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〈異なりの身体〉をめぐる倫理/政治経済について

野崎 泰伸(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)
200806**  福祉社会学会第6回大会 於:上智大学

last update: 20151225

◆要旨
◆報告原稿


 障害や老いの身体という〈異なりの身体〉が惹起する問いの一つに、彼らの生を支援する倫理問題がある。だが、いくら倫理を説こうが、現場の人材不足・経済的困窮はなくなるわけではない。本報告では、その中でとらざるをえない決定――妥協や調停の産物――にたいして、私たちはどのような態度を取るべきなのか、いわば「現場の調停主義」という政治経済に対して何が言えるのか、についての考察を行なう。
 〈異なりの身体〉として恣意的に障害や老いの身体を取り上げる理由は、まずは端的に彼らが生存するためにはより多くの身体的・精神的支援を必要とするからである。〈異なりの身体〉たちは、それとしては論理的には等価であるとしか言いようがなく、したがって彼らが感受/感得するあり方の複数性も、必然的に論理的には等価である。しかしながら、「生存するためにより多くの身体的・精神的支援が必要である」ということは、そうした支援や必要に対して、現実に人的・経済的な財をあてがわれるということでもある。論理的な「等価性」と、現実的な「非等価性」との齟齬は、そこに起因するものである。これらの提起は、思弁的だというだけではけっしてなく、現場での困難さと社会政策における立法とを基本的な部分で考えるということでもある。
 さて、〈異なりの身体〉たちと共存しようとする現場――作業所・デイケアセンター・地域での自立生活を支える事業所など――の人材不足は、現実において深刻な問題である。それに加え、あるいはそれに関連しながら、人材を十全に活用するためのあらゆるインフラ整備もまた、きわめて深刻なものである。つまり、現状においては、〈異なりの身体〉たちを支援するための人材も、人材を有効に活用するための経済基盤も、どちらも脆弱であることは認めざるを得ない。より平たく言うならば、老人や障害者が生きて、彼らが世界を感受することと、その他の人びとが生きて、彼らが世界を感受することとは、論理的にはどちらが価値があるとは言えない。それにもかかわらず、前者を支える人的・経済的基盤が整備されていないために、結果として現実には前者のほうがあたかも価値がないように思われてしまう、そういうことである。
 そのような現実のなかにあって、支援する現場は困難・葛藤のただなかに置かれることになる。つまり、「あと一人誰かがいたらこの人の支援に手が回る」「あとこのくらい予算があれば人一人を雇える経費が出せる」という状況の中にあるのだ。そして、そのようなときにおいてさえ、〈異なりの身体〉たちは生きているがゆえに、何らかの応急的な支援をせずにはおれないのである。ひとまずは、現場でそうした状況がある。
 現場では、人材不足・経済的困窮を嘆く前に、先に厳しい現実が押し寄せてきてしまう。支援者がひとときも目を離してはいけないような状況が、別に支援が必要な者の支援を滞らせてしまう。現実には、そうした場面において妥協したり調停したりしながらやりくりせざるを得ない。
 そのような現場を分析する者は、良心的であればあるほど、それは不正であるというだろう。この社会の規則が不正なのであり、そのことで現場の機能を、ひいては〈異なりの身体〉たちの生活を十全なものにしていない、そのように分析するだろう。その通りである。けれども、現実が不正であろうとも、不正なまま現実は回ってしまうのであり、その中では「調停主義」でやっていくしかない。現場において、それでよいとは思わないが、やらないよりやったほうがまだ悪くはないようなことがある。こうした現場をめぐる決定に関する力学、政治経済について私たちはどのように思考すべきなのか。
 ひとつ例を挙げよう。24時間介助が必要な障害者に、行政から20時間分しか介助料がおりないことがままある。そんな不正な現場において、私たちができることは、せいぜい次の3つのどれかを基本とせざるを得ないであろう。
 (1)4時間分はボランティア、つまり無料で介助者に我慢してもらう。
 (2)20時間分の介助料を24時間に換算して均等に分配する。つまり介助者各々が6分
    の1ずつ我慢する。
 (3)4時間分は介助をつけずに障害者が我慢する。
 私が経験上よく知るのは(2)であるが、これは(2)が正しいからという理由でそうしているのではない。そもそもこれらの選択肢のなかに、誰かが我慢するというもの以外がない以上、どれも選択の正当性を主張できない。(2)が選ばれるのは、ただ誰かが集中して我慢することを避けるためであり、正しい選択肢だからそうなされるのではない。誰かが我慢することが不可避な状況にあっては、そうせざるを得ないだけである。
 こういう状況を前にして、倫理的な思考は無力である。不正な状況にあっては、その状況における判断の正当性は問い得ない。倫理的な思考が真に問題にすべきは、不正な状況そのものであり、かつそれをなくしていく方向へと進むことなのだ。上の例で言えば、倫理的な思考が問題にすべきは、いかに20時間ではなく24時間の介助保障を実現させるかにあり、20時間しか保障されない現実を目の前にして、そこで取り得る行為の倫理性は問い得ないのである。倫理的な思考は、不正な現実のただなかにある人たちの行為を問題にしないのではなく、そもそも倫理的思考とはそうした行為を問題にし得ないのである。そうした行為は、倫理的な行為としてではなく、生存の技法として位置づけられるべきものでもある。
 いささか禁欲した感を受けると言われるかもしれないが、それでも、このようには言い得るはずだ。つまり、〈異なりの身体〉たちが支援を受けながら暮らしていくことができない社会など、滅びてもよい、住むに値しない社会だと。〈異なりの身体〉であるだけで生きるのが困難な社会など、不正であるから、存続するに値しない社会だと、ひとまずはこのように言えるのではないだろうか。これは、「テロリズムの論理」であると批判されるかもしれない。確かにそうである。これが「テロリズムの論理」であることを、私は認めよう。しかしながら、それの何が悪いのか、と私は反論したい。この社会が不正な規則で成り立っているなら、そうした社会は少なくとも住むに値しない社会ではあるだろう。
 ひとまずはこのように言えるはずである。現場の調停主義をめぐっては、最善の調停はあり得るであろうし、そこに利害がからむなら、議論によって妥協なり調停するのがよいだろう。しかしながら倫理的な思考は、現場で妥協や調停しなければならない現実それ自体こそを問題にすべきなのである。そこに不正があること自体を問題にすべきなのである。現場における調停という政治経済を少しでも改善すべく、倫理的な思考はなされるべきなのである。そして、現場にだけ調停ということを求めるような偏った社会それ自体が、倫理的には問題にされるべきなのであり、そうした力学が働かざるを得ない社会は、存続する価値がないのである。


UP:20080425 REV:
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