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野崎 泰伸 「倫理学は規範をどのように問うべきか――規範の正当化主義批判」

関西倫理学会大会 報告要旨 配布原稿



1971年に刊行されたロールズ『正義論』は、「規範の定立・正当化を放棄し、倫理用語の言語分析(メタ倫理学)と思想史研究に二極分解していた英語圏の倫理学の主潮を規範倫理学へと大きく旋回させた」([川本 1995:25])。それ以降、「規範の定立・正当化」をめぐって、分配的正義を扱う政治哲学や法哲学、現場の医療問題にコミットする生命倫理学や医療倫理学において大きな議論が巻き上がったのは、周知のとおりである。
 本報告では、「規範の定立」にあたって、極めて妥当であると思われている正当化という営為について考える。互いに相対立する価値観や政策があるとき、そうした不和の状態から合意を形成していく過程において、「正当化」という方法がとられる([ゴティエ 1986=1999]、[ボルタンスキー・テヴノー 1991=2007])と考えられている。つまり、価値判断においては、何らかの根拠を示し、それによって互いを納得させることが、正当化という営為の根幹なのである。こうした営為自体に意味がないことはない。しかしながら、原理的に言って、規範の定立に「合意によって導かれるような正当化」は不適当ではないのか。
 正当化という方法によって規範を定立するということは、つまりは「合意によって承認を得ることができれば」という、いわば隠れた仮言的命法である。私たちはひとりでは社会を形成することなど不可能であるから、そこには何らかの折り合いや妥協は必要だろう。その意味において、合意することに意味がないわけではない。しかしそもそも、「合意によって折り合いをつける場を担保する場所の創設」は、合意によっては導かれない。むしろ、それを超越した規範が必要であり、そのような規範を形成する折において合意することに意味はない。
 誰かが何かを「正当化」という論理で規範を定立しようとするとき、その誰かはどの位置からものを言っているのであろうか。たとえば、希少資源の分配問題について、たとえある分け方が正当であるとされても、資源が希少であるなら、必要であるにもかかわらずその資源を手に入れられない者が出てくるだろう。また、ある医療行為が正当化されるというとき、それは「誰かが殺されるかもしれないが」ということが含意されているはずである。そもそもそのような含意のないところでは、正当化される必要もないからである。つまり、「正当化」という名のもとに規範を定立することには、「必要であるにもかかわらずその財を入手できない誰か」や「殺されるかもしれない誰か」を見ないことにするという大きな罠が仕掛けられているのである。正当化によって規範を定立することには、そのようないわば自己欺瞞的側面が不可避にあるのだ。
 それでは、私たちは規範の定立をあきらめるべきなのか。そうではない。その内部に合意による正当化によって折り合いや妥協をしていけるような規範を、無条件で承認することによって定立を図る道がある。本報告は、「規範の定立」を「合意による正当化」から「無条件の承認」へと移行させるような道を考え、そのなかで「倫理的なるもの」を浮かび上がらせようとするものである。

Boltanski, Luc ; Thevenot, Laurent 1991 De la Justification: Les Economies de la Grandeur(=三浦 直希 訳 2007 『正当化の理論――偉大さのエコノミー』,新曜社)
川本 隆史 1995 『現代倫理学の冒険――社会理論のネットワーキングへ』,創文社
Gauthier, David 1986 Morals by Agreement(=小林 公 訳 1999 『合意による道徳』,木鐸社)




