立命館大学生存学研究センター グローバル COEプログラム 「生存学」創成拠点 時空から/へ ――水俣/アフリカ…を語る栗原彬・稲場雅紀 まえがき  立岩 真也(グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 拠点リーダー・立命館大学大学院先端総合学術研究科 教授)  生存学創生拠点の成果として発行されるこの冊子は、二つの部分からなっている。  一つは、COE事業推進担当者の一人でもある栗原彬さんの講義であり、そこに天田・立岩や大学院生の発言・質問と、栗原先生の応答が加わっている。この講義は2007年9月6日に行われた。  もう一つは、アフリカ日本協議会の稲葉雅紀さんへの公開インタビュー。聞き手は立岩が務めた。ここにも院生が多数参加し、質問などした。これは同年7月29日に行われた。  それぞれについてはそれぞれをお読みいただきたい。なぜこの二つで一つなのか。  どのようにしてこの社会に対してきたのか、そしてこれから対していくのか。そのことを知りたいと思っているし、考えたいと思う。この時、二人が語る史実・事実の広がりと深さとともに、これからどうしてやっていこうかについて、得られるもの、得られるものの幅があるように思えて、二つを合わせて編むことにした。  準備だけで疲れてしまい、あるいは報告書を作ることで疲れ果ててしまい、たしかに行なわれたはしたものの、それだけであるといった企画・催しがよくある。あって悪いことはないかもしれない。だが、私たちはそんなことに労力を費やすつもりはない。栗原さん、稲場さんの語ったことから、私たちがすることが、いくらも、具体的にあると考えているし、その継承の作業に既に取り掛かっている。拠点のHPhttp://www.arsvi.comをご覧になっていただきたい。例えばそれは既に、アフリカ日本協議会の協力を得て、アフリカの現在について、この国でもっとも詳しく新しい情報を提供している。また、日本のここ何十年かについて、その時空における身体に関わる様々の出来事について、言葉について、収集し解析する作業を行い、集めたものを私たちのサイトに収蔵し掲載している。そしてその成果を、何年かかけて、しかし何年かのうちには、続々と、出していくつもりだ。ここに収録された二つは、こうした作業を先導する二つである。私たちが追うべきものの幅を示し、覚えておくべきことを既に示し、何を知るべきかを教えてくれている。  これ以上なにも言うことはないが、稲場さんへのインタビューについて、別の版が既にあり、またこれから出ることになっているので、そのことについてだけお知らせする。  このインタビューは、かなりの部分を削った上で青土社の月刊誌『現代思想』の2007年9月号(特集:社会の貧困/貧困の社会)に「アフリカの貧困と向き合う」という題で掲載された。そして今回、「完全版」がこの冊子に収録されたのだが、さらにそれに幾つかの文章を加え、註を増やし、そして、もう一つのインタビューを加えて、今年中に公刊する予定である。そのもう一つは小児科医の山田真さんへのインタビューであり、同じくこのCOEの企画として、同じく公開で、同じく立命館大学の創思館で、2007年12月23日に行なわれた。やはり多くを削って、『現代思想』の2008年2月号(特集:医療崩壊――生命をめぐるエコノミー)に「告発の流儀――医療と患者の間」という題で掲載された。そのもとの記録を手直ししたものに、数多くの、相当に大量な註を付したものが本には掲載されることになる。刊行されたなら、是非手にとって読んでいただきたい。 立命館大学グローバル COEプログラム 「生存学」創成拠点 「時空から/へ─水俣/アフリカ…を語る栗原彬・稲場雅紀」 目  次 まえがき  立岩 真也 ………………………………………………………………………… 3 特別公開企画「歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く」 …… 11 話し手:栗原彬(立命館大学 COE推進機構・特別招聘教授) 聞き手: 立岩真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科・教授)・天田城介(立 命館大学大学院先端総合学術研究科・准教授)・他 ◆出来事/身体 …………………………………………………………………… 17  ◇身振りとしての出来事 ……………………………………………………… 17  ◇集団疎開と『良寛さま』……………………………………………………… 18  ◇「長崎の少年」………………………………………………………………… 20 ◆歴史のなかにおける問い ……………………………………………………… 23  ◇暴力への問い ………………………………………………………………… 23  ◇水俣からの呼びかけ ………………………………………………………… 24  ◇民衆レベルの国際関係 ……………………………………………………… 26  ◇ニューヨークにて …………………………………………………………… 27  ◇べ平連、学園闘争 …………………………………………………………… 28  ◇学問の位置 …………………………………………………………………… 29  ◇多様な政治 …………………………………………………………………… 30  ◇コミューン …………………………………………………………………… 31  ◇大本教 ………………………………………………………………………… 31  ◇水俣 …………………………………………………………………………… 33  ◇ボランティア活動/市民活動 ……………………………………………… 34 5 ◆水俣─人間の政治……………………………………………………………… 36  ◇水俣フォーラム 1998− ………………………………………………… 36  ◇水俣病展 2001年 10月 ………………………………………………… 37  ◇水俣・高畠展 1999年6月 ……………………………………………… 38  ◇水俣病者たちのチッソとの自主交渉………………………………………… 40  ◇新作能「不知火」水俣奉納公演 2004年8月 ………………………… 41  ◇生存の政治……………………………………………………………………… 44  ◇共生の政治……………………………………………………………………… 44  ◇存在の現れの政治……………………………………………………………… 45  ◇実践的な身振りの論理………………………………………………………… 46 ◆質疑応答…………………………………………………………………………… 50  ◇コメントと質問・1 …………………………………………………………… 50  ◇コメントと質問・2 …………………………………………………………… 58  ◇コメントと質問・3 …………………………………………………………… 63  ◇栗原先生からのレスポンス…………………………………………………… 66 特別公開企画「アフリカ/世界に向かう─稲葉雅紀さんから」 …… 75 話し手:稲場雅紀(アフリカ日本協議会) 聞き手:立岩真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科・教授)・他 ◆稲場雅紀:その歴史……………………………………………………………… 79  ◇アフリカ日本協議会 2002− …………………………………………… 79  ◇アカー 1991− …………………………………………………………… 80  ◇横浜エイズ会議、アフリカ日本協議会 1994− ……………………… 82  ◇難民申請裁判 2000− …………………………………………………… 84  ◇寿町・大学 1988− ……………………………………………………… 85 ◆アフリカと日本:歴史と現在…………………………………………………… 89  ◇歴史:中世 ~明治 …………………………………………………………… 89  ◇東武野田線におけるグローバリゼーション………………………………… 91  ◇在日アフリカ人と HIV/ AIDS …………………………………………… 93  ◇どんな事情でどんな商売を…………………………………………………… 95 ◆「先進国」(南)アフリカ ……………………………………………………… 98  ◇ GNIの巨大さと人間開発指数の低さ ……………………………………… 98  ◇低開発への開発………………………………………………………………… 99  ◇成長と分配……………………………………………………………………… 101  ◇「経済成長を通じた貧困削減」という空文句……………………………… 104  ◇人的資源の流出………………………………………………………………… 108  ◇方策について…………………………………………………………………… 111 ◆社会運動の戦略・戦術…………………………………………………………… 114  ◇二つの流れ……………………………………………………………………… 114  ◇ハイリゲンダム G8サミット ……………………………………………… 116  ◇両方が要る……………………………………………………………………… 118  ◇市民社会セクターと国家セクターの相互乗り入れ………………………… 120  ◇何をもう一つのものとするか………………………………………………… 123  ◇アフリカの条件・可能性……………………………………………………… 127 7  ◇諸国にとってのアフリカ……………………………………………………… 130  ◇腹くくればさほどでないこと………………………………………………… 134 ◆質疑応答…………………………………………………………………………… 138  ◇ターゲット/モビライズ… ………………………………………………… 138  ◇傷/ウィリングネス…………………………………………………………… 141 ◆質疑応答2:アフリカにおけるゲイおよびゲイ・アクティビズムの状況 … 145  ◇ナイジェリア/ガーナ/ウガンダ…………………………………………… 146  ◇南アフリカの当事者運動……………………………………………………… 149  ◇イスラム圏のゲイ……………………………………………………………… 149  ◇想像のゲイ共同体……………………………………………………………… 150  ◇南アフリカの当事者運動についての補足…………………………………… 153 あとがき  天田 城介 ………………………………………………………………………… 155 特別公開企画 立命館大学グローバル COEプログラム 「生存学」創成拠点 歴史のなかにおける問い ─栗原彬先生に聞く アフリカ/世界に向かう ─稲場雅紀さんから 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く 特別公開企画 立命館大学グローバル COEプログラム「生存学」創成拠点 「歴史の中における問い―栗原彬先生に聞く」 日 時:2007年9月6日(木)13:00〜 17:00 会 場:立命館大学衣笠キャンパス創思館403・404教室 話し手:栗原彬 聞き手:立岩真也・天田城介・他 ◆出来事/身体   ◇身振りとしての出来事   ◇集団疎開と『良寛さま』   ◇「長崎の少年」 ◆歴史のなかにおける問い   ◇暴力への問い   ◇水俣からの呼びかけ   ◇民衆レベルの国際関係   ◇ニューヨークにて   ◇べ平連、学園闘争   ◇学問の位置   ◇多様な政治   ◇コミューン   ◇大本教   ◇水俣   ◇ボランティア活動/市民活動 ◆水俣─人間の政治   ◇水俣フォーラム 1998   ◇水俣病展 2001年 10月   ◇水俣・高畠展 1999年6月 生存学研究センター報告   ◇水俣病者たちのチッソとの自主交渉   ◇新作能「不知火」水俣奉納公演 2004年8月   ◇生存の政治   ◇共生の政治   ◇存在の現れの政治   ◇実践的な身振りの論理 ◆質疑応答   ◇コメントと質問・1   ◇コメントと質問・2   ◇コメントと質問・3   ◇栗原先生からのレスポンス 栗原彬 先生の紹介 専攻は政治社会学。1936年栃木県生まれ。1961年東京大学教養学部教養学科国際関係論卒 業。1964年東京大学大学院社会学研究科修士課程修了、1969年同博士課程満期退学。武蔵 大学文学部講師、立教大学法学部教授・明治大学文学部教授を経て、立命館大学COE推進機 構特別招聘教授(「生存学」創成拠点)。水俣フォーラム代表、日本ボランティア学会代表。主 著として、『やさしさのゆくえ─現代青年論』、 (筑摩書房 , 1981年)『歴史とアイデンティティ ─近代日本の心理 =歴史研究』(新曜社 , 1982年)、『管理社会と民衆理性─日常意識の 政治社会学』(新曜社 , 1982年)、『政治の詩学─眼の手法』(新曜社 , 1983年)、『政治の フォークロア─多声体的叙法』(新曜社 , 1988年)、『やさしさの存在証明─若者と制度 のインターフェイス』(新曜社 , 1989年)、『人生のドラマトゥルギー』(岩波書店 ,1994)、 『「やさしさ」の闘い ─社会と自己をめぐる思索の旅路で』(新曜社 ,1996年)『、「存在の現れ」 の政治─水俣病という思想』(以文社 , 2005年)ほか多数。 特別公開企画 立命館大学グローバル COEプログラム 「生存学」創成拠点 歴史のなかにおける問い ─栗原彬先生に聞く 日時 2007年9月6日(木)13:00~17:00 会場 立命館大学衣笠キャンパス創思館403・404教室 (立岩)それでは始めましょうか。みなさんこんにちは。今日、栗原彬先生 に話していただくことになりました。タイトルは天田さんが考えてくれまし た。「歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く」という企画になりま した。  なんで、というのは、いくつかあります。栗原先生は、ご存じのように、 この先端研、先端総合学術研究科の立ち上げの時から、非常勤講師をお願い して、集中講義に毎年来ていただいて、そこで教えを受けた院生の方もたく さんいます。それに加えてもう一つ外在的なというか、事情があります。こ れからお話ししていただくことについて栗原先生の方からたくさんいろんな 資料を、いただいていますが、それ以外に天田さんのと、ぼくの原稿が混じ っていて、そこの中にすこしそういったことについての言及があります。  栗原先生は立教大学に長くおられて、そして明治大学に移られ、そしてそ の明治大学の方もこの 3月で終わられたのですが、退官を記念してというか、 冊子を作るという話が関係者の方で持ち上がったんです。そして、この話が 転がってというか膨らんでというか、世織書房というなかなかいい本を出し ている出版社があるのですが、その社長さんがぜひこれを世織書房で出した いということになった。いろんな人が、栗原先生についてというかな、書い た文章を集めて、それを出すっていう企画です。どこのへんまで進んでいる のかわかりませんけれどもそういう企画があって、それで天田さんも私も依 頼を受けました。 生存学研究センター報告  そしてそこに、私は、時間もなかったり大変失礼なことであるんですけれ ども、ほとんど中身のない文書を書いただけなんですが、そこに少しこの間 の事情は書いてあるんです。  あとでお読みください。なのですがつまり、去年のことですが、COEっ てものに応募しなくてはならなくなって、とにかく最初に聞いたのはリーダ ーは立派な先生でなければならない、と。それで立派な先生を探している過 程で栗原先生をと考えつき、一同一件落着ということになったのです。ただ その後、学内で働く人間をというふうに言われ、それで不肖わたくしがやっ ている、と。ですが、先生には研究科開設以来加わっていただいたこともあ り、また長いことお仕事なさってきたそのお仕事がわれわれのこの企画にか かわる、私たちがかかわりたいということがありまして、COEの特別招聘 教授という形で、今年度からお呼びしました。  それ以外に COE関係の特別招聘教授としては、アフリカ日本協議会の代 表の林達雄さん、4月の土曜講座で講演なさいましたけれども、その方と栗 原先生ということになります。  COEの方は始まったばかりでどういう方に転んでいくのか、何が我々に できるのか、これからですけれども、それはともかく、いやともかくではな くて、その関わりで、これから先生のお話を伺い、そしてわれわれがそれを 受けて、いろんなことを聞いて、話をして、という感じで進めていきたいと 思います。  後でも少し話すかもしれませんが、今、本も何冊か持ってきて奥付を見た らば、先生は 1936年のお生まれだということです。不肖私は 1960年の生ま れです。記憶によれば天田さんが 1972年ではないかと。ですから、36年、 その次のひと回りは 1948年ということ、ちょうど団塊の世代の人たち、で すね。社会学者だと、たとえば上野千鶴子さんなんかがたしか 1948年だっ たと思いますけれども、それを一つまたいでその次が 60年、われわれの世 代っていうか、になる。そこからまた一回り回ると天田さん、ということ、 今日はたまたま、3世代というか何ていうか、社会学の人が前のほうにいま すが、この間、何があって、どういうことを先生が考えられてきたのか、こ 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く ういう社会のなかで。それをこうやって離れているようでもあり、さほどで もないようなわれわれが、一緒に、あるいは引き継いで、仕事をこれからど う進めていくのかということが気になる、考えたいなと思います。  ということでなんらまとまりのない前置きでした。まずは栗原先生のほう に 50分内外、お話をしていただきたいと思います。では先生、よろしくお 願いいたします。 (栗原)はい、天田さん。 (天田)立岩さんが言われたことで尽きていると思いますが─むろん、別 に年齢や世代がどのような意味を持ちえているのかはここではさしあたり措 くとして─、ある人は生まれ、そしてこの世界の中で生き、ある時代の中 で生きていくわけです。  かりに 12年を一回りとするのであれば、先生が 1936年のお生まれで、次 の世代は 1948年あたりの団塊世代の人たちがいて、そしてその次の世代 に 1960年あたりの生まれの立岩さんたち世代がいて、更にその次の世代に 1972年あたりに生まれた私たちの世代がいることになります。そして、そ の一回り先に、1984年前後に生まれた現在 23歳前後の、ここにも多く参加 している大学院生の世代が存在していることになります。むろん、この大学 院には様々な世代の人たちがいて、それはそれでとても大切なことですが、 乱暴に言えば、ひとまずはそのように言えるわけです。  すると、ちょうど 5つの異なった世代が、異なった時代を生きた人たちが この場にともにいることになります─残念ながら、1948年前後生まれの の団塊世代の方々は今日話をする中にはいませんが─。そして、12年一 回りとかりにするのであれば、5つの世代の人たち、それぞれの時代的・歴 史的文脈を生きてきた人たちが各々で見てきたものがあり─まさに栗原先 生たちの世代、そしてそのあとの団塊世代、立岩さんたち世代、私たちの世 代、そして大学院にてこれから研究をしていく世代の人たちが見てきた現実 があり─、あるいはいかなる人たちとの関わりの中で、自らの生きてきた 生存学研究センター報告 時代的・歴史的文脈の中で何をいかに考えてきたのか、ということを一度き ちんと押さえておくことができればと考えて、今回の企画を私が勝手に考え たというのが今日の研究会の発端になります。  とりわけ、これは私の個人的な関心でもあるのですが、栗原先生たちの世 代がある時代の中で、何を思考され、考えあぐね、あるいはどのような方々 との出会いの中で、自らのテーマを見つけ、そして自ら研究をしてきたのか、 そして様々なことに逡巡されてきたのか、ということについて、われわれは 率直に先生からお聞きし、そしてその上でわれわれが引き受けるべきもの、 そしてその上で何を思考するのかを考えることができればと思っています。  そのような背景から今回の企画を考えたというのが正直なところです。し たがって、今回の研究会「歴史のなかにおける問い ―栗原彬先生に聞く」 というのも、そうしたコンセプトの中で考えた企画であると了解してもらえ ればよいと思います。  さて、本来であれば、栗原先生のプロフィールやご研究をきちんと紹介し なければならないところですが、時間が限られているため、プロフィール等々 については栗原先生から直接お聞きしたほうがよいかと思いますので、栗原 先生にこれまで何をいかに学び、考えてきたのか等についておおよそ 50〜 60分くらいでお話ししていただければと思っています。その上で、そのよ うな栗原先生たちの世代の方々が考えてきたこと、主張してきたことを引き 受けてきた世代でもある立岩さんや私がそのあと質問やコメントをさせてい ただきます。そのあと、できる限り、多くの院生の皆さんからも積極的に栗 原先生に質問やコメントをしてもらい、活発な議論・討論ができればと思っ ています。せっかくこのような小さな規模の研究会で直接やり取りができる 状況にありますので、相互の直接的なやりとりを基本にして進めていきたい と思っています。だいぶ時間を費やしておりますので、それでは栗原先生に お話しいただきます。先生、どうぞよろしくお願いいたします。  歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く ◆出来事/身体 ◇身振りとしての出来事 (栗原)今ご紹介いただきました栗原彬です。突然『歴史のなかにおける問い』 という課題をいただき、率直に言って用意がないものですから、わりと雑多 な話になってしまいますが、どうぞご容赦願います。