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『公共と「私」の倫理学――私企業が担う公共性についての試論』

高田 一樹 20081004 第59回日本倫理学会 報告原稿  ○ワード版



【報告の背景】

 企業の社会的責任について研究を深めるにつれて、この議論における公共と「私」との布置に対する疑問が深まった。企業の社会的責任論における企業とは、会社としての私企業(private corporation)のことを指す。そして私企業という存在は、政府とその監督下に置かれる公社・公団などの公企業(public corporation)と対比される。たとえばM・フリードマンによる議論では、その対比が鮮明に描かれている。
経済史学の先行研究は、私企業と公企業との違いを法人が所有する財産権に求めてきた。私企業は個人の私財から資金を調達するのに対し、公企業の資金は税金でまかなわれる。税金とは、政府、あるいは国家が人々の私財から徴収した公的な財産である。また、財産の使用方法の決めかたに私企業と公企業と違いを見ることもできる。私企業では出資者に財産の処分権が認められ、実質的にはその権限が取締役会に信託されている。それに対して公企業の財産は、政治的な手続きを経たうえでなければその使途を決めることができない。とりわけ民主制のもとでは、政治的な正当性が投票の結果、あるいは代議制に与えられる(注1) 。
そして私企業と公企業との違いは、それぞれの経済的な主体が担うべき役割の違いとしても説明されてきた。個人に経済活動の自由を認める市場では、私企業が私的な領域で商品を生産する。それに対して公企業は、政府の経済政策に沿って税金を投じて公共事業を営む。市場と政府がともに資源を配分する混合経済体制のもとでは、財産権をめぐる企業形態の違いが、それぞれの企業のあるべき姿に投影される。私企業は私有財産を、公企業は税金をそれぞれの所有者に忠実に管理することがその責務となる。そして企業の社会的責任論もまた、この公共と「私」の区別にもとづいて私企業としてなすべきことを語る。
本報告では、公共と「私」に関するこのような思考の枠組みに疑問を投げかける。いまに述べた発想にもとづくかぎり、公共と「私」とは相容れない概念であり、その違いは公共と「私」を担う主体性の違いに還元される。かりに公共性と「私」的なものごとが二者択一でしかないとすれば、公共的な主体が私的に振る舞うことはありえず、また私的な主体が公共性を帯びることもない。むしろ私企業の存在は公共性を脅かすものとしてのみ描かれ、国家や政府が私的な役割を果たすこともまた自己撞着となる。だが本報告のねらいは、企業倫理学の一研究として、公共性を脅かすだけではなく、公共性を支え、担う主体として私企業を位置づけることにある。ここから公共性の新たな概念を構想する。

【二者択一】

 公共と「私」の関係をこのように峻別する思考の枠組みは、企業形態論に特筆されることではない。むしろさまざまな文脈で公共と「私」との違いは、ものごとの本質的な違いとして枠付けられている。公共性を語るひとつの特徴は、ものごとを私的なものとの対比で捉え、その本質が二者択一であるかのよう語ることにある。
たとえばH・アレントが歴史的な叙述からつむぎ出す公共性とは、私有化によって奪われ(de-prived)、失われ、衰える概念である。彼女のいう公共性とは、家族(oikos)的な親しさ、あるいは血縁ではなくとも親密さ(intimacy)に支えられる紐帯が取り持つ人間関係に関わることであり、共同体のための仕事(work)や活動(action)は、労働 (labor)から峻別される。なぜ労働が仕事や活動から切り離されるのか。それは労働の究極的な目的が賃金の私有に定められるのに対し、仕事や活動は人々の親密さに働きかける営みだからである。
またJ・ハバーマスは、公共性の概念を相互に交流する市民間のダイアローグ(討議)として構想する。市民を公共の担い手とする彼の着想は、国民を統率の対象とみなす国家のモノローグ(命令)としてではなく、主体的な市民に支えられる公共性について語るかのようである。だが市民的公共性の「転換」が大衆の消費的な言動に見出され、自由経済における私的な利害関係に疲れ果てた大衆が再び国家による私的領域への干渉を期待するのだと、彼が指摘するとき(第5章16節)、その論調はむしろアレントによる公共性の概念に共鳴する。なぜなら彼が語る市民的公共性もまた、私有化と個人化によって脅かされる概念だからである。 公共と「私」との関係をこのように布置すると、2つの性質は相容れない。私的な主体が公共性を帯びることも、公共的な主体が私的な領野を担うことも語義矛盾である。なぜなら彼が語る公共的もまた、私的なものごととの対比で捉えられているからである。

