「保険セールスマンとしてのハイデガー」
小泉 義之 20081025,哲学会発表
哲学会ワークショップ「森一郎氏『死と誕生』をめぐって」(2008年10月25日)発表>
小泉義之
死と誕生についての哲学的な思考、一般に、生老病死についての哲学的な思考は、どのようなものでありうるのでしょうか。「哲学的」なる形容句にあまり負荷をかけないために言いかえるなら、生老病死について、ディシプリンの一つとしての哲学における議論は、どのようなものでありうるのでしょうか。
死と誕生が並置されると、死は生の終わりとして、誕生は生の始まりとして捉えられます。そうして、両端の繋がりが、あるいは両端の繋ぎ方が詮議されることになります。ところで、そこを詮議する以前に、すこし見回すだけで気付きますが、世の中には、死と誕生を繋げるさまざまなやり方があります。<少子高齢化>をめぐる言動も、その一例です。また、福祉国家ないし福祉社会は、死と誕生を繋げる多くの制度によって構成されていると捉えることもできます。このように世の中を見回すとき、哲学に固有の議論はどうなるのかという疑問も湧いてきます。こんな観点から、森さんの『死と誕生』を参照しながら、ハイデガーとアレントの一面について考えてみます。なお、九鬼周造に関しては、この観点からは見通しを立てていないので触れないことにします。
森さんの『死と誕生』については、6月29日(日)に法政大学で、ハイデガー研究会特別企画・合評会が行なわれました。代表質問者が、第一部について二人、第二部について二人、合わせて四人、提出されたレジメもA4で合わせて11枚に及びました。ハイデガー研究会の質問者は森さんほど野蛮ではないので、哲学研究書の合評会らしく質疑応答が行儀よく進められました。そこで問題とされた論点のいくつかには間接的に触れることになりますが、後の討論の参考に、森さんの本がそうなっているからですが、当日さほど話題にならなかった論点、欠落していた論点を五つほどあげておきます。
第一に、誕生の哲学が話題になっているにもかかわらず、フロイトやレヴィナスが召喚されませんでした。第二に、性(sexualite)が問題にされませんでした。また、関連しますが、精神分析周辺、とくに事後性の論点があまり詰められませんでした。この点は、デリダの贈与論とハイデガー論が召喚されなかったことと合わせて重大です。第三に、『死と誕生』におけるアブラハム神話解釈や古典解釈が取り立てて論じられませんでした。率直に言って、この点での森さんの解釈には甘いところがあると思います。第四に、アレントの別の側面が論じられませんでした。また、森さんが間接的に言及する人びとや諸文献も特には論じられませんでした。第五に、ハイデガー、アレントに限っても、不気味さ・負債・良心・証し・赦し、世代・民族・国籍などが主題化されませんでしたし、基礎存在論や存在の思索との関連性ないし非関連性が詰められませんでした。
ただ、これらの論点にしても、その帰趨はある程度は見えているので、というか、さほど私に用意はないので、ここで殊更に論ずることはしません。はじめに、ハイデガーから一節を引用してみます。森さんの翻訳になる『ブレーメン講演』の一節です。
「たとえば、山村の家具職人は、死体を入れるための箱を製造するのではない。棺は前もって、農家の家屋敷の一角にある特別の場所へ指定されて−立てられており、死んだ農夫はその場所になおとどまり続けるのである。その地方では、棺は、死者の木という意味をなお有している。その死者の木に、死者の死は栄え続ける。このように死が栄え続けることは、家屋敷、そこに住む者たち、そしてその一族や近隣の人々、を規定している。」(35頁)
これは、死・死者・死体についての哲学的思考になっているのでしょうか。少なくとも、一つの言説ではあります。それこそ死生学の対象にもなるような言説です。言説である限りでは、任意の評価規準をとってみることができます。私からするなら、葬儀・儀礼は活動(プラクシス)の典型であるので、そこを抑えている点で悪くはないが、「とどまり続ける」とか「規定している」とか「栄え続ける」といった物言いは妄想でしかありません。あるいは、どうしてこんなことを言い立てたくなるのかと問うこともできます。「大都市の機械化された葬儀産業」との対比は余りに通俗的ですが、それにしても、どうしてそんな対比を言い立てたくなるのかと問うことができます。あるいはむしろ、問題は、通俗道徳に対する哲学的な対応はどのようでありうるのかということであるとも言えるかもしれません。
