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マニラ・ムスリムにおける「ムスリム性」の表象─土地権をめぐる裁判闘争と街頭集会を中心に

渡邉 暁子 20081015 生存学研究センター報告4 530p
『多文化主義と社会的正義におけるアイデンティティと異なり
 ――コンフリクト/アイデンティティ/異なり/解決?』


last update:20101124
マニラ・ムスリムにおける「ムスリム性」の表象─土地権をめぐる裁判闘争と街頭集会を中心に
渡邉 暁子(京都大学)

本報告は、マニラ三大ムスリム・コミュニティのひとつであるサラム・モスク・コンパウンドにおいて、1989年から1997年にかけて生じた土地紛争史を取り上げる。(1) それによって、本報告は、現代のフィリピンの政治的潮流のなか、圧倒的マイノリティの状況であるマニラ首都圏において社会的正義を追求しようとするムスリム移住者の多様な戦略の一例を提供することを試みる。
フィリピン国民の圧倒的多数はキリスト教徒であり、また島嶼国家の中心は首都マニラが位置する北のルソン島である。ムスリムは歴史的に南部のミンダナオ島とスルー諸島に居住し、13の言語民族集団から成るものの、スペイン植民地期には、モロという蔑称でひとくくりにされた。20世紀初頭に始まるアメリカ植民地期下も、かれらは「文明化されたキリスト教徒」と対比された「未開で好戦的なモロ」というレッテルを貼られただけでなく、国民統合や治安維持との関係で常に「ムスリム/モロ問題」として扱われてきた。これはとくに、1968年のジャビダー事件によって激化したムスリムの分離・独立運動以降、顕著である。(2) 紛争の激化によって生じた最大の変化は、ムスリム人口の故地から国内外他所へ向けての流出であった。とりわけマニラは最も主要な移動先となった。今日、マニラには約10万人のムスリムが生活し、ミンダナオ地方とは対照的に、民族を異にするムスリムたちが首都の各所に寄り集まり、ムスリム・コミュニティを形成するにいたっている[Hassan 1983; Kadil 1985]。これらのコミュニティの多くは、南部の紛争と中東ムスリム諸国の政治経済的関与、そしてフィリピン政府の対ムスリム宥和政策などの複合的な要因によって形成されたものである。その一方で、マイノリティの立場にあったムスリムが民族や階層を超えて連携し、マニラ社会の様々なアクターと交渉する過程で新たなムスリム・コミュニティを生成するにいたった例もある[渡邉 印刷中]。なかでも、現在1万5千人の人口を有し、マラナオ、タウスグ、マギンダナオ、サマ、ヤカン、イラヌン、バリック・イスラームBalik-Islam(イスラーム改宗者)といった多様な民族言語集団から成るサラム・モスク・コンパウンドSalam Mosque Compoundの人々は、他のムスリム・コミュニティに例をみない政治運動と集合行為を経験した。その契機はコミュニティの土地の売却事件から発展した裁判闘争である。長期の裁判は、マニラにおけるムスリムの若者や学生の組織による街頭集会をもたらした。そのなかで、かれらは、各ムスリム民族の政治家や宗教指導者、非ムスリムNGO、国際組織といった様々なムスリム・セクターだけでなくメディアを巻き込みながら、裁判に勝つために自分たちに貼られた「未開で好戦的なモロ」というラベリングを逆手にとったのである。結果として、これらの実践は本質主義の戦略的な利用ということができよう。
戦略的本質主義とは、先住民を含め、政治的にマイノリティである人々が本質主義、多くはステレオタイプ化されたイメージを自己演出することによって、より大きな目的を達成させる抵抗的アイデンティティである[古谷 1996;小田 1999]。このため、「先住民族の現在を心に掛ける政治的運動や言説を補うことによって、戦略的本質主義は彼らの解放にとって積極的な役割を演じうる」点で評価できる[古谷 1996:275]。しかしながら、この概念については、すでに多くの批判的な議論がおこなわれている。そのひとつは、集団内部の多様性を無視して一般化させる危険性をはらみ、旧宗主国などによる支配的な言説を再生産させることにつながるという小田や馬渕らの指摘である[小田 2001;馬渕 2001]。これを克服するために、古谷は「あくまでもどのようなコンテクストにおける誰の戦略なのかが重要」であると説き、さらに戦略的本質主義を場面に応じて首尾一貫性なく利用する「異種混淆性の戦略」を提唱した[古谷 1996]。本報告はこの古谷の概念を援用し、これにイスラームという要素をからめて考えてみたい。
ここで、本報告で取り上げるサラム・モスク・コンパウンドの事例を相対化するために、バンコクのムスリム・コミュニティにおける土地紛争の事例をみてみよう。フィリピンのムスリムと同様、タイのムスリムはアラブ系・パキスタン系・カンボジア系など多様ではあるものの、民族・宗教的にマイノリティである。首都バンコクにおいても民族を中心にムスリム・コミュニティが形成されている[木村・松本:2005;福田 2006]。そのような状況において、バンコクのバン・クルアBan Kruaというムスリム・コミュニティは政府から退去を迫られたが、住民は外部の援助を請わず、みずからの人的資源を利用して土地の保守に成功した。これについて、チャイワットは、バン・クルアの人々が自分たちを組織化するのにイスラームのシンボルを用い、イスラームを利用した非暴力闘争をおこなったと論じている[Chaiwat 2001:98]。すなわち、国家のマイノリティとして、自分たちのアイデンティティを主張したり、国内外の支持者をひきつけたりするのに「イスラーム」を活用したのである。これについては、エイケルマンとピスカトリも、非ムスリム社会においてイスラームのシンボルの利用は個人を集団に社会的に結びつける役目を負うと論じている[Eikelman and Piscatori 1997:9]。しかしながら、チャイワットの研究では実際に集団がどのようにまとめられたのかについて言及されていない。これまでのマイノリティの政治運動を扱う研究は、集団外部に対する戦略や表象のみが強調されてきた。だが、内部の多様性を示すには、集団内部に対する演出や表象にも焦点を当てる必要があるだろう。以上をふまえて、本報告の目的は、まず、サラム・モスク・コンパウンドの集合行為にどのようなアクターがいかなるコンテクストにおいて関わったかを明らかにし、次に、マニラ首都圏という圧倒的マイノリティの状況において、ムスリムたちが土地を取り戻すためにどのような戦略を利用していったかを考察し、そして、集団内部と外部に対してはどのような演出や表象がおこなわれたのかについて検討することである。

