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サドのマルチカルチュラリズムについて

平田 知久 20081015 生存学研究センター報告4 530p
『多文化主義と社会的正義におけるアイデンティティと異なり
 ――コンフリクト/アイデンティティ/異なり/解決?』


last update:20101124
サドのマルチカルチュラリズムについて
平田 知久(京都大学)

1. 本稿の目的と問題意識
 本稿が考察するのは、多文化主義という政治的立場が可能である、ということはいったいどのような論拠によってなのか、そしてその限界とは何か、という問いである。この問いは、多文化主義者は、どのようにして自らの立場に正統性を備給しているのか(することができるのか)、またその限界はどこにあるのか、とも換言することが可能であろう。つまり、本稿の目的は、多文化主義という政治思想及び政治的立場の存立可能性とその限界を考究することにある。
 ただし、本稿では、多文化主義が適用される個別具体的な事例を取り上げ、つぶさに観察し分析を加えることはせず、もっぱら多文化主義の存立可能性とその限界についての思弁的な考察に終始する。本稿のアプローチを、理論的(思弁的)考察に傾斜させるのは、相即不離な次の2つの理由による。まず、(@)多文化主義的ではない事象を具体例として挙げることで、多文化主義の正統性を立証することは、そう難しいことではない、ということである。例えば、「イスラーム原理主義」が引き起こす(引き起こした)悲惨をもとに、文化的多様性(文化的多元性)を擁護し、多文化主義を正当化することは、そう難しいことではない。他方で、@の裏面をなす理由として、(A)我々の多くは、全く多文化主義的ではない世界には、もはや生きていないという現状がある。つまり、─世界から完全に没交渉ではない限り─、我々は、意識的であれ無意識的であれ、多文化主義を受容しており、それゆえ、多かれ少なかれ多文化主義者として、現代を生きている。
 よって、本項が先の問いに対して、理論的なアプローチを行う理由は、例えば「多文化主義には様々な問題があり、最善とは言えないとしても、現実的には肯定せざるを得ない」といった帰結を反省的に考察するためである。このことはI・カントが近代の初頭に、「人間の理性」に対して行った批判を、「現代の我々の政治意識」という文脈に移し変えて行うようなものであるとも言える。すなわち、我々が多くの場合無自覚に依拠している多文化主義が、どのような機序によって成立可能なのかを、個別具体的な事例に拠らずに考察することで、現代の我々の政治意識の可能性と限界についての内在的な批判を行ってみる、ということである(1)。

2. 考察対象/考察方法
 以上のような目的と問題意識から、本稿の考察対象は自ずと限定される。つまり、本稿では、「自らの文化とは異なる他の文化を、いかなる干渉もないかたちで積極的に存立させ、またそれを保護する思想及びその立場」という、多文化主義にかんするもっとも広い定義それ自体を考察の対象とし、それがいかにして成立するのか、そしてそれにはどのような限界があるのかを考察する。
 多文化主義をこのように広く定義する理由は、先に「我々の多くは、全く多文化主義的ではない世界には、もはや生きてはいない」と述べたことと無関係ではない。この場合、「多文化主義」には、正統性が付与される主体の様々なレヴェル(例えば、個人、国家(政府)、国際社会など)という点でも、多文化主義が正当なものとして適用される対象の範囲(例えば、周囲の諸個人、国家内の諸民族や文化的共同体、諸国家など)という点でも制限がないため、多文化主義の定義は必然的に広いものにならざるを得ないからだ。
 しかし、多文化主義の存立可能性とその限界について、理論的なアプローチ行う本稿にあっては、この定義こそが考察の対象であるべきだろう。と言うのも、確かにこの定義では、正統性が付与されるレヴェルの位相差によって、あるいは多文化主義の正当性が適用される対象の多少によって、多文化主義とは認め難い主張も多文化主義に含められてしまうことになる。だがそれは、個別具体的な事例において、多文化主義がいかなる形態をとっているか、という問題であり、多文化主義の存立可能性にかかわる問題とは、まったく性格を異にする。他方で本稿は、多文化主義とは認め難い主張が実現してしまう原因も含め、多文化主義の限界がその存立基盤そのものにあるのではないか、という問いを念頭に置いている。よって、多文化主義の定義をこれ以上狭くすることで、さらなる限定=説明要因を増やす必要はない。
 とは言え、この考察を進めるにあたって、─カントが人間の理性を批判する際に、神や動物の精神を引き合いに出したように─、適切な比較項を設けることは議論の助けになるだろう。本稿では、この比較項にD・A・F・サドの政治思想を選択する。次節では、多文化主義の比較項としてサドを召喚する理由を、彼の政治思想を紹介しつつ説明してみたい。その過程で、多文化主義の定義とサドの政治思想とがいかなる関係にあるのか、そして両者をいかなるかたちで比較すべきかについての示唆が得られるはずだ。

