フレデリック・ケック講演会「鳥インフルエンザの人類学的研究」
報告
近藤 宏 20081210
2008年12月4日、立命館大学内の末川記念館第2会議室で、フレデリック・ケック[Frederic KECK]さんによる「鳥インフルエンザの人類学的研究――SARSから鳥インフルエンザへ」と題された講演がGCOE生存学創生拠点主催で開催されました。
フレデリック・ケックさんは、フランスの国立科学研究所[CNRS]に在籍する弱冠34歳の若手の人類学者で、現在は香港を調査活動の拠点としています。それ以前には哲学を学び、その観点から20世紀の人類学を再評価し続けてきました。特に20世紀を代表する人類学者、クロード・レヴィ=ストロースに関しては、近年フランスでも起こっているレヴィ=ストロース再評価を巡る動きの中心的な人物の一人です。こうした経緯を持つケックさんは、現在香港で鳥インフルエンザによるパンデミックに備える社会を人類学的な視点から研究されています。従来の人類学のように小さなコミュニティのみを対象とするのではなく、政府機関から民間の団体、消費者の動向までさまざまなアクターに目を向けるこのような研究は、人類学の現代的潮流となりつつあります。
ケックさんの報告は、自身の知的な関心の紹介から始まりました。その関心は、直接的な関係が見いだしにくい二つの領域、レヴィ=ストロースやフィリップ・デスコーラらの人類学−「動物と人間の関係の人類学」と、ミシェル・フーコーに代表される「リスクについての社会学」に関連するものであり、後者は主に「近代」的な社会で強い関心がもたれる研究、一方、前者が扱う問題は例えばアマゾンの先住民社会など「近代的」
でないとされる社会を舞台に深められてきた問題系である、とのことでした。そして、鳥インフルエンザめぐる問題とは、それぞれが大きな問題系を構成しているこの二つの研究の視点を必要とする問題であることを示すことで、「鳥インフルエンザ」というテーマに対し参加者の関心を強く引きつけ、その内容へと報告が進んでいきました。
SARSや鳥インフルエンザの事例に話が移行すると、上述の大きな問題設定に関する論調から一転し、具体的な事実が次々と示されていきました。それは、中国の政府機関へのインタビューや香港で伝統的に見ることのできる行事など、様々な主体を対象に調査が進んでいる様子がうかがい知れるものでした。SARSと鳥インフルエンザにまつわる出来事の様々な局面をあげながら、ケックさんは同じように動物間の感染がもとになっている伝染病であるSARSとの相違点から鳥インフルエンザの次のような特徴に注意を向けていました。まず一つは、SARSは実際に人間に感染し、さらに人間同士で感染した伝染病であり、感染者の隔離、空港の閉鎖をはじめとし感染拡大を予防するために様々な措置が取られたのに対し、鳥インフルエンザは、まだ人間から人間への感染が起こっていないにもかかわらず様々な対策が取られている伝染病である、ということです。ケックさんの言葉を借りれば、鳥インフルエンザは「潜在的なカタストロフィ(Virtual catastrophe)」なのです。もう一点は、SARSは動物からの感染経路が確定された伝染病であったのに対し、鳥インフルエンザはその感染経路に鳥類がかかわっている、ということしかわからない伝染病である、ということでした。鳥インフルエンザにかかわる鳥は、家畜である可能性もあるし、他の地域から飛来する渡り鳥である可能性もあり、また、近隣地域から運ばれてくる観賞用の鳥である可能性もある、ということでした。SARSの感染源はねずみの一種であったけれど、鳥インフルエンザは鳥の多様性に関連するものである、ということに注目していました。
ここまでの報告には主に、政治的・経済的な局面に関する事例が多く挙げられていたのですが、報告の最後で、ケックさんは「鳥インフルエンザ」をめぐる事例に関する「人類学的な仮説」を提示していました。その内容を十分にここで示すことはできませんが、立場が異なるさまざまな主体が築く動物との関係が完全に一致することのない複雑な社会で、それでもそれぞれの主体が築く関係が影響しあう様子をとらえようとする視野を示していました。もはや主体を限定することでは状況を描くことのできない香港という社会で、「鳥インフルエンザ」を通じ、人と動物のあいだにどのような関係が築かれているか、その具体的な様子については、ケックさんのこの研究が完成するのを待たなければならないようです。
それでも、さまざまな事実と、「鳥インフルエンザ」に対する「人類学的な視点」が提示されることによって、「鳥インフルエンザ」は思考によってとらえることのできる「潜在的なカタストロフィ」である一方で、その伝染にかかわる鳥の種を確定することができない伝染病となってしまっていること、そしてそのために「動物と人間の人類学」が扱うべきひとつの主題としての「鳥インフルエンザ」が検討されなければならいことが、ケックさんの報告を通じて浮かび上がってきました。
質疑応答では、アフリカの伝染病について研究していらっしゃる新山智基さん、日本国内の公衆衛生機関の歴史を研究していらっしゃる横田陽子さんから自身の関心と関連付けた質問が投げかけられました。二人は人類学とは異なる立場から伝染病についてアプローチしていましたが、ケックさんは人類学的な視点の独自性があるのではないか、というコメントをかえされました。とりわけ、伝染病予防の中で、人間と動物の間にどのような関係が作られ、またそれらと予防の外側にある人―動物間の関係が浸透しあう関係にあるのか、また、実際に予防という行為がどのように実践に移されていくのか、を検討するには特定の制度の視点だけではなく、複数の制度・主体を視野に入れる視点を持つ人類学が有効である、とおっしゃいました。これまでの人類学では、どうやって調査で出会うグループの内部からものを見るように研究を進めていくのか、ということに力点が置かれていたことを考えると、ケックさんが示していることは人類学のパラダイムにおいても非常に革新的なことではないでしょうか。
今回の講演会は、新進気鋭の海外の研究者が今まさに進めているプロジェクトについてのお話をうかがう、という貴重な機会となりました。さらに、それほど広くない会場が功を奏したのか、人数は少ないものの室内に参加者の関心が充満している、そのような印象を受ける講演会となりました。
*作成:近藤 宏