野崎 泰伸
【障害者運動・自立生活・メディア――映画『こんちくしょう』のスタッフと共に考える】 報告
「「若い障害者」が怒らなくともよい社会へ」
2008/07/16 【障害者運動・自立生活・メディア――映画『こんちくしょう』のスタッフと共に考える】 於:立命館大学学而館第3研究室
野崎泰伸(立命館大学GCOE生存学創成拠点ポストドクトラルフェロー)
1.神戸にいたころの話
野崎と申します。いまは、ここ立命館大学で仕事をいただいています。その前、つまり大学院では大阪府立大学の森岡正博さんに師事しておりました。大学院に入る前に、森岡さんの『生命学に何ができるか』を5時間ぐらいで一気に読んだ覚えがあります。当時は、横におられる立岩さんも長野で勤務されており、そこには大学院がありませんでした。市野川さんところも受験したりしたのですが、私のドイツ語が酷い出来で落ちたり、2年目は骨折し、受験どころではなかったのです。市野川さんからは「早いことどこかに入ってしまったほうがよい」と言われたのですが、受験したいと思えるところが日本には悲しいかな、この3名しかおらず、幸い府立大学は外国語が英語だけでしたので、なんとか通してもらいました。
実は大学院受験当時は生活保護を受給しておりまして、まぁ、私は食費は月に2万円ぐらいしかかけずに、あとはひたすら本を買って近くの図書館に行って勉強したりしていたのですが、大学院に合格したとたん、生活保護が打ち切られました。当時住んでいた東灘区のケースワーカーには「個人的には応援したいんやけどねぇ」と言われました。それでもなんとか、引っ越し費用は出してもらえました。院生になって大阪市に住んだのですが、当時在住していた住吉区のケースワーカーは、「大学院の学生が生活保護をもらうなんて聞いたことない」の一点張りでした。介助が必要な人には、生活保護には他人介護料という制度がありますから、後継のためにも生活保護を獲得したかったのですが、力尽きてしまいました。私はちなみに、奨学金を得て、かつ授業料免除で大学院は過ごすことになりました。どなたか関心があれば、「なぜ障害者の大学生、大学院生には生活保護がおりないのか」ということを調べられたら面白いのではないかと思います。
生活保護を受給する以前は、「被災地障害者センター」というところで働いていました。現在はNPO法人を経て、社会福祉法人「えんぴつの家」の傘下で障害者や高齢者へのヘルパー派遣事業を1つの柱として活動しています。福永さんはそこにもかかわっておられ、私の上司でもありました。阪神淡路大震災の後、それまで活動していた阪神間の障害者団体が集結し、被災した障害者の支援をはじめたのが契機で、それ以降地域の障害者たちの支援にあたっています。
私は大学生のころは神戸で過ごしていました。人文科学系でも社会科学系でもなく、数学をやっていました。実は、大学院の修士課程も経験しています。専攻は公理的集合論という、数学のいちばん基本的なところから、公理系をつくっていくみたいなことをしていました。たとえば、自然数を「定義」する、なんてことをやっていたわけです。そんな研究は、いまとなってもまったく無駄だったわけではありません。経済学専攻であったわけではありませんが、たとえばアマルティア・センの著作に出てくる数式などは、それほど苦痛なく読めますし、価値判断の問題にしても、数理的な思考回路も働くほうが、やりやすいかな、なんてちょっとそのあたりは自負しています。
数学をしようと思って大学に入ったわけですが、ひょんなことから大学の障害者解放研究会にかかわるようになります。そこで出会った兵庫青い芝の会の人たちや、当時大学の授業「総合科目・人権」の非常勤でいらしていた小松満喜子さん(女性学)、楠敏雄さん(障害者問題)のお話は、その後の私の人生の大きな転機になりました。震災前までは、地域の自立生活センターで事務のアルバイトもしておりました。最初に「かいごこな、しぬで」(「俺は介護がいなかったら、死んでしまう」という意味)ということばを聞いたときは、ものすごく衝撃的でした。どう衝撃的だったかは、以前論文に書きましたが([野崎 2006a])、まだ言語化し得ないところも正直に言ってあります。たぶん、その場の勢いに押されてしまったのでしょうか…。
震災が起こり1〜2年後、福永さんは当時NHKディレクターから大学の教員に転身された杉本章さんに、「障害者の若者組織を結成したい」ともちかけたそうです。そのとき私はいろいろあって、アルバイトしていた自立生活センターをやめ、被災地障害者センターでアルバイトをしていました。その後数年そこで職員をさせていただくことになります。私はそのとき24〜25歳ぐらいだったと思います。福永さんご自身も震災後の支援活動に多忙で、脳梗塞をおこされた、その危機感があったのではないかと推察します。ともあれ、私を含め20代の同じ年の3名、30代の2名が中心になり、「兵庫・若者研究会」を名乗り、「障害者運動の次世代への継承」を図ろうと試みました。
