本人が希望しない場合は他の方法でやればよいとして、Sと意見が一致していた。そのため、要望がなかなかケアプランに反映されないSは、ケアマネージャーに対して作業療法士にも意見を求めるように訴えることもあった。一方で、同じ病院に勤務しているにも関わらず、病棟看護師と作業療法士の間にはSの身体の状態に対して認識の相違がみられた。Sの日常生活上のニーズをより理解していたのは作業療法士であるならば、このときケアマネージャーは在宅移行時の身体的ニーズに対して作業療法士に意見を求めるべきであるが、リハビリ技師が合同カンファレンス時に召集されることはなかった。Sのケースにおいて、このような認識のズレを解消するためには、病棟看護師と作業療法士の連携が必要であるということが指摘できる。
 このような認識のズレから生じる対応の相違はケアプランという形になって表れるため、Sはケアマネージャーとともに病棟看護師に対しても不信感を抱く結果となり、関係を悪化させることにもつながった。

★02 二〇〇六年の医療制度改革の目的のひとつに、「医療計画制度を見直し、医療機能の分化・連携を推進することを通じて、地域において切れ目のない医療の提供を実現し、質の高い医療を安心して受けられる体制を構築すること」(山田[2006:10-13])がある。この実現のために、長期入院高齢者の病床の転換、在宅(訪問)医療の充実と療養の場を充実させ、平均在院日数の短縮を図ることを方針として掲げられた。疾患の状態や時期に応じた適切な医療を受けることができるよう、医療機能の分化・連携、在宅療養の推進、長期入院病床の転換支援の三つの取組みの強化が図られている。それには、病院から地域への円滑な移行、すなわち医療と福祉の連携が必要不可欠である。しかし、その連携による地域でのケア体制は確立されておらず、現状では在院日数との関係で入院を継続できずに仕方がなく退院し、在宅生活への不安を抱えながら、生活の場を地域へと移行せざるを得ない人も少なくない。このことは医療依存度の高い特定疾患患者も同様であり、このような人々が安定した在宅生活を継続するには患者家族の多大な介護量が必要なのが現状である。

