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常識ずらしの心理学

サトウタツヤ 2008/07/06〜2008/09/28 朝日新聞連載,

last update: 20151225

2008/07/06 「常識ずらしの心理学1――習慣を疑うことから」        
2008/07/13 「常識ずらしの心理学2――「血液型占い」の起源」       
2008/07/20 「常識ずらしの心理学3――少数派には不利な「血液型」」    
2008/07/27 「常識ずらしの心理学4――「性格」は管理のツール」     
2008/08/03 「常識ずらしの心理学5――性格は華麗に変化する」      
2008/08/10 「常識ずらしの心理学6――「アタマの良さ」とは」      
2008/08/24 「常識ずらしの心理学7――褒めるは人のためならず」     
2008/08/31 「常識ずらしの心理学8――迫真の映像は真実か」       
2008/09/07 「常識ずらしの心理学9――難病は「不幸」なのか」      
2008/09/14 「常識ずらしの心理学10――小遣い研究で平和貢献」      
2008/09/21 「常識ずらしの心理学11――うわさ=重要さ×曖昧さ」     
2008/09/28 「常識ずらしの心理学12――人生は一本道ではない」      

*全連載分PDFデータはこちら
*各回 朝日新聞『be』7面に掲載


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常識ずらしの心理学1 2008年7月6日 朝日新聞be
 
 この連載では私たちが普通に考えてみて正しい!常識だ!と思うこと、あるいは習慣化しているために、それが間違いかどうかも疑えないようなことについて、心理学の観点から多様な見方を提供していきたい。
 私たちには、さまざまな習慣がある。近代心理学の立役者の一人、ウィリアム・ジェームズは、「習慣はわれわれの運動を単純化し、これを正確にし、かつ疲労を減少させる」と言った。
 自転車に乗り始めた時のことを思い出してみよう。一生懸命、転ばないように乗っていたはずで ある。もし、習慣がなければ、初めて自転車に乗るときのような緊張感で日々を暮らさなければならなくなる。
 名刺を二つ見てほしい =図。どちらが「大学の先生」らしい名刺だろうか。おそらく多くの人は右側と言うだろう。カタカナなんて教授っぼくない、というわけだ。
 私自身、名前表記をカタカナにしていると、「本当に大学教員なのか?」と疑われることがある。この記事を見てそう思った人もいるかもしれない(電話して確かめたりしないでね)。一方、 右側の名刺の「大教授」 という肩書は存在しないが、漢字だとそれっぼく見える。肩書で詐欺をしようとする人の立場にたてば、カタカナで書いたら疑われてしまうから、漢字で名刺を作れば無難だということになる。たとえ実際にない「大教授」でさえそれらしく見えてくる。
 詐欺にあった被害者に、なぜ信用したのですか?と尋ねると、親切だったから、信用できそうな肩書・身なりだったから、と答える人がいる。「怖そうな顔で妙な身なりだったら詐欺だとわかったのに…⊥と言っても後の祭り。詐欺をするような人は、親切に見られる典型的なパターンを熟知していて、それを演じられるのである。
 名刺表記によって正しさを判断するのではなく、身なりや肩書で人を見るのではなく、五感を用いて、その人について考えていくことが必要である。それは習慣を崩すことと似て、エネルギーが必要なことかもしれない。しかし複眼的思考のレッスンでもある。 こうした例について次週からさらに考えていきましょう!

*文中図はPDFデータで参照可能
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常識ずらしの心理学2 2008年7月13日 朝日新聞be 