これとは別に、こんな風にも考えられます。『ブレーメン講演』にいう「総かり立て体制」(das Ge-Stell)が哲学的概念たりえているとして、そこにいう「立てる・かり立てる〈stellen〉」の例解として「葬儀産業」を捉えることは難しくはないでしょう。葬儀産業は、死体をbestellenしている(徴用している)でしょうし、同じく葬儀学問産業や葬儀表象文化産業は死や死者を<何とか>-stellenしているでしょう。そこで技術の本質を考えることもできるでしょう。しかし、同時に、ハイデガーが称揚する「死者の木」にしても、死・死者・死体を<何とか>-stelllenしているはずです。その浪漫主義的なノスタルジーを剥ぎ取ってしまえば、ちょうど柳田国男の『雪国の春』などと同じように、ある「総かり立て体制」の影をそこに見出すことができるはずです。そして、ここで私が試しに主張してみたいのは、その「総かり立て体制」を、しばしばなされてきたように戦時体制の概念化として捉えるのではなく、戦後体制の概念化として捉えるということです。
以下、『死と誕生』の第二部を読みながら、すなわち、ハイデガーとアレントを読む森一郎を読みながら、考えてみたいと思います。なお、私は『病いの哲学』で、ハイデガーの死の分析を、罪責・遺産・世代・民族といった文脈で読んでみたことがありますが、ここでは、森さんの取り出した文脈で考えることにします。
森さんは、「死の実存論的概念」として、「「可能性としての死」という特異な概念」を核心として取り出してきます。死は、何よりもまず、可能性の死として概念化されるというのです。そして、森さんは、「気を滅入らせるだけで不毛としか見えない」と評しながらも、「死への存在」をめぐるハイデガーのこれまた特異な実存論的用語法を『存在と時間』から拾い出していきます。例えば、
「現存在は、実存するかぎり、事実的に死亡しつつある」(SZ, 261)
「おのれの死へと関わって存在しつつ、現存在は、おのれの落命することに達していないかぎり、事実的にしかも不断に、死亡しつつある」(SZ, 259)
また、森さんは、死への存在という現存在の存在様式において死がどんな位置を占めるかについて、「死」そのものは、「現存在がそれへとかかわりつつ態度をとっている何か」(SZ, 250)として不断に生起するのだということを確認しています。
ここで私の主張を差し挟みます。ハイデガーの死の分析論を読む森さんは、この死への存在は、「怪我や病気で「死にかけている」」ということからは区別されるのだと解しています。つまり、怪我を負っている者や病気にかかっている者は、死への存在の事例からは区別されるべきなのだと解しています。これは解釈としては正しいと思います。正しいのですが、充分に正しくないというのが私の主張したいことです。
ハイデガーによるなら、「死への先駆(Vorlaufen in den Tod)」は、死の可能性が端的にあらわとなるあり方のことです。それは、死を「可能性として持ちこたえる(als Moeglichkeit aushalten)」ことです。
ハイデガー文献における翻訳語選択勝手次第の慣行に従って言うなら、ハイデガーの用語にはエコノミカルな含意が響いているのだと聴き取ることができます。端的に言います。森=ハイデガーの死の実存論的概念は、保険の用語として聴き取れるのです。保険においては、落命の現実性そのものは問題になりません。保険においては、落命の現実性の偶然性が問題になりますし、そして、死の可能性の必然性が問題になります。保険において、現存在は、その偶然性としての落命と可能性としての死へと先走って、その可能性を支えてやらなければならないのです。そして、自殺に保険金は降りません。可能性としての死の現実化を自ら目指すこと、落命の偶然性を自ら消去することは、やはり非本来的なのです。ここを銘記した上で、怪我や病気について再び考えてみます。