3. サドの政治思想を考えるために
 その著作が「諸倒錯的行為の目録」と評されるサドの「政治思想」とは、多くの人にとって聞きなれない表現かもしれない。だが、彼の著作では、彼が生きた当時(18世紀中葉から19世紀初頭)の西欧、特にフランスの政体、あるいは彼が生きた当時に、書物や伝聞などにより収拾できたであろう世界各国の政体、さらには(伝聞を元にした)彼の創作による共同体などが、いたるところで描写されている。先取りして言っておけば、それらはカトリックを中心とするキリスト教文化とそれに根ざされた政治形態が、普遍性を僭称しているという痛烈な批判と、倒錯的行為を含めた周縁的文化及びその制度の擁護によって構成されている。もう少し正確には、後者の特色を説明し擁護することが、前者の批判とともになされる。ここではまず、大部の冒険小説であり、また書簡体小説でもある『アリーヌとヴァルクールまたは哲学的小説』(以降、『アリーヌとヴァルクール』と略記)から、サドが創作したユートピアとしてのタモエ王国を例にとってみよう。タモエ王国の賢王ザメは、恋人レオノールを追ってその国に来たサンヴィルという若者に、人間の自己愛amour-propre(2)に基づいてなされる、自国の賞罰制度の利点を説いた後、翻ってヨーロッパの賞罰制度の問題を指摘する。

 私は、あなた方ヨーロッパ人のように、誰にでも分かるやさしい問題の類いといったふうに、罪と褒章を等しく所持することが、より都合が良いcommodeことをよく知っています。またそこでは、もっとも重大な犯罪者にそうするように、もっとも些細な犯罪者を見過ごすべきであり、このようなことが適切であるか否かについては、きっとそれがより都合がよいのだとすべきことも、よく心得ています。しかし都合が良いことが、はたして最上のことなのでしょうか?少しも回心することのない罰や、ほとんど満足することのない褒章は、あなた方に何をもたらすのでしょうか。常に同量の悪徳を抱えていたあなた方は、たった一つの美徳も獲得することなく、俗界を操作して以来、あなた方は人間の生まれつきの邪悪さperversit éを、ずっと何ひとつ変えてこなかったのです(Sade [1795b] 1986a: 325)

 この言葉を受けて、サンヴィルは「しかし、少なくとも監獄はあるのでしょう?賢明なあなたが、政体に欠かせないこの防波堤をお忘れになったはずはありませんよね」(Sade [1795b] 1986a: 325)とザメに問い返すが、彼はこの問いを「もっとも粗悪でもっとも危険な罰である監獄は、司法の旧態依然とした悪弊です」(Sade [1795b] 1986a: 325)と一蹴する。というのも「この忌まわしい制度の発明者に残された唯一の言い訳があるとすれば、それは回心の希望だが、監獄がそのような効果を生み出すことは決してない」(Sade [1795b] 1986a: 326)からだ。あるいはむしろ、監獄に収監されることで、「犯罪の動機を強固にすると同時に、自らの欲望を満足させることができなくなり、人はより悪辣でfourbeより危険になって、そこから出るしかなくなる」(Sade [1795b] 1986a: 326)のだとさえ述べられる。
 ところで、M・フーコーの著作からの引用である、と言われても違和感のない(3)上のような言葉は、サドの伝記を少しでも知っていれば、まずはサド自身の欲望の反映として読まれるべきであるようにも思われる。すなわち、フランス国王の封印状による当時の貴族としては不当な処罰と、彼の犯したささいな行為に対する厳しすぎるヴァスティーユへの収監について、サドはザメの口を借りて批判を行ったのだ、と。しかし、そのような読みは、端的に言って適切ではない。なぜならそれは、サドの境遇に対する憐れみか、あるいはすぐ後に見るような非人道的な描写に対する、西洋に旧来からある文脈に則った倫理的な非難だけしか産み出さず、この「憐憫」とそれを裏から支える「旧態依然の倫理(的な非難)」は、まさにサドの著作の中で一貫して批判の対象となる2つのものだからである(4)。さらに言っておけば、サドの政治思想を見ようとする本稿でも、このような読みは採用されるべきではない。というのも、繰り返しておくが、本稿は多文化主義の存立可能性とその限界を考察するための比較項として、サドの政治思想を選択したのであり、その場合の「政治思想」とは、サドの固有の体験に根ざされた政治的意向から導かれるものではなく、サドの著作に表現された政治理論から導かれるものでなければならないからだ。
4. 文化相対主義
 以上のような点を踏まえて、さらに次の例をひいてみよう。『アリーヌとヴァルクール』では、タモエ王国とは逆の、言わば反ユートピアとしてのビュテュア王国が描写されている。ビュテュア王国は、人食とソドムを国家の宗教的教義としているため人口不足に陥っており、さらには策略と暴力に満ちた絶対王政をしき、自分たちの種が増えることを嫌悪するような信仰的感情を持っている。そのため、ポルトガルからこの国に移り住むことになり、そこで貢物としての白人女性の検査官という仕事に従事するサルミエントに言わせれば、ビュテュア王国は「100年も経たないうちに滅んでしまう」(Sade [1795b] 1986a: 225)。だが、そうだとしても、人肉を食することを宗教的に、あるいは人道的、生理的に嫌悪するサンヴィルに向かって、サルミエントは次のように考えるべきだと諭す。