私と、もう1人同じ年の人とは、理論志向で、学習会とかをしたかったのです。たとえば、各自治体の政策研究とか、かつての青い芝の会のメンバーの書いた文章を読むとか、そういったことがしたかった。しかし、後の3人は「集まること自体に意味がある」と言って、喫茶店でお茶を飲むだけだったり、レクリエーションをしたりに終始していました。そのうち、それぞれの活動が忙しくなり、自然消滅してしまいました。あれからもう10年、月日の経つのは早いものです。
2.「若い障害者」が怒る必要がないのはむしろよいこと
映画「こんちくしょう」においても、また、昨年NHK教育テレビで放映された番組においても、「60年代後半からの障害者運動を知らない若い障害者と、その運動を担ってきた比較的年齢の高い障害者」との温度差が過度に強調されすぎている感を受けました。そんなふうに「世代」を切り口にしてこの問題は語られるべきなのか、という問いが1つあるでしょう。そしてもう1つ、こちらのほうが重要であると考えるのですが、もしもそんな構図になっていると仮想してみて、それではそんな状況、つまり「若い障害者が怒らなくてよい社会を嘆くべきなのか」という問いについて考えたいと思います。その2つの問いを考えることで、本来問われるべきはいったいなんなのかを提示したいと思います。
まず1つ目。これは当たり前だと思うのですが、年齢の高い障害者が必ずしも問題意識が高かったのか、というと、そうではないでしょう。それに、若い障害者のなかにも問題意識の高い人はたくさんいるでしょう。この問題はそういうことではないはずです。高齢の障害者が若い障害者に説教して終わり、では何も解決しない。
次に2つ目。ではなぜ、年齢の高い障害者で運動経験者が、昔に怒らざるを得なかったのかを考える必要があると思うのです。端的に言って、昔は、自立生活するだけの社会制度がなかったからであるということに尽きると思います。そのなかでは生きられない、家族の面倒になるか、はたまた施設に入所させられるかの二者択一を迫られることに関して、怒っていたのだと思います。そして私は、障害者だけがそのような苦渋の選択をしなければならない社会そのものが不正義な社会である、そのように思うのです。なぜ障害者だけが特段に「生きることそのもの」だけで負担を感じざるを得ないのか、そういったことをとりわけ70年代の青い芝の運動は社会に問うていたのだと私は思っています。つまり、「いつまで俺たちに「かいごこな、しぬで」と言わせるのか、そうした社会は不正義なんじゃないのか」ということを突きつけたのだと、私は解釈しています。
議論にちょっと注釈を入れます。青い芝の会は「愛と正義を否定する」と言いました。これを後継の私たちは、字義どおり受け取ってはならないと思うのです。むしろ、「健全者側の都合によって語られる愛と正義」こそが否定の対象であると受け止めなければならないのではないでしょうか。正義の否定は、結果的にシニシズム的な相対主義を生んでしまいます。それはまた「障害者は生かしても殺してもどちらでもよい」という価値判断を導きます。すなわち、何か正義の方向、それが示すベクトルは提示されなければ、そもそも社会運動ではあり得ない。だから、本来問題にされるべきは、正義の語られ方のはずなのです。つまり、正義が誰によって語られているかを検討することで、権力性の問題が浮かび上がってくるということなのです。このことを現代風に言いかえれば、「9・11以降のアメリカ(という表象)が語る正義」こそが批判されるべきで、これはけっして正義を全否定するものではない。むしろ、語る主体の偏在と、そこから浮かび上がってくる権力性こそ、私は障害者運動が問題にしたかったものの大きな1つだったと考えるわけです。これは、「当時そう言うべきだった」というふうに、現在の位置から過去を裁断しようとするものではありません。そのときにはそれしか言いようがなかったのだと私は推察しています。そのうえで、そんなふうに言わざるを得なかったことそのものを私は現在の問題にしようとしているわけです。
さて、そうだとするならば、生きるために何かを主張しなくてもよいことは、むしろよいことなのではないでしょうか。本当に障害者が怒らなくてもよい、主張しなくてもよい社会であるならば、それは根源的には障害者にとってよいことであると思うのですが、いかがでしょうか。いまのこの国では、ワーキング・プアと呼ばれるような非正規雇用の人たち、ホームレスの人たち、あるいはニートと呼ばれるような人たちも生きることそのものがうまく立ちいかない。その一部も、「生きさせろ!」と叫ばざるを得ないわけです。私は、そんな世の中こそが不正義だと思うのです。生きることそのものが苦しくて、そこで何かを主張しなければ生きていけない社会こそが不正義だ、そんなふうに考えています。しかもそうしたことをある特定の階層だけが主張しなければならないこともまた、問題であると思っています。
そういうわけで、私は、「若い障害者が怒らなくてもよい社会」はむしろよい社会であると思うわけです。ただし、それが本当に「社会に対して怒るべきことがない」ことを意味するわけではないと、私は思っています。問題は、「怒るべきことがあるのに、怒らないこと」であり、また、「誰が怒るべきか」という問いに間違った答え方をしていることにある、そんなふうに考えています。
