土地紛争にいたる経緯
ケソン市のタンダン・ソラTandang Sora通りに面した4.9ヘクタールのサラム・モスク・コンパウンドの土地は、1971年にフィリピンを訪問したのちの国務大臣サリー・ボヤシルSalih Boyasir氏により、マニラにイスラーム系総合施設を創設するために寄進(waqf、ワクフ)されたものである。1971年は、上述のジャビダー事件をきっかけに南部フィリピンにおいてムスリムが超民族的なモロ民族解放戦線(Moro National Liberation Front: MNLF)を結成して分離・独立運動を展開し始めた時期である。指導者ヌル・ミスアリは、スペインが名づけたモロという蔑称を肯定的に解釈しなおし、民族を意味するバンサbangsaを頭に付けてバンサ・モロBangsa Moroというフィリピン・ムスリムの統合的な「民族」をつくりだした。また、それまでモロの指導者たちは民族間で反目し、民族内でもクラン間で自由党と国民党に分かれて対立していた。このため、大使らはこれらのモロを団結させ、フィリピン・ムスリム全体の恩恵となるようマニラにイスラーム系総合施設を設立することを発案し、資金提供の条件としてモロの指導者たちに個人ではなく協会・組合を単位に組織化することを求めたのである[Lucman 2000: 306]。そこで結成されたのが、非党派で連合組織の性格を有するフィリピン・イスラーム理事会(Islamic Directorate of the Philippines: IDP、以後IDPと略称)であった。(3) 1971年11月、リビア政府からの200万米ドルの資金を受けてIDPはタンダン・ソラ通りの土地2画を中国系企業から購入し、宗教法人として証券取引委員会(Securities and Exchange Commission)に登録した。(4)
IDPはタンダン・ソラ通りの土地にモスクやマドラサ(イスラーム学校)、図書館、病院、寄宿舎などの建設を計画したが、まもなく歴史の流れが変わる出来事が起きた。1972年9月、マルコス大統領が戒厳令を布告して国会を停止し、共産党勢力やモロの分離・独立運動を鎮圧する動きに出たのである。大統領の政敵や反政府活動者であったIDPの幹部の多くは、身の危険を感じて故地の南部フィリピンや中東諸国へと逃亡した。IDPの会長も、会員内でただ1人マニラに残ったB判事に土地権利書を預けてマニラを離れた。その後リビア政府からの資金供給も途絶え、この2画は開発がおこなわれないまま忘れ去られようとしていた。しかしながら、1978年にケソン市庁が、IDPに対して土地を押収すると通告してきたことが転機となった。フィリピンでは、通常5年以上不動産税が滞納されるとその土地は公有地に戻されてしまう。この通知を受けて税金納入のやりくりをしたのは、ムスリム関係委員会(Commissioner of Muslim Affairs)のロムロ・エスパルドンRomulo Espaldon長官であった。(5) イスラーム改宗者であった長官は、同じく改宗者でフィリピン・イスラミック・ダクワ会議(Islamic Dawwah Council of the Philippines)の会長であるZ弁護士に相談し、納税金の一部をタンダン・ソラ通りの2画のうち1画を売却してまかない、残りをムスリム関係委員会の予算から拠出したといわれている。その後、両者は1979年から80年にかけてモスクを建設し、数年後にはマドラサ校舎も建てた。(6) Z弁護士の伝手で、モスクと土地は、海外出稼ぎ労働のためにマニラにやってきたイスラーム改宗者たちが住み込みで管理したが、その存在は一般に知らされることはなかった。(7) それが表舞台に立ったのはマルコス大統領からアキノ新大統領へと政権交代した1986年のことである。マニラ市長は、同市キアポ地区を新たにムスリム観光地区とするため、当該地区のゴールデン・モスクの周辺に不法居住していたムスリムらを撤去させる計画を立てた。この計画に、新設された大統領府下部機関のムスリム関係局(Office on Muslim Affairs)のカンドゥ・ムハリフCandu Muharrif長官が「ケソン市にムスリムのための(無料の)土地がある」と口添えしたことによって、宗教施設の建設を目的としたタンダン・ソラの土地にキアポ地区のムスリム不法居住者たちが移転してきた。
