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「「最低限のニーズ」は存在するか――とくに〈承認〉に焦点化して」

研究会 於:大阪府立大学 20090203
野崎 泰伸


報告の概略

人が人として生き存えようとするとき、もちろん生物学的な生存が必要であることは論を待たない。それが独力では得られない場合、もしも生きたいならば生きられるほうがよいとするならば、社会的なセーフティ・ネットによって生存や生活を保障すべきであろう。 ただ、私たちは経験上、「人として」生きるというとき、どうしても単なる生物学的な生存だけでは足りないだろうということも実感しているのではないか。そして、このことは多くの場合「生きたい」と思えるかどうかという問題にかかわってくる。本発表では、この「人として」生きるというとき、その最低限のニーズとは何か、という主題について考察する。その中でもとりわけ、心に傷を負うということ――PTSDやトラウマにかかわる傷――について焦点化し、その人たちが「人として」生きることを〈承認〉するということについて考える。

はじめに
 人が人として生きるということは、どのようなことであろうか。梶屋大輔は、生田武志との対談で、ひきこもりの青年たちの労働問題について、このように述べる。

 「生きていて楽しいとか、役に立ってるといった実感が持てない状態で、ただ目標のない中で、働けと言われても、全然イメージできない。引きこもっている状態でさえ、彼らはそれなりに自分を責めている部分もありますし、精神的にしんどい部分があります」(梶屋 [2008:205])

 同じ対談で梶屋は、「お金はないけれど人間関係はあるっていう状態は、まだ生きてる感じや楽しいという感じは持てると思うんですよね」(梶屋 [前掲:205])とも述べる。つまり、人が人として生きていくなかにおいて、そもそも人間関係を持つことができるということは、とても大きな要素になってくるはずだ。しかもそれは逆説的だが、人間関係の持てない/持つこと自体が困難な状態においてこそ、その重要性が実感として浮かび上がってくるように思われる。また、人とつながるのがそもそもしんどいとしても、「生きてる感じや楽しいという感じ」は味わいたいに違いない。
 私たちは、「人として」生きるというとき、生物学的な生存以上のものが必要であるということを意味している。そしてそれは、当人が「生きたい」と思えるかどうかに関する主題である。もちろん、「生きたい」と思えるかどうかは、社会的に構成されたりもする。たとえば立岩真也は、障害者や患者が生きようとするときに、彼らの「生きたい」と思う気持ちをくじく大きな原因として、社会的な財の分配の不公正さを挙げ、それを是正していくような精緻な論理を一連の著作において積み上げている(1)。「ただ生きて存在することを妨げるこの社会を、「生きたいなら生きられる」社会へと変えていく」(2)べきだとする立岩の主張に、まったく私も同意する。
 そのうえで、たとえばひきこもっている青年に向かって、そのようなことを言ったとしても、まったく通じないであろう。すなわち、「生きたい」とは思えない人たちのことを、立岩の論理ではうまく扱えないのだ(3)。「生きたい」と思う気持ちは、たしかに社会的に構成される部分があるが、それと同時にその人固有のものであったりもする。あるいは、社会的に構成されるといっても、それは財の問題だけではないはずだ。ここで私は「生を肯定する理由」について考えたいのではない。それは立岩も言うように、裏を返せば「死を肯定する理由にもなってしまう」(立岩 [2008:200])からだ。「生きることはよいことだ」とする主張は、注意が必要なのである。 しかし、そのことを踏まえたうえで、「生きるということに最低限必要なこととは何か」という問いの前で佇んでみることは必要であると感じる。生きることがそれ自体としてよいことであるかどうかはともかく、現に生きているならば死ぬまでは――たとえその死が自殺によるものであろうとも――誰もが幸せに生きたいだろうからである。 とはいえ、この「生きるのに最低限のニーズ」について思考をめぐらせることは厄介なことである。これはおそらく「最低限は人によって違う」という感覚によるものだろう。本発表ではまず、迂遠かもしれないが、数量化することが比較的容易だと考えられる財の問題について考え、それとのアナロジーで〈承認〉の問題について考えたい。