 最近、またまたまた(以下略)血液型が流行している。血液型で性格を判断したり、自分の未来を占ったりすることは 世界中で行われていることではない。「なぜ日本で血液型性格判断がはやっているのでしょうか?」と尋ねられるが、この質問に答えることは難しい。社会現象の真の理由はわからないのだ。そういう時には「なぜ」ではなく「どのように」を考えることが大事である。
 2004年ごろ、各TV局が血夜型に関する番組を頻繁にオンエアした。視聴率が取れたからであろう。しかし「放送倫理・番組向上機構(BPO)」の放送と青少年に関する委員会が、「『血液型を扱う番組』に対する要望」を出すに至り、番組は作られなくなった。同委員会は、血液型をめぐる固定観念を支える根拠は証明されておらず、本人の意思ではどうしようもない血液型で人を分類、価値づけするような考え方は社会的差別に通じる危険がある、と 指摘した。
 さて、日本で初めて血液型の検査をした人は医師・原来復であった。1916(大正5)年に彼が最初に書いた報告には、血液型検査をしているうちに、体格などから血液型が推測できるようになったということが書かれていた。彼は医師だったのでその後はこうしたことを研究していないが、教育心理学者・古川竹二が血液型と性格の関係を体系化した(1927年)。彼は、入試の面接のために性格を科学的にとらえる必要があると考え、血液型をその手段としたのである。しかし、約300の研究が行われ、結果的に彼の説はほぼ否定された。
 戦後になってこの考えを大衆の間に復活させたのは作家・能見正比古。71年に『血液型でわかる相性』を出版し、今に至るブームのきっかけとなった。相性には男女関係だけではなく上司−部下の関係も含んでおり、人間関係が複雑になったことが背景にあったことをうかがわせる。
 そして80年代半ばには、大きな血液型性格判断のブームがあり、恋愛や育児に血液型が活用された。現在、血液型に関心を持っている20代以下の人たちは、生まれた時から血液型性格判断が身近にあった最初の世代であり、だからこそ疑うことが難しいのだが、今回と次回の記事を参考に血液型と自分の関係をとらえ直してみて欲しい。

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常識ずらしの心理学3 2008年7月20日 朝日新聞be 

 血液型と性格に関することは、学校など正統的な学習の場では習わない知識だ。学問的には承認されてないからである。ではなぜ心理学者たちはこの説が正しくないと言うのか。歴史的に見て決着済みというのが一つ。調査をしても一貫した結果が出てこないという理由もある。ステレオタイプにすぎず偏見を作っているというのも理由の一つである。
 しかし、人の血液型を当てることができた、とか、人に血液型を当てられた、という生活経験を持っている人は多い。生活実感はあるのに学問的に正しいという情報は得られない。一種の情報空白ができてしまうので、多くの人は無意識のうちに根拠を求めてしまう。最近の単行本の流行もそうした潜在意識と無関係ではないはずだ。
 さて、なぜ私たちは血液型で自分や人のことを分かった気になるのか。まず、人をみて血液型を当てると実際に当たるということがあげられる。血液型は四つだから単純に考えれば25%は当たる。そして、血液型の比率はA対0対B対AB=4対3対2対1だから、全部Aと言えば40%当たる。あるいは最初にA、次に0と言えば70%が当たった感じになる。もっとも、百発百中だったらつまらない。たまに外れるから刺激的だし色々と推理が楽しくなる。
 血液型が当たるのは単純に確率の話だけでもない。ある人の血液型が分かってしまうと、その血液型らしい行動しか見えなくなってしまうのだ。人は様々な状況で様々な行動をしているが、A型だと思えばA型っぽい行動だけに気づきやすくなる。さらに、自分自身が自分の血液型にあった行勤をすることもある。予言の自己成就現象と呼ばれるもので、A型は** だから**っぽい行動をしよう!と思っているうちに本当にそうなっていくのである。
 血液型性格判断の問題の一つは、血液型の比率が違うためか、示される性格が、少数派の血液型に不利な内容になっていることだ。星占いのように各星座が同じ比率であるものとは違っている。
 ある女の子は彼氏に自分の血液型を偽っていた。自分の血液型では男の子に嫌われると思ったのである。生まれた時からもっている生物学的条件によって性格が悪く見られるのでは偏見・差別につながりかねない。筆者はブラッドタイプ・ハラスメント(プラハラ)という言葉を作って注意を呼びかけている。

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常識ずらしの心理学4 2008年7月27日 朝日新聞be 