この『歴史のなかにお ける問い』という問いは大変な問いですね。つまり『歴史についての問い』 ではなく、『歴史のなかにおける問い』ということです。とすると、それは 何事か自分史にかかわらざるを得ない、ということになります。ですから、 そういう歴史と自分史の交差するところで立ち上がってくる出来事があるん ですが、それはたぶん歴史の呼びかけというふうに言っていいと思うんです けれども、この場合の歴史というのは単一ではない。極めて多層的な歴史で すから、その呼びかけもまた多層的になっていく。そういうたくさんの呼び かけの中から自分がその呼びかけに応答するということがある。  つまり私にとってそれが出来事として歴史の中にあらわれてくる。それが 出来事であるということはかなり大事なことでして、出来事というのは自分 の身体とかかわっていることなんですね。単なる情報じゃない。その出来事 というのは記憶と結びついていて、繰り返し、出来事が自分の内側で反復さ れるわけです。これはもちろん状況の中で反復されるわけですから、たとえ ば 10年前に同じ出来事を想起する。また、10年後に想起する。2つの想起 は同じものではない。たぶん同じような出来事ではあるんだけれどもそれが 状況の中で書き換えられていくっていうことですね。多くを思い出すことに よってまた書き換えられ、書き加えていったりもする。そういうふうな出来 事をとらえるということになると思う。この場合に出来事というのは、アガ ンベンの言い方を借りればこれはイメージではない。イメージじゃなくて、 身振りであるということ。つまり身体性をともなうということであり、そん な出来事が僕の中にある。 生存学研究センター報告 ◇集団疎開と『良寛さま』  最近その想起が激しくなってくるので、そのことをまずお話しようかと思 っているんです。それで、こんなことがありました。かつて岩波書店から薄 っぺらくて大判のニューズレターのようなものが出たことがあるんです。読 書関係の記事をのっけるパンフレットで、ある号で、「人生の中の一冊の本 をあげろ」といわれたんですね。人生の中の一冊の本といわれても簡単に挙 げられるわけがないし、そういうものがあったとしても絶対に言いたくない という気持ちもあったんですけども、私は正直にその本を挙げたんです。そ れは私が若いころに読んだマルクスでもないし、サルトルでもなくて、相馬 御風の『良寛さま』っていう本なんですね。これは子ども向けに書かれたも ので戦前の出版なんです。和紙で作られている美しい本でした。その中には 挿絵の写真が載ってるんですね。良寛の伝記と巻末に良寛のうたが載ってい る。その本は私が集団疎開をしたことに結びついている。私は 1936年生ま れですから、戦争も終わりに近づいたころ、集団疎開で赤城山のふもとに集 団疎開したんです。その当時で言えば第 3師範の付属小学校、で、これは国 民学校ということなんですけれども、それの 3年生ですね。それで上野から 汽車に乗る。汽車に乗る寸前に、もと通っていた練馬の森の幼稚園の保母さ んが見送りに駆けつけてくださったのです。そのときに『良寛さま』を手渡 された。今でも先生が手を振ってて、汽車が駅を離れていく光景が焼きつい ています。その汽車の中で『良寛さま』を読んだ。子ども向けですし、活字 も大きいし、すぐに読んじゃったんです。とても大事なものをもらったって いうか、そんな感じがしたんですね。  さて、そこから先の話があるんですが、群馬県の赤城山のふもとに新里村 という村があって、今は桐生市に編入されたんですが、その新里の田舎の駅、 無人駅に着いて、集団疎開先が祥雲寺というお寺なんですが、お寺に先に 行っていた上級生たちがいるんですね。で、その上級生、5年生だったと思 うんですけどね、6年生だったか、定かではないんですが、その上級生たち が迎えにきてくれた。それで駅ではじめて対面するんです。向かい合いで列 を作って、挨拶をかわした。それで向かい合わせになった人たちがペアを作 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く る。で、上級生が下級生のリュックサックやなんかを持って、みんなでお寺 に行く。だからペアになったもの同士が話をして、「君の名前なんていうの」 とかそんなことを聞きながらお寺に行くわけです。私と一緒に並んだのは岡 村さん、というひとでした。級長同士が先頭ですから、その岡村さんと一緒 になって、歩き出したとたんに、岡村さんが「君、何か本持ってる ?」って いうんですね。本が好きなひとだったんです。すぐに、今まで読んでいた本 ですから「『良寛さま』って本を持ってます」っていうと「僕に貸してくれ ない ?」っていい、それから岡村さんと非常に親しくなったんです。彼との 間で『良寛さま』が行ったり来たりして、くり返し、『良寛さま』を読んだ。 その本が置かれていた状況は、と言えば、当時は戦争中でしょう、私が住ん でいた練馬区でも焼夷弾が近くに落ちてて、大きなすり鉢状の穴が空いてた り、それでひとが死んだとも聞いていて、それから私が学校に通っていたと きでも電車が止まって溝に伏せる、機銃掃射があったりする、そういうすさ まじい状況ですね。戦争も末期ですし、東京への空襲もあって、もちろん地 方へも空襲だらけだったわけですけれども、そういうような状況から逃れて 集団疎開に行ったんですね。しかも集団疎開先っていうのはみんな飢えてい る。  こうした状況の中で、集団疎開というのが私が集団生活を経験した最初で はあったんだけれども、二度とやりたくないすさまじいものですね。もちろ ん楽しい面もあるわけですがお互いに傷つけあうことが多い。そういう中で 『良寛さま』を読んでいくとこれはある意味別世界であるわけです。それが 岡村さんとの間で往復して。岡村さんとの、私にとってお兄さんにあたるよ うな関係ですよ。その岡村さんが、不意に消えた。戦争が終わる、終戦の詔 勅がラジオで流されたんだけど、そのとき岡村さんはお寺にいなかったんで すね。というのは彼は肺結核になって前橋の病院に。みんなが気づかないう ちに。つまり戦争がもう終わっちゃったっていうことで、みんながそれぞれ に自分の家に帰るのを待っている、その間に、その敗戦の日からそんなに時 間が経ってないうちに岡村さんが亡くなったという、知らせを受けるんです。 私は本当に呆然としました。一番親しかったひとが突然消えて、死んだって 生存学研究センター報告 いわれて。そして僕の手元には『良寛さま』が残った。だからその『良寛さ ま』という本は岡村さんの温もりを残していて、二人の間で行き来した、こ の場所ではない、何か暖かい別の場所なんですね。それはなんといえばいい のか、良寛さまの世界が共有されていたんだけれども、そういうものが私一 人に残されるわけです。これは私にとって大きな出来事だった。岡村さんと 出会ったということと、岡村さんが亡くなったこと。  私はそれから以降、いくつかの小学校を転々とします。集団疎開先で一緒 だった仲間とその後あまり会うこともなかった。たまたま偶然にあうことも あったけれども。しかし、その祥雲寺というお寺に行ってみたいという気持 ちはずっとあった。それでその機会が訪れた。足利の若い友人が車を運転し て私を祥雲寺に連れて行ってくれた。もうそれは廃寺に近かった。だけどお 寺は変わらず古いままに残っていた。そのお寺の境内に立つと、大きな木が あった。見覚えのある木です。その庭のこちら側に身代わり地蔵が二体立っ てる。対の像で、それも残っていました。しばらくそこにいた。それから何 度か私はそこに行くんですが、そのお寺の畳敷きの本堂で使った朱塗りの長 い座り机、そこでみんなが向かい合って勉強したり食事をしたりする、その 長い机が外に放り出されていました。本堂の中は蜘蛛の巣が張っていてひと がいない。お寺の住持はもう出てしまっている。お寺はもうこれ以上続かな いんだという。近所のひとが管理している、そういう状態だった。その場に 立つということ。そのときに大きな木の下に子どもが立っている。幻視です けれども、そういうものを私は見た。それは岡村さんのようでもあり、自分 のようでもある。 ◇「長崎の少年」  こういう光景が、私が何かいろんなことを考えていくときにくり返し出て くるひとつの記憶ですね。そのことを再現させられたのが皆さんのお手元に ある写真「長崎の少年」なんです。これは私が「共生論史」の授業の中でテ キストとして取り上げてみんなにも読んでもらったものなんですけど、ご存 知の方も多いと思いますが、簡単に説明しますと、ジョー・オダネルという 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く アメリカのその当時 23歳の従軍カメラマンが、戦争が終わって、原爆投下 から 1ヵ月も経たないうちに、佐世保から上陸します。そして原爆を落とし た長崎で米軍の命令で写真を取りまくる。8月 9日の長崎の原爆投下から 1 ヵ月と経っていない 9月初旬の時期ですから、その少年の足元に穴が見える と思うんですが、これは焼き場です、即製の。即製の焼き場に死体をリヤカ ーに積んできて、焼きにくる人たちがたくさんいたんですね。それで穴の中 ではマスクをしたたぶん役人なんでしょう、何人か死体を焼く仕事をしてい たんです。それを丘の上からオダネルが見ていた。そしたら赤ん坊を背にお んぶした少年がやってきたんです。  少年は焼き場のふちに立って、直立不動の姿勢ですね、直立不動の、気を つけ、の姿勢です。こういう姿勢をじーっと保っていたんです。オダネルは 非常に奇異に思って丘を下りていく。それでこの写真を撮ったんです。穴の 中で働いていた作業員たちがこの少年のそばに行っておんぶ紐を解く。おん ぶされて眠っているように見える子ども、弟か妹かはよくわからないですが、 多分弟らしいこの子を穴の中へ抱えおろして、火をつけるんですね。それで はじめてオダネルはああ、このおぶわれていた子どもは死んでいたんだって わかるんです。その間この少年は直立不動の姿勢を保って、弟が灰になるま でじっと見ている。弟の火が消えると、少年はくるっと背中を向けて、その 場を振り返ることなく立ち去った、という。オダネルにとってはこれは非常 に記憶に残る出来事となる。23歳という年齢を考えてもそうなんでしょう けれども、若者がある一瞬に他者と出会って、しかもファインダーをのぞい て、この一枚を撮ったということです。無数の写真が撮られているんですが、 彼の中でもっとも大事な写真になる。オダネルはその後、日本を訪ねる。ず いぶん経ってですけれども。この少年を探すんです。しかし探せなかった。 何度か足を運ぶんですが。今年になってからこのオダネルが亡くなったとい うニュースが小さく新聞に載っていました。  「長崎の少年」の直立不動の姿勢を巡って、院生たちに考えてもらったり 議論したりしたわけですが、これはもちろん天皇への敬意を表す姿勢、です。 これは公的な場面での公的な儀礼と関わっているひとつの姿勢です。これは 生存学研究センター報告 天皇制のハビトゥスでもある。しかし、オダネルの言うように、戦争中の軍 事教育はすごいもんだ、幼い少年に直立不動の姿勢を焼き付けたじゃないか という、しかしそれだけで済むのか、ということです。この子は弟の弔いに 来ている。弟の弔いという私的でありながら公的なものの立ち上げに。この 少年は自分の立ち方を選んだ。その立ち方は教え込まれた直立不動の姿勢で しかあり得なかった。弟への敬意を表す姿勢というのはほかに持ちようがな かった、だとすると、仮に直立不動の姿勢というのは皇国少年のハビトゥス であるとしても、そのハビトゥスというのは、単純に天皇制教育の反映であ るというだけではなく、そのハビトゥスのなかに、せめぎあって、交錯して、 激しく戦いあっているものがある。それは、ひょっとしたら天皇性国家に対 する対抗性というか、異議申し立てすら含んでいるかもしれない。せめぎあ うものがあるとすれば、それは少年の、この結んでいる真一文字の口とか、 あまりにかみ締めたために血がにじんでいる唇とか、それからこの目の曇っ たようす、たぶん必死にこらえている涙の目などに現れている。そうすると ブルデューが提起した平べったいハビトゥスの概念は書き換えなければなら ない。  「長崎の少年」を私が見たときに、「あ、私がいる」というふうに思ったん です。実際この少年は 10歳くらい、とオダネルは見ています。わたしの歳 に近い。更にこの坊主頭、それから着ている服とか、半ズボン姿ですね、そ れと、弟をおんぶしていたり、死が近くにあった、こういうことがまさにこ れは私自身である、といえるのです。映像の中に出来事性が立ち上がってく る。どうしてか。それは、この少年は私でもありえた、という感覚です。見 た瞬間にそう思った。初めてこの写真を見たのは 1995年ですから、戦後 50 年です。戦後 50年に、坊主頭で集団疎開した少年と「長崎の少年」が重なった。 それはイコンでもあり、身振りとしても私の中に在る。その後いくつもの戦 争や、難民キャンプの映像の中に、「この少年は私でもあり得た」という身 体感覚が甦ります。それは私の身体をメディアとした歴史の身振りではない のか。 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く ◆歴史のなかにおける問い ◇暴力への問い  私は、東大の教養学部の教養学科、国際関係論で学びました。国際関係論 で勉強しているときに江口朴郎さんというすごい先生がいた。西洋史の先生 で、国際関係史という授業をもっていらっしゃった。その先生がくり返し言 われることがいくつかあって、彼の講義の中で例えば第 2次世界大戦につい て語る。そのときに、ファシズムか、それとも自由主義の国か、というよう な見方ばっかりしていてはだめなんだ、といわれる。たとえば中東の視座か ら第 2次世界大戦をとらえる。そういうふうな見方が必要なんだとくり返し 言われる。それからその先生がたとえばカントの『永遠平和のために』を講 義されたし、その画期性を説かれている。その当時『永遠平和のために』を 読んでみたけれど、全然なんともないわけですね。私にとって。でもカント のすごさっていうのは後にわかってくる。そういう江口先生との出会いとい うのか、教えがあった。国際関係で勉強したことで自分にとって意味があっ たのはそういう江口先生との出会いを通してですね。  そういうことが、例えば『良寛さま』というあの本が自分にとっての一冊 の本だというふうに、言えるようになってくるということとどこかで接点が あるのでしょう。だからそこを平和への問いなどと言いたいところですが、 実際はそうではないのです。平和をむしろ妨げるものについて、それを正す ということ、その暴力への問いというか、むしろそういうことが私には当時 の問題意識だったですね。それで、60年安保闘争にかろうじて引っかかった。 私はかなり安保闘争については勤勉だった。セクトでもなんでもなかったけ れども。駒場から代々木公園に集まるんです。そこからデモンストレーショ ンをやる。国会近辺にデモをかけるんです。代々木公園に集まって行くとい うときに人数が少なくても私はいましたからね、だからたいていはデモに行 ってるんです。そのなかに樺美智子さんがいた。樺美智子さんもとても勤勉 な人で、ほとんどのデモが一緒なんです。彼女とスクラムを組んだこともあ ります。そういう意味では体温を感じるという同志的な関係の中で、言って 生存学研究センター報告 みればひとりよがりではあるんだけれども、そういう闘いに共に出ていった。 その樺さんが殺された。近い人が消えてしまった。樺さんは特定のセクトに 入っていました。だからその意味では遠さ、ということもあるんですね。わ たしはセクトでも何でもなかった。スクラム組んでわっしょいわっしょいと いってやるジグザグデモが大嫌いで、それが始まると外へ出てしまうという 日和見ですけれども、樺さんはそうじゃないですね。だからそういう意味で は遠い人でもあり、かつ近い人だった、その人が突然殺される。それでここ で、「私でもありえた」が出てくるんです。こういうことがくり返しくり返 し出てくるわけですね。樺さんの死というのは私にとっては忘れがたいです。 樺さんの死は、平和のために戦った闘士の死なんていうものではない。もっ と身近な、身近であって私は尊敬してた人ですが、そういう人が死ぬという ことは、あとから合理化したのかもしれないけれども、岡村さんの死という こととつながって見えてくる。これが一つです。 ◇水俣からの呼びかけ  それからもう一つは、その当時水俣からの呼びかけがあったんですね。だ けどこれは恥ずかしい話だけれど、私の中には入ってこなかったんです。出 来事として、身振りとして入ってこなかった。水俣のことはメディアが報じ ていたことは明らかです。私はたとえば水俣病の原因物質についてマンガン 説を唱えて、有機水銀説は間違っているという、東京工大の教員の論文が載 っていて、それを読んだ記憶があります。そういう水俣関係の記事というの は、その当時安保が前面を占めていても、載ってはいたんです。三井三池の 記事も載っていた。だけどそれは私の中に入ってこなかったんです。呼びか けを聞き落としている。それは素通りしている。私は安保で目が一杯だった、 ということになるんだけれども、しかしこれは私が感受性を欠いていた、と いうことです。  後に、1969年に石牟礼道子さんの『苦海浄土』が出ました。第五章の中に「さ まよいの旗」という節がある。それは安保のことを取り上げている。安保改 定阻止国民会議が全国で組織されて、水俣でもそれが組織されて、安保改定 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く 阻止水俣共闘会議が組織された。それでチッソ水俣工場の隣の水俣第二小学 校の校庭で集会を開く。4000人が集まったというんですね。安保反対を唱 えた。その 4000人のうちの 3000人がチッソの工場の工員なんです。1000 人が水俣市民です。その 4000人が気勢を上げて安保反対、とやって、さて デモに移ろうとして小学校の門を出るんです。すると出会いがしらに漁民た ちのデモとぶつかる。水俣病の原因がチッソにある、チッソの工場排水の垂 れ流しにあるということは、当時は公認されていなかったにせよ、漁民たち にははっきりしていた。それで、チッソに異議申し立てに行ったわけですよ。 それですげなく追い返されて、300人くらいがデモというか、流れ解散とい うのかでとぼとぼとやってきたのです。大漁旗、船に掲げる、をめいめいが 持っている。小さなデモが安保のデモと出会いがしらにぶつかった、そのと きに安保のほうのリーダーが「みなさん、漁民のひとたちが安保のデモに合 流されます」といったんです。それで「みなさん、拍手でお迎えしましょう」 といったわけですね。それでみんなは拍手したんです。そしたら照れくさそ うに漁民たちが 4000人の中に飲み込まれていった、というんです。そうい った光景を石牟礼さんがとらえている。石牟礼さんはそのときになんでこの リーダーは、「みなさん私たちも漁民のデモの参加しましょう」っていわな かったのか、と思うんですよ。これは感受性の問題でしょう。  だからわたしもまさにリーダーと同じだったんですね。そういうことが 1960年の安保を巡って自分の中に起こったことでした。そのとき、私は迷 っていましたけれども、就職を一度決めるんですね。商社に就職して会社に 行きだした。だけど結局 4ヵ月でやめるんです。商社の上司から「商社とい うのは人付き合いだ。人付き合いが勝負だ。だからそんなボサボサの頭では なくて、ポマードくらいつけて来い」といわれたんですよ。その当時は柳屋 のポマードくらいしかなくて、それがいやなにおいがする。思い浮かべたと たんに「私はやめます」と言ってしまったんですね。  それでやめて、半年研究生で置いてもらったあと大学院に行くわけです。 この時期に、エリクソンのアイデンティティ論を読んだんです。ハーバード 大学の大学院に留学中の友人がいたんですが、ちょうどエリクソンがハーバ 生存学研究センター報告 ードで講義をしていて、彼女がエリクソンの出たての本にサインをもらって、 それを送ってきてくれた。とんでもない時期にとんでもないものを読んだん です。それですっかり混乱した。しかし、アイデンティティという考え方を 知ることができた。 ◇民衆レベルの国際関係  大学院に戻り、取り組んだのは「大本教の国際交流」です。大本教という のはご存知でしょうか、明治 25年に開教した新宗教です。この宗教は京都 府の亀岡と綾部に聖地がある。福知山に生まれ育った出口なおというおばあ さんが神がかりして開教する。それからかなり年が離れている若い宗教者の 出口王仁三郎、当時は上田喜三郎といって、後に出口家に入るんですけれど も、そのおばあさんと、まあ青年というにはもう年長で、いわば引き延ばさ れた青年期を生きていた若者の、そういう 2人が出会って大本教を作ってい く。  これはとてもおもしろい宗教です。この宗教の面白さを知ったのは梅棹忠 夫さんの『日本探検』という本なんです。そのなかに大本教の記述があった。 戦争中に世の中の立替え立直しと平和を求めて、それで不敬罪にあたるとし て弾圧を受けた。大正 10年、昭和 10年と 2度の大弾圧を受けるんですね。 獄に投じられても獄中で転向をしなかった。共産党員はずいぶん転向したけ れども大本教の信者の転向は少なかった。だから信者が拷問されて当時亡く なった人がたくさんいた。  戦後、大本教は復活して平和運動を進めました。その当時の私の考え方と しては「民衆レベルの国際関係」、これをやりたい、これは安保闘争の中心 軸でもある、それがありました。明らかに国際関係を踏まえた上での安保闘 争だったんです。だから「民衆レベルの国際関係」、といった問題の立て方 もあるのではないか、それでそこに大本教を持ってくる。大本教はエスペラ ンティストです。国を超えてよその国の新宗教と手を結んだ。