土地紛争にいたる経緯
ケソン市のタンダン・ソラTandang Sora通りに面した4.9ヘクタールのサラム・モスク・コンパウンドの土地は、1971年にフィリピンを訪問したのちの国務大臣サリー・ボヤシルSalih Boyasir氏により、マニラにイスラーム系総合施設を創設するために寄進(waqf、ワクフ)されたものである。1971年は、上述のジャビダー事件をきっかけに南部フィリピンにおいてムスリムが超民族的なモロ民族解放戦線(Moro National Liberation Front: MNLF)を結成して分離・独立運動を展開し始めた時期である。指導者ヌル・ミスアリは、スペインが名づけたモロという蔑称を肯定的に解釈しなおし、民族を意味するバンサbangsaを頭に付けてバンサ・モロBangsa Moroというフィリピン・ムスリムの統合的な「民族」をつくりだした。また、それまでモロの指導者たちは民族間で反目し、民族内でもクラン間で自由党と国民党に分かれて対立していた。このため、大使らはこれらのモロを団結させ、フィリピン・ムスリム全体の恩恵となるようマニラにイスラーム系総合施設を設立することを発案し、資金提供の条件としてモロの指導者たちに個人ではなく協会・組合を単位に組織化することを求めたのである[Lucman 2000: 306]。そこで結成されたのが、非党派で連合組織の性格を有するフィリピン・イスラーム理事会(Islamic Directorate of the Philippines: IDP、以後IDPと略称)であった。(3) 1971年11月、リビア政府からの200万米ドルの資金を受けてIDPはタンダン・ソラ通りの土地2画を中国系企業から購入し、宗教法人として証券取引委員会(Securities and Exchange Commission)に登録した。(4)
IDPはタンダン・ソラ通りの土地にモスクやマドラサ(イスラーム学校)、図書館、病院、寄宿舎などの建設を計画したが、まもなく歴史の流れが変わる出来事が起きた。1972年9月、マルコス大統領が戒厳令を布告して国会を停止し、共産党勢力やモロの分離・独立運動を鎮圧する動きに出たのである。大統領の政敵や反政府活動者であったIDPの幹部の多くは、身の危険を感じて故地の南部フィリピンや中東諸国へと逃亡した。IDPの会長も、会員内でただ1人マニラに残ったB判事に土地権利書を預けてマニラを離れた。その後リビア政府からの資金供給も途絶え、この2画は開発がおこなわれないまま忘れ去られようとしていた。しかしながら、1978年にケソン市庁が、IDPに対して土地を押収すると通告してきたことが転機となった。フィリピンでは、通常5年以上不動産税が滞納されるとその土地は公有地に戻されてしまう。この通知を受けて税金納入のやりくりをしたのは、ムスリム関係委員会(Commissioner of Muslim Affairs)のロムロ・エスパルドンRomulo Espaldon長官であった。(5) イスラーム改宗者であった長官は、同じく改宗者でフィリピン・イスラミック・ダクワ会議(Islamic Dawwah Council of the Philippines)の会長であるZ弁護士に相談し、納税金の一部をタンダン・ソラ通りの2画のうち1画を売却してまかない、残りをムスリム関係委員会の予算から拠出したといわれている。その後、両者は1979年から80年にかけてモスクを建設し、数年後にはマドラサ校舎も建てた。(6) Z弁護士の伝手で、モスクと土地は、海外出稼ぎ労働のためにマニラにやってきたイスラーム改宗者たちが住み込みで管理したが、その存在は一般に知らされることはなかった。(7) それが表舞台に立ったのはマルコス大統領からアキノ新大統領へと政権交代した1986年のことである。マニラ市長は、同市キアポ地区を新たにムスリム観光地区とするため、当該地区のゴールデン・モスクの周辺に不法居住していたムスリムらを撤去させる計画を立てた。この計画に、新設された大統領府下部機関のムスリム関係局(Office on Muslim Affairs)のカンドゥ・ムハリフCandu Muharrif長官が「ケソン市にムスリムのための(無料の)土地がある」と口添えしたことによって、宗教施設の建設を目的としたタンダン・ソラの土地にキアポ地区のムスリム不法居住者たちが移転してきた。
1986年10月にタンダン・ソラ通りの一画へ転入してきたムスリムの多くは、1970年代に南部フィリピンで生じた紛争からマニラ市キアポ地区に逃れてきた国内難民であり、多くはその後小売業や露天商、海外出稼ぎ労働者、周旋人、警備員などに従事していた。最初に移転したのは、数10家族のマラナオと少数のタウスグであった。その後、この移転を聞き及んだ他の民族もタンダン・ソラに集団で移転できるようムハリフ局長にかけあった。そこでムハリフ局長は、マラナオ地区、マギンダナオ地区、ヤカン地区、タウスグ地区といったようにその一画を民族別に分割した。住み分けがおこなわれたのは、それぞれの民族に土地を均等に配分した方が土地をめぐっての争いが起きないだろうと考えられたからである。多くのムスリム移転者たちは日中キアポで生業を営み、夜間あるいは休日をこちらで過ごしていたようである。その後、人づてにこの一画のことを聞いたムスリムが、マニラ市のイスラミック・センターIslamic Centerや首都圏タギッグ町のマハルリカ・ビレッジMaharlika Villageなどから移入し、タンダン・ソラの人口は徐々に増えていった。
ところで、モスクを掌握していたZ弁護士と土地権利書を所有していたB判事、IDPの末席に名を連ねていたC技師らは1984年に新しくIDPを結成した。1988年、かれらはキリスト教徒のL夫人から土地を担保に900万ペソを借り、一部を不動産税の支払いに充て、一部を私的に流用した。1年後、借金返済の目途がたたなくなったことから、かれらはL夫人に土地の売却を申し出た。これにはもう一つの理由があった。ムスリム不法居住者たちの流入によって、この土地はもはやイスラミック・センターの建設に適した場所ではなくなったと新IDPはみなした。これによってリビア政府がセンター設立の計画を中止するのではないかとかれらは恐れた。それならばこの土地を売ったお金で新しく無人の土地を買い、そこをイスラミック・センターの予定地にしようと考えた。(8) 一方、申し出を受けたL夫人は、この土地の東と南の二方に面して敷地を所有していたI教会に転売の話を持ちかけた。この結果、1989年4月に新IDP・L夫人・I教会の3者の間で条件付売約が交わされた。契約内容は、売約金2300万ペソのうち、土地に滞在するムスリムらを立ち退かせるために100万ペソが前金として新IDPに渡され、更地となった時点で契約が成立して残りの2200万ペソが支払われるというものだった。(9) 契約者との民族的および家族的な繋がり、世俗的なニーズ、騒動への忌避などの理由から一部の住民は補償金をもらって土地を後にした。一部の住民は、その土地が売買・分割・譲渡の禁じられた「ワクフ」であるという「正当な」理由や、ほかに行くところがないという現実的な理由から、受給を拒否した。なかには補償金を受け取っても退去しない者や、逆に1世帯3000ペソという破格の値段を聞きつけて金をもらうために他所からやってくる者もいた。その間にもI教会と行政による9度の立ち退きが実行され、ついに1990年9月、7度目の立ち退きの後に抵抗するムスリムとI教会の兵士が衝突するに至り、ムスリム側にアラブ人大学生を含め6名の負傷者を出すこととなった。(10)

