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「栗原先生からのレスポンス」

栗原 彬 2008/02/29
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20080307
『時空から/へ――水俣/アフリカ…を語る栗原彬・稲場雅紀』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告2,157p. ISSN 1882-6539 pp.66-74

last update: 20151225

◇栗原先生からのレスポンス
(栗原)たくさんの質問とコメントをいただいたわけですけれども、市民社会についての私の立ち方は、あるふり幅を持って動いているものなんです。観念の上で市民社会が自分の中に入ってきた限りでいえば、そしてまた自分が生きている、その地平で言えば、市民社会というのは肯定されるべきものだし、これはとりわけ東欧革命との関係で市民社会への回帰っていうことが、言われるところで言えば、それが肯定的にやはり自分の中でとらえられている、というのは確かですね。だけど当時、例えば東欧ベースの市民社会が作られると同時に大きな民族的な排除を含むということも明らかにされてしまうわけです。それはまた外国でそうであるばかりじゃなくて、日本でもやはりそうですね。だから市民社会というのは肯定すべきものか、否定すべきものかという、そういう見方で割り切れるものではないわけです。
 とりわけ水俣にコミットしていけば行くほど、その水俣っていう場所での市民社会と、それから漁民たちの生きている社会とのズレが見えてくる。漁民たちの生きている社会は、それは明らかに、みんなが市民と呼んでいる、その人たちが住んでいる社会と違うものとして認識されているんです。それは水俣市民が攻撃するからです、水俣病者に。水俣病という命名すら攻撃の対象になる。だから水俣病を違う名称で言えとか、それをたとえばハンセン病っていう命名のように、この水俣病の発見者の名前を、外国人の名前をつけたらどうかとかですね、水俣市の名称を変えろとか、いろんなことが言われるわけです。非難や攻撃の対象になっているということですから、そうすると市民というものに対する批判もでてくるのは当然です。
 しかし、患者たち自身の中から「もやい」ということについての、意識的な働きかけが出てくるんです。徹底的に排除されてきた人々の中から市民、あるいは市民社会に手を差し伸ばすということが出てくるんです。それはもう非常に具体的なところでいろいろな形で出てくるんです。例えばハイヤ節を国際水銀会議場で踊るんですが、水俣病の胎児性患者たちと水俣市の子どもや若者たちが隔てなく、車いすに乗った人たちも含めて、そこに大きな踊りの輪を作ろうとする。そういうプランを、杉本栄子さんが積極的に出して、振り付けもする。そういうふうに水俣病者の方が積極的に市民に手を差し伸べるという動きがある中、市民の中にも今度は水俣病展をやるっていうとき に協力する人が出てくる。水俣の駅から会場までの商店街に水俣病展ののぼりがはためいたんですね。水俣の人たちもこんなことは初めてだと言ったんですけれども、それは商店の人たちが水俣病展を支えるという意識を持ったからなんですね。実際に水俣病展の実行委員会の中にも水俣の商店の人たちとか、会社員なんかが入ってくる。その人たちの話を聞いてみれば昔は申し訳なかったというんです。水俣の市民は水俣病者を支えなかった。そのことを申し訳なく思うって言いました。ずーっとそのことを重荷に、それを抱えてきたと言う。お父さんがチッソの会社に勤めていた。そうすると一家をあげて水俣病患者を批判するということが出てくる。だけどそのことがずっと気になっていたっていう。そのことを謝りたいと思ってこういう活動に参加する。そういう人たちが出てきた。