公共と「私」に関する布置を政治と経済との関係に移調すると、2つの性質がそれほど明瞭には識別できないことが分かる。古代ギリシャの市民社会について、政治と経済の関係を象徴するひとつの雛形としてデフォルメすると、ポリスにおける政治の担い手は、市民権をもつ人々だけにかぎられていたと考えることができる。市民は民会で共同体のありかたを討議し、自らの考えを投票行動に反映させた。ただし今日の民主的な政治形態がポリスと異なるのは、奴隷がいないことにある。ポリスにおける市民権は、政治的な主体となるための必要条件であった。そして参政権を持たない成人は、奴隷として市民に仕えた。古代ギリシャにおける参政権は、成人であればあまねく与えられる権利ではなく、選ばれた人にだけ認められた特権であった。
ポリスにおける奴隷の存在は、すべての成人が政治的な主体とはなりえなかったことを語るにとどまらない。奴隷は市民のために自らの身体を働かせて生産に従事することで、ポリスの経済を担っていた。もっともそもそも所有を権利として正当化できるのは、政治的な主体であることが前提であり、奴隷には所有権がなかった。ポリスにおける市民と奴隷との関係をいささかデフォルメさせると、果実を生産する奴隷が市民よりもその果実を多く私有化することはありえず、大半は主人である市民によって費消された。ここで強調したいのは、政治を市民が担い、その経済を奴隷が支える共同体では、政治と経済のあいだに明瞭な分業関係がみられることにある。
この報告のねらいは、史実を語ることではない。政治と経済を支える主体を分けて考えると、市民と奴隷が現われる。少なくとも古代ギリシャの民主制を範にとると、政治と経済の布置をこのように関係付けることができる。だが近代以降の民主的な共同体では、成人はみな政治的な主体であるとともに、経済的な主体ともなった。成人にはあまねく市民としての参政権が与えられるとともに、共同体の経済を担う役割もあてがわれた。市民は奴隷の不在によって、自らの身体を働かせて経済を支えなければならなくなったのである。
近代市民社会では、すべての市民に生命、身体、財産の所有権が認められる。少なくとも理念のうえでは、奴隷の存在は否定された。ただ人々に経済活動の自由が認められ、資源を市場と政府がともに分配する混合経済となると、政治と経済を担う主体が一体化された。市民は政治的な主体であるとともに、経済的な主体としての個人でもあった。こうして政治と経済と関係に照らして、公共と「私」との区別を論じ分けることが難しくなった。

【公私と主客】

 齋藤純一は、公共性に3つの異なる特徴が内在することを指摘する。これまで公共性に関する言説は、国家に関する(official)こと、すべての人にあまねく通じる (common)こと、誰にでも開かれている (open)ことに縁取られてきたという。この指摘を援用すると、公共的なものごととは、これら三位一体の要素を併せもつ概念として着想できる。
より注目に値するのは、齋藤がこれらの要素は必ずしも並存しないと述べていることにある。公共性の概念を構成する国家、共通、公開という3つの要素は、「互いに抗争する関係にもある」という。私たちは公共性をこれら三位一体化するところに認めてきたのだが、民主的な市民社会では、公共性がそのように実現されるとはかぎらない。


