はじめに
本稿では移民問題における解決策のありかたとその主体に焦点を当てる。解決策は困難な状況を打開する意図があり、その主体は国レベルからミクロの移民レベルまで存在するといえる。例えば、国レベルで見てみると、グローバル化が進み人の移動が激しくなる中で、移民の受け入れ、そして社会的統合という問題を前に、その対策に国民国家は苦慮している。そういった文脈の中では国が問題解決の主体となって、新しい解決策が生まれる。とりわけ欧州においては移民の出入国管理の権限が欧州委員会(以後、EUと表記)や周辺各国の多国間協定による取り決めに左右されがちで、移民政策に関してその国独自の対応が取りにくく、移民政策の「国際化」や「EU化」の傾向が強くなっているといわれる(宮島、2004)。そうした現実を前にして、近年、この新たな解決策は国民国家による移民政策の「脱国際化」あるいは国民国家への権限の揺り戻しの流れを起こしつつある。実際、シェンゲン協定(1985年)やアムステルダム条約(1999年)の締結によって、出入国管理の権限をEUレベルに負託し、移民政策にかかわるリスクを加盟諸国で分担する流れの中にあって、あえて各国民国家は解決策として、移民に定住促進講習の受講を義務付け、当該諸国の言語・文化習得を促し、それと引き換えに移民の入国ないしは定住を許可しつつあるのである。
そして、この移民に対する定住促進講習は移民問題への解決策として象徴的に位置付けられつつある(Joppke, 2007)。とくに、移民の社会的統合の問題に解決の糸口を探るドイツ、フランス、イギリスなどヨーロッパ各国はもとより、長年多くの移民を受け入れ国づくりをしてきた豪州やカナダでも、こうした講習の効果や役割がますます注目されており、各国はトップダウンで政策の実施を決めてきた。たとえば、ドイツではオランダの講習をモデルに独自の統合プログラム(Integrationskurse)の実施を2005年に連邦レベルにおいて決定し、2007年より各州の教育省の指導のもと、EU域外の外国人定住者を対象に講習が始まっており、移民は300時間の定住講習を受講しなければならなくなった。ベルギーにおいても、2004年にオランダの制度を参考にした定住促進講習(Inburgeringstrajecten)がフラマン地方(オランダ語圏)でスタートし、移民は600時間の講習を受けることになった。オーストリアにおいては、2003年より統合契約(Integrationvereinbarungen)というプログラムが開始され、移民は75時間の講習を受けることが求められるようになった。デンマークでは、1999年より同様の講習が同じくEU域外の移民に義務化され、移民は最大2000時間までのデンマーク語を主体とする講習を受けている。またフランスではサルコジ大統領が内務相時代に、移民の統合へ向けた市民権政策の必要性を提唱し、EU域外からの移民を対象に、200時間から500時間のフランス語とフランス社会についての講習の受講を義務化した統合契約(Contrats d’accueil et de l’integration)の法制化をすすめた。またイギリスにおいては2005年より実施されている帰化希望者向けの市民権テストに加えて、2007年9月からEU域外から定住を目的に入国した外国人向けに英語の講習を中心としたプログラム(English for Speakers of Other Languages with citizenship course)の導入を発表した。一方、こうした講習は移民立国でも実施され始めており、オーストラリアにおいてはAMEP(Australian Migrant English Program)、カナダではLINC(Language Instruction for Newcomers in Canada)がそれぞれ連邦政府の指導のもと、各州別に再編成されたプログラムとして、定住予定の移民を対象に行われている。さらに、ここ日本でも外国人の定住要件の一つに日本語習得が義務付けられるようになるべきとする答申が法務省・外務省による共同タスクフォースから出されており、既存の中国帰国者やインドシナ難民への定住促進支援の枠を外国人労働者へも拡大する方針を打ち出している(法務省ホームページ)。