 だからこれはそういう水俣病患者たちとそれから水俣の市民たちの双方に関わる、これはまさに「エッジ」っていうことなんですよ。エッジが交差する、接点を持つところが出てきた。それはトータルな水俣病者たちとトータルな水俣の市民社会との和解でも連携でもないんですよ。それぞれの思いと意識が表れたところがエッジとなってそれが繋がっていく。肩を並べてやって行くっていうことがありうるんです。そういう仕方でたぶん接点が持たれ、かつ連携プレーが行われていくんですよ。産業廃棄物処分場建設反対運動でもまたそうですね。だけどこれが本当に細々とした患者と市民の繋がりかっていうとそうじゃなかった。市長選の話をしましたけれども、市長選で圧倒的に反対派の市長を立ち上げてしまうっていう、それだけの繋がりの大きさが証明されたんだと思いますね。最初はやっぱり小さなつながりなんですね、小さなつながりだけれども私は質的には非常に強固な繋がりだったんだと思うんです。水俣病展をやったときに患者たちがもう放っといてくれ、「寝た子を起こすな」というんです。いや、「寝た子は起こさなくちゃいけません」って、僕らがいうわけです。これってちょっとおかしいわけですけれどもね。やっぱりやってもらってよかったという声にはなるし、それからこんなことがあったというのは初めて知った、という子どもたちの声があったし、そういう声がいくつもの細い流れになって繋がっていく。
 市民社会の中で動き出すそういうエッジがいくつもあるし、それがなければ、実際に人間の政治は十分な力になりえないんですね。だから市民社会の中で課題を担うエッジが生まれることが必要です。それから官庁もそうですよ。官庁はどうしようもない壁ですけれども、しかしその壁のなかにも人間がいるんですね。市民的な官僚もいるんです。あるいはそういうものを市民が作り出すっていうか。環境省の極めて市民的な役人、市民的な課長がいるんです。その課長との関係の中で動いていくものがあるんです。もちろん内閣が、あるいは自民党が何か言ってしまえば、そんなものは吹っ飛んでしまうわけですね。課長が何の抵抗もできない、それはもう明らかです。しかし、小さいけれどもそういう変化が今生じているんです。前よりましですよ。全く拒絶反応だったところをそうじゃない人たちがぽつんぽつんと出てきている。それが場合によったらある種の連携プレーになっていくんですね。水俣フォーラムを支えてくれるような役人も企業も出てくるんですね。
 上野登という学者が、北九州に照葉樹林帯を作った。だけどそのためには、純粋なボランティアだけではとてもできなかったんですね。行政と企業の協力を取り付けなかったらできないことです。上野さんはそのことを本に書いた。池内紀さんが、この本の書評の中で、「鍛えられた足腰さえあれば、時には膝をしてもいい」といっている。鍛えられた足腰さえあれば、というところを抜きに膝を屈してもいい、というふうにいってしまう人がむしろ多いのが問題なんですけれども。
 市民活動に響き合うエッジがわずかといえども、行政にも企業にもあるんです。それで企業にとっての責任の取り方っていうのは金を払うということ以外に他にやり方があるんだろうか、という質問です。私は、被害者に恒久的な救済対策を取ることから、企業活動を通して共生的な社会の方向性をプレゼンテーションすることまで、企業にできることは沢山あります。しかし、金を払うということは賠償金の考え方によりますね。現代損害賠償論の論理というのは、産業の発展を止めることはできない、そうするとそこに常に犠牲者が現れる。その犠牲者に対しては金で賠償すればいい。金によって平衡を回復する。それが現代損害賠償論の論理です。ハンセン病にしろ、あるい はカネミ油症にしろ、森永ヒ素ミルクの場合にしろ、結局金で償うという形を取ってるんです。
 しかし、この平衡説とは異なった意味を賠償金に求めた人もいます。三井三池の裁判で賠償金を申し立てるときに 1円を申し立てた人がいた。1円の賠償金って何なんだろう。市場的な等価交換という発想じゃあ全くないわけですよ。賠償金として 1円を要求するっていうのは、心からの謝罪ということにつながっているんだろうと思うんですね。今の現代損害賠償論のロジックでいえば金っていうのは所詮そんなもんです。だけど同時にそんなもんですっていうものの中にね、意味を込めることができる。
