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拡大するマニラ首都圏の日本人コミュニティ

永田 貴聖 20081015 生存学研究センター報告4 530p
『多文化主義と社会的正義におけるアイデンティティと異なり
 ――コンフリクト/アイデンティティ/異なり/解決?』


last update:20101124
拡大するマニラ首都圏の日本人コミュニティ

永田 貴聖(立命館大学)

T.日本、フィリピン、双方向的な移動の始まり 80年代以降、マニラ首都圏の「日本人コミュニティ」は拡大し続け、結果として、日本人と親族関係をもつ日系のフィリピン人や、フィリピン育ちの日本国籍を保有する日比二世たちに来日する機会を提供している(1)。本報告では、日本人コミュニティが、この様な新しい世代を日本に送り出す可能性について議論を進めたい(2)。

1.非駐在員のフィリピン進出
80年代以降、マニラ首都圏には、日本人駐在員や出張者を対象とするカラオケバー、ラウンジなどの新たなビジネスが盛んになった。中でも、日本語を話せるフィリピン人女性ホステスが接待する店は大きな賑わいをみせていた。日本人向けのサービス業が広がり、これらの娯楽を目当てにした日本人男性観光客が増加したという推測もある[伊従 1989、1991]。そして、フィリピンを訪れた日本人男性の中には、何らかの理由で、フィリピン人女性と結婚し、定住する人々が現れ始めた(3)。
この様な日本人の多くが、駐在員を対象とするカラオケスナック、日本食レストランなどの自営業に活路を見出そうとした。しかし、彼らは、駐在員のように、日本政府や、日本企業に庇護を受けているわけではなかった。そのため、言語や情報の獲得などにおいて大きなハンデを抱えていた。彼らは、現地人のビジネスパートナーと意思疎通ができないためにトラブルを起こすことや、詐欺に遭うことも度々あった。私生活においても、多くの日本人男性たちはフィリピン人の妻と信頼関係を構築できずにいた。
日本人定住者たちの一部は、これらのリスクを回避するために、自身と似た境遇にある日本人と関係を形成しようとした。彼らはいくつかの日本人互助親睦団体を結成した。それはフィリピン在留の日本企業が中心に運営しているマニラ日本人会とは一線を画すものであった。
その後、日本人定住者を親にもつ現地育ちの日比二世たちが生まれた。二世たちの一部は、日本人互助親睦団体が主催する日本語教室などで日本語を習得し、日本人コミュニティとの係わりにより、日本という「国民国家」を単位とする文化や、言語を獲得しつつあった。
2.日本人互助親睦団体の特徴
1984年、日本人定住者団体の草分け的な存在であるX会が結成された。それ以降、日本人定住者が集まる団体が徐々に増加していった(4)。団体の多くは、フィリピン政府公正取引委員会(Security and Exchange Committee)登録の非営利団体である。いずれの団体も会員数は約30〜40人の規模を推移している(5)。主に親睦や仲間作り、ビジネスチャンスを求めている40代半ばから60代後半までの日本人男性により構成されている。集まる多くの男性たちがフィリピン人女性と結婚し、こどもをもうけている。日本人女性が参加することは稀である。主な活動として、どの団体も日本人同士の親睦のためのパーティ、ゴルフ大会、スラム地域や農村部への寄付活動を行なっている。
まずX会について説明しよう(6)。このグループは、結成当初からグループの活動が停滞する2000年頃まで、月に一度、会合を兼ねた飲食会を会員が経営する日本食レストランで開催していた。また、新しく来比した日本人に対して、無償で、フィリピンの法制度や在留資格の取得などについての相談に応じていた。さらに、カラオケ店経営の同業者同士たちの情報交換も行われていた。
その他に、経済的に厳しく就学困難なフィリピンの児童を対象とした奨学金プログラム、週に一回のマニラ湾での清掃活動など慈善活動も行われていた。