さて、このように解決策として注目をあびつつある定住促進講習ではあるが、これらの講習は、どのような問題背景から生まれ、いかなる政策目標を解決策として掲げているのだろうか。そして、移民政策の利害関係者たる移民と行政の双方の視点からみて、十分に「解決策」として合意されているのだろうか。国、ストリートレベルの行政、そして移民のそれぞれの主体が考える「解決」とその主体は何かに注目しながら、議論の特徴や問題点を明らかにする必要がある。本稿ではこの点に関して、欧州において、そして世界の移民受け入れ国の中でも、定住促進講習の義務化を他国に先駆けて行ったオランダを事例に具体的な考察を試みたい。オランダという先進事例を扱う中で、移民の統合が持つ重層的な意味についても議論を試みたいと考える。
本稿の構成は次の通りである。まず、定住促進講習が生まれた政策的背景を概観する。ここでは、オランダにおける「解決」の歴史とその変遷を追い、市民化講習が登場するまでの背景を整理する。とりわけ、この講習が登場する以前に、移民政策の分野においてどのような解決策が提示されてきたのか、政府による政策転換に注目しつつ、行政からの視点で整理を行う。そして、市民化講習について、その講習内容について概観する。ここでは筆者が2002年末から行ってきたフィールド調査の成果を踏まえ、ストリートレベルの行政官と市民化講習の受益者たる移民の両方の視点を紹介し、それぞれの意味する「解決策」と「主体」とは何か、検討する。最後に、両者の視点を比較し、重層的な解決策の在り方について議論を試みたい。
1 移民政策による「解決」の歴史とその変遷
歴史的にみると、東インド会社(VOC)を興すなど、オランダは実利を好む貿易立国として、多くの物的・人的資源を活用し、必要に応じて移民を受け入れてきた。そして「寛容」という基本原則を立てることで、相手国や異なる人々の内情には無関心・無関与を貫き、貿易・商業上の実利を追求してきた。結果として、その「寛容性」は今日、異なる文化・社会集団の間の共生を許容かつ促進する多様性の社会モデルとして、研究者だけでなく一般の人々にも幅広く知られている(Lijphart, 1977)。実際、歴史的にはオランダは「寛容」の名のもとに、古くはフランスから逃れてきたユグノーやベルギーからやってきたフラマン人商人や職人、そして19世紀中ごろに労働機会を求めてやってきたドイツ人労働者やユダヤ人商人に始まり、最近ではアジア・中近東の国々から多くの移民労働者や難民を受け入れ、自らの政治・経済制度に取り込み、積極的に活用してきた。またアムステルダムやロッテルダムといった大都市を訪問すると、官庁から商店街までどこでも移民の働く姿を容易に確認できたり、幼稚園や小学校といった学校教育の現場においては肌の色の異なる子供たちが一緒になって遊んでいたり、移民出身の職員や教員が公務に就いていたりするが、こうした現象もオランダが実利を重んずる「寛容性」の名の下で、結果として多様性が根付いていることを示している。そして国の代表的スポーツ、サッカーの代表チームにも人種の多様性が反映されており、実利重視の多様性が規範の現実となりつつあることを示している。
このように多様性の促進に寄与してきたとされる「寛容」であるが、政府による政策を詳細に検討すると、特に信条や宗教の異なる集団に対して「柱状化(Verzuilling)」を促す、つまり「集団としての組織化を認める」という解決策を通じて醸成されてきたことがわかる。17世紀、カトリック・スペインに反抗し、独立したこの新興プロテスタント国家において、信教の自由は基本的な国是であった。「柱状化」という解決策のもと、プロテスタント、カトリック、リベラル派、社会主義派、そして(規模は小さいが)ユダヤ系住民は、自分たちの社会組織を核とした小社会の形成を促された。各小社会には、新聞、労働組合、寄り合い、食料品店、会社、サッカークラブ、学校、政党があり、構成員はその小社会の枠を出ずに生活を営む一方で、小社会のエリート同士で、小社会の枠を超えた事柄について協議をおこなっていた。こうして、マイノリティであっても、自らの小社会へ参加することを通じて、間接的であれオランダ社会全体に参加することが可能になった(Lucassen and Penninx, 1997)。実際、この制度のもとでオランダは、スピノザやデカルトといった知識人、オランダに莫大な富やさまざまな工業技術の英知をもたらしたユグノーやフランデレン人のような職人や商人、そしてアンネ・フランクのような「普通」のユダヤ人の少女までもオランダ国内の小社会に受け入れられてきた。オランダ政府はそうした集団の組織化を促す制度を解決策として持つことに、自らの寛容精神の存在証明を見出し、多文化・多民族的社会としてのオランダのあり方を(たとえ消極的であっても)肯定してきたといえよう(Lucassen and Penninx, 1997)。