■関連文献・学会報告

(特定非営利活動法人)ALS/MNDサポートセンターさくら会 2008 『在宅療養中のALS療養者と支援者のための重度障害者等包括支援サービスを利用した療養支援プログラムの開発』,平成19年度障害者保健福祉推進事業 障害者自立支援調査研究プロジェクト事業完了報告書
長谷川 唯・山本 晋輔・堀田 義太郎・北村 健太郎・仲口 路子 2008 「ALS患者の在宅独居移行支援に関する調査研究(4)――制度的諸問題」,第22回日本地域福祉学会大会 於:同志社大学(報告)
長谷川 唯・竹林 弥生・西田 美紀・山本 晋輔・堀田 義太郎・川口 有美子 2008 「独居での在宅生活が困難となったALS療養者の事例検討――社会福祉の立場から」,第13回日本難病看護学会大会,於:タワーホール船堀(報告)
長谷川 唯・西田美紀・堀田義太郎 2008 「独居ALS患者における制度的支援体制の事例検討」,第8回日韓中住居問題国際会議・プレシンポジウム 於:立命館大学(ポスター)
長谷川 唯・堀田 義太郎 2009 「難病患者の地域生活移行支援における諸課題」,日本保健医療社会学会関西地区例会(報告予定)
堀田 義太郎・北村 健太郎・渡邉 あい子・山本 晋輔・堀川 勝史・中院 麻央・小林 香織・定行 秀岳・高橋 慎一・阪田 弘一・川口 有美子・橋本 操 2008 「在宅独居ALS療養者のケアニーズ――1分間×24時間タイムスタディに基づく事例報告と検討」,ALS/MNDサポートセンターさくら会[2008]
堀田 義太郎・渡邉 あい子・仲口 路子・長谷川 唯・山本 晋輔・北村 健太郎 2008 「ALS患者の在宅独居移行支援に関する調査研究(2)――1分間×24時間タイムスタディに基づくケアニーズの把握」 第22回日本地域福祉学会大会 於:同志社大学(報告)
川口 有美子 2005 「在宅療養における緩和ケア、パーソナル・アシスタントシステムによる長時間の見守り介護とダイレクトペイメントの実現」,中島他[2005]
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――――― 2007 「障害者自立支援法によるALS等の長時間介護にかかる問題点」,中島他[2007]http://homepage2.nifty.com/ajikun/memo/jiritsu2007.htm
――――― 2008a 「在宅ALS療養者の効果的な支援の在り方に関する研究」,川村他[2008]
――――― 2008b 「日本におけるALS療養支援の現状と課題」,第13回日本難病看護学会シンポジウム「難病ケアのこれからを考える」(08/29)(報告)
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川口 有美子・古和 久幸・小長谷 百絵 2006 「在宅重度障害者としてのALS患者の実態とニーズに関する研究」,川村他[2006:49-122]
川口 有美子・古和久幸・安藤道人・堀田義太郎・杉田俊介 2007 「ALS療養者と介護者、双方の生活を支援する長時間滞在型介護/介助サービスの在り方に関する調査研究」,川村他[2007]
川口 有美子・橋本 操・塩田 祥子・中村 記久子 2008 「在宅重度障害者としてのALS療養者のための「自律生活プログラム」の検討」,川村他[2008]
川村佐和子(主任研究者)他 2006 『在宅重度障害者に対する効果的な支援の在り方』,厚生労働科学研究費補助金障害保健福祉総合研究事業平成17年度研究報告書
――――― 2007 『在宅重度障害者に対する効果的な支援の在り方』,厚生労働科学研究費補助金障害保健福祉総合研究事業研究報告書平成18年度報告書
――――― 2008 『在宅重度障害者に対する効果的な支援の在り方』,厚生労働科学研究費補助金 障害保健福祉総合研究事業研究報告書平成19年度報告書
―― 2008 川村佐和子、川口有美子(聞き手) 「難病ケアの系譜――スモンから在宅人工呼吸療法まで」(インタビュー)『現代思想』Vol36-3(2008-3):171-191、青土社
仲口 路子 2008 「ALSと暮らす――在宅移行への困難」,第13回日本難病看護学会大会 於:タワーホール船堀(報告)
仲口 路子・長谷川 唯・山本 晋輔・北村 健太郎・堀田 義太郎 2008 「ALS患者の在宅独居移行支援に関する調査研究(3)――在宅移行の困難」,第22回日本地域福祉学会大会 於:同志社大学(報告)
中島 孝(主任研究者)他 2005 『特定疾患患者の生活の質(QOL、Quality of Life)の向上に関する研究』,厚生労働科学研究費補助金難治性疾患克服研究事業平成16年度報告書
――――― 2007 『特定疾患患者の生活の質(QOL)の向上に関する研究』,厚生労働科学研究費補助金難治性疾患克服研究事業平成18年度報告書
中島 孝・川口 有美子(聞き手) 2008/02/01 「QOLと緩和ケアの奪還――医療カタストロフィ下の知的戦略」(インタビュー),『現代思想』36-2(2008-2):148-173
西田 美紀 2007 「SEIQoL-DWから捉えた個人のQoL――筋ジスト¥ロフィーの病いを伴う人の語りから」 立命館大学大学院応用人間科学研究科 臨床心理学領域 修士学位論文
――――― 2008 「独居での在宅生活が困難となったALS療養者の事例検討――ナラティヴアプローチを用いた支援の在り方」,第13回日本難病看護学会大会 於:タワーホール船堀(報告)
――――― 2008 「自己負担金が家計を圧迫している――単身ALS患者の経済状況」,『難病と在宅ケア 特集/難病患者の就労支援と経済問題[第3部]』(株)日本プランニングセンター
――――― 2009 「難病患者の地域生活支援における心理的援助についての検討」,日本保健医療社会学会関西地区例会(報告予定)
西田 美紀・堀田 義太郎 2008 「進行性難病患者の居宅生活に向けた介入の必要性と課題」,第8回日韓中住居問題国際会議・プレシンポジウム 於:立命館大学(ポスター)
山本 晋輔・仲口 路子・長谷川 唯・北村 健太郎・堀田 義太郎 2008 「ALS患者の在宅独居移行支援に関する調査研究(1)――重度ALS患者のための在宅独居空間整備に関する研究」,第22回日本地域福祉学会大会 於:同志社大学
山本 晋輔・森田 孝夫・阪田 弘一・高木 真人 2008 「在宅ALS患者および介助者の生活実態と住要求――重度ALS患者のための在宅独居空間整備に関する研究 その1」,平成20年度日本建築学会近畿支部研究発表会,於:大阪工業技術専門学校(報告)
山本 晋輔・長谷川 唯 2008 「独居ALS患者の住環境整備における現状と課題」(ポスター),
第8回日韓中住居問題国際会議・プレシンポジウム 於:立命館大学
日本ALS協会編  2005 『新ALSケアブック――筋委縮性側索硬化症療養の手引き』川島書店
阿部康二 2007 『筋萎縮性側索硬化症(ALS)筋萎縮性神経難病のすべて――症状・診断から最先端治療、福祉の実際まで』,新興医学出版社
さくら会 1999-『闘えALS』,http://plaza9.mbn.or.jp/~sakurakai/
杉江拓也 2004 「特定疾患とQoL」,『保健医療科学』 53-3:191-197(特集:保険医療におけるQoL研究の現状)
立岩真也 2006 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院
山田雅子 2006 「在宅医療推進の背景と将来の社会システム」『早期退院連携ガイドラインの活用――退院する患者・家族を支援するために』日本看護協会出版会(pp. 10-13)
湯浅龍彦・廣島かおる 2007 「在宅独居ALS患者の自立支援体制」『神経難病のすべて――症状・診断から最先端治療・福祉の実際まで』新興医学出版社(pp. 202-210)
資 料

