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「規範的社会理論の批評的検討――R・ローティの共通悪アプローチをめぐって」草稿

『現代社会学理論研究』3: **-** 日本社会学理論学会 20090331
安部 彰


※以下、あくまで草稿です

要約
社会学は、社会のありよう/なりたちを「認識」する学でもあるが、社会を「構想」する学でもある。現代のような多元化した社会においてかかる構想は、その身体や価値・信念においてそれぞれに異なる人々が、にもかかわらず共に生き、在るために要請される。だとすれば規範的社会理論の課題は、いかなる価値がまさにかかる要請に応えるものであるか、その社会の実現可能性も含め考究することにほかならない。
ところで、そうした「多元性の事実」を認めつつも、ある通約的な価値を措定する立場がある。我々は「互いに回避したい価値(共通悪)」のもとであれば連帯できるはずだというのである。その認識/方向性は基本的に正しいが、「共通悪とは何か(何であるべきか)」という重要な問題は残されたままである。たとえば絶対的な真理・価値なるものを想定することなしに―「多元性の事実」を起点としつつ―人々がいかに連帯しうるかを考究したR・ローティはそれを「残酷さ」―身体的苦痛と精神的苦痛―であるとする。
本稿では、ローティの理説とそれへの批判を検討しつつ「残酷さ」―精神的苦痛―の回避にまつわる重層的な困難について指摘する。そのうえでしかし不要な苦痛は減らされるべきだし、また減らすことができるとして、その道筋の提起を試みる。
キーワード:規範的社会理論、共通(最高)悪、リチャード・ローティ

 1.はじめに
 その身体や価値・信念においてさまざまに異なる人々が共に在ることを積極的に意味づける―基礎づける―「通約的な価値(共通善)」などないということ。また、そうした多様性は「自由」の擁護という観点から望ましいことでもあるということ。かかる「多元性の事実」は、現代の規範的社会・政治理論における認識上の起点となりつつある(1)。 
にもかかわらず、ある通約的な価値を措定する立場がある。「多元性の事実」は認めたうえで、しかし「互いに回避したいと思う価値(共通悪)」のもとであれば我々は連帯できるはずだというのである。かかる認識/方向性は基本的に正しい。共通善の名のもとに、むしろ苦難や抑圧が生みだされてきた、この我々の歴史―そして現在―を顧みるならば。
このように共通悪―受苦―の回避を社会規範として定位する立場をここでは「共通悪アプローチ」と呼ぼう。この立場には、本稿でとりあげるローティ(Richard Rorty)やシュクラー(Judith Shklar)の他に、自他の対称性を与件とする伝統的な/近代の倫理説において周辺的な位置に繋留されてきた存在者―子ども・老人・病人など、その「傷つきやすさ(vulnerability)」の点で非対称的な関係にある「他者」―への倫理的責務を説く「ケアの倫理(ethics of care)」や「最大多数の最小不幸」を掲げる「負の功利主義(negative utilitarianism)」を含めることができる(2)。
このアプローチの問題点はけれども、「共通悪とは何か(何であるべきか)」ということである。たとえばローティは、それを「残酷さ(cruelty)」であるとする。たしかに「残酷」なことはよくない、ほとんどの人はそれに同意するだろう。「しかし何が害することで、何がそうでないのか」(立岩 2006: 264)。これが問われなければ、その言明は空虚である。この点こそが、そもそもこの問題を文字どおり「争点」たらしめてきたのであるから。
かくして主題は壮大である。それに比して本稿でなしうることは、けれどもごくささやかにすぎない。すなわち第一に、共通悪アプローチのなかでもローティに対象を限定し、彼の思想とそれへの批判をあわせて吟味すること。第二に、そのうえで―いわばそれを梯子にして―残る課題について思索をめぐらすことである。結論を先取していえば、あらゆる受苦をこの世の中から完全に除去することはできないだろう。だが不要な苦痛を減らすことは可能だし、また減らされるべきである。そのためには何をどう考えるべきかについて、アフォーダンス倫理学の知見を援用しつつ若干の示唆を試みる。

2.「残酷さ」とは何か―シュクラーとローティ
まずはローティのいう「残酷さ」の内実を押さえることからはじめよう。ただしローティは「残酷さの回避」という着想をシュクラーに負っている(Rorty 1989: ID)(3)。そこで準拠点となったシュクラーの見解もあわせてみることにする。それによって、すなわちシュクラーとの対照をつうじて、ローティの「残酷さ」の特性がより鮮明となるはずである。
「残酷さとは何か」。シュクラーによれば、この問いはモンテスキュー(Charles-Louis de Montesquie)も懊悩した、文字どおり「難問」であった。しかるに、その難問にシュクラー自身は明快にこたえる。