こうした集団に対する組織化という解決策は、第二次世界大戦以降の移民流入期においても、1980年代中ごろまでは基本的に維持されたと言ってよい。オランダには現在、(1)1950年代から1970年代にかけて来訪した、インドネシア、スリナム、アンティル・アルーバ諸島などからの(旧)植民地系移民、(2)1960年代から1980年代にかけて来訪し、やがて定住化したトルコやモロッコからのゲストワーカーおよび彼らの子弟、(3)1980年代後半以降、とりわけ冷戦後に世界各地で起きた紛争の過程で住む場所を追われ、オランダにやってきたアジア・アフリカの難民の三種類の移民がいる。オランダ政府はここでも彼らの代表組織(エスニック団体)や学校に対する助成金を出し、彼らのコミュニティ組織の強化に力を貸した。コミュニティが信託する人物をコミュニティにとっての公式アドバイザーとし、彼を政府とコミュニティをつなぐコーディネーターに見立て、そうした人材を政策過程の中で、政府およびコミュニティは共に活用した。この過程で移民の母語教育、宗教教育、放送局設置もあわせて奨励された(1)。このような制度によって、彼らのアイデンティティや文化実践を深め、それを通じて彼らのオランダ社会に対する愛着を強化させることが、この解決策には期待されていた。
しかし、1980年代後半になると、こうした組織化を促す「柱状化」という解決策にも大きな変化が起きる。というのも、政策の単位を「集団」としたこれまでの解決策には疑問符が付けられるような事態が起きたからである(Entzinger, 2003)。それは第一に、旧植民地系移民やゲストワーカー子弟の学校制度からのドロップアウトや労働市場からの失業が深刻化したことによって引き起こされた。このことによって、社会保障給付の割合が増加し、新たな底辺層を形成しつつあった彼らに対する積極的な労働政策の必要性が唱えられるようになった。いくら手厚い制度を準備したところで、基本的に移民の社会的上昇に寄与していないのであれば、それは無駄ではないかと考えられたのである。この過程で、移民のコミュニティと政府をつなぐアドバイザーの役割にも疑問符が付いた。アドバイザーは政府との結びつきによって、オランダの社会制度に参加する一方で、コミュニティの女性や子供は、オランダ語が分からず、オランダに適応できないままであることが、メディアによっても指摘され始めた。第二の変化としては、冷戦崩壊や民族紛争の多発をうけて、既にオランダに定住する移民を頼って本国から新たにやって来た「家族結合」(2)を目的とした移民、そしてオランダに自由や安全な生活を求めやってくる難民や庇護希望者が増加したことがあげられる。オランダに定住している移民の社会的上昇が進まない中で、新たに移民が大量に来訪すれば、福祉国家への負担がさらに増加する。こうした中で何か抜本的な解決策が必要なのではないかと政府当局に危惧させたことが、移民向けの市民化講習の導入の発端となったのである(3)。
そして、解決策をめぐるこれまでの試行錯誤を批判的に再検討し、移民向け政策に「自立」と「契約」の概念が本格的に登場する。1992年の政策科学評議会による報告書「市民権の実際(Burgerschap in praktijken)」、1994年の政府答申「エスニック・マイノリティ統合政策の概観(Contourennota integratiebeleid enische minderheden)」がそれである。これらの答申は直接的には1990代初期に存在した「マイノリティ論争」を踏まえている。「マイノリティ論争」ではボルケスタイン(リベラル右派)やミーロ(リベラル左派)ら政治家が、「イスラムの価値がヨーロッパの自由主義や民主主義的価値と反目することがあり、移民集団の文化的活動を是認するよりは移民一人一人に対して共和主義的な価値観を確認する必要がある」と訴え、それまでオランダ政府が堅持してきた移民の文化的アイデンティティ尊重方針の変更を主張した。一方、CDA(キリスト教民主アピール)のルベルス(当時、首相)はオランダ政治の中心にあって、そうした提案に対し、多文化主義的価値観の促進を可能にする「柱状化」支持の立場から反対の立場をとった。CDAのようなキリスト教系政党にとって、イスラム教徒は共に宗教教育の促進という面においては、共闘するパートナーであり、リベラル派のような世俗主義の考え方には批判的であった。