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「死刑存廃論における「死刑執行人」の位置についての一考察
──日本の公文書に見る死刑執行現場の生成と消滅」

櫻井 悟史 20080331 『Core Ethics』4:93-104.

last update: 20151225

はじめに

 死刑とは、合法的な「殺人」である。
 死刑という合法的な「殺人」に必要なのは、死の決定と、「死に至らしめる身体に介入する行為」である。日本の死刑の場合、「死に至らしめる身体に介入する行為」とは、受刑者の首を絞めるという行為を指す。この二つのうち、どちらか一方だけが成立している死刑は存在しない。裁判で死が決定されたのち、「死刑執行人」が受刑者を「殺す」。それが、死刑である(1)。
 死刑存廃論を見渡してみると、死の決定についての議論は活発に行われている。たとえば誤判問題や、社会契約論に基づく議論などが、それである。しかし、「死に至らしめる身体に介入する行為」、すなわち死刑執行の現場についてふれた議論は、それほど多くなされてこなかった。死が決定されたからといって、「死に至らしめる身体に介入する行為」についての問題が、自動的にクリアされてしまうわけではないにもかかわらず、後者の問題は、ともすれば個人の問題のように扱われてしまう。たとえば、「死刑執行人」の労働が苦痛だ、というと、それならば辞めろといわれる。しかし、誰かが辞めたところで、別の誰かは「死刑執行人」にならざるをえない。それは、死刑制度が存在する限りなくならない事実である。
 ところで、日本に「死刑執行人」という職業は、存在していない。死刑を担当するのは、刑事施設で働く国家公務員、すなわち刑務官である。
 刑務官の仕事をホームページ上の刑務官採用試験情報で見ると、「刑務官とは……やさしさと厳しさをもって、罪を犯して収容された人に、考え方・ものの見方のアドバイスや悩みごとに対する指導などを通して、再び過ちを繰り返さないよう指導することを使命とし、併せて刑務所・拘置所等の保安警備の任に当たります」とあるだけで(2)、ここでは、死刑の執行については、一言も述べられていない。刑務官とは、保安警備とは別に被収容者の教育も担っていて、むしろ後者の方が本職といえる職業なのである。具体的には、生活指導、学科教育、職業訓練、クラブ活動、カウンセリング、それに付随する形の保安警備が主な労働内容となっている(坂本2006b:250-251)。刑務官が矯正職員と呼ばれるゆえんは、ここにある。
 この教育、矯正という活人を担う刑務官が、死刑執行という「殺人」も担わされているのである。この事実は、一般にそれほど知られていない。1966(昭和41)年に神奈川大学が行った満15歳以上の者5060人を対象とした「死刑問題に関する世論調査」では、「実際に死刑を執行するのは誰か知っていますか」という問いに対し、「知っている」と答えたのは、わずか22.2%で、77.8%は知らないと回答した(菊田1993:310)。また、日本の死刑執行方法が絞首刑であることを知っていたのも54.2%しかいなかった。この調査結果は、驚くべきものではない。死刑は原則として非公開であるので、死刑執行の現場を知らないのは、むしろ、当然といえる。死刑が非公開、つまり密行主義で行われている理由は、江木衷が、「古昔ハ往々死刑ヲ公行シテ衆庶の縦覧ヲ許シ又死刑執行ノ時ニ際シ鎧皷ヲ鳴シテ之ヲ一般ノ人民ニ報スルノ邦國アリト雖モ人民ヲシテ残忍ニ慣ラハシムルノ悪弊ヲ生スヘキモノトシテ我刑法ハ之ヲ密行スヘキモノト定メタリ」(江木1893:163)と述べているように、市民を死刑の残酷さから遠ざけるためである。
 議論を先取りしていえば、上記の密行化の措置も含めて、死刑執行の歴史とは、死刑によって生まれる苦痛の緩和の歴史といえ、それは「死に至らしめる身体に介入する行為」からいかに離れるか、ということによって模索されてきた。この歴史を進んでいくなら、「死刑執行人」についての問題は、死刑執行がフルオートメーション化されれば解決する、という単純な話で終わることになってしまう。大塚公子に代表される「死刑執行人」であった刑務官へのインタビュー調査や、元刑務官の記述などがあるにも関わらず、「死に至らしめる身体に介入する行為」が、死刑存廃論のなかに大きく位置づけられてこなかった――特に存置論においてはほとんど語られなかった――のは、その単純さゆえではないだろうか。
 しかし、「死に至らしめる身体に介入する行為」を徹底的に人間から遠ざけ、「殺人」のリアリティを死刑制度から取り除くことが、「死刑執行人」の問題についての解といえるのだろうか。そのことについて考えるためにも、死刑執行現場や、「死刑執行人」が、どのように語られてきたかを明らかにしておくことには、意味があるように思われる。
 そこで、本稿では、明治の、いわゆる旧刑法時代における監獄の規則の記述や(3)(4)、2007(平成19)年現在までの公文書に厳密に従って、死刑執行現場を記述することで、いかに法律文書の上で死刑執行現場が生まれ、消滅していったかを明らかにしたい。そして、それにも関わらず、死刑執行に伴う苦痛は消滅することなく現実問題として残り、そのために「死刑執行人」たる刑務官が不当に苦痛を被っているということを示すことで、「死に至らしめる身体に介入する行為」者である「死刑執行人」の問題が、死刑存廃論の俎上に載せられないのは不当であるといえるのではないか、ということを提起したい。