残酷さを第一義とする(To put cruelty first)ということは、啓示宗教的な理解にもとづく罪の見解には与しないということである。〔というのも、その見解によれば〕罪とは、神の規則に違反すること、神に叛逆することだからだ。……しかるに、残酷さ―悲痛や恐怖をもたらすために、かよわき者に身体的な苦痛を意図的に加えること(the willful inflicting of physical pain)―とは、〔神ではない〕別の生き物(another creature)にたいする非道なおこないを指す。それは、それじたいで、またそれだけをもって最高悪と判断されるのであって、神やその他のいかなる高次の規範へ叛逆したがゆえにではない。〔つまり〕それは、残酷さが我々の通常の私的な生活、もしくは日々の公共的な営為の部分をなしているこの世界において下される判断にほかならない。残酷さを無条件に第一義とし、残酷なふるまいにたいするいかなる弁明や赦しも認められないとすることで、現実以外のいかなる秩序にも訴えることは不可能となる。〔すなわち〕最大の峻烈さをもって残酷さを忌避することは、聖書の教えとまったく矛盾しないが、それを第一義とすることは、啓示宗教の圏域の外部において残酷さをとりかえしのつかない事態と定位することにほかならない。それは人間の行為にたいする人間だけによる評決だからであり、その点で宗教とは一定の距離をおくものだからである。(Shklar 1984: 8-9、〔 〕は引用者による補足)

シュクラーにあっては、このように〈残酷であるとは、弱者にたいして悲痛や恐怖を与えるために身体的な苦痛を意図的に加えることである〉として、また「その回避」はあくまで現世的/政治的な規範として定位される。その背景には、歴史的現実、すなわち宗教戦争、そして公的暴力―国家による暴力―がもたらしてきた数々の惨状についての彼女の透徹した認識があるだろう。すなわちシュクラーによれば、そのような暴力―その帰結である残酷さ―は、各人の多様な「善」を単一の善、すなわち「共通善」として強制的に定立しようとするときに、つねに/すでに生じてきたのだった(4)。だが我々の社会が秩序あるものであるためには、各人が遵守すべき規範がやはり必要である。シュクラーはその規範/構想を「恐怖のリベラリズム(liberalism of fear)」と命名する。

 このリベラリズムはすべての政治的に活動しようとする者が獲得しようと努力すべき〈共通善〉を提供しない。だが、恐怖のリベラリズムが〈最高悪〉から出発しているのはたしかである。〈最高悪〉とは、わたしたちがみな知っており、できれば避けようと望んでいる悪のことである。その悪は残酷さであり、この残酷さが惹き起こす恐怖であり、恐怖そのものについての恐怖でもある。そのかぎりにおいて恐怖のリベラリズムは、歴史的にみれば必ずそうであったように、一種の普遍的な要求を、とりわけ世界市民としての立場からの要求をかかげる。(Shklar 1989=2001: 128)

 ここで注目すべきは二点である。第一に、「共通善」の代わりに「最高悪」―みなが最も避けたい悪という意味で「共通悪」―の回避が社会の規範として定置されていること。そこには、齋藤純一も指摘する次のような想定があるだろう。すなわち〈「共通善」をめぐっては各人の価値判断が一致をみることはありえない。けれども「人間であれば誰もが避けようとする反価値」、つまり「苦痛」であれば、我々はすべからくそれを避けようとするだろう。そうした人間の存在条件―人間が受苦的で/としてあること―に照らしても、かかる価値判断の一致を普遍的なものとみなすことが可能となるはずだ〉との想定が、それである(齋藤 2005: 75)(5)。また第二に、シュクラーがここであらためて自らの「残酷さ」の定義をより詳細なものへと改訂していること。すなわち「より強い者・集団が自らの(有形無形の)目的を達成するために、より弱い者・集団にたいして意図的に加える物理的な苦痛、第二次的には感情的な苦痛である」(Shklar 1989=2001: 128)といいなおされている。
では次にローティに目を移そう。まずは彼自身の言明をみよう。

彼女〔アイロニスト〕の考えでは、自らと種をともにする他者たちとを結びつけるのは、共通の言語ではなく、苦痛を被りやすいということ(susceptibility to pain)、とりわけ人間が動物と共有しない特別な種類の苦痛―屈辱(humiliation)―を被りやすいということのみ(just)である。(CIS: 92、強調は原文、〔 〕は引用者による補足)