よその国の新 宗教も、すべて大きな宗教から弾圧を受けている。時の権力から弾圧を受け ている。そういうような宗教ばっかりですね。それで横に手をつないで権力 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く と闘った。  そんなことが見えてきて、大本の本部に泊り込んで、毛布一丁借りて、ず っと資料をあさって、大本の人たちと話をしたり、それがわたしの最初のフ ィールドワークですね。その当時、大本教を主題に修士論文を書くというこ とに指導教員からものすごく反発を受けて、そんなくだらないものを論文に 取り上げるのだったら、私はもう面倒は見ない、と言われて、面倒を見ても らわなくてけっこうですとか言い、喧嘩しながら書いた。  だけどその指導教員がとてもいいアドバイスをくれた。それは僕の勉強し たいことを聞いていて、だったら社会学の高橋徹氏の授業を聞きに行ったら どうだろうかといわれたんですね。高橋先生の講義を聴いて、はじめて社会 学ってこんなに面白いものか、と知りました。そんなこともあって修士の論 文を書いた直後くらいに、結局大本教で書いちゃうんですが、ニューヨーク のコロンビア大学の大学院に留学するんですね。  そのとき実はわたしはライト・ミルズのところで勉強したかったんですね。 しかし、そのための勉強をしているときにライト・ミルズが急死する。彼は アメリカを批判しまくっていた男です。コロンビア大学に行く理由を失った。 それでも、高橋先生はハーバードよりコロンビア大の社会学の方がいいよ、 と言われる。たまたま、その高橋先生がコロンビア大学にしかも同時期に留 学されるんですね。それで、高橋先生と一緒にコロンビア大学で、先生と机 を並べて勉強することになる。高橋先生と私は、10歳くらいちがうんです けれども一回り上の先生ですね。 ◇ニューヨークにて  当時のコロンビア大学の社会学の大学院というのは、その中心が中範囲の 社会理論を唱えたロバート・マートンなんです。あとエマニュエル・ウォー ラステインとか、テレンス・ホプキンスといった人たちがすごく若い。まだ 若くてワールドシステム論をやる前の人たちですね。2人は共同して、比較 政治社会学のものすごくいい授業をしていました。それからホアン・リンス っていう政治社会学者もいた。ホアン・リンスは比較政治の講義を始めたば 生存学研究センター報告 かりで、スペイン語なまりのひどい英語を話していましたけれども、力のあ る授業をしていました。こういった人たちからものすごく刺激を受けました ね。  後には、ティーチ・インが起こる。ティーチ・インというのは、ベトナム 戦争是か非かという問題が中心なんですけれども、アメリカ社会と権力シス テムそのものに対しても、学生反乱が起こってきます。黒人たちの異議申し 立ても進行してきます。そういう問題を巡って大学でのティーチ・インやカ ーネギーホールでのシンギング・インなどが開かれた。『いちご白書』をお 読みになるとその当時の雰囲気がよくわかりますけれども、そういう真っ只 中に入っていったんですね。高橋先生もそれから私のパーソナルアドバイザ ーのハーバード・パッシンという日本研究の社会学者も、口をそろえて参加 観察法を説かれた。当時支配的だった構造機能分析へのアンチテーゼですね。  ある日、ニューヨークの 5番街で反戦デモをやってた。それに私も参加し た。コロンビア大学の学生もみんな参加した。通りを歩いていると「レッド チャイナ、ゴーホーム」とか言われて、卵をぶつけられたりするんですね。 そのときに私はかなりムッとしたんですが、「アイムジャパニーズ」と言い 返してしまうんです。そういいながら、自分の中のナショナリズムというの があるのかな、なんて思いました。そういうやり取りをしながらデモンスト レーションしてたら、「栗原がんばれ」って日本語で聞こえたんです。えっ、 と見ると高橋先生が沿道に立って手を振っている。つまり先生はデモを観察 してるんですね。参加観察法というけれど、あれ、おかしいな、参加してい るのは私で、観察しているのは高橋先生で、これはどういうことだろう、と いうことですね。そういうおかしなことまで含めて、1960年代半ばにティ ーチ・インのような活動があった。 ◇べ平連、学園闘争  それは同時に日本で言えば 1965年に、べ平連(ベトナムに平和を !市民 連合 64-74)が出発します。それで最近亡くなったけれども小田実がその 主導をする。このべ平連というのはすごく大事な組織論、組織的でない組織 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く 論を持っていました。この指止まれ方式なんですね。自分がやりたい人がや る。ある役割、例えば会計係の役割を固定すると、そこに必ず権力が付着す る。だからそういう役割はローテーションでまわすことにする。それから運 動体の本部を作らない、だから神楽坂のべ平連の事務所は本部ではなかった んです。連絡場所である。それに徹したわけです。  それから、身体を動かすということですね、運動とは、身体を動かしてや ること、口先ばっかりではだめだということですね。それからあと、組織論 として言えば、要するにツリー型、ピラミッド型ではなくて、リゾーム(地 下茎)型である。その当時、クリストファー・アレグザンダーというアメリ カの西海岸の建築家が都市論・建築論として言い出した。ちょうど 60年代 半ばくらいに、そういうネットワーク型の活動体を造ったんですね。  ですから、課題が達成されたら止めることも大事だということで、幕引き をきれいにやったんです。そういう不思議な組織体が活動していた。たぶん それにちょっと似ているようなヤング・ラジカルズの運動を私はアメリカで 経験している。だから日本に帰ってからべ平連を調べればそういう新しい活 動体のことがよく自分の中でわかってきたんですね。  日本に帰ってみるともうすぐに学園闘争に巻き込まれていくんです。私の 指導教員のいる国際関係論へ一度戻ったんですが、関係は悪化するばかり。 私はエリクソンのアイデンティティ論に導かれて「歴史における存在証明を 求めて」という論文を書きましたが、その発表形式をめぐって、私には理不 尽と思われる指導教員の要求を拒絶したために、国際関係論を追放されるよ うにして、社会学研究科に、高橋先生のゼミに転出しました。 ◇学問の位置  その頃学園闘争に遭遇するでしょう、あらゆる権力とか権威とかそういう ものへの疑いということが学園闘争のポイントですからね、それで第一に、 社会学について言えば社会学のふり幅というものがものすごく広がる。なに を対象にしてもいい。だから私たちが一緒に学園闘争に関わった例えば今防 人という社会学者がいますけれども、彼なんかはジョルジュ・バタイユ論を 生存学研究センター報告 書いていますね。ジョルジュ・バタイユ、今だったらちっとも不思議と思わ ないでしょうけれども、その当時では考えられないことだった。社会学の中 でそういった思い切ったことができる、雰囲気が生まれたんですね。  それからもう一つは、その関係が問われた。 「歴史と学問との共振」という、 『何のための学問か』、というストートン・リンドの有名な本がありますけれ ども、学園闘争の中でみんな読みました、その当時。つまり学問ということ と実際の生きている現実とのその関係というものはどうなのか、そういう問 いです。 ◇多様な政治  それから、二番目は私たちは多様な政治を学んだということですね。つま り政治といえば安保闘争のときの敵の政治です。だから統治や支配しか政治 と思っていなかったのです。  学園闘争のころに立教大学の助手になります。シニアの専任教員と組んで 2人で担当するゼミ形式の 1年次生向けの基礎文献講読専任の助手なんです が、教える義務がある。そういう特異な助手です。そこから立教大学の教員 になっていくんですが、立教大学に迎えてくれた法学部のスタッフの中に、 政治学関係の教員たちがいて、その中にべ平連の中心だった人たちがおられ た。政治学者の高畠通敏さん、中国政治思想史・中国政治研究の野村浩一さん、 それから『近代日本の精神構造』の神島二郎さん、みんなべ平連やってた人 たちですね。その人たちが私を迎え入れてくれた。私の希望を聞いて、政治 社会学という科目を新しくつくって下さった。そこで、法学部の中の政治関 係の科目として政治社会学を持つことになったんです。  そういう中で高畠さんの影響はずいぶん受けましたね。高畠さんは「思想 の科学」の事務局をやっていた人で、それに 60年代半ばからべ平連の活動 が始まる、そういう中で政治というのは例えば統治だけではないんだという ことが明らかになってくる。政治には階級闘争まで含めて闘争、という側面 があります。それから政策という側面。もう一つは自治です。自治、これは 市民主体の政治です。そういうものが多様に自分の中で開けてくる。しかも 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く これは学園闘争と関わっている。立教大学でも学園闘争が起こります。法学 部の教員たちは学生の言い分に理を認めていた。だけど学生が校舎を占拠す る。占拠されてもかまわないんですけれど、そこにセクトが入る。セクトが 入り込んできて肝心の立教生が消えちゃった。そういう状況の中でも、警官 隊を導入してセクトを追い出すっていうことをしなかった。それで高畠さん とか、神島さんたちがヘルメットをつけて、自ら乗り込んでいって解体した んですね。それは言ってみれば自治、というふうにいっていいでしょう。そ ういう学園闘争の経験の中に私もあったということになるんです。 ◇コミューン  それから三番目にその当時いくつかコミューンに行きました。岸田哲さん という今はあじさい村というコミューンに住む人が、私たちを連れて行って くれたんです。いくつかのコミューンに行きました。学園闘争で挫折した人 たちが集まって、若者のコミューンをたくさん作ったんです。その中にはほ んとうにコミューンとして鍛え上げていくコミューンもあったけれども、多 くが学園闘争崩れの男の子だけがだいたい集まるんです。コミューンができ て、まず理論的な総括をしようとかいうわけ。そんなのでコミューンが成り 立つわけがないですね。それからお金の問題が起こります。私たちが見に行 った神奈川県の厚木の振出塾でもそうでしたけど、昼日中にごろごろして寝 転がっている男の子がいる。一方、土方仕事をやって日雇いの仕事をやって、 日銭を持って帰るやつもいるんですね。一方でごろごろしているやつがいて、 他方で必死になって働いているやつがいて、そういうところで金の問題が起 こるのはある意味で当然ですよね。それから男が多かったのですが、そこに 女性が入るとペアが生まれる。そうするともう分解しちゃうんですね。金と 女でつぶれる。若者のコミューンが多くつぶれていく、ということまで含め てコミューンを見せてもらったんです。 ◇大本教  それから第四に、再度私は大本へコミューンを求めて行くんですね。大本 生存学研究センター報告 というのはわけがわからない宗教です。まして一方でアイデンティティ論を 勉強するでしょう、しかし、大本のアイデンティティなんて全然わからない ですよ、めちゃくちゃですよ。ファシズムかと思えばアナーキズムも社会主 義もあります。ナショナリスティックであるかと思えば、コスモポリタニズ ムで、エスペランティストたちが多いのです。他方では国粋主義者もいる。 ほんとうにわけがわからない。しかし、大本教は楕円の二つの焦点を持って いる。それは出口なおという開祖と、それから後から入った出口王仁三郎と いう、2つの焦点ですね。  2人は全く対照的な性格ですね。なおはものすごく厳しい、謹厳実直、正 義の人です。王仁三郎の方は春風駘蕩っていうか、ある意味でかなりいい加 減な人ですよ。愛の人と言ってよい。そういう 2つの、2人の楕円の焦点を 持っているような宗教です。「建て替え建て直し」ということが教義です。 もう一つありますね、「万教同根」という、よろずの教えが一つの根から出 ている、という教えですね。だからみんなが、すべての宗教があるいは思想 が、平等で、仲良くしなくちゃいけないという考え方です。ですから平等主 義と平和思想ですね。建て替え建て直しの教えというのは「高山をひっくり 返す」という比喩でいいますけれども、天皇制機軸、天皇制のツリー型の構 造をひっくり返さなければならない、という教えなんです。反天皇制という 点で筋は通っているんですね。だけど例えば白馬に出口王仁三郎が乗って信 者たちを閲兵するといった怪しげなことをやるわけです。政治体制にある意 味で擦り寄る、だけど擦り寄って行きながらもそれを内側からひっくり返す という構図ですね。そういうことがようやく見えてきました。ものすごく矛 盾してる、いろんなものを孕んでいる。だけどより共生的な社会への立替え 立直しに真っ直ぐ向かっていく、そういう宗教であることが再度訪れること でよくわかった。  だけど同時にその問題は大本という宗教内部の現実の問題でもある。つま り、ツリー型の組織を志向する権力派が大本の教団を牛耳るようになるんで す。それに対して若い人たちが反旗を翻す。異議申し立てをする。私も大本 に足を運んでいる間に若い人たちと親しくなっていって、昔の大本のことな 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く ら私の方が断然詳しいわけです、若い人たちに大本の原点について語る機会 がふえました。そのうちにみんなが栗原教なんていいましたけれども。そう いう若い人たちの教団改革ということと関わりをもつようになる。大本だけ ではない。いくつもの宗教で、1968年を起点とする宗教改革が進行しました。 ◇水俣  既成の価値を問い直す状況の中で、水俣とのかかわりが初めて出てくるん ですね。石牟礼道子の『苦海浄土』を読んだことがきっかけです。学園闘争 の中で、水俣病問題に取り組んでいる学生たちがいたんです。学園闘争と 70年安保に取り組んでいる時に、水俣病の問題で集会を開く、そのことは 若者にずいぶんと刺激を与えたと思いますね。立教大学の教員になってから 1970年代後半に水俣の実践学校に参加しました。若い人たちと一緒に。そ のときのこと、実践学校に参加している人たちは若い支援者が多かったので すが、その人たちが坂本しのぶさんのところに寄ったとき、カメラの放列を ひくんです。当時のカメラって音がするんです。しのぶさんがパシャパシャ パシャ音をたてる中に立ち尽くすというか、座りつくすというか、さらし者 のように見えてきたんですね。いたたまれないで森永都子さんとその場を出 たということがありました。このことを、患者さんたちは密かに支援公害な んて言っていたらしい。集団としての支援はすまい、という私の気持ちが決 まった時でしたね。自分の立ち方が最初に水俣に行ったときにそういうふう になってしまったのがいいことか悪いことかわかりませんけれども。支援者 が集合体として立つなら、患者も「水俣病患者の皆さん」一般なんですね。 安保闘争の人たちが「皆さん、漁民の人たちが合流されます」って言った「皆 さん」に照応しているということです。支援者たちが水俣病患者の皆さんと いう。水俣病患者の皆さん、ひとグループですね。そうすると患者のほうも それに合わせて患者らしい仮面をつけるんです。患者として応対する。人が いい人たちですからね。  医者の原田正純さんと患者さんの家を訪ねることがありますが、そうする と、原田先生がいうんですね、「昔はね、水俣病患者をどうしても水俣病闘 生存学研究センター報告 争という目から見ていたな」と。もちろんひとりひとりの病状が違うわけで すから、そのひとりひとりを診るんですけれども、それでもまだ水俣病患者 という一組で見てたな、と言われるんです。ひとりひとりがようやくみえる ようになったって、原田先生がおっしゃって私はひっくり返る思いをしまし たけれども。 ◇ボランティア活動/市民活動  80年代に入ると、80年代の初めごろというのは、ボランティア活動と、 名前を持たない市民活動が合流しはじめる時期なんです。ボランティア活動 というのはたとえば日本青年奉仕協会、で、その名のとおりで、奉仕という 名称でいわれる。末次一郎という、在野のフィクサーが、戦後、日本青年奉 仕協会に拠ってボランティア活動を作ってきた。若い人たちのボランティア 活動がフィクサーであり、ナショナリストであり、天皇制主義者の末次一郎 によって形づくられてきた。他方で、福祉国家が解体してゆく 1970年代に、 生活防衛のための市民活動の基盤が作られてきた。これは市民運動とは違う んです。運動としてではなくて、市民活動として。ただその市民活動という 言葉もなかったんですね。そういう時代に市民活動がボランティア活動と合 流する。  先駆的な市民活動の一つに、奈良の「たんぽぽの家」という障害者の自立 の家があります。たんぽぽの家の理事長が播磨靖夫さんで、もと新聞記者だ った。奈良に障害者自立の家をつくって、アートと障害者の生との出会いを 企ててきた。80年代前半にそういう人たちとの付き合いがはじまる。私た ちはネットワーキング研究会を立ち上げました。ネットワークという言葉は リップナックとスタンプスという 2人の人たちの著書『ネットワーキング』 から取った。これは市民のネットワークによってアメリカの社会と国家を書 き換えていこうという壮大なプランです。  80年代のちょうど半ばくらいから、「ネットワーキング研究会」、「ネット ワーカーズ会議」、そしてその延長上に「日本ボランティア学会」を立ち上 げていった。10年ほど前、ですけれども、日本ボランティア学会が立ち上 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く がる。NPO団体が単位ではなくて、個人単位なんです。学会を立ち上げる とき、奈良で開いた準備会で、車椅子の障害者の方に「ボランティアなんて いらないよ」といわれたんです。ボランティアなんていらないよといわれて、 それでもなお、なぜ、私はボランティアか、という問いがつきつけられた。 ボランティア学会を設立総会の開会のときに宇井純さんが参加されました。 宇井さんは水俣で私のやってきたことはボランティア活動だっていわれた。 この言葉が若いひとたちをどれだけ励ましたことか。 生存学研究センター報告 ◆水俣―人間の政治 ◇水俣フォーラム 1998  80年代に水俣との関わりが具体的な形を取り出すんですけれども、その ことは時間の関係で省きます。水俣とのかかわりの中で、現在各地で水俣展 を開く活動をしている「水俣フォーラム」という集まりがあります。水俣フ ォーラムは税制上の優遇措置を得た NPOです。1998年から活動を開始しま した。私は代表を今務めています。  水俣フォーラムを作るときのきっかけになったことが、すごく重要だと思 います。それをお話しますけれども、1996年、これは水俣病 40年の年です。 1956年に水俣病が公的に記録された。それから 40年の 96年に「水俣東京展」 を品川の空き地で開いたんです。水俣病事件とは何なのか、を説明する映像 とパネルを作って、かなり大規模な展示会としてやったんですね。開会の前 夜に、「出魂儀」という儀礼を石牟礼道子さんや杉本栄子さんら水俣の人た ちを水俣からお呼びしてやる予定だった。出魂儀というのは魂を出す儀礼で す。これを言い出したのは水俣東京展の実行委員会です。その呼びかけに応 じて、石牟礼道子さんがこの出魂儀のプログラムを作るんです。そのプログ ラムによると白い装束をつけて儀式が行われる。日月丸っていう打瀬舟を水 俣から運びました。平底の漁船で、解体寸前の老朽船です。それに緒方正人 さんが水俣から乗って、品川沖まで乗り付けて品川沖から会場のその品川の 空き地に運んで雄大な帆を張った。白衣の患者さんたちがその打瀬船へ向か って歩き、火を灯していく。水俣から亡くなった患者さんの魂をそこにお呼 びする、とい儀礼です。そういう儀礼のシナリオが実行委員会に届いた。  そしたら実行委員の中にこういう宗教的なことに実行委員会は関わること ができないと言い出す人が出てきたんです。複数のそういう人たちが出てき た。それで実行委員会主催でこの出魂儀をすることがきわめて困難になった。 実行委員会がもし主催してやるならば、私たちは水俣展への協力から手を引 きますっていう人たちが出てきた。それは例えば物産部とかそういう重要な 部分を担っている人たちです。この人たちがやめたらもう水俣展は成り立た 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く ない。水俣展開会の寸前ですからね。実行委員会のなかで、これをどうしよ うか、と話し合って、激しい議論もあった。  いやこれは宗教じゃない、特定の宗教じゃない、新宗教でもないし、既存 の宗教でもないわけですね。私も含めて、宗教ではないという反論をしたわ けです。だけど、宗教で何故悪いという言い方もまたありえたでしょうね。 だからいろんな議論がそこにあったんだけれども、とにかく、市民たちの拒 否権発動ですよ。参加している市民の中のかなりの人たちが拒否権を発動し て、実行委員会が主催できないということになった。やむなく実行委員会の 有志が協力する、そういうことに落ち着いたわけですね。そのことを水俣の 人たちに伝えたわけですよ。石牟礼さんをはじめとして水俣病者をどれだけ 傷つけたことか。失礼でしょう、実行委員会がやってくださいとお願いして、 それで主催できない、という。言ってみれば水俣の人たちで勝手にやってく ださい、それに有志も協力します、という、今から考えるともうぞっとする ようなことを言ったんです。評議員の 1人としてそういう決定の場に私もい たんです。そのことは水俣病の人たちをすごく傷つけた。私も傷ついた。  1996年から 2年後、98年に水俣フォーラムを立ち上げたんですが、その 時に若い人たちが来て、代表になってくれといわれた。活動でその時に私が 真っ先に言ったのはこのことですね。