1 斬刑から絞首刑へ

1−1 人体保護のための絞首
 死刑が、現在のように、絞首刑のみと定められたのは、1880(明治13)年7月17日に公布され、1882(明治15)年1月1日に施行された旧刑法第12条「死刑ハ絞首ス但規則ニ定ムル所ノ官吏臨○シ獄内ニ於テ之ヲ行フ」による。それ以前には、梟刑や斬刑などがあった(5)。
 なぜ、死刑の方法は絞首刑のみに限定されることとなったか。これには多くの意味があるが、小笠原美治の『刑法注釈』には、「盖シ絞ハ即時ニ其命ヲ絶ツモノナリト雖モ斬ハ即チ然ラス刎首ノ後其頭部ニ猶ホ數分時間ノ生ヲ保ツ可キモノナレハ罪人ノ苦痛ヲ受クル○絞ヨリモ多シ法律ハ罪人ノ苦悩最モ少キヲ欲シ斬ヲ廢セリト云ウノ説アリ」(小笠原1882:50)という解釈が、まず紹介されている。これは、一見すると受刑者の身体的苦痛の軽減をはかるもののように思われる。だが、この解釈は、科学的に見ると間違いである。首が胴体から離れると、心臓から血液が脳に送られなくなり、脳細胞は死滅する。たとえ首を飛ばされなくても、頸動脈から出血しただけで一分もかからず、人間は意識を失う(ホミサイド・ラボ2007:49)。首だけとなって数分間も生を保つことなどできるはずがないのである。逆に絞首刑の方が、死ぬまでには時間がかかる。たとえば、日本における絞首刑による最高絶命時間は37分である(ホミサイド・ラボ2007:148)。つまり、上記にある解釈は、完全に転倒した解釈といえる。
 しかし、このような解釈と、斬刑から絞首刑への移行には全く関係がないと小笠原は続けている。「然レトモ此ノ刑法ニ於テハ此ノ理由に由テ斬ヲ廢セシモノニ非ラス全ク身首所ヲ異ニスルノ惨ヲ避ケンカ爲ナリ」(小笠原1882:50)。斬刑と絞首刑の相違点は、身体が二つに分かれるか否かである。つまり、小笠原によれば、絞首とは身体を生まれながらのままに保つという、人体の保護を目的としたものとなる(6)。では、なぜ人体を保護する必要があったか。

 「顧フニ本邦従來刑死人ノ遺骸ハ親屬ノ請フモノニ下付スルノ法アリ此ノ刑法ニ於テモ亦正條ヲ掲ケテ以テ親属ノ請ニ應シ下付スル○ヲ許サレタリ故ニ若シ親属ノ請フ者アルニ因リ之ヲ下付スルトキ偶々身首所ヲ異ニスルノ惨○ヲ見ハ爲メニ更ニ一族の悲哀ヲ増加スル○有ラン然ルニ絞ノ如キハ其體ヲ全フシ敢テ毀傷スル所ナク恰モ天壽ヲ以テ終リタル者ト其様ヲ同スルモノナレハ亦少ク一族ノ悲愁ヲ慰スルニ足ルモノ有ル可シ」(小笠原1882:50-51)

 この文章が意味するところは、受刑者の苦痛のためではなく、死体を引き取る親族や友人の苦痛の軽減のため斬刑を廃したということである。首が離れる斬刑とは違い、絞首の場合は身体が一つであり、そのため「殺された」のではなく、「天寿を全うした」ように見えるのだという(7)。現代では、このような論理を聞くことはない。絞首が自明となっているため、あえて強調する必要がないからだろう。とはいえ、必要以上に受刑者の身体に傷をつけないよう配慮されているという点では、現代も同じである。

1−2 執行者に対する配慮
 しかし、当時、斬刑が絞首に移行したのは、このような理由からだけではなく、死刑を実際に行う者への配慮という視点もあったと考えられる。
 この配慮には二つある。
 まず、技術的な配慮である。首を斬るには、相当な技術を要する。たとえば、三島由紀夫が割腹自殺をしたとき、素人の介錯人が、名刀「関の孫六」で三島の首を落としたのだが、そのとき刀は三度振り下ろされたうえ、斬首の衝撃で中心からS字に曲がってしまったそうだ(ホミサイド・ラボ2007:92)。これは、刀が悪かったわけではない。たとえば、江戸時代に数多くの斬首を執行した山田浅右衛門という一族が使っていた刀は(8)、70人以上の首を斬ってなお、毛ほどの傷もなかったという(9)。つまり、腕の差ということである。首を斬るための具体的な技術を述べると、七つの骨で構成されている頚椎のうち、第一椎骨と呼ばれる環椎の部分に刃を通すことができれば、それほど骨に触れることなく、筋肉や腱をきれいに切断することは可能である(ホミサイド・ラボ2007:92)。理論的にいうのは簡単だが、これを実行するのがいかに神業であるかは、想像に難くない。
 技術的配慮とは別に、精神的配慮があったことも考えられる。江戸時代、斬刑は町奉行同心のなかの当番若同心の役目であったのだが、死刑を嫌がる者も多かった(村野1995:92)。死刑──斬首──の執行を専門に担う山田浅右衛門一族に需要があったのは、そのためでもあるだろう。その山田浅右衛門にしても、精神的に全くダメージを負わなかったというわけではなく、死刑を行った夜は、それを忘れるために酒を飲んだという(小谷野2006:63)。
 絞首と斬首の間に精神的苦痛の差異はあるのか。デーヴ・グロスマンによれば、殺人への物理的距離が近くなればなるほど、殺人への抵抗感は高まる(Grossman1995=2004:181)。斬首とは、執行者が受刑者の身体に直接刀を接触させる行為である。刀という距離はあるが、殺人の瞬間に接触がある点で、たとえば銃殺などより抵抗感が高い。それに対し、1873(明治6)年以降使われている「絞罪器」(絞架台)(10)を用いた絞首では、執行者が受刑者の首を絞める際、物理的接触は発生しない。受刑者の首に縄を回す者は、縄を回すだけで、それによって受刑者に物理的ダメージを与えるわけではない。また、受刑者を所定の位置に直立させる者は、受刑者の身体に触れていなければならないが、その者の役目はそこまでで、首を絞めるという行為がともなっているわけではない。最後に機車柄(レバー)を引く者も、やはり受刑者との接触はない。これらのことから、グロスマンの言に従えば、絞首は斬首よりも執行者の精神的苦痛を緩和するものであるということができる。