 君の習慣や君の国の偏見からくるそのような不快感は、大目に見よう。しかし、あまりにもそこに身を委ねすぎてはいないか?ここでは、気難しくすることはやめて、状況に自らを従わせるのだ。嫌悪感は弱さに過ぎないのだよ、サンヴィル君。…私も君と同じようにここにつれて来られて、この国の馬鹿げた考えにくらくらし、何に対しても非難した…、が、それはまったくばかばかしいことだと分かったのだ(Sade [1795b] 1986a: 220-1)

 上のザメとサルミエントの言葉は、確かにサドの著作におけるユートピアと反ユートピアという様相を持っている。ただし、ここで注意すべきことは、それらは書かれたままになるだけで、両者の主張や両国の政体を比較して、価値的な判断が下されることはない、ということである。つまり、ユートピアや反ユートピアとは、読者がそのように評しているだけであり、当のサド自身は、どちらがより良い政治体制を築いているか、あるいはどちらがユートピアでどちらが反ユートピアなのか、といった判定を行わない。このことから、サドの著作における、制度やそれをもたらす文化に対する一貫した態度を、見出すことができる。すなわちそれは、特定領域内における文化の絶対性、つまり局所的な絶対性であり、かつ相対的な絶対性である。
 この文化の局所的な絶対性、相対的な絶対性という考え方は、サドの著作に多分に散見される。先のタモエ王国とビュテュア王国との関係はその代表例だが、さらにこの本の主人公であるアリーヌとヴァルクールの顛末についても、制度の局所的かつ相対的な絶対性という観点から説明することができる。彼らは、サンヴィルとレオノールが生き延び、成功を収めるのとは対照的な形で、両者とも非業の最期を遂げる。ヴァルクールは、恋人であるアリーヌの父親であり、サドの著作の中でも有数の放蕩者であるブラモン法院長の悪事を暴き、アリーヌを自由の身にするために奔走する。だが、フランスの制度や文化的風習を熟知し、そこでの生存競争に長けるブラモン法院長に対して、ヴァルクールはほとんど無力である。
 他方で、後にビュテュア王国の王の座を狙おうとしたサルミエントは、フランスにおけるブラモン法院長と同じように、ビュテュア王国の権力ピラミッドの中で、国王に次ぐ権力を持つ酋長たちを秘密裏に味方につけるという計略を練ったが、酋長たちの裏切りによって殺されてしまう。『アリーヌとヴァルクール』では、明確に描かれているわけではないが、サルミエントが裏切られた理由は、サンヴィルに制度の局所的な絶対性を訴え、制度の内部においては、そこでの文化や風習に適した振舞いをするように指摘したにもかかわらず、彼自身がビュテュア王国における権力奪取の振舞いである、各人に自らの残酷性を示すという行為を選択しなかったという点にあることは、容易に想像がつく。つまり、サルミエントは、状況に自らを従わせなかったために、失敗を余儀なくされたのだ。
 さて、ここまでのことから、サドの政治思想を多文化主義の比較項として採用した理由の一つ目が導き出される。と言うのも、サドの著作で描かれる、文化の局所的かつ相対的な絶対性とは、現代の政治思想の立場に照らし合わせれば、「文化相対主義cultural relativism」と呼ばれるのにふさわしく、この文化相対主義という考え方は、多文化主義が成立する上での、言わば必要条件でもあるからだ。つまり、多文化主義が成立するためには、少なくとも「自文化以外の他の文化にも固有の価値があることを認める」という、文化相対主義的な視座を持っていなければならないのである。

