ナショナリズムはインドのような植民地においても「一大脅威」ですが、「国民」形成に成功した日本においてはどうでしょうか。タゴールは「ナショナリズム崇拝」(the fetish of nationalism, the cult of Nationalismはタゴールのアメリカにおける中心テーマで、シアトル、ロスアンゼルス、ボストン、ピッツバーグ、ニューヨーク、フィラデルフィア等における講演のタイトルになっています)の非人間的な弊害について述べた後で、日本の現状について次のように語っていますが、これはファシズムの形成を予告する実に鋭い的確な指摘でした。
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イバン・イリイチ(Ivan Illich、1926−2002)は、タゴールと同様、通常の人間の規格をはるかに越えた巨大で複雑な存在であり、私はイリイチを十分に理解しているとはとても言えません(6)。ここではイリイチの提示した「ヴァナキュラーな価値」に焦点をしぼって話を進めさせていただきます。「ヴァナキュラーな価値」は私にとってイリイチの世界に入る最も近い道であると同時に、タゴールとイリイチを深いところでつなぐ魅力的な道でもあります。『シャドウ・ワーク』に収められた「ヴァナキュラーな価値」や「人間生活の自立と自存にしかけられた戦争」、その他の論考を読みながら私がつねに連想していたのは、タゴールが描いた、そして現在も続けられているインドの民衆の生活であったのですが、これは決して間違った読み方ではないと思います。
それにしても「ヴァナキュラーな価値」(Vernacular Values)は意表をつく面白い論考です。そこで述べられているのは、「ヴァナキュラーな価値」それ自体ではなくて、コロンブスと同時代のスペインの文法学者エリオ・アントニオ・デ・ネブリハ(Elio Antonio de Nebrija [Lebrija]、本名Antonio Martinez de Cala、1444−1522)のことであり、イリイチはそのネブリハの『カスティリア語文法』(Gramatica de la lengua Castellana、1492)に寄せられたイザベラ女王への「献辞」に対する、ほとんど各センテンス毎の解説です。このネブリハの『カスティリア語文法』の出版は、コロンプスがジパングをめざして、つまり新大陸「発見」をめざして出帆した(1492年8月3日)ちょうど15日後のことでした。そしてこのコロンブスの航海よりもネブリハの出版の方が近代の歴史にとってより重要な事件であったというのがイリイチの意見です。
コロンブスの冒険への援助を一度は拒否した女王イザベラが、最終的にそれを受け入れるに至った理由をイリイチは次のような独特の用語法を用いて書いています。
「イスラム教徒をヨーロッパから駆逐していた彼女は、大洋をこえてキリスト教の信仰を植えつけることを望んだ提督の願いを拒否することができなかった。後にみるように、植民のための海外征服をきめたこの決定は本国における新しい戦争の布告を意味していた。すなわち彼女に従う国民の<ヴァナキュラーな領域>の侵害、ヴァナキュラーな生存にたいする五世紀におよぶ戦争の開始を意味していた。いまわれわれは、その破壊の深度を測りはじめているのだ。」(89頁、p.33)(7)
イリイチの解説を頼りにネブリハの「献辞」を読んでいくと、それがいかに恐るべき文書であるかが分ってきます。ネブリハの提案以前には、言語はヴァナキュラーな領域に属し、王権が住民(臣民)の言語に介入するなどということは思いもよらないことでした。ネブリハは住民の一言語から人口的な言語(国語)を作り、女王の支配下にある国内と国外の全住民にそれを強制すべきだとと言う。それ以後、言語は教えられるべきもの、国家によって管理されるべきものになる。1492年の日付のあるこの文書を読んで改めて驚くことは、そこに現在私たちが無意識のうちに抱いている「国語」の観念がすでに明確な言葉で記されているということです。イリイチは「臣民によって話される言葉の植民地化」について述べていますが(He offers Isabella a tool to colonize the language spoken by her own subjects.)、国語はその初めから植民地主義的欲望を内包しています。ネブリハはまた帝国の住民たちが、俗語によって書かれた低俗な小説や物語に無駄な時間を費やさないためにも国語の必要を論じていますが、国語は当初から禁書と言論統制の意欲を秘めているのです。