中でも、フィリピン人と結婚した日本人をひきつけたのが小学校就学前の二世を対象とした日本語学習教室Z学園であった。実際、日本人の親たちの多くは、ビジネスの情報交換や親睦を求めるのではなく、Z学園に自身の二世を通わせたいためだけにX会の会員になった。会員になった親たちの多くは、こどもたちをマニラ日本人学校に入学させることを願っていた。
80年代前半、マニラ日本人学校には、両親のどちらかが日本国籍ならば入学を認めていた[『KYODO NEWS DAILY』 1995年3月23、25日]。
しかし、徐々に受け入れが制限されるようになってきたのである。最初に締め出されたのは日本国籍の届出をしていない日比二世たちだった。日本国籍がないことを理由に入学資格外とされたのである[Ibid. 1995年3月25日]。
90年代半ばから、後半にかけて、日比国際結婚二世が入学する場合、日本人の親が同居である事が条件となった。この頃、マニラ日本人学校に入学する日比二世の半数がフィリピン人の母親と暮らす母子家庭であった。母子家庭の二世たちは日本国籍にも関らず入学を許可されなくなった[Ibid. 1995年4月1日]。
2001年には、校舎移転に伴う学費の値上げと寄付金義務の増額が実施された。さらに、この前後の数年間で、学費滞納者への退学措置が実施可能になり、数名の児童生徒が退学を余儀なくされた[『まにら新聞』 1999年11月28日]。
さらに、駐在員の親たちが日本語力の高くない現地育ちの日比二世を受け入れることに反対した。親たちは、帰国後、こどもの受験対策が遅れることを懸念したのである。現在では、学校は、入学前に就学前という日本語でのテストを実施し、合格した子弟のみを受け入れている。
マニラ日本人学校が、現地で生まれ育った日比二世たちの受け入れを厳しくしたため、親たちは、二世をZ学園に通わせる意味そのものを失った。そして、2000年前後を境として、X会の人間関係が複雑なものになる。幹部の一部が、X会を通じて受けた日本人定住者からの生活相談に応じた際に、「謝礼」を求めるようになったのである(7)。会員の一部がこの様なことに反感を抱き、会の中の日本人同士の信頼関係は低下していった。 一部の幹部は、現地の言語や文化を理解せず、現地社会に入り込めなかった。その結果、彼らは、日本人コミュニティの中だけでビジネスチャンスを得ようとしていた。その中で、様々なトラブルを引き起こすようになったのである。
この様な事情により、親睦や二世をZ学園に通わせることだけを目的にしていた人々は会を離れた。2000年、会の活動はZ学園を残し、停滞状態に入った。
次に別の団体を紹介しよう。報告者が調査期間中係ってきたY会は、X会を辞めた人々を中心に2003年に結成された。X会とY会の違いは、Y会がフィリピン人や現地の男性と結婚した日本人女性を理事に入れ、現地の有力者との関係強化を模索しようとしていたことである。英語と日本語の二言語併記の会報を作成し、フィリピン人とも積極的に係ろうとしていた。
Y会では、フィリピン人学生を対象とする奨学金プログラムや、ロータリーグラブの日本にある支部と連携して、日本の中古消防車をフィリピンの地域自治体に寄贈するプログラムを実施していた。
また、親睦会などの集まりには、X会と少々趣がことなり、カラオケ店や日本食レストランの経営者ではなく、日系の中小製造業や、保険会社の駐在員、現地で起業した旅行代理店経営者、食料輸入会社の役員などが集まっていた。
そして、毎週土曜日午前中の3時間、二世向けの日本語クラスが開催されていた。だが、この会の日本語クラスは、マニラ日本人学校が日比二世の受け入れを厳しくしたことを反映していた。現地の学校に通うこどもたちや日本語学習に興味があるフィリピン人などが、生徒として学んでいた。規模は、X会のZ学園よりも小さく、レベル別で3クラスという構成であった。