1986年10月にタンダン・ソラ通りの一画へ転入してきたムスリムの多くは、1970年代に南部フィリピンで生じた紛争からマニラ市キアポ地区に逃れてきた国内難民であり、多くはその後小売業や露天商、海外出稼ぎ労働者、周旋人、警備員などに従事していた。最初に移転したのは、数10家族のマラナオと少数のタウスグであった。その後、この移転を聞き及んだ他の民族もタンダン・ソラに集団で移転できるようムハリフ局長にかけあった。そこでムハリフ局長は、マラナオ地区、マギンダナオ地区、ヤカン地区、タウスグ地区といったようにその一画を民族別に分割した。住み分けがおこなわれたのは、それぞれの民族に土地を均等に配分した方が土地をめぐっての争いが起きないだろうと考えられたからである。多くのムスリム移転者たちは日中キアポで生業を営み、夜間あるいは休日をこちらで過ごしていたようである。その後、人づてにこの一画のことを聞いたムスリムが、マニラ市のイスラミック・センターIslamic Centerや首都圏タギッグ町のマハルリカ・ビレッジMaharlika Villageなどから移入し、タンダン・ソラの人口は徐々に増えていった。
ところで、モスクを掌握していたZ弁護士と土地権利書を所有していたB判事、IDPの末席に名を連ねていたC技師らは1984年に新しくIDPを結成した。1988年、かれらはキリスト教徒のL夫人から土地を担保に900万ペソを借り、一部を不動産税の支払いに充て、一部を私的に流用した。1年後、借金返済の目途がたたなくなったことから、かれらはL夫人に土地の売却を申し出た。これにはもう一つの理由があった。ムスリム不法居住者たちの流入によって、この土地はもはやイスラミック・センターの建設に適した場所ではなくなったと新IDPはみなした。これによってリビア政府がセンター設立の計画を中止するのではないかとかれらは恐れた。それならばこの土地を売ったお金で新しく無人の土地を買い、そこをイスラミック・センターの予定地にしようと考えた。(8) 一方、申し出を受けたL夫人は、この土地の東と南の二方に面して敷地を所有していたI教会に転売の話を持ちかけた。この結果、1989年4月に新IDP・L夫人・I教会の3者の間で条件付売約が交わされた。契約内容は、売約金2300万ペソのうち、土地に滞在するムスリムらを立ち退かせるために100万ペソが前金として新IDPに渡され、更地となった時点で契約が成立して残りの2200万ペソが支払われるというものだった。(9) 契約者との民族的および家族的な繋がり、世俗的なニーズ、騒動への忌避などの理由から一部の住民は補償金をもらって土地を後にした。一部の住民は、その土地が売買・分割・譲渡の禁じられた「ワクフ」であるという「正当な」理由や、ほかに行くところがないという現実的な理由から、受給を拒否した。なかには補償金を受け取っても退去しない者や、逆に1世帯3000ペソという破格の値段を聞きつけて金をもらうために他所からやってくる者もいた。その間にもI教会と行政による9度の立ち退きが実行され、ついに1990年9月、7度目の立ち退きの後に抵抗するムスリムとI教会の兵士が衝突するに至り、ムスリム側にアラブ人大学生を含め6名の負傷者を出すこととなった。(10)
裁判の展開と街頭集会の開始
1992年に証券取引委員会へ控訴してから1997年に最高裁判所が判決を下すまでの間、証券取引委員会・ケソン市地方裁判所・上訴裁判所・大統領官邸・国会議事堂・最高裁判所において、審議と同時に、あるいは審議の場とは関係なく集会が開かれた。アジョン氏とバサ氏はそれぞれの人的ネットワークを利用し、イスラミック・センターで活動していたムスリム青年団体やマニラの大学で学ぶムスリム学生と接触をとった。
1989年の傷害事件後のタンダン・ソラ通りの一画には、キリスト教徒団体や都市貧困層、人権問題に関心を持つ非政府団体などが参入し、なかでもアル・ファティハ財団(Al-Fatihah Foundation, Inc. )と、バンサモロ青年学生組織(Bangsamoro Youth and Students Association)、モロ人権センター(Moro Human Rights Center)の3組織が顕著な動きをみせた。(15) 当時の残留人口はタウスグが15世帯、マラナオが2世帯とわずか17世帯だったが、タウスグとマラナオにはそれぞれ認知され尊敬されている指導者的人物がいた。このことからもわかるように、かれらは統一した組織をもっていなかった。そのため、立ち退きを受けてモスクとマドラサに避難した人々に救援物資を配ろうとしたアル・ファティハ財団は、各リーダーに許可を得なければならなかった。この経験をうけて、かれらは、寄進されたムスリムの土地および神のものであるモスクを団結して保守するため、残留人口の組織化をうながした。結果、モスクの名称が「平和」を意味するサラム・モスクという名に変更され、そのエージェンシーとしてサラム・モスクおよびマドラサ指導委員会(Salam Mosque and Madrasah Advisory Council, Inc. : SMMAC、以下SMMACと省略)が結成された。多数決の結果からタウスグのハッジ・ヌールがSMMACの会長になった。またSMMACの傘下には、民族内の問題や紛争を解決することを目的として各民族集団の組織が組みこまれた。なお、人口が増加するにしたがって民族集団数も増えている。(16) タンダン・ソラ通りの土地は、名称の変更によって、これ以後サラム・モスク・コンパウンドと呼ばれるようになる。
