2.「残酷さ」とは何か―シュクラーとローティ
まずはローティのいう「残酷さ」の内実を押さえることからはじめよう。ただしローティは「残酷さの回避」という着想をシュクラーに負っている(Rorty 1989: ID)(3)。そこで準拠点となったシュクラーの見解もあわせてみることにする。それによって、すなわちシュクラーとの対照をつうじて、ローティの「残酷さ」の特性がより鮮明となるはずである。
「残酷さとは何か」。シュクラーによれば、この問いはモンテスキュー(Charles-Louis de Montesquie)も懊悩した、文字どおり「難問」であった。しかるに、その難問にシュクラー自身は明快にこたえる。
残酷さを第一義とする(To put cruelty first)ということは、啓示宗教的な理解にもとづく罪の見解には与しないということである。〔というのも、その見解によれば〕罪とは、神の規則に違反すること、神に叛逆することだからだ。……しかるに、残酷さ―悲痛や恐怖をもたらすために、かよわき者に身体的な苦痛を意図的に加えること(the willful inflicting of physical pain)―とは、〔神ではない〕別の生き物(another creature)にたいする非道なおこないを指す。それは、それじたいで、またそれだけをもって最高悪と判断されるのであって、神やその他のいかなる高次の規範へ叛逆したがゆえにではない。〔つまり〕それは、残酷さが我々の通常の私的な生活、もしくは日々の公共的な営為の部分をなしているこの世界において下される判断にほかならない。残酷さを無条件に第一義とし、残酷なふるまいにたいするいかなる弁明や赦しも認められないとすることで、現実以外のいかなる秩序にも訴えることは不可能となる。〔すなわち〕最大の峻烈さをもって残酷さを忌避することは、聖書の教えとまったく矛盾しないが、それを第一義とすることは、啓示宗教の圏域の外部において残酷さをとりかえしのつかない事態と定位することにほかならない。それは人間の行為にたいする人間だけによる評決だからであり、その点で宗教とは一定の距離をおくものだからである。(Shklar 1984: 8-9、〔 〕は引用者による補足)
シュクラーにあっては、このように〈残酷であるとは、弱者にたいして悲痛や恐怖を与えるために身体的な苦痛を意図的に加えることである〉として、また「その回避」はあくまで現世的/政治的な規範として定位される。その背景には、歴史的現実、すなわち宗教戦争、そして公的暴力―国家による暴力―がもたらしてきた数々の惨状についての彼女の透徹した認識があるだろう。すなわちシュクラーによれば、そのような暴力―その帰結である残酷さ―は、各人の多様な「善」を単一の善、すなわち「共通善」として強制的に定立しようとするときに、つねに/すでに生じてきたのだった(4)。だが我々の社会が秩序あるものであるためには、各人が遵守すべき規範がやはり必要である。シュクラーはその規範/構想を「恐怖のリベラリズム(liberalism of fear)」と命名する。
彼女〔アイロニスト〕の考えでは、自らと種をともにする他者たちとを結びつけるのは、共通の言語ではなく、苦痛を被りやすいということ(susceptibility to pain)、とりわけ人間が動物と共有しない特別な種類の苦痛―屈辱(humiliation)―を被りやすいということのみ(just)である。(CIS: 92、強調は原文、〔 〕は引用者による補足)
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