上級レベルのクラスのこどもたちの大半が、日本の小学校3年生教科書を音読ができ、意味を理解し、簡単な漢字を書くことができた。また、この日本語クラスで学んでいた二世たちの一部は、普段フィリピンでは母親と暮らし、父親たちは、日本で働き、数ヶ月に一度の割合で、フィリピンを訪れていた。また、両親と共に暮らしている場合でも、日本人の父親たちの多くは再婚であった(8)。
しかし、やがてこの会の活動も停滞することになる。大きな理由としては、幹部たちの間で、会の方向性について、意見を一致できなかったのである。一部の幹部は、日本人同士の親睦に特化することを重視した。しかし一方で、慈善活動を通して日本人、フィリピン人の民間交流を会の主な活動としたい理事たちがいた。そして、親睦を目的としたいメンバーたちが会を去った後、残った幹部たちも本業の多忙さに追われ、慈善活動を継続することができなくなったのである。結局、幹部たちが、許容範囲を超えた活動を展開しようとし、2007年3月、会の活動は休止を余儀なくされた。
何とか活動が続き、ニーズが拡大しつつあった日本語クラスは、X会の活動の中で唯一継続していたZ学園に合流することになった。
現在、Z学園は、就学前の3〜6歳までのこどもをマニラ日本人学校に入学させるために基礎的な日本語力をつける場ではなくなっている。現地校に通う日比二世たちが週末に日本語を学習する機会を提供する場になりつつある(9)。
マニラ日本人学校の校舎を借り、授業がない毎週土曜日の午前中に教室が開かれている。3〜6歳までの幼児クラスが約50人、小学校1年生相当の日本語クラスと3年生相当のクラス合わせて約15人のこどもたちが集まっている。
幼児クラスに通うこどもたちの父親の多くが日本人である。あるボランティアの講師によると、多くの父親たちが何らかの事情で日本に住み、年に数回、妻とこどもがいるフィリピンに来る生活をしている。
また、幼児クラスのこどもの親たちは、こどもが日本語を習得することを期待している。しかし現在、幼児クラスからマニラ日本人学校の就学前の日本語テストに合格し、入学するのは約2割程度である。不合格になった後、親たちはK学園をやめさせてしまう。そして、やめた後、こどもたちは数ヶ月で日本語を忘れる。
だが、一方で小学生相当レベルの日本語を学んでいるこどもたちは、現地校に通いながら日本語を徐々に習得している。学習を続けているこどもたちの多くが、小学校低学年レベルの教科書を音読し、意味を理解できる域に達しているという。
X会とY会のように団体間、団体内に人間関係の棲み分けが存在する。さらに近年、退職後フィリピンに移住した日本人たちが、駐在員ともこれまで検討してきた日本人定住者とも違う集まりを求めて、退職者同士の団体を結成している。
また、親睦会やゴルフ大会など日本人男性同士の仲間作りだけを目的にする団体がもっとも多くの人を惹きつけている。集まる男性たちは慈善活動という会員の能力の許容範囲を超えた義務を背負うことはない。お互いの仕事や私生活に干渉することもない。80年代にやってきた人々もフィリピン滞在が1年未満の退職者も気兼ねなく参加できる気楽さが立場の違いを越えた交流の場なっているのである。
しかし、日本人たちは、棲み分けているにもかかわらず、二世たちに日本語を習得させることや、こどもに日本の教育を受けさせたいという意識をある程度共有しているようにみえる。
事実、X会やY会に集まるボランティア講師は、日本人駐在員の妻や退職後にフィリピンに移住した元学校教員などである。これらの人々は、定住者とは距離を置いているものの、ボランティアには参加しているのである。マニラ首都圏の日本人コミュニティは、「日本語」学習というシンボルのもと、棲み分けながらも限定した繋がりを維持しているのである。
日本人互助親睦組織が主催している日本語クラス、マニラ日本人学校は程度の違いこそあれ二世たちが日本という「国民国家」の文化や、言語を習得する機会を提供している。そして、新たな日本人移住者がこれらの会に参加する。そのことにより、日比二世たちは、日本という「国民国家」の言語を獲得する場を得るのである。