土地紛争の宗教問題化と戦略的本質主義のはじまり
I教会の兵士が銃を使用したのに対してムスリム側が石で応戦したこの事件をマスコミはトップニュースで報道し、そのなかでインタヴューを受けたムスリム側は「まるでパレスチナのようだ」と表現した。また、ムスリム・ミンダナオ自治区の行政議会はこの事件を非難し、もし適切に扱わなければ「両者の間でいつ爆発するか分からない爆弾となるかもしれない」と警告した。(11) この行政議会の反応を契機に、ムスリム側にとってこの土地問題は単なる土地権をめぐる紛争ではなく、宗教間の紛争ととらえられるようになったのである。
この直後、マラナオのアジョン弁護士と衝突現場に居合わせたタウスグのバサ検事は在比リビア大使と面会をおこなった。リビア大使は当初、イスラーム法上、売買・分割・譲渡といった所有権の移動が認められないにもかかわらず、寄進地を売却したフィリピン・ムスリムに対して「目には目を」の報復を求めたが、2人はフィリピンの法律に従うべきだと大使を説得した。(12) 2人が法律家であったことはもとより、「武力で訴えない穏健派ムスリムのわれら」というムスリム像を相手に訴える必要があった。そこには、武力で目的を果たそうとして泥沼化していったモロ民族解放戦線やモロ・イスラーム解放戦線(Moro Islamic Liberation Front: MILF)と自分たちとを差異なる化させ、「ムスリム市民」という像でムスリム諸外国の支持を取り付けようとする思惑があった。そこで大使は、寄進地の売却と同胞への銃撃という二つの問題を解決することを2人に求めた。(13) また、旧IDPの幹部も事態に驚きアジョン氏に助けを求めてきた。そのため、アジョン氏がIDPの顧問弁護士として動くことになった。彼はマレーシア大使館の助言をもとに、サウジアラビアを本拠地とするイスラーム世界連盟(Islam World League)にかけあって裁判資金を得ることができた。ここでも、アジョン弁護士は「イスラームを遵守するわれら」というイメージを打ち出している。その理由は、イスラーム法上、売却や譲渡ができないワクフと知りながら、それを売ってしまった『名ばかりのムスリム』と自分たちは異なると主張するためであった。
このようにイスラーム世界連盟やムスリム諸外国の支援を得て、アジョン弁護士らは、I教会を相手に国家機関の人権委員会やケソン市地方裁判所などに訴訟を起こした。しかし、全て敗訴という結果に終わった。その原因について、裁判官や判事らが相手側に買収されたからだとアジョン氏らは考えた。後がなくなったかれらは、最後の頼みの綱として証券取引委員会内の簡易裁判所に控訴した。団体の正規の幹部によって売却されたのではないとすると、売約は無効となるというのがかれらの唯一の主張だった。この文脈で主張すれば、勝訴する可能性がでてくる。しかし、問題は買収工作の危険性が常につきまとっていたことだった。そこで、2人は買収工作を妨害するため、ムスリムの同胞らに集会をしてもらうことを思いついた。フィリピン人はムスリム戦士を恐れている。ならば、ムスリムらがプラカードを掲げて大声を上げていれば、だれも傍聴席まで入ってこないだろうと考えたのである。(14)

裁判の展開と街頭集会の開始
1992年に証券取引委員会へ控訴してから1997年に最高裁判所が判決を下すまでの間、証券取引委員会・ケソン市地方裁判所・上訴裁判所・大統領官邸・国会議事堂・最高裁判所において、審議と同時に、あるいは審議の場とは関係なく集会が開かれた。アジョン氏とバサ氏はそれぞれの人的ネットワークを利用し、イスラミック・センターで活動していたムスリム青年団体やマニラの大学で学ぶムスリム学生と接触をとった。
1989年の傷害事件後のタンダン・ソラ通りの一画には、キリスト教徒団体や都市貧困層、人権問題に関心を持つ非政府団体などが参入し、なかでもアル・ファティハ財団(Al-Fatihah Foundation, Inc. )と、バンサモロ青年学生組織(Bangsamoro Youth and Students Association)、モロ人権センター(Moro Human Rights Center)の3組織が顕著な動きをみせた。(15) 当時の残留人口はタウスグが15世帯、マラナオが2世帯とわずか17世帯だったが、タウスグとマラナオにはそれぞれ認知され尊敬されている指導者的人物がいた。このことからもわかるように、かれらは統一した組織をもっていなかった。そのため、立ち退きを受けてモスクとマドラサに避難した人々に救援物資を配ろうとしたアル・ファティハ財団は、各リーダーに許可を得なければならなかった。この経験をうけて、かれらは、寄進されたムスリムの土地および神のものであるモスクを団結して保守するため、残留人口の組織化をうながした。結果、モスクの名称が「平和」を意味するサラム・モスクという名に変更され、そのエージェンシーとしてサラム・モスクおよびマドラサ指導委員会(Salam Mosque and Madrasah Advisory Council, Inc. : SMMAC、以下SMMACと省略)が結成された。多数決の結果からタウスグのハッジ・ヌールがSMMACの会長になった。またSMMACの傘下には、民族内の問題や紛争を解決することを目的として各民族集団の組織が組みこまれた。なお、人口が増加するにしたがって民族集団数も増えている。(16) タンダン・ソラ通りの土地は、名称の変更によって、これ以後サラム・モスク・コンパウンドと呼ばれるようになる。
上記3組織は協力関係にあり、複数の組織にまたがって所属するムスリムも多かった。このようなムスリム青年層の活躍がアジョン弁護士とバサ検事の耳に入るのは必然のことだった。そのため、かれらは青年層のリーダーと接触をとり、裁判に勝つための戦略について話し合うことになった。サラム・モスク・コンパウンドでは、アル・ファティハ財団およびバンサモロ青年学生会議のメンバーであった女性4人と男性1人の計5人の大学生が積極的に活動した。(17) かれらはコンパウンドの家々を1軒1軒訪問して集会への参加や寄付を呼びかける一方で、高校生や大学生、その他の青年を中心とした組織化をはかった。その結果、コンパウンドにはカンピランKampilanという2つのインフォーマルな青年組織がバンサモロ青年学生会議の下につくられた。(18) かれらは週に3度ほどモスクなどで会合をおこなって内部を固めるだけではなく、他地域のムスリム学生を呼んで意見交換するなどして地域間の連携を強めた。5人の大学生は、コンパウンドの各民族のリーダーにも呼びかけた。これに応じたのが、タウスグが会長と幹部のほとんどを務めるSMMAC、マギンダナオおよびイラヌンの組織、マラナオの組織、ヤカンの組織である。かれらは集会を支援し、裕福な者は集会の資金を拠出すること、そうではない家は各家から1〜3人の代表者を集会に参加させることが会合で決められた。最高裁判所前での集会がおこなわれた1995年末と96年、200戸ほどのコンパウンドからおよそ500人が集会に参加した。
マニラ首都圏全体では、各地域のモスクに情報が提供され集会への参加希望者が募られた。集会への参加の呼びかけはバンサモロ青年学生会議のメンバーが口伝えや戸別訪問する一方で、イマムやモスクの管理者と話をして、金曜日の集団礼拝の後に告知してくれるよう頼んだり、メンバー自らが告知したりした。ムスリム社会内部の階層間の亀裂を生みだすことを避けるため、かれらは、土地を売却した一部のムスリムのリーダーについては触れずに、「リビアから寄進されたムスリムの土地が他宗教者に取られようとしている」と述べ、これをミンダナオ紛争の歴史に結び付けてムスリムの団結を呼びかけた。また、かれらは裁判文書や証拠文書、ならびに独自に発行した『スアラ・カラパタンSuara Karapatan(正義の言葉)』という広報誌を方針説明書として配布し、建物の壁面に貼った。さらに、メディアにこの問題について取り上げるよう、記者会見をひらいた。このように、さまざまな手段によって、この土地紛争をコンパウンドの住民の問題でなく、ムスリム・コミュニティの問題とすることによって、他の地域に住んでいたムスリムらをも動員させていった。