配布原稿
はじめに

 1971年に刊行されたロールズ『正義論』は、「規範の定立・正当化を放棄し、倫理用語の言語分析(メタ倫理学)と思想史研究に二極分解していた英語圏の倫理学の主潮を規範倫理学へと大きく旋回させた」([川本1995:25])。それ以降、「規範の定立・正当化」をめぐって、分配的正義を扱う政治哲学や法哲学、現場の医療問題にコミットする生命倫理学や医療倫理学において大きな議論が巻き上がったのは、周知のとおりである。
 本報告では、「規範の定立」にあたって、極めて妥当であると思われている正当化という営為について考える。互いに相対立する価値観や政策があるとき、そうした不和の状態から合意を形成していく過程において、「正当化」という方法がとられる([ゴティエ 1986=1999]、[ボルタンスキー・テヴノー1991=2007])と考えられている。つまり、価値判断においては、何らかの根拠を示し、それによって互いを納得させることが、正当化という営為の根幹なのである。こうした営為自体に意味がないことはない。しかしながら、原理的に言って、規範の定立に「合意によって導かれるような正当化」は不適当ではないのか。
 正当化という方法によって規範を定立するということは、つまりは「合意によって承認を得ることができれば」という、いわば隠れた仮言的命法である。私たちはひとりでは社会を形成することなど不可能であるから、そこには何らかの折り合いや妥協は必要だろう。その意味において、合意することに意味がないわけではない。しかしそもそも、「合意によって折り合いをつける場を担保する場所の創設」は、合意によっては導かれない。むしろ、それを超越した規範が必要であり、そのような規範を形成する折において合意することに意味はない。
 誰かが何かを「正当化」という論理で規範を定立しようとするとき、その誰かはどの位置からものを言っているのであろうか。たとえば、希少資源の分配問題について、たとえある分け方が正当であるとされても、資源が希少であるなら、必要であるにもかかわらずその資源を手に入れられない者が出てくるだろう。また、ある医療行為が正当化されるというとき、それは「誰かが殺されるかもしれないが」ということが含意されているはずである。そもそもそのような含意のないところでは、正当化される必要もないからである。つまり、「正当化」という名のもとに規範を定立することには、「必要であるにもかかわらずその財を入手できない誰か」や「殺されるかもしれない誰か」を見ないことにするという大きな罠が仕掛けられているのである。正当化によって規範を定立することには、そのようないわば自己欺瞞的側面が不可避にあるのだ。
 それでは、私たちは規範の定立をあきらめるべきなのか。そうではない。その内部に合意による正当化によって折り合いや妥協をしていけるような規範を、無条件で承認することによって定立を図る道がある。本報告は、「規範の定立」を「合意による正当化」から「無条件の承認」へと移行させるような道を考え、そのなかで「倫理的なるもの」を浮かび上がらせようとするものである。

1.規範の正当化という手法の困難

 いま、規範つまり倫理に関する命題Xを正当化するという行為を考える。もしも、命題X1が存在して、演繹的にXを導くことができ、かつその論理に間違いがなければ、X1からXが正当化されたと言ってよい。すぐにわかるように、ある命題の正当化をめぐっては、その命題を論理的に演繹することができるような別の命題が必要なのである。つまり、今度は命題X1を正当化する羽目に陥る。こうして、規範の正当化の問題は、原理的に正当化の無限後退になる。私たちは有限な存在であるから、現実的にはどこかでこの作業を打ちやめにしている。これは、論理的に要請されるものではなく、私たちの存在の有限性によって要請されるものであることをまずは確認しておこう。言い換えれば、打ちやめにすることにした究極の命題Xnについては、「XnだからXnである」としか言えないものである。その命題は、その定義からして同語反復、すなわち正当化され得ないものである。最終的に規範の定立の問題は、ドグマティックであらざるを得ないことになる。正当化不可能なXnという命題については、「そう信じる(あるいは、信じない)。根拠はない」と述べるのが最も誠実な答えである。こうして、規範の定立の問題を完全に正当化によって答えることは不可能であり、最終的には信仰の問題になるのである。

2.倫理体系と信仰の争い

 これはなにを示しているか。つまり、「規範の定立の問題を完全に正当化によって答えることは不可能」であるということは、どういうことなのか。それは、どのような規範も、正当な理由/根拠を付して定立することは、究極的には不可能であるということである。たとえば、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにも、究極的には正しい理由を付して答えることはできない。大江健三郎は次のように述べている。

「私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。(中略)人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観に逆らう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子供は思っているだろう」([大江1997])