1−3 絞殺strangulationと首吊りhanging
 受刑者の身体に接触しない明治の絞架台式の絞首は、絞殺strangulationではなく、首吊りhangingの強制というほうが正確かもしれない。この点を指摘して、1958(昭和33)年7月に、弁護士の向江璋悦が、

「日本におけるじっさいの死刑執行法は『縊首』であって『絞首』ではない。つまり、刑法の定める執行方法とはちがう。したがって現在の死刑は憲法第三十一条『何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない』に反するものである」(村野2006:74)

と、裁判で主張したことがあった。これに対して司法は、どちらも「絞頸による窒息死」であるからたいした問題ではないという理由で、訴えを棄却した(村野2006:79-80)。
 だが、絞首と縊首には、大きな違いがある。絞首とは、絞殺strangulationである。絞殺strangulationは、紐やコードを使った絞殺ligature strangulationと、手や腕を使った扼殺manual strangulationとに分かれる(ホミサイド・ラボ2007:122)。死刑はロープを使うので前者である。ただし、上述したように、絞架台式を用いた死刑装置は、ロープで首を絞めて殺すのではなく、受刑者自身の体重で首が絞まるように出来ている。そこには首を絞める行為者は存在せず、首が絞まるように手助けした行為者が存在するのみである。これは、たしかに首吊りhanging=縊首に近い。だが、絞殺strangulationとは、自殺の意志のないものを、首を絞めることによって殺すことを指し(ホミサイド・ラボ2007:125)、首吊りhangingとは、明確な自殺意志のもと、自ら首を絞める行為を指している(ホミサイド・ラボ2007:172)。絞架台を用いた死刑は、物理的な行為者こそ存在していないが、殺人の意志──殺したいではなく、殺さなければならないではあっても──は明確に在るので、やはり絞殺strangulationといえるだろう。つまり、司法側の棄却理由は間違っているが、向江の訴えもまた正確とはいえないのである。
 首吊りhangingか、絞殺strangulationかを詳しく見ることに大した意義があるように思えないかもしれないが、自殺であるか他殺であるかは死刑において重要なポイントとなる。たとえば、1975(昭和50)年福岡拘置所で、前日に死刑を告知された受刑者がカミソリ自殺をするという事件が発生し、拘置所の責任問題となったことがあった(別冊宝島2007:10)。受刑者が自分で死んでしまうというのは、刑の執行ができなくなるということを意味する。元刑務官の坂本敏夫が、「当たり前のことだが、死刑は死んではじめて刑の執行が完了する。どんな状況にあっても絞首して殺さなければ死刑にならないのだ」(坂本2006b:68)といっているように、受刑者の生命を積極的に奪うことが、死刑なのである。上で紹介したように、首吊りhangingであっても絞殺strangulationであっても、「絞頸による窒息死」であるからたいした問題ではない、というのであれば、首吊りhangingであってもいい、ということになる。ところが、受刑者が首吊り自殺を謀っても、「手間が省けた」とは決してならないのだ。それは、「死んだ」のであって、「殺して」はいないからである。そのため、この事件以来、死刑を完全に遂行するため、死刑執行の言い渡しは、当日の朝9時ごろというのが暗黙のルールとなった(11)。
 