しかし、サルマン・ルシディの「悪魔の詩(The Satanic verses)」論争や湾岸戦争直後の対イスラム言説の悪化に加えて、オランダ国内では移民制限を訴えた中央党(Centrum Partij)が1990年の下院議会選挙で初めて席を得たことによって、世間でリベラル派を支持する世論は強くなっていた(Entzinger, 2003)。また、この年にあった下院議会選挙ではCDAは票を減らしており、こうした状況下では、CDAはオランダが誇ってきた多様性や寛容といった価値観をこれまで通りに守っていくことに困難を感じるようになっていた。そして、1994年の下院議会選挙において、CDAは下野し、代わりにリベラル右派(VVD)、リベラル左派(D66)、そして労働党(PvdA)による紫連立内閣が発足し、柱状化路線を支持する政党が政権から去った。このことによって、移民が集団として自らの文化的実践に取り組むよりも、個人として社会に参加するほうが重要される政策が採りやすくなった(Entzinger, 2003)。
そうした政治の変化は実際の政府答申にもよく表れている。まず、移民に対しては「市民権役務(Burgerschaps dienst)」の導入と市民権に関する講義の受講が新たに解決策として提唱されるようになった。そして1994年の政府答申では、それを発展させ、「統合政策」という政策標語が全面に登場し、「移民全体の社会・経済的地位の向上のために、個々の移民がオランダ社会、特に労働市場に参加することが重要」とされ、統合政策はその目的を達成する政策手段であるとされた。こうして、宗教や母国文化の実践を自らの共同体の中で営むことによってオランダ社会に参加したと見なすのではなく、オランダ語能力の獲得と共通価値の内面化を通して、移民がオランダ社会で自立した個人となることが答申の中で求められた。そのためには個々の移民が「Inburgering contract(市民化契約)」を政府と結び、自立に向けて主体的な責任を担うことが当然視されるようになり、「市民化講習法(Wet Inburgerings Nieuwkomers)」の導入への道が開かれた。その後、紫連立内閣の下で、1996年に市民化講習法(WIN)は下院議会で審議され、議論が積み重なれた結果、1998年4月に可決、そして同年9月に施行された。
目的:移民の市民化を可能にする。具体的には社会的統合を果たすための重要なステップとして、労働市場に参加できるようにすることが重要課題として挙げられている。
対象グループ:EU域外諸国より、1998年5月以降にオランダに永住目的で来訪した移民、難民(申請中の者でも部分的に可能)の中で受講が必要と定められた人々である。しかし実態を見ると、受講者は特定の集団に集中しているようである。具体的には、アムステルダム市における状況を示した下記の表(図1を参考のこと) にも明らかなように、トルコ人、モロッコ人移民の親族・縁者、中東・アフリカ地域からやってきた難民たちが中心となっている。彼らが入国し定住化できるのは、すでにオランダ国内に存在するネットワークを頼って来訪してきたからでもある(いわゆる連鎖移民現象)。もっとも以上のカテゴリーに入る人々すべてが講習対象者となるわけではなく、行政による一連の選別過程を経て、最終的に講習を受けることになるものの数はオランダ全体でも年間1万人程度、アムステルダム市内に限っても年間3000人程度となる。どのようにして選別されることになるのか、講習終了までの期間を4段階に分けて説明しておきたい。
通常、オランダへ入国する者は、出発する前にそれぞれの国にあるオランダ大使館にてオランダ入国ヴィザを申請しておかなければならない。オランダ入国ヴィザを取得し、無事にオランダに入国してから1週間以内に最寄りの外事警察と住民登録局に出頭し、滞在許可証の申請を行う必要がある。滞在許可に必要な書類を提出してから、しばらくの期間(数週間)を経て、もう一度、外事警察と住民登録局に出頭し、滞在許可証を発行される(第一段階の終了)。
市民化講習を受ける必要があると判断された移民は、この一連の手続きのプロセスが終了した段階で、講習受講のための審査を受ける手続きを始めなければならない。オランダ語の知識が皆無、ないしは低いこと、教育レベルの程度(学歴)が低いこと、対象年齢(18歳から44歳)にあたるかどうか、といった判断基準に照らして、最終的に受講者の資格審査が終わる。この資格審査は市民化講習調査局(Het Inburgerings Onderzoek)という機関で行われ、受講対象者になった場合はその場で「市民化講習受講契約書」にサインを求められる(第二段階の終了)。
