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感情と倫理をめぐるノート

 安部 彰有馬 斉 2009/03/19
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20090319
安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働――異なる学知の交流から考える』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,248p. ISSN 1882-6539 pp.215-237


 はじめに

「感情労働としてのX」は「遍在」し「偏在」している。これは現代の──現代を生きる我々を取り巻く──事実である(1)。パム・スミスの著作の表題は『感情労働としての看護』であるが、今日おおよそ「労働」と名のつくもので「X」に代入できないものを探す方が難しいからである。
たとえば我々は「感情労働としてのホステス(ホスト)」はもとより、「感情労働としての営業マン」や「感情労働としての教師」、はては「感情労働としての警察官」などにも容易に思いを馳せてみることができる。かくして、このように感情労働は「遍在」している。
他方で、一般に感情労働は対人サービスにかかわるものと想定されているが、それだけではない。私には等しく(もっと)重要なことと思われるのだが、いわゆるハード・ワークでは感情を首尾よくコントロールできるかどうかが仕事を遂行/継続するうえでの賭金となっている。たとえばあなたが身体介助──ことに排泄介助──やトイレ清掃の仕事に就いている姿を想像して欲しい。私が何をいわんとするかはもはや明らかなはずだ。ともあれこの意味での感情労働も現在、一部の人間によって一手に担われているという点で「偏在」している(2)。
 さらに今日では、感情労働という実践は、もはやサービスの与え手と受け手という関係(閉域)だけにとどまらず、与え手相互のあいだでも必要かつ推奨されるべき実践となっている。もちろんそれはそれじたいに価値がある──内在的な価値がある──というよりは、その帰結に価値が置かれるからなのだが。すなわち感情を「適切」に統御することが、ひいては受け手が享受するサービスの向上につながり利潤を生むから、それは単なる「管理」ではなく「労働」というわけなのだが。
パム・スミスは、このたびの国際研究交流企画で、ケアワーカーへのケアの組織的なマネジメントの必要性と意義について講じてくれた。だがその着想は、彼女のなかにはかなり以前から──すでに『感情労働としての看護』のうちに──あった。そこでの彼女の主張(のひとつ)を私なりに乱暴に要約するなら、「ケアの担い手もまた別の誰かによってケアされる必要がある」となる。我々はたとえば、同書第5章における婦長──達人ナース──への視点の焦点化とその克明な描写のうちに、かかる主張の具体的な痕跡をみてとることができる。
 ここで彼女の主張の是非については問わないでおこう。問いたいことは別にあるからだ。段階を踏んでいこう。まず問いたいのは《そもそも他者のケアへと私を差し向けるものはいったい何なのか》ということ。しかしこの問いに答えることはおそらく彼女にとって造作もないはずだ。つまりそれは「共感」だと応じるはずだ。「理想の婦長の指導の仕方は、“些細な振る舞い” までチェックしてスタッフや学生の不安を作り出すものではありません。むしろ、“何をしているのかや、病棟でどう感じているか” に関心を持っています(3)」(Smith 1992=2000: 128、強調は引用者)。かかる応答はしかし、かつてはいざ知らず、いまではありふれたものとなっている──もちろんこのことは、その応答の意義を何ら減じるものではないが。
 近代の倫理学が理性を偏重し感情を軽視してきたことは、つとに指摘されてきた。しかるに近現代の倫理学においては、「感情論的転回」とでも名づけうるような事態が出来しつつある。そのような転回を推し進めた役者としては、近年再び脚光を浴びつつある徳倫理(virtue ethics)やケア倫理(ethics of care)の論者の名をあげることができよう。また私がこれまで研究対象としてきて、以下でとりあげるローティ(Richard Rorty)も、ベイアー(Annette Baier)──彼女はヒューム(David Hume)の研究者でもある──やシュクラー(Judith Shklar)に啓発されつつ、共感にもとづく(社会的)連帯論を展開している(4)。
 しかしながら彼女/彼らが主張するように、《倫理は感情と結びついているとして、それらはいかに結びついているのだろうか》。当然さらにこのように問われうるし、問われるべきだし、またじっさい問われてもきた。そして我々がここで問いたいことも、まさしくかかる問いの系統に連なるものである。
 そこで本稿では、かかる問いにたいする、あるアプローチからの応答をとりあげてみたいと思う。それは上述の主潮流とはいささか趣を違える、感情と倫理をめぐる現象学的アプローチである。かかる試みとしては、シェーラー(Max Scheler)の『同情の本質と諸形式』がつとに知られている。しかしここでは、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の『知覚の現象学』を批判的に読み解きつつ、独自の議論を展開している佐藤(2009)に注目する。その意義については次章で述べる。またあらかじめいっておけば、本稿は基本的にその議論の概要の紹介にとどまる。

1 ローティの反−基礎づけ主義的アプローチ

 事物の姿形は、その類似物との対照においてより鮮明となる。よって感情と倫理をめぐる、また別のアプローチについて簡単に概観しておくのがよいだろう。ここでは、佐藤の現象学的アプローチ同様、主流派である自然(本質)主義的なアプローチとは別なる道をゆくローティの反−基礎づけ主義的アプローチをとりあげる。その吟味をつうじて佐藤の現象学的アプローチの意義も明らかとなろう。

1-1 共感による「残酷さの回避」
ローティにおいて「正義」──社会のすべての成員が遵守すべきルールとしての正義──とは「残酷さの回避(avoiding cruelty)」(の普遍化)である。そしてそれは「連帯(solidarity)」によって達成される。だが、ここでいわれる「連帯」とは、いったいいかなる実践であるのか。