 私たちの性格への興味はいつぐらいから起きたのだろうか。 古代ギリシャ時代にも性格についての関心はあった。アリストテレスの弟子、テオフラストスが著した『人さまざま』は最古の個性描写の文献である。恥知らず、へそまがり、などという言葉で性格が描かれている。しかし、その後理論は発展せず、19世紀になって骨相学という学問が流行した。アタマの形から性格や知能を捉えようとしたものである。犯罪者の犯罪傾向を知るために骨相学が用いられていたこともあり、監獄で獄死した凶悪犯の頭蓋骨コレクションもあった。
 19世紀の末から20世紀にかけて、現在でも良く知られた性格理論がいくつも誕生する。もっとも有名なのは、クレッチマーの性格と体格の研究だろうか。彼は4千人ほどの精神病者について研究を行い、体形と精神病や性格との関係を理論化した。精神分析の創始者であるフロイトやその弟子ユングも性格理論を提唱した。特にユングは、自分の関心が外の世界に開かれていくか、内(自己)に向いていくかということに注目して、外向性−内向性という性格の類型を提唱した。
 さて、性格という概念が必要になったのは、産業が盛んになり人口の移動が激しくなってからである。例えば日本において士農工商の時代に性格など知る必要はない。相性も必要ない。結婚相手は生まれる前から親同士が決めていたりするのだから。身分制度が緩やかになり、個人個人の違いが重視され進路を選べるようになった時、性格が必要になる。
 性格を利用する傾向に拍車をかけたのが戦争である。大規模な戦争が行われるようになってくると兵士の数も必要になってくる。しかし、中には戦場で力を発揮できない(神経症になってしまう)兵士もでてくる。そのような人をあらかじめ除外するために、アメリカの心理学者・ウッドワースは「個人データ」という名の集団式の性格アンケートを初めて開発した。
 戦争に向いていると言われるのがいいかどうかは別として、性格は管理のためのツールになってしまっている。誰かが特権的な立場で私たちの性格を判断しているのだから。私たちはこうした性格の捉え方に異議を申し立て、自分や自分の未来のための性格の捉え方を考えていく必要があると思われる。詳しくは次回に。

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常識ずらしの心理学5 2008年8月3日 朝日新聞be 

 性格に関する悩みは 「(自分の性格が)変わらない」が多い。でも性格って何だろう。まず、性格という一つの実体(モノ)が体内にあるという考え方はやめよう。少なくとも三つの性格を区別することが重要だ。私が考える私の性格、誰といっしょにいるときの私の性格、多くの人の中にいる時の私の性格、の三つである。
最初の性格は、私が自分のことをどう考えるかでありアイデンティティである。過去の自分を引き継ぎ、未来の自分を見据えながら、今の私のことを考える。アイデンティティには連続性や他者との差異が必要だから、変わると思いにくい。
 二つ目の性格は、関係性の中の性格。ウチの中で姉には子ども扱いされているが―姉のおかげで服や趣昧が大人びており―学校の同級生たちからはお姉さんキャラとして頼りにされている人はいないだろうか。家ではガキ扱い、学校ではオトナ扱い。また、父親といる時と恋人といる時で同じ行動をしている人はいないだろう。違う性格が出ているはずである。
 三つ目の性格は、他者との比較で決められる。自分は明るいと思っていても同級生の**ちゃんにはかなわない、先生もそう思っている、みたいなことである。アンケート式性格検査で診断されるのもこの性格だ。
 以上、第1と第3の性格は安定的で固定的だが、第2の性格において私たちは華麗に性格を変化させていることが分かる。 私といっしょにいるダンナや友だちは、いつも同じ性格だよ、と言いたい人もいるだろう。しかし、この場合、「状況としての私」が他の人の行動を安定させているのかもしれない。「私」のダンナや「私」の友だちだからこそ、私から見た時の性格はあまり変わらないのである。そして、それは私自身の第2の性格にも言えることである。性格が変わらないと悩む人は、性格を変えることを妨げる要因を探してみよう。あるいは自らアクションを起こして、環境や人間関係を変えてみるといい。その際、まず自分が 周りの人への接し方を変えてみよう。そうすれば必ず相手は変わり、それがまた自分の可能性を豊かにしてくれる。性格が変わらないと嘆くのではなく、性格をとらえる複数の視点を理解して、華麗に変化する性格を楽しみましょう。