1 「生きるのに最低限の財」は存在するか/という問い
 憲法25条(第1項)には、次のように書かれている。  「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」  ここで包摂されるべき対象が「国民」だけでよいのか、など、この条文にも問題点はあるだろうが、ここでは措く。ここでは、この「最低限度の生活」に注目して議論を展開する。 この憲法の内容を具体的に規定するのが、生活保護法であり、第3章において8種類の項目が挙げられている(4)。現実的には、この生活保護法によって支給可能な金額が、生活をするのに最低限の金額であると考えられている。 しかしながら、原理的に「生きていくのに最低限の財」は決められるのであろうか。原理的には、生きていくために最低限何が必要かについては、事前には決められないのではなかろうか。 私たちが確認し得るのは、人が生きて存在するとき、いろいろあるにせよ、いまここまで生き延びてこれたという事実である。結果として生きてきたという事実から、遡及的に「この人がとにもかくにも生きてきた」中で、その財の量や種類を画定するよりない。事前に「最低限はどれだけで生き延びられるはずだ」というわけでは決してないはずだ。ここで、現実には事前に算定しなかったら、たとえば生活保護を支給できない、という反論があるかもしれない。しかし、この反論は的を射たものではない。なぜなら、そのことと、事前算定が正しいから支給する、ということとはまた違うことだからである。正当性という文脈においては、未来のニーズには必ず不確定な部分があるという理由から、いかに精緻に測ろうとも、正しいニーズを事前に知ることはできない。 生きるのに最低限なニーズは、存在するであろう。しかしながら、原理的にはそれは事前にはわからない。技術が向上すればわかるようになる類のものではなく、そもそもわかり得ないものである。事後的に生き延びてこられたことをもって、はじめてわかるものである。言い換えれば、死んでしまったときには、最低限のニーズが満たされていなかったと言えるだろう。また、それしか言えないであろう。事実を淡々と解釈するならば、このようにしかならないはずである。 また、最低限のニーズがこのようにしかわからないならば、論理的に「高価な嗜好」(5)もまた事前には決定不可能である。たとえば、「生活保護受給者が旅行に行くのは贅沢だ」などというバッシングがあるが、これは論理的に言って変である。そもそも贅沢かどうかは、実際に行ってみないとわからないし、答えようがないはずだ。「贅沢ではない」という意味ではなく、そもそも事前には贅沢かどうかは決められないはずである。にもかかわらず「贅沢だ」と断じるのは、矛盾しているはずである。「高価な嗜好」は、政治哲学では厄介な問題とされるが、それは「最低限のニーズ」が画定可能である、という仮定に由来するものである。 まとめよう。生きていくのにどれだけの財が最低限必要かは、原理的には決められない。それは、事後的かつ遡及的に認識されるよりほかない。だから、事前に最低限の財が決定されることは、本来はあり得ない話である。「生きるのに最低限の財」は存在するであろうが、事前にはわからず、事後的かつ遡及的に認識され得るものとして存在する。