私が構想するユートピアでは、人間の連帯は「偏見」を拭い去ることや、これまで隠されていた深淵に沈潜することによって認識されるべき事実ではなく、むしろ達成されるべき、ひとつの目標とみなされる。かかる目標は、探求ではなく想像によって、すなわち見知らぬ人々を苦しみに曝された仲間とみなす想像力によって達成されるべきである。連帯は反省によって発見されるのではなく、創造されるのである。かかる連帯の創造は、遠くの他者の苦痛や屈辱の個々の細部にまで我々の感受性を拡張することによってなされる(CIS: ・・)。

 つまり「連帯」とは、「共感」──および「想像(力)」──のことである。より正確にいいなおせば、「他者の受苦への共感」(の拡張)である(5)。とはいえ引用に窺えるように、ローティにおいてこの「他者の受苦への共感」は、ア・プリオリな原理ではない。すなわち「残酷さの回避」という「正義」を人間本性としての共感能力によって正当化する──基礎づける──自然(本質)主義的アプローチではない。非歴史的な真理が実在するとの見解を斥け、実践──「行為者の観点の至高性(supremacy of the agent point of view)」(PS: 88)──を旨とするプラグマティスト/ローティは当然そのような基礎づけ主義的な立場をとらないし、とれない。その「他者の受苦への共感」はだから、あくまで「我々(リベラル)」の「経験的/社会学的事実」──以下「事実」と表記──にすぎない(6)。すなわちローティにおいては、《「我々(リベラル)」の多くは何の因果か、つねに/すでに他者の受苦に共感してしまっている》という「事実」を現時点においてさしあたり有用と思われる道具/手段とみなし、「残酷さの回避」の達成が目指される。そこでは、いかに想像力を駆使して「他者の受苦への共感」という「事実」を、いまだ「我々(リベラル)」ではない「他者」へと拡張し、「残酷さの回避」を達成するかが賭金となる。そしてそのためには「感情教育(emotional education)」の成否が鍵となるとされる(7)(HRS: 133)。


1-2 反−基礎づけ主義的アプローチの問題点
以上のローティの理説は、感情と倫理をめぐる自然(本質)主義的な見解よりも穏当なものだろう。少なくとも現時点において、両者の関係を実証(科学)的に基礎づけることは時期尚早だと思われるからである。とはいえローティの主張にも当然いくつかの疑問や批判を差し向けることができる。ここでは以下の二点を指摘しておく。

【A】「我々の多くは何の所以か他者の受苦につねに/すでに共感してしまっている」という「事実」から「残酷さを避けるべきだ」という「規範」はいかにして導出されるのか。

「〜すべき」という規範には、その対象となる行為への指令性がともなう。つまりその指令性を正当化する何らかの「原理」──普遍妥当性を有する根源的真理──が必要となる。ゆえにこの批判は(少なくとも)ローティにたいしては妥当である。ローティにおいては自らの命題──「残酷の回避」──を「原理」をもちだして正当化する──基礎づける──という道は当然とれないからだ。もちろんローティもそれを認めている。ゆえに「残酷さの回避」は、ただ自身を含めた「我々(リベラル)」にとっての究極的な信であると述べるにとどめ(CIS: ・・)、偶然的/因果的な「事実」に立脚したその信を「賭けるに値するオプション」(北田 2003: 131)として推奨するという道をとるのである。その推奨の話法は、おそらく以下のようなものとなろう(8)。
おそらく多くの場合、ひとが残酷なふるまいを避けているのはそうしたふるまいが苦痛をもたらすからであろう。つまりひとは受苦を不快と感じ、それゆえ「残酷さを避けたい」との欲求をもつのだろう。しかるに、この欲求は人間の非歴史的な本性などではない。それは、いまの「我々(リベラル)」は少なくとも有している特殊時代的/文化的な欲求にすぎない。けれども、そうした(特殊な)欲求はそれじたい──帰結主義的に──望ましい。じっさい、かかる欲求に導かれて「我々(リベラル)」は相対的に残酷さの少ない──平和で豊かな──社会を現に築くことができた。とすれば、そのような社会に住みたいと考えるならば、そうした「欲求」をひとはもつべきだろう、と。 
かくして、ローティにおいて残酷さを回避すべきことの理由は、「残酷さを回避したい」という人々の「欲求」と、それがもたらす(ありうべき)帰結に求められる。かかる説得はある程度奏功するかもしれないし、しないかもしれない。その成否は、ひとつには「残酷さ」をいかなるものと規定するか/すべきかにかかってもいるだろう(9)。ともあれ、ここで呈しておきたい疑念は別のことである。それは「我々(リベラル)」がいかなる因果性──偶然性の連続──のもとで、ローティが述べるような「幸運」──「我々(リベラル)」はつねにすでに他者の受苦に共感してしまっている──を浴するようになったのかという、その経緯/事実性についての記述がローティの著作にはほとんど看取されないことである。彼において「残酷さの回避」の理由がかかる「事実」に求められるとするならば、その「事実」の積み重ね──歴史──を記述することは自らの主張を裏書きし、説得的なものとするうえで有用でも不可欠であるにもかかわらず、である。このことはローティが依拠するシュクラーにおいては厚みのある歴史記述がなされていることと対照したとき、あるいは彼が「歴史主義者」をもって自認していることを勘案したとき、やはり不可解なことではあるだろう(10)。つまりローティは「我々(リベラル)」の「幸運なる偶然性」を歴史記述によって跡づけるという作業を──何故か──怠っているといわざるをえないのだ。ともあれ、そのことの我々にとって看過できない帰結は、彼の立論は共感と倫理の結びつきをいわば前提に成立しているがゆえに、我々の問い──《倫理と感情はいかに結びついているのか》──には何ひとつ答えてくれないということである。