1、「重度障害者包括支援の取り扱いについて」
 京都市保健福祉局保健福祉部障害保健福祉課在宅福祉第一担当      橋本 真

2、医療的ケアを必要とする重度障害者の単身在宅生活に向けての課題
立命館大学大学院先端総合学術研究科・後期博士課程           西田美紀

1、 医療的ケアを必要とする重度障害者の単身在宅生活に向けての課題
立命館大学大学院先端総合学術研究科・後期博士課程   西田美紀
(DVDに収録したパワーポイントの解説です)

スライド2
目的
 近年の医療体制の改革による入院日数の短縮化や医療技術の進展に伴い、重度障害者の生活の場が地域医療や福祉へと移行せざるを得ない状況になりつつある。しかし、個人的事情(家族世帯や経済的事情など)や在宅体制の整備が立ち遅れるなかで、在宅生活が困難な実情もあり、体制の再構築,制度改革に向けた実情把握が急がれる。本研究では、呼吸症状の進行に伴い非侵襲的陽圧換気療法(以下NPPV)が必要となった独居ALS患者の一事例を通じ、進行性疾患患者の独居在宅生活の維持に資する重層的サポートを探ることを目的とした。
方法
 医療的ケアが必要な進行性疾患患者が、地域の中で安定した療養生活を維持できる社会状態を目指し、実践的問題と解決に向けアクションリサーチを行った。具体的には、療養者の具体的生活場面を把握し、研究対象者・サービス提供に関与する福祉・医療機関からのヒアリング・記録を参照して、在宅生活維持のための課題要因の分析と、解決のための方策を明らかにした。

スライド3
 医療的ケアという言葉ついて説明を加える。医療的ケアがどのような行為を指し示すのか、明確な定義はないが、90年代、最重度障害児の教育現場で、日常生活を送るために必要な吸引や経管栄養などが、医療者のみが行う医療行為なのか、それとも生活援助行為なのか、医療と福祉制度のはざまのグレーゾーンを示すために、養護学校の教員(松本嘉一氏)から生まれた言葉である。

スライド4
 以降、医療的ケアは、Table1に示すように2つの歴史的変容がある。2002年ALS協会から「ALS(筋萎縮性側索硬化症)等の吸引 を必要とする患者にヘルパー等介護者の吸引を求める要望書」が署名を添えて提出され、厚生労働省はこれを受け、2003年「家族以外の者によるたん吸引の実施」について一定の条件下では「やむを得ない措置として許容されるもの」とする通知が出された。追って 2004年には、遷延性意識障害者の家族らの要望をうけ、ALS患者以外にも家族以外のものによる「吸引」が認められた。

スライド5
 その後、入所施設や福祉分野で行われていた行為と医師法との整理、非医療職がケアを実施するための条件はどうあるべきかを探るため、厚生労働省は「在宅および養護学校における日常的な医療の医学的・法律学的整理に関する研究会」を設置し検討をおこなった。
スライド6
 NPPVは、マスクなどを介して身体に手術侵襲を加えることなく、鼻や口からの換気を人工的に補助する方法である。陽圧人工呼吸器により換気補助を行う非侵襲的陽圧換気療法で、夜間無呼吸症候群患者に用いられるCPAP(continuous positive airway pressure:持続陽圧呼吸療法)や体外式陰圧人工呼吸療法は除外する。日本では、1990年にDuchenne型筋ジストロフィー患者の慢性呼吸不全に対して導入され、近年ALS患者に対しても使用されるようになってきた。2004年には、17500人の在宅人工呼吸療法患者のうち、15000人がNPPVになったと報告がある(2007年,特定疾患患者の生活の質(QoL)の向上に関する研究)。効果は賛否両論であるが、NPPVの適応時期は、アメリカのNAMDRC(National Association for Medical Dirction of Respiratry Care)のconsensus conference reportでは、血液ガス分析で1)PaCO2:動脈血中二酸化炭素が45mmHg以上,2)睡眠中SpO2:経皮的酸素飽和度88%が5分以上持続,3)%FVC(努力性肺活量)が50%以下か。最大吸気圧が60cmH2O以下のいずれかひとつあれば慢性呼吸不全でのNPPVの適応があるとしている。ALSの場合もこの基準が準用され診療ガイドラインが作成されているが、臨床経験からはこの適応では遅すぎると多くの専門医は考えており、検査値に関わらず、動作時の呼吸苦,全身倦怠感,夜間不眠,早期の頭痛どの、呼吸筋低下の症状がある場合は、早期からの導入が望ましいとされている(2007年,特定疾患患者の生活の質(QoL)の向上に関する研究)。