2 1882(明治15)年から1908(明治41)年までの死刑執行詳細

2−1 「死刑執行人」
 斬刑が廃止され、絞首刑のみとなった旧刑法の時代、死刑は誰が行っていたのか。
 2005(平成17)年5月18日に「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律案」が参議院本会議で可決され、現在では法律上からも監獄という言葉は姿を消したが、旧刑法当時、刑務所は、法的にだけでなく一般的にも監獄と呼ばれていた(12)。監獄で働く監獄官の名称は、1881(明治14)年に、典獄、副典獄、書記、看守長、看守副長、看守と定められ、さらに、看守の下には助手として押丁(おうてい)というものがいた。
1889(明治22)年6月の内務省訓令第29号「看守及監獄傭人分掌例 第五章 押丁ノ職務」第64条に、「死刑者アルトキハ上官ノ指揮ヲ受ケ其執行方ニ従事スヘシ」と明記されているとおり、当時死刑の執行を担っていたのは押丁であって、看守の職務規程には、死刑執行に関する文言は存在していなかった。
 この看守の助手たる押丁制度が全廃されたのは、1909(明治42)年4月1日のことで(13)、これは新刑法、つまり現行刑法が施行されたのが、1908(明治41)年10月1日のことであるから、その後ということになる。そして、死刑の執行が明記された職業である押丁がなくなったことによって、1909(明治42)年の「看守及ヒ女監取締職務規程」(監甲1534ノ1)第45条に「看守ハ上官ノ指揮ヲ承ケ死刑ノ執行ニ従事スヘシ」と明記されることとなった。看守が死刑を行うよう明確に規定されたのは、厳密にいうとここからなのだが、後述するように、それ以前から、看守もまた、押丁とともに死刑の執行に従事していたのである。

2−2 死刑執行前段階
 旧刑法時代における死刑執行前段階は、以下のようなものであった。
 まず、被告人の裁判が行われ、そこで死刑が確定すると、検察官は司法省の長たる司法卿に訴訟書類を提出する(14)。それをもとに、司法卿が死刑を命ずる(15)。死刑の命令が下ると、三日以内に刑を執り行わなくてはならない(16)。しかし、ある特定の日は死刑を行ってはならず(17)、また女性が妊娠している場合についても死刑執行は停止された(18)。この特定の日とは、祝祭日のことであるが、この日に死刑を行わない理由は、本来人々が喜びを得る日に、死刑に処された家族たちに悲哀をもたらすのは忍びないからということである(片岡1885:5)。斬刑から絞首刑への移行でも見られた、受刑者家族に対する配慮がここでもなされている。
 それらの条件をクリアすると、死刑に携わるものが監獄官の中から選ばれる(19)(20)。死刑を行う公告が警視庁門前に三日間掲示され、それとは別に宣告書の謄本が作成され、犯罪が起こった地域と受刑者の住んでいる地方の府県に送られる(21)。

2−3 死刑執行当日
 死刑執行当日の状況は、監獄ごとによって異なっているが、たとえば岡山県の監獄においては、概ね以下のようなものであった。
 当日は、まず看守長が「絞罪器」(絞架台)をはじめとする刑具の点検をする。次に看守の何人かが監獄の要所に立ち、外から誰も入ってこないよう見張る(22)。これは、死刑の密行化をはかるものであるが、現在のように、死刑に携わる者以外は全て排除という完全な密行主義ではなく、立ち会いの官吏が許可をした者は、刑場に入ることを許された(23)。また、死刑は朝10時前に行われる(24)。これは、その時間帯が一番近隣住民を刺激しない時間だからであり、密行化をはかる措置の一つである(片岡1882:2)。
 器具の点検、密行化の措置が終わると、典獄が受刑者に対して死刑執行の旨を告示し、看守と押丁に受刑者を押送させる(25)。死刑執行が行われることは、前日までに受刑者へ伝えられているので、ここでいう告示とは儀礼的なものである。
刑場の外に着くと、受刑者の目を布で被う(26)。なぜ、目を被うのか。心理学的にいうと、殺される者の目を見なくてすむようにすることにより、殺される者と殺す者の間に心理的な距離を生み、それによって、殺す者が、殺す相手の人間性を否定することが容易になるからだということである(Grossman1995=2004:225)。
 場内に入ると、すぐ刑場の扉は閉められ、臨検官(検察官)の指揮のもと、死刑が執り行われる。死刑に官吏が立ちあい、それを指揮する理由は、死刑が必要以上に残酷なものとなるのを防ぐためである(片岡1882:2)。
看守と押丁の二名が受刑者を絞架に登らせ、さらに一名の看守は絞架下の機車柄にて待機する(27)(28)。上に登った看守と押丁は、まず受刑者の両足を縛り、受刑者を踏板の上に直立させる(29)。次に絞縄を首に回し、咽喉に当てる(30)。そして、縄を縮め鉄環で固定すると、死刑の準備は完了となる。
 準備が終わると、絞架上の看守が、下で待機している看守に手を挙げて合図する。その合図を受け、絞架下の看守は機車柄を引き、踏み板を開く。すると、受刑者は下に落ち、首を吊った形となる(31)。
 首を吊ったあとの受刑者の身体に起こる現象は今も昔も同じである。2003(平成15)年に刑場視察を行った保坂展人衆議院議員は、法務省から「窒息死させるのではなく、落下の勢いで頸椎骨折と延髄損傷によって即死させる」と説明を受けたようだが(別冊宝島2007:101)、これは間違いで、実際の死因は、気管が潰れたことによる窒息死である(ホミサイド・ラボ2007:148)。落下の衝撃により、意識は失うが、心臓の停止には10分以上の時間を要するので、即死とはいえない(ホミサイド・ラボ2007:148)(32)。受刑者の身体には、顔面蒼白、筋肉弛緩による糞尿の垂れ流しなどの変化が起こり、やがて死に至る(ホミサイド・ラボ2007:174)。
 その後、立ち会いのものが、その死を確認、書記が作った始末書に立ち会った官吏が署名捺印し、その始末書を検事局に納めれば、死刑は終了する(33)(34)。死刑が終わったあと、遺体は、もし親族や友人の誰かが引き取りたいと願い出れば、その人に渡すが、いない場合は決められた場所に埋める(35)。
 以上が、旧刑法時代の死刑執行詳細である。