このことをクリアーするような活動で なかったらやらない、といったわけです。水俣フォーラムはこの時期をどう いうふうにして自分の中で清算していくのか、自分を変えていくのか。そこ から水俣フォーラムが始まった。水俣フォーラムはその東京展だけでは終わ れないんだと。それで各地域で開いていくべきだと。各地域からのまた要望 もあったんですね。私はほとんどの地域の水俣展に出ているんですが、水俣 フォーラムに関わるようになってから、私自身にとっては 3つのことが自分 にとっての大きな出来事になるんです。 ◇水俣病展 2001年 10月  まず、自分の立つ位置を身体的に学ぶことが多かった、ということです。 2001年に水俣で水俣病展を開きました。患者の遺影も、500の遺影がそこに 生存学研究センター報告 展示される、そうすると自分のじいさんの写真が出ているわけでしょう。も う水俣病を忘れたいと思っている。そこに、じいさんの写真がある、出てい るということになると、その家が水俣病の家族だということをもう一回蒸し 返すことになるでしょう。だから「寝た子を起こすな」といういい方で、現 地でも反対があったんです。そういう中で、やっぱり水俣病展を水俣でやる べきだということについて、しっかり支えてくれた患者たちがいるんです。 その中心が緒方正人さんですね。遺影なしでは、水俣病展は成り立ちません から、例えばじいさんの写真が出るのがいやだという場合にはその方は展示 しない。黒い紙で覆う、という形で展示したんです。  準備会の席上でも、いろんなグループが集まったわけで、水俣病展に賛成 する人もいれば反対する人もいる。そういう中で緒方正人さんが言ったのは、 「自己紹介を肩書き抜きでしよう」ということでした。自己紹介をするときに、 自分がどういう団体に属しているか、とか、なんとか大学の教授だとか、そ んな身分とか肩書きだとか、そういうものはなしにしようと言ったんですね。 これはすごかったです。じゃあ緒方正人さん自身はなんて自己紹介するのか と思っていたら「女島の漁師です」っていうんですね。「女島の漁師の緒方 正人です」って。非常に簡明な紹介でした。それで私は何といったらいいの か困りましたね。何とか大学のというわけにいかない。それで政治社会学と いう学問をやっている栗原です、とそういうことにしたんです。冒頭の部分 から、そういうアイデンティティ抜きでやることで、ともかくも水俣病展を やるという方向へのまとまりが出てきた。 ◇水俣・高畠展 1999年6月  山形県の有機農業の里、高畠で水俣・高畠展を開いたことがあります。高 畠は今でこそ有機農業の里で知られていますけれども、1973年に有機農業 の研究会を立ち上げて少数のひとが有機農業を始めていた。それが時代の中 で低農薬の農業を認める仕方で広がりを持ってきたんです。学生を連れて 10年ほど援農合宿に通ったその高畠で、水俣展をやりたい。それでそれを 提案したときはずいぶんびっくりされたんですね。小さい田舎町だし、そん 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く なに人が来る筈がない、ということだった。高畠に住み着いた、元立教大学 の学生たちがいて、そういう人たちが何故高畠で水俣展なのか、その、何故 を問われた。その問いに私は答えられないんですよ。つまり反公害というこ とと、有機農業ということとは接点があるじゃないかっていったって、そん なことを言えばすべてに接点があるじゃないか、という。そんな無理な結び 付け方をしても説得力ないよといわれて、切羽詰った。それでもう半分ぼや きみたいなものですね、「水俣と高畠を結びつけるのは僕の夢なんだけどな あ」、といったんですね。そのときはそれで帰ったんです、ここでは水俣展 できないなあ、と思って。そうしたら若い人たちが、先生が僕の夢だって言 ってた、じゃあ夢を叶えさせてあげるしかないじゃないかっていって、それ でそんな思いがけない仕方で水俣展ができるようになったんです。私の夢な んだっていうの、これは本音ですよ。本音をぽろっと言ったら、正当化する 次元や理屈の上ではちっとも受け付けてもらえなかったことが実現してしま った。だから出来事として何かをやるときの自分の立ち方というのを、そん なことでずいぶん考えさせられたんです。  水俣高畠展に杉本栄子さんをお呼びしました。高畠の宿から市民ホールに 来ていただいたとき、タクシーを降り立った杉本栄子さんが、立派に舗装さ れているホールの前に立って、しばらくじーっと天を仰いでいるんですね。 それでいきなり私に「この下は何ですか」って問われたんです。この下は何 ですか、って、指差しながら。私は、その問いの意味が分からなかった。す ると私の隣に立っていた若者が言ったんです、「この下は田んぼです。美田 でした」と。その若者は、浅草に生まれ育ったんです。福島の大学で勉強して、 そこを卒業したときに、自分が生まれた浅草はもう路地がなくなった、路地 がなくなっちゃったところに自分は帰る気がない、と思った。それで福島県 から県境の峠を越えて、山形県に入った。しばらく歩いたら、「あっ、ここ に路地がある」って思ったんです。それが高畠の田園風景だった。路地とい うのは普通都市のものです。それが田舎でここで自分は暮らしたい、ここに 路地があるからって直感するわけです。それで畑仕事をしていた人に誰に相 談したらいいだろうか、と聞いて、有機農業家で詩人の星寛治さんを紹介さ 生存学研究センター報告 れる。星さんに、高畠町の町役場で働きながら農業を少しずつやっていった ら、といわれて、町役場の試験を春先に受けるために民俗資料館という場所 で一室に篭って勉強していたんです。そこで私たちが、彼と出会った。それ で彼は町役場の職員としてまさに水俣展の一角を担ったんです。その彼が側 にいて、「この下は何ですか」という問いに答えたんですね。「この下は、田 んぼでした」って、付け加えて「美田でした」っていうんですね。それを聞 いて私は問いの意味がわかった。杉本栄子さんが思い浮かべていたのは、水 俣の海なんですね。海の風景と、高畠の田舎が美しいでしょう、そういう田 んぼの風景を杉本さんは重ね合わせていた。だけどその田んぼがつぶされて、 近代的な舗装の立派な市民ホールの前の広場になっているわけでしょう。そ のことと美しい海が汚染されて、今でも見かけは美しいんですけれどそこに 毒を含んでいる、そういうことに重ね合わせているんですね。杉本さんは「や っぱりそうですか」って、言うんです。「だけど市民ホールも別な形でお役 に立つんですから」と言われる。これはもう杉本さんの優しさです。私は打 撃を受けっぱなしですよ。自分の感受性の問題がここでも出てくる。 ◇水俣病者たちのチッソとの自主交渉  水俣病者たちの、チッソとの自主交渉を取り上げてみましょう。1971年 に水俣病者たちはチッソの東京本社に乗り込んでいってチッソとの直接交渉 を始めます。川本輝夫さんがチッソの社長とやり取りする場面が記録されて います。そこで川本さんが面白いことを言い出すんですね。あんたの宗教は 何ですかって、社長に聞くんです。そうすると禅宗だけど、とかいうんです。 それで更にあなたの趣味は何ですかと聞くんですね。いやあ趣味なんていっ ても、読書くらいですと答える。そうすると、じゃあ読書ってどんな本を読 むんですか、どんな本が座右の本ですか、座右の銘は何ですかって、聞くわ けですね。あんたが読んでる本っていうのは、小崎さんや松崎さんの死と関 係がありますかって聞く。結局川本輝夫さんは社長の名でいるその人間に興 味を持っているんですね。その人の生き方にものすごく関心を持っているん です。ところが社長と取り巻きの幹部たちから返ってくるのは「お金はいく 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く ら差し上げたらいいですか」という話ばっかりなんです。人間への問い、生 き方への問いが一方で患者から発せられて、返ってくるのはお金の話ばっか りです。そのすれ違いがすごくよく記録されています。世織書房から『水俣 病誌』という題で、川本輝夫さんの言葉と書いたものが一冊の大冊になって 出ています。その中で、川本輝夫さんが「人間どげん生きないかんか」と言 っている。人間、どう生きなくてはいけないか、そういう問いがまさに発せ られた。自主交渉の極めつけの問いですね。私はこれが人間の政治なんだ、 と思ったんです。  政治というのは先ほど言いましたように、非常に多様です。システムの政 治だけが、つまり統治だけが政治じゃないですね。こういう人間の政治とい うのがある、そういう確信です。最初、私は市民政治というとらえ方をして いる。だけど水俣の人たちは水俣市民から足蹴にされているわけですよ。チ ッソをお前らつぶすつもりかと。チッソあっての水俣じゃないか、それをお 前たちが水俣病って言い立てることによってどれだけ水俣市民が迷惑をこう むっているか、というわけです。だから水俣市民として、水俣病者を非難し 攻撃するんです。それはもう直接攻撃ですよ。無署名のハガキで攻撃する、 家に火をつけられた人もいるんです、そういう水俣市民がいってみれば市民 政治をやってるかもしれない。それは例えば安保改定に反対する形かもしれ ない。環境問題と取り組んでいるかもしれないそういう市民でしょう。市民 のやってる政治に対して違う次元の政治があるんですね。そのことが、私が 水俣病者から教わったことです。  具体的な名前を挙げれば緒方正人さんと緒方正実さん。こういう人たちか ら教わることが多かった。正人さんや正実さんたちと人間の政治を求めてい こう、そういう言い方を彼らが納得しているわけじゃあないんだけれども、 ゆるい形でそういうものをつくろうよ、というその方向性みたいなものがあ るんですね。 ◇新作能「不知火」水俣奉納公演 2004年8月  石牟礼道子原作の現代能「不知火」の奉納上演が、2004年8月28日の夜、 生存学研究センター報告 水俣の埋立地で、薪能として行われました。チッソ水俣工場は、猛毒有機水 銀を含む工場排水を、百間港から不知火海にたれ流しました。その百間港に 鋼板を打ち込んで、その内側に、水俣湾のヘドロをバキュームで吸い取って 埋め立てていった。コンクリートづけのヘドロと、ミンチにした魚をつめこ んだドラム缶を埋めて、その上に土を盛って、芝生を植えた。木も植えられて、 一見、きれいな公園のように見えます。埋立地は水俣病の原点と言える場所 です。その埋立地で能「不知火」の奉納上演をやろうということになったん です。その前に、何度かワークショップをやりました。能なんて全然見たこ ともない人たちが多い。その人たちに能ってなにかを説明したり、なぜ奉納 上演なのかを語り合った。緒方正人さんが実行委員会の代表ですから、彼に 私が話を聞くという、対話形式のワークショップをやりました。この『魂う つれ』に掲載された対談が、ワークショップの記録なんです。人間の政治を 進めていく上でのある知の枠組みというか、そんなものが、これを読んでい ただくとたぶん見えると思います。そこにはいくつかの論点がありますけれ ども、ひとつだけ絞って言います。  2001年に水俣病展を水俣でやったときにちょうど緒方正人さんの『チッ ソは私であった』という本が出たんです。『チッソは私であった』とはどう いうことか。つまり、水俣病者は自分が被害者であると、思っている。だけ どよくよく考えてみると、自分が例えばチッソの職員だったら今のチッソと 同じようなことを言ったりやったりしてたのに違いない、だから私がチッソ であったという可能性というのは十分にありえるわけなんです。しかも今自 分は漁師であるけれども、船も、網も、みんなチッソがその原料を作っている。 だからチッソの生産を自分たちも助けていた、ということに思い至る。正人 さんはその時ほとんど自分が狂ったというんだけれども、狂った状態の中で、 チッソは私であったという認識に到達する。ふと思いついたなどというもの じゃないんです。気が狂うほどの極限思考をやっている。水俣病で狂い死に した父と問答する中で、そこに行ったんです。自分は被害者ばかりなのでは なくて、加害者でもある、という認識でしょう。  現場から患者自身がそういう考えにたどり着いた、それはすごく重要で、 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く このことは長崎でも広島でも被爆者たちが言っていることですね。小田実が べ平連の活動の中でも言ったことです。被害者と加害者は背中合わせになっ ているこういう現在の制度。緒方正人さんがそこへ到達するんです。プリー モ・レーヴィのいう被害と加害のグレーゾーン。裁判では被害者加害者とい う問題の立て方が必要です。裁判では区別を認めるけれども、被害者加害者 という二分法が人間の生き方の中でそのまま通用するのか、という問題があ る。裁判で勝ってお金をもらったらいいのかというところに水俣病問題が矮 小化されるのはいやだと。そういう土俵から抜け出したときに彼自身はここ に到達する。  だけど、それから先があるんですね。年月をかけて考え抜いてきて、この ワークショップでグレーゾーンをどう突破するかということを初めて彼が言 うんです。それは能の水俣奉納上演にチッソを共催者として呼ぶ、声をかけ るということです。チッソという加害者が加害者のままでいるということは、 他方では水俣病者も絶えず被害者であり続ける、双方がそういうアイデンテ ィティから免れないことになる。だけど自分は被害者だけではない。「おれ は人間だよ。患者だけじゃないよ」と。もっと別の人間もいるんだよおれには、 という。そうすると、別の人間を救い出すためにどうしたらいいのか。加害 者というアイデンティティをはずしてもらう、ということ。そうすると同時 に被害者であるということもはずれる。つまり肩を並べるということですね。 肩を並べてある共通の仕事に取り組むことで双方がアイデンティティを抜け 出すことができる。そのことを正人さんは、課題責任を共有すると言います。 課題を達成する責任を共有する。そのことによって加害者も被害者もないと。 そこに人間が現れる。加害と被害のグレーゾーンという現実を抜け出してい く仕方を彼は考えたんですね。そんなことが、この『魂移れ』の対話の中に 含まれています。読んでください。呼びかけと応答の中から人間の政治の解 釈枠組みっていうのかな、世界を解釈し行為する解釈行為枠組みと言えるも のが浮かび上がってきているように思う。 生存学研究センター報告 ◇生存の政治  それは、私は 3つあると思っています。  第一は、生存の政治。寝たきりの水俣病者がいます。寝たきりで転がって いる。私が行くと、じーっと見ている。だけど喜怒哀楽は表すことができる。 瞬きをすることができる。言葉を発することはできない。水俣病者は聞こえ ない声で何を言おうとしているのか。無条件に私を生きさせよ、といってい る。だから、お姉さんが、結婚しても夫とともにその子をずっと面倒を見て いる。それからある胎児性の水俣病者を、血のつながりがない水俣病者が面 倒を見ています。私を生きさせよっていう、切実な声は、生存の限界に達す るまでの社会的な排除の現場から発せられる。同時に今、市民社会の中にも、 生存の境界、生死の閾に近づいている人たちがうまれてきている。単純な社 会的な格差じゃないですね。例えばワーキングプアー、あるいは難民化した 若者たち。新自由主義の政治と地球市場化が導いたことだけれども、市民社 会の外にマイノリティが排除され、市民社会の内部にも排除される人たちが 出てくる。全ての人が明日は我が身です。雨宮処凛の『生きさせろ !』とい う本がある(太田出版)。その最初のところに簡にして要を得たメッセージ。 「生きていけるだけの金をよこせ。メシを食わせろ。人を馬鹿にした働かせ 方をするな。俺は人間だ」。「生きさせろ」っていう宣言ですね。  そういう市民社会の内部の新しい貧困層と水俣病の寝たきりの人たちが、 「生きさせろ」っていう、声を共有することで、つながりが出てきているん です。そこにまた一つの可能性が生まれてきています。つまり、人間の政治 の枠組みの第 1項は生存の政治学。市民政治と人間の政治のそのそれぞれに エッジがある。多数派の場所にも、少数派の場所にもエッジがある。そのエ ッジ同士が響きあうということがポイントになってくる。 ◇共生の政治  それから第二は、共生の政治ということ。私は共生論史の集中講義をして ますけれども、「共生の政治を求めて」がそのサブタイトルです。これは、 緒方正人さんの言葉を引いたほうが早いんです。緒方正人さんが、水俣病を 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く 生きてきて、誇りに思うことが三つある、といいます。第一は、有機水銀で 汚染されていることが分かってもなお、魚を食べ続けたこと。二番目は、胎 児性水俣病患者が生まれてもなお、子どもを産み続けたこと。三番目は、チ ッソを殺さなかったことです。この三つです。  第一に、毒魚と分かっても魚を食べ続けたことっていうのは、漁師が海と 契約を結んでいることの証しです。「信」の関係を結んでいるんですね。だ から魚を取りすぎないこととか、稚魚を取らないこととかそういうルールを しっかり守っていくことで、海から魚をもらうんですね。そういう互いに「信」 の関係にあるから、海が病んだからといって、一方的に魚を食べることをや めたっていうわけにいかない。魚が病んでもその魚を食べ続ける、というこ とですね。  それから第二は、胎児性水俣病者が生まれても、子を生み続けたことです が、これは人を選別しないっていうことです。  それから第三のチッソを殺さなかったっていうことは、先ほどの被害と加 害のグレーゾーンの突破の仕方に関係してくることだと思うんだけれども、 敵とか加害者のなかにもなお、人間を見取るっていうことですよ。チッソを 殺さなかったというのは大事な生き方だと思うんです。患者たちはいっぱい 殺されてるんです。だけどチッソを殺さなかったっていうことの意味ですね。 だからこれは共生ということの延長上にあるわけです。究極の他者との究極 の共生ですよ、これはね。  要約して言えば、共生には第一に自然と人間との共生、第二に人間と人間 との共生、第三に究極の他者との共生の三つの次元があります。 ◇存在の現れの政治  人間の政治の解釈行為枠組みを構成する第三項は、存在の現れということ です。行為から制度にわたる、人間の存在証明と言ってもよい。そのことと 関連して人間の政治を成り立たせるような政治学が仮にあるとすると、それ は私は、実践的な身振りの論理で言うしかないと思っています。水俣病者た ちが実際に自分の身体でやりつつあることであるし、やれることだし、それ 生存学研究センター報告 から、たぶんやるだろう、ということです。 ◇実践的な身振りの論理  実践的な身振りは五つのロジックに分けることができる。第一は、顔を見 る、ということ。これはもちろんレヴィナスのヴィザージュ(顔)ですけれ ども、顔を見る、声を聞くということです。私を死に行くままにするなとい う声を聴く。私を殺すな、私を生きさせよっていう声を聴く、ということで すね。  だから第二は出会いということです。ただその出会いというのは、民族性 とか、それから差別とか性別とかそういうものを振り落としていって初めて 成り立つような出会いです。そういうのが水俣病者のその試行錯誤の中で見 えてくる。  それから第三は、出会いがあったことのその先に出てくる応答行為です、 応答行為は、ケアであったりアシストであったりボランティアであったりす る。他方では、市場原理とその権力的な編制が一貫した系を成している、そ れを内破するということでしょう。システムの論理の連鎖の環節をはずすこ とも応答行為の内です。そういうことを実際に患者たちもやってるんですね。  それから第四は、そういう応答行為の延長上に、共生のネットワーキング を作るということです。共同体を作るとはいわない。共同体とネットワーク は対立する。それは公的な親密圏でのあり方と深く関わっていて、権力的な 編制を伴う共同体を作らない。ネットワークの形での相互の助け合いがある し、相互の交換もあるし、生きにくさを共に乗り越える、身体的な意味での 参画があるわけです。だから市民活動を入れるふり幅があるんです。ノンプ ロフィットセクターとか、自治体とか、クラフトとか、地域の中小企業や商 業、そういうものの繋がりですね、その延長上にさらに市民政治のエッジと 人間政治との連携ということが実際ありうるんですね。水俣で水俣病展をや ったときに、水俣の市民やチッソの職員まで参加している。  こういう共生のネットワーキングを成り立たせるのにバナキュラーな言葉 が重要な役目を果たしています。母の言葉であるし、その地域の言葉ですね。 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く 水俣で見るとよくわかります。例えば「もやい」という言葉を使います。連 帯なんて絶対にいわない。もやいとは、船と船を繋ぐこと、人と人を繋ぐこと。 お寺に一緒に行こうっていうときに「お寺にもようて行こうもんな」ってい います。もやうという動詞を使いします。日常語です。市民と漁民とのもや いと言う。それから、ほかの地域でもし使っていたら教えてもらいたんです が、「のさり」とひらがなで書くんです。 「のさり」という言葉があるんです。 天の賜物、贈り物っていう意味なんです。贈物っていうといいもの、と、普 通思うんですけれど、不幸とか災厄までも、贈物、のさり、と言います。台 風はのさりっていうんです。台風は、屋根瓦を吹き飛ばしたり、木を倒した りする。とんでもない災厄をもたらすでしょう。台風はしかし同時に魚群を 引き連れてくる。だから屋根瓦が飛んでても、船を出せっていうんです。そ ういう両面性を含んでいる言葉ですね。  第五に、共生のネットワーキングあるいは公的な親密圏を踏まえた形で、 公的な親密圏のネットワーキングのネットワーキング。