スライド7
 脊髄、脳幹や大脳皮質の運動ニューロンのみが選択的に障害される病気を運動ニューロン病と総称している。この中で最も多いのが筋萎縮性側索硬化症(ALS)である。 私たちが日ごろ動かしている随意筋は、脳からの命令を受けた運動ニューロンで、運動ニューロン=運動神経細胞が侵されると、筋肉を動かそうとする信号が伝わらなくなり、筋肉を動かしにくくなったり、筋肉がやせ細ったりする。随意筋の障害には、四肢の筋群,顔面の表情筋,口の開閉や咀嚼,嚥下に働く筋群,発生・発語の筋群,呼吸筋群,眼球やまぶたを動かす筋群,また膀胱・直腸の括約筋や、情動運動系の障害(感情の高まりや不安を抑えにくくなる)も見られることもある。

スライド8
調査対象者・病状経過・ADL(日常生活動作)
調査対象者:61歳男性(以下S氏と記す)。
病状経過:2006年夏頃より、左手の感覚・機能低下があり、近くの医院を受診したが原因不明で経過観察となる。症状の改善が見られず、下肢の筋力低下も出現したため、再度病院を受診し
、2007年6月に大学病院へ紹介され、検査入院により「ALS」と診断される。診断後は仕事を退職し、事情により自宅で独居生活を送っていた。同年12月に胃婁増設目的のために再入院し、
2008年1月に退院する。同年2月より、神経内科の外来診療と重度認知症・難病デイケアを併設する診療所に通所するようになった。その頃より下肢の機能低下による転倒を繰り返し、独居での在宅生活が困難となり、4月に肋骨骨折の疑いによる安静目的と在宅生活の再構築のために入院となった。同年、7月に退院し、10月より呼吸症状の進行により就寝時にNPPVを使用するようになり、2009年1月気管切開と在宅生活の再構築のために入院となった。
 ADL(日常生活動作):両手機能全廃,右手指は軽度動く。両下肢機能低下あり歩行不可も、屈曲・進展は可。寝返りはできず。食事・排泄・着・入浴は全介助。移動時は車椅子を使用していた。

スライド9
2008年7月の在宅生活体制をTable2に示す。日中は4日/週難病デイケアと、訪問看護2回/週で医療面のケアを行っていた。福祉面では、介護保険と重度訪問介護(352時間+移動介護32時間)を活用していた。

スライド10
 2008年7月〜1月の病状経過と支援体制の要約をTable3に示す。
2007年7月〜8月
 病状は、球症状(構音・嚥下障害)は緩やかに進行しており、発声・呂律困難があったが、聞き取りはでき周囲ともコミュニケーションが図れていた。時折むせること、痰がからみやすくなったと訴えることはあったが、食事は柔らかい食材を選び外食を楽しんでいた。痰の自己喀出もできていた。暑さの中での外出に、時折呼吸苦を訴えることはあったが、SAT96〜97%で、安静により症状は改善することが多かった。VC(肺活量)は60%と低下気味であったが、呼吸症状の急速な進行はなかった。デイケアでは、今後の対応として、意思伝達装置を申込み、オペレーションナビと文字盤の練習を行うことになり、自宅では吸引器設置の手配を行った。
 4月まで独居生活をしていたS氏は、7月以降から介護保険と自立支援法の重度訪問介護を活用し他人介護の生活をすることになった。家に閉じこもっていた生活や入院生活のストレスから解放されS氏は介護者と外出を楽しんでいた。24時間/日の介護給付は認められていなかったが、Sは両手が使えず、寝返りや起き上がること、緊急ボタンを自力で押すこともできなくなっていた。3箇所の事業所のうちA事業所が一日24時間常に見守りが行えるよう、ボランティアでヘルパー派遣をしてきた。しかし、他の事業所は吸引などの医療的ケアを認めておらず、継続的な介護に不安を抱いていた。8月中旬、医療的ケアに対応でき、ALS患者の介護経験のあるA事業所のみが、Sの在宅生活を介護していくことになった。しかし、在宅移行からヘルパー不足の壁があった。立命館大学の教員や、日本ALS協会・NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会の理事を務める川口の協力のもと、大学生の重度訪問介護ヘルパーを養成していった。