上記3組織は協力関係にあり、複数の組織にまたがって所属するムスリムも多かった。このようなムスリム青年層の活躍がアジョン弁護士とバサ検事の耳に入るのは必然のことだった。そのため、かれらは青年層のリーダーと接触をとり、裁判に勝つための戦略について話し合うことになった。サラム・モスク・コンパウンドでは、アル・ファティハ財団およびバンサモロ青年学生会議のメンバーであった女性4人と男性1人の計5人の大学生が積極的に活動した。(17) かれらはコンパウンドの家々を1軒1軒訪問して集会への参加や寄付を呼びかける一方で、高校生や大学生、その他の青年を中心とした組織化をはかった。その結果、コンパウンドにはカンピランKampilanという2つのインフォーマルな青年組織がバンサモロ青年学生会議の下につくられた。(18) かれらは週に3度ほどモスクなどで会合をおこなって内部を固めるだけではなく、他地域のムスリム学生を呼んで意見交換するなどして地域間の連携を強めた。5人の大学生は、コンパウンドの各民族のリーダーにも呼びかけた。これに応じたのが、タウスグが会長と幹部のほとんどを務めるSMMAC、マギンダナオおよびイラヌンの組織、マラナオの組織、ヤカンの組織である。かれらは集会を支援し、裕福な者は集会の資金を拠出すること、そうではない家は各家から1〜3人の代表者を集会に参加させることが会合で決められた。最高裁判所前での集会がおこなわれた1995年末と96年、200戸ほどのコンパウンドからおよそ500人が集会に参加した。
マニラ首都圏全体では、各地域のモスクに情報が提供され集会への参加希望者が募られた。集会への参加の呼びかけはバンサモロ青年学生会議のメンバーが口伝えや戸別訪問する一方で、イマムやモスクの管理者と話をして、金曜日の集団礼拝の後に告知してくれるよう頼んだり、メンバー自らが告知したりした。ムスリム社会内部の階層間の亀裂を生みだすことを避けるため、かれらは、土地を売却した一部のムスリムのリーダーについては触れずに、「リビアから寄進されたムスリムの土地が他宗教者に取られようとしている」と述べ、これをミンダナオ紛争の歴史に結び付けてムスリムの団結を呼びかけた。また、かれらは裁判文書や証拠文書、ならびに独自に発行した『スアラ・カラパタンSuara Karapatan(正義の言葉)』という広報誌を方針説明書として配布し、建物の壁面に貼った。さらに、メディアにこの問題について取り上げるよう、記者会見をひらいた。このように、さまざまな手段によって、この土地紛争をコンパウンドの住民の問題でなく、ムスリム・コミュニティの問題とすることによって、他の地域に住んでいたムスリムらをも動員させていった。
街頭集会の「イスラーム化」
ムスリムたちは、集会を行うごとに規模や後援者を増やしていった。1992年に大統領官邸の前で1度、1993年に人権委員会の2回、大統領官邸の前で1回、1994年にケソン市庁舎と控訴裁判所前でそれぞれ1回、1995年には最高裁判所の前で3度、1997年に国会前で2度、集会がおこなわれた。通常の集会は拡声器をつかったり声を張り上げたりするため、静粛に行う礼拝集会は逆に注目をあびる。このような礼拝集会も、1996年に大統領官邸の前で行われた。
1992年6月に初めて大統領官邸前で集会がおこなわれた。ムスリムらは、「大学地帯」という別名をもつメンディオラMendiola通りに面したセントロ・エスコラ大学前で集合した。メンディオラ通りのつきあたりには大統領官邸があり、この通りは現職大統領への抗議運動をおこなう場としても有名である。(19) この集会には500人ほどが動員され、ムスリムの組織だけではなくキリスト教徒の組織も含めていくつかの組織が集まったものであった。これは、I教会との衝突によって、テレビや新聞でコンパウンドの人々の置かれている状況が報道されたことによる。左翼団体の主導のもと、かれらは互いに日程を調整して合同で集会をおこなった。