ネットワーキングの ネットワーキングという次元が出てくる。それは多層的な公共圏の構築とい うことにも繋がります。そういう現実が実際水俣で起こっている。例えば、 最大級の産業廃棄物最終処分場を水俣の山奥の水源地に作ろうという話が進 行しています。それに反対する人たちがたくさん出てきた。水俣病患者だけ ではないんです。むしろ水俣市民が立ち上がったんですね。自分たちは水俣 病者に対して申し訳なかったと、そういうことが初めて言われるようになっ た。市長選では力を合わせて廃棄処分場建設に反対する人を市長に選んでし まった。水俣市民が音頭とりをしながら、まさに多層的な市民たちが議論を 重ねながら、産業廃棄物処分場の建設に反対する活動に立ち上がっている。  普通、公共圏というと、公論の場を指します。だけど水俣を見てるとそう じゃないですね。最終処分場を作ることで市が財政的に潤うじゃないか、そ れは公益ではないのか、という賛成派の主張がある。そういう発言に対して、 反対派はもうひとつの公益ということをいうんです。もうひとつの公益。水 源地にそんなものを作ったら、水が汚染される。それから一日に 150台のダ ンプが、水俣市を砂塵を巻き上げて、処分場に向かうわけでしょう、そうす 生存学研究センター報告 ると低農薬で作っている甘夏とかお茶などがもう売れなくなる。産業廃棄物 処分場ができることでいくつもの困ることが出てくる。水俣という命に満ち 満ちた場所を保全するということは、もうひとつの公益じゃないのかという 問題の立て方をする。それから処分場反対っていった時にじゃあ別のところ に作るのならいいのかという意地悪な問いが返ってくる。それに対する答え もまたあるんです。  水俣では実際、自分たちのゴミを自分たちで処理できる、施設を持ってい るんです。ゴミの分別っていうことでいえば、これは日本でも最高の水準に 達するくらいのことをやってるんですよ。水俣病を起こした水俣の環境とし てそういう方法論をしっかり行政も作ってきた。公共圏を構成するものとし て、公論、公益と共にもう一つ、公的な決定ということがあります。公論の 次元でいろんな意見を述べ合うとしても、結局行政が企業と結託して、ある 決定をしてしまうということがあるわけでしょう。それっておかしいのでは ないか。市民自身が決定に関わることができないのはおかしい。ちょうどそ の時に市長選挙があった。それで処分場建設に反対する人を、市長に選んじ ゃった。今まで市長だった人は水俣が疲弊しているから産業を活性化すると。 そのために処分場を呼び入れていくっていう考え方だったんです。一応処分 場問題は中立といってるんですが、そういう処分場容認派と反対派が市長選 に立ったんですね。そしたらみごとに反対派の人が圧倒的な形で、市長に選 ばれた。だから市民が市長ぐるみで県に、処分場建設を認めるな、っていう ことをいってるわけです。公論の次元でも、いくつもの集会を開いたり、市 役所の場を借りて、賛成派と反対派が話し合うこともやってるんです。非常 に多層的な仕方で、公論の次元でも、積極的な参加が見られる。言葉だけじ ゃないでしょう。身体を張る人も出てくる。その処分場の予定地に行って、 座り込みをするといったことをやったんですよ。そういうこともひとつの言 葉です。きわめて身体性を孕んでいる公論になるんです。  そういう、公益と公論と公的決定、この 3つを含んでいる、公共圏ですね。 従来の公共圏論のメディアに偏っている、公論に偏っている公共圏と一味違 う新しい公共圏が出てきますね。人間の政治という視座をしっかり保ってい 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く ると別の公共圏が出てくるんだ、ということだと思いますね。 (天田)栗原先生、どうもありがとうございました。それでは、もう始まっ て 2時間半経っていますので、一回休憩を 10分とりたいと思います。45分 に再開にしたいと思います。それでは一回休憩にしたいと思います。 生存学研究センター報告 ◆質疑応答 (天田)では、再開したいと思います。残り約 1時間ですので、まず立岩さ んと私の方から、ごくごく簡単にいくつかのことについて質問やコメントを させていただいて、その後、、フロアーのから積極的に質問やコメントをし、 その上で、栗原先生に応答していただければと思っています。栗原先生から も積極的に院生や参加者の方々から発言をいただきたいという希望をお聞き していますので、できる限り議論・討論の時間にあてたいと思っています。 できる限りそのように時間を使いたいと思いますので、では早速ということ で。 ◇コメントと質問・1 (立岩)立岩です。栗原先生どうもありがとうございました。これから僕が すこし話して、そして天田さんに回して、そして栗原先生にそんなものをも ろもろ受けていただいて、っていう順序でっていう、さっき天田さんが紹介 してくれたとおりです。  何から話すかですが、一番目は、継ぐものがあるということ。前から思っ ていたことでもあるんだけれども、やっぱり、日本の、とくに戦後の、と言 わないといけないわけではないんだけれども、戦後でいいです、そういった 時代に何が起こったり考えられてきたのかを、知る、そして考えを足してい く、という仕事の有用性といいますか、必要性を、あらためて思った。  僕自身は、戦後、いわゆる「体制」に対してアンチであった、カウンター であった部分に対して、むしろ懐疑的・批判的っていいますか、相当の距離 感がある部分もあるんですが、ただそれは少なくとも捨て置いてよいような ものではないとは思ってきました。では、それを例えば学問なら学問という ものの中で、どれほど捉えるってことがなされてきたのか。それほどではな いんではないかと思っています。  ただ、確かに、それは考えてみると難しい。あらためてその難しさを栗原 先生のお話を伺っても思います。例えば生命倫理学なら生命倫理学ってもの が、数十年の学問的な蓄積っていうものを持ち、その文法に適った言葉を発 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く し、それなりの体系性をもって引き継がれている、ある意味で発展してくる。 そういったものを引き継ぐ、解析するってことは実はさほど難しいことでは ない。それに比して、それに対して、日本の戦後にわれわれが汲み取るべき ものっていうのは、いわゆるアカデミズムの中に存在したものではない、む しろそこからある場面では積極的に、退(の)いたというか、外れたところ に存在していて、しかもそこにあるのはその、なにか体系だった言葉ではな かったりする。時には言葉でさえもない、というようなものである。  そうすると、それをあらためて言葉として、考えを継いでいくっていくこ とが難しいんだけれども、しかしそこにはやっぱり何かがあって、だから継 いでいくことの困難さと同時に、その必要性っていうんですか、あるいは重 要性っていうんですか、そういうものをあらためて思ったっていうことです。 これが一つです。  で、これはやっぱり難しいんだと思います。ただ、難しい難しいといって も仕方がないですから、COEってこともあるし、それがなくても、何かっ ていうとその、みなさんが歴史的な文脈を持っている事象について研究をす る、そういった時に、とりあえず年表を作れってひとつ覚えのように僕は言 っているわけだけれども、それが作れたからといって何が出てくるかどうか、 それは本当は分からないです。本当は分からないんだけれども、そういった 仕事さえもなされていない以上は、まずはそういったところをやってみる、 そういったことをずっと続けていくと何か、言えることっていうのがやっぱ りあるんだと、あるはずだっていうことをですね、あらためて思った、とい うことです。  やれるとこしか、とこからしか、われわれはできなくて、それは私にとっ ても同様なことです。ただ、次に一つ、明らかに言えることは、そこの日本 の戦後から何を引き出すかっていう時に、おそらく、引き出すに値するもの は、生命っていったらいいか命っていったらいいか、なんといったらいいか 分かりませんけれども、そういったことを巡ることごとだと思います。もち ろん社会運動、社会思想さまざまなものがあって、それなりにさまざまなこ とが語られてきたわけだけれども、その日本の戦後の中から、継いで何かを 生存学研究センター報告 考えるべき、そこに値するものがあるとすればそれは第一にはそういった、 命といっていいか、生命といっていいか、なんていったらいいか分かりませ んけれどもそういった領域なんではないか、ことをあらためて思った、とい うことです。  で、とりあえず具体的にやれるところからやるしかない、とりあえず、僕 もその端っこに加われればいいなあと思っていて、これは少し宣伝させてい ただくと、1973年に出た本ですけれども、横塚晃一っていう人の『母よ殺 すな』という本があります。長らく絶版だったんですけれども、あと数日で 再版されることになりました(生活書院・刊)。例えば 30何年前、ここにな にがしかのことが語られてる。これは学者の書きものではない。横塚さんっ て人は小学校も途中で終わったんじゃなかったかな、そういう人の、でも、 言葉になって、文章になってるわけです。そういったことをまずは思う。そ れを皆さんにも呼びかけたい。そのことに尽きるといえば尽きます。  さて、二番目、では、どのようにここに堆積しているもの、身体・生命を 巡って堆積しているものを、継いでいくかなんですが、しばらく、エピソー ドのごときものを並べてから、と思います。そして私の場合には、ある意味、 わざとというか、そこを迂回して仕事をしてきた、しようとしてきたという 話をしようと思います。  先生に比して、貧困なというか短いというか、過去の時間が私にもあるに はあります。先生がリアルタイムで読まれた、『苦海浄土』っていう石牟礼 道子の著作、これは今調べると 1969年が初版です。僕はその当時田舎の小 学校の 2年生で、ほとんど何も、『苦海浄土』ってものも知りませんでした。 ただ妙に鮮明に、70年前後、莚旗立てて、水俣の人たちが東京に登ってく るという画像、映像は、何かしらの、原風景のようなもの、というか何かし らのものを私に残していて、それが結局今こんなことをしていることの何か には関わっているのかもしれません。ただ、水俣についてとくに何かを読む といったことはなかったと思います。  大学に入って、見田宗介さん、真木悠介という名前もおもちですが、彼の ゼミで、僕は大学に入ったのは 1979年ですから、出てからもう 10年経った 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く 後なんですけれども、『苦海浄土』を読んで、これは何と言ったらいいんで しょう、「おお」という感じが、その「おお」が何なんだかよくわかんない んですけれども、あった。  そして、今でも大本について何か知っているわけではないんだけれども、 先生のお話を聞きながら思い起こしてみると、高橋和巳の『邪宗門』は読ん でいたりする。さっきウェブサイトで見たら、これ出たの意外と早くって 1965年に出た本なんです。それは具体的に存在したいわゆる新興宗教の話 じゃないですけれども、その小説に書かれている世界のある種の凄みってい うんですか、何ていったらいいのか。ある力を有するものが別の力を有する ものに滅ぼされていく。また、例えば大江健三郎の小説であれば、これもさ っき調べたんだけれども、『万延元年のフットボール』が 1967年です。それ から『洪水はわが魂に及び』は 1973年ですね。『洪水は…』は大学受験の頃 読んだ記憶があります。その頃は社会科学の本なんてこの世にあるのも知ら ず、小説しか読んだことがなかった。  僕はこれらの物語の下敷きになっているような、あるいはそこで想起され ているようなことごとについて知っていたわけじゃないですけれども、そう いったものにあるある種の重さっていうものを感じたは感じた。ただそれを 受け取って、それに言葉を継ぐという継ぎ方ってものは、私の場合さしあた って思いつかなかった。悲壮なものにならざるをえない少数者の抵抗という ものにはなにか感じいってしまうところがあるし、その後、それよりはるか に規模の小さいしょぼっとした運動におけるちょっとした悲哀のようなもの は実際に感じたりもしましたが、そのこと自体をどうこう言っても仕方がな い。それはそれとして何かしら僕のベースっていうか、背景にはありはする んだろうけれども、それを懐旧しても仕方がなかろうと。  次に、この時代にあって悲壮であったりするもの、それと時には接しなが らまたちょっと違うもので、60年代の終わりから 70年代にかけての、世界 でさまざまに起こった反体制的な文化っていいますか、そういったものは学 問であるとかなんとかっていうこと以前にですね、これはやっぱりどんなに 田舎の小学生中学生をやっていてもそれなりに感じることはできたわけで、 生存学研究センター報告 それはやっぱり何か根っこのほうにあるんだろう、と思う。でそこで言われ たこと、言われたのでないとしても全体として醸し出された、気持ちってい うか、気分というかですね、そんなものもある。  大学入って、3年で社会学科に進学して、そこにさきの先生の話の中に出 てきた高橋徹先生という方がおられて、私が大学院にいた途中までおられた。 なにか教わったっていうわけではないんだけれども。彼は栗原先生からさら に 10くらい上の方で、実は数年前にこの京都の病院で亡くなられたんです けれども、ときどきジェファーソン・エアプレーンがどうとか、そういう話 をされて。ああそうか知ってんだ、みたいなことを思ったことがあります。 ただ私自身は、重いものよりは少し軽い感じの対抗文化的なものに関してい えば、はいそれはそれで OK、そのとおり、って感じでした。それは言葉と してわざわざ何も言うことはない。音楽をやる人はやればいいんだし、聞け ばいいんだしっていう。  として、僕はその続きをどういうふうに続けてようか、と思ったわけです。 その時、まず、一つには外延・外縁がはっきりするって言ったらいいのかな、 問いにかかる対象として、わりとかちっとしたもの、であれば取りかかれる かもしれない。気分は気分としてありつつ、なにか社会に向かっていくって いうか、返していくっていうことがそういうやり方だったらわりと安直にで きるんじゃなないかと、思ったんだと思うんですね。  例えばわれわれの社会における所有についてのきまりっていうのは、これ はかちっとしたルールとして、規範としてあるいは法として存在する。それ を吟味していく、というような仕事は、僕にでもできるだろうと、そんなこ とですね。  それは時代に関わらせていえば、その時代の持っていたものっていうのは、 ある種この社会を組み替えるっていう、営みであり、試みでありだったと思 うんです。そしてそれはどこかで失敗したことになっていて、事実そうであ ったのかもしれない。例えば栗原先生たちの世代と私の間にいる人たち、い わゆる団塊の世代の人たちが、あるいはその人たちも、そういったことを試 みようとした。そして何がしかのことを言った、そして失敗したって話にな 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く って、そのままになっちゃった。それは何かしら残念なような気がしてです ね。そしてそのある人たちが、身体とか、地域とかに戻っていったとしたら、 それは、すこし待ってくれと。まずは今の社会のことを普通に考えてみよう と。  そういう意味で僕は団塊の人たちに対して両価的な感情を持っているわけ で、せっかくいいことを言ってくれたんだったら、もっとちゃんと考えてい てくれればよかったのに、みたいなところがあって。上の団塊の連中がなん か疲れてひしょげてる、こちらは疲れる後あるいは前のところにいる、自分 たちが何か考えてもいいだろう、そんなことを思って私は考えてきたんだろ うなっていう感じがあらためてします。それで、仕事をちまちまちまちま続 けている。そのちまちまちまちましたって感じってものが、それが僕なりの 引継ぎ方なんだろうとは思っています。  ただ、けれども、というのが三番目のお話です。ここで最初の話に戻るん だけれども、生命とか命とかっていうこと、あるいはそれを巡る現代史をど う見るのかに関わって、なにをもとに、なんのために闘われたのか、それを 歴史の中に確認することは必要なのだろうと。  実は今日、僕は間に合えば、一つ長い文章を書いて終わって持ってこようと思っていたんです。それは今年中にうまいこと行けば、うまいこと行かせるつもりですけども、うまく行かなくとも出すつもりですけれども、ちくま書房から、いわゆる尊厳死に関する本を出そうと思っていて、『思想』に3回書いたものと「良い死」っていうタイトルで筑摩書房のウェブに連載したものが、このままじゃ使えないということで、今書き直しているんです(発行は2008年になった)。そこに「自然な死」っていう章があって、自然な死っていうことを巡ってわれわれはどんなことが言えるのか、それを書こうと思っています。できれば持ってこようと思ったんだけれども結局、間に合わなかった。  何が言いたいか、何が気になっているかというと、同じ言葉が別に使われるようになっていはしないかいうことなんです。  例えば60年代から70年代にかけて、水俣病をめぐる出来事が起こって、 生存学研究センター報告 他にも起こった反公害と言ったらいいのか、そういった動きの中で、自然っていうものがそれに対抗する言葉として存在し、ある種のスローガンとして存在した。そしてそのしばらく後に、自然な死っていうものが、浮かび上がってくるっていうか、せり出してくる。そういう出来事が起こってくる。そしてそれは確かにある連続性ってものはある。例えば科学技術文明に対するある種の拒否感というか対抗感と自然な死という言葉にはつながるものがある。そういった意味で言えば、普通に考えれば、明らかなっていうか、そこに連続性がある。  しかしながらどこかでずれてしまったというか、別のものになってしまったっていう直感のようなものが、まずはあるんですね。それはその場合なんであったんだろうということですよ。例えば現代史、病や命やそういったことを巡る現代史ということを考えるということは、その間に何が起こったんだろうか、そういうことを辿り直して考える、ということであるのかなあ、と思ったのです。  答は簡単な答なのかもしれない、一つの答え方としては。それは先生がおっしゃった「私を生きさせよ」っていう。そういった主張がそうでないものになる。いってみれば「私を死なせよ」というところに、なにやら落ち着いてしまったっていうことがある。ある意味で違いは明白なんですけれども、しかしその明白な違いとある種の連続性みたいなものを、どういうふうに解きほぐして考えていくか、そんなことが一つ、大切なことなんだなあとあらためて思ったのです。  さて、以上に関わって幾つかをお訊ねすることは可能であったはずなのに、 手前勝手にしゃべってしまったのですが、二つ目、三つ目に述べたことを、 質問の形にすればですね、一つは社会の形のことです。  先生が、一方では、市民社会、シビル・ソサイエティがたくさんの可能性 を有している、それを肯定的であらしめようとする、そういったモチベーシ ョンといいますか方向といったものを持たれていくということと、他方で、 先ほど水俣展を巡るごく数年前のことを先生語られたわけですけれども、そ この中でのその市民社会と称されるものに対するある種の、絶望とまでは言 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く わないにしても、肯定できない感覚みたいなものが、どういうふうに、両方 が並立して、おそらく同じところから立ち現れてくるものなんだろうけれど も、それはいったいなんだろうか、といったことをお訊ねしたいと思います。  市民、でひっかかるのは、自然が破壊されているから自然を守ろうといっ た時の、あるいは病にどのように対するかといった時の、なにか調子のよさ というか、清潔さというか、そんなものであるようにも思います。とすると、 さきほどの私の話では三番目に関わっていて、そのことについて、ただそん な感じがするというのでなく、どのように言っていくのかということになる のかなと。そしてそのことは、人々の能動性、人々の活動の能動性を肯定す ることとまったく背反することではないのではないかと。そんなことをお訊 ねしてもよかったのかもしれません。しかし、その答はさきほどのお話の中 にすでに語られたような気もします。  そしてもう一つ、これは今の話とはいくらか別の文脈のことなんですが、 僕はたぶん社会学っていうのをいちおうやっているにもかかわらず、どこか でその時その時に起こっていることにそんなに付き合ってこなかったところ があります。とくに、若者っていうのかな、青年っていったらいいんですか ね、そういったものに僕はなんていうか誠実に向き合ってこなかった。  あるいはむしろ自覚的にそうなったのかもしれない。それは一つにはわれ われの同年代の研究者の中に若者を論じることで、飯を食ってるかどうかわ かりませんが、そういう輩といいますか、たくさんいて、中には優れたもの もあり、中にはそうたいしたものでもない論もあったんです。そういうのが 花盛りでずっとやっているから、ほかのことを俺はやろうという。ただもう 一つ、単純に若い者には興味がないって感じもあったように思います。ただ それはたぶんに語られ方に対してのことであったかもしれない。新しい新し いと言われるのだけれども、そう新しい人たちには思えないという。けれど も、それよりずっと上の年代でもある先生は、ずっと青年というか若者と、 誠実に向かい合ってこられたということがある。  それというのは、その差というのは、僕と比較して何か出てくるとは思い ませんけれども、なにか、どういうことなんだろうなと、素朴に聞きたいか 生存学研究センター報告 なということも、思っています。