 【B】共感は必ずしも他者の苦しみへと向かうわけではない。それは他者の憎悪にも向かうのであり、その意味で両義的である。だとすれば、いかにして共感を優先的に他者の受苦へと差し向けることができるのか。

他方で、いまひとつの疑念は「共感の両義性」をめぐるものである。つまり共感はたしかに他者の苦しみにも向かうが、他者の怒りや他者との距離(差異)に向かうこともある。たしかに、この疑念にも一定の理がある。じっさい、こうした共感(感情)のあやふやさが、カントなどの倫理学(者)によってそれが軽視されてきた所以でもあるからだ。たとえば川本隆史もかかる点に注目して、「感傷性(sentiment)」が「両刃の剣」であることに警鐘を鳴らしている(川本 2008: 123-124)。またその危惧が単なる可能性にとどまらず、9・11以後のアメリカにおいて現実のものとなったのは周知のとおりである(11)。
 以上、きわめて大まかにではあるが、ローティにたいする、ありうべき批判/疑念を二点提起した。しかしながらこれらに、ローティじしんは残念ながら明示的な応答を試みていない(12)。ゆえに、それへの応答を我々は独自に──別の仕方で──探究する必要がある。そのさい、以下にみる佐藤の議論はその格好の導きの糸となるはずである。「共苦」という「現象」の解明をつうじて「道徳と感情の関係」や「当為と感情の関係」、すなわち「道徳における感情の位置(づけ)」を明らかにしようとするその論考は我々の感興を大いに誘うからである。つまりローティと同じく自然(本質)主義を排しつつも、ローティにおいては手つかずのまま放置された問いを問うものである点で、本稿にてとりあげる意義/所以がある。現象学的アプローチは果たして、ローティにおいて遺された課題(【A】【B】)にいかに応じうるだろうか。

2 共苦の現象学的アプローチ

 たとえば、苦しみに喘ぐ他者を目の当たりにして、我々はその苦しみにも似た感覚を感じることがある。あるいは他者の残虐な行為にふれて嫌悪感を喚起されることがある。このように「感情のなかでも、同情はとりわけ道徳的な重要度の高いもの」とみなされているが、そのなかでもわけても注目すべきは「共苦」、すなわち「他人の苦しみに私が苦を感じる現象」(2009: 3)である。先の我々の経験にも、きっと共苦が関係しているはずである。じっさい、「残虐な行為を慎む最大の要因は、罰への恐れよりむしろ共苦であるように見えなくもない」(2009: 3)。
 こうした共苦は「良心の痛み」と考えられることがよくある。だとすれば、共苦が生じているとき、「すでに私は感情的次元において一種の道徳的行為への促し、もしかすると当為に類するものをすでに感じている」(2009: 4)のかもしれない。あるいはそれは当為と連接しないとしても、「他者を助けたいという欲求を動機づける重要な感情」(2009: 4)ではあるかもしれない。さらには共苦がそもそも道徳的なレベルに位置しないものであるとしても、「もし他者の内面を無視できないものとして私に提示するという役割を果たすものなら、それだけでも私が道徳的に行為することの認識上の手がかりを与えるものとして」(2009: 4)やはり無視することはできない。これらのいずれであるのかは、にわかに判然としない。とはいえ、にもかかわらず/だからこそ、共苦がいかなるものなのかを究明することには大きな意味がありそうだ。
 かくして倫理と感情の関係を探るには、共苦の分析へと向かう必要がある。その探究/分析の結論をあらかじめ示しておけば、次のようになる。

私が分析してきた「共苦」すなわち苦しむ他人と私の間で生じる実存間の共鳴は、自然的道徳感情といえるものではない。道徳的知覚というわけでもないばかりか、道徳のための特殊な他者知覚というわけでもない。物の知覚にも共通の、ひとつの知覚のあり方である。しかしそれは道徳感情ではないものの、独自の道徳的役割を果たしているのである。(2009: 46)

