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野崎 泰伸 「生命の哲学」研究会レジュメ
「正義論・ケア論の視点から――論点の再確認とそこから考えられるべき問い

品川 哲彦 著『正義と境を接するもの――責任という原理とケアの倫理』合評会
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last update: 20151225

現代思想研究会・「生命の哲学」研究会合同研究会 2008/07/21 立命館大阪オフィス

野崎泰伸(立命館大学GCOE生存学創成拠点ポストドクトラルフェロー)

1 後半の構成の再確認

第七章 ケアの倫理の問題提起
「ケアの倫理」…発達心理学者ギリガンの『もうひとつの声』(1982)に由来。女児の達段階を跡付ける理論として成立。
ある行為をケアと呼びうる特徴…ケアする者が対象に打ち込んでいること。
ケアの倫理においては、関係それ自体に価値がある。
「人間は傷つきやすく、だからたがいに依存せざるを得ない」という認識が、ケアの倫理の根幹にはある。
正義の倫理との論争
「根本的な規範」と「個人的な状況への還元」という「反転図形」。

第八章 ノディングスの倫理的自己の観念
ノディングス…ケアこそが一切の倫理の基盤。
ケアするという道徳的視点を取ることに正当化はありえない。どんな種類の正当化よりも先行する。
「なぜ、ケアすることをケアすべきなのか」(cf.「なぜ、倫理的であるべきか」)
ケアの特徴
・ケアされる人の福利、保護、向上のために、相手を受容し、敏感に応答し、かかわり合う。
・相手の「真のありよう」を把握するために、ケアする人は私の真のありようから他者の真のありようへ関心を転移し、自分個人の準拠枠から他者の準拠枠に踏み込む。 原理に依拠する思考を峻拒。今、目の前で平等に扱われていない人の存在に気づくには、ケする感受性が必要。
ケアを発動させるもの…「自然なケアリング」
・私たちの根源的なケア経験は、無力な存在としての私たちが「ケアされた」という受動的な経験から出発しているはず。
ひとは往々にしてケアを放擲したいという欲求(第一階の欲求)に誘惑されながらも、第二階の欲求に従って倫理的ケアリングをはじめ、ケアする人となっていく。
第二階の欲求…倫理的自己へのケア
ケアを受ける者とケアする者とは、非対等かつ相互的な関係。
・ケアが相手に快く受け入れられ、ケアする者が相手の成長に寄与しているのを見て、ケアする者としての自分に自信を得ることが、おそらくケアされる者からの贈り物。
ケアされる対象の範囲…心を込めたケアのできる範囲は限られているという事実上の制約。
ケアのディレンマ…黒人の友人と人種差別主義者の親類とが争い始めたら、脅かされているほうのケアを優先すべきである→「?」
ケアの限界…各人のケアする能力、おかれた状況に左右されることになる。
バベックによるノディングス批判
・ケアを実践する際には、正義の原理に依拠している
・ケアリングの倫理にはケアする者の搾取を抑止できない:とりわけ女性への抑圧的イデオロギー
ケアリングの倫理…人生を大切に生きようとし、人生が一回限りであることを深く意識した思想。いつ死ぬかわからないからこそ、いま生きていることに超絶した価値があり、維持し、展開しなければならないとみなす。