たとえば、国家の行政活動としての「公共事業」に対しては、その実質的な「公共性」(publicness)――公益性――を批判的に問う試みが現におこなわれているし、国家の活動がつねに「公開性」(openness)を拒もうとする強い傾向をもつことはあらためて指摘するまでもないだろう。とくに関心を引かれるのは、「共通していることと」と「閉ざされていないこと」というふたつの意味のあいだの抗争である。両者を同一の平面状におけば、「共通していること」はほとんどの場合「公共性」を一定の範囲に制限せざるをえず、「閉ざされていないこと」と衝突せざるをえない局面を持つからである(齋藤, 2000, pp.H‐I)。


ではなぜ3つの要素は並立しないのか。その理由は、政治と経済を担う主体が一体化された近代において、公共と「私」との関係を峻別できないからではないだろうか。たとえば古代ギリシャにおいて、市民は私有化されない経済的な主体、つまり奴隷に支えられ、経済的な利害にとらわれることなく政治を司ることができた。だが民主制のもとで個々の市民が経済的な主体となることで、公共性を構成する3つの要素が純粋な形で並存しえなくなった。それは、公共と「私」という区別が主体に内在する特徴としてだけではなく、客体として対象に内在する性質と理解できるからである。
たとえば公共経済学における公共財 (public goods)の定義には、次のような了解がある。公共財とは、非競合性(non-rivalness)と非排除性(non-excludability)という2つの性質を併せもつ財やサービスのことを指す。非競合性とは、他人と競合せずにすむことであり、つまり不特定多数の人たちが同時進行で消費・利用できる性質である。また排除性とは、代金不払い者だけを識別して実力行使で排除できるような性質であり、それと対称をなす非排除性はそれができない性質だとされる。公共財の典型として、灯台や国防サービス、道路や公園などの事例がしばしば挙げられる。これらは非競合的であり、かつ非排除性も兼ね備えている。国防や道路や灯台は利用者が数人増えたことで目減りするものではないし、それぞれの利用者から使用料を徴収することも容易いことではない(注2) 。
公共財の公共性は、財やサービスを提供する主体の側ではなく、人間からみて客体となる物的な対象に公共的な性質が見出されている。齋藤の指摘に照らしてみると、公共財が公共性を帯びるのは、その財やサービスが人々に共通して要求されるためであり、また誰かを排除せずにつねに開かれているからである。だとすると公共財の供給者は、公共的な主体であるべき必然性はない。
ただ公共財の性質を別様に定義することもできる。公共財とは誰にも共通し、また、誰にも開かれている性質を持っているという公共経済学の定義とは別に、公共的な主体が供給する財やサービスであり、端的には国家や政府が供給する財やサービスのみが公共性を帯びると考えることも可能である。このように公共財を定義すると、国家が関わらないものごとに公共的な性質が内在することはなくなる。
公共財の公共性を、資源に内在する性質と資源の提供者に内在する性質とに分けて考えることができる。私たちは国家、共通、公開という3つの性質が三位一体となるところに公共性の本質を見出すとしても、それらの性質がつねに並存するとはかぎらない。公共経済学は共通、公開を構成要素とする資源を公共財と呼ぶのだが、国家が提供するものごとを公共財と呼ぶこともでき、その思考の枠組みで公共性のありかたが語られることもある。もし公共性を後者の意味で定義すると、私企業に公共的な役割を担うことはありえない。ただかりに共通、公開という要素に資源の公共性を見出すのであれば、公共的な主体、つまり国家だけが公共財を提供するわけではなくなる。
たとえば私的な主体が担う公共性として、パブリック・リレーション(public relation: PR)に関する議論がある。ここでの私的な主体とは、国家という共同体に同一化されていないという意味で、一個的な存在である。パブリック・リレーションという言葉は、19世紀のアメリカで選挙運動のさいに使われはじめたが、20世紀にはいると私企業が対外的な宣伝交渉の場で頻繁に使うようになった(注3) 。もちろんここでのねらいは、私企業のPR活動を手放しで賛美することにはない。ただパブリック・リレーションという概念、そしてそこで論じられてきたことは、経済の公共性と政治的な主体性とを切り分けたうえで、私的な主体が経済活動を通じて公共的な役割を果たす可能性を示している。