2007年9月〜10月
 倦怠感や時折息苦しさを訴えるようになり、外出も減っていた。SATは95%〜96%で、経皮的PCO2は座位時時に40mmHg,臥床時に50mmHgであった。主治医は、臨床的にも呼吸症状が出現してきたので、そろそろ気管切開のタイミングと評価していた。気管切開については、以前からS氏は希望していたが、球症状(構音・嚥下障害)が緩やかな進行であったため、「まだ食べれるし、話せるからもう少し待って欲しい」とのことであった。Sの意思を尊重し、主治医はNPPV療法を開始することになった。デイケアで約2週間調整し、臥床や睡眠時のPCO2が50台と高かったため、睡眠時にNPPVを導入することになった。しかし、独居者であったため、睡眠時のマスク装着は介護者に依頼せざるを得なかった。介護ヘルパーを対象にNPPVの装着方法を含めた勉強会を実施し、その後に在宅でのNPPV療法が開始された。開始直後は、自分で顔や口の周囲を動かしたり、口頭で介護者に指導していた。しかし、倦怠感や、発声・呂律困難により、周囲とコミュニケーションが除々に図れなくなり、スムーズにマスク調整できない場合は装着を拒否したり、イライラにより感情の起伏も激しくなった。
デイケアの看護師が就寝時にヘルパーによるマスク装着の指導にあたったが、安定的なマスク装着が自宅では困難となっていた。文字盤やパソコンの練習にも「体が少しでも楽なときは好きなことしたい」と拒否的であった。

2007年11月〜12月
 倦怠感と眠気が強くなり、落ち込んだりイライラしたりと感情の起伏があった。SATは95%〜96%で、PCO2は45.5mmHgであった。マスクの装着時間は35分〜2時間とばらつきがあり唾液や痰も多くなり、装着が苦痛となっていた。発声・呂律困難により、周囲とのコミュニケーションも図れにくくなっていた。主治医より、気管切開を引き延ばしにすることのリスクが伝えられたが、「食べれる間は食べたい、話せる間は話したいので、年内まで様子をみたい」とのことであった。在宅生活では、以前から見られていた痙攣が強くなり、特定のヘルパーになると不調を訴えるようになった。S氏が合わないというヘルパーは、介護経験のない学生ヘルパーではなく、ALS介護の経験者であり、「先回りして勝手にされるのが嫌」と言っていた。痰の喀出困難に対し、デイケアではカフマシーン(気道内圧を+40mmHgから− 40mmHgに急激に変化させることで痰の喀出を促す)を導入し、吸入を2回/日開始した。症状の悪化や進行に伴うコミュニケーションの問題は、S氏だけではなく、介護ヘルパーにも不安を与えた。ケアカンフェレンスは1回/2カ月行われ、緊急時の連絡として、痰のつまりによる窒息は、救急車と同時に主治医に報告し、それ以外の体調面に関してはまず訪問看護に連絡し、状況次第で看護師から医師となっていた。しかし、10月の転居により新しい訪問看護が担当になり、Sは「新しい人は自分のことが分かっていない」とい理由や遠慮からケアを受け入れるのに時間を要し、緊急時呼ぶことをためらい、自宅で我慢することがあった。ヘルパーは患者から呼ぶなと指示され、不安の中見守りをすることも多かった。S氏と一部のヘルパーの信頼関係が崩れ、ヘルパーの数が減っていった。残されたヘルパーが過労になり、さらにヘルパー不足を招いた2007年1月
 体のこわばりや痙攣が強くなり、呼吸苦や眠気も強くなっていた。マスク装着もほとんどできていなかった。SATは94〜96%で、入眠時に30秒以上の無呼吸が見られるようになった。発声は聞き取れないことが多く、S氏は「もう切る(気管切開)」と主治医に告げた。在宅生活では、状態が不安定であるため、介護ヘルパーを二人体制にしていた。しかし、ヘルパー不足によりS氏が合わないヘルパーが再度訪問せざるを得なかった。S氏は体の状態や在宅生活での身体的不安や介護者とのストレスから、デイケアの利用回数の増加を希望され、臨時で利用することが多くなった。気管切開を決断してからは、表情は穏やかになっていた。年明けに、気管切開の手術の申込みをしたが、大学病院は予約制で2週間程度かかるとのことであった。ヘルパー不足もあり、その間のレスパイト入院先を探したが、病院の事情により緊急入院をすることはできなかった。他の病院を探し、手配がついかころに大学病院の手術患者予定のキャンセルがあったため、気管切開の手術目的で1月中旬に入院となった。
尚、S氏が週4日通所していた医療保険の難病デイケアは、リハビリや医療的なサポートの面で大きな役割を果たしてはいたが、認知症の高齢者が多く通所している施設であり、コミュニケーションに大きな障害を抱える重度障害者のためのプログラムに乏しかった。「楽しいから通所したい」というような言葉はなく、本人の評価としては低かった。


