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Ashley事件をめぐるEdwardsの議論

Ashley事件

last update: 20151225

◆Clinical ethics: The Ashley treatment: a step too far, or not far enough?
S D Edwards
J Med Ethics 2008;34:341-343
Abstract

■ 概要

エドワーズはアシュリーに対する手術への反論を大きく5つにまとめられるとする。

@ 権利に基づく原理的反論
 本人の「身体的統合性」が侵害された。身体が大きく変えられてしまった、という反論。
 これは、「帰結にかかわりなく、決して逸脱してはならない倫理的境界線がある」という「不干渉の権利に基づく反論」と呼べる。だが、たとえば、生命が脅かされた状態の子供に対して、侵襲的な手術が救命のために必要な場合、侵襲的医学的介入を行うことは許されるだろう。
 その手術が、たとえば両足を切断するなど、身体に非常に大きな欠損を与えると想定してみよう。それでもそれが正当化される状況がある、と私たちは考えるだろう。したがってこの批判には説得力があるとは言えない。

A アシュリーはケアする側の利便性のための単なる手段として利用されているという反論
 アシュリーは単なる手段として利用され、介入もアシュリーの利益よりも両親の利益のために行われているという反論。
 たしかにこの批判は事実として当たっている。だが、両親の動機は完全に明確に知られていない。両親のアシュリーに対する「愛」が、介入の重要な理由になっている。したがって、の決定の動機の主要部分がアシュリーではなく彼ら自身の利益についての利己的な考え方からきているというのは不正確である。
したがって、この批判も説得力はない。

B 社会問題に対する医学的な対応であるという反論
 たとえば、カプランはこれは社会問題であり、医学的に片付けるのは不適切であり正当化できない、と批判する。この反論の背後にあるのは、障害者の権利擁護派の多くに共有されているものであり、アシュリーの両親は社会的支援を受けることができるので、医学的介入の必要はないだろう、という想定である。人がいれば体重が重くなっても移動できるはずだ、と。社会的状況を適切に合わせることが正しい対応方法だと主張される。
 アシュリーの両親もこの指摘には同意するだろう。だが、彼らが必要な社会的ケアをほとんど得られないだろうということも確かであるし、社会が十分なサポートを提供できるように変わることも考えにくい。カプランの論文でも、彼はこの件については認めている。彼は書いている。「アシュリーを小さくしておくことは、社会的失策に対する薬理学的解決である。アメリカの社会は重度障害をもつ子どもとその家族の助けになるべきことをしていない」。
 現状を見てみれば、アシュリーの両親は、自分たちのとった方法が現状および近い将来を前提にしたとき、合理的だと言えるだろう。つまり、これも説得力を欠く。

C アシュリーの最善の利益は介入によって増大しないという反論
 倫理委員会の決定にとって、アシュリーの最善の利益が最も重要だった。ここであらためて医療的介入を認めた倫理委員会の検討を再現してみよう。
 介入を主張する側(両親)によれば、アシュリーは、成長し続けるとすれば深刻な不快感を経験する目算が高い。体重が増えれば「じょく創」もできるかもしれないし、生理痛などの不快を経験するだろう。医学的介入はこれを防ぐ。アシュリーはベッドからリビングに移動して景色の変化を楽しんでいるが、体重が増えたらそれも難しくなってしまう。あまり移動できず、楽しみを経験できなくなってしまう。介入擁護論によるこの主張、つまり彼女のQOLが介入によって改善される、という主張は不合理ではない。
 これに対して反論は、アシュリーの認知能力の欠損が甚大なので、彼女の観点からみて、職業ケア提供者の手で施設のなかで移動することと、家族の周りにいることとの間に大きな違いはないだろう、と批判する。介入によってもたらされるとされるアシュリーの利益は、他の、より侵襲性が少ない手段によっても与えられうるので、アシュリーの最善の利益は介入によって実現されることはない、と。
 この反論に対してアシュリーの両親は、ハグなどで表現されるアシュリーに対する家族の愛情の重要性を指摘する。それによれば、施設のケアによって移動は可能だとして、親密な家族によって与えられるような接触は得られないだろう。また、施設での重度障害者のケアはあまりに貧困であり、アシュリーは施設で虐待されるのではないか。
 たしかに、医学的選択肢だけがアシュリーのQOLを維持するための唯一の手段ではないだろう。仮に社会的ケアが選択肢としてあるならば、施設ケアといった形で同じ目的が達成され得たかもしれない。この点で反論にも一定の妥当性がある。だが、そのような社会的ケアは実現可能な選択肢としてはなかった。施設ケアはアシュリーからパーソナルな愛情を奪うし、施設ケアの歴史をみれば、彼女は虐待ないしネグレクトに晒されるリスクが高いだろう。
 こう考えれば、介入がアシュリーの最善の利益になっていないという議論は問いに開かれており、この反論も説得力があるとは言えない。