街頭集会の「イスラーム化」
ムスリムたちは、集会を行うごとに規模や後援者を増やしていった。1992年に大統領官邸の前で1度、1993年に人権委員会の2回、大統領官邸の前で1回、1994年にケソン市庁舎と控訴裁判所前でそれぞれ1回、1995年には最高裁判所の前で3度、1997年に国会前で2度、集会がおこなわれた。通常の集会は拡声器をつかったり声を張り上げたりするため、静粛に行う礼拝集会は逆に注目をあびる。このような礼拝集会も、1996年に大統領官邸の前で行われた。
1992年6月に初めて大統領官邸前で集会がおこなわれた。ムスリムらは、「大学地帯」という別名をもつメンディオラMendiola通りに面したセントロ・エスコラ大学前で集合した。メンディオラ通りのつきあたりには大統領官邸があり、この通りは現職大統領への抗議運動をおこなう場としても有名である。(19) この集会には500人ほどが動員され、ムスリムの組織だけではなくキリスト教徒の組織も含めていくつかの組織が集まったものであった。これは、I教会との衝突によって、テレビや新聞でコンパウンドの人々の置かれている状況が報道されたことによる。左翼団体の主導のもと、かれらは互いに日程を調整して合同で集会をおこなった。集会の規模が大きければ大きいほどマスメディアの注目度も大きくなるということをかれらは知っていたのである。それぞれの組織が別々の懸案を持ち寄って発言した。左翼的傾向にあったバンサモロ青年学生会議からもまた、コンパウンド支部の代表として1989年の衝突でひざを負傷したラダミスというタウスグの大学生が発言した。かれは「コンパウンドの土地がどのような目的をもったものだったのか、コンパウンド滞在者、とくに女性や子どもといった社会的弱者がどのような経験をしてきたのかを聴衆に説明した。また、1993年の人権委員会での裁判では、ムスリム側は、モスクを取り壊そうとするI教会の行為はムスリムの信仰の自由を侵すものであり、ひいてはムスリムの人権侵害にあたると主張した。
街頭集会は次第にムスリム色が濃くなっていった。これは、バンサモロ青年学生会議が1992年に新しくつくられたムスリム青年学生連合(Muslim Youth and Student Alliance)の傘下に入ったことによる。ムスリム青年学生連合は、ミンダナオの紛争、ムスリム・コミュニティにまつわる人権侵害、フィリピン政治におけるムスリム社会の位置、ムスリムの民族自決の問題などあらゆるムスリム関連事項を取り上げた。コンパウンドにおいて、かれらは、女性イスラーム知識人を招聘して女性住民に(コンパウンドで初めての)イスラーム教育をおこなったり、子どもたちのマドラサ学級を開いたりして、住民にイスラーム的価値を説いた。以後、コンパウンドの土地問題にかんする集会はムスリム青年学生連合がイニシアチブをとった。
1993年10月の集会では、コンパウンドのムスリム学生に率いられた住民らはキアポのゴールデン・モスクに向かい、そこで他のムスリム組織や集団と合流したあと、大統領官邸に赴いた。このなかには南部フィリピンからやってきたイスラーム布教活動集団のタブリーグtablighもいた。ゴールデン・モスクに集結したのは、特に金曜礼拝においてここがマニラのムスリム・コミュニティの中心地だからである。この集会には数百人もの人々が集まり、2つの全国紙に掲載された。かれらは「我々が望むのは正義であって苦難ではない。あの土地はミンダナオのムスリムのためのものだ」という主張を口にし、『正義を望む、苦難ではなく(Justice, hindi just tiis)』と韻を踏んだプラカードやイスラームのシンボルカラーである緑の旗を持って行進した。報道カメラを意識して、女性はベールをかぶり、男性はアラブ人男性が身に着けるようなショールを羽織った。参加者のなかには、在マニラの私立大学で学んでいたパレスチナ人やヨルダン人のムスリム学生もいた。当時はアラブ人学生も多く、かれらは金銭面での支援に一役買った。かれらの伝手によってアラブの実業家から寄付を得ることができたからである。(20) 以上のように、ムスリムたちはパンフレット、スローガン、旗、服装、礼拝といったツールを用いて街頭集会をおこなうようになった。これらのツールは、マニラでの学生運動においてよくみられるものである。このような手法を継承し非武装で闘うものの、かれらは言語や行為のレベルでムスリムとしてのカラーを押し出し、「モダン・ムスリムなわれら」としての演出をおこなった。これがさらなる青年層のムスリムを動員させる際にも動機付けとなった。そのツールの最たるものがマスメディアの利用である。

メディアの利用
1994年12月、ムスリムらは再びゴールデン・モスクに集合し、ラモス大統領の助力を求めてメンディオラ通りを大統領官邸に向かって進んだ。この街頭集会をおこなう前、ムスリム青年学生連合とコンパウンドの指導者は記者会見をおこない、集会の目的や規模について語った。(21) マニラ社会でマイノリティであるかれらは、この問題を大きく取り上げる必要があった。公表することによって、これまでの支持者から継続的な関心を得るだけでなく、新たな支持者を獲得しようとしたのである。一方、メディアの反応はおおよそ中立的だった。タブロイド紙のなかには、「ムスリム対I教会」というように宗教対立として書き立てるところもあったがそれも一時的なものであったし、全国紙は宗教的側面を強調せずに、この問題を二者間の土地所有権の争いとして取り上げた。それでもメディアの対応は、I教会のもつ政治経済的影響力を考慮に入れればムスリム側にとって幸運であったと、当時この事件を追っていたムスリム新聞記者は述べる。彼によると、この出来事でムスリムは自発的に情報を提供し、マニラ発のメディアに代弁者となってもらうことを学んだ。(22) また、マニラで高等教育を受け、タガログや英語を流暢に、かつ説得的に話すことができるムスリム学生だからこそ記者会見をおこない、フィリピン社会の関心を引くことができたのであって、地方に住み高等教育を受けていない他のムスリムは同じことをできない、あるいはメディアを活用することすら思いつかないだろう、と同連合の幹部は言う。
本件が最高裁判所に上告されたのは1994年であったが、裁判が「故意に保留され続けた」として、1997年初め、アジョン弁護士らは公正な裁判を求めて最高裁長官と次官を弾劾するためにムスリム国会議員2人の署名を得た。このうち1人はアジョン氏の親戚筋にあたり、もうひとりは同じマラナオであった。弾劾申請によって下院の司法委員会で審議がおこなわれる前に、第10次国会では、9人の下院議員からなるムスリム問題評議会(Committee on Muslim Affairs)を下院決議第1083号にて採択した。これを受けて、ムスリム評議会は新旧のIDPやI教会の関係者を招集し、1997年2月から3月にかけて3度の審理をおこなった。(23) 評議会での審理でアジョン氏らを支持するため、コンパウンドのムスリム指導者たちが組織化した。マニラ首都圏のムスリム住民やその他の地域から来たムスリムの同胞が3000人ほど集まって国会前で主張を訴えた。そのなかにはウラマー(イスラームの宗教知識人)もいた。かれらは、ケソン市地方裁判所や控訴裁判所の判決は間違いであり、評議会での審理で売約が無効であることが確認されるだろうと訴えた。また、最高裁に対して十分に注意して判決をおこなうようにと警告を発した。アジョン弁護士は、そのときの戦略について次のように語る。

もし、I教会本部が(の土地と建物が)タンダン・ソラのムスリムに売却されたら、I教徒はそれを受け入れるのか。ムスリムが(フィリピンのカトリック教会の中心地である)キアポ教会を購入したら、カトリック教徒はどう思うのか。(24) かれらは死ぬ気で取り返すだろう。だから、私たちムスリムは死ぬ準備ができていると公に宣言する必要があった。それが私たちのコンセンサスだった。全てのムスリム組織が協力し、ミンダナオにいたムスリム政治家やウラマーが大統領や国会宛に「土地を奪わないでくれ、私たちは死ぬ準備ができている。私たちはみな戦う」と手紙を書いた。それが私たちの戦術であった。その後に集会を開催した。そうでないと負けてしまうから。(中略)下院議員や知事らが私に妥協を求めてきたが、私はムスリムが勝訴しない限りダメだと断言した。もし、このまま放置すればケソン市で流血事件が増加・激化し、ひいては宗教戦争ないしは内戦となるだろうと私は答えた。(25)