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 アクションリサーチによって明らかになったNPPVを困難にする要因には、まず、進行の速さに伴う困難さがある。球症状(構音・嚥下障害)は2008年より徐々に悪化し、呼吸症状は同年夏過ぎより急速に悪化した。両者の機能低下は重なり合いながら短期に進行したが、球症状の方が進行が緩やかだったため、S氏は「食べれるうちは食べたい,話せるうちは話したい」と気管切開のタイミングに迷い、決断できなかった。 
 次に、単身であることに伴う困難さがある。当初はマスクを装着する際、自分で顔を動かしてずれを直したり、ヘルパーにマスクの位置をどう微調整してほしいのか、指導ができていた。しかし、橋・延髄筋の低下(顔面の表情筋・開閉口)や、球症状(構音・嚥下障害)などが急速に進行し、マスクの自力での位置調整や、口話でのコミュニケーションが困難となり、NPPVの装着方法をヘルパーに伝えづらくなっていった。さらに、夜間の痙攣によってマスクがずれたり、呼吸機能低下に伴うCO2の上昇から、倦怠感も強くなり、周囲とのコミュニケーション能力がさらに低下し、イライラや落ち込など精神面の動揺が見られた。

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 非医療職であると医療職との連携の重要性は、すでに繰り返し多くのところで語られ、強調されている。しかしヘルパーがNPPVに対応する上での困難は非常に大きく、ヘルパーと障害者双方にとって、負担が大きいのみならず、医療的にみても心身の状態低下と危険がある悪循環を招いた。
S氏のケースでは、マスク装着の手技は医療者を講師とし、ヘルパー対象の勉強会を開催したほか、個別にも指導を行った。だが、日々の体調変化や進行に伴い装着の方法は調整が微妙に変化した。マスクは呼吸状態が悪化する入眠時から装着するように医療者が決定していたが、日中に通っているデイケアや訪問看護は、緊急時には対応可ではあったものの、毎晩のマスク装着ごとに患者宅に訪問することはできない、とのことだった。医療者が継続的に自宅でのNPPVをフォローすることができない以上、ヘルパー間で、申し送りノートを介してS氏の病状の共有や手技の統一を試みたが、ヘルパーによっては一週間程度の勤務間隔があるだけで、S氏の日々刻々と変化する身体状況やケア手技の見直しについていけず、病の進行により障害者とヘルパー間の意思疎通も円滑ではなくなってしまい、さらにケアニーズの変化をくみ取ったり、障害者本人からの要望を受け止められないという悪循環が生じた。患者はケア水準への不安からNPPVの使用回数を抑制するようになり、それはさらなる身体状況やストレスの増大を招いた。

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 また、NPPV評価の困難さもあった。在宅での医療対応の量・質的な問題、例えば限られた訪問看護の数や時間,往診医不在から生じる患者の身体状態の把握や対応不足に加え、医療者は気管切開のタイミングや呼吸状態をSAT(酸素飽和度)やVC(肺活量)、PCO2(動脈血二酸化炭素)などの数値から判断しがちである。しかし、昼間の比較的体調のよい時に測定されるPCO2が正常範囲内であっても、そこで示された数値は必ずしも正確な数値を反映しているとは言い難く、また、PCO2に伴う臨床症状「倦怠感」や「眠気」も、必ずしも身体状態を反映しているとも言い難い部分もある。それは、例えば、NPPVや、その他(痙攣)の症状、機能低下に伴う介護変化の対応が身体的・精神的負担となり、「倦怠感」や「苦痛」が生じ患者は数名のヘルパーのケアや介護を受け入れることができず、寝てやりすごそうとしたり、NPPVの受け入れもできなくなっていった。このようなヘルパ−との日常生活上の困難や葛藤は、申し送りノートには反映されず、医療者には把握しづらい。つまり、日常生活のヘルパーとの関係困難や不安を「身体症状」として表現する場合がある。

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 ヘルパ−不足も在宅生活を困難にする大きな要因だった。医療者が数値をもって「大丈夫」と状況を判断しても、目の前でしんどうにそうにしたり、苦しむ患者を目の前に、夜間に一人きりで対応しているヘルパーは、重圧にさらされる。戸惑い不安が態度に出てしまい、うろたえるヘルパーの介護に対し、S氏の不安も増大し、その人のケアや介護を受け入れない事態が繰り返し生じた。また、NPPVに加えその他の身体機能低下に伴う日常生活の変化から、患者とヘルパー間のストレスが増大し、このことがヘルパー不足に繋がり、限られた介護者の負担が大きくなり、さらにヘルパー不足を招き、ケア不足により体調が悪化し、精神的負担がますます増大するといった悪循環が生じた。

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このように、痰吸引や経管栄養に比して「医療的ケア」の議論の中で取り上げられることが少ないNPPVでも、複数の要因が連関し在宅生活を悪化させていた。