 大江は、この問いかけ自身の問題性を衝こうとするが、この問いかけに「答えられない」理由は、この問い自身が内在的に持っているわけではない。私たちは、正当な理由を付して「人を殺さずにいるべきだ」という規範を定立することはできない。それは、論理構造と、私たちが有限であるという事実に由来する、いわば「宿命」である。
 だとすれば、私たちは規範の定立を図ろうとするならば、何らかの信仰に基づかずに図ることはできないのである。言い換えれば、何かある規範を無前提で認めなければ、正当化だけによって規範を導出することは論理的に不可能であるということである。
 当然、すべての人が無前提で認める規範は違い、ときに相反する命題を無前提に認めることもあるだろう。そのときはマックス・ウェーバーの言う「神々の争い」になる。ウェーバーは、「神々の争い」について、次のように説明している。

「これまで、わたくしは個人的な立場を人に強いることについて、もっぱら実際上の理由からそれを避けるべきだと論じてきた。だが、これを避けなければならぬ理由は以上に尽きない。実際上の立場を「学問的に」主張することができないということは、――客観的に与えられたものとして前提された目的のための手段を論じるばあいは別にして――もっと深い理由によるものである。というのは、こんにち世界に存在するさまざまの価値秩序は、たがいに解きがたい争いのなかにあり、このゆえに個々の立場をそれぞれ学問上支持することはそれ自身無意味なことだからである」([ウェーバー1919=2002:53-54])

 ウェーバーは、「神々の争い」は不可避であるから、ある個人が一つの価値観を持つことなど無理だ、と言っているのであろうか。そうではない。ウェーバー自身が、「多神教を認める一神教論者」を肯定しているのである。次の引用は、ウェーバーのそのような立場を示すものである。

「すなわち、われわれは諸君につぎのことを言明しうるし、またしなくてはならない。これこれの実際上の立場は、これこれの究極の世界観上の根本態度――それは唯一のものでも、またさまざまな態度でもありうる――から内的整合性をもって、したがってまた自己欺瞞なしに、その本来の意味をたどって導きだされるのであって、けっして他のこれこれの根本態度からは導きだされないということがそれである。もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる。なぜなら、君たちが自己に忠実であるかぎり、君たちは意味上必然的にこれこれの究極の結果に到達するからである。学問にとってこのことは原則上可能である」([ウェーバー前掲書:63])

 ウェーバーをさらに突き詰めてみることにする。共約不可能な神々、すなわち、相容れない規範命題は存在する。それらはたいてい、互いの否定命題として定立される。たとえば、以下のような2つの命題はそうである。

 (A)すべての生は無条件にその生存が肯定される。
 (B)ある生は無条件にその生存が肯定されるわけではない。

 (A)の立場に立つならば、けっして(B)を認めるわけにはいかない。(B)の立場に立つならば、同様にけっして(A)を認めるわけにはいかない。(A)と(B)はそれぞれがお互いの否定命題であるがゆえに、これら2つの考えが論理的に両立することはあり得ない。  よく、(A)の立場はドグマティックであると批判される。この言明じたいは正しい。(A)の言明はもうそれ以上さかのぼることなど不可能であり、その意味において正当化することはできない。ただし、だからといってその否定命題である(B)が正当化されるとも言えない。(A)がドグマティックであるならば、その否定もまた(A)と同じような意味でドグマティックでしかない。言い換えれば、(A)も(B)も論理的には肯定も否定もされない。それらは信念でしかない。ここで注意すべきは、(A)が信念に過ぎないからといって、そのことは(B)が論理的に肯定されることを意味するわけではないということである。
 結局は、(A)か(B)かは最終的には正当化抜きで選びとられるものである。私じしんは(A)を選びとるのだが、(B)を選びとることじたいを論理的に批判することはできない。ただし、(B)という命題、つまりどこかに「生存が許される」境界があって、その境界は論理的に正当化できる、という立場については批判可能なわけである。(A)の神を信仰する者は、(B)の神に侮辱を与え、(B)の神を信仰する者は、(A)の神に侮辱を与える、事実を描写すれば、そうなるはずである。それ以上でも以下でもない。そして、いったんどちらかを選びとるならば、現実に選びとった規範と整合するように生きなければならない。たしかに、人間は矛盾した存在かもしれないが、こうしたことをこの場で述べるならば、それは往々にして言い訳であると言われても仕方がない([野崎2009])。
 正当化という営為が原理的に不可能であるなら、私たちは規範の定立を試みる際に、「神々の争い」を究極的に避けることは不可能である(1)。しかし、私たちは他の信仰への軽蔑をもって、ある信仰を信ずることは可能だ。そのときには、「ある信仰を信ずること」は正当化によって基礎づけられないようなものである。それではなぜ私は(B)ではなく(A)を信じるのか。