森さんは、死の可能性の内実を示そうとします。154頁から155頁にかけてです。そこの議論は、極めてよく見られるパターンです。こう言ってよければ、極めて徴候的です。そこで、森さんは、死の可能性を、傷つきやすさとして解釈します。「からだ」の傷つきやすさとして解釈します。そして、傷つきやすさからいわば連想ゲームのようにして、受苦・情熱、享受・感得、感受性、世界開放性、無防備性、被害可能性、受動可能性、襲われやすさ、非力さ、そして可死性といった用語が手繰り寄せられます。その上で、死の可能性は、落命に晒されやすいということとして解釈されるのです。
では、肉体の傷つきやすさとは何でしょうか。人間の肉体は、例えば落石に押し潰されてしまうようなそのような壊れやすさを有しています。あるいは、例えば、ナイフが侵入しやすいようなそのような柔らかさを有しています。これは怪我に繋がるいわば物理的な傷つきやすさです。また、人間の肉体は、例えばウイルス感染で発症するようなそのような傷つきやすさや、その「内実」はまったく不明ですが、例えば内的に内生的に発症するようなそのような傷つきやすさを有しています。これは病気に繋がる生理的で生化学的な傷つきやすさです。つまり、傷つきやすさというカテゴリーは、何よりもまず、怪我や病気に相応しいものであると言うことができます。言いかえると、傷つきやすさというカテゴリーは、手始めの段階では、死に相応しいものとは言えないし、可死性とは区別されるべきなのです。ところが、にもかかわらず、森さんは、傷つきやすさをもって、死の可能性の「内実」とする議論を反復するのです。この辺りは、ハイデガーは不気味さと被投性を経由するところでしょうが、そこはともかく、これは何の徴候でしょうか。明らかに、ここには、怪我や病気の可能性をもって死の可能性と見なさせるような力が働いています。怪我や病気をもって可死性と見なさせるような権力が作動しています。怪我や病気は、死への存在の様相ではなく、生への存在の様相であるのかもしれないのに、です。ここで私は、ここに作動する力や権力のことを「保険原理」と呼んでおきます。死の分析論とは、保険原理の一項目なのです。小さな注釈を入れておきます。保険原理と福祉国家の原理は、歴史的にも理念的にも混在していますが、両者は異なると考えています。戦後福祉国家の編成原理は、決して保険原理ではないと考えています。
森さんは、一九二五年マールブルク大学夏学期講義『時間概念の歴史へのプロレゴメナ』の一節を引用しています。以下の箇所です。
「現存在をその存在において言い当てる適切な言明は、「我死につつ在り(sum moribundus)」というものでなければならないだろう。しかもこの場合の「死につつ(moribundus)」とは、瀕死の重病人や負傷者がそうだという意味ではない。そうではなく、私は存在するかぎり死につつ在るのだ。「死につつ」が「我在り」にはじめてその意味を与えるのである。」(PGZ, 437f.)
瀕死の人間だけが死への存在なのではない。あるいはむしろ、瀕死の人間に「我在り」の意味はない、瀕死の人間は存在しているのではないというのです。いまはこの点を深追いしませんが、ここから別に引き出しうることの一つは、病気の人間も健康な人間も死への存在なのだということです。そのことを自覚し耐える者だけが、存在すると言われうるのです。病気であろうと健康であろうと死につつあると思いなす者、病気にかかったと思った途端に死へとかかわり死へと態度をとる者だけが、確実に真に存在するのです。要するに、これは保険セールスマンの言明です。
このような観点から見返して、ハイデガーのテキストを暴力的に読み換えることは、実はそれほど簡単ではないのですが、ここでは追及しません。ここでは、この私の読み換えの方向と、森さんのいう「驚くべき再読可能性」とを対比させてみることにします。森さんから引用します。
「ハイデガーによる死の実存論的分析は、驚くべき再読可能性を秘めており、なかでも、現代における共生の問題状況を理解するうえでの絶好の視座を提供する……。これまで見てきた死の特徴づけは、相応の政治哲学的読解を通じて、ホッブズの『リヴァイアサン』中心章の現象学的解釈へと導くのである。『リヴァイアサン』においても、可能性としての死が問題となっている。のみならず、可能的戦争状態という意味でのホッブズの「戦争」概念は、ハイデガーの「死への存在」の考え方が複数性において具体化されたものと解されるのである。以下でわれわれは、こうした対応関係を一歩一歩明らかにしていくこととしよう。」(178-179頁)