3 現代における死刑執行──旧刑法時代からの変更点

3−1 死刑執行命令根拠の変更点
 冒頭でも記したとおり、2007(平成19)年現在、死刑を執行しているのは刑務官(=看守)たちである。しかし、1909(明治42)年に制定された「看守及ヒ女監取締職務規程」が、1991(平成3)年「行刑施設の規律の維持等に関する刑務官職務規程」によって破棄された際、「看守ハ上官ノ指揮ヲ承ケ死刑ノ執行ニ従事スヘシ」という一文は消去された。2006(平成18)年5月24日に、「行刑施設の規律の維持等に関する刑務官職務規程」も破棄され、新しく「刑務官の職務執行に関する訓令」が施行されたが、そこでも、その一文は消去されたままとなっている。この意味については、4で詳述する。
 死刑のあとの死体の処理について書かれた監獄法も2005(平成17)年に破棄されたが、これは2005(平成17)年5月25日に公布された「刑事施設及び被収容者等の処遇に関する法律」に、ほぼそのまま受け継がれているし、刑法や刑事訴訟法における死刑の手続きに関する記載も、明治期からそれほど大きく変わっていない。

3−2 死刑執行現場の変更点
 具体的にいつから取り入れられたかは不明であるが(村野2006:79)、「絞罪器」は廃止され、地下絞架式と呼ばれる処刑装置が取り入れられた。2003(平成15)年7月23日に東京拘置所の執行場を視察した保坂展人の証言とスケッチによれば(別冊宝島2007:101)(村野2006:94-97)、それは、以下のようなものである。
 地下1階にある鉄の扉を開けると、まず遺書を書いたりすることができる、藤色のカーペットが敷き詰められたスペースがあらわれる。壁はクリーム色。そこには、教誨のため観音像などが置かれている。隣の部屋はアコーディオン・カーテンで遮られて見ることはできない。遺書を書き終わると、カーテンが音もなく開く。カーテンの向こうには別の部屋があり、そこは7、80人が立食パーティをできるほどの広さで、入って正面はガラス張りになっている。ガラスの向こうには、死刑に立ち会う人間が並んでいる。部屋の中心には絞首ロープがあり(36)、ロープの真下には、約1メートル四方の、外枠が青、中心が赤で塗られた開閉式の床がある。床は刑務官がスイッチを押すと、開く仕組みになっていて、180度開くと天井に張り付き、跳ね返りを防ぐ仕掛けが施されている。刑務官のスイッチは、諸説あるが、三つ以上並んでおり、誰が床を開いたか分からないようになっている(37)。床が開くと、コンクリートがむき出しになっている地下2階の部屋までロープが降り、受刑者を吊るす。その真下には、排水溝があり、これは糞尿などの始末をするためのものと考えられる。地下2階の奥には、エレベーターがあり、死体はそこから搬出される。死刑が終わると、死刑に携わった刑務官は、2万円の特殊勤務手当を受け取り、その日の仕事は免除される(38)。
 装置の形こそ変わったものの、実際に死刑を執行するときの手順自体は、ほとんど変わっていない。誰が開いたか分からなくする仕組みは、刑務官の精神的苦痛軽減のための措置であるが、死刑に携わる刑務官が増えただけ、といえなくもない。床の上で受刑者を直立させる、受刑者の首に縄を回すなどの役目を担う刑務官は、1873(明治6)年の頃のままである。