3.「生の無条件の肯定」が「正義」であるわけ――正当化・法・応答可能性

 まず、私たちが他者とともにこの社会で生きている以上は、(A)か(B)を選ばなければならない。(A)も(B)も選ばない、という態度は、そうした態度をとる当人の生存について果たしてどちらなのか、という問いに答えられない。要するに、私たちはそうした態度を表明するか否かにかかわらず、(A)か(B)かの価値判断をしなければならないのである。
 私がなぜ(B)を選ばないのか。これについても、正当化や根拠の基礎づけによって答えることはできない。ありていに言えば、私は(B)を選ぶのがいやだから(B)を選ばない、ということに尽きる。しかし、これだけでは説明不足だから、もう少し言葉を継ぎ足してみよう。
 (B)を選んだ当人は、生存が肯定されるわけではない領域に自分自身が入ったとき、論理的にみずからの生を肯定してはならない。それでも肯定するというのなら、矛盾していることになる。つまり、なんらかの理由で――それがたとえ理不尽に思えようとも――その当人がナイフをむけられたり、銃を突きつけられたりして殺されようとするとき、「いやだからやめてくれ」とは言えても、「私を殺すのは不当だからやめてくれ」とは言えない構図になっているのである。それでもよいから(B)を選ぶ、と言う人にとっては、私の理論の範疇にはない。選びたければ選ぶがよい、と言うしかない。その地点こそが、正義にかんする臨界点であり、(A)を選ぶ者と(B)を選ぶ者とは相容れないことになる。(B)が「この生は生きるに値しない」と言ったときは、(A)は防御しようとするし、最終的には実力行使にならざるを得ないかもしれない。私はそうした(B)の立場を選ぶ根性もないから、(B)を選ばないだけなのである。
 (A)も(B)も選ばない立場はなく、(B)を選ばないとすれば、必然的に(A)を選ぶことになるが、私はそれを個人的な選択というだけではなく、もしも「正義」というものがあるとすれば、それは(A)である、と主張するのである。
 この立場は、次のような立場とは性格をまったく異にする。

「私の考えでは倫理学とは、なにより、われわれになんらかのガイドを与えてくれることが期待されるものだからだ。我々は日常的にさまざまな選択を強いられており、優れたガイドと、またそのガイドの本性についての知識を必要としている。これが誰もが倫理学に関心をもたざるをえない理由でもある。倫理学者は「倫理とはどんなものか」とぼんやり抽象的に考えるだけでなく、まさに「わたし(たち)はどう生きるか」を理性的に考えねばならず、その際には、どのガイドが優れたガイドなのかを判断しなければならない」([江口20080727:9])

「私はできれば自分の人生に適用できるガイドが欲しい(原注:もちろん誰かからハウツー本をもらってそれを盲信しようとかではない。もっと正確には、自分をガイドするための方法についてのガイド。これが哲学でなければなにが哲学がわたしにはわからない)」(前掲、同ページ)