D アシュリーへの介入は好ましくない前例を作ることになるという反論
 ※ エドワーズはこの反論がもっとも説得力があると見ているようである。
 この批判は、アシュリーへの介入が正当化されるということを受容することに伴う、不愉快な含意を強調する。それによれば、アシュリーへの介入が受容されると、それを認める一般的な道徳的原理は次のようになる。「ケアする側の利便性のために、自律性をもたない障害者の身体を変えることは道徳的に受容できる」。この原理からすれば、自傷行為をする人の腕を切断してしまう、ということも許されてしまう。
 とはいえ、この批判はアシュリー事例に忠実ではない。アシュリーへの介入は、アシュリー自身の利益になると考えられていたからである。とすると、原理は次のように改訂されなければならない。「自律性のない障害者の身体を改変する事が道徳的に認められるのは、(a)それがその人をケアする側に助けになるときでありかつ、(b)それが本人に利益をもたらす場合である」。
 しかし、この改訂版でも、自傷する人の腕を切断することは排除されない。本人を害から守ることになると言えるからである。ただ、それでも議論の余地はある。もし、その人が自分の腕を、自分を殴る以外の目的で用いることがないとすれば、受容可能になる。したがって、改訂版アシュリー原理を受容することは、同じ状況で障害者に対する介入を受容するように思える。
 この点がアシュリーへの介入を擁護する側にとって、最大の問題だろう(とエドワーズは言う)。以上のように反論を分析してくると、アシュリー原理ないし改訂アシュリー原理へと導かれる。つまり、(a)その人のケアを容易にすることが明らかであり、かつ(b)その本人が利益を受ける――たとえばアシュリーが利益を受けたように――場合には、自律性を欠いた障害者の身体の徹底的な改変も許容される、と。
 また、改訂アシュリー原理は、アシュリーへの介入を擁護する側にとっても受け入れ難いと思える介入でさえも正当化する。アシュリーを軽くして移動しやすくすることが、両親にとって重要な理由だったし、介入の主要目的だった。指摘されるべき点は、アシュリーの足を切断することもまた、彼女を軽くし、また「じょく創」をできにくくする、ということである。この介入の何が悪いと言えるだろうか。足の切断はアシュリーに実際に行われた介入とは異なる、と合理的に説明できるだろうか。改訂アシュリー原理は、すでに彼女が受けてきたのに比べて苦痛やリスクが大きくないような、徹底的な身体の改変を認めるように思える。あるいは、両足を切断するのはあまりにも行き過ぎている(step too far)と言えるだろうか?


■コメント/批判(堀田義太郎

 このエドワーズの議論にはもちろんいくつも問題がある。
 まず、@の反論のまとめ方に問題がある。@についてエドワーズは「帰結にかかわらず」とまとめているが、誰も、「帰結にかかわらず身体の統合性を死守すべきだ」などと主張している者はいないからである。すべての医療を全面否定する議論ならば別だが、そのような議論があるとして、それはそもそも取り上げるに値しない。言い換えれば、エドワーズは、反論を最も批判が簡単な、低レベルで理解し処理しているだけである。
 @の反論は、普通に理解すれば、身体に傷をつけることが許容される理由にはそれなりの「重み」が必要になり、侵襲性・リスク等が増せば増すほどその重みも増す、ということである。身体に傷をつけることは通常は許容されないが、そうしなければ命にかかわるような場合には許容される、と。つまり問題は、侵襲の正当化条件である。
 Bの反論はいわゆる「医療化」批判である。これを斥けるエドワーズの論拠は「現状」だが、それにも問題がある。このエドワーズの議論からは、解消すべきと言えるような不当な圧力を前提とした身体改変でも、現状が今すぐに変わらない限りは認めざるをえない、ということになる。では、借金のカタに指詰めを強いられている人がいたとして〈それも認めざるをえない〉と言えるか。指でなく足だったらどうか。もしそれもすべて致し方なしと言うならば、それはそれで一貫しているだろう。逆にそう言わないとすれば、それはどこかで「変えるべき現状」と「放置してよい現状」を、その現状を前提としてなされる害の大きさに応じて区別していることになる。とすると問題は、これも同じく侵襲の正当化基準になる。なぜアシュリーの身体改変は許容され、指詰めは許容されないのか。また、同じ圧力を前提として、両足を切断することは問題があると感じるのに、成長抑制や子宮摘出等は許容されるとするのか。エドワーズ自身が擁護するDもまた、結局のところ侵襲の正当化条件をめぐる問題である。
 Cの反論に対するエドワーズの批判にもさらに別種の問題がある。エドワーズは、身体を改変しない場合には施設で虐待される危険性がある、ということを前提としている。すなわちエドワーズによれば、施設では「彼女は虐待ないしネグレクトに晒されるリスクが高い」、だからその予防のためには彼女を害する侵襲もやむを得ない。これは逆に言えば、身体を変えずに施設で虐待されたときには、「身体を変えておけばよかったのに」(そうしなかった被害者に自業自得の部分もある)という立場である。つまり、このエドワーズの議論には、間接的にではあるが「被害者非難」が含まれている。被害者非難とは、たとえば、セクハラや強姦の被害者に対して「ミニスカートを履いているからだ」等々と言って責任転嫁し、被害者を非難する行為である。これは加害者を免罪し、加害者を正当化する行為である。もちろん、加害者と共犯関係にある「被害者非難」の方が批判に値する。
 最後に、エドワーズが重視するDには、侵襲(害)の大きさに応じて、その正当化条件が厳しくなり、侵襲の目的の妥当性に対する問いが厳格になる、という前提がある。つまりこのDの論点は、すでに@で述べられていることであり、またBCの反論の前提である。総じて、「反論」に限界画定を行う過程でエドワーズは自らの問題含みの前提を暴露する以外に、とくに重要な論点を付け加えていないと評価するしかない。


*作成::堀田 義太郎
*このファイルは生存学創成拠点の活動の一環として作成されています(→計画:T)。
UP:20091231 REV:
Ashley事件  ◇知的障害/知的障害者
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