要するに、森さんは、ハイデガーの死の分析論を、戦時の思想として「再読」しようというのです。これに対して、私は、『存在と時間』の執筆時期からしても、それを戦後の思想として「再読」した方がよいと言ってみたいのです。この場合の戦後とは、第一次大戦後と第二次大戦後の双方のことです。ただし、戦時体制と戦後体制の断絶と連続に関して多くの議論があるように、戦時思想としての再読と戦後思想としての再読の異同は簡単には決まりません。それでも私は、どちらかと言うなら、ハイデガーは戦後思想家として遇するべきだと思います。たしか新渡戸稲造は、死の分析論を武士道に似たものと読んでいましたが、武士道とは、どちらかと言えば戦後の思想でしょう。あるいは、今から振り返るなら、戦時の思想を、戦後に、戦前の思想へ転換したものと言えるでしょうか。
この点で決定的なのは、ハイデガーの「不安」は、フィンクなどのいう「恐怖」ではないということです。ハイデガーの「不安」は、殺害される可能性の不断の脅威から由来するような恐怖ではないということです。これは『存在と時間』に典拠を求められるはずです。ところが、森さんは、何としてでも、この不安と恐怖を繋げようとしています。森さんだけではないのですが、死について論ずる多くの人は、何としてでも、大量虐殺も政治的殺人も、事故死や災害死も、集団的殺害や私的殺人も、さらには、負傷死や病死も、ひとしなみに同じ可能性として扱いたがるのです。そして、それら多種多様な死に対する根本気分と根本態度を何としてでも同じ一つのものとして扱いたがるのです。それこそ、戦後の思想であり、保険原理の思考法ではないでしょうか。そして、この観点から見るなら、死の「各自性」が、決して単純な「私秘性」や「孤独性」ではないということ、言ってしまうなら、フーコーの生政治論における個別性に相当することも見やすい道理ではないでしょうか。森さんの言い方にならうなら、不断の「臨戦態勢」を不断の「臨死態勢」へと転換すること、戦死への存在を死一般への存在へと転換すること、これがハイデガーの賭け金なのです。そして、そのなれの果てが、死生学などであるのだと言っても大過ないでしょう。
非本来的な日常性、すなわち、「ひとは死ぬ」にしても死など切迫した問題ではないと思いなして生活する日常性、これを本来的な死への存在へと啓蒙するものは何ものでしょうか。医療、福祉、公衆衛生、保険、そして、ライフコース、ライフステージ、ライフサイクルにまつわる諸制度です。例えば、禁煙ファシズムです。ハイデガーは、戦時思想を禁煙ファシズムに転化した思想家なのです。
次に、アレントを読む森一郎に移ります。最初に、私のアレントに対する態度を述べておきます。
私は、アレントを、戦後の福祉国家と福祉社会に対して懐疑と批判を放った思想家の一人として捉えています。アレントからするなら、戦後国家とは、労働者・市民の生命と生存と生活を保守し保障することを原理とする動物的な国家です。社会的なものとは、すなわち、社会政策・社会事業・社会福祉などや、実社会なるもの・社会人なるものは、動物的な生存を保守し保障するものです。ところが、私にとってはいささか奇妙なことですが、あれほど、社会的かつ生命的で生物的なものを忌み嫌ったアレントが、出生ないし誕生だけはこれを肯定し擁護しているのです。さすがにアレントは、その文脈でも婚姻や家族を擁護することはしませんが、ともかく子どもだけは別扱いといった具合なのです。
この理由については、簡単に言ってしまうことができます。戦後という時代において、世を革める担い手、世を再建する担い手として子どもに期待と希望をかけるという通俗道徳をアレントも信じていたと言えば済みます。よくある話です。ただし、もちろん、森さんも指摘するように、そこにはアレントなりの捻りが加わっています。アレントは、子どもの誕生をもって、何としてでも、政治的生活の再生の根拠としたがっているからです。しかし、その動機についても、簡単に言ってしまうことはできます。子どもたちに、戦後政治とは別の政治を開くことを期待するというよくある話に捻りを加えているだけだと言えば済むからです。ここで、新しさ・出来事・偶然性・予見不可能性・反復といった諸概念が次々と手繰り寄せられていますが、文献的にも歴史的にも、また事柄からしても、再検討を要するところです。ともかく、最近にいたって、アレントの出生概念を強調し始めた研究者たち、そのなかには名うてのフェミニストも含まれますが、そんな研究者たちの動機がむしろ私には不可解です。この点で私は、森さんが第二章の註(2)で引いているザーナーやライストの立場に立ちます。二人はこう書いているようです。