これは今日お話を聞く以前からちょっと考 えていたことなんですけれども。  このくらいにしておきます。とにかく、ある程度までは今、僕がこの大学 院で皆さんに言っているように、とにかく事実を集めて来いと、何も知らな いじゃないかあなたたち、本当に知らないですね、あきれるほどですね。だ からとにかく調べて来いと、当座はそれで行けると思います、ただ、その後 の作業が難しいだろうと。だけど、その前の時間を、そうやって時間をつぶ す、ものを集めて調べることに費やす、そこの中から何かは出てくるでしょ う。何かがあることは確実だと思うんです。ですからその後はわれわれの努 力というか、そこから何を考えていくかっていうことになります。そんなこ とを、お話を伺いながら思ったということで、私からはそのくらいにしてお きます。以上です。 ◇コメントと質問・2 (天田)ありがとうございました。続けて私から極めて簡単なコメントさせ ていただき、それからフロアーの方々から様々な質問やコメントをいただけ ればと思っています。  栗原先生、非常に詳細にお話していただき、まことにありがとうございま した。また、この場を借りて先生に深くお詫び申し上げなければならないの ですが、実はこの企画を先生にお願いしたのはつい一週間くらい前でして、 唐突のお願いを直前にいたしましたことを深くお詫び申し上げます。ただ、 こちらが突然お願いをしたにもかかわらず、きわめて限られた厳しい時間的 制約の中で、先生にはたくさんの資料を用意していただき、非常に丁寧にお 話していただきましたこと、心よりお礼申し上げます。  それと、私の方からも栗原先生のご退職記念のご本に寄せた原稿を配布し ています─実は、私、9月末にハードディスクを大破してしまいまして、 最終版の原稿ファイルを消失してしまったため、配布しているのは「草稿」 になります─。どの程度、参考になるかはわかりませんが、事前に読んで おいたほうがよいこともあるだろうと思って「草稿版」をウェブ上にアップ 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く して皆さんに配布してあります。この原稿では栗原先生の書かれた文章を比 較的たくさん参照させていただきながら─もともとこの 4倍ぐらいあった 引用部分を大幅に削除してこの分量になっています─、栗原先生の思考さ れてきたことのごく一部を、そのエッセンスを書いてみたつもりです。先生 が思考されてきたその先をいかに考えるかについてまで書くことは全くでき ておりませんが、一応参考資料として配布しています。一応この点もお伝え しておきます。  さて、私自身は、石牟礼道子さんの 1969年刊行の『苦海浄土』が文庫版 として出版された 1972年、あるいは誰もが知っているところでは浅間山荘 事件があった年に生まれていますので、いわばその時代についてリアルタイ ムで全く知らないわけです。ただ、小学校・中学校という時期に親世代から ─私はいわゆる「団塊ジュニア」の世代ですが、私の父は 1939年生まれ でどちらかといえば栗原先生の世代に入ることもあって─諸々について何 となく聞き、そして栗原先生たち世代が考えてこられてきたことを受けとっ てきました。  そうした時代であったのだと思うのです。その中で 60年安保の話やその 後の話なんかを押し付けがましい人たちから聞き、多少は共感しつつもなか ばウンザリしてきたというのが幼いころの経験としてあります。程度の差こ そあれど、おそらくそのような世代になります。  そして、その後、大学に入って、栗原先生の世代の人たちから、そして団 塊世代の人たちやその次の世代の人たちから私が何をいかに受け取ったのか /何をいかに受け取るべきなのかということを常に考えてきたように思いま す。更に付け加えれば、大学院生になってからは立岩さんたちの 1960年前 後の世代の仕事から実に多くのことを学び、そして受け取ってきました。だ からこそ、思うのです。私たちは、それぞれの時代的・歴史的な文脈におい てその時代を生きてきた人たちが何をいかに思考してきたのかをまずはきち んと知り、その上で、「その先」を考えることが大切であると。  以上のような点を踏まえて栗原先生にまずお聞きしたいのは─おそらく は詳細にお聞きしなければならないことなのでしょうが、ここではざっくり 生存学研究センター報告 と質問をいたします─、先生は時代的・歴史的文脈の中で立ち現れてくる 出来事を通してさまざまに思考されてきたのだと思いますが、現実的には、 ─まさに私たちの現実はそうであるがゆえに厄介なのですが─様々な困 難があると思うのです。だからこそ、それぞれの人たちに厄介でありながら、 その厄介さはバラバラであり、更にはその中で苦悩・葛藤するわけです。こ れは当たり前の話ですが、とは言っても、私たちはこうした現実の困難性を 引き受けていきていかなければならないわけです。先生にまずはこの点をお 聞きできればと思います。  例えば、水俣に限定したとしても、─私は 1年半前まで熊本に住んでい ましたし、先ほどお名前が出た原田正純先生と同じ熊本学園大学という大学 で働いていたこともあり、私自身は全く門外漢ではありますが─、それで も諸々の困難な現実を伝え聞くわけです。とりわけ水俣について考えあぐね ている大学生や大学院生から話を聞く機会もありました。  そこでは、水俣病をめぐる様々な困難や苦悩や葛藤があり、大学院生たち でそのようなテーマについて考えている人たちもいました。多くの場合、諸々 の親族・知人間のいざこざを含めて様々に関係上の齟齬や軋轢や対立があり、 また裁判などをめぐって当事者や支援者にも諸々のコンフリクトがありまし た。そして水俣市民の中にはそうしたコンフリクトに嫌気を感じたり、場合 によっては回避したりするような現実を聞くこともありました。具体的には 水俣市民などから起こった「水俣病」という名称を変更しようする運動が起 こってきた時代、また裁判を含めて様々な出来事が出来していた時代に、多 くの研究者もそこに関わっていた。そしてそれらをめぐる現実の厄介さにつ いても知っていたわけです。このような困難や厄介さは、生存をめぐる現実 に常に随伴する困難と厄介さですが、そうした社会学的に重要な現実の現実 性をどのように考えてきたのかという問題があります。  そうすると、本日、栗原先生のご指摘された第 2点目に関わる問題だと思 うのですが、「多様な政治を学ぶ」という場合、現実に惹起している困難な 出来事があり、まずはそのような現実の困難性を先生はどのように位置づけ ながら、ある種、〈水俣〉の肯定性を提示されたのか─とりわけ、「これは 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く 私である」という根源的な自己と他者の関係のありようを提示されたのか ─。特に、上記のような関係のありようを私自身も引き受けてそのように 考えているところはあるにしても、事実として、現実にはそのようにはなっ ておらず、また私たちの社会はそのように回らないからこそ立場や状況が異 なれば、その引き受けてしまう困難が異なり、そこに軋轢や対立や分裂を招 来してしまうという仕組みがあると思うのです。この点について先生がどの ように時代の中で考えられてきたのかについて率直におうかがいできればと 思っています。これが第一点目になります。  ちなみに、このようなそれぞれの時代において歴史的に何がいかに起こっ てきたのかについて調べるという─まさに研究者を含め様々な人たちがや るべき─仕事は山ほど残っていて、そのように事実をさしあたり淡々と、 そして緻密かつ詳細に記述することはそれ自体で大切な仕事だとわれわれは 思っているところです。  第二点目は、先生に以前からお聞きしたいと思っていた点でもあるのです が、「大本」や「やさしさをめぐる青年たち」、あるいは「コミューン」、更 には「ボランティア」や「市民活動」、そして「高畠」や「水俣」というよ うにそれぞれの時代において先生が考えてきたテーマがありますが─もち ろん、それは常に連続して一貫して考えられてきたことであり、時代によっ てテーマが単純に変化してきたとは思っていませんが─、いずれにしても 上記のようなテーマを考えていく中で、先生の中で、どのあたりが先生の個 人的あるいは理論的関心から連続しており、あるいは逆に、それらの個別の 困難と厄介さを考えれば考えるほど、ある種、それらの現実がうまく論理的 に順接させて考えることができず、隔たりとして感受されたのか、という点 は率直に気になったことであります。先生が考えてきた現実の中での「連続」 と「非連続」、「順接」と「逆接」、「接合」と「隔たり」についてお聞きでき れば幸いです。  第三点目は、上記とも重複しますが、たとえば「市民社会」だとすれば、 それらの何をいかに肯定し、否定するか、という大きな問題についてです。 現実の何を肯定し、何を否定するのかという按配というか、その論理的接合 生存学研究センター報告 が気になるわけです。そのようなことを先生がどのようにお考えになったの かは非常に興味深い点でありますし、それぞれの時代の中で─あるいは今から振り返ってみて─いかに思考されてきたのかという点について率直にお聞きしたいと思うのです。これが三点目になります。  社会学的に考えてみると、それぞれの時代の中において何かを肯定すると いう作業はその実、極めて難しいことであるように思うのです。現実におい て腹立たしいこと、あるいはその現実の息苦しさについて〈否定〉すること は─何をいかに(44444) 〈否定〉するのかという途轍もなく重要な問題はあるにせ よ─比較的容易のように思いますが、何をどのように(4444444) 〈肯定〉するのかと いうのは現実の困難を知っていれば知っているほど、あるいはその〈肯定〉 が別の〈否定〉に接合してしまうことを知悉していればいるほど、実は極め て難しいと思うのです。むろん、第一点目で指摘したように、現実にはそう 単純ではない困難かつ厄介な問題が山積している場合、その時に〈肯定〉す る作業は─誰でも分かるように難しいのですが─、そうでなくとも、〈肯 定〉の立ち位置それ自体が難しいと思うのです。そのような〈肯定〉の立ち 位置に関わる社会学的困難を先生はどのようにお考えになってこられたのか なという点についてお聞きできれば幸いです。  最後は、本当に雑感となりますが、実際に他者の〈声〉を聴き、他者と 〈出会い〉、そして他者の「呼びかけ」に〈応答〉する中で、ネットワーキン グが紡ぎだされていく、それ自体の契機というものがあると私自身も考えて おりますし─水俣の言葉でいえば「のさり」という、ある種の「贈与」に も関わることでありますし、もっといえば「根源的な贈与」というようなよ り根底的な問題に関わることであります─、「人間の政治をとらえていく」 それ自体は大切な「問い」であると思うのですが、ただそれを受けた上で、 私たちが何をいかに考えるかということもあるのだと思うのです。たとえば、 「水俣」にせよ「コミューン」にせよ「青年」にせよ、その人たちは、現在、 すでに年齢を重ねて老いを生きており、その中で自らの実践を現実の中でど のように考え、いかに動いてきたのか、更にはそのような現実の中で社会科 学が何を語ってきたのか、このような仕事を私たちは引き継いて考えるべき 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く であろうと思ったところです。  だいぶ時間が超過してきていますので、このあたりで私の質問とコメント は終わりにさせていただきます。私たちが先生たち世代の仕事を引き受けた 上で、その先をいかに考えるべきであるのかについての私なりの拙いコメン トを述べさせていただきました。  さて、残り 30分ありませんので、院生の方々からも積極的にコメントあ るいは質問等をしていただければと思います。いいでしょうか。せっかくの こういう機会ですので。 ◇コメントと質問・3 (院生 A)授業でいろいろお話をうかがって、今日はまた水俣についてはう かがったんですが、どうも僕はそれを聞いていてですね、それはどうなんだ ろうという点がどうしても気になりました。緒方さんがチッソに行かれた。 フォーラムでしたかね、会社としてそれに協賛くれと。そうすると、そこに こられた部長さんは、会社としては協賛できないが個人としては協賛したい といったというふうなくだりがあったと思います。  私は難病の運動に参加していますけれども、そこにスモンの女性患者がい らしていて、ずっと車いす生活をなさっている。それで、その方にお会いす ると、「あの薬さえ飲まなかったら」「売っていなかったら」ということを、 いまだに示唆されるわけです。それで、その女性が、今、生存してきて心晴 れる日はどういう日だろうか、と思ったときに、その会社がその女性に「す まなかったなあ、これからはそういうことはないように、われわれもあなた 方と一緒にがんばっていきたいよ」というようなことが出てくれば、かなり 違うと思ったのが頭にありました。だから、緒方さんのその時に、感じられ た思いが、私は緒方さんであれば、会社としてその水俣のことを謝して、そ して会社として一緒にそのフォーラムを成功させていこうというような形に なりえないのかな、というような思いでうかがいました。別に質問ではない んですけれども、感想を申し上げました。 生存学研究センター報告 (天田)いかがでしょうか。栗原先生には、後でまとめてかなり雑多な質問 とコメントへ応答していただく予定ですので、他の方はいかがでしょうか。 (院生 B)栗原先生のお話を伺って、すごくインパクトに残ったことは、こ の写真を説明される中で、栗原先生が先ほど「この写真に自分を見た」とお っしゃっていました。僕は自己同一性というのはたいてい、自分の中でまと められているものだと思っていたのですが、自分の外にあるものに向かって、 「ああ、それは自分と同じ立場にいる」「自分と同じものだと思える」ってい うことがあるんだなということで、ひとつ驚きました。それが、この写真自 体がそうではないとはしても、栗原先生の最初の話で良寛の本などがあって、 原点がそこにあるということをおっしゃって、僕にそのことを照らし合わせ てみるとまだ僕はなんか、確かに、自分はどうやって生きてきたのかなって いうことを振り返ることはできるけど、自分の原点がどこにあるのかってこ というのはまだうまく説明できないところがあって、これから何年生きるか 分からないし、何年勉強するのかってこともよく分からないですけど、勉強 していく中で自分の原点っていうのが、ここにある、っていうことを話せる ようなっていくと、いい研究者になれるかな、と思いました。  以上が巻頭にあたることなんですけれども、もうひとつは、Aさんが今 おっしゃったことに結構近いところがありまして、私は学問的な研究活動と しては企業倫理学というものをやってきまして、企業の社会的責任っていう ものを、それがそもそもあるのかとか、それをどうとらえるのか、などにつ いて非常に関心を持って勉強しています。その中で栗原先生の話の中で課題 責任を共有するっていう、実際には緒方さんという方がお話されたところだ と思うのですが、企業の、基本的に加害者と思われている人と被害者と思わ れている人が同じ席で対話したり、あるいは何かひとつの課題に向かって取 り組みをするということが、どれだけ可能なのかというところが、僕には非 常に疑問に思えるところがあるんですね。  というのも、例えば、実際に行われているフォーラムでお金がないからお 金を貸してもらえる、お金を企業から持ってくるっていうことは確かに可能、 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く 物理的には可能だと思うんですけれども、実際にそれが企業の、一企業の側 からすると責任をとったことになるのだろうか、というのはずっと思ってい るところがあるのですね。というか、あまりよくはわからないんですね。あ まりうまくは説明できないのですが、いってみたらお金を払って済ませられ る責任、ということがあるかとは思うんですけれども、それ以外の部分で企 業はどういう責任を果たすことができるのかというところを私はずっと興味 を持っています。それはちょっと文脈は違うかも知れないけど、栗原先生が 別のところでおっしゃった、その裁判の賠償責任からどういう枠組みで抜け 出せるのかっていうところとも非常に関連があるのかなと思ってうかがって いました。この点に関してひとつ質問したいと思います。企業の課題という ふうなことでお願いします。以上です。 (天田)ありがとうございました。 (院生C)栗原先生ありがとうございました。私は、緒方さんのお話の中で「毒 の魚を食べ続けている」という話をおっしゃっていたこと、もうひとつは、 水俣の言葉で「のさり」という言葉があり、「こういう毒に冒された魚でも やはりのさりである」とおっしゃっていたことに、ある種びっくりしたとい うか、それをまた食べ続けているということにびっくりしたのですけれども、 その上で、共生っていうことを考えてみたときに、そういう災悪とか、そう いったものも贈り物としてとらえる、という、そういうものに、それが共生 なんだよって言われたときに私も含めてちょっと戦慄を覚えてしまうという か、そういう人が多いと思うんですね。それで、天田先生がおっしゃってい た水俣の名前が水俣病に使われるということでそのイメージもあると、でも 水俣の人たちはチッソという会社によってお金をもらっているという、そこ に加害者と被害者というのが本当に交錯しているような状態になっていて、 でそういったところ、それでも、その共生ということを考えるときに、それ を「のさり」として受け入れていくっていう、そこをこう乗り越えていくっ ていうのはいったいどういうふうにしたら可能なのかなということについ 生存学研究センター報告 て、先生はどういうふうにお考えでしょうか。この点についてお聞きしたい なと思いました。 (天田)ありがとうございました。他にいかがでしょうか。 (院生 D)お話を感激してお聞きしたのですが、栗原さんのお話を聞いて、 出来事をどのように位置づけるのか、その自分の立ち位置みたいなものが決 まるというか、変わるというか、その点も含めて興味深くお聞きしました。 雨宮処凛の『生きさせろ !』っていうことが自分のなかでもこうもやもやし た気持ちがあって、それは何だろうって考えていたこともあったので、それ が出てきた、たしかそういうことがあったと思うんですけど、栗原さん自身 が確かさっきのお話だとコロンビア大学に留学中に、参加観察っていうか、 参加と観察のデモに参加して、栗原さんがデモに参加して、先生のほうが路 傍で「がんばれ」って言っているという話がありました。それで、その後、 栗原さんが帰ってきてからも、やっぱり、こうデモに参加するあり方に上記 とは違うっていう感じがあったのかどうかという点が気になりました。もう 一つには、一つ目に関わることでもあるのですが、ボランティア学会などに ついても語られてきていると思うのですが、それは、入るときと出るときに けじめをつけて出て行くのか、それとも関係を保ちつつ、大本教との関わり みたいに並列して関わっていくのかなということが気になりました。一点目 は、出来事との距離感という点と絡めてお話いただければと思います。ちょ っとうまくいえないんですけれども。 (天田)ありがとうございました。他にどうでしょうか。そうしましたら、 たくさん質問やコメントがあって先生には大変申し訳ないのですが、先生、 よろしくお願いいたします。 ◇栗原先生からのレスポンス (栗原)たくさんの質問とコメントをいただいたわけですけれども、市民社 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く 会についての私の立ち方は、あるふり幅を持って動いているものなんです。 観念の上で市民社会が自分の中に入ってきた限りでいえば、そしてまた自分 が生きている、その地平で言えば、市民社会というのは肯定されるべきもの だし、これはとりわけ東欧革命との関係で市民社会への回帰っていうことが、 言われるところで言えば、それが肯定的にやはり自分の中でとらえられてい る、というのは確かですね。だけど当時、例えば東欧ベースの市民社会が作 られると同時に大きな民族的な排除を含むということも明らかにされてしま うわけです。それはまた外国でそうであるばかりじゃなくて、日本でもやは りそうですね。だから市民社会というのは肯定すべきものか、否定すべきも のかという、そういう見方で割り切れるものではないわけです。  とりわけ水俣にコミットしていけば行くほど、その水俣っていう場所での 市民社会と、それから漁民たちの生きている社会とのズレが見えてくる。漁 民たちの生きている社会は、それは明らかに、みんなが市民と呼んでいる、 その人たちが住んでいる社会と違うものとして認識されているんです。それ は水俣市民が攻撃するからです、水俣病者に。水俣病という命名すら攻撃の 対象になる。だから水俣病を違う名称で言えとか、それをたとえばハンセン 病っていう命名のように、この水俣病の発見者の名前を、外国人の名前をつ けたらどうかとかですね、水俣市の名称を変えろとか、いろんなことが言わ れるわけです。非難や攻撃の対象になっているということですから、そうす ると市民というものに対する批判もでてくるのは当然です。  しかし、患者たち自身の中から「もやい」ということについての、意識的 な働きかけが出てくるんです。徹底的に排除されてきた人々の中から市民、 あるいは市民社会に手を差し伸ばすということが出てくるんです。それはも う非常に具体的なところでいろいろな形で出てくるんです。例えばハイヤ節 を国際水銀会議場で踊るんですが、水俣病の胎児性患者たちと水俣市の子ど もや若者たちが隔てなく、車いすに乗った人たちも含めて、そこに大きな踊 りの輪を作ろうとする。