5. サドの政治思想と多文化主義の比較に向けて
 ただし、文化相対主義と多文化主義は、決して同じものではない。そしてもちろん、文化相対主義という言葉のみで、サドの政治思想を語ることができるわけではない。まずもって、文化相対主義とは、─人類学者のF・ボアズが初めて使用したものであるが─、そもそも政治的な立場ではなく、認識論的な思考枠組みとして提示されたものである。ゆえに、文化相対主義からは、直接的には、現実の社会へ実践的に働きかける意義を導くことはできない。このことを踏まえた上で、もう少し正確に文化相対主義と多文化主義の関係について述べておけば、文化相対主義を構成する2つの要素、すなわち、唯一の絶対的文化を端的に認めないということと、様々な文化には固有の価値が存在すると認めることについて、多文化主義は、前者を所与とした上で、後者が現実社会で実現することを目指すような政治思想及びその立場である  だとすれば、さらに問われるべきは、多文化主義が文化相対主義を実現する上での実践的な行為規範とはいかなるものか、また、その行為規範が何にもとづいているのか、ということになるだろう。そして、このことを明らかにするために、再度サドの政治思想に立ち返り、彼の実践的な行為規範とは何かを確認しておくことは、無駄なことではあるまい。なぜなら、多文化主義もサドの政治思想も、文化相対主義的な視座をもつという点では、共通の基礎を持っており、多文化主義とサドの政治思想との相同と異同を確認することで、多文化主義の存立可能性を考察することができるからだ。よって、本稿は以降の過程で、多文化主義とサドの政治思想とを分かつ分水嶺について、考察を深めることになるだろう。あるいは、サドの政治思想の存立可能性から、多文化主義の存立可能性を逆照射する、という言い方が適切かもしれない(5)。
 ともあれ、いずれにせよサドの政治思想を多文化主義の比較項として採用し、彼の実践的な行為規範を見る場合、注意を払っておくべきは、サドの著作において、宗教があくまでも文化の一要素とされていることである。彼の著作では、宗教はいかなる形態をとるにせよ、個別の文化に内属するものとされる。それゆえ放蕩者たちが、神を冒涜することによって快楽を貪りつつ同時に教会に籍を置いたり、キリスト教に根ざされた制度を用いて反宗教的な行為を実行したりしようとも、彼らは全く矛盾していない。つまり彼らは、いかなる普遍宗教であろうとも、それが地政学的に限定されたものであることを知っており、自らの欲望をその社会制度の中で巧みに解消する方法に熟知している、というだけなのである。
 だが、だとすれば、サドの著作において、西欧、特にキリスト教文化とそれに根ざされた社会体制が、ことさら否定的に扱われる理由が問われてしかるべきである。明らかに文化相対主義的な視座を持つサドの政治思想は、なぜキリスト教文化を、一つの習慣として評価できないのであろうか。この問いはまた、彼の著作において、キリスト教文化が批判される際に、神を冒涜する言葉と放蕩的行為の描写が繰り返し行われる、という点からも注目に値する。すなわち、サドの著作でキリスト教文化が否定的な扱いを受ける理由が、サドの著作が「サディスティック」であることに関係するのであれば、ここにサドの実践的な行為規範を与えるものがあると考えても、あながち間違いではないだろう。以降では、この問いに対する答えを、サドの著作に見出していくことにしよう。

6. 自然と自然法則
 前節末の問いに答えるにあたって、サドの著作におけるユートピア(に映る)タモエ王国のザメの言葉を、再度参照してみよう。彼は、犯罪者に対して一定の量刑を負わせることの不公正について、次のように述べている。

 人間はそれ自身もともと不幸な存在であり、その弱さ、その感受性によって生じるあらゆる不幸に苦しめられているのですから、同胞に対してもう少し寛大であるのが当然ではないでしょうか?ほとんど無益で、自然に反する滑稽な軛を負わせて、負担をかけるようなことがはたして当然と言えるでしょうか?(Sade [1795b] 1986a: 336)

 ザメが言うには、人間はもともと不幸な存在であり、それは感受性によって、あらゆる諸悪が自らの身に生じてしまうからである。そして、そのような不幸な人間に、さらに量刑を課すのは、自然に反している。では、ここで言われる「自然」とは何か。その特徴、そしてそれと人間との関係について、M・エナフがラ・メトリの『人間機械論』を下敷きにしながら解説している部分を参照してみよう。

 ラ・メトリ(彼の作品を、サドは熱心に読んでいた)による『人間機械論』は、魂のない身体を作り上げる良く配置された器官の体系に理念的なモデルを提供する。…機械として考えられた身体は、もはや(良心や魂といった)どのような超越論的権威を説明する必要もないのである。
 …魂なしで済ますことによって、機械は、道徳哲学の全ての偏見も撤廃する。換言すれば、憐憫や懺悔に左右されず、いかなる罪の観念へも到達しがたい機械は、もし魂が存在しないならば、全ては許されると断言するのである。
 さらに機械は、それが作動し始めれば、もはやそれ自身の運動の主ではない装置なのであり、これらの運動が反映しているのは、それらの構造の論理と、それらを推進するエネルギー以外のなにものでもないのである。いったん始まってしまえば、それらはもはや変えられえず、それらの効果は常に回避しえない必然的なものなのである。…責任ある意志に対する全ての要求は埒外のものとされる。本質的なこととは、“自然”として示された物質的で隠された秩序という事実であり、あるもの〔サドの著作における放蕩者〕は、自身のユーモアのセンスでもって、賢明にもそのままそれに従っているのである(Henaff 1978=1999: 24 〔〕内は引用者の補足)

