貧困と不健康の悪循環は、近代公衆衛生が進展していく過程で取り組まれた課題であるが、第2次世界大戦後福祉国家の展開のもとで、相対的に忘れ去られた課題となっていた。しかし、福祉国家のもとでも、社会階層間の健康格差がむしろ拡大していることを英国のブラック報告ははっきりとしめした(Working Group on Inequalities in Health, 1980)。この報告はすぐには政策形成には結びつかなかったが、健康格差について欧州の関心を高めることとなり、実証・理論両面での議論がその後欧州では展開していく。
1990年代ではWHO欧州地域委員会が格差縮小目標を打ち出し、1997年ブレア労働党政権の成立直後に設置されたアチソン委員会は、この問題についての総合的な検討を行った。一方、米国においても1998年健康乖離解消策が当時のクリントン大統領によって打ち出されるなど新たな進展を見せた。欧州各国では程度の差はあるが、総じて健康格差についての関心が高まり、2005年に英国がEU議長国となった際には、健康格差サミットを開催している。
では、英国と米国ではどのような展開を示したのであろうか1)。両国は、社会階層と健康についての学術的検討の蓄積が多くなされ、また医療経済学も発達している。そうして、2000年前後に健康の格差(inequalities)(英国)または乖離(disparities)(米国)に関する公共政策を形成してきた。これら二カ国における政策展開をかいつまんで述べ、「誰の格差」か、そして「何の格差か」ということで対比させてみたい。
では、米国の場合はどうであろうか。米国では、1985年にヘクラー報告が人種による健康乖離を指摘し、以後保健福祉省にマイノリティ健康対策室を設置するなど、人種間の健康乖離対策がマイノリティ健康対策として徐々に展開してきた。このことは、1990年に策定された米国の健康対策の総合目標である「健康な人々2000」に、健康乖離の縮小が述べられたことにもみて取れる。1998年には、クリントン大統領がエスニシティによる健康乖離対策の推進を表明し、1999年には公民権委員会が連邦のより積極的な関与を求めるなどの動きがあった。
2000年には「マイノリティの健康と健康乖離についての法律(公法106-525)」が成立し、全国健康研究機構(NIH)のマイノリティ健康研究室が、全国マイノリティ健康・健康乖離研究センターに格上げされるなど研究面での強化が図られた。また同年改訂されてできた「健康な人々2010」では、健康乖離の解消が目標とされた。2003年からは連邦の医療サービス研究所(Agency for Healthcare Research and Quality )が、「医療乖離報告」を発行するようになった。
米国で言われている健康乖離とはどのようなものであろうか。必ずしも一致した見解があるわけではないが、たとえば健康乖離集結に向けた全国協議会(National Partnership for Action to End Health Disparities)は、以下のように述べている。
健康の乖離とは、米国におけるマイノリティと非マイノリティの健康状態の間で持続している差のことである3)。
ここでは、健康の乖離がマイノリティと非マイノリティの間の差としてはっきりと位置づけられている。
では、何の乖離が問題とされているのであろうか。
アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック/ラテン系、アメリカ・インディアンとアラスカ先住民、アジア系アメリカ人、ハワイ先住民と太平洋諸島住民、では、乳児死亡率、心臓血管疾患、糖尿病、HIV感染症とAIDS、がんへの罹患率、がより高く、予防摂取率、がん検診受診率がより低い。
ここでは、健康状態の乖離が打ち出されている。ではこの対策はどうであろうか?英国のように社会経済の格差が問題となるのであろうか。実は、この点では、米国の文脈はまったく異なってくる。すなわち、乖離の原因の主要な問題は医療のあり方に帰するものとして議論されていく。
(健康乖離の)原因は複雑であるが、もっとも主要な要因は、ケアへの不適切なアクセス、標準以下のケアの質、である。
すなわち、健康乖離の対策としてなによりも医療サービス(といってもこの場合予防等も含めた広い意味での医療だが)へのアクセスとその提供場面での質の差異が注目されている4)。
Braveman, P., & Gruskin, S. (2003). Defining equity in health. J Epidemiol Community Health, 57 (4), 254-258.
Department of Health(1999) Reducing Health Inequalities: An Action Report. London: DOH
Diderichsen, F., Evans, T., & Whitehead, M. (2001). The Social Basis of Disparities in Health. In T. Evans, M. Whitehead, F. Diderichsen & M. Bhuiya (eds.), Challenging Inequities in Health: From Ethics to Action (pp. 13-23). New York Oxford University Press.
Graham, H. (2007). Unequal Lives : Health and Socio-Economic Inequalities. Maidenhead: Open University Press.
松田亮三編著(近刊)『健康と医療の公平に挑む』勁草書房。
Whitehead, M. (1990). The Concepts and principles of equity in health(EUR/ICP/RPD 414 7734r). Copenhagen: World Health Organization, Regional Office for Europe.
Working Group on Inequalities in Health (1980). Inequalities in Health: Report of a Research Working Group. London, Department of Health and Social Security.
1)両国の健康格差対策そして医療格差対策の詳細については、松田(近刊)を参照されたい。
2)もちろん人種や出身地域による格差など、多様な文脈で議論されているが、政策において健康格差が語られる中では、これらの議論が前面に出されている場合が多いように思われる。
3)National Partnership for Action to End Health Disparitiesのウエブによる http://www.omhrc.gov/npa/templates/browse.aspx?lvl=1&lvlid=13. 以下の引用も同ウエブからのもの。
4)これは政策議論においての注目を述べたものであって、学術的にそのような見解が定まっているということをここで主張するものではない。