そういうプランを、杉本栄子さんが積極的に出して、 振り付けもする。そういうふうに水俣病者の方が積極的に市民に手を差し伸 べるという動きがある中、市民の中にも今度は水俣病展をやるっていうとき 生存学研究センター報告 に協力する人が出てくる。水俣の駅から会場までの商店街に水俣病展ののぼ りがはためいたんですね。水俣の人たちもこんなことは初めてだと言ったん ですけれども、それは商店の人たちが水俣病展を支えるという意識を持った からなんですね。実際に水俣病展の実行委員会の中にも水俣の商店の人たち とか、会社員なんかが入ってくる。その人たちの話を聞いてみれば昔は申し 訳なかったというんです。水俣の市民は水俣病者を支えなかった。そのこと を申し訳なく思うって言いました。ずーっとそのことを重荷に、それを抱え てきたと言う。お父さんがチッソの会社に勤めていた。そうすると一家をあ げて水俣病患者を批判するということが出てくる。だけどそのことがずっと 気になっていたっていう。そのことを謝りたいと思ってこういう活動に参加 する。そういう人たちが出てきた。  だからこれはそういう水俣病患者たちとそれから水俣の市民たちの双方に 関わる、これはまさに「エッジ」っていうことなんですよ。エッジが交差す る、接点を持つところが出てきた。それはトータルな水俣病者たちとトータ ルな水俣の市民社会との和解でも連携でもないんですよ。それぞれの思いと 意識が表れたところがエッジとなってそれが繋がっていく。肩を並べてやっ て行くっていうことがありうるんです。そういう仕方でたぶん接点が持たれ、 かつ連携プレーが行われていくんですよ。産業廃棄物処分場建設反対運動で もまたそうですね。だけどこれが本当に細々とした患者と市民の繋がりかっ ていうとそうじゃなかった。市長選の話をしましたけれども、市長選で圧倒 的に反対派の市長を立ち上げてしまうっていう、それだけの繋がりの大きさ が証明されたんだと思いますね。最初はやっぱり小さなつながりなんですね、 小さなつながりだけれども私は質的には非常に強固な繋がりだったんだと思 うんです。水俣病展をやったときに患者たちがもう放っといてくれ、「寝た 子を起こすな」というんです。いや、「寝た子は起こさなくちゃいけません」 って、僕らがいうわけです。これってちょっとおかしいわけですけれどもね。 やっぱりやってもらってよかったという声にはなるし、それからこんなこと があったというのは初めて知った、という子どもたちの声があったし、そう いう声がいくつもの細い流れになって繋がっていく。 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く  市民社会の中で動き出すそういうエッジがいくつもあるし、それがなけれ ば、実際に人間の政治は十分な力になりえないんですね。だから市民社会の 中で課題を担うエッジが生まれることが必要です。それから官庁もそうです よ。官庁はどうしようもない壁ですけれども、しかしその壁のなかにも人間 がいるんですね。市民的な官僚もいるんです。あるいはそういうものを市民 が作り出すっていうか。環境省の極めて市民的な役人、市民的な課長がいる んです。その課長との関係の中で動いていくものがあるんです。もちろん内 閣が、あるいは自民党が何か言ってしまえば、そんなものは吹っ飛んでしま うわけですね。課長が何の抵抗もできない、それはもう明らかです。しかし、 小さいけれどもそういう変化が今生じているんです。前よりましですよ。全 く拒絶反応だったところをそうじゃない人たちがぽつんぽつんと出てきてい る。それが場合によったらある種の連携プレーになっていくんですね。水俣 フォーラムを支えてくれるような役人も企業も出てくるんですね。  上野登という学者が、北九州に照葉樹林帯を作った。だけどそのためには、 純粋なボランティアだけではとてもできなかったんですね。行政と企業の協 力を取り付けなかったらできないことです。上野さんはそのことを本に書い た。池内紀さんが、この本の書評の中で、「鍛えられた足腰さえあれば、時 には膝をしてもいい」といっている。鍛えられた足腰さえあれば、というと ころを抜きに膝を屈してもいい、というふうにいってしまう人がむしろ多い のが問題なんですけれども。  市民活動に響き合うエッジがわずかといえども、行政にも企業にもあるん です。それで企業にとっての責任の取り方っていうのは金を払うということ 以外に他にやり方があるんだろうか、という質問です。私は、被害者に恒久 的な救済対策を取ることから、企業活動を通して共生的な社会の方向性をプ レゼンテーションすることまで、企業にできることは沢山あります。しかし、 金を払うということは賠償金の考え方によりますね。現代損害賠償論の論理 というのは、産業の発展を止めることはできない、そうするとそこに常に犠 牲者が現れる。その犠牲者に対しては金で賠償すればいい。金によって平衡 を回復する。それが現代損害賠償論の論理です。ハンセン病にしろ、あるい 生存学研究センター報告 はカネミ油症にしろ、森永ヒ素ミルクの場合にしろ、結局金で償うという形 を取ってるんです。  しかし、この平衡説とは異なった意味を賠償金に求めた人もいます。三井 三池の裁判で賠償金を申し立てるときに 1円を申し立てた人がいた。1円の 賠償金って何なんだろう。市場的な等価交換という発想じゃあ全くないわけ ですよ。賠償金として 1円を要求するっていうのは、心からの謝罪というこ とにつながっているんだろうと思うんですね。今の現代損害賠償論のロジッ クでいえば金っていうのは所詮そんなもんです。だけど同時にそんなもんで すっていうものの中にね、意味を込めることができる。  だけど先ほどお話したように緒方正人さんたちがそれをさらに乗り越えて いこうということを考えたわけですね。これを形にするためにはどうしたら いいんだろうか。例えば、環境会計っていう、そういう会計を、今どの企業 も取り入れているでしょう。それと同じように、私は共生会計という会計の 立て方ってないんだろうかと思うわけです。皆さんに考えてもらいたい。と りわけ経営学やってるような人には。水俣病者のほうから言うと、いつまで も被害者と加害者っていう二分法的な息苦しい形を抜け出したいということ があるんですね。だから加害者の中にも人間を掬い出していこうとする。自 主交渉のときなんかもそうなんですよね。社長というその位置にもう、必死 にしがみついている人をそこから引き剥がそうとするわけです。それでそこ から人間を掬い出す、希望を持った人間を掬い出してくることを考えるんで すね。  それで、それが現実的かどうかっていう問題以前に、あるいはそれ以後に、 アクチュアリティを経験したいということがありますね。時代の中で私が関 わりを持ったアクチュアルな場所、例えば大本、若者、コミューン、それか らボランティア活動、市民活動、水俣、高畠との関わり等々、これは次から 次へと乗り換えになってないんです。お話したことは今でも、ずっと続いて いるんです、私の中で。実際にその関係も続いてます。大本との関わりもず いぶん長いわけだけれども、今でも続いています。権力派に反旗を翻した人 たちがネットワークの活動を始めています。宗教を超えたネットワークです。 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く そういう中でまたあらためてお付き合いの仕方が深まってくる。水俣との関 わりもそうですね。水俣との関わりも済んだことじゃなくてまだまだずっと 続いている。並行した関わりになっているんですか、という質問があったん ですけれども、実際そのとおりですね。並行しているんです。全てのことが、 並行し、重なり合い、交差している。並行しているんだけれども、例えば水 俣と、高畠との関わりっていうことになると、それは全く別個のことが並行 してるんじゃなくて、相互に響き合っているし、高畠での水俣展のように、 交差もしている。  水俣なら水俣との関わり方、あるいは立ち方が、その意味では一貫性があ るんだけど、その中で変わっていくんですね。私自身が変わっていくし、そ れから水俣のほうも変わっていくんですね。私がボランティア学会を播磨靖 夫さんたちと立ち上げていったときに、宇井純さんが、私がやって来たこと はボランティア活動だったと言って入って来られた。そのことはみんなにイ ンパクトをもたらしているんです。宇井純さんがボランティアなら、ボラン ティアはじゃあどこに立つんだって、市民社会の多数派の位置に立ってるわ けじゃない、市民社会の裂け目、エッジに立っていて、周縁と響き合ってい ることがはっきりしてくるわけです。ボランティアの立ち方がそこから人間 の政治のほうへ近づいていくし、そのことが分かってくると今度は逆に水俣 病者たちが市民活動に心を開いてくる。並行しているんだけれど相互の変容 があるんですよ、それぞれに。  だからそういう点でいうと反公害の運動ということからはじまったんでし ょうけれど、遥かにそういうことを超えていく、それで学問のほうが公害 という問題の立て方は今や古いといって環境というふうにいっちゃうんです ね。だけど現場で言えばむしろ、環境っていうふうな問題を立てたことで失 われていくものが認識されて来ていますね。もう一回公害ってことをしっか りと見取りながら、しかもそれを狭い意味の反公害に閉じ込めるのじゃなく て、もっと広い形の人間の政治のほうに拡張しようとしている。そういう状 況です。  チッソは企業としては、水俣の能の奉納に参加しないんです。その意味で 生存学研究センター報告 は、加害責任の共有というふうにはなっていないんです。だけど、個々の人 たちが参加する。こういうことは前例がなかったことなんです。実際私が、 能を奉納するための実行委員会に行くと、その実行委員会の中に楽しそうに している若者がいるんです。その若者はチッソに勤めている人なんです。真 昼間に委員会にいて、とうとうと自分の意見を述べている。で、お前さんこ んなところにいていいのって、みんなが彼が首になるぞって心配するんです よ。その社員の若い人は、いやあ、首になったっていいですよ、なんていっ てね、その場にいるんですけれども、チッソの社員が実際、かなり自由な仕 方でアイデンティティ抜きでその場にいるわけです。そういうことが、全体 化されてはいないんです。チッソが全員参加するということはたぶん永久に ありえないでしょう。だけどそういう人が一人、二人いるということがすご く重要ではないでしょうか。  私は言われてみれば若者に関心をずっと持っているということは、確かに そうですね。どうしてかなあ。自分ではよくわからないけれど、E.H.エリ クソンの言い方でいえば、extended youth引き伸ばされた青年期を殊更に 未完の状態に置いておく、たぶん自分の中のその問題かもしれないんです。 アイデンティティなんていうものはありえないし、それからそんなものを私 は獲得しましたって言ったとたんにそれはアイデンティティじゃないし。だ からアイデンティティは永遠に獲得できないものです。民族的なアイデンテ ィティっていうふうにいってしまうんだけども、そういうものじゃないよう なアイデンティティ、その人にとっての真正なアイデンティティということ でいえば、そんなものはやっぱりないのかもしれないですね。だけど、それ が、自分の中で青年のイメージに置き換えられてとらえられていくというこ とはあると思う。若者のイメージで。その若者ってなにかっていえば、変わ るっていうことですよ、他者と出会って自他ともに変るっていうこと。世の 中書き換えちゃうっていうことですよ。だからたぶんそれを自分の中で保っ ていくっていうことが、若い人たちとの付き合いとか関心に繋がっていくの かもしれないですね。 歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く  私の最初の本は、『やさしさのゆくえ =現代青年論』(薩摩書房)でした。 最初の本っていうのは多分に尾を引くんじゃないですか(笑)。最初の本に なにもかもあるんです。全てを投げ込むんですね。なにやっても、最初の本 のことが反復する、記憶みたいにしてね。天田さんもそうでしょう。自分の 原点は何か、と言われたと思うんです。これは立岩さんの言葉だと原風景か な。  私の原風景は、こういう光景です。二階の部屋から洪水の風景が音もなく 広がっているのが見える。満々とした茶色の洪水が見える。それが一階の軒 先まで来てるんです。二階の窓から船に乗って、洪水に浸かった家を去る。 その光景なんですね。その原風景に人はいないのです。人は見えない。だけ どその舟があって、洪水があって、水に浸かった家がある。そこから私が助 けられるというか、舟に乗っていく寸前の光景。あるときそのイメージを語 ったら親は驚いたんです、実際にそれはあったことだったと。私は宇都宮に 生まれましたが、父が数学と物理学の教員で、職場の関係で足利に移った。 その足利でそういう洪水があったんですね、渡良瀬川の氾濫だったんです。 それが私の最初の原風景です。  いくつもの原風景が絵のようにして自分の中で反復されるわけですね。渡 良瀬川に関わる原風景に、続きがあります。群馬県の太田市のおじいさんの 家に小さいとき遊びに行くんです。行く度に「偉いお上人さん」の話を聞か されるんです。蓑笠つけて、雨が降ると田の状態はどうかといって訪ねて来 る。変なじじいって思っていたんですが、名前も知らなかった。ずいぶん後 になってから田中正造と知るわけです。渡良瀬川の洪水の原風景と初めて結 びついた。  最近のことですが、谷中村跡地にミニスカートで石牟礼道子さんが立って いる古い写真を見ました。水俣病者たちは水俣病闘争のかなり早い時期に、 足尾・渡良瀬川・谷中村跡地を訪れています。田中正造と谷中村の人々の闘 い方に大いに学ぶところがあり、その精神は水俣病闘争の骨格に受け継がれ ています。水俣の原風景と谷中村の原風景は響き合っています。ですから、 渡良瀬川周辺で水俣展と田中正造・谷中村展を一緒に開きたいね、と宇井純 生存学研究センター報告 さんと話していましたが、宇井さんは亡くなってしまった。でも、これは実 現したい、私の夢ですね。理不尽なこと、不条理なことの経験から、初発の 問いか生まれます。後知恵として言えることですが、その問いは、個人史と 歴史の交差する場所に生まれます。問いは最初確たる形を取っていないけれ ども、手放さない。身体化されているから手放せない。問いの探究は他者を 呼び寄せます。他者との道行きがさらなる問いを生みます。問いと探究の、 反復・変奏・連鎖が、ライフサイクルと歴史の転回の中で、進行します。複 数の他者と織りなす研究の中に、再び初原の問いに遡行し、かつ来たるべき 問いを予兆して、戦慄の中に、両者が円環をなして出会う場所を創る探究行 為が始まります。見果てぬ夢のように。 (天田)せっかく議論が盛りあがってきたところで申し訳ないのですが、だ いぶ時間が超過しておりますので、ひとまずはここで終了させていただけば と思います。なお、ひとつだけアナウンスをしておきます。今日 18時から いつもどおりの代わり映えのしない店で、栗原先生を囲んで懇親会をするこ とになっています。この場で十分話せないことについて、あるいはもっと聞 きたいこと、たくさんあるかと思いますので、ぜひこの懇親会の中で直接 いろいろ話をしていただければと思っています。すでに 25分超過ですので、 ひとまずはこれで今日の栗原先生を囲んでのグローバル COE「生存学」創 成拠点の研究会「歴史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く」を終了さ せていただきます。栗原先生、本日は本当にお忙しい中、また長時間にわた って貴重なお話をしてくださいまして、まことにありがとうございました。 参加してくださった皆さんにもお礼申し上げます。 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから 特別公開企画 立命館大学グローバル COEプログラム「生存学」創成拠点 「アフリカ/世界に向かう―稲場雅紀さんから」 日 時:2007年7月29日(日)16:00〜 会 場:立命館大学衣笠キャンパス創思館303・304教室 話し手:稲場 雅紀(アフリカ日本協議会) 聞き手:立岩 真也・他 ◆稲場雅紀:その歴史   ◇アフリカ日本協議会 2002   ◇アカー 1991   ◇横浜エイズ会議、アフリカ日本協議会 1994   ◇難民申請裁判 2000   ◇寿町・大学 1988−  ◆アフリカと日本:歴史と現在   ◇歴史:中世 ~明治   ◇東武野田線におけるグローバリゼーション   ◇在日アフリカ人と HIV/ AIDS   ◇どんな事情でどんな商売を  ◆「先進国」(南)アフリカ   ◇ GNIの巨大さと人間開発指数の低さ   ◇低開発への開発   ◇成長と分配   ◇「経済成長を通じた貧困削減」という空文句   ◇人的資源の流出   ◇方策について  ◆社会運動の戦略・戦術   ◇二つの流れ   ◇ハイリゲンダム G8サミット   ◇両方が要る 生存学研究センター報告   ◇市民社会セクターと国家セクターの相互乗り入れ   ◇何をもう一つのものとするか   ◇アフリカの条件・可能性   ◇諸国にとってのアフリカ   ◇腹くくればさほどでないこと  ◆質疑応答   ◇ターゲット/モビライズ…   ◇傷/ウィリングネス  ◆質疑応答2:アフリカにおけるゲイおよびゲイ・アクティビズムの状況   ◇ナイジェリア/ガーナ/ウガンダ…   ◇南アフリカの当事者運動   ◇イスラム圏のゲイ   ◇想像のゲイ共同体   ◇南アフリカの当事者運動についての補足 稲場 雅紀 氏の紹介 1969年生まれ。1995年東京大学文学部東洋史学科卒業。現在アフリカ日本協議会事務局員 を務める。 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから 特別公開企画 立命館大学グローバル COEプログラム 「生存学」創成拠点 アフリカ/世界に向かう ─稲場雅紀さんから 日時 2007年7月29日(日)16:00~ 会場 立命館大学衣笠キャンパス創思館303・304教室 (立岩)どこから始めてもらってもいいんだけれども、僕、稲場さんと 2年 くらい前 ?からかな。 (稲場)そうですね。 (立岩)知ってはいたんだけれど、やっぱりよくは知らず、最初は AJFの稲 場さんっていう感じで。 (稲場)ええそうですね。 (立岩)メインは今日もそのアフリカの話、エイズの話になると思うんだけ ども、ただ、2、3回、飲んだりした時に、その前に話してもらったことも 含めて、あーこれでこれでこうなってああなって、ああそういうことなんだ、 みたいなっていうのがあって、僕は新鮮だった部分があるんですよ。で、自 分自身を語るのがそんなに好きでないにしても、さほど嫌いではないんだと すれば、AJFに至るっていうか、そのあたりから始めてもらってもいいの かな、と思いますが、いかがなものでしょう。 (稲場)はいはい、いいですよ。すみません、こんなにたくさんの方がいらっ しゃるとは全然、つゆ思わずですね、3人くらいでインタビューするものと、 それでプラス 1人か 2人の方がいらっしゃるのかなあ、というイメージだっ たんですけどこんなにたくさんの方がいらっしゃって、しかもいろんな研究 をされてる方が多いということで、非常に、こちらもまったく準備をしてな くて。 (立岩)今日はそれでいいんです、はい。 生存学研究センター報告 (稲場)で、適当なことを話すと思いますんで逆に、なんていうんでしょう、 皆さんもそのつもりで、というかですね、別に準備してきた話をするんでは ないので、アラがあったりとかあるいは突き詰めがないところっていうのが 非常に多いと思うので、そういう意味では、それを前提に聞いていたければ、 あるいはいろいろ意見をもらえればっていうふうに思います。ということで よろしくお願いします。 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから ◆稲場雅紀:その歴史 ◇アフリカ日本協議会 2002 ─  で、私がこれまで何をしてきたかっていう話ですけども。今アフリカ日本 協議会に勤め始めてから、2002年 4月に職員になって、もう早いものでも う 5年以上経っているということで。かなり時間が経っているわけなんです。  で、この 5年間っていうのはアフリカというところ、そして HIV/ AIDS、保健分野というようなものを軸にしながら、各種の活動をしてきた わけなんです。アフリカに関しては、長いことたとえば 1年とか 2年とか長 いこと行ったことは残念ながらなくてですね、いちばん長くてもせいぜい 1ヶ月とかそのくらいの時間で、ただ回数はそれなりに行っているという感 じで。だいたい今まで行ったのが 9カ国なんですが、54カ国もありますんで、 6分の 1しか行っていないというのがあります。しかも、英語圏中心で、仏 語圏の国っていうのはつい最近まで仏語圏であったルワンダに 1回行っただ けということですかね。そういう感じでアフリカというところと保健、もう ひとつは HIV/ AIDSにかかわる、市民活動であるとか、あるいはグロー バルなポリシーのこととか、そういうこと中心に一つは活動してると。  そして、あともう一つはこれ AJFの財源にもかかわることなんですけど も。アフリカにかかわる日本の NGOがだいたい合計で小さいものから大き いものまで含めて 120団体くらいあるわけなんです。で、アフリカでプロ ジェクトを持ってる団体は 40団体くらいあるわけなんですけども、そうい う NGOのコーディネーションとか能力向上、キャパシティビルディング、 とくに保健分野に関して HIV/ AIDSやマラリアとかですね、そういった ことに関して、あと、ポリシーとかアドボカシーの面で、日本の 40団体く らいある、国際保健協力の NGOのネットワーキング、そういったことをし てきています。