 ここでローティが「人間が受苦的な存在であること」を社会的な紐帯とみていることは明らかである。すなわちそれを連帯の結節点とみなす点で、シュクラー同様、「共通悪」アプローチに立っている。だがそこには相違もある。第一は、齋藤純一も剔抉する以下のような相違である。シュクラーにおいて「残酷さ」は他者によって「意図的に」加えられたものにかぎられる。そこには他者の不作為によって生じる受苦、たとえば「貧困」などが含まれる余地はない。これにたいしてローティには、その余地がある。たとえば人間の私的な活動の制約条件として、「他者にたいして害を与えず、より恵まれない人々が必要とする資源に手を出さない」(CIS: IC)ことが課されているからである(齋藤 2005: 76-77)。また第二の相違は、シュクラーが身体的な苦痛にたいして精神的な苦痛を二次的なものと位置づけるのにたいし、ローティにあっては両者が同じ水準に定位されることにある。
それでは、ローティによっていわばその準位を上げられた「屈辱」とはいったいいかなるものなのか。引用にも示唆されていたように、それは人間という種に特有の「残酷さ」である。すなわち「人々がそのなかで社会化されてきた(もしくは、自ら形成してきたことを誇りに思っている)言語や信念の特定の構造を蹂躙すること」(CIS: 177)にほかならない。しかしでは、それは具体的にはどのようなことか。その手がかりは「再記述はしばしば屈辱をもたらす」(CIS: 90)との言明にある。ローティのいう「再記述(redescription)」とは言語の「馴染みのない使い方(unfamiliar uses)」のことを指すが、「アイロニスト(Ironist)」とはまさに「再記述をする人」にほかならない(6)。
ところで人々はたいてい自らが再記述されることを好まない。なぜかといえば、アイロニストは再記述によって物事はよくも悪くもみせることができると考えるが、そうした所作はそれじたい、あなたの用いている言葉や抱いている信念は―誰もが容易に手にいれることのできる―代替可能で陳腐なものにすぎないと宣告することに等しいからである(7)。そのような宣告はとても残酷に響くに違いない。というのも「人々に長引く苦痛を与えるのに最も効果的なやり方とは、彼らがもっとも重要だと信じていることがらを、無益で、黴臭く、無力なものにみせることによって彼らを辱めることだからである」(CIS: 89)。かくして以上を要すれば、ローティにおいて「屈辱」とは〈自らの価値・信念が別の人間によって貶められたと感じるときに生じるもの〉と規定することができよう。

3.ローティへの論難
 以上、シュクラーとローティにおける「残酷さ」の内実とその異同について確認した。ところで、かかる論点をめぐっては、いくつかの観点からの検討や論難が試みられている。わけてもギャンダー(Eric Gander)によるそれは、ローティによる「残酷さ」の拡張―「屈辱」の重視―と、それが内包する問題点を闡明したものである点で見逃せない(8)。そこで次に、かかるギャンダーの議論の骨子を再構成し解釈を付しつつ、その批判の要諦を詳らかにする。
 ギャンダーはまず、ローティのなかに共在する「残酷さ」についての見解をリベラリズムのふたつのバージョンとしてとらえなおす。第一のものはシュクラーの「残酷さ」の定義に則ったもので、そこでは「残酷である」ことは次のように理解される―便宜上、以下これを「シュクラー的リベラリズム」と呼ぼう。「弱者に悲痛や怒りを与えることを意図して(consciously intending)身体的な苦痛を加える場合、またはその場合にかぎり、そのひとは残酷である」(Gander1999: 69、強調原文)。これにたいして第二のものは「啓蒙主義的リベラリズム」とでも呼べるもので、行為(者)の意図にかかわらず、他者への身体的な加害は公的な問題とされねばならないと考える。
かくして両者のあいだには、ひとつの、しかし大きな差異がある。それは意図(の内実)をめぐる差異である。すなわちまず、他者に悲痛や恐怖を与えることを意図した行為が両者において許容されないことはいうまでもない。だが善き意図/目的にもとづいて、その結果(手段)として他者に悲痛や恐怖がもたらされる場合はどうか。たとえば宗教者が、より高次の価値―魂の救済―を相手にもたらすことを意図して、身体的な苦痛を―修業の名のもとに―もたらすことを認めるか否か。両者を分かつのはこの点である。つまり「シュクラー的リベラリズム」にはそれを許容する余地があるが、「啓蒙主義的リベラリズム」にはない。後者はその意図(の内実)に関係なく、あらゆる身体的な加害を容認しないからである。以下、この点について少しく詳しく補足しておこう。
まず「シュクラー的リベラリズム」がそうした余地を残すのは、その底流に、「何が残酷である」とみなされるかは、時代や社会・文化において相対的であるとの認識があるからである。つまり「人々はたいてい、自らの『善き意図にもとづいた(well intended)』行為は残酷とはみなされないという終極の語彙(final vocabulary)を自ら形成することができる」(Gander 1999: 69)からである(9)。他方で、「啓蒙主義的リベラリズム」のスキームもまた同様に、価値の多元性という考えにもとづいてはいる。しかるに、このスキームにおいては、あらゆる意図は「私事化」される必要がある。つまり他者に苦痛をもたらそうと意図するものではないかぎり、その行為の是非は問わないが、それによって引き起こされた帰結は―それがその対象となる相手に影響を及ぼすという点で―公共的/客観的なものとみなされる。そのうえで、「ある行為は残酷であるとする」(Gander 1999: 70)。つまりある行為は、それが他者に身体的な苦痛を及ぼすものであった場合には「残酷である」と認定されるのである。そしてギャンダーによれば、近年の著作においてローティが擁護しているのは「シュクラー的リベラリズム」ではなく、こちらの「啓蒙主義的リベラリズム」にほかならない(Gander 1999: 70)(10)。
 以上のうえで、さてギャンダーが問題視するのは次のことである。すなわち〈身体的苦痛にかんする同じことが果たして精神的な苦痛についてもいえるか〉というのがそれである。「屈辱」を「残酷さ」に含めることが果たして可能かと問うわけである。渡辺幹雄は、ギャンダーのかかる懐疑/批判の要諦を以下のような周到なパラフレーズによって剔抉している。