第九章 ケアの倫理、ニーズ、法
ケアの倫理は身近な関係にある者を偏重する。つまり公平ではなく、したがって正義に反する。それゆえ、見知らぬ人々同士から成り立つ公的領域には適用しがたい。けれども、正義が最優先されない領域がある。家庭を代表とする私的領域がそれである。
しかし、どの人間もケアを必要としており、少なくとも一生のある時期は実際にそうである→ケアの倫理による社会哲学をめざすことは、公的領域と私的領域の峻別を打破すること。
「第二世代」…ケアを見知らぬ他人に拡大し、ケア関係に生じがちな搾取や抑圧を防ぐには、ケアの倫理は正義によって補完されなくてはならない。
クレメント…ケア関係の重視、ケアする者の自律
トロント…人間の傷つきやすさへの着眼、「誰かが誰かをケアする」なかで自律や平等が開ける
ノディングスの応答:他者一般を気にかけることの中に「正義感覚の基礎」を認める。
ケアを受ける権利…根拠、権原は、特性や功績にあるわけではない。
権利はニーズから生じ、ニーズに根ざす。ニーズの基本は身体的ニーズ、安全。
「ニーズを本人が表明できるようになるための」パターナリズムを認める。
家庭で充足されるニーズ――生命の維持、心身の成長、社会に受け入れられる人間になること――は社会においてもみたされなければならない。「家庭」とは、人々がそこで安らぐ場、誰かが「私がここにいる」と応えてくれる場を象徴したもの。
イグナティエフ:物質的ニーズと、権利の言語では語りえないニーズ(友愛、愛情、帰属感、尊厳、尊敬など)、さらに生きている意味を求める霊的ニーズ…生身の人間そのものの尊重
テイラー:「自分らしいあり方」を自ら認め、社会からも認められたいというニーズ。自分一人では満たされない(物語論的、文脈依存的)。
ケアの倫理と法
ノディングス:被害者にも「責めの共有」を求めるが、「他者に犯した悪は完全には償いきれない」
ケアの倫理と修復的正義の相似性、ケアの倫理は修復的正義を支持する。

第十章 ケア対正義論争――統合から編み合わせへ――
メタ倫理学レベル…個別主義(ケアの倫理)・対・普遍主義(正義の倫理)(バベック)
        →「別々の言葉で問題を枠取りする異なるパースペクティヴ」
ケアの倫理は、メタ倫理学(倫理の究極的な根拠とは何か)における態度が価値中立的なものであるはずがないことを指摘。
基礎づけのレベル
・オーキン:ケアを正義によって正当化する(正義が基底)→ケアと正義の統合
ロールズの評価→家庭内にも正義を(子育て、家事労働):「女性は、ジェンダー化された結婚によって傷つきやすくなる」
・クレメント:権利を超える要請の道徳的正当化
       (物質的条件の社会的分配ではなく、承認のニーズの充足など)
       他方が事実として成立するための条件(発生論、因果論的現実化の条件)
       (事実として成立する条件であり、規範的基礎づけではない)
・ヘルド:ケアと正義の編み合わせ…ケアも正義もそれだけで十全の意味を持つわけではない→統合には反対
 正義の倫理…公正、平等、権利、原理、自由
 ケアの倫理…傾聴、信頼、応答、共感、連帯
 正義の存立には、ケアが不可欠である:ケアのほうが基礎となる
 生=存在(新生児そのもの)が一切の価値の基盤(cf.ヨーナスの「赤子」)
 自律した成人がそれとして認められ、正義を適用されるためにも、他者から関心を払われ、尊重すべき権利を有する者として承認されているという前提がある。
 ケアを地として正義を図とする包括的な像:ケアと正義の編み合わせ
オーキンとヘルドの主張の対立には、他者理解(「原初状態」における他者か、現実に生きている他者か)の違いがある。

第十一章 ケア関係における他者
べナーの他者論…ハイデガーの「関心」(Sorge)+メルロ=ポンティの「身体性」
ケアすることは人間の本質的特徴:何かを大切にすること、その関係に巻き込まれること
全人的看護…患者の視点から物事を理解するよう努めること。疾病に関する知識はそのために役立てられる。
・ひとは世界のうちに投げ出されている(ハイデガー「投企」)
・知は身体に根ざしている(メルロ=ポンティ)
他者論の系譜
・フッサール…他我
・ハイデガー…他者は私と同等の現存在
・メルロ=ポンティ…身体は我と不可分にエポケーの残余として与えられる
・サルトル…エポケーによって排去されない他者の存在、私と他者は、いわば世界をそれぞれの所有に帰するために相克する関係にある。
・レヴィナス…絶対的他者(私の対象ではないもの)
・デリダ…法と正義の峻別、法の脱構築、正義は無条件の歓待を意味する。
コーネルのギリガン解釈…慣習的な女らしさから「女性的なもの」という現実の女性の生には還元できないものを措定することで、「差異と平等のジレンマ」を解消しようとする:脱構築との関係(正義)、分配的正義との関係(実定法)
「正義と境を接するもの」としてのケアの倫理…一律の普遍的原則にもとづき、対等とみなされる成員間でのみ成り立つ規範のみを内実とみなす倫理への異議申し立て
・構造的には、正義の倫理がデリダの議論の法の位置を、ケアの倫理がデリダのいう正義の位置を占める。
・ケアの倫理の他者概念は、レヴィナスやデリダのいう意味での他者概念とは異質である。 人間の傷つきやすさが、ケアを要請する。ケアする者とケアされる者はこの傷つきやすさ、生のうつろいやすさを共有している。
だが、鷲田清一によれば、メルロ=ポンティは自然的態度と超越論的態度とは峻別できないという→ケアの倫理に超越論的契機があるとすれば、それは私たちがともに生きているというまさにこの生の現実への驚きなのではないか。