これ以降は、「地域教育センター(Regionaal Opleidings Centrum:以下、ROC)」という機関において、オランダ語570時間、社会化講習30時間、就職支援に関する講習を受けることとなる。受講者は週4日程度、期間にして1年程度、ほぼフルタイムでROCに通い続けることとなっている(第三段階)。
必要時間数のカリキュラムを終えると年数回行われているオランダ語試験と社会化講習についての試験を受けることとなる。無事に受験終了し試験に合格すると、市民化講習調査局より受講終了証がそれぞれの受講者に発行される。この受講終了証の発行前後に「就職あっせんセンター(Centrum van Werk en Inkom)」において就職相談を受講者は受けることとなる。就職相談を受けた後、受講者はそれぞれの状況に応じて、次の道のりにすすんでいくこととなる(第四段階の終了)。
オランダ語講習(Nederlands als Tweede Taal)
ここでは移民は570時間のオランダ語講習を受講する。「第二言語としてのオランダ語教授法」資格の取得者が教員となる。教員2人で1クラスを担当し、カリキュラムを組んでいく。授業では、読む、書く、話す、聞く力を平均的に伸ばすために、1つのクラスにつき15人程度に絞る。そして毎週小さな小テストが行われる以外にも、6週間ごとに受講者たち進度確認のテストが行われている。宿題の量は少なくなく、家庭での学習時間もあわせて確保されるようになっている。また授業に組み込まれる形で、パソコンを使用した自習時間が設けられており、移民はパソコンにインストールされている文法、リーディング、リスニング、スピーキング問題を自分のペースでこなすことになっている。パソコン学習の成果はその都度プリントアウトされて、教員による学習状況の判断にされる。講習の終了後には、オランダ語検定試験を受けならず、そこでの成績は修了証にも示される。ROCのオランダ語教育においては、レベルは1−6まで設定されており、2以下の初級クラスにいる者はレベル3を目指し、それ以上の者は、自分よりも上のオランダ語レベルを目指すものとされている。移民が自分の目指すべきレベルに到達しない場合は、講習の修了後に自費(場所にもよるが、半期で200ユーロ程度)で講習を続けることとなる。
注
(1)久保幸恵(2000)、松浦真理(1996)、小林早百合(2005)には、放送局設置、学校教育、母語教育の分野において、柱状化路線下のオランダ移民政策について事例分析がなされており、オランダの移民政策の過去の遺産について詳細な議論が展開されている。いずれも重要な先行文献ではあるが、市民化講習導入前後の政策変化については小林の著作を除ければ、リアリティを十分に捉えてきれていない感がある。
(2)家族結合を目的とした移住には、若い世代による婚姻及び家族形成(Family Formation)と既にいる家族に合流する家族結合(Family Reunification)の二種類があるが、ここでは両者を含むものとして扱う。
(3)Vermeulen(2000)を参照のこと。
(4)Fermin(1999)は移民政策における政党の言説変化を詳細に追った。そこでは移民政策の方法論や何を重要な問題とするかについて、各政党間に収斂傾向がみられるとしており、本稿でもその議論を採用した。
(5)市民化講習法の条項には第1条から第26条に至るまで、事細かに各自治体、組織、団体、移民個人が果たすべき役割や責任が示してあり、市民化講習に関わる主体を基本的に順守するものとされている。
(6)アムステルダム市庁の場合、Dienst Maatschappelijke Ontwikkelingと呼ばれる局の中の一セクションである「教育と市民化Educatie en Inburgering」が市民化講習の運営・管理を行っている。
(7)Adviesraad Diversiteit en Integratieというセクションはアムステルダム市庁がアムステルダム独自の多様化政策を打ち上げる際に、2004年にそれ以前に存在したMindeheden Adviesraadという移民組織支援のセクションを廃止し、新たに作った機関。主に移民行政についての諮問機関としての役割を果たす。
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