 例えば、イグナティウス・ロヨラは、物理的な苦痛を減殺することにおいてリベラルでありえるが、精神的な苦痛についてはそうはいかない。彼にとって、政治的な場面でカトリックを説教できないことは、大いなる屈辱である。彼の屈辱を取り除こうとすれば、我々は政治的空間において、彼の宗教的な活動すなわち自己実現を是認せざるをえない。ところが、彼の屈辱を減らそうとするかかる施策は、同時にプロテスタントの屈辱を増加させるであろう。(渡辺 1999: 251-252)

確認するまでもないが、ここでは誰も身体的苦痛を被っていない。焦点はあくまで「屈辱」(精神的苦痛)にほかならない。そのうえで重要なのは、「屈辱とは社会的なプラクティスのなかで発生する」(渡辺 1999: 251)という事実である。つまり「屈辱」は本来的にそのような特質を有するがゆえに、それを回避しようとする試みは、ローティが唱える「公私の区分(public‐private distinction)」―「政治」と私的な自己創造の区分―を不可能にする(11)。どういうことかといえば、すなわちこうである。すでにみたように、ローティにおいて「屈辱」が生じるのは、〈自らの信念が貶められたと感じる〉場合である。それはとりわけその信念が「終極の語彙」であった場合には最大のものとなるだろう。自らが真理とみなしているその信念を「私事化せよ」と要請されることは、その当人にとって重大な侵害となるはずである。なぜなら真理とは定義上、普遍的な―普遍化可能な―ものだからである。
かくしてギャンダーによれば、ローティによる「残酷さ」の規定には大きな難点がある。すなわちローティは一方で、「啓蒙主義的リベラリズム」を保持しようとする。それは、他者による物理的な侵害からなるべく自由な社会をつくりだすことを「政治」の唯一無二の目的とすることで、競合する「終極の語彙」を調和させるという難題を乗りこえようとする。他方でまたローティは同時に、他者に「屈辱」を与える行為を避けることを最も重要な目的とする「リベラル」から成る社会を思い描く。しかるに後者は達成されない。ゆえに、もしその矛盾を解消したければ「残酷さ」から「屈辱」を外すしかないだろう、と。