3.マニラ日本人学校から日本人コミュニティの「棲み分け」をみる
ここでは、マニラ日本人学校の成立の経緯、制度的な位置づけ、さらにはどのように日本人の二世を受け入れ、どのように受け入れを制限してきたのかを詳しく説明したい。そして、そこから日本人の間の「棲み分け」を考察したい。
1968年、マニラ日本人学校(Manila Japanese School)は日本人大使館や民間企業の駐在員の師弟を教育するための日本語補習校として開校した(10)。そして、1975年日本大使館付属マニラ日本人学校としてフィリピン政府の認可を受けた[『KYODO NEWS DAILY』95年3月23日]。
日本の義務教育カリキュラムに沿って、小学部6年、中学部3年によって構成されている。開校から生徒数は徐々に増加し、83年には494人と最盛期を迎えた。しかし、その後の治安悪化の理由として、日系企業の撤退などがあり、88年には生徒数は300人にまで落ち込んだ(11)[Ibid.95年3月25日]。この頃、学校側は当時マニラ首都圏を中心に増加しつつあった日比二世たちを入学することを認めた。その後、児童生徒数は90年には前年比から92人増加し、一気に406人に回復した。
しかし、この受け入れには否定的な意見が多かった。学校運営理事の一部は、後に当時の経営を安定させるために門戸を広げた措置を、安易な対応だったと否定的な見解を示している[Ibid. 1995年3月25日]。
さらに、一部の父母たちは、日本語未習熟児童の増加により、授業の遅れを招いたと批判している。その他に、母子家庭のフィリピン人の母親が、家庭内で日本語をほとんど使わなくなったこどもに、日本語を習得させたい一心で、無理に入学させ、こどもの学力低下をさらに助長させたという意見もある(12)[Ibid. 1995年4月8日]。
結局、93年度から入学資格を「日本国籍を有すること」と改定し、日本国籍を取得していない児童生徒には速やかに取得することを就学の条件とした[Ibid. 1995年3月25日]。
その後、生徒数は400人台後半を何とか維持している。その後、生徒数の中で日比二世が占める割合は約2〜3割を推移している。
そして、現地育ちの二世への日本語力向上のための対応や教育方法の模索は、長期的に一貫した方策ではないものの試行錯誤ながら実施されている。94年から、小学3年生までに限定して特別クラス「二組」を編成した(13)[Ibid. 1995年4月18日]。特別クラス編成と同時に、文部省はマニラ日本人学校を将来の日本語教育のあり方を研究するモデル校として国際教育研究校に指定した[Ibid.]。そして、派遣教員を増員するなどの措置を実施している[Ibid.]。
当初、特別編成クラスの実施は、二世たちの日本語力を向上させたということで一定の評価を得ていた。だが後に、一人の教員が児童数の少ない「二組」を担当するのは不公平だという意見が目立ちはじめた[Ibid.]。さらに、現地育ちの日比二世と他の児童生徒との「棲み分け」が目立つようになってきたと指摘され始めた[Ibid.]。
その後、2001年4月、マニラ日本人学校は、校舎の老朽化などを理由に移転した。移転と同時に学費が高騰し、経済的に厳しい家庭の日比二世たちが結果的に排除された[『まにら新聞』99年7月23日、8月17日、11月23日、11月26日、11月27日、11月28日]。そのため、現在二世の数は児童生徒数の約1割であると考えられている[『まにら新聞』 2006年1月3日]。
報告者が実施した教頭(当時)への聞き取りによると、2004年度以降、「二組」は廃止され、小学校3年生までの日本語指導が必要な児童に対して、放課後週3回の日本語補習授業が実施されている。
しかし、教頭はこれまで教員たちが日本語指導に相当の試行錯誤を繰り返してきた事実を認識しつつも、調査時点では1998年に日本の某財団法人が運営する日本語幼稚園が開設され、就学前の日本語習得が以前よりも容易になったことを強調し、調査時点の対応で十分であると説明している(14)。
だが、日本語幼稚園は学費が現地の私立学校の数倍するほど高額なため、現地生まれの日比二世たちが通うことは現実的に不可能だろう。現在の状況が続けば、マニラ日本人学校は80年代半ばから90年代後半のように現地生まれの二世たちが日本という「国民国家」の言語を獲得する場ではなくなるかもしれない。
しかし、現実的に大きな問題が存在している。近年、生徒数が伸び悩んでいることである。校舎移転後、経費の維持や借入金を返済するためには500人程度の児童生徒を受け入れる必要があるといわれている[『まにら新聞』 2006年1月3日]。その為、学校が日比二世を再び受け入れるのは時間の問題であるという声が多いのも事実である。
仮に現地で育った日比二世を再び受け入れることになる場合、立場や経済階層が異なる日本人たちが、こどもたちに日本という「国民国家」の文化や、言語を獲得させるというために限定的な繋がりを形成するのであろうか。それとも、日比国際結婚の二世たちを、純粋な日本人ではないということで排除していくのであろうか。今後の動向に注目していきたい。