集会の規模が大きければ大きいほどマスメディアの注目度も大きくなるということをかれらは知っていたのである。それぞれの組織が別々の懸案を持ち寄って発言した。左翼的傾向にあったバンサモロ青年学生会議からもまた、コンパウンド支部の代表として1989年の衝突でひざを負傷したラダミスというタウスグの大学生が発言した。かれは「コンパウンドの土地がどのような目的をもったものだったのか、コンパウンド滞在者、とくに女性や子どもといった社会的弱者がどのような経験をしてきたのかを聴衆に説明した。また、1993年の人権委員会での裁判では、ムスリム側は、モスクを取り壊そうとするI教会の行為はムスリムの信仰の自由を侵すものであり、ひいてはムスリムの人権侵害にあたると主張した。
街頭集会は次第にムスリム色が濃くなっていった。これは、バンサモロ青年学生会議が1992年に新しくつくられたムスリム青年学生連合(Muslim Youth and Student Alliance)の傘下に入ったことによる。ムスリム青年学生連合は、ミンダナオの紛争、ムスリム・コミュニティにまつわる人権侵害、フィリピン政治におけるムスリム社会の位置、ムスリムの民族自決の問題などあらゆるムスリム関連事項を取り上げた。コンパウンドにおいて、かれらは、女性イスラーム知識人を招聘して女性住民に(コンパウンドで初めての)イスラーム教育をおこなったり、子どもたちのマドラサ学級を開いたりして、住民にイスラーム的価値を説いた。以後、コンパウンドの土地問題にかんする集会はムスリム青年学生連合がイニシアチブをとった。
1993年10月の集会では、コンパウンドのムスリム学生に率いられた住民らはキアポのゴールデン・モスクに向かい、そこで他のムスリム組織や集団と合流したあと、大統領官邸に赴いた。このなかには南部フィリピンからやってきたイスラーム布教活動集団のタブリーグtablighもいた。ゴールデン・モスクに集結したのは、特に金曜礼拝においてここがマニラのムスリム・コミュニティの中心地だからである。この集会には数百人もの人々が集まり、2つの全国紙に掲載された。かれらは「我々が望むのは正義であって苦難ではない。あの土地はミンダナオのムスリムのためのものだ」という主張を口にし、『正義を望む、苦難ではなく(Justice, hindi just tiis)』と韻を踏んだプラカードやイスラームのシンボルカラーである緑の旗を持って行進した。報道カメラを意識して、女性はベールをかぶり、男性はアラブ人男性が身に着けるようなショールを羽織った。参加者のなかには、在マニラの私立大学で学んでいたパレスチナ人やヨルダン人のムスリム学生もいた。当時はアラブ人学生も多く、かれらは金銭面での支援に一役買った。かれらの伝手によってアラブの実業家から寄付を得ることができたからである。(20) 以上のように、ムスリムたちはパンフレット、スローガン、旗、服装、礼拝といったツールを用いて街頭集会をおこなうようになった。これらのツールは、マニラでの学生運動においてよくみられるものである。このような手法を継承し非武装で闘うものの、かれらは言語や行為のレベルでムスリムとしてのカラーを押し出し、「モダン・ムスリムなわれら」としての演出をおこなった。これがさらなる青年層のムスリムを動員させる際にも動機付けとなった。そのツールの最たるものがマスメディアの利用である。
メディアの利用
1994年12月、ムスリムらは再びゴールデン・モスクに集合し、ラモス大統領の助力を求めてメンディオラ通りを大統領官邸に向かって進んだ。この街頭集会をおこなう前、ムスリム青年学生連合とコンパウンドの指導者は記者会見をおこない、集会の目的や規模について語った。(21) マニラ社会でマイノリティであるかれらは、この問題を大きく取り上げる必要があった。公表することによって、これまでの支持者から継続的な関心を得るだけでなく、新たな支持者を獲得しようとしたのである。一方、メディアの反応はおおよそ中立的だった。タブロイド紙のなかには、「ムスリム対I教会」というように宗教対立として書き立てるところもあったがそれも一時的なものであったし、全国紙は宗教的側面を強調せずに、この問題を二者間の土地所有権の争いとして取り上げた。それでもメディアの対応は、I教会のもつ政治経済的影響力を考慮に入れればムスリム側にとって幸運であったと、当時この事件を追っていたムスリム新聞記者は述べる。彼によると、この出来事でムスリムは自発的に情報を提供し、マニラ発のメディアに代弁者となってもらうことを学んだ。(22) また、マニラで高等教育を受け、タガログや英語を流暢に、かつ説得的に話すことができるムスリム学生だからこそ記者会見をおこない、フィリピン社会の関心を引くことができたのであって、地方に住み高等教育を受けていない他のムスリムは同じことをできない、あるいはメディアを活用することすら思いつかないだろう、と同連合の幹部は言う。