 4.ローティへの論難についての評価
では、かかるギャンダーの論難を我々はいかに評価すべきだろうか。まずいえることは、その批判には理があるということである。その理由はまずもって、「屈辱」の回避は我々の連帯の目的として掲げうる―通約的な価値となりうる―「政治」的な要請たりえないからである。このことは、ほかならぬローティ自身が―自らの「矛盾」に気づいてのことか否かは定かではないが―、「残酷さ」を身体的苦痛に限定してその理路を構成していた向きがあるという事実によっても支持されうる。
安部(2008)でも詳説したように、ローティにおいて「残酷さの回避」という価値・信念の普遍化は、「他者」との「連帯」―「他者」への想像的な同一化や共感―をつうじてなされる。つまり「他者」とのあいだの多種多様な差異を、被傷性という類似性と比較するならばそれほど重要ではないと考える能力を高めていくことをつうじて遂行される。このとき、ローティはたしかに「連帯」を支える我々の共感能力を「伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないと考える能力」(CIS: 192、強調は引用者)とみなしていた。しかるに、その後の「人権」論においては、そうした我々の「些細で表面的な類似性」(HRS: 129)は「我々人間と多くの人間以外の動物に区別なく」(HRS: 129、強調は引用者)認められるといわれている。けれども「屈辱」が「人間が動物と共有しない特別な種類の苦痛」(CIS: 92、強調は引用者)と規定されていたことは、本稿ですでにみたとおりである。してみれば、ここにローティの「残酷さ」の規定の変容―あるいは混乱―が存在することは疑う余地がない。つまりCIS(1989)を経てHRS(1993)が書かれる数年のあいだに、ローティのなかで「残酷さ」についての見解の変節―「残酷さ」の身体的苦痛への限定―があったと推察されるのである。だが、すでにそれはCISの論理にすでに内包されていたとみることもまた可能である。すなわち―以下の議論の詳細は煩瑣になるのでここでは繰り返せない、すなわち安部(2008)を参照していただくしかないが―ローティにおいて「残酷さの回避」はアイロニーを媒介として「苦痛を不快と感じる存在」である「我々」と「他者」との類似性が前景化されることによって達成されるが、ここでいわれる「類似性」には、じつは「屈辱」は含まれていなかった、いや含まれうる余地がなかったのではないか。なぜなら、すでにみたように―ローティも認めるように―アイロニーはむしろ「屈辱」を発生させるからである。つまり「屈辱」を回避しようとするのであれば、アイロニーによって前景化される「類似性」として措定可能なのは「身体的苦痛」のみとなるはずだからである(12)。
だが我々がギャンダーの批判を認容する理由は以上に尽きない。「屈辱」やより広い精神的苦痛をめぐる以下のような困難に思いを致したとき、それを認めざるをえないように思われるからでもある(13)。その困難は第一に、「屈辱の回避」の「根源的アポリア」とでも呼ぶべきもの、自らの「終極の語彙」の私事化を要請されるとき人々は「屈辱」を感じるのみならず、〈そもそも異なる価値や真理を信奉する他者が存在することそれじたいが自らの抱く価値にたいする侵害ともなりうる〉といったアポリアである。つまり「屈辱」は畢竟、自らと異なる価値を信奉している「他者」が存在していることそれじたいからも出来しうるということである(14)。また第二に、その困難は「精神的苦痛による連帯の両義性」としても現象する。たしかに人々は身体的苦痛についてはそれを連帯の結節点/通約項とできるだろう。また精神的苦痛においても、それを共有しうる―その苦痛に共感しうる―者のあいだでは連帯できるかもしれない。しかし身体的苦痛と精神的苦痛のあいだには決定的な断絶がある。それは、前者は客観的な測定が可能なのにたいし、後者はそうではないということである。またそのような特質を不可避的に有するがゆえに、精神的苦痛は―とりわけその苦痛の社会的な認知が低い場合には―苦痛の「正統性」をめぐって敵対する場合があり、さらには連帯を困難にしさえすることがある(15)。