コンパウンド住民の動態
1)集会参加の動機と世代
アジョン氏らは、ムスリムらが寄進地であるサラム・モスク・コンパウンドの土地を奪還するために「死ぬ気で」いると言った。だが、このような考えを全てのムスリム、とくにコンパウンドの住民全員が有していたとは考え難い。以下では、この土地紛争においてコンパウンドの学生たちや青年層、その他の住民がどのような動機で参加していたのかをみてみたい。
コンパウンドの元活動家たちは、みな1990年代前半に大学ないしは高校に通っていた世代であり、ミンダナオの紛争経験者とは異なる世代である。彼・彼女らは有力な政治一家の出身ではなく、ごく普通の家の出だった。マニラ生まれで、のちにバンサモロ青年学生組織のコンパウンド事務局長となったシェンは「ムスリムに対する差別・人権侵害」に対して憤慨していたが、集会や活動自体を楽しんでいたと回顧する。集会への参加の理由について、彼女は食事や交通費がタダだったことや、集会に参加する経験をしたかったことを挙げた。コンパウンドの青年リーダーに「連れてってあげる」と言われたことも彼女の腰をあげさせた。彼女たちはアル・ファティハ財団から小遣いをもらうこともあった。(26) また、サンボアンガの私立高校を卒業し、マニラの私立大学で看護学を学んでいたアーニーは、「青年たちの組織化は、看護学の実習でしたことがあったので大変ではなかった」と言い、何度か警察にホースで水をかけられた経験を楽しそうに語った。彼女は大学卒業後も活動家として積極的に他の集会に参加していた。人権委員会の前でひざの傷をみせたラダミスの弟ラムセスは「兄に呼ばれたから」という。
このように、元活動家や若者たちの街頭集会参加への動機は、面白さや市民社会への参加という新しい体験への希求、友達や家族づきあい、小遣い稼ぎなどであり、コンパウンドにおける「『不正義』の是正」はこれらの動機の一つでしかなかった。これは、ムスリム青年学生連合などが示そうとしていた「イスラーム的団結(Islamic solidarity)」というイデオロギーとは相違するものである。このような意識の相違についてはマッケンナも描いている。ミンダナオ地方では、1970年代からMNLFやMILFの活動が4半世紀続いているが、同地方のコタバト市で長期滞在調査をおこなったマッケンナは、その著書のなかでモロ分離主義運動の幹部とムスリム平民との間に温度差があることを示した。「モロの民族自決」というイデオロギーを掲げていた幹部たちとは異なり、平民らは必ずしもそれを理由に分離主義運動を支援していたわけではなく、個々人には「自衛、復讐、略奪、コミュニティの防衛、社会的圧力、軍事的な抑圧、個人的な野望など」の理由があり、「モロのための闘い」はその一つにすぎなかった[McKenna 1998: 279, 286]。この事例と類似した傾向がコンパウンドの住民にもみられる。
また、世代の差もみられる。コンパウンドの年寄りらが集会に参加した動機は、居住地の喪失という実生活上の不安が第一に挙げられ、次にミンダナオにおける「他宗教者による土地の奪取」という直接的・間接的経験に対する怒りと恐れが挙げられた。そして多くの場合、かれらは、そのような不正や権力に誇り高く立ち向かうものとして、マラタバットmaratabat、すなわちモロの誇りを顕示する必要があると言った。ここに、武力をもちいたミンダナオでの紛争経験者とそうでない世代との差がある。たとえば1991年8月に生じたコンパウンドにおける9度目の立ち退き未遂事件において、バンサモロ青年学生組織を中心とするムスリム青年層は、コンパウンドの門扉の前に人間バリケードを築いて軍や取り壊し部隊が進入するのを防いだ。その背後で、大多数がタウスグであった中年層は事前にマドラサの校舎にアーマライトなどの銃器を運び入れ、当日モスクの裏側で武装して待機していた。中年層が本当に武力衝突するつもりであったのか、それとも「未開で好戦的なモロ」という自己演出の一環であったのかは不明である。しかしながら、両者の闘い方の違いは象徴的であるといえよう。1970年代は、「民族自決」のための分離・独立を求めて武器を手に人々は闘い、1990年代のコンパウンドの闘争においては土地の奪回と正義を求めて裁判と街頭集会という手段で闘った。上記のラムセスは「街頭集会しか『闘う』手段がなかった」と語る。1970年代と1990年代との間にあるのは1986年のピープル・パワー革命である。集会のイニシアチブをとった青年たちは、多感な10代に非武力的な方法でマルコス体制を倒したこの無血革命をみてきた。(27) この世代は、ミンダナオの紛争の最も激しい時期を実体験してきた親世代とは異なる経験や価値観を持っていることが推測される。若者世代で注意すべき点は、マニラにおける高等教育の影響である。マニラには政治的抵抗と学生活動の文化があり、長らく街頭集会の舞台となってきた。このため、マニラで高等教育を受けていたムスリム学生は、大学で学業だけでなく、それ以外の活動にも従事してきた。(28) そのひとつが街頭集会である。現代において、これらの学生は1970年代までのように名家の子息たちだけでなく、一般のムスリム男女も含まれている。かれらは、本報告で取り扱う事例のように、従来名家の子息たちの役割である政治活動のリーダーという役割も担った。
さらに、上記の元活動家には女性が多いといったことから、参加者におけるジェンダー間の違いがみられた。女性たちの参加は、ムスリム青年学生連合が成人ムスリム女性を対象に実施したイスラーム教育によるところが大きい。また、女性たちの多くが高校や大学に通っており、たいていはコンパウンドの親戚の家に滞在して親の目から離れていた。故地の教育水準、平均結婚年齢、社会的制約と照らし合わせたとき、マニラという都市であったからこそ女性たちがこれほどまでに活動的であったとも考えられる。他方、男性は既婚であれば生計を営むのに忙しいため、SMMACの役員で生業を子供にまかせている年配男性、マニラに職探しに来ている独身男性、そして時間の都合がつく学生が参加した。しかし、現職の警察官ないしは警察官をめざして学業に就いている者も多く、これらの公務員や公務員志望者は、国家の治安を乱す集会への参加を禁止されていた。このため、男性のプレゼンスが女性よりも少なかったのである。
以上、集会参加者の動機や背景を世代やジェンダーからみてきたが、コンパウンドには非参加者もいた。かれらが「集会に参加してもしなくても事態は変わらない」「仕事の方が大事だったから」という理由を挙げていたことからも、コンパウンドの住民が決して一枚岩でなかったことがわかる。このことは、次の「モロ民族意識」の問題を想起させる。
2)モロ民族意識
1970年代に興隆したフィリピン・ムスリムの分離・独立運動においては、各民族の政治的・社会的・文化的境界を超え、共通の歴史を持つひとつの「モロ民族」としてのアイデンティティの構築が試みられた。(29) コンパウンドの事例では、多様な民族から成るバンサモロ青年学生組織もこれと同じ路線上にあった。かれらはマニラ首都圏のモスクで集会を開いたり、セミナーを開催したりした。そこでは、ミンダナオ問題やムスリム地域のモロが議題として取り上げられ、ムスリム著名人なども呼ばれた。また、コンパウンドだけではなく、キアポや他のムスリム・コミュニティでも青年層の組織化がおこなわれ、地域や民族の壁を超えた連携の強化が試まれた。これらの活動への参加は、コンパウンドの青年層のムスリム・アイデンティティにどのような影響を及ぼしたのであろうか。
ミンダナオのサンボアンガ市で高校を卒業し「冒険をするために」コンパウンドにやってきたワドゥド(1973年生)は、サミフィルの招待を受けて3回集会に参加した。彼は、バンサモロ青年学生会議が政治的に「モロ民族」という言葉を使用することについては同意的な立場にあるが、自身がモロと言われることには否定的である。「モロは勇敢だが、悪く言えば野蛮である。モロは学業を終えるとフィリピン・ムスリムになる」というのが彼の認識である。(30) 一方、その認識を持ちながらも「モロ」という呼称を好むのは、1991年からコンパウンドに滞在し集会に参加してきたベン(1974年生)である。