「たとえばアレントが始めることの始まりについて語るとき、彼女の思考は循環に陥っている。アレントは矛盾の数々をうず高く作り上げ、他ノ類ヘノ移行を次から次に犯しまくっている。」
「出生性の概念は、ハンナ・アレント自身によっても体系的に反省されているわけではない。それゆえこの概念はじっさい、ひどく「不透明で不満足」なものである。」
にもかかわらず、森さんは、アレントの出生性概念を擁護しようとします。これは一体何ごとなのでしょうか。先ず注意しておく必要があるのは、森さん自身が、十二分に、アレントにける「他ノ類ヘノ移行」や「不透明」を自覚しているということです。引用しておきます。
「われわれ人間は、死すべき者どもであるばかりでなく、生まれ出づる者どもであり、各人が一個の「新しい始まり」である。それゆえ、人間誰しも「新しく始める力能」を有している――これが、可死性と対をなす出生性の考え方である。問題は、この場合の「それゆえ」にある。」(209頁)
また、森さんは、起源に関わる諸概念、例えば、「「世界外部的」な絶対的始まり」と「世界内存在にとっての始まりである誕生」を区別していますし、もちろん被造性と被投性、被投性と出生性を区別しています。生物的な第一の誕生と、いわゆる子どもの人格化・社会化・主体化とも呼べる第二の誕生を区別もしているでしょう。ところが、森さんは、これらを何としてでも連関させようとするのです。その際には、先の合評会でも質問が集中したところですが、率直に言って、これは批難して言うのではないのですが、通例のディシプリン的な実証や論証は提示されていません。例えば、森さんは、記憶でもって「誕生という自分の起源を辿りうることはたしかなのだ」(239頁)と書いていますが、そんなことは確かでも何でもないでしょう。結局、森さんが論拠として見出しているものは、森さんと同じように何としてでもそれらを連関させようとする、確かにそのように読み取ることのできる、ハイデガー時間論やアレントのアウグスティヌス論に垣間見られる動機付けなのです。何としてでも、人生の終わりと人生の始まりを連関させんとする動機付けです。この動機付けはどこからやってくるのか、この動機付けを駆動する力や権力は何であるのか、この動機付けは人をどこに向かわせるのか、これが考えてみたいことです。徴候的な箇所をバラバラに引きます。
「好んで評されるように、アーレントは、習作段階で示したハイデガーからの影響をその後「克服」したのではない。つまり、死の哲学から誕生の哲学へと宗旨変えをしたのではない。むしろ、死の問題に誰よりもこだわり続けたからこそ、そこに誕生の問題が伏在していることを発見したのだ。」(219−220頁)
「最初の男女が作られ、続いて彼らの子どもが生まれ、そしてまたその子孫が……と、人類は連綿と続いてきた。」(241頁)
「人間とは、その存在においておのれの始まりへとかかわりゆくことが問題であるような「始まりへの存在」なのである。」(243頁)
「始まりの時は、出来事の時である。その時熟には、始まりを二極化しつつ終わりを共生起させるという、断絶と飛躍の論理がある。だとすれば、原初論は終末論と相容れないのではない。両者はこのうえなく対抗し合いながら親密な間柄を形づくる。ちょうど、誕生の思考が死の思索と仲睦まじい闘争を繰り広げるように。終わりと始まり、死と誕生、先駆と遡行は、たがいに張り合いつつ、呼び求め促し合う。」(248−249頁)
「遡行的反復は、過ぎ去ったものを現在化するだけではなく、未来へと投げ渡す。原初から伝来されてきた由来を招来し、再来させては、将来の世代へと投げかけ、受け渡すのである。」(250頁)