 私は、江口の言うように「倫理学とは、なにより、われわれになんらかのガイドを与えてくれること」だとは考えない。たしかに私たちは、「日常的にさまざまな選択を強いられて」いるが、それに対する処方箋は、単にその場におけるエコノミーの話であって、それは倫理とは峻別されなければならない([野崎2007])。もっとも、「「わたし(たち)はどう生きるか」を理性的に考えねばならず、その際には、どのガイドが優れたガイドなのかを判断しなければならない」にせよ、そのようにすることと「なんらかのガイドを与えてくれること」とは論理的に一致しない。
 たとえば、こういう状況を考えてみよう。目の前にいるゴキブリを、その発見者は殺すべきかどうか。私は(A)を主張しているが、そのときどうなのか。「殺すべきか殺さずにいるべきか」というルールを仮に立てたとしよう。どういう場合に殺してよいかという指針を示すルールである。選択の場で従うべき正しいルールを示そうとすることが、果たして倫理学が規範にかんして問うということなのであろうか。
 あるルールや指針に従って行為の「決定」を下すということは、真の「決定」ではない。なぜなら、それは他者に対する応答を含むものではないからだ。そうした「決定」のうちには、他者に向き合うという契機を欠くのである。他者とは、一面においてはここに独自の事情を有するものであり、また、すべての他者がそうであるという面においては、独自性をもつということがいわば「普遍的」に他者に共通することでもある。私は、ルールや指針が無意味であるというつもりはない。しかしながら、それらに従うことだけが――したがって、ルールや指針の正当化や精緻化だけが――倫理学が問うべき規範にかんするすべてのことではない。他者への応答は、行為のガイドの精緻化だけでは不十分なのである。むしろ、ガイドなどなくとも「決定」しなければならないのである。この意味において、他者への責任ある「決定」とは、「狂気」じみた経験にならざるを得ない。「正義」というものがもしあるのであれば、そのような責任ある「決定」が行われるときのみである(2)。もちろん、そんなことは不可能である。すべての他者に対して、「責任」ある「決定」をすることなど、不可能である。しかしながら、「正義」とは、そのような不可能性を有するものであり、この「不可能性」こそが、「正義」の「可能性」なのである(3)。
 その意味において「生の無条件の肯定」こそが「正義」なのであり、それは、生の肯定にかんし条件を設け、その条件の正当化を図る倫理体系とは異なったものである。「正義」というものがもしあるのであれば、他者の生存への完全なる応答でなければならない。それが私の言う「生の無条件の肯定」なのである。

4.「生の無条件の肯定」の体系における「生命を殺すこと」

 だとすれば、どんな生をも殺さずに生きていくのが正しいのか。たしかに、どんな生をも殺さずに生きていくことは、潔い生き方だと言えるかもしれない。しかし、私たちは現実には食物連鎖の網の目から抜け出ることはできず、生きていくためには他の生物を殺しながら生きるよりない。その意味において、私たちは生存し続けるならば、動物であれ植物であれ、その生命を奪いながら生きざるを得ない。また、ときに人間は人間をも殺してしまう(4)。この意味において、私たちは事実として完全に潔く生きることなどできない。
 前述の大江の言明にかんして、ここにきてその「内容」について触れておきたい。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけに対して、大江は「人を殺さないこと自体に意味がある」と答えていた。さらに大江の言う「意味」にかんして突き詰めていくと、「もしも「正義」というものがあるのなら、それは「どのような場合においても人を殺してはいけない」ことを含むものである」というようにはならないか。そういうものとして大江の言明を解するなら、「正義」とは一種の「賭け」であり、「決断」である。究極的には、「正義」なるものの存在証明は不可能であるとしても、そういうものとして来たるべき「正義」を信ずる、そういう「賭け」なのである。だからこそ、この究極の地点こそ「正義」の臨界点だというのである。
 それでも、私たちは人を見殺しにするし、他の生物を食いながら生きながらえたりもする。それは許されてよいことでは決してない。しかしながら、私たちはそうするしかしかたのない、生きている限りは逃れられない根源的な宿命を背負っているのである。言い換えれば、私たちは「殺す」という悪を行なってよいという居直りをしないように自覚しながら、殺さなければならないのである。肯定されるべき生を殺しながら生きるということは、そういうことである。