自立支援法の施行や、生活保護の切り下げなど、怒るべきことはたくさんあると思います。怒るべきことがあるのに怒っていない、というのが現状のはずで、私などはそういう事態に対して怒ってみたい気はします。若い障害者が恵まれているというのは事実誤認であって、ただ昔に比べて当たり前に生きる権利がクローズアップされるようになっただけです。つまり、昔につつがなくやってこれなかったことそれ自身が問題であるだけであって、その意味ではようやく出発点に立たせてもらえそうになっているだけだと思います。だから、本当に怒らなくても生きていけるようであれば、それは端的によいことだと、私は考えています。
やや脱線しますが、こうした指摘は、70年代の青い芝の運動が問うたものを、介護保障の文脈のみに矮小化させた議論のように見えるかもしれません。しかしながら、そうではありません。青い芝の運動が介護保障のみを問うたものでないことはもちろん知っていますし、私自身も過去に「障害者本人たちの運動が、単なる権利要求としての制度確立一本やりで進まなかったことは、画期的である」と述べました([野崎 2006b:115])。健全者のなかにも、そして障害者自身のなかにも巣食う「内なる優生思想」を凝視しながら、人間の内面性へもベクトルが向かっていくことは、この運動の特筆すべきところであると私は考えています。福永さんたちが作ってきた、とりわけ神戸の運動においても、80年代終わりごろに「権利としての介護保障と優生思想への対決とは両立するものか」という議論がなされたと聞きます。そういった議論があったことによって、障害者運動の論理はたんに制度要求のみの論理とは一線を画すものである、そのように私自身は感じています。ちなみに、私は権利としての介護保障と優生思想への対決とは両立しうると考えていますし、むしろ優生思想との格闘がないところでの制度要求など、薄っぺらい論理であると考えています([野崎 2006a]、[野崎 2007])。
しかしながら、怒るべき事態があることは、実は昔も今も変わっていないと思うのです。ただ、そのことと「誰が怒るべきか」という問いとは切り離されたものであるはずです。苦しいから怒るべき、というのは間違っているはずです。苦しいただなかにある人は、声をあげることすら難しいかもしれません。声をあげたとして、誰かに聞いてもらえるという保証なんてどこにもない。誰かに聞いてもらえたとしても、それで社会が変わるとは限りません。そんななかで、「苦しいならその状況を言うべきだ」というならば、それは暴力にほかならないでしょう。
そのように考えていくならば、むしろ現状においては余裕のある者たちこそが、こうした構造に気づき、本来ならば声をあげていくべきであると私は思っています。無力な者たち――いまはやりの言葉でいえばサバルタンとか、ホモ・サケルとかいうのでしょうか――が言う必要がないのであれば、そうなるはずです。そのことは、「苦しみのただなかにある人たちが、その苦しさを訴える」ことを何ら否定しません。ただ、苦しい人が生きるためにそんなふうに言わなくともやっていける、主張しなければならないことはない、そうしたあり方こそが正しい社会なのではないか、そのように私は言っています。
それでも、当事者が言ったほうがよい、そのほうがわかりやすい場合もあるでしょう。ただしその場合にも、以下の点については携えておくべきだと考えます。すなわち、この人たちは言う義務があるから言っているのではないこと、本人が言ってくれたほうが周りはわかりやすいからであって、本人が本来言わなければならないことはないこと、です。ましてや、それを「当事者の語りの倫理」などと位置づけるのはもってのほかです。言いたい本人からすれば、内発的に言いたいことが生まれたのかもしれません。本人が言う必要を感じたのかもしれません。ただそれは、単にそれだけのことであって、苦しい状況におかれなければ、そもそも言わずに済ませられたものです。社会構造によって負担を偏在して負わされているうえに、語れなどというのは負担のエコノミー体制をさらに強くするものであると私は考えます。
いま怒っている人たちも、本来ならば怒らなくてもよい人生を送ることができたかもしれません。怒らなくてもつつがなく生きていけるようにするために怒ることこそ、怒りという感情の正しい発露方法かもしれません。
□参考文献
野崎 泰伸 2006a 「青い芝の会と分配的正義――誰のための、何のための正義か」(『医療・生命と倫理・社会』、第5号、124-135、大阪大学大学院医学系研究科・医の倫理学教室)
--- 2006b 「障害者自立支援法と障害者の自立――誰のための公共性か」(『情況』、2006年1−2月号、108-123、情況出版)
--- 2007 「「生の無条件の肯定」に関する哲学的考察――障害者の生に即して」(大阪府立大学博士学位論文)