本件が最高裁判所に上告されたのは1994年であったが、裁判が「故意に保留され続けた」として、1997年初め、アジョン弁護士らは公正な裁判を求めて最高裁長官と次官を弾劾するためにムスリム国会議員2人の署名を得た。このうち1人はアジョン氏の親戚筋にあたり、もうひとりは同じマラナオであった。弾劾申請によって下院の司法委員会で審議がおこなわれる前に、第10次国会では、9人の下院議員からなるムスリム問題評議会(Committee on Muslim Affairs)を下院決議第1083号にて採択した。これを受けて、ムスリム評議会は新旧のIDPやI教会の関係者を招集し、1997年2月から3月にかけて3度の審理をおこなった。(23) 評議会での審理でアジョン氏らを支持するため、コンパウンドのムスリム指導者たちが組織化した。マニラ首都圏のムスリム住民やその他の地域から来たムスリムの同胞が3000人ほど集まって国会前で主張を訴えた。そのなかにはウラマー(イスラームの宗教知識人)もいた。かれらは、ケソン市地方裁判所や控訴裁判所の判決は間違いであり、評議会での審理で売約が無効であることが確認されるだろうと訴えた。また、最高裁に対して十分に注意して判決をおこなうようにと警告を発した。アジョン弁護士は、そのときの戦略について次のように語る。
注
(1) 本報告で使用するデータは、主として2005年3月から9月にかけておこなった聞き取りと文献調査で得たものである。聞き取った内容は、雑誌や新聞記事、大学図書館、国立および地方自治体の公文書館などの資料で跡付けした。
(2) ジャビダー事件は、フィリピン国軍の秘密訓練を受けていたモロの青年ら10数名が国軍兵士によって殺害されたとされる事件である。
(3) IDPには計9の組織とその代表者が理事として名を連ねた。@フィリピン・ムスリム協会(Muslim Association of the Philippines: MAP)とその会長のドモカオ・アロントDomocao Alonto上院議員、Aイスラーム組織であるフィリピン・アンサール・イスラムAnsar Islam of the Philippinesとその会長、Bイスラーム最高会議とその代表者であるアリAli知事、Cラナオ・スルタネートRoyal Sulanate of Lanaoとその会長のRashid Lucman氏(反キリスト教徒ゲリラ組織のBlackshirtの長でもある)、Dアミンカドラ・アブバカルAminkadra Abubakarスルー州ホロ市長、Eシアシ出身のアニAnni下院議員、Fモロ民族解放戦線(MNLF)とその指導者ヌル・ミスアリおよび副長サラマット・ハシム、G国家統合委員会とママ・シンスアットMama Sinsuat委員会長、Hフィリピン大学イスラーム研究科とその研究科長でシリア生まれのイスラーム改宗者セサル・マフール氏Dr. Cesar Majul、Iフィリピン・ムスリム弁護士連盟と会長のマミンタル・タマノMamintal Tamano上院議員、このほか、ファロック・カウピソFaurok Carpiso、ムシブ・ブアットMusib Buat、クヌグ・プンバヤKunug Punbaya、カレル・シドレCarel Sidre(マルコス元大統領夫人の甥でイスラーム改宗者)などの15人が役員として名を連ねた。さらに、事務総長としてMacapanto Abbas Jr. がいた。
(4) フィリピンでは、あらゆる組織・団体は証券取引委員会に法人登録されなければならない。
(5) ムスリム関係委員会は、1982年にムスリム関係省(Ministry of Muslim Affairs)に格上げされた。長官は前身と同じくエスパルドン氏であった。
(6) Z弁護士は、フィリピン・イスラミック・ダクワ会議の会長であるとともに、フィリピン・イスラーム改宗者協会(Converts to Islam Society of the Philippines)の事務総長でもあった[Ministry of Muslim Affairs 1981:18]。
(7) 1982年7月27日、ラマダン明けの祭に合わせてモスクの落成式がおこなわれた[Ministry of Muslim Affairs 1982:12; Manila Bulletin. July 21, 1982].