 つまり、サドの著作における自然とは、まさに世界や宇宙が事実そのようにあることであり、世界や宇宙を有らしめている秩序や法則は、サドの著作では「自然法則」と呼ばれる。そしてそこでは、─もちろん自然法則に規定されている世界(自然)があるのみなのだから─、それ以上の説明、すなわち魂、あるいはそれを司る神、良心などは必要がない。だとすれば、サドの著作における「人間」とは、感情、あるいは精神などをも含めて、機械論的な「身体」に還元しうるようなものである。例えば、エナフも参照しているが、『ソドムの百二十日』において、ある放蕩者が他者に苦痛を与え、快という感覚が得られることを、次のように説明している。

 彼は、任意の他者に対する激しい衝撃が、我々の神経細胞全体へと、次のような効果を持つ振動をもたらすことを知ったのだった。すなわち、神経のくぼみを流れる動物精気を刺戟して、それが勃起神経を圧迫させ、いわゆる猥雑な感覚を産み出させる振動である(Sade [1785] 1986: 28)

 もちろん、そのような身体である放蕩者(6)に、ある反社会的な欲望があるとすれば、それは自然と自然法則によってそのように定められた、ということになる。そして、自然法則に則って人間は創られたのだから、─それがキリスト教文化の一般通念からすれば破壊的であり、反社会的であったとしても─、自然の総体として見れば、自身の欲望を満たすことは、自然の理に適っているとされるのである。『アリーヌとヴァルクール』のブラモン法院長の言葉を用いれば、「私は自然の示唆に従ったのだ。自然の意思を果たしたのだ。自然は快楽に対する欲求を呼び起こしてくれたのだから、私がしたことは自然を喜ばせたのだ」(Sade [1795b] 1986b: 325)と表現されることになる。また、他方でザメも、タモエ王国の社会制度を構築するにあたっては、自然法則によって定められた人間を基礎においている。よって、サドの著作においては、文化は自然の産物としてあるべきものであり、自然法則は、諸々の文化的規約や法律などの制度下の規則を包摂すべきものとなる。そして、このような観点から、自然法則に則っていない規約や規則は、虚妄であると退けられることになる。先の引用に続くブラモン法院長の言葉に、注意を払っておこう。

一生の終りの瞬間は、私にどんな恐怖を抱かせるのだろうか?気持ちの良い軛の下で私を引き摺って行く自然の法則に従ったために罰せられたとしても、何も恐れるはずがないのではないか?安心して死ぬのだ。すべては私と共に終るのだ。私が目を閉じる時、一切は消え去るのだ。そして私がこの世で表わした姿が消えた後にどんな瞬間がやって来るのだろうか?私は存在していないのだから、その後の瞬間も無に似ているのだろう。この世の前にどんなことがあったのか、私はそのために少しも恐れたことはなかったはずなのだから、この世の後にどんなことが続くのか、私はそのために何も震える必要はないのだ。私にとってすべてが無なのだ。自然の盲目的な力がこれまで私をどこへ連れて行ったのか、そんなことはどうでもよいのだ。私は常にその力によって導かれて来たのではないだろうか?(Sade [1795b] 1986b: 325)
 それゆえ、サドの著作においては、神による天地創造や救済、あるいは魂の不滅性といった、キリスト教の中核をなす観念は、自然及び自然法則に対して、別の起源や秩序を措定しているという点で、虚妄の最たるものであることになる(7)。そして、キリスト教的文化において、自然や自然法則が歪曲されることによって成立している現実を、正しく自然と自然法則という事実に戻そうとするならば、神という観念の無意味を指摘すべく、冒涜的な言葉を用い、キリスト教文化における現実が、自然と自然法則の歪曲によって成立していることを指摘すべく、自然と自然法則に則った営為を対置させて論駁する、といった方法のみが残されていることになるだろう。サドの著作において、キリスト教文化が否定的に扱われ、その際、多くの場合に神への冒涜的な言葉と放蕩的行為が採用されている理由の一端は、ここにある。

7. 倫理相対主義
 ところで、前節の議論から、サドの政治思想は、自然や自然法則を中心とした絶対主義のもとで成立しており、彼の実践的な行為規範もそこから導かれるものだ、と評価すべきだろうか。ある面では、確かにそうである。つまり、あらゆる諸文化は、どのような形態をとろうとも、自然や自然法則に根ざされているのであれば肯定されるべきであり、逆に自然や自然法則は歪曲するような諸文化は否定されるべきであるという見解は、『アリーヌとヴァルクール』を筆頭に、サドの各著作に見出すことができる。
 だが、自然や自然法則を絶対視することのみが、サドの政治思想の特徴だと考えてしまうと、サドの著作の中にどうしても説明がつかない部分を残してしまう。例えば、彼の著作は、前節の冒頭で述べたように「諸倒錯的行為の目録」と言われるほど苛烈なものであり、自然と自然法則に根ざされた諸文化を肯定する、といったある種の牧歌的な様相を呈してはいない。加えて、特に放蕩的行為の描写は、キリスト教文化を批判するという文脈を離れても、繰り返しなされている。
 これらの問題について考えるために、再度、エナフによるサドの自然と人間との関係についての解説に目を移せば、放蕩者は自然の「隠された」秩序に従っているのだとされている。事実、先のブラモン法院長の言葉は、あたかも知らない間に、自然法則が自らを放蕩者に仕立て上げたと解釈するのが妥当だろう。さらに、『閨房の哲学』における最大の放蕩者であるドルマンセは、次のように描写している。
 