4 死刑執行現場の消滅

 3で見た変更点に留意しつつ、2で行ったように法律文書を字義通りに追って、死刑執行現場を再現しようとすると、二つの点に気付く。
一点目は、「死刑執行人」の不在である。
明確に看守が死刑を行うという一文が書かれた「看守及ヒ女監取締職務規程」を破棄し、その後の規定からはその一文が消去されたため、誰が死刑囚を殺すかを示した法律文書は、1991(平成3)年以降存在しなくなった。
 人事院規則九―三〇(特殊勤務手当)第10条第1項でも、「死刑執行手当は、刑務所又は拘置所に所属する副看守長以下の階級にある職員が死刑を執行する作業又は死刑の執行を直接補助する作業に従事したときは、それぞれの作業一回につき五人以内に限(マ)つて(マ)支給する」とあるとおり、死刑に従事するものを看守と限定せず、あえて「副看守長以下の階級にある職員」とすることによって、「殺人」の料金が支払われる人間の顔が曖昧にされてしまっていて、具体的に誰が執行するかは示されていない。
 もう一つの点は、死刑執行の経過の省略である。
 監獄法第72条「死刑ヲ執行スルトキハ絞首ノ後死相ヲ検シ仍ホ五分時ヲ経ルニ非サレハ絞縄ヲ解クコトヲ得ス」は、2005(平成17)年に施行された刑事施設及び被収容者等の処遇に関する法律第179条(解縄)「死刑を執行するときは、絞首された者の死亡を確認してから五分を経過した後に絞縄を解くものとする」へと変更されたが、ここでは「絞首ノ後」から「絞首された者」へとニュアンスが変化していて、前者が、生きている死刑囚の首に縄をかけるところからの経過を含んでいるのにたいし、後者では、すでに死刑囚がぶら下がっているところから話がはじまっている。
 以上の二つの点からわかるのは、法律文書内における死刑執行現場の消滅である。
 現在、国家公務員法第98条第1項「職員は、その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」が、刑務官が死刑執行に従事する唯一の根拠であると示されている(39)。死刑執行の命令は法務大臣が死刑執行命令書にサインすることによって出される(40)。しかし、この命令が誰に対する命令であるかは法律にない。これは、刑務官の中から「死刑執行人」が選ばれなければならない、という根拠が存在しないことを意味している(41)。このような現象は、1991(平成3)年以降になって初めて現れた現象である(42)。
 大塚公子は、『死刑執行人の苦悩』という本の中で、1988(昭和63)年に「刑務官の服務規程に、『死刑の執行をする』という項目はない」(大塚〔1988〕2006:12)と書いたが、それは、当時の時点では間違いであった。
また、元刑務官の清水反三は、1990(平成2)年の論文で、矯正研修所の研修時代に、教官に死刑執行命令の根拠を尋ねたさい、「看守及ヒ女監取締職務規程」を持ち出されたことに疑問を呈したが(清水1990:125-127)、この疑問も1991(平成3)年以降では意味をなさなくなった。より明確な命令根拠が示されたからというのではなく、より明確に命令根拠がなくなったからだ。疑問は解決されるどころか、一層不可解なものとなった。
 1991(平成3)年より前であれば、死刑は刑務官の職務として法律で定められていた。そこでは、職業選択の自由という論理も、法律上は通用したかもしれない。しかし、1991(平成3)年以降は、確実に、死刑は刑務官の職務ではない。1989(平成元)年から1993(平成5)年まで、正確にいうなら3年4ヶ月の間、死刑の執行は停止されていた。刑務官が「死刑執行人」になることもなかった。しかし、1993(平成5)年3月16日、死刑は再開された。そのときにはすでに誰が「死刑執行人」になるかを示した法律文書はなくなっていたのである。これが意味するところは、1993(平成5)年の再開以降行われた死刑の全てが、行為者がいないはずの死刑であった、というだけにとどまらない。
本稿で今まで見てきたように、死刑執行の歴史は、苦の軽減の歴史であり、それは死刑執行には苦痛がともなうということを端的に示している。かつて、在野法曹団が法廷で、国側と「死刑の執行を看守に課するのは憲法に禁ぜられた苦役の強制(第18条)にあたる」として争ったことがあったが、そのときは「死刑の執行は職務であり苦役にはあたらない」として退けられた(清水1990:127)。しかし、「職務」であるがゆえに苦役にあたらないのだとすれば、1991(平成3)年の時点で、この論理は破綻したことになる。つまり、1993(平成5)年3月16日以降の死刑は、職務でないうえに苦痛を被る労働であったのだから苦役であり(43)、命令根拠となる法律がないという点で〈強制〉といえる。
このようなことを指摘することで、筆者は、死刑全体が不当な刑罰であると主張できるとは考えていない。しかし、死刑存廃論が論じられるに際して、「死刑執行人」の問題が、特に存置派において、ほとんど取り上げられないのは不当である、とはいえるのではないかと考える。
 本稿は、あくまで公文書に厳密に従い、公文書からだけでもわかることを記述してきた。これだけを見ると、1991(平成3)年以前は職務規定があったので、そのときの「死刑執行人」の労働は不当ではなかった、あるいは、新しく死刑に従事するという文言を含めた職務規定を作ればよい、というような主張も成り立ちうるように思われるかもしれない。それらの主張に対する批判は、公文書だけでなく、より多角的な視点が必要とされるので、今後の課題としていく予定である。

おわりに

 死刑の問題について、団藤重光は「原点に立ち返って、これから死刑制度を設けるべきかどうか、すなわち、死刑制度の肯定かどうか、という議論の立て方をしなければならない」(団藤2000:153)と述べている。
 ここには重要な視点が欠けているように思われる。冒頭で述べたように、死刑は、死の決定という制度問題であると同時に、「死に至らしめる身体に介入する行為」を人間に認めるかという問題でもある。しかし、後者はそれほど重要視されない。そもそも「死刑執行人」の顔すら、一般の人々には知らされていない。
 これは、死刑が密行化されていることが、大きく影響している。「死に至らしめる身体に介入する行為」を隠すことで、市民を死刑の残酷さから遠ざけることには成功した。これによって、市民たちの精神的苦痛は緩和されたかもしれない。だが、それは同時に、死刑執行の歴史や、死刑執行現場で生まれる苦痛をも、覆い隠すことにもなってしまった。それが、何をもたらしたかについては、紙数の関係上もあって、別途論じることとする。
 死刑を執行しているのは、刑務官であり、刑務官は、教育者である。元刑務所長である玉井策郎は1956(昭和31)年5月11日の参議院法務委員会公聴会で以下のように主張した。

 「教育と死刑、この二つの相反する現実に直面する私は、その大きな矛盾に悩んできたものであります。死刑という刑罰が存在する限り、そしてその執行を私たち矯正職員が行わなければならない限り、私は方便的に任務を遂行するのであって、そこに教育としての良心は片鱗をも示すことはできない。人殺しとみずからあざけっておるものであります」(44)