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 その他に、緊急対応の問題がある。緊急連絡先は主治医となっていたが、訪問看護も緊急時夜間対応可となっていた。呼吸状態の急変時、例えば窒息時などは、救急車に連絡し、同時に主治医にも連絡する。その他の症状に関しては訪問看護師が対応し、状況しだいで医師に報告となっていた。 しかし、介護回数が多くないヘルパーにとってはどの症状がどの程度で緊急なのか、どのタイミングで夜間訪問看護師を呼べばいいのか、理解できなかった。また、転居で訪問看護ステーションが変更になったことで、Sが「新しい人は自分のことが分かっていない」という理由や遠慮からケアを受け入れるのに時間を要したり、緊急時呼ぶことをためらい、自宅で我慢することがあった。ヘルパーは患者から呼ぶなと指示され、不安の中見守りをすることも多かった。
   
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その他に、医療と福祉の連携の困難さの要因がある。これは、ケアカンファレンスの量・質的問題に帰する。7月以降、ケアカンファレンスは8月・11月と1回/2ヶ月行われていた。進行の早さや呼吸状態を考慮すると、回数が不足していたことは否めない。しかし、量だけを増やせば解決しうる問題ではない。カンファレンスは各分野の代表者、例えば医師・看護師・介護事業所代表者・ケアマネージャー・福祉用具担当者・ケースワーカー、ケアマネージャーが出席し、ケアプランの内容や障害者の状況を伝達しあっていた。だが、在宅の現場を十分に把握できていない各事業所の代表者間での話し合いは、患者宅へ直行直帰しているヘルパーらの危機が伝わらないなど、実効性のあるケアプランの見直しに繋がらない可能性がある。
その理由として、まず、現場の声がケアカンフェレンスの場にまで上がりにくい。特に、日常生活を把握している現場の介護者と事業経営者は、雇用する側・される側の関係にあり、リサーチにより現場で語られる介護者の不安や危機感は、事業主の前では語られないことが多く、現場と認識のギャップが生じていた。

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次に、制度面から捉えると、訪問看護と介護は二重給付が認められないため、重なり合ってケアにあたることができない。在宅での医療的ケアは日常生活上にあり、特に進行性疾患の状態変化に対応して手技や手順、ミリ単位の位置調整を共有していくには、A「医療:介護」・またはB「介護:介護」の重なり合いが必要だった。しかし、A→訪問看護師は日常生活を把握するため、数日間の申し送りノートを読むことに時間を要し、ヘルパーに直接指導する場がない。ヘルパーも医療的ケアを任されることへの不安を現場不在の医療者に相談しづらい部分があった。また、B→医療的ケアや介護を患者から受け入れられないことに対し、ヘルパーに自責の念が生じ、他のヘルパーにその悩みを打ち明けられず悩む者もいた。つまり、申し送りノートだけでは現状を把握しづらく、現場レベルで医療と福祉が情報交換や連携できる場が存在していない。また悩みの抱え込みのストレス(紫色の部分)は、ALS介護経験が長いベテランの専業ヘルパーの方が、介護経験のない学生より多かった。これは、経験が時として壁になり、個別性のケアを困難にしているとも考えられる。例えば、経験があること、周囲がベテランヘルパーとみなしていることーから周囲に相談しづらい、患者本人への意思確認を忘れ、先回りしたケアをしがちになり、このことが、障害者にとっては「合わないケアを押し付けられている」との不安になり、障害者とヘルパー間の関係性の悪化にも影響していたと考えられる。

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課題のまとめと解決に向けて、以上概括したとおり、(1)病の進行の速さ(2)独居(3)NPPVの評価・対応(4)ヘルパー不足 (5)緊急対応(6)福祉と医療の連携の課題は、ケア統一・患者とヘルパー間の身体的・心理的側面の共通課題として浮き彫りになった。これらは多くの在宅ALS患者の場合、日々の状態や変化を理解している家族が補っていることが多いと考えられる。このように、家族不在の場合、課題の共有やケア手技の統一が難しく、患者・ヘルパー・医療者の負担も大きくなる。

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 今回、上記のような問題点を解決するため、ヘルパー二人体制の介護時間を一定設けることと、デイケア看護師・理学療法士の自宅訪問を図った。ヘルパー二人体制や看護師・理学療法士の訪問時間は以下の通りだが、なお問題解決には不十分で、前述の困難/悪循環を根本的に解決するには至らなかった。

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 解決の方策として、まず自薦ヘルパー(個人の専属ヘルパー)による介護体制が望まれる。ALS介護は進行が早く症状もニーズも個別性が強いため、専属ヘルパーが長時間連続してケアに入ることで、患者の身体的・精神的負担が軽減し、ヘルパーも進行や体調変化・不調の程度を把握しやすくなる。さらにケア手技見直しの共有やヘルパー自身の不安軽減につながり、また、コミュニケーション障害に対する双方の負担軽減にも繋がりうる。自薦ヘルパーの育成にあたっては、患者自身が直接ケアを指導することで、患者とヘルパーの関係構築ができ、日々の介護や医療的ケアの信頼・安心感に繋がる可能性がある。但し、患者の性格や介護者との相性、体調・進行部位・程度・医療的ケアの内容などによって、患者の負担が増加したり、育成までに時間を要する可能性もあるため、状況によっては多くのALS患者に接した経験のある人にヘルパー育成やケアを補助してもらう時期も必要ではないかと考える。