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常識ずらしの心理学6 2008年8月10日 朝日新聞be

 アタマの良さ(知能)も性格同様、身分制度が安定している時は不要だから近代以降の産物である。先週紹介した骨相学は知能にも関心をもっており、アタマが大きい人はアタマが良いと考えた。だから、大きさを測った。しかし当時は、脳のスキャンなどできない。ではどうしたか? 死んだ人の脳重量を量ったり(墓から採り出して!)頭蓋骨に鉛の玉を入れて容量を推定したりしたのである。なお、日本には夏目漱石たちの脳が残されて、重さやシワを調べられていた。
 知能検査は、子どもの知能を測る目的で作られた。その時の基準は年齢であった。子どもは年齢ごとに理解力・記憶力・表現力などがあがる。4歳の時に6歳並みのことができればアタマがいいと誰もが思う。6歳なのに4歳レベルだと知的に遅れていると思う。
 フランスの心理学者ビネは精神年齢水準を測る知能検査を開発し、実年齢より2歳下のレベルの子どもは、知的な遅滞があるとして補償教育の対象とした。ついで、ドイツの心理学者シュテルンは精神年齢という概念を提唱し、精神年齢を実年齢で割って100をかけたものをIQ(知能指数)として表した。IQという考え方は、知能なるものが個人の中にあるような印象を作り出し、また、知能が一次元であって優劣が明確なものだという考えを支えたので、知能が低い者を排除すべきだという優生(劣廃)学の根拠として使われた。
 最近では、感情的知性(いわゆるEQ)が重視されている。たとえば、仕事が出来る人は−アタマが良いことは大事だが−それ以上に、自分が壁にぶつかったときにヒントをたくさんもらえるような人だという。もっと大事なことは、普段から人を助けているような人こそが、自分がピンチの時に助け舟を出してもらえる人だということだ。相手が困っているかどうかを見抜く力、これが感情的知性であり、困った時に助け合う関係性こそが、すぐれた仕事をする条件だというのが最近の考え方である。
 自分が正当に評価されていない、困った時に相談する人がいない、と悩む人は多い。だが、自分はどうだろうか。人の良いところを見つけているだろうか。誰かが困っていることに気づくだろうか。IQなどという数値ではなく、そういう敏感さこそがアタマの良さを作っていくのである。

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常識ずらしの心理学7 2008年8月17日 朝日新聞be

 これまで述べてきたように、性格や知能のようなものが人間の中にあって私たちを効かしているわけではない。従って、簡単に測れるものではないし、血液型とも関係ない ということになる。
私たちの行動は外界との相互交渉によって成り立っているのだから、身体の中に何かがあって自分を動かしていると仮定するよりも、自分の振る舞いを変える方策を探る方が有益である。特に重要なことは、自分の行動が他者にとっての環境となって、その行動に影響を与えていると自覚することである。
 たとえば、自分の能力や仕事が正当に評価されていない、という悩みを持つ人は多い。自分の能力が低いからだとか(自罰)、自分の周りには私を正当に評価できる人がいない(他罰)からだと嘆くかもしれない。だが、ここで逆転の発想が必要だ。
 まず、自分が人を褒めているのか、人を励ます「心体」になっているか「観測」してみよう。 いつの時代でも人は他人の悪口や批評は上手だが褒めることは少ない。 自分を含め誰もが皆を批判しているのだから、自分が評価されないのも当然だ。そうした負の連鎖を断ち切るには、まず自分から人の良さを見つけて褒めることである。
 誰かの良さを見つけることでその相手は自信をもつ。自信のある人は他人の足を引っ張るようなことはせずに、他者の良さを引き出してくれる。つまり、自分が他者を評 価することは自分の良さを引き出す環境作りとなり、結果として自分も評価されるようになり、さらに伸びるのだ。
 筆者は大学の授業で「ほめほめシート」を用いて他の学生達の良い点を指摘しあうようにしている。最初は褒め方が分からなくて戸惑うこともあるが、やがて良い所を見いだせるようになる。単に「良かった」などといって褒めるのではなく、具体的な行勤などのうちから良い所を指摘することはお互いを成長させる。
 社会は世知辛く、競争主義であり褒めあったりしないし、甘い理想主義だと言われることも多い。だが、これは理想だというわけではなく、身体の内部に能力のようなものを仮定する考え方に対する異議申し立てであり、その実践なのである。
 職場や家庭でも、褒め方を育てる方法を試してほしい。自分が評価されないと悩むより、まず他人の良さを認めることである。
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常識ずらしの心理学8 2008年8月31日 朝日新聞be

