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新聞記事「中島岳志的アジア対談:炭鉱とサークル村の記憶――森崎和江さん」


『毎日新聞』東京夕刊 20080922


■中島岳志的アジア対談:炭鉱とサークル村の記憶――森崎和江さん

 今回のゲストは、詩人、作家の森崎和江さん。1960年ごろに詩人、評論家の谷川雁(注1)らと、九州で炭鉱労働運動などに近い立場の文化交流誌『サークル村』を作った人物だ。その後もノンフィクションやエッセーを数多く発表してきた。森崎さんの地元、福岡県宗像市で、中島岳志さんがその思想の中核をのぞいた。【構成・鈴木英生、写真・山下恭二】

 ◇植民地出身者の苦悩とは――中島さん
 ◇知識人に労働者の反感も――森崎さん

 中島 森崎さんは、植民地出身者の視点から、日本の断層を見つめられてきました。
 森崎 私は朝鮮半島で生まれたけれどその言葉も文字も知らず、日本語は書き言葉と標準語しか知らずに育ちました。ですから、「アジアの中の日本の私、お前は何者?」という視線が自分の中にずっとあったんです。それで、後に日本中を歩き回りました。日本探し、郷里探しをしたのね。
 植民地で生まれた者が、日本を郷土とする苦悩があるんですよ。戦後しばらくして、福岡県久留米市に住んでいたころ、早稲田大に行っていた弟が突然帰ってきて、「僕は古里がない」って言ったのね。ものすごくよく分かって、一晩中、話をしたんです。弟が東京に戻った後、夜中にふっと彼の言葉を思い出したら、亡くなったと電報が来た。弟が来たときに「しばらくここでごろごろしなさい」って言えたらよかった。ただそれだけなの。植民地出身者には、そのごろごろする場がない。
 竹内好(注2)先生の「侵略と連帯は表裏である」という言葉に出合ったとき、本当に「ありがとうございます」って思いました。日本は、国家としては大変な侵略をした。でも私は、朝鮮の人におんぶもだっこもしてもらい、頭をなでられて育った。連帯がないと人は共に生きられない。それを竹内先生は論理化されたのよ。
 中島 旧制中学の教師だったお父様もその典型ですよね。
 森崎 父を慕っていた教え子の方々が、昨年、お墓参りに来てくれました。現地の人とそういう関係を持った人も、たくさんいたと思うんです。昔、私が女学校に行こうと家を出るときに、父が涙をふきながら、ハングルで教え子の名前を書いていたことがありました。「お父さんは、悲しくてたまらない。一生懸命手を尽くしたけれど、この子を(ハンセン病の)療養所に送るしかなくなった」と。父は一人一人の苦悩を受け止めようとしたんですね。でも、力が足りなかった。
 中島 さて、『サークル村』は58年に創刊されました。創刊宣言に、「労働者と農民、知識人と民衆、中央と地方、男と女などの断層と亀裂は大規模な交流で乗り越えられるだろう」というようなくだりがあります。炭鉱でも、大手と中小、正規と非正規雇用などの断層を見つつ、共通の場を持とうとされたんですね。
 森崎 それを創刊宣言のように文章にするのは簡単です。でも、具体化はものすごく苦痛を伴ったし、できませんでした。結局、『サークル村』は労働者に触れられなかったんですね。
 中島 やはり、知識人が中枢になっていた?
 森崎 そう。参加する労働者も労働者内のエリートだけ。だから反感も持たれて、労働者が夜中に突然、家を襲ったこともありました。雁さんは留守。刃物を持った男性が、玄関のガラスを割って入ってきた。「お前らは労働者、労働者って言って、労働者って何な」と、ドスをテーブルに突き立てた。「私もその話がしたかったの」って歓迎して、湯飲みにお酒をついで「かんぱーい」。「労働者って言うけど、あんたたちは酒ばっかり飲んでいて、女の方がずっと労働者よ」。そんな話を明け方までしたんです。私は女性のサークルをしていたの。その中の炭鉱家庭の娘が深夜に犯され、殺された。犯人も仲間の一人でした。女性の兄が我が家の近くで自死。私は起床不能になりました。
 ともあれ、私の家に来た男性は最初、「お前らは口ばっかり」と言っていましたが、最後はうち解けて帰りました。
 中島 森崎さんは、労働運動などの叫ぶ「団結」が、結果として隠した当事者の声に耳を傾けられてきました。だからある意味、雁さんより深く炭鉱にかかわれた。そこで、雁さんと対立した。しかも雁さんは、運動が行き詰まった時期、何か官僚的な態度が目立ったようです。なぜでしょう?
 森崎 あれはやはり……、たとえば上野英信さん(注3)は労働者の世界に直接入る。雁さんは文字を書いて、それを東京に運ぶ。この方法論の違いですね。でも、私は谷川雁という男性にお会いしなければ、この生き方をできなかったんだと思っています。
 中島 日本で住まれたのが炭鉱だったのも、よかったのではないでしょうか?
 森崎 そうなのよ。炭鉱の人たちは、農村から追われて来ていましたから。それで、炭鉱が新しい古里になっている。
 中島 その意味で、森崎さんと立場が近かった。
 森崎 60年代に炭鉱の労働運動が終わった後は、残された50代の女性たちと「二十日会」という会を作りました。私の母世代の人たちに「あんた字ば書きよるけんど、人間の尻の穴と理屈はひとつばい」「大学の先生の言うことばかり聞いていたらいかんばい」って怒られるわけね。彼女たちに、本当に育てられたんですよ。