2 「生きるのに最低限の〈承認〉」は存在するか/という問い
 1で確認したような「生きるのに最低限の財」に関する論点は、比較的容易である。他方、「生きるのに最低限の〈承認〉」のほうは、やや厄介に思える。この厄介さはどこに由来するものか。さきほど「私たちが確認し得るのは、人が生きて存在するとき、いろいろあるにせよ、いまここまで生き延びてこれたという事実である」と述べた。この「いろいろある」というのを具体的に考えようとすることが、〈承認〉するということを扱うまさに中核的な議論だからである。 財の必要性と〈承認〉の必要性との類似点とは、それらをなくしてその必要性が実感できるということであろう(6)。ただ、財の欠乏は、人々に生物学的な生存の危機を直接的にもたらすのに対し、〈承認〉の欠乏は、社会的な剥奪を意味する。言い換えれば、財の欠乏が一直線に生命の危機をもたらすのに対し、〈承認〉の欠乏のほうは、前述した「いろいろ」の具体的ななかみにかかわる。それが、〈承認〉を考える上での困難の大きな部分ではないか。 「人として」の人の存在を肯定する、というのが〈承認〉である、という言われ方がなされる。たしかにそうかもしれない。しかし、この「人として」という部分は、具体的に何かを明示するものなのか。たとえば、マーサ・ヌスバウムは「人間らしいよい生活」について、リスト化を試みている(ヌスバウム [2000=2005:92-94])。その1つに、「自分自身の回りの物や人に対して愛情を持てること。私たちを愛し世話してくれる人々を愛せること。そのような人がいなくなることを嘆くことができること。一般に、愛せること。嘆けること、切望や感謝や正当な怒りを経験できること」とある(ヌスバウム [前掲書:93])。しかしこれは、人が生きるための必要条件の1つであり、人として生きることの十分条件ではないだろう。これが満たせなければ人ではない、とも読めてしまうヌスバウムの議論は、優生思想に近づいてくるのではなかろうか。なんとなれば、ヌスバウムは、「正常な長さの人生を最後まで全うできること。人生が生きるに値しなくなる前に早死にしないこと」(ヌスバウム [前掲書:92])を「よき生」のリストに入れている。こうした「正常」や「生きるに値しなくなる」という語は、反転して「人でない=異常=生きるに値しない」というメッセージを発してくる(7)。人が「人として」〈承認〉をされてよい、というとき、このような注意が必要なのである。 私は、〈承認〉の内容それ自体は事前には画定できないと考える。それは、画定した途端、優生学的な作用があるという、どちらかといえば消極的な理由だけではない。誰が、どんな基準で〈承認〉すればそれがなされたことになるのかという記述が不可能ではないか、と思うのである。もちろん、このことは〈承認〉がニーズとして認められないということではない。そうではなく、〈承認〉の具体的な内容は、事前には当人でさえも完全にはわかりえない、と言っているのである。 〈承認〉の欲求というのは、やはりそれが欠乏しているから、必要条件が満たされていないから、としか言いようがない。しかも、そうであるとするならば、完全に〈承認〉が達成されることは論理的に不可能である。なぜなら、〈承認〉の欠乏した自己を経験し、感受してしまっていたのであり、「それ以前の状態」に遡及することは不可能であるからだ。 〈承認〉を根こそぎ破壊する経験は、当人にとってはとても壮絶なものである。それが個人的なものにせよ、あるいは社会的なものにせよ、当該の経験は当人の文脈でしか感知できない。そしてそれは当人の「生きたい」という願いをしばしば根底から奪い取る。せめて生きている間ぐらいは、生きることを否定せずに生きるほうが、当人にとっては楽なようにも思える(8)。 では、どうすればよいか。〈承認〉は、いまここに在る、「死にたい」と思っていようが、そのような在り方でいまここに生きて在る、そのことによってすでになされていると信じるよりないのではないか。実際には、そのような〈承認〉はないのかもしれない。しかし私は、あるとすればそのようなものであり、なおかつそれに賭けてみるしかないと考えている。 端的に言えば、身も心もズタズタにされたと人が思うとき、「生きる希望」を失っている。「死にたい」というのは、「生きる希望」がほとんど奪われているのである。いや、この表現は的を逸しているかもしれない。「生きていることそのもの」が希望ではなく、絶望であると言ったほうがよいのかもしれない。つまり、「生きていればいいことあるさ」なんていう気休め的な励ましを、当人はきちんと気づいているのである。いいことがあるかどうかわからないことまで含めて、気づいているはずである。だとすれば、私があなたを〈承認〉することで問題が解決するわけではなく、むしろ、「あなたが〈承認〉されていないと感じること」を引き受けようとすることしか、現場ではできないのではないだろうか。むろん、それで十分なわけではない。しかし、気休めよりはまだマシであると感じる。 自殺すれば、あるいは、関係する他人を殺せば(9)、たしかに楽になるかもしれない。ただ、自殺企図を繰り返しながらも生き残ってしまっているならば、むしろ私はそこに希望の可能性を見出したい。たしかに、私が希望と感じるものも、当人には苦痛なのである。だから、自殺を禁ずることも、立ち上がれと言うことも、周りにはできない。「生きている」という希望が、当人には絶望でありかつ苦痛であるなら、「合理的」なやり方で絶望や苦痛を軽減することは困難である。ただ、周りは当人が生きていることを希望であると、無根拠に信じることしかできないのではないか。そして、そのように思い、寄り添うことしかできないのではないか。 いまここに生きて在る、ということを無条件に肯定すること、その可能性に賭けてみること、それが希望なのではないか。そして実践的には、そのようなことが現実に起こっていることを実際に肌で感じることもまた、重要なのではないか。たとえば現実には、重度の障害者が生きて在る姿は、生きることすら絶望と感じるような人に弱弱しくも灯りをともすのではないか(10)。 まとめよう。〈承認〉を、「いまここに生きて在ることによってすでになされている」と考えることに根拠はない。誰が、どのような理由でそのような根拠を与えようか。ただ、そのように考えることによってしか「生きる」という可能性に賭けることが難しいように思えるから、そのように考えるだけである。ましてやそのようなものに最低限などというものは考えられない。「いまここに生きて在ること」こそが絶望だと思う人に、それが希望であると論理的に主張することなどできない。ただ、周りがそれを希望であると信じるしかない。しかし、そう信じられなくてもおかしくはないほどに、この社会はあまりにも残酷すぎる。少なくとも、「いまここに生きて在ること」を無条件で肯定できると実感できる場所を社会に作っていかねばなるまい。また、そのような価値観によってこそ、たとえば差別は絶対に許されないことだとか、人の生きる意味を根底的に剥奪するような行為を絶対にしてはならないとかいうことが意味をもってくる。単なる「お説教」ではないような、「どういう社会が望ましい社会であるか」について考えることが必要なのである。 おわりに  鳥山敏子は、次のように述べている。  「子どもが自分の身の危険を感じたり、自分がいいたいことがいえなかったり、したい ことがどういうことかわからなくなったりということでは、その子にとって親はいなか ったことになります。子どもが子どもとして受け入れられる、また、無条件に、その存 在を肯定される、生まれてきたことが祝福され、その存在がとても大切に思われて、そ こにいる。そういう居場所があってはじめて子どもが子どもとして存在できるのです。 親とは、そういう居場所を保証することのできる人のことだと思います」(鳥山 [200  9:25-26])  鳥山の言うような親子の関係が子どもに「無条件に、その存在を肯定」するようなことになるかどうかは、わからない。かつ、そこには血縁中心主義や、ジェンダーの問題も隠されているように思う。ただ、鳥山の趣旨の肝が「無条件に、その存在を肯定される」ことだとすれば、それには同意できるし、それを求めてよいのは子どもだけではない(11)。すべての人が「無条件に、その存在を肯定され」るような社会こそ、〈承認〉を考える上で最も必要なものである。そして、それはもはや「どういう社会があるべき社会なのか」という、その臨界点を示すものであろう。だからこそ、そのような社会が「正しい」と言える論拠は、これ以上はない。ただ、そう信じるのみ、いわば、「来たるべき希望」なのだ。