 09年5月から始まる裁判員制度では、私たち一般市民が裁判員として、刑事裁判に参加し証拠調べや判決にかかわっていくが、心理学的な知識が助けになる状況も少なくない。
 筆者のゼミでは過去6年間にわたって「法と心理」の研究が行われてきた。博士課程(後期)の若林宏輔君は、犯罪場面のようではあるが決定的な場面(たとえば盗み)を見ていない人の証言について実験した。まず、盗み場面の無い映像を見た直後に単独で尋ねられると、ほとんどの人が盗みがあったとは言わない。だが、他の角度から決定的場面を見た人と話をすると、盗みがあったというように話を変えがち(同調)である。しかも、決定的場面を見た相手が自信をもって一貫した話しぶりをした場合には、そうでない相手の時よりも同調しがちであった。法廷の目撃証人が、犯罪を見たと主張していても、その人が決定的場面を見たのか、誰かと話をしたから見たと思うようになったのか、を区別することが重要になると示唆される。
 わかりやすい裁判をするためには文字ではなく映像を用いた説明が必要だという意見がある。その一方で、映像はインパクトが大きいのでかえって誤った判断を導くという意見もある。たとえば、被告人が被害者を刺したシーンを書面ではなく再現映像で見ると、リアリティーがあり印象が強く残る。だが、インパクトがあるから真実なのだろうか? 最近の恐竜映画は本物みたいだが、誰も実際の恐竜を見た人はいない。本物っぽさは本物そのものではないのだ。
 博士課程(前期)の小松加奈子さんはこの問題に取り組み、書面通りになっているか何度もチェックをして映像と書面を作れば、画像と書面では異なった判断を引き起こさないとした。ただし映像の方が注意をひきやすく、記憶が残りやすかった。逆に言えば、丁寧なチェック無しに作られた映像を見せられたなら、わかりやすく記憶に残りやすいだけに、誤りやすさに直結するかもしれない。映像説明の方が裁判員の負担は小さいとしても、正確さを犠牲にしていいわけではない。
 確信があって手を振ったら他人だったという見間違いの経験は誰にでもある。だが、他者の証言を聞くときは、確信度や迫真性を正確さの手がかりにしがちだ。確信度や迫真性は必ずしも正確さを保証しないことを知り、対応することも重要になる。
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常識ずらしの心理学9 2008年9月7日 朝日新聞be