(8) Z弁護士へのインタヴュー(2003年2月27日)。
(9) 当時のレートは、1ペソが0.046米ドルであった。
(10) Philippine Daily Inquirer. September 8, 1990.
(11) Malaya. September 13, 1990.
(12) アジョンAdiong氏へのインタヴュー(2005年7月14日)。
(13) リビア大使の発言は、アジョン氏から間接的に聞いたものである。
(14) アジョン弁護士へのインタヴュー(2005年7月14日)。
(15) アル・ファティハ財団は、結成時にドイツ、その後はオーストラリアから資金を得ており、マニラのムスリム貧困地区において組織化や保健衛生プログラムを実行したり、公立小学校などでキリスト教徒とムスリムの対話集会をおこなったりしていた。この最高幹部は2人のカトリック教徒であるが、外国人を含め、多くのムスリム学生らがメンバーとして加わっていた。のちの下院議員ムジブ・ハタマンMujib S. Hataman氏が在学中に結成したのは、バンサモロ青年学生組織である。この組織はマニラのムスリム個人やコミュニティに対する政府や警察の非人道的行為といったムスリム関連事項だけではなく、原油や授業料の値上げといった社会的事項をもとりあげて抗議集会を指揮した。さらに、政治問題や歴史認識についてのセミナーも各ムスリム・コミュニティで開催した。そのためバンサモロ青年学生会議は、タギッグ町やキアポ地区・ケソン市パヤタス地区・同市ノバリチェス地区といった主要なムスリム・コミュニティの位置する首都圏各地域に支部を設け、それぞれの支部に学生代表者を立ててネットワークづくりをおこなっていた。また、モロ人権センターは、マニラのムスリムが人権侵害にあったときに駆け込み寺の役割を果すことを掲げ、人権委員会ムスリム委員と密に連絡をとった。
(16) 当初は人口が少なかったことからタウスグ、マギンダナオ(およびイラヌン)、ヤカン(およびサマ)、マラナオの4集団が組織化された。しかし、人口が増えたためにイラヌンがマギンダナオから、またサマがヤカンから分離し、2000年にはバリック・イスラームが新しく組織化されたため、現在では7集団が存在する。
(17) 民族言語集団的内訳は、マギンダナオが2人、タウスグが2人、サマが1人である。
(18) ベンBenによると、かつてバンサモロ青年学生会議のメンバーは学生に限定されていた。しかし、学生以外の若者も多くいたため、バンサモロ青年学生会議は卒業したり退学・休学したりしている若者を含めようと(SEC未登録の)インフォーマルなKampilanをつくった(2005年7月13日)。
(19) メンディオラ通りでは、1970年1月から3月まで当時のマルコス大統領への大規模な抗議運動が展開された。1987年1月には真の農地改革を求めて1万人の農民が抗議集会を開かれ13人が警察に殺害され、2001年1月には、汚職の罪で逮捕・起訴されたエストラーダ前大統領の釈放を求めて、エストラーダ支持者と国軍が衝突した[http://en.wikipedia.org/wiki/Mendiola_Street_Manila]。
(20) このように初期の集会では、ムスリムらはアル・ファティハ財団の資金とマニラに滞在するムスリムから得た寄付に全て依拠するといったように財政的に不安定だった。かれらの経済的状況が改善するのは、コンパウンドの土地の売却にかかわったL夫人が1994年にムスリム側に付いてからであった。その背景は次のとおりである。当初L夫人は利子を含めI教会に貸した3億ペソの返済を求めていたが、やがてコンパウンドの土地の一部を譲渡してもらおうとI教会を訴えた。最高裁で敗訴したL夫人は方向転換し、ムスリムがI教会に勝訴するによって、新IDPに貸した900万ペソと利子を返してもらおうとかれらを援助し始めた。(最高裁判所の判決文を参照[http://www.lawphil.net/judjuris/juri1995/jun1995/gr_107751_1995.html])L夫人は3年のあいだ金銭面でムスリムの集会をサポートした。プラカードの制作費、会議費、集会参加者の食費や移動費を拠出した。ムスリム側が控訴裁判所で敗訴した後、L夫人はさらなる資金を投入し、以降、全ての集会参加者は交通費や食費だけでなく、ときには小遣いさえでも受け取ることができた。
(21) Manila Bulletin. Dec. 23, 1994.