 以下では、ここで結論としていわれていること/論点を分節化しつつ、その遡及的な総合をつうじて佐藤の議論の詳細に迫っていくこととしよう。

2-1 知覚としての/実存間の共鳴としての共苦
 私は他者の苦しむ姿をみて、他者の痛みそのものではないが、その痛みにも似た不快な感じを感じることがある。このように共苦は感情的なものである。とはいえそれは「他者の苦しみを苦しむことである以上、他者の内面の認知という側面をもっている」(2009: 5)。ところで、共苦のような「同情」はその他の感情や知覚とはかなり異質なものであるように思われる。というのも「常識的に、通常の他者の内面知がある意味知的推論と考えられるのに対し、同情は明らかに感情的なもの」(2009: 6)だからである。また感情的なものは常識的には自然なものだとも思われている。こうした考え/常識によるなら、「自然がわざわざ道徳的であるための特別な感情を準備した」(2009: 6)ということになり、同情はやはりその他の感情や知覚とはかなり異質なものということになりそうだ。
 しかしながら佐藤によれば、「同情はこのような、自然が人間に与えた特別な感情ではない」(2009: 6、強調原文)。また同情に含まれる他者の認知も「他者を認知するための特別な知覚を備えているということではない」(2009: 6)。そうではなく、それは感情一般や知覚一般に認められる事象のひとつにすぎない。たしかに同情は「他者の身に自らを「置き移し」、他者の生を生きること」(2009: 6)である。だがそれはなにも同情だけに固有の知覚のあり方ではない。その論拠として、たとえばテレビゲームのキャラクターへの自己の「置き移し」、洗濯機がうなる音を模倣する子どもの姿があげられる。また「置き移し」や「模倣」といっても、そこでの主体(私)と対象(あなた)との関係は、主体(私)からの働きかけによって構成される能動的な関係ではない。つまり自己の過去の体験を対象のうちに投影し、それによって間接的に対象のあり方を模倣しているというわけではない。「むしろ対象の実存様態が私のそれと共鳴し、同様のものを私のうちに喚起し、私はそれを──私と他者に共通のものになった実存様態を──感じるのである」(2009: 8)。そしてまたこれも、知覚一般においてごくありふれたことである。
 とはいえ/だとすれば、問われねばならないのはまさに次のことである。「どうして私は物や他人の実存を感じることができるというのか」(2009: 8)。従来、この疑問には「感情移入(説)」をもって応えられてきた。すなわち、・「自己の内感」と・「自己の外観」との対応関係がまず知られ、それによって・「他者の外観」の認知から・「他者の内感」が推察されるとして、その問いは応えられてきた。具体的には──たとえばメルロ=ポンティのあげる例を用いれば──・「私=乳児の身体感覚X」と・「私は口をあけている」との対応関係がまず知られ、それによって・「あなた(母親)は私の指を噛もうと口をあけている(こと)」の認知から・「あなた(母親)の身体感覚X’」が推察されるといった図式である。だがメルロ=ポンティも指摘するように、この説明の問題点は・と・の対応関係の定立にある。というのも乳児は自分の顔を鏡でみたことがほぼ皆無だとすれば、・と・の対応関係を「観察によって知るという仕方を、乳児はとっていないと考えざるをえない」(2009: 11)からである。
 しかし、だとすれば、どのように考えるべきなのか。メルロ=ポンティ自身の応答はこうである。

メルロ=ポンティによれば、・の他者の身体、動作の知覚が、直ちに自他に共通の開口という動作の意味(主体の「志向」)として知られるというわけである。それゆえに乳児の身体のうちにその意味(開口志向)が喚起されるのである。内感的な身体(・ないし・)ではなく、乳児が自分において感じたことのある動作の意味としての志向(開口、ないし噛むことの志向)が直接外的に見られた身体動作(・)に結びつく。それが彼のうちに私の現在の志向を喚起することになる。(2009: 11-12、ただし表記を一部変更した)

 メルロ=ポンティはこのように、乳児が母親の指を噛むまねに即応するかのように開口するのは「大人の動作が最初から間主観的な意味をもつ」(2009: 11)からだと主張する。すなわち乳児は、生得的に──「身体図式」を媒介に──自他の行為(志向性)の同一性を知っているのだ、と(13)。しかし佐藤によれば、このメルロ=ポンティの主張についての解釈をさらに推し進めるなら、そのような素朴な生得説はとれない。そのさい鍵となるのは、「他者を実存として理解する」ということがいかなることなのか、またそこでいわれる理解がいかなる「理解」なのかということである。
結論からいえば、我々は他者(そして物)の「実存の仕方」──世界へかかわるという存在の仕方──を「共鳴的に理解」する。つまり「われわれは他人にも、物にも一種の実存の様態を見てとり、それを自分自身のうちに受け取って生き、そのことで対象の意味──その実存のあり方──を理解する」(2009: 15-16)。だがその理解は「知的な理解ではない」(2009: 19)。そうではなく我々は「他人の身体を相手の実存を象徴するもの」(2009: 24、強調原文)として理解するのである、と。しかし、だとすれば次の問いは当然こうなる。ここでいわれる「象徴」とはいったい何であろうか。
 「他人の身体とは実存の様態(を表わすもの)であり、それゆえに他人の身体を知覚しても、他人は単なる客観的物体ではないもの(もうひとりの主体)でありうる」(2009: 14)。このように他者の実存の共鳴的な理解とはまず、他者を客体の位置に貶めるような理解ではないことをまず確認しておこう。そのうえで、「他人の身体が実存を「表現する」(2009: 14)というとき、そこにはふたつの形式がある。ひとつは感情移入説が陥ったような「表現」の理解、すなわち「記号的表現」である。それは「もともと表現されるものと表現のあいだにつながりがなく、ひとが恣意的に表現されるものに表現を結び付けただけの恣意的、偶然的なつながりを意味する」(2009: 14)。たとえば、表現されるものとしての机と「机」という言語表現との関係がそれである。これにたいし象徴は「両者が偶然的でない関係をもつ表現の形式」であり、佐藤によれば、「他人の身体が実存を表現するというとき、メルロ=ポンティは明らかにこの象徴的な表現のあり方を考えている」(2009: 14)。つまり「ほほ笑みの行動と喜びの〔心理〕状態とは、世界に対する同じ態度を表わす」(2009: 15、〔 〕による補足は原文)とメルロ=ポンティが述べるとき、それは次のような事態をさしている。

ほほ笑みの行動も喜びの心理も、世界にかかわる「同じ態度」、すなわち同じ実存の様態を示している。つまりその様態とは、私が世界と調和的で、自分と世界に満足している状態であり、私のうちからその満足があふれ出てくるように、世界にむけて自分があふれ出てくる快活な気分である。ほほ笑むひとの表情はそのような実存のあり方の恣意的表現、すなわち記号なのではなく、そのような満足が形をとったものであり、その必然的表現としての象徴である。(2009: 15)