 ◇「異質の他者」認める文化を――森崎さん
 ◇両立する「闘い」と「エロス」――中島さん

 中島 さて、森崎さんが60年前後から提起された性、エロスの問題について。この問題を今、どうお考えでしょう?
 森崎 今は、女性学とか男女共同参画社会というのもあるけれど、それだけが本質じゃない。確かに女性の地位は上がった。でも、今もあちこちで売られている女性はいます。さらに、一人一人が体の中に持つ自然という意味での性とは何かが問われきれていない。性の問題は結局、「生きるとは」ってことで、性や民族を超えて「異質の他者」を受けとめ合う文化を願っているの。
 中島 他者との違いを認めるところに、エロスとか森崎さんのおっしゃる「いのち」とか、人間の根源的なものがあると思います。人間同士すべて分かり合えるという同調圧力も、全然違うっていう相対主義もおかしい。と同時に、運動のような場では、同調への欲望が強くなってしまう。だからこそ、ご著書の題で「闘い」と「エロス」を組み合わせたのは、注目すべきことだと思います。
 以前、インドでヒマラヤの木を守る運動があって、それにすごく感動しました。女性たちが幹にしがみついて木を守るんです。その姿には、文化や言語を超えて響くものがあったと思うんです。『闘いとエロス』を読んで、この運動を連想しました。
 最後は、今の労働問題についてうかがいます。正規雇用と非正規雇用の格差などを、どうご覧になっていますか?
 森崎 私、今は具体的な現場に行けませんから、知らないことは言えない。でも、私が若い時に感じた世界は、そのままだと思うんですよ。サークル村的な小集団、やはりそういうものを生み出してほしいです。
 中島 今、フリーター労働運動などの中に、雁さんを振り返る動きがあるようです。もう一回、僕らがサークル村の可能性と課題を引き継ぐような……。
 森崎 地元の宗像市にも多くのサークルがあるの。そのひとつに韓国の障害者施設との交流会が続いていて、うれしくて。だからやはり、ここが私の「根拠地」になりました。<毎月1回掲載します>

 注1)谷川雁 1923〜95年。『サークル村』の後は地元の大正炭坑で争議にかかわる。「根拠地」「原点」といった言葉で独自の土着的革命論を展開した。
 注2)竹内好 中国文学者。1910〜77年。魯迅研究で知られ、戦後、日本のアジア主義や「近代の超克」論の再検討に挑戦。60年安保闘争に絡んで都立大を辞職した。
 注3)上野英信 記録文学作家。1923〜87年。『追われゆく坑夫たち』などで中小炭鉱とその労働者を記録。図書館や集会・宿泊所として「筑豊文庫」も開いた。

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 ◇対談を聞いて
 対談後、『サークル村』の事務所兼森崎さんらの家だった建物に行った。周囲は量販店が多く、竹内好が行ったホルモン焼き店も、今や大型店舗だ。路地の先に、かつての炭鉱住宅を見つけた。そこまで乗ったタクシーの運転手も、親せきが炭鉱で働いたという。一見どこにでもある郊外だが、炭鉱の記憶は、そこかしこで確かに残っていた。【鈴木英生】

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 ■人物略歴
 ◇なかじま・たけし
 北海道大准教授(アジア研究)。1975年生まれ。著書に姜尚中さんとの対談本『日本』(毎日新聞社)など。

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 ■人物略歴
 ◇もりさき・かずえ
 1927年、現韓国大邱市生まれ。福岡県立女子専門学校卒。炭鉱町に谷川雁と住み、『サークル村』創刊(60年終刊)。ほぼ同時期、女性交流誌『無名通信』も刊行。著書に『第三の性』『闘いとエロス』『からゆきさん』『慶州は母の呼び声』『草の上の舞踏』など多数。

┃2008/09/22『毎日新聞』東京夕刊
http://mainichi.jp/enta/art/news/20080922dde018070065000c.html


*作成:村上 潔
UP: 20091109 REV:
全文掲載  ◇森崎 和江
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