 刑務官の職務規程から、死刑に従事すべしという職務規程がなくなったことで、玉井の思いは、法律上は実現し、1991(平成3)年以降、刑務官は教育者としての仕事だけを任されることとなったはずであった。しかし現実は、今もまだ、刑務官が死刑を担い、市民たちの知らぬところで苦痛は生産され続けている。
 本稿では、明治から現在に至るまでの死刑執行に関する公文書を見てきた。そのことを通じて、公文書の文言の中から、「死に至らしめる身体に介入する行為」は遠ざけられ、消去されていく傾向にあるということは、確認できたと思う。しかし、一方で、行為である以上、「殺人」のリアリティは残らざるをえない。その結果、現在の日本では、不当に苦痛を被る「死刑執行人」が生み出されている。このような矛盾が生じることに、死刑の本来的な暴力性が垣間見えるように筆者には思われるが、それをどのように考えていけばよいのか、ということについては、今後の課題として追求していく予定である。

〔参考文献〕
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〔註〕

(1) 死刑は判決のみで存在するという議論がある(年報・死刑廃止編集委員会1997:27-29)。司法的観点からいえばそのとおりである。ただ、死刑囚は絞首刑によって殺されたときにはじめて刑を受けたことになり、それまでは未決拘禁者として処遇される。したがって、殺されるまで拘置所に拘留されている期間は刑罰にあたらない。つまり、死刑判決が出たあと、死刑が執行されなければ、法律上はなんの刑罰も行われないということになり、それは刑罰自体の放棄ということになる。本稿の1−3で詳述しているが、死刑囚が自殺して死んだとしても、それは死刑とは認められないのである。
以上のようなことをふまえ、本稿では死の決定と「死に至らしめる身体に介入する行為」の二つが揃うことを死刑であると定義した。
(2) 矯正局ホームページ「刑務官採用試験」http://www.moj.go.jp/KYOUSEI/kyouse13.html#1 アクセス日2007.10.31
(3) 脚注にある法令の条文は紙数の関係上、必要なものを除き省略した。全文は、生存学ホームページhttp://www.arsvi.com/index.htm内にある「死刑」の項目の中の「死刑関連法令・条文(現行法規2007年11月11日時点)」http://www.arsvi.com/d/c01321.htm、「死刑関連法令・条文(旧法令・通達)」http://www.arsvi.com/d/c01322.htmというファイルに掲載してあるので参照のこと。
(4) 史料中に、字が潰れて判別できなかった箇所がある場合は「○」と表記した。また、明治期の史料は近代デジタルライブラリーより入手したものがほとんどである。
(5) 梟刑とは、さらし首のこと。梟刑が廃止されたのは、1879(明治12)年1月4日。
(6) 大橋1880、立野1880、iェ1881にも同様の記述が見られる。
(7) 首の切断にこのような意味を付した旧刑法を起草したのが、1981年までギロチンという断頭台を残したフランスの人間であるボアソナードであったというのは、興味深い事実である。
(8) この一族は、死刑執行を生業としていたのではなく、人体を用いた刀の試し斬りと、死体の肝臓から作る薬で生計を立てていた。斬刑の廃止と共に失業。
(9) 1896(明治29)年3月1日の讀賣新聞朝刊三面、参照。
(10) 「絞罪器」の詳細については、を参照のこと。
(11) 坂本敏夫によれば、このような慣例ができたのは、1970年代半ばに、処刑を翌日にひかえた死刑囚が、ふとんの中で首に布を巻きつけて自殺してしまってからだとなっている(坂本2006b:66-67)。だが、死刑予告を受けた当日に自殺した死刑囚として名が残っているのは、1975(昭和50)年10月3日に福岡拘置支所で自殺した津留静生だけである(村野2006:194-195)。同年9月5日に東京拘置所で、死刑確定囚の前田孝が首つり自殺をしているが、それは執行当日ではなかった(村野2006:194-195)。坂本は、この二つの事件を混同している可能性がある。
(12) 監獄という言葉が正式に定義されたのは、1872(明治5)年11月29日に頒布された「監獄則並図式」による。
(13) ただし、予算面では1911(明治44)年まで押丁の名前は残った(監甲第五号)。また、死刑を担っていた押丁が、具体的にどのような人たちであったのか、については別途論じる。
(14) 治罪法第460条第1項
(15) 旧刑法第13条
(16) 治罪法第460条第2項
(17) 刑法附則第4条
(18) 刑法附則第5条
(19) 1895(明治28)年12月本縣(岡山県)訓令監第6号(死刑執行手続)第1条
(20) 監獄則施行細則第28条
(21) 1882(明治15)年2月司法省通達丙第3号刑死者犯由榜示
(22) 監獄ごとにその配置は異なる。たとえば、栃木獄務提要に収録されている監訓令第二號(1895〔明治28〕年1月15日)死刑執行手續第2条を見ると、計11人の看守が動員されている。