 もし、物質が私たちの知らないinconnues様々な結合や配合によって、振舞い動き、その運動が物質に内在するのだとすれば、…そのこととは無関係な動因agentを探す必要があるのだろうか(Sade [1795a] 1986: 406-7)

 この一節は、神の観念が不要であることを訴えるためになされたものであるが、現在の文脈で決定的に重要な点は、ドルマンセが自然法則を、その本態としては知らない、ということである。では、放蕩者たちは、いかにして自然法則を知るのか。それはもちろん、放蕩的行為においてである。さらに厳密に言えば、放蕩的行為によって起こった結果を考察し、解説するという契機が、そこに加わることになるだろう。
 ともあれここから、放蕩者たちは、自然と自然法則をその本態として、あるいはその体系全体として把持することは不可能だという帰結が導かれる。このことについては、後に偉大な放蕩者となるよう教育を受けた『閨房の哲学』の主人公ユージェニーや、「悪徳の栄え」で名高いジュリエットらが、登場当初は全くの無知である者として描かれていることが、その具体例となるだろう。というのも、彼女たちは、一挙に(体系として)自然や自然法則を把持することができないからこそ、段階的な教育を施される必要があるからだ。そして、そのような放蕩者としての修行時代を終えた後も、自然と自然法則を把持すべく、日夜放蕩的行為に励む。だが、その作業に終焉はなく、偉大な放蕩者になればなるほど、それらが把持できないことに落胆することになる。
 だとすれば、サドの著作の登場人物たちは、その端緒としては、絶対的な行為規範を持たない者として、諸文化のうちに存在する。そこで彼(女)らは、自らの欲望の赴くままに行為し、そこで起こることを観察し、考察を加えた上で、自身やその周囲の物事が自然の一部であり、自然法則に貫かれたものであることを確認するのだ。だが、このことはあらゆる時や場所において確認されたわけではない。そのため、さらなる自然と自然法則の適用例を求めて、この作業を反復するのである。だとすれば、サドの著作における実践的な行動規範は、いかなる規範も絶対的なものであり得ない、ということを重んじる、広義の「倫理相対主義ethical relativism」だということになる。サドの諸著作では、自然と自然法則を中心とした絶対主義が展開されているように見えるのは、ひとえに上の過程が反復されることによって、いたるところで自然と自然法則が確認されるからである。
 かくして、サドの著作において、文化相対主義と倫理相対主義は、自然と自然法則によって、直接結び付けられる。そしてこの場合、自然と自然法則とは、そもそも端的な事実であるが、人間にとって、ほとんど超越的なものであるため、「消失する媒介」と表現されるにふさわしいものと言えるだろう。その結果、諸文化が共存しつつも、同時にあらゆる場所で放蕩的行為が見出されることが理想態である、サドの世界とその政治思想が開かれるのである(8)。