(1) 1997年の『私的所有論』以来、立岩の仕事は従来の社会学だけではなく、社会哲学、規範理論、生命倫理をまたいだ学際的思考としてもっと評価されてよいと私は考える。
(2) 立岩 [2008]の表紙折り込み部分より。
(3) これは、立岩の論理を批判したり、私との主張の異同を確認したりということではないように思う。むしろ、立岩が言っていないところを私は言おうとしているだけではないのか。「例えば、取り返しのつかない危害を加えてしまうこと、それに関わる責任の問題をどう考えるか。やはり徴収し分配することができないとされる関係やその関係の中にあるもの、また帰依や帰属をめぐる事々をどう考えるか。これは別の経路から同時に考えるべき大きな主題群として残される」(立岩 [2004:30])。本発表で扱う〈承認〉の/をめぐる問いも、「徴収し分配することができないとされる関係」についての問いである。
(4) 生活扶助、教育扶助、住宅扶助、医療扶助、介護扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助の8種類である(生活保護法第11条第1項)。
(5) 政治哲学において話題にされる。要は分配的正義の議論で「贅沢」はどう扱われるのか、という主題である。
(6) ただし、渇望状態においては自らの選好を低く見積もってしまういわゆる「快活な貧農」あるいは「飼いならされた主婦」の問題もある。これにかんしては野崎 [2006]で少し論じた。
(7) ヌスバウムは、リベラリズムの思想家ということになるのだろう。私は、リベラリズム、とりわけリベラル多文化主義と優生学・優生思想とは論理的な結託関係があると考えているが、これは今後議論を詰めるべき検討課題である。
(8) そのかわりに、「死ぬことへの恐怖」が現れるかもしれない。
(9) 本日の小松原報告が関連?
(10)もちろん、そんなことしなくてもよい社会が、目指されるべき社会であろう。しかしながら、現実に生きることそのものが絶望だという人の場合、「ただ生きて在ることが肯定される」ということを、自分自身ではなくても、そういう体験を目の当たりにすれば、変わってくる可能性もある。
(11)これに伴って、「〈承認〉を感じ取るために、原初的な〈承認〉は必要か」という問いは立ち上がる。私は、規範論的には必要ないと思っている。つまり、私が考える「あるべき社会」においては、それは要請される必要がないようなものである、ということである。ただし、あまりにも不正義な世の中――傷ついた人がそのことによって生きることが困難である世の中――においては、原初的な〈承認〉は「方便」としてその存在を否定されるようなものではない。

文献
梶屋 大輔 2008 「引きこもりと労働――梶屋大輔インタビュー」(有限責任事業組合フリーターズフリー編 [2008:197-209])
野崎 泰伸 2006 「青い芝の会と分配的正義――誰のための、何のための正義か」(大阪大学大学院医学系研究科 医の倫理学教室 2006 『医療・生命と倫理・社会』Vol.5,124-135)
Nussbaum, Martha 2000 Women and Human Development: The Capability Approach(=池本幸生他訳 2005 『女性と人間開発――潜在能力アプローチ』,岩波書店)
立岩 真也 2004 『自由の平等――簡単で別な姿の社会』,岩波書店
        2008 『良い死』,筑摩書房
鳥山 敏子 2009 『居場所のない子どもたち――アダルト・チルドレンの魂にふれる』,岩波書店(初出は1997年。引用は2009年岩波現代文庫版)
有限責任事業組合フリーターズフリー編 2008 『フリーターズフリー』Vol.02,人文書院


作成:石田 智恵 更新:
UP: 20090203 REV:
労働  ◇全文掲載 
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