モロ民族という言葉は誤解を招きやすい。モロ民族とは教育を受けておらず、読み書きができず、野蛮で好戦的な者たちを意味する言葉として使われてきた。しかし、我々はそれをナショナル・アイデンティティにしようとしている。我々は、みずからをフィリピン人として認めることができない。もちろん、願書などに記入しなければならないときは便宜的にフィリピン人と書くが。というのも、フィリピンとはフェリペ2世の国ことであり、彼の支配下、すなわち植民地下にあることを意味するが、自分たちムスリムは一度たりともかれらに制圧されなかったからだ。(31)

現在、モスクとマドラサには民族ごとの住み分けがみられる。(32) これは、コンパウンドの人口が急増したことにもよるが、主因はI教会という「外敵」が消失したことによって、それまで水面下にあった民族間の文化的相違やそれを元とする確執が形となって表れたことによる。フィリピン政府やアラブ諸国からのモスクへの寄付金という政治経済的な要因も大きい。事実、バンサモロ青年学生会議やアル・ファティハ財団、ムスリム青年学生連合の活動は、いまやコンパウンドではおこなわれていない。それどころか、すべて後継者を育てられずに消滅してしまった。これらの組織のコンパウンドからの撤退は、最高裁の判決が出たことがきっかけとなったが、そのほかの理由として、麻薬の売買や銃器の密売が蔓延したことや、イスラーム過激派や武装集団がコンパウンドにやってきたたことが挙げられる。

考察:「ムスリム性」の表象
土地紛争が起きてから8年後の1997年5月、最高裁判所の判決が出された。そこでは、2人がIDPを支持し(このうち1人は最高裁長官)、1人がI教会を支持(I教徒の判事)、もう1人は政治的理由で棄権した。IDP勝訴の判決の理由は、正規のIDPではない者によって契約が交わされたこと、また契約金2200万ペソがそっくり銀行口座に残っていたことだった。これにより、タンダン・ソラ通りの土地は法的にムスリムたちのものになった。 コンパウンドの土地権をめぐる裁判闘争において敗色が濃厚だったアジョン氏らを逆転勝利に導いたのは、かれらが「ムスリム性」を前面に押し出したことである。「ムスリム性」をどのようなコンテクストで戦略的に使ってきたのかについて、冒頭では集団内部と外部の双方をみると述べたが、整理すると、相手や運動の段階によって自己像を使い分けていることがわかった。ここでは、「ムスリム性」の使い分けの相手、すなわち、外国のムスリム、在マニラ/コンパウンドのムスリム、そして国内のキリスト教徒(主流派社会)の3つに分けて考察する。

1)外国のムスリムに対して:ワクフとイスラーム法
 第1に、外国のムスリムに対しては「ワクフを取り返すことでイスラームを遵守するわれら」「フィリピンの法律の範囲内で闘う穏健派ムスリムのわれら」を演出した。これによって、アジョン弁護士らは裁判を始める資金を得ただけでなく、リビアやマレーシア大使、サウジアラビアを拠点とする世界イスラーム連盟の支持を取り付けた。この後ろ盾によって、かれらはイスラームのディスコースを利用することができた。それは、寄進にまつわるあらゆるシャリーア(イスラーム法)の規則を、フィリピン憲法の「信仰の自由」という文言の中に含めるということだった。具体的には、アジョン弁護士らは「あの土地は寄進されたものだから売却することができない」と主張したことである。「フィリピン憲法は宗教の自由を認めている。そのため、宗教施設をつくることができる。だからIDPもイスラーム系総合施設をつくろうとした。その土台となる土地は、リビア政府から寄進されたものである。シャリーアによると、寄進はイスラームに使われるもの全てであり、車や土地も含まれる。しかも、それは売却することができない。ムスリムなら誰しも知っていることだ」とアジョン氏はI教会の弁護士に対して主張した。実際、フィリピンの法規には、ムスリムの離婚を認める属人法はあっても、寄進についての記載はみられない。そのためアジョン氏らは、寄進にまつわるあらゆる規則が「宗教の自由」に含まれるとみなしたのである。また、アジョン氏らは外交上の圧力も利用し、リビア大使館に、当時のケソン市長に対して手紙を書かせている。その内容は「貴殿の治めるケソン市タンダン・ソラ通りの土地は、我々リビア政府がフィリピンのムスリムに対して寄進したものであるため、それが他者あるいは他の目的に使われないように目を配ってほしい」というものであった。

2) 在マニラ/コンパウンドのムスリムに対して:ウンマ・共有する記憶・「モダン・ムスリム」
 第2に、在マニラやコンパウンドのムスリム対して「ウンマでまとまるわれら」という演出がなされた。IDPと自称する集団によって土地が売却されたのにもかかわらず、アジョン氏らはこの問題を「ムスリム・コミュニティ対I教会」という、宗教問題にすりかえた。裁判上での両当事者は、旧IDPと新IDP・I教会であったが、かれらは一部のムスリム指導者の背信行為に言及して内部に緊張を生むことを避け、コンパウンドの住民の利益だけを考えた。デモ行進の調整者たちは「ひとりのムスリムの苦痛は、ムスリム社会全体の苦痛である」と言明して、他のムスリムたちにイスラーム的団結を求めた。このように、この土地紛争をムスリム個人ではなく、ウンマummah(ムスリム共同体)の問題とすることによって、他地域に住むムスリムの支持を得ることに成功した。
 それだけでなく、中年層に対して作用したのは「モロの誇りを守るわれら」という自己演出である。このときに重要な役割を果したのは、ミンダナオにおけるムスリムの共有された記憶である。アメリカ体制期および1950年代、ルソン島やビサヤ諸島から多くのキリスト教徒植民者がミンダナオ各地に到来し、ムスリムの土地を合法に「奪った」という言説を今でもあちこちで聞くことができる(石井[2002]ほか参照)。そのため、1970年代当時、MNLFの指導者ミスアリは、これらの共通の歴史を経験してきた者をモロ民族と称した。同様に、今回の土地紛争に対する集会の動員の際にも、中年層に対しては、モロの共有された記憶について言及された。自分たちの土地を取り戻すことがモロとしての誇りを守ることにつながるとして、共有された記憶を団結の楔として利用したのである。そこには、80年代より活動を展開させてきたMILFの国家に対する要求が「モロの祖先伝来の土地の回復」であったことも影響を与えているといえよう。その一方で、青年層には「正義のために非武装で闘うモダン・ムスリムのわれら」という演出がなされ、マニラで政治運動をおこなっていたムスリム学生だけでなく、遊び半分の気持ちでいたムスリムの若者なども運動に巻き込むことに成功している。
 なお、当初、アジョン弁護士らはフィリピンの法律の範囲以内で、裁判というスマートな形で目標を達成しようと試みたのですがうまくいかず、ついに「未開で好戦的なモロ」というラベリングを利用するにいたっている。これは一見すると首尾一貫性のない戦略にみえる。このように矛盾するような戦略の転換あるいは共時的実践が、結果として古谷のいう「異種混淆性の戦略」としてとらえられることができるだろう。