8. 多文化主義と他者危害原則
 さて、以上の議論から、当初の目的である多文化主義の存立可能性とその限界を問う環境が、ほぼ整った。ここではまず、倫理相対主義という考え方も、文化相対主義と同じく、多文化主義が成立する必要条件に数えられることを確認しておきたい。倫理相対主義が多文化主義の構成要件である理由は、いかなる規範も絶対的なものではあり得ない、という倫理相対主義の契機がなければ、固有の価値を持った他の文化を、いかなる干渉もないかたちで積極的に存続させるという論点が導出できないからである。
 また、このことについては、W・キムリッカの多文化主義についての議論を概括することで、傍証とすることができるかもしれない。キムリッカは、多文化主義の展開を「コミュニタリアニズムとしての多文化主義」、「リベラルな枠組み内の多文化主義」、「国民国家建設への応答としての多文化主義」という3つの段階に分類している(Kymlicka 2002=2005: 487-501)。詳細な議論は省くが、その展開は、多文化主義によるリベラルな個人主義に対する問い直しが第1段階でなされ、続いてリベラルという価値規範それ自体が、多文化主義をいかに含み得るかという問い直しが第2段階でなされ、最終的にはリベラルという価値規範が、多文化主義との関係でいかに実現し得るかということについての問い直しが第3段階でなされている、とまとめることができる。むろん、この過程で起こっていることは、多文化主義によるリベラルという価値規範の問い直しによる、リベラルという価値規範それ自体の相対(主義)化であろう。
 では、サドの政治思想と多文化主義とは、同じものなのか。我々の社会的現実を見る限り、単純にサドの世界が開かれていないという点だけをとっても、それには否と答えざるを得ない。しかし、だとすれば、多文化主義にはどのような契機によって、サドの世界を実現化することを回避しているのだろうか。この問いについて、検討すべきポイントは、すでに明白だろう。すなわち、サドの政治思想においては、自然と自然法則が媒介となることによって、文化相対主義と倫理相対主義が、直接結び付いているのに対して、多文化主義において、両者はいかなるかたちで並存しているのか、ということである。
 このことを明らかにするために、再度、キムリッカの議論を参照しておこう。彼は、先に挙げた多文化主義の三つの段階について説明した後、「ナショナルな少数派、移民、孤立主義的な民族宗教団体、外国人居住者、人種カースト集団〔アフリカ系アメリカ人〕」(Kymlicka 2002=2005: 487-501〔〕内は引用者の補足)をいかに肯定するかを、現代の課題として提起している。上の五つの集団の中で、明らかに他から区別されるのは、孤立主義的な民族宗教団体である。というのも、他の集団は、多かれ少なかれ自身の固有の文化的価値を維持しながら、上位集団(国家)への参入を求めているが、孤立主義的な民族宗教団体のみは、「自発的に周縁化する」(Kymlicka 2002=2005: 511)ことを目指すからである。
 実際、キムリッカの多文化主義についての議論のうちで、もっとも判然としない部分は、この孤立主義的な民族宗教団体についての記述である。というのは、なぜ、多くの西洋民主主義諸国家が、孤立主義的な民族宗教団体の要求を完全に受け入れてきたのか、という問いを開いたままにしているからだ。だが、彼自身が記しているとおり、その要求は無条件に受け入れられてきたわけではない。すなわち、「集団内の人々に著しい危害を加えないかぎり(たとえば子供への性的虐待)、また、外部の人間に彼らの考えを押しつけようとしないかぎり、さらに構成員が合法的かつ自由に集団を離脱できるかぎり」(Kymlicka 2002=2005: 513)で、民族宗教団体の要求は受け入れてこられたのである。
 いまさら確認するまでもないが、この条件とは、一般的に「他者危害原則harm principle, non-aggression principle」と呼ばれるものである。そして、多文化主義によるリベラルという価値規範の問い直しもまた、この他者危害原則をめぐって行われてきたと言っても過言ではないだろう。すなわち、多文化主義とは、他者危害原則を容認するナショナルな少数派や移民、あるいは外国人居住者やアフリカ系アメリカ人が、にもかかわらず様々な要因で差別され、排除されていることについて、問題を提起してきたのだ。
 これらのことから、多文化主義においては、文化相対主義と倫理相対主義のあいだに、他者危害原則が組み込まれている、と帰結してもおそらく間違いではないだろう。あるいは、サドの政治思想と比較するかたちで言えば、多文化主義においては、文化相対主義と倫理相対主義が他者危害原則によって、言わば「間接的」に結び付けられている。そして、そのことによって多文化主義は、サドの世界とは異なる、諸文化や諸個人の平和裏な共存の可能性を担保しているのである。

9. 多文化主義の批判的検討に向けて
 だが、前節で明らかにされた、多文化主義において採用されている、文化相対主義と倫理相対主義を他者危害原則によって、間接的に結び付けるという理論構成は、そのまま多文化主義の限界を示唆するように思われる。本節では、この理論構成に対するいくつかの問題点を指摘し、それらの問題に答える上で、再びサドの著作を見直す意義を示すことで、帰結に代えたい。
 まず、第一に想定されるのは、(T)ある固有の文化的価値を主張することそれ自体と他者危害原則とのあいだに、相克が生まれる可能性があるということである。このことは、次のように言い換えると分かりやすい。すなわち、ある固有の文化的価値を主張することそのものが、ある個人やある集団にとって著しい危害を及ぼす場合、多文化主義はどのように調停するのだろうか。この問題は、他者危害原則によって後者を擁護しようとすれば、前者の主張を封殺する以外の方法がなく、他方でその封殺という営為それ自体によって、前者に著しい危害が及ぼされることがある可能性を想定すれば、解き難いことは明白だろう。
 また、この問題と関連して、(U)他者危害原則に則っていないとされた主義主張が、押しなべてサドの主張と等価なものとして扱われてしまう、という可能性がある。すなわち、サドの諸著作が「閲覧禁止」や「閲覧制限」が加えられてきたように、他者危害原則に則っていないとみなされた主義主張が、その細部の検討を踏まえることもなく排除される可能性があるということである。
 しかし、上記のような問題は、なぜ発生するのか。それは、(V)多文化主義に他者危害原則が導入される根拠を原理的に基礎付けることができない、という点にあるように思われる。ここで言わんとしていることを明らかにするために、本稿の冒頭で述べた多文化主義についての、もっとも広い定義と他者危害原則がトートロジカルな関係を結んでいることを確認しておこう。つまり、多文化主義とは「自らの文化とは異なる他の文化を、積極的に存立させ、またこれを保護する思想及びその立場」であるが、そのような立場が成立するためには、そもそも自らの文化が積極的に存立せしめられ、保護されている必要がある。よって、他の文化がすでに多文化主義を受け入れているのでなければ、多文化主義は成立せず、このような自文化と多文化の関係性こそが、まさに「相手に危害を及ぼさない」という他者危害原則に則ったものになっているのである。
 また、思想史を遡れば、まさに近代的な他者危害原則を確立し、そこから自身の功利主義説を展開したJ・S・ミルは、他者危害原則に則った功利主義が、道徳的正義をもって実践されるためには、「共感」の育成が必要であること訴えている(9)。そして、この系譜は、R・ローティが『偶然性・アイロニー・連帯』において、ある特殊な文化のうちに偶然投げ込まれた人間が、連帯を可能にするには、他者の苦難を察知する感性をはぐくむことが必要であると述べるに至るところまで、引くことができるだろう(Rorty 1989=2000)。だが、この共感の導入については、再び疑問を投げかける必要があるだろう。なぜなら、(W)共感によって他者危害原則が導入される根拠を基礎付け、補強するとすれば、まさに共感を中心にした絶対主義が構築される可能性があるからだ。
 ところで、先に少し触れたように、(T)や(U)の問題は、まさに我々がサドの著作をどのようにして受容するのか、という問いに換言することが可能であろう。また、(V)の問題については、サドの自然と自然法則が、説明不可能な所与のものとして彼の政治思想を貫いていることをもって、再び比較検討を行うことができる。そして最後に、(W)の問題については、サドが徹底的に「憐憫」を批判したということから、再び議論を開始することができる。このように、多文化主義を検討するにあたって、サドの諸著作は依然有用な位置を占めており、それゆえ多文化主義とサドの政治思想との比較は、継続的に展開されていくべき課題であると言えるだろう。