このように象徴関係においては、あらかじめ(「ほほ笑む」という)「行動」と(「喜び」という)「心理」のつながりを学んでおく必要はない。また「先天的な知、という想定を導入する必要もない」。「象徴的結合は表現と表現されるものの間に自然な意味的つながりがあるからである」(2009: 17)。だとすれば、先の乳児のケースも同様である。すなわち乳児は「噛む」という大人の行動を目撃すると同時に、それと(象徴関係において)むすびついた「ものをのみこむ」という実存様態をも直接理解する。いいかえれば他者(大人)「の実存様態との一体化、ないし共鳴による感得が生じる」、裏からいえば、「大人の実存様態……が乳児の実存に共鳴、憑依する」(2009: 19-20)。このようにして自らも、ごく自然に口を開けてしまうのだ、と。
かくして以上が「どうして私は物や他人の実存を感じることができるというのか」という問いへの回答、すなわち《我々は他者(そして物)の「実存の仕方」──世界へかかわるという存在の仕方──を「共鳴的に理解」する》ということの内実である。ところで、我々の問題関心は「共苦」にあるのだった。ではそれはいかに生成し、いかに倫理とかかわっているのだろうか。佐藤の議論をさらに追尾することとしよう。

2-2 共苦の生成
 「私はこのようにして他者の身体において他者の実存を生きる」(2009: 25)。ここでも結論からいえば、同じことは──多少の異同はあれども基本的には──共苦についてもいえる。だが、いくつか疑問が湧く。まず次のような疑問がある。

ナイフを突き立てられている他者の映像に私は痛みにも似た感覚を感じる。私の感じているのは他者の感じている痛みそのものではないし、痛みに何らかの意味で似てはいるものの、実際の痛みではない。ではこれは一体何なのだろうか。(2009: 25)

「私が他者において生きるのは他者の実存様態」であり、「他者の身体そのものを生きる」(2009: 25、強調原文)のではないのだから、その答えは明白である。私がここで他者において生きるのは、「痛みにさらされ痛みを受け入れる実存のあり方、痛みに身構え、痛みを耐える実存のあり方」(2009: 25、強調原文)にほかならない。つまりそのように(他者の)痛みに身構える態度を私自身がとるとき、痛みにも似たものが(私に)現前する。
とはいえ、さらなる疑問が生じる。「あるものに対し身構えるだけで、そのあるものが擬似的にであれ私に感じられるという主張は容易に受容しがたいかもしれない」(2009: 26)。だがこれは我々の日常においてごくありふれた事象である。たとえば「酸っぱいものを食べることを思い浮かべただけで口が酸っぱくなる」(2009: 26)とは、我々の(も)よく知るところである。このとき、もちろん酸味の刺激が生じてはいないから、酸っぱさそのものがあるわけではない。だが私は「それを予期し、それに身構える実存の体勢をとっている」(2009: 26)。そして通常、「酸味の刺激と酸味を迎え入れる実存の姿勢との両者が、すなわち環境と迎え入れる主体の態度の両者が、酸味の体験を形作っている」(2009: 26)。してみれば、酸っぱいものを思い浮かべるだけの場合、たしかに酸味の刺激は欠けているが「他の役者はそろっている」(2009: 26)。つまり「そのことによって、酸味の体験は擬似的で不完全な形ではあれ、構築される」(2009: 26)と考えることができる。他人の痛みの場合も同じである。
 とはいえ、もちろん他者の実存姿勢をなぞる場合でも、相手が感じている感覚の多様性に応じて私の実存姿勢も多様なものとならざるをえない。この場合、たしかに私の過去の感覚経験がそうした姿勢をとれることの必要条件となる。しかし縷々確認してきたように、「経験とそれに基づく推論だけで他人の感覚(の類似物)を身に引き起こすことはできない」(2009: 27)。だから、そうでなく、「それにふさわしい実存の姿勢を取ることによって、それが私の上に生じるのである」(2009: 27)。