ここではネブリハの文章(8)をたどる時間的余裕がないので、次にイリイチの分析の結論の部分だけを引用します。
注
(1)ジェラード・デランティ、山之内靖+伊藤茂訳『コミュニティ―グローバル化と社会理論の変容』NTT出版、2006年(Gerard Delanty, Community, Routledge, 2003)
(2)ヴェルナー・ハーマッハ、増田靖彦訳『他自律―多文化主義批判のために』月曜社、2007年、56頁(Werner Hamacher, Heterautonomien−One 2 Many Multiculturalism, Berlin, 2003)
(3)タゴールの反ナショナリズム論に対するこのような当惑と反撥、そして無理解は『ナショナリズム』が収められている『タゴール著作集』第八巻(第三文明社、1981年)の解説者市井三郎にまで及んでいる。二十数年前の文章をここに改めて引きだすのは気がひけるが、この文章は日本のリベラルな知識人がナショナリズムの問題に直面したときの虐弱さを示している。解説者はタゴールのナショナリズム論を全く理解しようとしていない。これと対照的な、私の知る限り、タゴールのナショナリズム論を最も深く理解した文章として、孫歌氏の「理想家の黄昏」を挙げておきたい。『アジアを語ることのジレンマ』(岩波書店、2001年)に収められた論文というよりはエッセーに属するこの文章のなかで、孫歌氏はタゴールのナショナリズム論のなかに現在の最も切実な問題を見出し、歴史の未来の可能性につなげている。私たちは、そこに日中のナショナリズムのはざまで長年苦労し鍛えられた孫歌氏に独自のナショナリズムに対する視座を読みとることができるのであるが、ヴァ―ジニア・ウルフの『自分だけの部屋』への言及は同時に氏のフェミニズムに対する位置の取りかたをも示して興味深い。
(4)以下『ナショナリズム』からの引用は、上記『著作集』第八巻のページ数と英語版(Rupa paperback, 1994)のページ数を併記する。
(5)『ナショナリズム』の訳者、蝋山芳郎氏はこの部分に以下のような注を付している。「1904−5年の日露戦争以後、日本の政府は青年団の育成に乗りだし、義務教育を卒えた青年に対し、軍隊入営のための準備教育を施し、国家主義の思想を注ぎこもうとした。そのために、青年団の幹部には、郡長、視学、小学校長などが坐っていた。さらに第一次世界大戦勃発してから二年後の1916年には、予備将校制度という新制度ができ、青年を毎年三ヵ月ずつ、二年間入営させて訓練することになった。また1916年には、工業資本家の全国的結成のため、日本工業倶楽部が設立され、商業会議所が主として、中小企業者の利益を代表していたのに対し、大資本系統の利益を代表した。このように、明治から大正の両年代にかけて、日本では急速に、政府によっても、民間によっても人民の国家的組織化が進められた。」(521頁、注(7))
(6)イリイチの生涯に関しては、最近翻訳出版されたディヴィッド・ケイリ―編、白井隆一郎訳『生きる希望―イバン・イリイチの遺書』藤原書店、2006年(The Rivers North of the Future, The Testament of Ivan Illich, edited by David Cayley, 2005)を参照下さい。
(7)イリイチの引用は以下の版による。I. イリイチ、玉野井芳郎・栗原彬訳『シャドゥ・ワーク』岩波現代文庫、2006年(Ivan Illich, Shadow Work, Marion Boyars, 1981)
(8)この献辞も含めて『カスティリヤ文法』は大阪外国語大学学術研究双書14(1996年)に中岡雀治氏による翻訳が出ている。またネブリハの「献辞」と「国語」の問題に関しては拙論「ヴァナキュラーな言語(vernacular language)と教育言語(国語)―グローバル化のなかの言語とアイデンティティ」(「応用外語国際研討会」における基調報告、2007年12月7日、台湾国立高雄第一科技大学)を参照されたい。
(9)このタイトルの英語の原題は<The War Against Subsistence>で、仏訳Le travail fantome(seuil, 1980)では<La repression du domaine vernaculaire>となっている。日本語訳の「人間生活の自立と自存」はこの書物に幾度もくりかえされる表現で、ほとんどヴァナキュラーの定義とみなされるものである。なお仏訳には多くの追加や変更があり、イリイチ自身は英語版よりもむしろ仏訳に信頼を寄せていたようである。
(10)ヴェルナー・ハーマッハ『自他律』p. 150。 前出、注(2)を見よ。