5. 困難を深刻に受け止めつつ、その先を切り拓くために
かくして精神的苦痛をめぐる重層的な困難は、現実のこととして我々の前にある。してみれば、その困難を深刻に受けとめるのであれば、やはり「残酷さの回避」は〈身体的苦痛にのみ適用可能なミニマルな道徳的要請として了解される場合にかぎり、その妥当性を認めうる〉とあらためて結論せざるをえないように思われる。また、そのような結論には必ずしも消極的な面だけでなく、積極的な面もあろう(16)。しかしながら、そのことと精神的な苦痛の解消が「政治」の目的たりえないとすることは同じではない。つまり後者のようには考える必要は何ひとつない。とりわけ〈何が精神的苦痛であるかは主観的なもの、つまり個人において相対的であるがゆえに、公共的な論議にはなじまない〉との理由において、そのような結論が導かれるのであれば、私はそれに同意署名することはできない。さらには、〈苦痛をもたらした側の主観も含まれうることが、「精神的苦痛とは何か」をめぐる定義問題を厄介なものとしている一因である〉という想定がそこにある場合には、なおさら同意できない。
たとえば一例を挙げれば、東浩紀による次の主張/結論はまさにそうした理由/想定から導かれていないか。東によれば、精神的暴力に焦点を当てた「何をいじめと呼ぶべきか」といった類の議論は、絶えざる定義闘争に陥らざるをえない。したがって個人のではなく、社会設計―社会規範の構想―の観点に立つならば、そのような議論は失効せざるをえないのではないかとの認識を示す。しかるに他方で、「生物学的身体の脱構築不可能性」を重視する東は、「観念には回収されない、身体的な次元で」働く共感能力をプラグマティックに評価し、物理的暴力を被った他者に同情しない人はいないだろうし、またいたとしても「同情すべきだ」と説諭することは正義にかなっていると論じる(東・北田 2007: 263-276)(17)。
なるほど私は東による後段の主張には共感しつつも、やはり前段のような見解を承服することはできない。すなわち私の違和感は次の点にある。そもそも、ここでいわれる主観とは、いったいいかなる「主観」―誰―なのか、と。かりに先述のような想定の内部に東的な主張が位置しているのであれば、たとえば「あなたは私の行為によって苦痛をこうむったというが、私はそれを苦痛だとは思わない」とする行為者―加害者―の主観がそこには含まれていることになる。しかしそれは間違っている。ある行為の性質は、その行為が対称に及ぼす因果的効果によって決まるからである。とはいえ、これには補足が必要だろう。そう主張するにあたって私は、河野哲也(2007)に大いに示唆を受けている。
河野は、アメリカの知覚心理学者ギブソン(James Gibson)が提唱した「アフォーダンス(affordance)」概念の倫理学への応用をつうじて独自の理論構築を試みており、注目に値する。アフォーダンスとは、第一義的には、「動物の行動にかかわる生態学的な特性」を指称するものであるが、その要諦は、価値や意味の個別性と同時に実在性を主張する点にある(河野 2007: 20)。本稿では紙幅もありその議論を仔細にわたって紹介することはかなわないが、先の主張にかかわる論脈に限定して簡単に概括すれば、次のようになる。すなわち道徳的性質をめぐる倫理学説には、それを対象に備わっている性質とみなす立場(実在論)と主観的な感情や指令とみなす立場(反実在論)があるが、河野によれば、それらは〈我々の道徳判断が人間の行為を対象としている〉と想定している点では同じである。また「行為」はある対象に何らかの影響を与えようとする点で「動作」とは異なるが、ある行為の道徳性が問題となる場合、その行為の対象は人間―拡張したとしても生命・生物―である。また現代哲学がつとに指摘するように、行為はその結果の参照なしには定義されない。つまり結果とはその行為によって生じる対象の変化であり、それによってはじめてある行為は行為たりうる。してみれば、まず道徳的判断の対象とは、特定の誰かによって特定の誰かになされる行為にほかならない。そして行為のかかる性質を考慮にいれるなら、ある行為が善いか悪いかは、その行為の行為者ではなく、その行為によって影響を受ける人への効果(利益・不利益)によって測られるべきだということになる(河野 2007: 93-105)。
 河野自身はかかる見解にもとづき、セクシャル・ハラスメント(セクハラ)を例に自説を展開している。その議論は、とはいえセクハラという個別の事象にとどまらず、「残酷さ」をめぐる問題を総体的に検討する本稿の議論にもそのまま援用可能である。すなわちまず上述の見解が正しいとすれば、ある行為が苦痛をもたらすものであるか否かは、その行為者ではなく、その行為によって影響を受けるひとへの効果―不利益―によって決定されるべきだということになる。そのうえでしかし被害者の側の主観も当然複数ありえ、何が精神的苦痛であるかは一意的には決定できないという問題はたしかに残る。あるいは被害者がある行為によって苦痛をこうむったといえば、それはすべて認められるのかと問われもするだろう。これらにたいしては、まず「精神的苦痛とは何か」を性急に定義する必要はなく、むしろそれは開かれてあるべきだとする。またその場合には、被害者の決定の合理性が基準となるとする。つまりあるひとが、自らにとっての不利益を完全に知りうるならば、その行為の定義権は当然そのひとにある。だが、そうでない場合には、行為者をのぞく合理的な第三者による公共的な討議をつうじて決定するしかない。ただし、そのさい被害者の個別性に十分配慮しつつ、それをおこなうことが条件となろう。「不利益」とは一般的なものではなく、それゆえその個人が置かれている環境や来歴などの個別性を最大限考慮にいれないと、はかれないものだからである。
かくしてたしかに我々は、精神的苦痛―「屈辱」―を完全に除去することはできない。しかし、だからといって精神的苦痛が公共の主題から外されるべきだとはしない。むしろ当人の訴えるところに耳を傾けつつ、その外延をひろげていくことが肝要であると考える。それによって「不必要な」精神的苦痛もまた、漸進的にではあるが、減少していく可能性があるからである(18)。
たしかにそれは私的な実践としてはじめられるしかないかもしれず、そうした実践を積み重ねていく過程それじたいが、さらなる苦痛―二次被害―を生むこともあろう。またそれは―あるいは周囲がそのように当人に促すことは―ただでさえ苦しんでいるものに、さらなる追加負担を強いる所作ではある。だが、それに臆していては、「この」痛みが解消される日が彼方より到来するまで―ただし、それはいつやってくるかわからない―それとともにあるか、また別の仕方で解消しようとするしかないだろう(19)。それはそれでもちろん当人にとって悪くないことかもしれず、私もそれを否定しない。だがそのような想いと同時に、やはりそれではとてもやりきれなかったり、気分はたしかに優れるかもしれないが事態―不正が温存されたままであること―に何ら変わりはないとも思うのであれば、「残酷さ」の内容を豊かにしていくこと、その実践を未来へと投企しつづけていくというオプションじたいは放擲すべきではない。またそのような要請は、論理的にも必ずしも当事者にだけ差し向けられるものではない。人々のそのような被傷した姿のうちに「残酷さ」や不正なるものの存在を認める/認めてしまうのみならず、解消されるべきだともするなら、その「あなた」にもかかる「政治」に与する責任があるからである(20)。