U.日本に移住する存在としての日比二世
日比二世の中には二つの「国民国家」の言語を習得し、二つの国のパスポートを獲得する機会が著しく限られている人々がいる。
海外で働くことを模索している存在として、日本人と親族的な繋がりを持ちながらも、それを公的に証明できない人々が来日することを模索している動きに焦点を当てたい。
1980年代、日本人男性とフィリピン人女性との間に生まれ、何らかの理由でフィリピンに育った日比二世たちが多くいる。そして、これらの人々の身元確認調査、その後の二世に対する日本での就業斡旋の動きがある。
日比混血の二世の問題が取り上げられるようになったのは90年代前半になってからであった。日比間の人の移動が活発になった80年代、一部の日本人男性とフィリピン人女性は未婚のままこどもをもうけた。そして、日本人男性がこどもを認知しない問題、さらには、フィリピン人女性が日本人男性と離婚や死別後、日比二世とともに帰国するという問題が起こった。
1994年、JFCを支えるネットワーク(15)(以下、JFCネット)、が結成された。97年、JFCネットは、マニラ首都圏のケソン市(Quezon City)にフィリピンでの母子の自立支援や父親探しのためのヒアリングなどを直接的に行うNGO、マリガヤ・ハウス(Maligaya House)を立ち上げた。JFCネットとマリガヤ・ハウスは連携しながら、父親探し、こどもの日本国籍の再取得や養育費の請求、日比二世を対象とした奨学金プログラムなどを実施している[JFCを支えるネットワーク編 2005]。
JFCネットはあくまでもフィリピンにいる母子がフィリピンにおいて自立した生活を確立するために活動を展開している。そのため、ごく稀に国籍を取得するケースや認知を受けるケースがある場合でも二世が来日し、就労するなどの相談には応じていない。
しかし、近年、フィリピンで育った日比二世に対して、日本での就労先の斡旋までを視野に入れた活動が現れるようになった。
2005年、戦前に移住した日系人の二世三世を中心に構成されているフィリピン日系人連合会が中心となり、NGOとして新日系人ネットワーク・セブ(以下、SNN)を結成した。この団体ではフィリピン人の母親とともに新二世の身元確認調査、無料日本語教室の開設、日本への就労支援や将来的には奨学金プログラムなどの創設を視野に入れている[『まにら新聞』 2006年3月12日]。
発足から2ヶ月で、SNNは日比二世165人と面接を行い、そのうちの半数が日本国籍を保有、再取得が可能であることが判明した(16)[Ibid. 2006年5月12日]。
これを受けて2006年6月には、フィリピン日系人連合会が中心となり、フィリピンの主要都市8ヶ所で日比二世の実態調査に乗り出すことを決めた[Ibid.2006年6月12日]。 2006年9月、日本で生まれ、小学校4年生までを日本で暮らし、その後、フィリピンで育ち大学に通っている22歳の女性がフィリピン日系人連合会の調査を経て、日本のパスポートを再取得し、来日している[Ibid.2006年9月26日]。また2007年4月には、SNNと係わっているフィリピンにおいて在留資格がなく、超過滞在状態にあった日本国籍の二世男性8人が出国の際に科せられる罰金の支払いを免除されることが決定した[Ibid. 2007年4月25日]。そのうち7人が8月末に来日し、SNNから紹介された競走馬の厩舎や弁当工場で働いている[Ibid.2007年8月28日]。
2007年8月時点で、SNNは233人の二世たちと面談を行った。その結果、日本のパスポートとフィリピンでの在留資格をもつ4人、両親が日比両国において婚姻している26人、フィリピンにおいて婚姻している49人、フィリピンでの出生証明書に父親の名前が記載されている45人が判明した(17)。
報告者が実施したSNNの理事への聞き取り調査によると、SNNは、現在日本への入国が認められていないフィリピンでの出生証明書に父親の名前が記載されている事例について、在フィリピン日本大使館を通じ、日本政府に対して、「定住者」在留資格での来日を認めることを求めていく方針を固めている(18)。
またSNN以外の団体の動きも活発になってきている。2007年バウィイン国籍回復センター(Bawiin Kokuseki Recovery Center)が設立され、同年9月マニラ首都圏パサイ市(Pasay City)において、第1回新日系人コンベンションが開催された(19)[『まにら新聞』 2007年9月9日]。この団体は、フィリピン全土において、より広範囲に調査を実施するために結成された。
この会議は、JFCネットの弁護団などを務めてきた弁護士1名、フィリピン日系人連合会関係者、フィリピンの野党連合上院議員1名、日本の自由民主党参議院議員3名(いずれも党外交調査会所属)が招待され、企画された。
バウィイン国籍回復センターは、2010年8月までの3年間で、フィリピン主要都市8ヶ所を拠点に国籍確認などの法的支援を実施するとしている[Ibid.]。また同時に設立された「フィリピン新日系人支援基金」は、二世たちの来日と就業先の斡旋をするとみられている(20)。
これまでに検討したように、近年、日比の二世たちへの身元確認調査は、顕著な形で日本での就労を斡旋する動きになりつつある。身元確認調査や就労斡旋を行う団体、それに係わる個人、企業、そして当事者である新二世や親たちは、様々な思惑をもっているだろう。しかし、一つ言えることは、既に多くの日本人と何らかの親族関係を持つフィリピン人が合法的な在留資格を取得して日本に居住しているということである。そして、人々は結果的に日比両国に跨るネットワークによる関係を広げるだろう。

