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「一九八六年のある晴れた日、代々木公園にて」

箱田 徹 200805 『現代思想』第36巻第7号、青土社、238頁

last update:20110321


 一九八六年、小学四年生の私は、母に連れられて国鉄分割・民営化反対の屋外集会に参加した。場所は東京・代々木公園。空になびく旗の多さに驚いた。こんなに大勢の人が反対しているのになぜ国鉄はなくなろうとしているのか? 幼いなりに新自由主義に初めて触れた瞬間だった。
 八〇年代の新保守主義の台頭と東西冷戦の終結は、日本の「戦後民主主義」にとどめを刺し、左翼勢力を崩壊させた。こんにち左翼知識人は(資本主義や天皇制への批判を欠いた)「リベラル・左派」(金光翔)化した――こうした見解が出てくる苛立ちはわかる。他方で、私と同世代の論者には、程度の差こそあれ「ナショナリズム」を肯定的に扱う動きが見られる。
 一国主義的な視座の乗り越えと、自明な秩序への異議申し立て――「六八年」以降のラディカルな思考と実践は、全世界でこの答えのない課題との格闘の中で形成されてきた。もちろんそこにはいくつもの至らなさがあった。実践面では、期待と現実の落差に悩まされることも多かっただろう。だが同時に、事態をグローバルに把握しようとする傾向が一貫して認められることも事実だ。石油ショック後に本格化した新自由主義は、一九七〇年代以降のラディカリズムが、身近なレベルで当初から直面していた世界的な現実だったからだ。
 新自由主義という外延のない資本の運動に、境界の確定を旨とする「ナショナルなもの」をぶつければ、これまでの問いを引き継ぎ、立て直すことができるのか。それはむしろ、反動に陥る危険と隣り合わせであるように思われる。
 「六八年」後の社会運動の思考と実践には、今日の情勢を考える上で示唆に富む、実に多様な傾向が存在し、それらは決まって一国という枠からはみ出してきた。私は、三〇年を越えるその歴史に接することで、新自由主義の展開と現状を明らかにするだけでなく、今日的な政治の可能性を探る理論的な糸口も見出したいと考えている。

(はこだ・てつ 社会思想史)

※以上は執筆者のPCに保存されている校了時の原稿です。


*作成:箱田 徹
UP: 20110321
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