【注】
(1)たとえばRawls(1993)、大澤(2008)。
(2)かかるアプローチに立つ者として、さらにはターナー(Bryan Turner)が挙げられよう(Turner 1993, 2006)。なおケア倫理について日本語で書かれた唯一のまとまった議論として品川(2007)、負の功利主義を批判的に吟味したものとして小泉(2008)、ターナーについてその思想の要諦を紹介/検討したものとして西原(2007)、後藤(2007)がある。
(3)以下、ローティからの引用/参照は(略号: 頁)のかたちで示す。
(4)思想史を専門とするシュクラーによるかかる歴史記述の厚みある内容については、何よりも当人の著作にあたるべきである(Shklar 1984、1989=2001、1990、1997)。そのうえで、彼女の思想の簡潔にして要をえた紹介にとどまらず、共通悪アプローチの系脈において独自の思索を紡いでいる論考として大川(1999)が大いに役立つだろう。
(5)自由を共約―本稿の用語では「通約」―的次元と非共約次元にわけ、ローティ−シュクラーの共通悪アプローチを後者に位置づける齋藤の議論にたいして、大澤真幸は「両者の間に移行的な関係があること」、つまり「共約的次元の自由は非共約次元のそれへと遷移していく」と指摘している(大澤 2008: 256)。かかる指摘をふまえていえば、「残酷さとは何か、何であるべきか」と問いつつ展開される本稿の議論は、大澤のいう遷移とまさに同じ軌道を描くものであるともいえよう。
(6)アイロニストとは、ローティの構想するリベラル・ユートピアにおいて推奨される人格類型である。それは次のような特性をもった人物のことである。「第一に、自分が現在使っている終極の語彙を徹底して疑い、たえず疑問に思っている。……第二に、自分が現在使っている語彙で表わされた論議は、こうした疑念を裏打ちしたり解消したりすることができないとわかっている。第三に、自らの状況について哲学的に思考するかぎり、自分の語彙の方が他の語彙よりも実在に近いとは考えていない。つまり、自分の語彙の方が他の語彙よりも実在に近いところにあり、自分以外の力に触れているとは考えていない」(CIS: 73)。つまり彼のいう「アイロニー(irony)」とは約言すれば、〈自己の信念・価値の本質主義的、あるいは論証(argument)による正当化を拒絶する態度〉にほかならない。
(7)たとえば、ある少年が後生大事にしていた遊具が、大人によって「がらくた」にすぎないとされたときや、裕福な友達の遊具と並び置かれて「つまらないもの」にみえるようになったとき。あるいは、ある原始的な文化がより進んだ文化によって征服されたときのことなどを考えてみればよい(CIS: 89-90)。
(8)Gander(1999)。「残酷さの回避」を取りあげたものとして他に、Kekes (1996)、Owen(2001)、Rothleder (1999)などがある。
(9)引用にある「終極の語彙」とはローティの用語で「人々の究極的な価値/信念」を指す(CIS: 73)
(10)ただしローティは、いかなる状況にあっても身体的苦痛は回避されなければならないとの厳格主義に必ずしも与しているわけではない。「オーウェンのように、私のリベラル・アイロニストは最高悪(summum malum)としての残酷さに「無条件に」コミットとしているというべきではない。死ぬに値するコミットメントと無条件なコミットメントは同じではない。場合によっては、最悪のことをなすのが我々の想像しうる最良のことである場合もあるからだ。たとえば町のどこかに時限核爆発装置を隠したテロリストの目の前で〔その在処を吐かせるために〕彼女の子どもに拷問を加える、といった。シュクラーから引用した言葉に共鳴するオーウェンや私のような人々は、「あらゆる悪は善の拒絶である」と、そして「もっともむずかしい行為はより少ない悪を選ぶことである」と述べたデューイにも同意すべきである」(DO: 114、強調は原文、〔 〕による補足は引用者)。
(11)「公私の区分」テーゼをはじめとする諸概念からなるローティの「リベラリズム」論の複雑な構造を究明したものとして安部(2008)。
(12)以上をふまえて、さらに穿った見方をすれば、さらに後の著作(AOC)における「文化左翼」批判をローティのこうした「変節」の帰結とみることもできよう。すなわちローティがその現実政治における立場として、「屈辱」の回避を重視する「文化左翼」には与せず、改良主義的左翼―富の再分配―の意義をあらためて強調するとき、そこに身体的苦痛の回避―貧困―にたいする彼の関心の限定を認めることもまた可能である。