3)国内のキリスト教徒(主流派社会)に対して:モロというイメージの利用
 第3に、「ムスリム性」を利用することは、国内のキリスト教徒と対峙したときに最も大きな効果をもたらした。かれらは「ムスリムを負けさせたら宗教戦争が起こる」と言ったり、「もし負けたらムスリムは暴動を起こす」と脅したりして、これまでフィリピン社会のマジョリティであるキリスト教徒が描いていた「ジハーディスト」や「野蛮で法も秩序もないモロ」という否定的なイメージを逆手に利用した。集会をおこなおうと考え付いたアジョン弁護士は、「一般のフィリピン人はムスリムの戦士たちを恐れている」と考えており、「ムスリムたちがプラカードを掲げて叫んでいれば、だれも怖くて傍聴席まで入ってこられないだろう」と推測した。また彼は、証券取引委員会での裁判で最終判決の書面を作成する判事と会い、「もし、判決を覆すようなことをすれば、ムスリムたちはあなたを殺しに来るだろう」とくぎを刺した。(33) このように、街頭集会などにおいて「未開で好戦的な、それゆえに、目的のために手段を選ばないわれら」という自己演出をおこない、ムスリムらは裁判の公正性と勝訴という目標を達成させるにいたったのである。

終わりに
 本報告で扱ったコンパウンドの事例は、「ムスリム性」をもちいた自己演出を相手や場面に応じて強力に打ち出すことによって、ムスリム集団内部を動員させたケースである。そこでは、マスメディアの力も借りることで、フィリピン主流派社会に対して一定の影響力が及ぼされた。これによって、かれらはフィリピン社会のマイノリティというハンデを乗り越えて目的を達成させることができた。しかしながら、その結果として、かれらはムスリムの否定的なイメージをみずからの実践でもって重ね塗りすることとなり、日常的にムスリムと交流をもたない非ムスリム・フィリピン人との間の心理的な距離を広げるにいたっている。2000年のマニラの高架鉄道における爆破事件では、軍と警察がコンパウンドに居住していたムスリム十数名を証拠や逮捕状なしに連行していったことが、そのような状況を顕著にあらわしているだろう。現在もマニラのムスリムに対する正義の不在がみられており、そこから、今後もムスリムたちは「集団」の創造と集合行為を実践していくことが予測できる。
 なお、本報告は出来事の記述、それも指導者層を中心としてきた。そのため、日常生活におけるコンパウンドの人々のアイデンティティや社会関係の構築についての考察、またはミンダナオのコンフリクトとの関連での議論ができていない。そこで、次の3点が課題として挙げられる。
第1に、「サラム・モスク・コンパウンドの土地紛争は、フィリピンのムスリムが団結しなければならないという歴史への教訓である」とアジョン氏は言った。当初「目には目を、武力には武力を」でしか対応できなかったムスリム住民はフィリピンの法規に従い、「民主的な方法」でこの紛争に勝利した。これをサラム・モスク・コンパウンドのエンパワメントと考えてもよいだろう。事実、住民らは、長年の闘争の末の逆転勝利は自分たち多様な民族のムスリムが団結したからこそ得られたものであると考え、それを誇りに思っている。しかし、現在のコンパウンドにおいてエンパワメントの波は凪いでいる。コンパウンドの指導者層がその後この経験をどのように活かしたのか、コンパウンド内の組織化にどのような影響が及ぼされたのかについて今後調査したいと考える。 
第2に、現在、コンパウンドの社会経済活動は、年寄りから街頭集会の中心的役割をしてきた元活動家たちの世代へと替わろうとしている。フィリピン社会の現代的情勢とあわせ、この第1.5世代(マニラで青年期を迎えた者たち)の「モロ意識」や自民族中心主義といったアイデンティティの動態を、彼らの経済活動ならびにライフサイクルのなかから探っていくことが課題として残される。
第3に、本報告は、マニラの土地紛争というローカルで実際的な事例におけるムスリム性の象徴について扱ったが、今後はこれをより大きなモロの武力運動におけるムスリム性との関係を検討したいと考える。ミンダナオの都市部で長期に住み込みをしたマッケンナは、一般のムスリムがMILFに賛同した背景について論じている。そこでの「ムスリム性」の表象と、本報告で論じたムスリム性とはどのように兼ね合うのか、などの点を考え、複雑なムスリム像を解明していきたいと思う。