 私たちは病気になると、病人に「なる」のではなく病人に「させられる」。社会学者・パーソンズが言う病人役割をとらされるのだ。病気は克服されるべきだからがんばってね、と言われ、「がんばって治すよ」と言わされる役割である。治る病気はまだいい。しかし、難治性の病や進行性の病ならどうだろう? 原因不明、すなわち治癒が望めない病気はそれだけでダメということになりかねない。
 無病息災を祈る。生まれ来る子に五体満足を願う。それは何の偽りもない私たちの願いだ。では、難治性の病になってしまったら、終わりなのか。クオリティー・オブ・ライフ(生活の質)が低いと考えていいのか。写真は日本ALS協会近畿ブロック会長の和中勝三氏である。ALS (筋委縮性側索硬化症)は物理学者ホーキング氏が罹患したことで知られる。身体を動かすための神経系の変性により筋肉が萎縮し、(知能・知覚は正常なまま)運動能力を喪失していく進行性の神経難病である。呼吸筋がダメになったら人工呼吸器で補助することが可能だが、コミュニケーションはどうするのか? 和中氏は現在では身体のほとんどの筋肉が動かないが、わずかに動く左ほおでスイッチを操作して パソコンによる通信が可能だ。自身がALS患者でありながら、患者さんの症状にあわせてスイッチ類を開発しているのは 久住純司氏。容易に購入できる安価な雑貨類から装置を作る魔術師だ。
 立命館大学にはGCOE「生存学」創成拠点があり、和中氏ほかALS患者さんの生のあり方を支えるプロジェクトがいくつも行われている。不動の身体でも使えるパソコン作りから独居可能な社会制度作りまで、つまり、理系的な技術から文系的な制度論まで、文理融合約な学融型実践研究である。松原洋子教授のグループに私も参加しており博士課程(前期)の日高友郎君が毎月一回和中さん宅を訪れてフィールドワークを行っている。研究とはおこがましく、実際には私たちの方が学ぶことは多い。
  自分たちから見て欠けたものがあれば不幸で生活の質が低いというような決めつけは−健康神話の負の側面に囚われてしまっているにすぎず−あってはならない。Aならば幸せだ、という時、私たちはAでなければ不幸せと簡単に考えてしまうが、それもまた神話であり単なる虚構にすぎないと知るべきだろう

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常識ずらしの心理学10 2008年9月14日 朝日新聞be

 お小遣いの研究、というと、何で?とか、それでどうするの?と言われることが多い。早稲田大・山本登志哉教授や前橋国際大・オソナ准教授並びに日中韓越4カ国の研究者が現地で調査を行ってきた。
 韓国では子どもたちがおごりあいをするし、おごるためにお小遣いをもらい始めるということがある。日本ではおごりは原則禁止。なぜかというと、おごることで力関係ができたり、相手に負担をかける、と日本の親は考えるからだ(子どもたちは隠れてやっているが)。それに対し韓国では、おごりあうことは交友関係そのものであり、しなければ水くさいと思われる。つまり、おごりの善しあしに関する行動規範は逢っても、相手を思いやるということは同じなのかもしれない。
 自由に使えるお金があったら何を買うかという問いに対し中国(北京) の子どもの1位は本。コンピュータ、音楽と続き、 4位に「家族のために何かを買う」が入る。日本(大阪)の子どもの1位は衣服。2位がゲームであり3位は「無し」で4位が家。日本の子どもの方が自身の欲望に素直で即物的だ。ただ、「お金 で買えないものは何か」に対する答えは日本でも中国でも同じであった。命、愛、友だち、家族。
 ベトナムの子どもたちは、少額であるが新年に友だち同士でお年玉をあげあっている。私たち研究者も驚いたが、お年玉とはその年1年間が平和に幸福に暮らせるように祈るためのものであり、金額の多寡の問題ではないはずだ。日本ではお年玉年齢別平均がニュースになったりするが、お年玉の原初的機能に立ち返れば、大人から子どもへの贈与ではなく、ベトナムの子ども同士がお年玉を交換してお互いの無事を祈るということこそが本来的な姿ではないか、と思えてくる。
 表面的な行勤の違いは確かに面白い。文化の多様性を感じさせてくれる。しかし、もっと大事なのはその背景に理解あえる共通点があると考えることである。異文化交流では相手が自分と違うことをすると驚くし、 それがもめ事や紛争の種になったりする。だが、目の前の行動ではなくその背後の意図を知ることが大事であり、そういう理解が無用な紛争をさけることにつながる。お小遣い研究はお金という欲望に近い素材を扱っているだけに、欲望や争いの原初的理解が可能となり、結果的に紛争解決にも役立つと考えている。

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常識ずらしの心理学11 2008年9月21日 朝日新聞be