V.結果として広がるネットワーク
1996年以降「日本人の配偶者等」在留資格新規入国者のうち「日本人の子」として約300〜400人が来日している(表3参照)。同時期「定住者」在留資格のうち「日本人の家族」として来日しているのは約100〜600人を推移している(表3参照)。
日本に定着する人々、一時的に日本で就労し、フィリピンに帰る人々、さらには日比双方に広がった様々な関係を起点にして自由に日比間を往来する人々が徐々に増加し、多様なライフスタイルを形成している。
さらにこの中から、日本において「永住」の在留資格を獲得する人々、日本国籍を獲得する人々が現れると、日本人と親族的な繋がりを持たないフィリピン人までもが、親族訪問などにより、来日できる可能性を導くだろう。そうなると日比間の人の移動のネットワークはなお一層拡大されていくだろう。


(1)国籍法により、父母が法律婚しており、どちらか一方が日本国籍の場合、また、未婚で、父親が日本人の場合、父親が母胎認知することにより、こどもは日本国籍を取得できる。さらに、父が日本国籍であり、こどもの出生時、フィリピン人の母親と法律上の婚姻関係がなかったとしても、出生後に法律婚をして、こどもを認知し、こどもが未成年であれば、届出により日本国籍を取得することができる[奥田安弘 2003]。しかし、父が胎児認知をしておらず、出生後も法律婚をしていない場合、こどもは日本国籍を取得できない。現在、法律婚をしていない日本人の父親とフィリピン人の母親を持つこどもたち(日本在住)が原告となり、国籍を求めて、日本政府に訴訟を起こしている。2005年4月 一審の東京地方裁判所では、原告の訴えを認め、違憲判決を示した。しかし、二審の東京高等裁判所では、訴えを棄却した。原告は最高裁判所に上告し、2007年9月、裁判官全員で構成する大法廷に移して、審理を行うことを決定した。2006年4月には、杉浦正健法務大臣(当時)が、最高裁判決を見極めた上で、見直しを検討する考えを示している[『読売新聞』2007年9月6日]。
(2)本報告は、2005年から2007年にかけ、合計約6ヶ月間、マニラ首都圏において断続的にフィールドワークを実施した資料に基づいて構成された民族誌である。この民族誌には、日本人互助親睦団体、いくつかのNGO、それらの団体に関係する日本人、フィリピン人など様々な人により構築された社会関係が、日本人コミュニティの様相として、記述されている。
(3)日本国内での日本人・フィリピン人の婚姻数(表2参照)、「日本人配偶者等」在留資格での新規入国者の数から概算すると(表3参照)、フィリピン在住の日本人とフィリピン人の夫婦は少なくとも約3千〜5千組はいると考えられる。
(4)2007年時点で、報告者は7つの組織の存在を確認している。但し、近年はリタイア後移住した日本人のための親睦会も増加しつつある。
(5)これらの団体の会費は月額で300〜500ペソ、年間一括払いということが多い。また、賃貸雑居ビルの一室をオフォスとして借りている。
(6)ここでの内容はX会の元会員数名への聞き取り調査に基づいて、報告者が構成した記述である。
(7)2005年11月23日、元X会会員の証言。
(8)2005年12月3、10、17日、2006年3月4、11、18日に実施したY会での参与観察調査。
(9)現在の「K学園」状況については2007年9月16日にボランティア日本語講師某氏への聞き取り調査から構成している。
(10)現在、日本人の規模がマニラ首都圏ほど大きくないセブには、セブ日本人会が運営する「セブ日本人補修校」がある。こちらは両親のいずれかが日本人あることを条件としているため、フィリピン人の母親だけと生活する日比二世のこどもも入学できる。また、新日系人の受入にも理解を示している。2006年1月時点で生徒は92人であり、増加傾向にある[『まにら新聞』 2006年1月3日]。
(11)生徒数の推移についてはマニラ日本人学校website(http://www.mjs.org.ph/School_Info/SubIndex.htm 2007年10月26日検索)
(12)フィリピン人の母親たちの間には、こどもが日本語を習得していれば、外国人の母親が日本での在留資格を取得しやすくなるという噂が広がっている。 (13)日本語力が向上した場合、担任に判断により普通クラスへの転出が可能であった。 (14)2005年12月12日、マニラ日本人学校校舎内で実施。
(15)当時、活動家たちは、日比二世たちが「Japino」という蔑称で呼ばれていることを懸念し、二世たちを「Japanese Filipino Children」と呼ぶようになった。「JFC」はそれの略称である。
(16)これに付随する重大な問題として、日本国籍をもったこどもがフィリピンにおいてフィリピンの在留資格や市民権を取得せず「超過滞在」状態になっているということが挙げられる。
(17)http://www.shinnikkei.net/newpage5.html (2007年11月4日検索)
(18)2007年9月8日 聞き取り調査。
(19)この会議には当事者である母子を含めて約150人近く参加した。報告者もオブザーバーとして参加した。
(20)フィリピン日系人支援基金事務局長の証言によると、同団体が係わる二世の約半数が日本国籍をもっており、順次日本の賛同企業などの職業を紹介するとしている(2007年9月9日 フィールド・ノート)。