2-3 共苦の道徳的位置
 では共苦もまた「実存間の共鳴」であるとして、それは倫理といかにかかわっているのか。それを明らかにするために、佐藤はまずシェーラー(1973=1977)の「同情(Sympathie)」についての分析を導入する。シェーラーは同情を四種類に類型化しているが、ここでの議論と関連するのは「感情伝染(Gef_hlsansteckung)」、「一体感情(Einsf_hlung)」、「共同感情(Mitgef_hl)」の三つである。
まず感情伝染と一体感情は、ともに「無意識的、不随意的過程」である点で共同感情と区別される。そのうえで前者では、「伝染した感情は他者の感情と同じ種類ものである」が、「あくまで私の感情であり、そういうものとして感じられている」(2009: 28)。つまりここでは、「伝染してきた〔他者の〕陽気さは私の陽気さであり、伝染した陽気さにあおられて浮かれるのは私である」(2009: 28、強調原文、〔 〕による補足は引用者)。これにたいし後者では、「他者の感情だけでなく、他者そのものも私と同一視される」(2009: 29)シェーラーによれば、かかる一体感情は動物的/本能的なものであり、その意味で感情伝染の「極限状態」(2009: 29)にほかならない。他方で、共同感情は「他者の感情を対象として認知し、その認知に基づいて生起する」(2009: 30)。そのさい、かかる認知を可能とするのは「追感得(Nachf_hlen)」であるとされる。たとえば、子どもに欲しがっていたおもちゃを買ってやると、子どもの喜びに私も喜びを感じる。このとき、「子どもの喜びは欲しいものを手にいれことによる喜びである」という(認知を可能にしている)のが「追感得」である。とはいえ、私の喜びは子どもと同じではない。私は子どもの喜びを喜んでいるからである。このように「追感得は他者の内面の認識であって感情」ではないが、「他者の内面をありありと意識しそれを現前化する認識」(2009: 30)ではある。つまり「前提である追感得の働きでこういう〔たとえば「悲しみ」といった〕他者感情の直接的な現前化がともなうから、「共同感情」と呼べるのである」(2009: 30、強調原文、〔 〕による補足は引用者)。
 さて以上のうえで、シェーラーによれば、「真の意味での同情」、すなわち「それ自身道徳的感情として働きうる」(2009: 31)のは共同感情だけである。というのも、ある感情が道徳的感情たりえるには「他人の感情を他人のものとして──つまり私のものではなく──意識していること」が要件となるからである。したがって他者の苦しみが引き金となって私のうちに生じた苦が「私の感情として問題にされる」にすぎず、その意味で「利己的な態度」(2009: 34、強調原文)にとどまる感情伝染や一体感情はそれじたい道徳的感情に数えることはできない(ただし後述のように、これらは「道徳的意義をもつ感情」[2009: 36]だとはいえる)。たとえば「同室の他人のいらだちが私に伝染的にいらだちを引き起こした場合、私は私の感情の原因となった他人の感情を取り除くべく行動するより、その部屋を出ていくことで気分を変えようとするかもしれない」(2009: 34)。というのもこの場合、「私の意識は他人のいらだちに向いているわけではないからである」(2009: 34、強調原文)。しかるに「共同感情としての苦を他人に感じている場合なら、私は他人のいらだちに意識を向けており〔つまりその人がいらだっていることを遺憾に思っており〕」(2009: 34、〔 〕による補足は引用者)、したがってそのいらだちを解消しようと動機づけられることだろう。かくしてシェーラーによれば、「共同感情だけが、他者の感情に対する価値判断を含んで」おり、「このことが、共同感情に道徳上の特別な地位を与える」(2009: 34-35)。では、「実存間の共鳴としての共苦」の方はどうか。それは道徳的感情であるといえるだろうか。
 まず「共苦においては、他者のそれと同じ実存様態が不随意な仕方で私においても実現される」のであったから、「感情も他者の感情と同じ種類のものである」(2009: 31)。その点で、感情伝染や一体感情と共通している。ただし共苦においては、一体感情のように「私は自分が他者であると感じているわけではない」(2009: 32)から、そこでの他者との一体化はあくまで「かのように」の水準にとどまっている。他方で、シェーラーの分類に従えば、共苦はたしかに感情伝染に該当するといってよい。とはいえ彼において「感情伝染と一体感情は連続的な過程」(2009: 32)ととらえられているから、両者は程度の差にすぎないともいえる。したがって、やはり共苦は感情伝染や一体感情と似かよったものといえそうである。またそれらと同様、共苦においても「他人の感情に対する価値評価が入ってこないから……他人の苦しみに対して憐憫等の感情や人助けといった行動が喚起されるとは限らない」(2009: 36)ということにもなる。
 しかしながらシェーラーは、感情伝染や一体感情はそれじたい道徳的とはいえないが、「一体感情が共同感情の前提になることを認めており、そういう仕方で一体感情が道徳的な感情(共同感情)を可能にしている」(2009: 36)と述べる。つまり共同感情は追感得を前提とするのだったが、この追感得はさらに一体感情を前提とするという。ここでは詳細は省かざるをえないが、いわれていることは要するに「他者への追感得は、他者の内面を知るのに同じ種類の体験をしたことがなければ何らかの代替手段〔一体感情〕によって自らのうちでその種の体験を擬似的に体験することを必要とする」(2009: 37、〔 〕による補足は引用者)ということである。そして同じことはもちろん、共苦にもあてはまる。
だが佐藤によれば、かかるシェーラーの主張は一体感情(あるいは共苦)が「共同感情に不可欠の前提だということではなく、共同感情の対象の他者の当の感情について直接体験をもたない場合にかぎって前提されるだけである」(2009: 37-38、強調原文)。つまりそこでは、共苦の道徳的意義も限定的/消極的なものにとどまっている。しかしながら佐藤によれば、共苦にはもっと積極的な機能がある。共苦は「別の仕方ではあるが道徳感情としての共同感情が生起することに貢献している」(2009: 38)。だとすれば最後に問われるべきは、その「別の仕方」がいかなるものなのか、である。
 まず、あらためて確認しておけば、「実存間の共鳴による共苦は他者感情についての価値評価ではない」(2009: 39)。したがってそれが「道徳的な他者とのかかわりへと移行するには、他人の感情を他人の感情としてとらえそれを志向することが必要である」(2009: 40)。つまりそのような態度変更が不可欠である。共同感情においては、かかる態度変更を可能にしているのは追感得であった。それにたいして共苦においては、ふたつの可能性がある。
 ひとつは、「共鳴による共苦を「良心の痛み」と解釈する誤解」(2009: 40)である。「共苦は他者の苦を原因とする苦でしかない。しかし「良心の痛み」は──他人の苦を前にしたこういう状況では──、他者の苦についての苦(あるいは他者の苦を見過ごしにすることの苦)という道徳的次元のものである」(2009: 40、強調原文)。だからそれは「誤解」にほかならない。我々はけれども日常的にそのような誤解をおかしている。そして何故そのような誤解が生じるのかといえば、我々の感情というものが畢竟、あまり明確なものではないからである。
 いまひとつの可能性は、共鳴をつうじて「自然的、自発的な形で、他者の苦痛への関心を喚起」(2009: 45)されることによってである。それは具体的には次のような事態である。