5.親近感と全体性とは両立する

 先ほど、ゴキブリの例を出した。「ガイド」論者であれば、以下のことが気になるはずである。すなわち、「ゴキブリなら殺してよいが、ネズミなら殺すのを躊躇するのではないか、だとすれば、その境界線はどこであるのか」と。また、その問いの系として、以下のような主張も考えられる。「牛肉を食べるよりコメを食べるほうが悪くない」「肉食より菜食のほうが悪くない」「肉を食べるにしてもなるべくよい環境で育った動物を食べるのがよい」などの主張がそうである。こうした問いや主張に共通するものは、「生物系統的に人間に近いものにはより配慮する」という点である。この種の主張を、人間に近い生物への感情という意味でここでは「親近感」ということにする。
他方で、人間は生命あるものを殺さなければ生きていけない宿命にある。「生命あるもの」全体という視点で見れば、動物も植物も生命あるものであり、その意味で言えば菜食主義者とて決して「無罪」ではない。こうした視点をここでは「全体性」と呼んでおく。
 さて、これまでのところ「親近感」を主張する者はたいてい「全体性」の主張を否定しようとするし、逆に「全体性」の主張をする者は「親近感」を棄却せざるを得なかったように思う。だが、これは本当なのか。
 たとえば、私たちはたいてい、親しい人や愛する人、愛着をもつものがいなくなったり、生命を奪われたりすると、悲しい。それに比して、名も知らぬ異国の地のとある訃報に触れたときには、ときに悲しかったりもするが、親しい者の死ほどに悲痛を感じることは少ない。だからといって人生において接触しないという意味において無関係であったとしても、生命あるものである以上、殺されてよいということはあり得ない。つまり、「近しい」生命が奪われることを悲しむことと、「遠く」にある生命が奪われることを、ときにそれほど悲しさを感じなくとも、それがあってはならないことだと思うことは、両立する。
 このことにかんして、岡真理は次のように述べる。

「パレスチナは遠いから、とよくいわれます。パレスチナ人が今申し上げたような状況におかれているということが、私たちにとって、もし他人事であるとしたら、それはパレスチナが地理的に遠いからなのでしょうか。そうした状況が日本のものだったら、私たちはそれを自分たちの問題だと思って、向きあって考えるのでしょうか」([岡2006:25-26])

 パレスチナは常時イスラエルの侵攻――それは国際法にすら抵触する(5)――に遭っている。2008年は「ナクバ」から60年にあたる(6)。それらのことはあまりメディアでは扱われない(7)ため、私たちはパレスチナに住む人たちをともすれば「遠い存在」であると思ってしまう。だが、それは本当に「遠い」からなのだろうか。「近い」とすれば、身近に感じるのであろうか。その証左に、私たちはたとえば日本軍性奴隷にかんするもろもろの問題に向き合っていると言えるのか。実はそれはあまり「遠さ/近さ」の問題とは思うほど関係ないのではないか。そのように考えれば、「遠さ/近さ」によって殺してもよい/悪いを判断するようなガイドも、恣意的であると言わざるを得ない。
 けれども、恣意的であるということが、「親近感」の主張を棄却することはない。ただ、近しいメンバーシップを決める確たる線が引けない以上は、常にやはり「全体性」の射程も考えなければならない。「豚はダメだが野菜なら食べてよい」ことは正当化できないにせよ、「野菜より豚のほうが親近感がある」から、野菜に犠牲になってもらい、淡々と食すという道はあり得るのではないか。これは「正当化」の論理を構築しようとするシンガーらの菜食主義論([Singerand Mason 2007])の説とは根本的に異なる。この論は、菜食主義が正当化されることはないにせよ、それでも菜食を目指そうとする道へと開かれているのである。植物とて生きている以上は、それを食らうことは「罪深い」ことである。だとすれば、その「罪深さ」を自覚しながらも(全体性)、まだ豚よりマシ(親近感)であるなら、淡々と菜食をするよりないのではなかろうか。