第十二章 むすび
「正義と境を接するもの」としての責任原理とケアの倫理の共有する特徴
(1)非対称な力関係を問題にする
(2)周縁的な位置に甘んじてきた存在者を主題にしている
   (未来世代・自然、女性・子ども・老人・病人)
(3)人間の傷つきやすさ、生のうつろいやすさに関する鮮烈な認識
(4)赤子や子育てを責任やケア関係の範型に…最も生を奪われやすい存在
(5)未来世代への責任や子どもの育成…次世代の存続への配慮
(6)(4)の理由は、いずれ赤子が正義の共同体に参入するからではなく、一切を支える基盤として生そのものをそれ自身として尊重するから
(7)感受性や感情、直感を重視する…合理的推論や理性に依拠する近代の多くの倫理理論と異質である
財の再分配の根拠を正義の倫理の内部において語ることはできない(しなくてよい)。
ホネットの「正義の他者」…デリダの文脈におけるケア、ハーバーマスのいう連帯:デリダのいう正義を統制的理念としてとらえすぎている。
2つの理論の無視できない違い…ケアの倫理が性差から出発するのに対し、責任原理は特殊な形而上学と結びついている。また、責任原理は相互承認のプロセスに対するまなざしを共有しておらず、ケアの倫理は生の哲学へのまなざしを共有していない。
私たちの生:正義が妥当する次元/相互依存の次元/生き物としての次元…それがそのまま正義の倫理/ケアの倫理/責任原理にあてはまるわけではない
異なる理論をひとつの視点で見ることによって、今後の展開の可能性を示唆

2 議論したい論点
(基本的に、「本の解釈」は問題にしていません)

(1) 正義の倫理(法哲学で議論されるようないわゆる「正義」を想定)は、基本的に他者を、その論理として排除しているというのはその通りだと思う。しかし、ケアの倫理が配慮するという他者もまた、具体的であるがゆえの難点を抱えることも事実ではないか。ケアの倫理による他者への配慮とは、「法」のレベルでは語り得ないという難点である。個別具体的な文脈における配慮や世話は必要であるにせよ、たとえばそれを「権利」の言葉として「法」に書き込むこともまた必要であろう。その意味において、正義の倫理とケアの倫理とは――統合でも編み合わせでもよいが――両者とも要請されるのではないか。

(2) ウィトゲンシュタインが喝破したように、語り得ないものについては沈黙せざるを得ないのか。いや、違うのではないか。同じくウィトゲンシュタインが言ったように、それは示され、語り得ないことが示されるということじたいが奇跡であり、そこにこそ私たちが倫理を考える導きの糸があるのではないか。そこにこそ、自然的態度と超越論的態度との峻別不可能性があるのではないか。