(1)それゆえ、本稿で述べる「多文化主義」には、厳密には「現代の」という限定がつく。
(2)amour-propreという言葉は、自らを大切にするという意味で「自尊心」という肯定的な語があてられる場合もあるが、ここでは一般的な「自己愛」という訳語を使用しておく。
(3)例えば、フーコーの『監獄の誕生』(Foucault 1975=1977)の主題の一つは、「監獄」の効果であったことを思い出してみればよい。
(4)秋吉良人はサドの書物の特徴の一つに「切断」を挙げている(秋吉 2001, 2007)。そして、この場合の切断とは、何よりもまず、キリスト教的な「憐れみ」を断ち切る、ということである。
(5)なお、多文化主義とサドの政治思想を並行させて論じたのは、本稿が初めてというわけではない。大澤真幸(大澤 2002-3)は、現代の多文化主義的状況において、公共性はいかにして成立し得るかについて論じた際に、サドの『閨房の哲学』(Sade [1795a] 1986)とそれを解説したJ・ラカンの「カントとサド」という議論(Lacan 1965: 765-792)を取り上げている。本稿が多文化主義の比較項として、サドを召喚した理由はまずもって彼に帰される部分が大きい。
(6)サドの著作の自然界と自然法則を鑑みるに、身体を「持つ」という表現は、正しいとは言えない。なぜなら、「持つ」という表現には、多かれ少なかれ身体を所持する「精神」あるいは「理性」が措定されることになるからだ。サドの著作においては、自然界と自然法則によって、人間は端的にそのように「ある」だけなのである。
(7)サドはしばしば「無神論者」、あるいは彼に特有の超越的観念がその著作で姿を見せるため「理神論者」と呼ばれているが、サドの言う自然や自然法則を考慮に入れれば、その様相は単純な神観念に対する批判と言うよりも、幾分か複雑なものであると考えられてしかるべきである。だから、彼の著作における自然と自然法則とは、決して神が創った宇宙や神の意志に対する反対概念と理解されてはならないし、ましてや社会的制度、あるいは習慣などと等価視してはならない
(8)ただし、ここで注意を払っておくべきは、サドの政治思想が、アナーキズムとは別種のものであるということである。というのも、サドは体制という体制をすべて否定するわけではないからだ。例えば、『閨房の哲学』で提示される「フランス市民よ、共和主義者でありたければ、もう少しの努力だ」と題されたパンフレット(Sade [1795a] 1986)のように、アナーキーな状況、及びそのような状況を創出する人間を大量に産み出すような制度を構築することも、サドの政治思想における理想態に含まれるのである。
(9)ミルの「共感」については、J・プラムナッツの議論(Plamenatz 1949=1974)を参照した。

参考文献
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─, 2007, 『サド─切断と衝突の哲学』東京: 白水社.
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─ [1795a], La Philosophie dans le Boudoir ou les Instituteurs Immoraux, 1986, Annie Le Brin et Jean-Jacques Pauvert(dir.), ?uvres completes du Marquis de Sade t. 3, Paris: Pauvert.
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UP:20101123
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