おわりに

 本報告は倫理的な規範を定立する際におけるその方法論的な考察を試みた。まず、規範の定立に正当化による基礎づけ主義には困難があることを述べた(1)。つぎにウェーバーの言う「神々の争い」を突き進める形で、共約不可能な信仰と信仰の争いについて述べた(2)。続いて、「生の無条件の肯定」が「正義」である説明を、ガイド主義者の論とシャープに対置させることにより行った(3)。さらに「生の無条件の肯定」の体系における「生命を殺すこと」の位置について触れ(4)、最後に試論的に「親近感」と「全体性」との両立可能性について論じた(5)。
 私たちは悪を行なわない限りは生きてはいけない。しかしそれがたとえ事実だとしても、そのことと、それに居直ることとはまた別のことである。悪を行うことに自覚的であることしか、私たちが行う悪をより少なくできないのではないかと私は考えるのである。

【注】
(1) ただし、現実においては「神々の争い」に似ているが、実はそうではないようなことがほとんどであろう。一例を挙げれば、障害者の介助保障の文脈における行政交渉の場などは、お互いに平行線に見えるが、実は行政側が論理的に矛盾したことを言っていたり、あるいはそこで「沈黙」を決め込んだりする。彼らは、 24時間介助保障をすべきだという障害者に対し、「20時間なら出ます。あとの4時間はボランティアで…」などと言ったりする。そこで障害者側が「それは国が責任をもって障害者の生存を保障していないということですね」と言うと、「そんなことは言っていない」と言ったりする。行政側も薄々とは障害者側の論理のほうが正しいことは分かっているのではないか。「4時間はボランティア」と言うのなら、論理的にいって「その間に国は障害者の面倒は見ません。障害者が死んだってかまいません」というのが妥当である。そのときには「神々の争い」の様相を呈するのである。つまり行政側は、「神々の争い」を避けるために、非論理的なことを言っているにすぎない。
(2) もちろん、これを「自分をガイドするための方法についてのガイド」のようなものだと言うことはできなくもないのかもしれない。ただ、目的については「自分をガイドする」ことではないので、似ているが違うものなのだろう。
(3) 言うまでもなく、この議論はジャック・デリダの責任論を下敷きにしている。
(4) これには物理的なものと、精神的なものがある。人間はたとえば最低限の自尊心を奪われれば生きていくのが極度に困難になる。これは肉体が死滅するのとは違うのだが、考えられるべき重要な事柄である。
(5) たとえば、レバノン空爆、パレスチナ自治区への侵攻、「分離壁」(隔離壁)建設などがそれにあたる。
(6) 「ナクバ」とは、「大虐殺」を意味し、イスラエル建国の際のパレスチナ人大量殺戮のことを指す。
(7) 扱われるときでも、多くの記事は「パレスチナ人=自爆テロ」などというステレオタイプな偏見をもって描かれる。


【文献】
Boltanski, Luc ; Thevenot, Laurent 1991 De la Justification: Les Economies de la Grandeur(=三浦 直希 訳 2007 『正当化の理論――偉大さのエコノミー』,新曜社)
江口 聡 20080727 「品川哲彦『正義と境を接するもの』への質問」(研究会レジュメ)
 http://melisande.cs.kyoto-wu.ac.jp/~eguchi/papers/sinagawa-care2008.pdf
Gauthier, David 1986 Morals by Agreement(=小林 公 訳 1999 『合意による道徳』,木鐸社)
川本 隆史 1995 『現代倫理学の冒険――社会理論のネットワーキングへ』,創文社
野崎 泰伸 2007 「どのように<倫理>は問われるべきか」,Web評論誌『コーラ』第2号
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-2.html
―――   2009 「正義と反合理主義――リンギス・レヴィナス・デリダ」,『大阪府立大学人間社会学研究集録』第4号(査読審査中)
大江 健三郎 1997 「誇り、ユーモア、想像力」,朝日新聞1997年11月30日
岡 真理 2006 『パレスチナの平和と"私たち"の役割 私たちは何者の視点から「歴史」を見るのか――岡真理講演録』,日本聖公会東京教区エルサレム教区協働委員会
Singer, Peter and Mason, Jim 2007 The Ethics of What We Eat: Why Our Food Choices Matter, Rodale Press
Weber, Max 1919 Wissenschaft als Beruf(=尾高 邦雄 訳 2002 『職業としての学問』,岩波書店)


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