私が苦しむ他者の実存に共鳴したとしよう。その場合、私の意識は他者の苦に引きつけられ、結果として共同感情としての憐憫等の感情を感じることに至りやすい(もちろん必然でも不可避でもないが)。もし私が他者の実存に意識を向けなければ、共同感情を抱くこともなかったかもしれない。他者の苦に同情を抱いてしまって他者にかかわりになることは、ある意味煩わしいことではある。そのため私はそういう同情を抱かなくても済むように〔あえて他者が苦しんでいる場面に近づかなかったり〕することもある。〔しかし〕苦しむ他者を一旦意識してしまうと、同情への道が開けてしまう。苦しむ他者の実存との共鳴は他者の苦しむ実存を主題化することで、憐憫への近道となる。決してそれは憐憫を必然化するわけではないにせよ。(2009: 44、強調原文、〔 〕による補足は引用者)

こうした事態はもちろん、共同感情の前提となる追感得でも起こりうる。しかし追感得の場合、それはあくまで「無関心な態度」──対象の単なる認知──であるから、たとえば苦しむ他者とその傍らにある石を同時に認めたとき、「その態度にとどまる限り……他者の苦に優先的に意識を向け続ける動機が欠如している」(2009: 44)。ゆえに「追感得以前からあらかじめ私を動かしていた道徳的な意志に基づいて、他者心理への想像的感情移入による追感得を遂行しようとする」(2009: 44-45)、また別の動機が必要となる。しかるに実存間の共鳴の場合は、そうした外的な動機は不要である。というのも実存間の共鳴は、「偶然目に入った対象でも自然に私を引きつけ共鳴させてしまう」からであり、さらには「人間は実存間の共鳴の特権的な対象」(2009: 45)だからである。かくして、たしかに共苦は我々を当必然的に倫理へと差し向けるものではない。だがそれは、追感得とはまた別の仕方で、我々を「道徳へと促す(しかし強制はしない)、かなり特権的な力をもつ」(2009: 45)とはいえる。

むすびにかえて

以上、佐藤の現象学的アプローチを概観してきたが、我々の問い(【A】【B】)に即してあらためて振り返ったとき、そこからいかなる示唆をえることができるだろうか。
まず【A】については、自然(本質)主義を回避しつつも、共苦の機制とその倫理との結びつきにかんして、新たな興味深い知見を与えてくれているといえる。わけても第一に、共苦の生成が何ら特別な機制によるものではなく、人間の通常の認識の一形態にすぎないという知見は、「我々(リベラル)」の「事実」について考えるうえで示唆的である。しかし裏返せば、それは、共感できない者は「人間」ではないという、パーソン論的な線引き(と排除)に滑る危険性もあるが。そのうえで第二に、それが道徳感情へと転変するのは一種の「誤解」にすぎないとする見解は、倫理がいわば一種の幸運なる偶然/僥倖のようなものとしてあること──つまり基礎づけえないこと──を示唆していて、これまた興味深い。
だが【B】の問いにたいする応答としては、満足のいくものとはいえない。第一に、実存間の共鳴は当然、「共苦」だけでなく「共憎悪」というかたちもとるだろうからである。また第二に、実存間の共鳴が事物よりは人間に向かうことは示されているが、人間間──感情間──においてそれが(「怒り」などの別の感情ではなく)「苦しみ」へと向かう機制については述べられていないからである。ただしこれとて、それは一意に決定できないというのが答えなのかもしれないが。ともあれ本稿では、以上を含む諸論点にたいする吟味・評価は開かれたままにしておきたい。感情と倫理をめぐるその他のアプローチを含めた包括的な検討の用意が整いしだい、あらためて挑戦すべき課題としたい。