 中国や日本で相次いで大きな地震が起きた。被災者のみなさんにお見舞い申し上げたい。地震に関する心理学のテーマとしてうわさがある。
 一般に、大きな地震のあとには様々なうわさが起きやすい。情報の枯渇とそれを埋めるための推測がうわさを生みだしやすい状況を作り、同じ関心をもつ人が同じ場所に避難しているなどして、伝わりやすい状況もあるからである。
 アメリカの心理学者、オールポートらはうわさ流布についての公式を提案した。 「R=i×a」である。 Rはうわさの流布量、 i は重要さ、aは曖昧さを表している。重要で曖昧なことはうわさになりやすく、重要でも曖昧ではないものや、曖昧でも重要でないことはうわさにならない。選挙の結果が一票単位まで出るのは細かすぎると思ったことはないだろうか? しかし約千票で当選、では憶測が飛び交い、うわさが起きる。一方、どの歯ブラシがいいか、ということがうわさにならないのは、曖昧だけれど、重要でないからである(だから宣伝が必要)。地震の直後には、自分や家族の身の安全という最も重要な情報が曖昧なままである。だから、その情報欠落を推測で埋めようとしてうわさになってしまう。どこどこでダムが壊れたらどうしよう?が簡単に「どこどこでダムが壊れた」という形になっていくのである。
 情報伝達についてはイギリスの心理学者バートレットが行った実験があるので紹介しよう。 図は何に見えるだろうか? めがねに見えた人、バーベルに見えた人、お団子に見えた人、色々いるだろう。曖昧な図形には自分の見方が反映する(お団子に見えた人はおなかがすいているのかも!)。
 バートレットはこうした図形が何かといことを伝言ゲームのように伝える実験を行った。たとえばこの図形をめがねだと思う人から始まったなら、最後の人が描く絵はちゃんとしためがねの形になっていくのである。
 つまり、これが何の絵であるか、という情報が曖昧だと、推測でしかない情報が強調されていく。同じ絵を見ていたはずなのに、結果的に違う図形になることがあり得るのは、うわさが様々な形で伝わっていくことの良いシミュレーションである。伝わってきた情報は必ずしも真実ではなく、推測が伝わってきただけなのかもしれないことを常に肝に銘じておきたいものだ。

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常識ずらしの心理学12 2008年9月28日 朝日新聞be

 リスクの考え方は様々ありえるが、負の出来事(危険なこと)とその起きる確率のかけ算だと考えてみよう。たとえば、法科大学院生にとって「法曹職につけないこと」と「生起確率」のかけ算である。今年の新司法試験の合格率は33%というからリスクは大きい。だが、多くの大学院の教員がこうしたリスクやその後の人生に言及することは稀らしいし、院生もそういう展望を持つことが憚られるらしい。
 リスクとその大きさに言及しないで乗り切ろうとする教育は精神論にすぎない。私自身は直接教育に関与しているわけではないが、教育機関ならば他の選択肢を院生に対して示す必要があると考えるものである。それこそがリスクマネジメントであり社会的責務である。選択肢を示すことは落後者の烙印を押すことではない。応援だ。
 連載で折にふれ強調してきたように、個人はカプセルのような単体ではなく、周りの人たちとのかかわりあいや、過去や未来の自己像によって成り立つオープンシステムだ。システム論者・ベルタランフィはオープンシステムの特徴として等至性(とうしせい・エクイブァイナリティ)をあげた。ゴールに至る道が複数あることを示すものである。
 図は、私が心理学者・ヴァルシナ一教授らと開発している複線径路等至生モデルという新しい発達心理学・文化心理学の方法論である。人生は決して一本道でもないし、 階段を上っていくようなものでもない。このモデルにおいては、左石に等至点(図の長方形)が配置されている。等至点までの多様性と等至点自体の多様性の中で人間の発達を考えたいからだ。
 法科大学院生の場合、法曹職というゴールのほか、それがかなわなくても法律を社会に役立てるというゴールの作り方もある。後者も含んだ人生径路を展望できれば、選択肢は格段に広くなり、人生に対して安心感をもつことができるだろう。
 こうした代替選択肢の重要性は様々なことにあてはまる。私たちの人生には様々な関係性に支えられた複数の径路があり、一度あきらめたことでも再挑戦できる。心理学と言いながら心を実体としてみないのが「常識ずらしの心理学」の心意気であり、それはまた、複線径路等至性モルの極意なのである。

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*作成:サトウタツヤ
UP:20090702
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