 だけど先ほどお話したように緒方正人さんたちがそれをさらに乗り越えていこうということを考えたわけですね。これを形にするためにはどうしたらいいんだろうか。例えば、環境会計っていう、そういう会計を、今どの企業も取り入れているでしょう。それと同じように、私は共生会計という会計の立て方ってないんだろうかと思うわけです。皆さんに考えてもらいたい。とりわけ経営学やってるような人には。水俣病者のほうから言うと、いつまでも被害者と加害者っていう二分法的な息苦しい形を抜け出したいということがあるんですね。だから加害者の中にも人間を掬い出していこうとする。自主交渉のときなんかもそうなんですよね。社長というその位置にもう、必死にしがみついている人をそこから引き剥がそうとするわけです。それでそこから人間を掬い出す、希望を持った人間を掬い出してくることを考えるんですね。
 それで、それが現実的かどうかっていう問題以前に、あるいはそれ以後に、アクチュアリティを経験したいということがありますね。時代の中で私が関わりを持ったアクチュアルな場所、例えば大本、若者、コミューン、それからボランティア活動、市民活動、水俣、高畠との関わり等々、これは次から次へと乗り換えになってないんです。お話したことは今でも、ずっと続いているんです、私の中で。実際にその関係も続いてます。大本との関わりもずいぶん長いわけだけれども、今でも続いています。権力派に反旗を翻した人たちがネットワークの活動を始めています。宗教を超えたネットワークです。 そういう中でまたあらためてお付き合いの仕方が深まってくる。水俣との関わりもそうですね。水俣との関わりも済んだことじゃなくてまだまだずっと続いている。並行した関わりになっているんですか、という質問があったんですけれども、実際そのとおりですね。並行しているんです。全てのことが、並行し、重なり合い、交差している。並行しているんだけれども、例えば水俣と、高畠との関わりっていうことになると、それは全く別個のことが並行してるんじゃなくて、相互に響き合っているし、高畠での水俣展のように、交差もしている。
 水俣なら水俣との関わり方、あるいは立ち方が、その意味では一貫性があるんだけど、その中で変わっていくんですね。私自身が変わっていくし、それから水俣のほうも変わっていくんですね。私がボランティア学会を播磨靖夫さんたちと立ち上げていったときに、宇井純さんが、私がやって来たことはボランティア活動だったと言って入って来られた。そのことはみんなにインパクトをもたらしているんです。宇井純さんがボランティアなら、ボランティアはじゃあどこに立つんだって、市民社会の多数派の位置に立ってるわけじゃない、市民社会の裂け目、エッジに立っていて、周縁と響き合っていることがはっきりしてくるわけです。ボランティアの立ち方がそこから人間の政治のほうへ近づいていくし、そのことが分かってくると今度は逆に水俣病者たちが市民活動に心を開いてくる。並行しているんだけれど相互の変容があるんですよ、それぞれに。
 だからそういう点でいうと反公害の運動ということからはじまったんでしょうけれど、遥かにそういうことを超えていく、それで学問のほうが公害という問題の立て方は今や古いといって環境というふうにいっちゃうんですね。だけど現場で言えばむしろ、環境っていうふうな問題を立てたことで失われていくものが認識されて来ていますね。もう一回公害ってことをしっかりと見取りながら、しかもそれを狭い意味の反公害に閉じ込めるのじゃなくて、もっと広い形の人間の政治のほうに拡張しようとしている。そういう状況です。
 チッソは企業としては、水俣の能の奉納に参加しないんです。その意味で は、加害責任の共有というふうにはなっていないんです。だけど、個々の人たちが参加する。こういうことは前例がなかったことなんです。実際私が、能を奉納するための実行委員会に行くと、その実行委員会の中に楽しそうにしている若者がいるんです。その若者はチッソに勤めている人なんです。真昼間に委員会にいて、とうとうと自分の意見を述べている。で、お前さんこんなところにいていいのって、みんなが彼が首になるぞって心配するんですよ。その社員の若い人は、いやあ、首になったっていいですよ、なんていってね、その場にいるんですけれども、チッソの社員が実際、かなり自由な仕方でアイデンティティ抜きでその場にいるわけです。そういうことが、全体化されてはいないんです。チッソが全員参加するということはたぶん永久にありえないでしょう。だけどそういう人が一人、二人いるということがすごく重要ではないでしょうか。