(22) エド・ウスマンEdd K. Usman氏へのインタヴュー(2005年9月21日)。
(23) ミンドッグ氏によると、そのメンバーはタウィタウィ出身のヌル・ジャファルNur G. Jafaar下院議員、マギンダナオ州出身のダトゥマノンDatumanong下院議員、リンダ・リンダガランLinda Lindangalan下院議員、アブドゥラナン・ノタモンAbdulanan Notamon下院議員、バリック・イスラームの下院議員、ホロ、バシラン、南ラナオ州のムスリム下院議員、そしてラグナ州の下院議員である(2005年7月17日)。
(24) キアポ教会は、フィリピンのカトリックの中心的存在である。
(25) アジョン氏へのインタヴュー(2005年7月14日)。
(26) シェンへのインタヴュー(2005年6月21日)。
(27) ピープル・パワー革命は、1986年2月、カトリック司教のラジオ・メッセージに応じて、広範な大衆が首都マニラの目抜き通りであるエドサ通りを埋め尽くし、当時のマルコス大統領を無血で失脚させたもので、フィリピンが誇る民主主義であると考えられている。
(28) 1950年代から70年代までのムスリム学生の運動については、川島の論文[1993]を参照。
(29) また、ミスアリは、フィリピン国家からのミンダナオ独立運動を展開するため、ムスリムだけでなく、ミンダナオに住む山地少数民族やキリスト教徒も「モロ民族」に取り込もうとした。彼の主張は、「モロ民族」と自己定義する者はだれでもモロ民族である、ということである。しかし、一般的にモロ民族とは13の言語集団のムスリムを指す。なお、当時はBangsa Moroと2語であったが、現在ではBangsamoroと1語で用いられている。これについて、モロ解放戦線の代表者たちは「民族」という単語が強調される1語の方を好むようになったとマッケンナは書いている[McKenna 1998: 322]。
(30) ワドゥドへのインタヴュー(2005年7月9日)。
(31) ベンへのインタヴュー(2005年7月13日)。
(32) 中央のサラム・モスクはタウスグが管理し支配力を示している。サラム・モスクの不正を嫌悪して1991年に別のタウスグがアル・アブラー・モスクの建設をはじめ、2001年にはイラヌンを中心とする集団がアル・イクラス・モスクをつくり、2002年には、ラフマ(RAHMA: Residents and Owners of Maranao Association)というマラナオ組織が自分たちのためのモスクを建設した。さらに、2004年からマギンダナオの集団が独自の礼拝室をつくり、モスクへと昇格させている。
(33) アジョン氏へのインタヴュー(2005年7月14日)。
英語
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公文書
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“City Muslims, police sign pact, ” Manila Bulletin. November 13, 1981.
“QC Muslim Mosque Opens, ” Manila Bulletin. July 21, 1982.
“Muslim Sue QC Officials, ” Manila Bulletin. September 12, 1988.
“Gunmen fire at QC mosque; 6 wounded, ” Philippine Daily Inquirer. September 8, 1990.
“ARMM seeks speedy probe on Muslims’ slay by INK, ” Malaya. September 13, 1990.
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“Philippine Police Detain Muslim Suspects”. USA Today. January 4, 2001.
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