コメントを加えてみます。人類が連綿と続いてきた事実は、不可思議なことであり、考えるに値することです。人は必ず死ぬのに人類は死滅しなかった。そして人類は暫くは存続するだろう。どうしてか。人は生殖してきたからし生殖するだろうからです。とすると、個人のレベルでは、あるいはまた男女のレベルでは、あるいはまた性別を問わないカップルのレベルでは、あるいはまた人間集団のレベルでは、死と生殖の関係は、これと区別されるべきですが死と誕生の関係はどうなっているのかと問うことになります。そして、この問いを、自らの問題として引き受ける主体が必要になります。死の問題に誕生の問題が「伏在する」と感じる主体の形成が必要となります。ところで、たしかに始まりは終わりを「共生起」させます。<生まれたから死ぬ>ということは真理だからです。しかし、人類が続くためには、おそらく<死ぬから生む>と思いなす主体の形成が必要となります。この<死ぬから生む>は真理ではありません。あくまで思いなしです。しかも同時に、その思いなしは、男女の生殖の意志に繋がっている必要があります。その思いなしは、性的である必要があります。この点を仄めかしているのが、森さんの先に引用した248−249頁の記述です。死の思索と誕生の思考は、対抗しながら親密で、仲睦まじく闘争し、張り合いつつ呼び求め合わなければならないのです。要するに、森さんはそのつもりで書いていると推察しますが、ハイデガーとアレントは愛し合っていなければならないし、現に戦後も愛し合っていたのであり、そうでなければならないのです。森さんにとってそうでなければならないし、おそらく、あくまで「おそらく」ですが、人間が再生産され社会が再生産されるためには、また、人類が存続するためにはそうでなければならないのです。
しかし、です。当然にも素朴な疑念が湧きます。子どもを生まない人もいる。もちろん子どもを生まないひとでも、子どもを育てたり、子どもに期待や希望を委ねたりするから、その限りでここまでの議論は成り立つ。しかし、そうではあるが、死ぬからということでそうするわけではない人もいるかもしれない。また、そもそも、死ぬからということで、生まれに遡行することのない人、死ぬからということで性的愛を育むのではない人がいるかもしれない。孤独に生れ孤独に死んでゆく人がいるかもしれない。もちろん、そんな人びとにしても、生きて死んでゆくことにおいて、子どもが新たに生れ出てくるということ、今日明日には人類が死滅しないということを当てにしている。経済的にも社会的にも当てにしている。その当てにしているということを支える信念を取り出してみるなら、死と誕生の哲学や多種多様な通俗道徳として定式化されるのかもしれない。しかし、はたして、死ぬからといって別に生むことはない人びとが当てにしているものは、本当に、そんな哲学や道徳を動機付けて駆動する力や権力と同じものなのであろうか。率直に言って、私に見通しはありません。以前からありません。フロイトやレヴィナスやフーコーの名を呼び出したところで、見通しが示唆されるとも思いません。他方、いっそ<人間の終焉>というテーマを想起した方がすっきりと考えられるとは思ってきましたが、そうはいっても不可思議さは残ったままです。誕生の哲学は未完成なのです。
最後に、森一郎と森一郎によって読まれる限りでのハイデガーとアレントについて評価を加えておきたいと思います。
三人の議論は、ライフコース、ライフステージ、ライフサイクルといったカテゴリーと、それらに基づく制度によって制約され条件付けられています。三人の言論は、<揺り篭から墓場まで>よろしく人生全体を見渡し、そうして、一回限りの人生の反復を言い立て、さらに、人生の途上をも、終わりや始まりに対する態度によって律しようとする思考・態度・言動の一例です。それは極めて強力な思考・態度・言動です。その力と権力はどこから由来するのか定かではありませんが、極めて強力な思いなしです。しかし、言うまでもありませんが、ハイデガーにもアレントにもそこに還元されないもの、そこに抵抗するものがあります。そして、哲学は、それと別様の思考・態度・言動を伝承してきた数少ないディシプリンの一つです。むしろ、森さんの本のおかげで、森さんの本に抗してみることで、そのように思うことができました。そして、私は、その伝承を現在に対して突き付けることが哲学の使命ではなかろうかと考えています。ライフステージの語法に妥協して結語としますが、若い研究者がその哲学の伝統をリレーして下さればと願っています。