(3) 私の構想としては、以下である。すなわち、現実にはひとの存在が生身の人間として存立し存続していくためには、「法」が必要である。具体的には、福祉制度や社会保障制度がそれである。そして、法の頂点として位置づけられる憲法にも、25条には「健康で文化的な最低限度の生活」を保障せよと書き込まれている。法解釈においてはプログラム規定説が有効であるにせよ、憲法にそのように書き込まれていることには意味がある。それは、人権を保障するためになくてはならない。しかしながら、そもそもの話として、「憲法に書かれているから人権が保障される」というのは、奇妙な話でもある。そんなものなくても、ひとは生きてよい、生き続けてよいという感覚もまたあるはずだ。また、憲法25条下においてこそ、優生保護法が説得力を持ったという研究もあるが、これは「誰が人権を有するに値するか」を、正当性の論理で答えたからなのではないか。憲法も法である限りは、「言葉によってしか書き表せない」という法の限界を有するものである。
 ケアの倫理における女性、子ども、年老いたもの、病人への視点は、まさにこうした「法」の外への目配りを大切にするという点において、意味あるものである。しかしまた、無法状態が正義を導くものでもないだろう。法がなければ、別の圧力が法にとって代わるだけであるから、少なくともアナーキーな状態を目指すべきではない。しかしながら、アナーキーなものに対するなんらかの魅力があるとすれば、それは「法」を超え得るものの超越的な視点ではないか。この視点をもってこそ、「法」を意味あるものにすることができるのではないか。すなわち私は、法と正義とを明らかに峻別している。けれども、以下のような仕方で、それら2つは関連あるものにもなっている。つまり、現存する法を、正義の方向へと改変していくことにこそ、倫理的な所作があるのだ。ここで存立すべき正義とは、「すべての生は無条件に肯定される」というものである。この命題は、なんらかの方法によって正当化されるべきではない。受け入れるか受け入れないかどちらかの判断を迫るものとして、ある。この正義のもとにおいては、ケアの倫理が目配りする人たちに加えて、たとえばホームレス、障害者、ワーキング・プア、ニートと呼ばれる人たちにとって、現存する法は不正義である。なぜなら、彼らの生は現存する社会で肯定されているとはとても言えないからである。私自身は、その人たちが生きづらいという事実を、現存する「法」や社会へのいわば反証として提示し、すきあらば「法」を変えていこうとするような正義論を構想した。そうした正義論もまた、ケアの倫理の良質な部分を受け継いでいるとは言えまいか。

(4) 距離について。近い他者と遠い他者(この表現は適切ではないと思うが、とりあえず)がいて、倫理的にはどちらに寄り添うべきだとは言えないのではないか。現実には、近い他者に共感し傾聴したりすることがあるだろうし、また逆に近いほど憎悪の念をもってしまうこともあったりもするだろう。しかしだからといって、近い他者のほうを優先すべきとか、敬して遠ざけるべきだとか言えないのではないか。私の生において、近い他者には巻き込まれやすいだけであり、それは現実的な妥協なのではないか。この点において、リチャード・ローティなどの「近くの他者への倫理のグローバル化」のような話はいけていないのではないか。より近くの他者へ配慮してしまうことがあるとすれば、そして実際にもあるだろうが、それは単に調停の産物なのであり、倫理などではないのではないか。  たとえば岡真理は、このように述べている。

 「パレスチナは遠いから、とよくいわれます。パレスチナ人が今申し上げたような状況
 におかれているということが、私たちにとって、もし他人事であるとしたら、それはパ
 レスチナが地理的に遠いからなのでしょうか。そうした状況が日本のものだったら、私
 たちはそれを自分たちの問題だと思って、向きあって考えるのでしょうか」
 (『パレスチナの平和と“私たち”の役割 私たちは何者の視点から「歴史」を見るの  か――岡真理講演録』,pp.25-26)

 つまり、「パレスチナのことは遠いから気にかけなくてもよい、というなら、私たちは近い日本のことを考えているのか」と問いかけているのである。だからこそ、倫理が問題にすべきことは、他者への距離の問題ではない。私たちがどの視点から語るか、こそが倫理にとっては重要な要素となってくると思われる。

(5) 存在の承認について。私たちは何をどうされれば存在を承認されたことになるのか。また、ケアの倫理においてはそれは必要だと言われている。私もまったくいらないとは思わない代わりに、それが生の基底をなすものだとする強めの主張にも違和感を持つ。
・私たちは、どのようなときに「存在を承認された」と感じるのか?
・「原初的な存在承認」は必要か? 母子関係?←フェミニズムからの批判
・「いま、ここに生きて在ること」と存在承認とはどうかかわるのか
・虐待されているただなかにあり、物質的な生存だけ保たれている生はいくらなんでも承認されているとは言いがたい。だとすれば「いまここに生きて在ること」に何らかの要素がプラスされるべきなのか? 何をプラスすべきなのか?



UP: 20080714 REV:20080724
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