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JUNKU大阪 トークセッション
森岡正博著『33個めの石―傷ついた現代のための哲学』(春秋社)出版記念

森岡正博×立岩真也「生死を決める、その手前で」

2009/03/27 ジュンク堂書店大阪本店
http://www.junkudo.co.jp/shop2.html


 *以下書店作成の広告

2007年、米国・バージニア工科大学で銃乱射事件が起きた。
キャンパスには犠牲者を悼む32個の石が置かれたが、人知れず石を加えた学生がいた。
33個めの石。それは自殺した犯人の追悼である。
石はだれかに持ち去られた。
学生はふたたび石を置いた。それもまた、持ち去られた。
すると、別のだれかが新しい石を置いた。
私たちにとっての33個めの石とは?
自殺、死刑制度、脳科学、環境問題、宗教の功罪、ジェンダー・・・。
いつのまにか傷ついてしまった私たちに、今、いちばん必要なことは何だろうか?

◆日時:2009年3月27日(金)18:30−
◆会場:ジュンク堂書店 大阪本店(堂島アバンザ)3階喫茶
◆受付:3階 東カウンターにて。電話予約承ります(TEL 06-4799-1090)
◆入場料:500円
◆定員:40名

◆パネラー紹介

森岡正博(もりおか まさひろ)
1958年生まれ。哲学者。大阪府立大学人間社会学部教授。人間学・現代倫理学などを担当。研究テーマは、生命学・哲学・科学論。従来の客観的な学問の枠組を超えて、自らを棚上げすることなく果敢かつオリジナルな思索を展開、人文学の領域を大きく押し広げる。著書に、『無痛文明論』『生命学をひらく』(以上、トランスビュー)、『生命観を問いなおす』『感じない男』(以上、ちくま新書)、『自分と向き合う「知」の方法』(ちくま文庫)、『宗教なき時代を生きるために』(法藏館)、『草食系男子の恋愛学』(メディアファクトリー)ほか。共著に『思想の身体 性の巻』(春秋社)。

立岩真也(たていわ しんや)
1960年佐渡島生まれ。障害をもつ人や重い病気をかかえる人たちの傍らで、「生きたいなら生きられる」社会への道筋を粘り強く探究する社会学者。現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に『私的所有論』(勁草書 房)、『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』『希望について』(以上、青土社)、『ALS 不動の身体と息する機械』(医学書院)、『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店)、『良い死』(筑摩書房)、共著に『増補 生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店)、『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス)などがある。3月25日に、筑摩書房から新刊『唯の生』を刊行予定。

 
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■cf.(作成:立岩)

◆立岩 真也 2009/03/27 「棚に上げる」JUNKU大阪トークセッション・森岡正博×立岩真也「生死を決める、その手前で」

◆立岩 真也 2009/03/ 『唯の生』,筑摩書房

◆森岡 正博 2009/02/20 『33個めの石――傷ついた現代のための哲学』,春秋社,200p. ISBN-10: 4393332911 ISBN-13: 978-4393332917 1575 [amazon][kinokuniya][JUNKUDO] ※

◆森岡 正博 2008/10/19 「書評:立岩真也『良い死』」,『日本経済新聞』2008/10/19
 http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20081022/1224676480

◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 2940 [amazon][kinokuniya][JUNKUDO]
 第1章「私の死」第2節「他を害さない私のことか」2「自分のために自分を決めているという説について」注15
 「(15)認知症になった私は、ところどころ、ところによっては大幅に途切れたり、変形したりしながら、過去との連続性を保っている。あるいは保とうとしている。他方、現在にいて未来の自分の死を決める私は、連続性を想定しながらも、それを断とうとしている。違う、不連続だと思うことと、つながっていると思うこと、思いたいことと両方がある。また、繋がっていると思いたかったり、断絶していると思いたかったりするのだが、思えないことがある。関係する議論をパーフィットがしているということになっている(Parfit[1984=1998])。ただ、あの大部な本に使われる道具立てでこうしたことが明らかになるのかどうか。むしろ関係がないと考えた方がよいように思う。連続性を感じたり、それにこだわったりするのはその人であり、また、そんなことと別に生きるのもその人である。他方、パーフィットはそのような現実から意図的に離れたところに議論を構築しようとする。この本の書評として、ウェブを検索するとすぐ出てくる森岡[1988b]、伊勢[1999]は、いずれも短い文章ではあるが、そんなことを考える上でも示唆的である。」
→森岡 正博 1988b(198811) 「デレク・パーフィットと死の予感」,『創文』294:14-18 http://www.lifestudies.org/jp/perfit.htm
 この注がある本文
 「認知症になった自分のこと、脳血管障害で意識がなくなった自分のことを予想して、そうなったらこうしようと決める私は、そうなった自分に対して家父長的に振舞っているのではないか。未来にその状態になった私のことをその手前にいる私は決めてよいのだろうか。意識のなくなった私のことを私が決めるとはどんなことだろう。あるいは現在ときっと大きく違う状態になった私のことを私が決めるとはどんなことだろう。それは自分のことを決めることであるのか。自分のことなのだからと自明のことのように語る人、というかそこに問いがあるとは思わず語る人も多々いるのではあるが、すこし考えてみるとこれは自明ではない☆15。
 まず、現在の私も未来の私も同じ私だというその同一性を疑っていけば、様々に疑うことはでき、たしかに疑わしくなり、同一性などないと思えてもしまう。けれども[…]」

◆2006/09/02 森岡研×立岩研・合同研究会 於:立命館大学
 記録式次第

森岡 正博 2006/09/01 「書評:立岩真也『希望について』」
 http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm#tateiwa
 『論座』2006-9:314-315 http://opendoors.asahi.com/data/detail/7531.shtml

◆立岩 真也 2002/02/25 「森岡正博の本」(医療と社会ブックガイド・13)
  『看護教育』43-02(2002-02):118-119(医学書院)

◆立岩 真也 2000/03/05 「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」
 『思想』909(2000-03):122-149 関連資料
 「★18 […]森岡正博が「姥捨山問題」について論じている(『生命学への招待』、勁草書房、一九八八年)*。「私が苦しむのがいやだという利己的傾向が姥捨山行為を生み、その姥捨山行為が今度は再び私を苦しめる。それにもかかわらず、姥捨山行為を生む原因となった利己的傾向を、私たちの多くは、決して克服することができない。…姥捨山問題が生じる状況において、正論の倫理学は不毛である。」(二四六−二四七頁)問題の源泉を、しばしば何か外側にあるもの、私(たち)ではないものに求めてしまうことに対し、そうではないのだと森岡は言う。この指摘は重要である。森岡は、後に、とくにこの部分が彼のこの最初の著書で引き継いで考えるに値する部分だとして、考察を継いでいくことになる。ただ、一人一人にあるものから考えようというこの方向は、かえって「欲望」「文明」(大文字の)「システム」といった、かなり普遍的なもの、一般化されたものを説明項としてしまうことにもなりうる。すべてが説明されるとも言えるが、それで終わってしまうことにもなる。(それは「欲望」が単一のものであることを意味しない。むしろ右の引用からもわかるように、複数の相反するものが同時にあることがふまえられる。ただ、両極の二つのものが立てられると、すべてのその二つのいずれかの割合での組み合わせで「説明」されてしまう。)私は、現実にはいくつもの仕掛けがあり、もう少し細かな多様な線が入っているだろう、まだら模様があるだろうと思う。(註(25)でも関連したことを少し述べる)。例えば「ケア」について語る「哲学的」「思想的」な言説の多くが、基本的に正しいことを語るのだけれども、そして聴くべきことも多いのではあるけれども――うるわしいものについて語ってしまう分、「姥捨山問題」を正面に持ってきてしまう森岡よりもさらに――関係や社会の構成、屈折、現に作動している力学、力関係を略してしまって、その結果、時に出口が違ってしまったりする。相当数の要素・部品の性質とその組み合わせについて考える必要があるのだが、それを十分に考えていくことができたら、そこから可能な社会のあり方を考えることができると思う。それは(「人文科学」との棲み分けにそうこだわることもないのではあるが)「社会科学」のする仕事としてなかなかおもしろい仕事だと考えている。
 『現代思想』二〇〇〇年三月号が「介護」を特集するが、それに掲載される論文では、このような視点からもいくらかのことを述べる。」


UP:200902 REV:20090305
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