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医療と福祉で二重給付が認められないことは、制度設計上やむを得ない面があるとはいえ、現実に医療的ケアを伴う重度障害者の在宅生活構築の上では壁になっている。訪問看護は退院直後のみならず、定期的に介護保険や重度訪問介護時間内に訪問でき、在宅医療に携わる「介護者への医療的ケアの指導・相談」ができるよう新たな制度設計が望まれる。
また、福祉の二重給付―重なり合い引き継ぐための時間帯―が、時間数的にどのくらい必要化は措くとしてもー介護・ケアの指導や伝達を行えるよう、研修期間中の二人体制が認められることが望まれる。

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 次に、ピアカウンセリングで、同じ疾患の患者同士が情報交換・相談できる環境作りを行う。但し、同時期か進行がやや早い時期の人との交流が効果的である。これは、頑張っている患者は葛藤時期の患者にとって心理的負担となる場合があるからである。また、難病カウンセリングで、患者が介護者や生活の場から離れ、日常生活やケアのこと、また身体・精神的側面の相談、ストレスを発散できる人と場を作っていくことが望まれる。
また、介護者が相談できる場や、介護者同士が交流できる場を作っていくこと。 そして、方策2と3を通して、可能な限り現場に人たちの声がケアカンファレンスの場に上がってくるような仕組みを作っていくことが必要であろう。

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 まとめとして、本研究を通して、ALS本来の症状以外に、複数の要因が連関し、ヘルパーとケアを巡って生じる「周辺症状」→ストレス・不眠・倦怠感・NIPPVの使用回数の抑制などは医療者には見えず、本来の症状との見極めが困難な場合があることが明らかになった。これは、身体生理学的な状態の悪化と、ケア変化・ヘルパーとの関係性に起因する様々な負担が悪循環に陥り、在宅での心理・人間関係的な問題点は医学的なアセスメントでは考慮しにくいということにほかならない。医療的ケアは、日常生活の延長線上にあり、医療者と介護者は患者の日常生活や個別性・医療的知識・悩みなどを共有していくことが必要で、自薦ヘルパーと医療者が二重給付の壁を越え、重なり合ってケアにあたる場と仕組みづくりが望まれる。

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 終りに、これまでの医療的ケアの議論の中心は、常時見守りの必要な「痰吸引」を軸に展開されてきた。「痰吸引」と比較すると、定時的な対応でたりるNPPVのケアは、人的投入の必要時間の量のみで考えれば、容易と思われがちである。だが、気管切開前の呼吸機能の低下やコミュニケーション能力が急速に落ち込んでいる時期にあっては、患者や介護者のケア負担が非常に大きいうえ、ヘルパーの撤退や在宅療養生活全体が崩れていく端緒ともなりうる大きな問題であることが見て取れた。従来、「医療的ケア」で議論されてきたのは家族が長時間担ってきた医療的ケアをヘルパーに代替させるための要件が軸となってきた。単身者の場合は家族がいない以上、長時間寄り添っているヘルパーが、患者の心身の変化、そこで生じている困難を医療と共有する必要がある。また、単身者のケースを通して、在宅介護の上で大きな部分を担いながら暗数となっている家族が果たす医療的ケアでの役割や調整機能、そして負担の大きさが明らかになってきた。家族介護を前提にした制度ではなく、医療的ケアの必要量と公的サービスの必要性を示すことは今後も課題であると考えられる。

参考文献
江川文誠・山田章弘・加藤洋子 2008 ケアが街にやってきた−医療的ケアガイドブック  (株)かもがわ出版
松石豊次郎・北住映二・杉本健朗 2008 医療的ケア研修テキスト−重症児患者の教育・福祉・社会生活の援助のために (株)かもがわ出版
厚生労働省難知性疾患克服研究事業 平成17年度〜19年度 特定疾患患者の生活の質   (QOL)の向上に関する研究班 ALSにおける呼吸管理ガイドライン作成小委員会(中島孝・小森哲夫) 2008 筋萎縮性側索硬化症の包括的呼吸ケア指針−呼吸理学療法と非侵襲陽圧換気療法(NPPV) 平成19(2007)年度研究報告書分冊
日本ALS協会(編) 2008 新ALS(筋萎縮性側索硬化症)ケアブック (有)川島書店
医療的ケア http://shoufukumemo.com/zenkoku/mc_what.htm


UP: 20090915 REV: 20160120
川口 有美子  ◇ケア  ◇障害者自立支援法  ◇NPO法人さくら会  ◇全文掲載Archives
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