(13)オーウェンは、アイロニカルな再記述の応酬は友人のあいだでとりかわされる場合には、相互的な関心や友愛の表現となりうると指摘しているが、しかしそれによってかかる「屈辱」の困難が回避されるわけではない(Owen 2001: 108-109)。またギャンダーへの再批判を試みている渡辺幹雄も、「ローティの構想するリベラルなコミュニティは、屈辱を解消することはできない」とし、我々になしうることはただ「不必要な屈辱」を避けることだけであるとしている(渡辺 1999: 256、強調は原文)。多元主義的なリベラルな社会において「屈辱」は、社会の成員のすべてがひとつの包括的な価値・信念を受けいれる以外に解消不可能であるとするならば、我々に残された道は、さまざまな価値・信念の重なり合い―ロールズのいう「重なり合うコンセンサス(overlapping consensus)」―を追求することだけだからである(渡辺 1999: 254-255)。我々にできるのは「不必要な屈辱」を避けることだけだという渡辺の見解には賛同したうえで、本稿以下ではまた別の道行を模索する。
(14)大澤真幸がこのような「根源的アポリア」について指摘している(大澤2003: 46)。かかるアポリアの要因を「偶然性」の不徹底さに求める大澤は、人々が「屈辱」を感じざるをえないのは畢竟、自らがたまたまこのような歴史的現実を生き、そこにおいてたまたまこのような信念を抱くようになったという自らの偶然性を引きうけることができないからであるとする。つまりひとは自らの信念の偶然性―そのアイロニカルな相対化―に耐えられないがゆえに、異なる偶然性の存在―つまり「他者」の存在―を否定せざるをえないのである、と(大澤2003: 50)。なお大澤によれば、このアポリアはまた「多文化主義 (multiculturalism)」にも抜きがたく存在する。
(15)このような困難のひとつの事例として吉野(2008)。そこでは、「GID(Gender Identity Disorder)の真贋」をめぐる当事者間の争い/問題が指摘されている。
(16)かかる積極的な側面としては、「身体的苦痛の回避」という価値/規範を社会的連帯論の文脈に置きなおしたとき、それが財の再分配に応じる有力な理由となりうるだろうことが挙げられる。
(17)ここでの東の議論が、現代社会における人間の欲望の身体という準位での変容/への回帰を論じた「動物化」論の線上にあることは疑いない。かかる東のローティ−プラグマティズムへの漸近、それを含めた人間の身体性、感情、情動に傾倒するポストモダン社会理論の動向の検討と評価もまた重要な課題であろう。
(18)以上のことは、「何が精神的苦痛であるか」との認識(事実性の認定)にかかわることがらであって、その苦痛が公共的に対処されるべきだという行為への指令(規範)を必ずしも導くものではない。だが事実認識のあり方を再規定すること、それにともなう事実性の拡張をつうじて、「残酷さの回避」はその所期をより十全に達成することが可能となるはずである。この点にかんして北田暁大も、私とはいくぶん異なる仕方ではあるが、同様の認識を示しているといえるだろう。「残酷さへの身体的な共感能力はむろん重要だけど、同時にある特定の出来事を「回避されるべき残酷さ」として記述、提示、議論していく場の設定も重要なわけです。いまでこそ児童虐待とかDVは身体的に忌避される残酷な行為として認知されているけど、かつてはそうではなかったかもしれない。それらを「回避されるべき残酷さ」として再記述していく試みの積み重ねが、価値理念への同意にとどまらない、身体的な共感を生みだしてきたと言える」(東・北田 2007: 263-276)。
(19)たとえば痛みに慣れること、痛みを「痛み」と感じなくなること、不感症になること。だが、そのような対処とて多くの場合、自分でもとりたくてもとれなかったりする。こうした「残酷さ」の事後のこと―痛みが現にこの私とともにあり続けてしまうこと、その痛みの刻印/記憶に人々はいかに/さまざまに対していくのか―について考究すること。かかる重要な課題へ取り組んだ初穂として山口(2008)。
(20)「何らかの対他的当為を公的に、つまり他者に向けて語る者は、自らはそれを可能ならば引き受けるべきだし、その用意がなければならない」(堀田 2008: 註40)。

【文献】
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(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)

*作成:岡田 清鷹
UP: 20090228 REV:
Rorty, Richard
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