 私は言われてみれば若者に関心をずっと持っているということは、確かにそうですね。どうしてかなあ。自分ではよくわからないけれど、E.H.エリクソンの言い方でいえば、extended youth引き伸ばされた青年期を殊更に未完の状態に置いておく、たぶん自分の中のその問題かもしれないんです。アイデンティティなんていうものはありえないし、それからそんなものを私は獲得しましたって言ったとたんにそれはアイデンティティじゃないし。だからアイデンティティは永遠に獲得できないものです。民族的なアイデンティティっていうふうにいってしまうんだけども、そういうものじゃないようなアイデンティティ、その人にとっての真正なアイデンティティということでいえば、そんなものはやっぱりないのかもしれないですね。だけど、それが、自分の中で青年のイメージに置き換えられてとらえられていくということはあると思う。若者のイメージで。その若者ってなにかっていえば、変わるっていうことですよ、他者と出会って自他ともに変るっていうこと。世の中書き換えちゃうっていうことですよ。だからたぶんそれを自分の中で保っていくっていうことが、若い人たちとの付き合いとか関心に繋がっていくのかもしれないですね。
 私の最初の本は、『やさしさのゆくえ =現代青年論』(薩摩書房)でした。最初の本っていうのは多分に尾を引くんじゃないですか(笑)。最初の本になにもかもあるんです。全てを投げ込むんですね。なにやっても、最初の本のことが反復する、記憶みたいにしてね。天田さんもそうでしょう。自分の原点は何か、と言われたと思うんです。これは立岩さんの言葉だと原風景かな。
 私の原風景は、こういう光景です。二階の部屋から洪水の風景が音もなく広がっているのが見える。満々とした茶色の洪水が見える。それが一階の軒先まで来てるんです。二階の窓から船に乗って、洪水に浸かった家を去る。その光景なんですね。その原風景に人はいないのです。人は見えない。だけどその舟があって、洪水があって、水に浸かった家がある。そこから私が助けられるというか、舟に乗っていく寸前の光景。あるときそのイメージを語ったら親は驚いたんです、実際にそれはあったことだったと。私は宇都宮に生まれましたが、父が数学と物理学の教員で、職場の関係で足利に移った。その足利でそういう洪水があったんですね、渡良瀬川の氾濫だったんです。それが私の最初の原風景です。
 いくつもの原風景が絵のようにして自分の中で反復されるわけですね。渡良瀬川に関わる原風景に、続きがあります。群馬県の太田市のおじいさんの家に小さいとき遊びに行くんです。行く度に「偉いお上人さん」の話を聞かされるんです。蓑笠つけて、雨が降ると田の状態はどうかといって訪ねて来る。変なじじいって思っていたんですが、名前も知らなかった。ずいぶん後になってから田中正造と知るわけです。渡良瀬川の洪水の原風景と初めて結びついた。
 最近のことですが、谷中村跡地にミニスカートで石牟礼道子さんが立っている古い写真を見ました。水俣病者たちは水俣病闘争のかなり早い時期に、足尾・渡良瀬川・谷中村跡地を訪れています。田中正造と谷中村の人々の闘い方に大いに学ぶところがあり、その精神は水俣病闘争の骨格に受け継がれています。水俣の原風景と谷中村の原風景は響き合っています。ですから、渡良瀬川周辺で水俣展と田中正造・谷中村展を一緒に開きたいね、と宇井純 さんと話していましたが、宇井さんは亡くなってしまった。でも、これは実現したい、私の夢ですね。理不尽なこと、不条理なことの経験から、初発の問いか生まれます。後知恵として言えることですが、その問いは、個人史と歴史の交差する場所に生まれます。問いは最初確たる形を取っていないけれども、手放さない。身体化されているから手放せない。問いの探究は他者を呼び寄せます。他者との道行きがさらなる問いを生みます。問いと探究の、反復・変奏・連鎖が、ライフサイクルと歴史の転回の中で、進行します。複数の他者と織りなす研究の中に、再び初原の問いに遡行し、かつ来たるべき問いを予兆して、戦慄の中に、両者が円環をなして出会う場所を創る探究行為が始まります。見果てぬ夢のように。

(天田)せっかく議論が盛りあがってきたところで申し訳ないのですが、だいぶ時間が超過しておりますので、ひとまずはここで終了させていただけばと思います。なお、ひとつだけアナウンスをしておきます。今日 18時からいつもどおりの代わり映えのしない店で、栗原先生を囲んで懇親会をすることになっています。この場で十分話せないことについて、あるいはもっと聞きたいこと、たくさんあるかと思いますので、ぜひこの懇親会の中で直接いろいろ話をしていただければと思っています。すでに 25分超過ですので、ひとまずはこれで今日の栗原先生を囲んでのグローバル COE「生存学」創成拠点の研究会「歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く」を終了させていただきます。栗原先生、本日は本当にお忙しい中、また長時間にわたって貴重なお話をしてくださいまして、まことにありがとうございました。参加してくださった皆さんにもお礼申し上げます。


□立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20080307 『時空から/へ――水俣/アフリカ…を語る栗原彬・稲場雅紀』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告2,157p. ISSN 1882-6539


UP:20100414 REV:20100607
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