(1) 本報告で使用するデータは、主として2005年3月から9月にかけておこなった聞き取りと文献調査で得たものである。聞き取った内容は、雑誌や新聞記事、大学図書館、国立および地方自治体の公文書館などの資料で跡付けした。
(2) ジャビダー事件は、フィリピン国軍の秘密訓練を受けていたモロの青年ら10数名が国軍兵士によって殺害されたとされる事件である。
(3) IDPには計9の組織とその代表者が理事として名を連ねた。@フィリピン・ムスリム協会(Muslim Association of the Philippines: MAP)とその会長のドモカオ・アロントDomocao Alonto上院議員、Aイスラーム組織であるフィリピン・アンサール・イスラムAnsar Islam of the Philippinesとその会長、Bイスラーム最高会議とその代表者であるアリAli知事、Cラナオ・スルタネートRoyal Sulanate of Lanaoとその会長のRashid Lucman氏(反キリスト教徒ゲリラ組織のBlackshirtの長でもある)、Dアミンカドラ・アブバカルAminkadra Abubakarスルー州ホロ市長、Eシアシ出身のアニAnni下院議員、Fモロ民族解放戦線(MNLF)とその指導者ヌル・ミスアリおよび副長サラマット・ハシム、G国家統合委員会とママ・シンスアットMama Sinsuat委員会長、Hフィリピン大学イスラーム研究科とその研究科長でシリア生まれのイスラーム改宗者セサル・マフール氏Dr. Cesar Majul、Iフィリピン・ムスリム弁護士連盟と会長のマミンタル・タマノMamintal Tamano上院議員、このほか、ファロック・カウピソFaurok Carpiso、ムシブ・ブアットMusib Buat、クヌグ・プンバヤKunug Punbaya、カレル・シドレCarel Sidre(マルコス元大統領夫人の甥でイスラーム改宗者)などの15人が役員として名を連ねた。さらに、事務総長としてMacapanto Abbas Jr. がいた。
(4) フィリピンでは、あらゆる組織・団体は証券取引委員会に法人登録されなければならない。
(5) ムスリム関係委員会は、1982年にムスリム関係省(Ministry of Muslim Affairs)に格上げされた。長官は前身と同じくエスパルドン氏であった。
(6) Z弁護士は、フィリピン・イスラミック・ダクワ会議の会長であるとともに、フィリピン・イスラーム改宗者協会(Converts to Islam Society of the Philippines)の事務総長でもあった[Ministry of Muslim Affairs 1981:18]。
(7) 1982年7月27日、ラマダン明けの祭に合わせてモスクの落成式がおこなわれた[Ministry of Muslim Affairs 1982:12; Manila Bulletin. July 21, 1982].
(8) Z弁護士へのインタヴュー(2003年2月27日)。
(9) 当時のレートは、1ペソが0.046米ドルであった。
(10) Philippine Daily Inquirer. September 8, 1990.
(11) Malaya. September 13, 1990.
(12) アジョンAdiong氏へのインタヴュー(2005年7月14日)。
(13) リビア大使の発言は、アジョン氏から間接的に聞いたものである。
(14) アジョン弁護士へのインタヴュー(2005年7月14日)。
(15) アル・ファティハ財団は、結成時にドイツ、その後はオーストラリアから資金を得ており、マニラのムスリム貧困地区において組織化や保健衛生プログラムを実行したり、公立小学校などでキリスト教徒とムスリムの対話集会をおこなったりしていた。この最高幹部は2人のカトリック教徒であるが、外国人を含め、多くのムスリム学生らがメンバーとして加わっていた。のちの下院議員ムジブ・ハタマンMujib S. Hataman氏が在学中に結成したのは、バンサモロ青年学生組織である。この組織はマニラのムスリム個人やコミュニティに対する政府や警察の非人道的行為といったムスリム関連事項だけではなく、原油や授業料の値上げといった社会的事項をもとりあげて抗議集会を指揮した。さらに、政治問題や歴史認識についてのセミナーも各ムスリム・コミュニティで開催した。そのためバンサモロ青年学生会議は、タギッグ町やキアポ地区・ケソン市パヤタス地区・同市ノバリチェス地区といった主要なムスリム・コミュニティの位置する首都圏各地域に支部を設け、それぞれの支部に学生代表者を立ててネットワークづくりをおこなっていた。また、モロ人権センターは、マニラのムスリムが人権侵害にあったときに駆け込み寺の役割を果すことを掲げ、人権委員会ムスリム委員と密に連絡をとった。
(16) 当初は人口が少なかったことからタウスグ、マギンダナオ(およびイラヌン)、ヤカン(およびサマ)、マラナオの4集団が組織化された。しかし、人口が増えたためにイラヌンがマギンダナオから、またサマがヤカンから分離し、2000年にはバリック・イスラームが新しく組織化されたため、現在では7集団が存在する。
(17) 民族言語集団的内訳は、マギンダナオが2人、タウスグが2人、サマが1人である。
(18) ベンBenによると、かつてバンサモロ青年学生会議のメンバーは学生に限定されていた。しかし、学生以外の若者も多くいたため、バンサモロ青年学生会議は卒業したり退学・休学したりしている若者を含めようと(SEC未登録の)インフォーマルなKampilanをつくった(2005年7月13日)。
(19) メンディオラ通りでは、1970年1月から3月まで当時のマルコス大統領への大規模な抗議運動が展開された。1987年1月には真の農地改革を求めて1万人の農民が抗議集会を開かれ13人が警察に殺害され、2001年1月には、汚職の罪で逮捕・起訴されたエストラーダ前大統領の釈放を求めて、エストラーダ支持者と国軍が衝突した[http://en.wikipedia.org/wiki/Mendiola_Street_Manila]。
(20) このように初期の集会では、ムスリムらはアル・ファティハ財団の資金とマニラに滞在するムスリムから得た寄付に全て依拠するといったように財政的に不安定だった。かれらの経済的状況が改善するのは、コンパウンドの土地の売却にかかわったL夫人が1994年にムスリム側に付いてからであった。その背景は次のとおりである。当初L夫人は利子を含めI教会に貸した3億ペソの返済を求めていたが、やがてコンパウンドの土地の一部を譲渡してもらおうとI教会を訴えた。最高裁で敗訴したL夫人は方向転換し、ムスリムがI教会に勝訴するによって、新IDPに貸した900万ペソと利子を返してもらおうとかれらを援助し始めた。(最高裁判所の判決文を参照[http://www.lawphil.net/judjuris/juri1995/jun1995/gr_107751_1995.html])L夫人は3年のあいだ金銭面でムスリムの集会をサポートした。プラカードの制作費、会議費、集会参加者の食費や移動費を拠出した。ムスリム側が控訴裁判所で敗訴した後、L夫人はさらなる資金を投入し、以降、全ての集会参加者は交通費や食費だけでなく、ときには小遣いさえでも受け取ることができた。
(21) Manila Bulletin. Dec. 23, 1994.
(22) エド・ウスマンEdd K. Usman氏へのインタヴュー(2005年9月21日)。
(23) ミンドッグ氏によると、そのメンバーはタウィタウィ出身のヌル・ジャファルNur G. Jafaar下院議員、マギンダナオ州出身のダトゥマノンDatumanong下院議員、リンダ・リンダガランLinda Lindangalan下院議員、アブドゥラナン・ノタモンAbdulanan Notamon下院議員、バリック・イスラームの下院議員、ホロ、バシラン、南ラナオ州のムスリム下院議員、そしてラグナ州の下院議員である(2005年7月17日)。
(24) キアポ教会は、フィリピンのカトリックの中心的存在である。
(25) アジョン氏へのインタヴュー(2005年7月14日)。
(26) シェンへのインタヴュー(2005年6月21日)。
(27) ピープル・パワー革命は、1986年2月、カトリック司教のラジオ・メッセージに応じて、広範な大衆が首都マニラの目抜き通りであるエドサ通りを埋め尽くし、当時のマルコス大統領を無血で失脚させたもので、フィリピンが誇る民主主義であると考えられている。
(28) 1950年代から70年代までのムスリム学生の運動については、川島の論文[1993]を参照。
(29) また、ミスアリは、フィリピン国家からのミンダナオ独立運動を展開するため、ムスリムだけでなく、ミンダナオに住む山地少数民族やキリスト教徒も「モロ民族」に取り込もうとした。彼の主張は、「モロ民族」と自己定義する者はだれでもモロ民族である、ということである。しかし、一般的にモロ民族とは13の言語集団のムスリムを指す。なお、当時はBangsa Moroと2語であったが、現在ではBangsamoroと1語で用いられている。これについて、モロ解放戦線の代表者たちは「民族」という単語が強調される1語の方を好むようになったとマッケンナは書いている[McKenna 1998: 322]。
(30) ワドゥドへのインタヴュー(2005年7月9日)。
(31) ベンへのインタヴュー(2005年7月13日)。
(32) 中央のサラム・モスクはタウスグが管理し支配力を示している。サラム・モスクの不正を嫌悪して1991年に別のタウスグがアル・アブラー・モスクの建設をはじめ、2001年にはイラヌンを中心とする集団がアル・イクラス・モスクをつくり、2002年には、ラフマ(RAHMA: Residents and Owners of Maranao Association)というマラナオ組織が自分たちのためのモスクを建設した。さらに、2004年からマギンダナオの集団が独自の礼拝室をつくり、モスクへと昇格させている。
(33) アジョン氏へのインタヴュー(2005年7月14日)。

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雑誌・新聞記事
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“City Muslims, police sign pact, ” Manila Bulletin. November 13, 1981.
“QC Muslim Mosque Opens, ” Manila Bulletin. July 21, 1982.
“Muslim Sue QC Officials, ” Manila Bulletin. September 12, 1988.
“Gunmen fire at QC mosque; 6 wounded, ” Philippine Daily Inquirer. September 8, 1990.
“ARMM seeks speedy probe on Muslims’ slay by INK, ” Malaya. September 13, 1990.
“Muslims rally today to seek Ramos help, ” in Manila Bulletin. Dec. 23, 1994.
“Philippine Police Detain Muslim Suspects”. USA Today. January 4, 2001.
“Moro-Moro on the Rise”. Bualat. Volume 2. Number 42. November 24-30, 2002.

インターネット
Bualat http://www.bulatlat.com/news/2-42/2-42-moro.html
Mendiola Street http://en.wikipedia.org/wiki/Mendiola_Street_Manila
Moro Human Rights Center http://kalilintad.tripod.com/about_us.htm
USA Today http://www.usatoday.com/news/world/nwsthu01.htm





UP:20101123
全文掲載  ◇生存学創成拠点の刊行物  ◇テキストデータ入手可能な本  ◇身体×世界:関連書籍 2005―  ◇BOOK 
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