参照文献・資料
伊従直子.1989「アジアの片隅から」『アジアから来た出稼ぎ労働者たち』(内海愛子、松井やより編)pp.159-182、明石書店。
―.1991「アジア女子出稼ぎ労働者の道」『道のアジア史』(鶴見良行、村井吉敬編)、pp.245-268、同文舘。
大野俊.1991『パポン―フィリピン日系人の長い戦後』第三書館。
―.2007「フィリピン日系人の市民権とアイデンティティの変遷―戦前期の二世誕生から近年の日本国籍「回復」運動まで―」『移民研究年報』13、日本移民学会、79-98。
奥田安弘.2003『家族と国籍―国際化の進むなかで―』有斐閣。
JFCを支えるネットワーク(編).2005『パパからの初めての手紙』游学社。

日本政府統計
『海外在留邦人数調査統計』外務省
『出入国管理統計年報』法務省

新聞
『日刊まにら新聞』
『読売新聞』
『KYODO NEWS DAILY』

Website
在フィリピン日本大使館付属マニラ日本人学校 http://www.mjs.org.ph
新日系人ネットワーク(SNN) http://wwwshinnikkei.net
日本国厚生労働省統計表データベースシステム http://wwwdbtk.mhlw.go.jp




UP:20101123
全文掲載  ◇生存学創成拠点の刊行物  ◇テキストデータ入手可能な本  ◇身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK 
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