(23) 刑法附則第2条。現代でも、刑事訴訟法477条2項に「検察官又は刑事施設の長の許可を受けた者でなければ、刑場に入ることはできない」とあるが、ここでいう許可を受けた者とは、たとえば教誨師のことであり、市民は含まれていない。しかし、重松によれば、旧刑法時代は、新聞記者や学生が死刑執行の見学を行うことも可能であったので、完全な密行というわけではなかった(重松1985:185)。
(24) 刑法附則第1条
(25) 1895(明治28)年12月本縣(岡山県)訓令監第6号(死刑執行手続)第3條
(26) 1895(明治28)年1月15日、栃木獄務提要監訓令第二號死刑執行手續第8条では受刑者の眼を被うのに紙が用いられている。しかし、岡山県の例を見ると綿布が用いられており、統一された道具が用いられてなかったことがうかがわれる。
(27) 1895(明治28)年12月本縣(岡山県)訓令監第6号(死刑執行手続)第4條
(28) 1870(明治3)年の新律綱領では絞首刑のための器具として、絞柱が採用されていた。これは受刑者を柱に縛りつけ、背後に垂らした錘で首を絞めあげるというものであったが(村野2006:75)、苦痛が大きかったため、1873(明治6)年の改定律例で絞架(屋外楼)に改められた(図参照)。ただ、図では機車柄が穢車柄となっていて、どちらが正しいかは定かでない。
(29) 1895(明治28)年1月15日、栃木獄務提要監訓令第二號死刑執行手續第9条には「死刑者ヲ絞架ニ登セタルトキハ両足を縛シ蹈板ノ上ニ坐サシメ」とあり、必ずしも直立させていたわけではないようである。
(30) 絞首刑に特別な技術は必要ないとよく言われるが、縄の締め方、当てる位置、縛り方を間違えると、すぐに死ねなかったり、失敗したりという事態が発生する。ゆえに、縄をかける作業もまた相応の技術が必要なのである。
(31) 1895(明治28)年12月本縣(岡山県)訓令監第6号(死刑執行手続)第4條
(32) 日本のデータでは、ある20名の死刑囚の平均絶命時間は14分47秒(ホミサイド・ラボ2007:148)。また、元刑務所長、玉井策郎の証言によれば、ある7名の死刑囚の平均絶命時間は13分58秒だったとのことである(前坂・橋本1991:62)。
(33) 刑法附則第3條
(34) 片岡義助の『刑法附則註解』では、死相が出て2分してから埋めるとあるが(片岡1882:4)、短すぎたのか、現代では5分と変更されている
(35) 刑法附則第6条
(36) ホミサイド・ラボによれば、このロープは長さ7.5メートル、直径2センチのマニラロープということだが、情報源は記されていない(ホミサイド・ラボ2007:148)
(37) 保坂の証言とスケッチでは、スイッチがどこにあるのかまでは分からなかった。坂本が漫画家と協力して再現している劇画によれば(坂本2006b:73-82)、鉄の扉に至るまでの階段の途中に三つのスイッチが並んでいるのが分かるが、この地下絞架式は、東京拘置所とは少し構造が違っている。おそらく、拘置所ごとでバラバラであり、統一された規格はないのだと思われる。ただ、人事院規則九―三〇(特殊勤務手当)第10条第1項に死刑執行手当は「それぞれの作業一回につき五人以内に限(マ)つて(マ)支給する」とあり、受刑者を直立させておく役を担う人間にも支払われるのだとすれば、スイッチは三つというのが一番あり得る数字である。
(38) 人事院規則九―三〇第10条第2項「前項の手当の額は、作業一回につき二万円とする。ただし、同一人の手当の額は、一日につき二万円を超えることができない」
 死刑執行手当の額は、時代によって変化していっている。戦後間もなくの初任給1万円という頃には、その約3分の1にあたる3500円という金額が支払われていた。しかし、初任給18万超の現在では、その約9分の1である2万円なので、単純な比率で金額が決まっているわけではないようである。坂本(2006b)参照。
(39) 1998(平成10)年5月13日の第142回国会衆議院法務委員会で保坂展人衆議院議員から死刑執行命令の根拠について質問を受けた坂井政府委員は、国家公務員法以外に死刑命令の根拠は存在しないと答弁した(三原2003:379)。
(40) 刑事訴訟法第475条第1項
(41) 刑法第11条第1項
(42) なぜ、このような現象が起こったのかについての社会的背景をふまえた考察については、別途論じる。ただ、1989年12月に国連で国際人権規約第二選択議定書が採択されるなどして、この時期死刑廃止運動が盛んだったことと、なんらかの関わりがあるのかもしれない。
(43) 本稿は公文書からだけでもわかることを記述する論文であるため、詳しく取り上げることはしなかったが、死刑執行がいかに精神的苦痛を被る労働であるかを訴える、「死刑執行人」となった刑務官の声は多数ある。たとえば元刑務官である清水は、「私は絶叫したい。立合っただけで顔面蒼白になり卒倒してしまった検事が実在し、玉井・平沼・高橋ら元所長が異口同音にその苦悩を訴えるこの作業がどうして苦役でないといえるのか」と述べている(清水1990:127)。大塚([1988]2006)、坂本(2006a)(2006b)なども参照のこと。
(44)国会会議録検索システム「参議院第24回法務委員会公聴会」
リンク元 アクセス日:2007.10.31


*作成:櫻井 悟史
UP:20080926 REV:
全文掲載  ◇「死刑執行人」
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