【私的な主体が担う公共性】
 この報告で公共と「私」の関係を論じてきたのは、私的な主体が担いうる公共性の概念を検討することにある。政治と経済を担う主体が一体化された民主的な市民社会では、公共性と「私」的であることの区別をそれほど明瞭に線引くことはできない。私企業という存在が社会的責任として担うべき公共性について検討するうえで、この報告で示した思考の枠組みは看過できないと私は考える。
かりに公共性が「私」的なものごとと並存しえない性質だとすれば、公共性は滅私の主体に支えられ、無私の領野でしか成り立ちえなくなる。たとえば古代ギリシャの政治と経済との関係をデフォルメさせて考えると、市民と奴隷はそれぞれ分業的な役割を担うことになる。だが近代以降の民主制、とりわけ個人に経済活動の自由を認める市場のもとでは、私的な主体が市民として政治と経済をともに担っている。集合表象としての市民には、国家と政府に政治的な正当性を与えることができる。市民には参政権がある。だが市民を個人として捉えると、その個人が共同体と同一視されることはない。だとすると市民は私的な主体として、公共の担い手とはなりえなくなる。公私の関係はそのように布置され、また規範として布置されるべきなのだろうか。
公私の区別は、その必要がしばしば指摘されながらも、それほど簡明に論じ分けることはできない。それは公私混同の状態から「私」的な要素を差し引くと、公共性が現われるという図式では説明できないからではなかろうか。むしろ公共と「私」の関係は、対比的にではなく、私的な主体に支えられる公共性として布置しなおすことができると私は考える。私的な領域が有り、私的な主体が在ることを所与として、公共性の概念を描きなおしてみたい。それは企業倫理学には、公共を担い、支え、しかし脅かすおそれもはらむ存在として私企業の役割を捉えなおす余地があると考えるからである。


【注】
注1もっとも経済私学の先行研究を遡ると、この考え方は企業形態に必然的な区別ではない。17世紀にイギリスやオランダなどヨーロッパ各国で設立された東インド会社は、個々人から出資を募り、政府の特許のもとでそれを運用する企業形態をとっていた。つまり会社の財産権は出資者個々に認められるのだが、財産の処分権は国王や議会の特許の範囲を超え出ることはなかった。
注2ただ実際のところ、これら2つの性質を完備している資源は、そう多くはない。道路も公園も利用者があふれるとだれでも使えるわけではなく、国防も、その規模にもよるが、護ることのできる範囲には限界がある。また公園やプールも出入口で課金すると、料金を支払う人のみが使えるように、フリーライダーを廃除することが可能となる。むしろ純粋に非排除性をもつ財やサービス(pure public goods)とはまれであり、公共性の度合いに議論の焦点が向けられるときには、非競合性や非排除性が僅かでも欠けた公共財は、準公共財(impure public goods)と区別されることもある。
注31900年には、ヘンリー・フォードが「T型モデル」の試作車を発表したさいに、『デトロイトトリビューン』誌の記者を対照としてデモンストレーションを行なうことが初期のPR活動の事例として紹介されている。また同年には、アメリカではじめてパブリシティ会社が設立され、1908年にはAT&T社の年次報告書のタイトルに「パブリック・リレーションズ」と命名された。

【参考文献】
H・アレント、志水速雄 訳 (一九五八) 『人間の条件』、中央公論社、九七三年
J・ハバーマス、細谷貞雄 訳 (一九六二) 『公共性の構造転換』、未来社、一九七三年
M・フリードマン、熊谷尚夫・西山千明・白井孝昌 訳 (一九七〇)『資本主義と自由』、マグロウヒル好学社、一九七五年、および村井章子 訳 『資本主義と自由』、日経BP、二〇〇八年
齋藤純一 (二〇〇〇) 『公共性』、 岩波書店

※ 他、報告者が管理するウェブページhttp://www.geocities.jp/li025960/index.htmlにおいて、企業倫理学に関する文献資料、年表、引用を掲載している



*ファイル作成者:近藤 宏
UP: 20081007
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