◆註
(1)本稿では、「倫理」と「道徳」をとくに区別せず互換的に用いる。「共感」と「同情」も同様にして用いる。また以下、ローティからの引用/参照は(略号: 頁)、佐藤からの引用/参照は(発刊年: ページ数)のかたちで示す。なお私は、本冊子にも掲載された研究交流会において、文字どおり数々の「放言」を繰り広げている。それらは一見、それぞれ無関係なものにみえるかもしれない(じっさい「散漫で、すいません」と自分でもいっている)。けれども(じつは)私は、すべては結びついているはずだとの確信をもっている。「われわれは、いかなることにおいても個々ばらばらであるという権利をもたない。すなわちわれわれは、個々ばらばらに誤ることも、個々ばらばらに真理をつかむこともできない」(Nietzsche 1959=1993 : 361、強調は原文)。その確信はとはいえ、現状では明確な像を結んでいないのもまた事実だ。機が熟さないうちに刈りいれた作物が往々にして貧相であるように、無理からに論じようとすると議論もより貧相なものとなる──散漫さがより増す──おそれがある。そこで、ここでは「感情と倫理」というトピックだけに注目することにしたが、もとより他の論点が重要でないと考えているわけではない。
(2)ケアを徹頭徹尾ハード・ワークととらえ、そこに胚胎する問題点を規範的な観点から検討した鋭利な論考として堀田(2008、2009)。堀田によれば、「ケア」は我々が「「せずに済めばよい」と感じられる負担である」にもかかわらず「ケアを必要とする他者を前にしたとき、それを「しなければならない」と感じるはずのもの」である(堀田 2008: 192、強調原文)。
(3)もちろんスミスはケアリングが「自然」と可能になるものではないことを強調し、そうであるがゆえに感情労働という概念に注目したわけだが、他者──その状況や感情──にあわせて自己の感情を適切に管理できるようになるためにも、やはり共感能力は不可欠である。
(4)ローティの連帯論を社会的連帯論と読み替えたうえで、その意義と限界を論究したものとして安部(2007)。
(5)だが、そもそもローティにおいて「連帯」とは、人々の「会話(conversation)」によって成立するものではなかったか。かつて『哲学と自然の鏡』において認識論を基軸とする「哲学」からの「解釈学的転回(hermeneutic turn)」が高らかに宣言されたとき、あるいは従来のリベラルな社会思想がその基礎に人間本性についての客観的な知識の探求を置いていたことにたいし、プラグマティストの希望はむしろ「客観性を連帯に還元する」(PP-1: 22)ことにあると述べられていたとき、「連帯」とはたしかにそのようなものを指していたはずである。だが先の引用には明らかに、そうした「会話による連帯」という考えはみられない。本稿では詳細は省かざるをえないが、ここには1980年代後半を画期とするローティのヒューム的転回が認められる(cf. 安部 2008b)。なお本稿におけるローティについての議論は安部(2008a、2008b)と大きく重複していることをお断りしておく。
(6)このことはたとえば、クリッチリーへのローティの応答に端的に示されている。「〔クリッチリーが考えているように〕私は「他者の苦しみについての感情的傾向」をはじめ、その他のいかなる「人間本性の普遍的事実」にも「道徳的義務の根源を求めようと」していない。そういう傾向というものはたしかにあるのかもしれない。だがそれは実に曖昧なものであって──質の悪い連中の苦しみには無関心であるかもしれないのであって──とても頼りになるものではない。人間の苦しみにはほぼ確実に必要以上にぞっとする人々が、今日ではきわめて多いという幸運にこそ感謝すべきだ」(RC: 42、〔 〕による補足は引用者)。
(7)ローティによれば、「連帯という感情は必然的にいかなる類似性や非類似性が私たちにとって顕著なものと感じられるかにかかわっており、何が顕著なものとして感じられるかは歴史的に偶然な終極の語彙の働きに依存している」(CIS: 192)。そして「我々(リベラル)」にとっては「残酷さを忌避する」ことこそ「終極の語彙」──究極的な信──にほかならない。ゆえに人々の艱難辛苦を描いた文学やルポタージュなどの「心を揺さぶる物語(sentimental story)」をつうじて、「伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないと考える能力、私たちとかなり異なる人々を「我々」の範囲のなかに包含されるものと考える能力」(CIS: 192)を高めることが感情教育の主要な課題となる。
(8)以下の予想されるローティの応答は北田(2003)によるところが大きい。
(9)この点について論究したものとして安部(2009)。
(10)この点については井上彰が明快に指摘している。「……たとえ、この残酷さを第一の悪徳と考えるというのが究極的ヴォキャブラリー〔終極の語彙〕であったとしても、なぜそれが特定の歴史をもって成立し得てきたのかは、(後期ハイデガーが存在の歴史を再構成していったように)検討していく必要があるのではないか。周知のように、シュクラー公準が公的な正義を語るものであり、しかも、それが私的言説と区別される規準となっている。この公準がローティが擁護するリベラリズムの根幹をなしている以上、なぜそうした規準が究極的ヴォキャブラリーとして「われわれ」リベラルのなかで育まれてきたのか──その点は歴史的に解明する必要がある。しかし、ローティの議論には、シュクラー公準が歴史的にどのように築かれてきたのかという吟味は、歴史主義者を標榜しているに関わらずほとんどしない」(井上 2001: 73、〔 〕による補足は引用者)。井上も指摘するように、たしかにローティにおいては「残酷さの回避」の起源となった宗教的寛容についても、ごくわずかな言及がみられる程度である(PP-3: 193)。また、まとまった歴史記述がかろうじてみられるのは、アメリカ旧左翼の伝統がベトナム戦争以降、いかに衰退していったかという経緯についてのみである(AOC)。だがそれとて、かかる歴史記述というより「文化左翼(cultural left)」批判にその眼目があることは否めないように思われる。
(11)フランス革命の分析をつうじて共感の危険性を指摘したものとしてArendt(1963=1995)。
(12)紙幅の関係上ここでは詳説を割愛するが、この疑念にたいして私自身はローティの思想内在的にその応答を試みている(安部 2008b)。
(13)「身体図式」とは、「私が自分の身体についていわば「無意識」的にもっている空間的位置関係の理解であり、身体運動はこういう空間理解によって可能になっていると考えられる」(2009: 12)。

◆文献
安部彰,2007,「社会的連帯・再考──他者の存在の〈保障〉と〈承認〉をめぐる/のための試論」『現代社会学理論研究』(日本社会学理論学会)1: 70-83.
――――,2008a,「R・ローティの「リベラリズム」──その論理構造の究明」『コア・エシックス』(立命館大学大学院先端総合学術研究科)4: 1-12.
――――,2008b,「リチャード・ローティの政治・社会思想──その論理構造の究明と批判的継承」立命館大学大学院先端総合学術研究科2007度博士論文.
――――,2009,「規範的社会理論の批判的検討──R・ローティの共通悪アプローチをめぐって」『現代社会学理論研究』(日本社会学理論学会)3.(公刊予定)
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安部 彰有馬 斉 20090319 「感情と倫理をめぐるノート」 安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働――異なる学知の交流から考える』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,pp.215-247.



UP:20090911 REV:
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