日本の NGO、日本のいわゆる国際協力 NGO業界が、どう いう課題に直面しているかとか、あるいは日本のそのアドボカシー、特に国 際協力面でのアドボカシーっていうのが、どういう問題があるのかと、いう ようなことに関してはかなり、それなりに考えさせられるというかですね、 生存学研究センター報告 そういう状況にありました。  あと HIV/ AIDSにかかわるグローバルなアドボカシーの面で、G8や、 アフリカのポリシーの、アフリカの HIV/ AIDS問題あるいは、アジア、 旧ソ連圏とか、あるいは中東といったようなところでの HIV/ AIDSの問 題とポリシーの、グローバルな HIVポリシーに関して、いろいろな仕事を してきました。それががこの間の仕事、あと、在日のアフリカ人と HIV/ AIDS保健ということもしてきまして。  在日アフリカ人の人たちは日本に 2万か 3万人くらいいて、みなさんいろ んな社会的・文化的・政治的な文脈の中で生活しています。非常に興味深い 人たちです、そういう意味では。ほかのたとえばタイ人とかラテンアメリカ 人の人たちも多くいるんですけど、在日アフリカ人というのはそもそも遠い と、遠いところから来ている、と、いうこととかでね、あと、そのたとえば 日本でどういうかたちで定着していくのかっていうところの、ポリティクス とか、まあそういうところを見ていっても非常に興味深いっていうのが、あ るわけで、社会学をやっている方には非常に興味深い点だと思いますけど、 まあこういったところの仕事をしてきた、というのがあります。  これが私がこの 2002年からやっている仕事の概要という感じかな、とい うふうに思いますのでこの概要にかかわる部分について、どんどん聞いてい ただけるといいのかな、というふうに思っています。 ◇アカー 1991 ─  で、アフリカ日本協議会になんで来たのか、ということなんですが、私自 身は援助関係者とか、あるいはいわゆる国際協力っていうようなことに関し て、関心を常に持っていたというわけではないんです。わたしがその前に、 「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」というですね、大学、学問の世界と いう点では、河口和也さんなどが在籍している団体なんです。アカーという 団体でアドボカシー・ディレクターっていう仕事をしていました。私はゲイ なんですけれども、このアドボカシー・ディレクターっていう仕事は基本的 に異性愛社会向け、ヘテロセクシャルな社会向けにメッセージを発出したり、 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから あるいは政策を提言したり、そういういわゆるどちらかというと対外的な、 コミュニティに対する仕事ではなくて異性愛社会に向けて、さっき〔はじま りの立岩による紹介で〕特攻隊長みたいなっておっしゃってましたけど(笑)、 異性愛社会に向けてあの、こうタマを投げる仕事ですね。そういう仕事をか なり中心的にやってきました。  91年に私はアカーに参加したわけですね。まだその頃は大学生だったん ですが、91年にアカーに参加をして、参加したところ、社会運動経験とか 学生運動経験があるということで突然「府中青年の家の裁判」★の、裁判闘 争本部会というのに投げ込まれてですね、非常に苦労をさせられたんですが、 いちおうその、同性愛者の権利というものを、異性愛社会に向けて主張する ということを、何年間か、つまりその 91年から 2002年くらいまで、その間 やってきたわけなんですね。 ★この裁判については藤谷祐太「府中青年の家事件」(http://www.arsvi. com/d/g021990.htm)。  で、その府中青年の家裁判を 91年から 97年までの 7年間やってきて、こ れは勝訴に終わって、これは勝ててよかったわけですけども、その後は人権 ということでいうと、一つは東京都の人権政策にかかわる指針というのが あったり、あるいはまだいまだに可決をされていない人権擁護法案というの があってですね、この人権擁護法案に関しては、私としてはですね、21世 紀になるまでにいわゆる同性愛者、性的指向に関する差別の禁止というのを 盛り込んだ法律を作るというのが私のビジョンだったわけですが、法案に盛 り込まれたのはいいんですが、いつまでも可決されない。未だに可決されて いないという。しかも可決されない理由が二転三転なんです。最初はこんな 人権擁護法案では生ぬるい、っていうことで可決されなかったんです、民主 党が反対して。ところが、だんだん自民党のすごい極右派の人たちの力が強 くなってきて、こんな法案を可決したら国籍条法がないので朝鮮総連の人た ちが皆人権擁護委員になるので、日本人が拉致被害者救済の運動や北朝鮮を 糾弾する運動ができなくなる、などという、わけのわからない理屈でですね、 可決されなくなってしまったと。で、そっちが出てきたらもう今後は可決さ 生存学研究センター報告 れないんじゃないかな、っていうことで、私が 99年から 2001年、やった努 力はどうなるんだっていう、「私の時間を返してくれ」みたいな話なんです けど(笑)、いちおう、人権の分野ではそういうことをやってきました。 ◇横浜エイズ会議、アフリカ日本協議会 1994 ─  あと、HIV/ AIDSの文脈で 94年に横浜エイズ会議というのがありまし て、で、この横浜エイズ会議以降 HIV/ AIDSのことをしっかりやらなきゃ いけないという状況になったわけです。あともう一つはやはりそのアカー の中でもその HIV感染者の会員が何人かおりまして、そしてどういうふう に HIV/ AIDSの問題を考えていくのか、という、これはもう 90年代入っ てすぐにその課題が出てきたわけですし、また、そのアカーの創立 80年代 の中盤以降の、エイズ予防法の問題とかですね、そういった流れの中では HIV/ AIDSの問題と人権の問題とかですね、HIV/ AIDSとゲイ・レズ ビアン解放の問題っていうのは切っても切れない関係にあるんだということ でエイズの問題っていうのは常に、あったわけですけども、94年の横浜エ イズ会議以降なんですが、特にそのアジア、東南アジアや南アジア地域にお けるゲイ・レズビアンの運動っていうのが HIV/ AIDSの問題に取り組む ということを基軸としてですね、かなりこう拡大してゆく、という方向性が 出てきたわけなんです。  この東南アジアや南アジアの運動とどうやって日本のゲイ・レズビアンの 運動が連携するのかという観点で、特にアジア太平洋のエイズ会議というの が 2年に 1回、95年から、2年に 1回東南アジア各地で開かれていったわけ なんですが、この会議を軸にしてどうやって東南アジアや南アジアの HIV/ AIDSとかかわるゲイ・レズビアンの運動を強化してゆくかという観点で、 国際的な活動っていうものに参加してゆく、という契機があったわけです。  あと、もう一つは東南アジア、南アジアのこの運動に取り組む中でですね、 もう一つは欧米におけるラディカルなエイズ・アクティビズムというものが 存在していて、この欧米におけるラディカリズムとアジア・太平洋のゲイ・ レズビアンの運動っていうのがやっぱりいろんな意味で結びついてる、と。 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから そういう中でグローバルなエイズという問題について考える機会というのが とくに増えていったわけです。  で、ちょうどいろいろアカーの組織的な問題等もあってですね、私自身は 21世紀に入ってなんとかもうちょっと別のことをしたいというふうに思っ ていく中で、そこにもともと私が知り合いであった斉藤龍一郎さんという方 がいらっしゃってですね、ご紹介もあったかと思うんですけども、私はその 大学時代にアカーに入る前は、学生運動、いわゆる無党派の左派の学生運動 ですね、ノンセクトラディカルの学生運動とそれとかかわるいろいろな社会 運動に学生としてコミットしていた経緯があってですね、で斉藤さんはある 脳性まひの障害者の人がいて、脳性まひの障害者の人がいてこの人の介護の 交替がちょうど斉藤さんが夜入って、私が昼に入るという感じで、斉藤さん については知ってはいたんですね。で、ただ、アフリカのことをやってる人 だっていうことは知らなくてですね。私は、この人はものすごく古株のノン セクト・ラディカルの、きわめて過激な活動家に違いないとか思って、ま、 怖がっていたんですが(笑)、実際にはそうでないことが後でわかりまして ですね。  それで彼が、今アフリカのことをやっていると、アフリカ文学からアフリ カに触れたっていう人なんですけども。彼がですね、今、特に林さん、ご紹 介があった林達雄★さんがエイズ治療薬とアドボカシー、あるいはエイズ治 療薬の価格の問題で、しっかりグローバルエイズにコミットしたい、という ことを言っている、ということで、この分野に詳しい人が必要だということ だったわけですね。 ★ アフリカ日本協議会代表。医師。このCOE企画で立命館大学特別招聘教授。 →林達雄 http://www.arsvi.com/w/ht09.htm  私自身はそういう引きがあったのでこれ幸いとそちらのほうにですね移っ たわけなんですが、それがだいたい 2001年くらいのことなんですね。  ですので、そのグローバルエイズの問題というところで、こう接点があっ てそこでしっかりですねやっていかなきゃいけない、っていうところでアフ リカ日本協議会へ移ったということになります。 生存学研究センター報告 ◇難民申請裁判 2000 ─  ただひとつ問題としてあったのは、ちょうど 2000年にですね、イラン 人のゲイの人で、難民申請をするというケースがひとつありましてです ね、その人が、難民申請を 99年にしようと思ったんですが、ところが彼が UNHCR(The Office of the UN High Commissioner for Refugees=国連難 民高等弁務官事務所)に行ったらですね、難民申請というのは最初は法務省 にするものであると言われて UNHCRではあんまりサポートしてくれなかっ たんですね。で、法務省に行くのはいいけど収容されたり強制送還は困るな あということで、弁護士さん、別の弁護士さんに相談をしたら、難民申請な んていうものは 1年に 1人しか承認されないんで、実際、当時はそうだった のですが、あなたは止めた方がいい、と言われて難民申請を結局しなかった。  そしたら翌年 2000年の 4月に彼は出入国管理法違反で捕まってしまって、 そしてその後あたふたと難民申請をし、なおかつ裁判をしないとイランに強 制送還されてしまうということで、その支援グループを立ち上げて裁判をし なきゃいけないっていう事情があったわけなんです。  それがちょうどアカーと AJFのちょうど間に挟まっているんです。2000 年にそういった問題があるので、アカーとは別のところに、彼の支援グルー プをセクシュアルマイノリティ中心で作って、あと彼の関係していた外国人 の労働運動をやっている人たち、この辺を合わせてですね、作ってこの在留 権の裁判をするということが、これが 5年間もかかった。  ということで 2000年から 2005年までの間この事件をやらなきゃいけな かったということがありました。  彼は、結局一審二審とも負けたんですが、最終的に UNHCRがですね、 スウェーデンに交渉しっかりしてですね、スウェーデン政府が彼に永住権を 発行するということで、スウェーデンに移住することができた。  最終的にはハッピーエンドで終わったわけなんですけども、この 5年間、 ひとつは AJFをやりながらこちらの裁判闘争もしないといけない、という ような状況で、こういった難民問題に関するかかわり、あともうひとつは日 本の在留資格とか入管難民法の問題ということに関しても取り組んだ経緯が アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから あります。そういうようなかたちでアカーというのが 91年から 2002年くら いまでの間、ゲイの問題、日本のゲイ解放運動ということをやってきたと。 今はですね、自分はゲイでしっかりやらなきゃいけないとは思っているんで すが、その点に関しては現状で AJFがちょっと多忙すぎるのであまりやっ ていないんですね。その問題に関してきちんと取り組んでいないという、あ る意味、ちょっと今、参院選に候補が出ていたりとかいろんな動きがあるわ けなんですけども、そちらのほうには充分にはコミットできていないわけで す。  ただ、いちおうアフリカに行ったときはゲイの団体に会うようにはしてい てですね、たとえばナイジェリア、ガーナ、南アフリカ、ケニア、それ以外 どこだろう、そういったところのゲイの団体とはそれなりの、あとウガンダ ですね、それなりの密接な連携というかですね、それなりの人脈とか、あと 彼らのぶつかっている問題っていうのはどういうことなのかということに関 する情報収集はいちおうしています。  いちおうそれが、アカーからアフリカ日本協議会へという流れということ ですね。 ◇寿町・大学 1988 ─  で、その前なんですが、大学に入ってからですね、大学の無党派の左派の 運動っていうのを、そういう運動が強い大学でしたので、でなおかつその、 そういう運動に対する、何ていうんでしょうね、他党派の暴力的な介入とかっ ていうのは必ずしもない大学だったので、そういう意味ではやりやすい大学 だったわけなんですね。その中で、いろいろな社会運動に参加をするという ことをしてきた、ということですね。  ま、いちおうそういう経緯の中でいろいろな問題意識を持っていたという のが最初のとっかかりのところで、そこの中で一番大きな運動として自分が 直面したのは、横浜の寿町というですね日雇い労働運動があったわけなんで すけども、その横浜のですね、寿日雇い労働者組合という、日雇い労働者の 労働組合の医療班というところにかかわって、その医療班の月例の医療相談 生存学研究センター報告 とかですね、あと年末年始の集中的な医療活動ということをコーディネイト する立場に、彼らも実際人材が充分にいないので、そういうところにかかわ るとですね、実際マネージメントをすることになるわけなんですね。  で、マネージメントをしっかりしたという、その辺をする中で横浜市との 交渉とかですね、そういう関係で行政交渉のやり方とかですね、そういった ことをじかに学んでいったという経緯はあったかと思います。そういう意味 で、その最初に大学のいろいろな運動の中からその寿町の日雇い労働運動と 医療運動に直面をしてですね、ここの経験があるので。  ここっていうのは特に年末年始っていうのは言ってみれば、緊急救援なん ですね。基本的に難民キャンプにおける緊急救援とある意味非常によく似た仕 事をしなきゃいけないです。つまり、年末年始になるとあちこちの工事現場 に散らばっていた人たちが、そこの寮とかが閉鎖になるので全部その寿町と かに集中してくるわけなんです。何千人という人たちがそこに来るわけです。  彼らは非常に多くの健康問題、アルコール依存をはじめ、様々な慢性疾患、 成人病、精神疾患といった様々な問題や結核の問題とか、そういった問題を 全部持って寿町に帰ってくるわけですね。ですので、非常にある意味緊急救 援的なプロジェクトになってくるわけなんです。まあ、そこの経験をしてい たので、自分としては緊急救援の仕事はしたことないんだけども、逆にアフ リカ日本協議会に参加してですね、開発の現場、開発あるいは緊急救援の現 場に行ってる人たちと話をすることもよくあるんですが、そういう意味では そこでけっこういろんなことをやっていたことが、ある意味はったりをかま せるという意味で非常に役に立っているというふうには言えるかな、という ふうに思います。  そういう意味で、その横浜が原点としてあって、それで動くゲイとレズビ アンの会の運動っていうのがあって、そして HIV/ AIDSを、アフリカ日 本協議会というところに移っていったという経緯かな、っていうことですね。 ま、今はだからそういうことで国際協力のことをやってるわけですけども、 いわゆる援助関係者が持っている、いわゆる知の体系とは全く異なった意味 でのそのいわゆる実践、あるいはいわゆる知見を組み立てるというそういう アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから ことをしてきたので、その意味でのこちらとしてのいろんなものを投げると いうことはできているのかな、っていうふうには思っている感じです。ちょっ と長くなって、すみません。 (立岩)いやいや、もっと長くていいんです。寿町にかかわってたのは何年 くらいから何年くらいまでなんですか ? (稲場)寿町にかかわってたのは 89年末くらいから、とくにいわゆる寿日雇 労働者組合の医療班のマネージメントにかかわったのは 89年の終わるくら いから 95年、6年くらいまでですかね。かなり重なっちゃう、クロスオーバー してるんです。だからそれをマネージメントするのは非常に大変でしたね。 年末年始っていうのはとくに動くゲイとレズビアンの会は年末年始合宿とい うものをやるっていうのがあってですね、そっちに行かなきゃいけないんで すね。で、日程調整とかが非常に苦労しましたけど。日程上の問題で。 (立岩)いちおう大学は出たんですよね。 (稲場)大学出ましたよ。はい、出てます。 (立岩)よけいにいて、出たんですか。 (稲場)3年間よけいにいました。大学入ったのが 88年で、95年に出てますね。 あの阪神大震災があって、オウム真理教事件があった年に出たわけです。だ から 7年間大学にいたんですが、あんまり大学にいたというイメージではな いですね。ただ、大学、勉強にはなったんですね。というのは東洋史学科と いう学科に行って、もう卒業はもう無理かなあとは思ってたんですけど、非 常に良い先生方が実は多い学科でありましてですね、東南アジアのいわゆる 特に近代史とか、あるいはその東南アジアのその歴史学を勉強する中で、特 に東南アジアっていうのはそういう文献とかが必ずしも充分残ってなかった り、あるいは、たとえばインド文明とかそういう特定の文明の、こうなんて いうの、いろんなある意味辺境地帯であるがゆえにいろんなその文明の交差 点になっている地域であって、そういうところにおけるいわゆる歴史学調査 というものをどういうふうにする必要があるのか、でさらにその社会におけ る歴史っていうものをどう聞いていく必要があるのかということを、かなり 集中的に教えてくれる、まあとてもよい先生がいらっしゃいましてですね、 生存学研究センター報告 その授業は大変ためになりましたね。そういう意味では大学を出て、良かっ たなと思ってる(笑)っていう感じなんですけどね。 (立岩)あぁ、そうなんだ。で、『現代思想』に原稿、書かれてるの、あれ 2002年くらい ? (稲場)あれは 2002年ですね、一度だけ書いてますね★。 ★稲場 雅紀 20021101 「難民たちの「拒絶の意志」は誰にも止められない ─「ニッポンノミライ」を治者の視点から読み解かないために」 , 『現代思想』 30-13(2002-11)(特集:難民とは誰か) (立岩)さっきのイランの人の、難民の話のことを書いた ? (稲場)そうですね。 (立岩)ですね。いろんなことにかかわってこられた。なんていうかな、90 年代とか、その時期のいろんな文脈っていうのは、またそれなりに話を後で したいなと思うんですけども。斉藤龍一郎も、それから僕も、それから稲場 さんも、同じキャンパスにいたことはいたはずなんですけども、みんな学校 に行かなかったせいかどうかわかりませんが、学校で会ったことないですね。 あるいは、時期がね、斉藤さんはたしか僕よか五つくらい上。 (稲場)彼 72年か 3年に入って 78年か 9年に出てる。 (立岩)じゃもっと上か、まいいや。 (稲場)わかんないですけど★ ★斉藤龍一郎の生年は 1955年、立岩は 1960年、稲場は 1969年。 (立岩)ちょうどこう行き違い、入れ違いみたいにはなっていて。 (稲場)うん、そうですね。 (立岩)その 10年後とか 20年後とかにまあ、なんかたまたまというかこん な感じで今これやってるっていうか、まあそういった人たちではありますよ ね。ふーん。  そのへんのことで、ここの院生だと藤谷とかね、そっち(府中青年の家裁 判等)の方をむしろ聞きたいって人もいるわけだけれども、今日はどっちかっ ていうとアフリカ側、雑誌の特集ってこともあるんでね、そっちの方に行こ うと思うけれども。 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから ◆アフリカと日本 :歴史と現在 ◇歴史:中世 ~明治 (立岩)なんかすごくざっくりした聞き方で、質問にもなってないんだけれ ども、エイズっていう話からいってもいいですし、それからアフリカの貧 困っていうふうにいってもいいし、それは本当にお好きな方からってことで いいですけども…、なんていうんだろう、アフリカっていうとなんか大変、 みたいなのがあるわけじゃないですか。それはそれで別に間違いではない と。間違いではないんだけれども、でもそこをどういうふうに正確にってい うか、捉えるのかっていうことが難しいように思うんですね。やっぱりほと んど、僕らのところにアフリカの情報なんて入ってこないわけじゃないです か。ワールドカップでね、ガーナがとかさ、それくらいのことは時々あるけ れども。  日本だと中南米とか、アフリカの話とかほんとにほとんど入ってこない。 それは多分、ヨーロッパなんかと比べても違うだろうしアメリカ合衆国と比 べても違うんだろう、と思うんですよ。だからそもそも絶対的な情報が欠乏 してるっていうこともあり、であるがゆえにと言うか、言ってみれば何も知 らないってこともあるわけだけども、ま、それを初歩からっていうのも厄介 だけれども、端的に、端的にっていうかまあアフリカの今の、置かれている 状況っていう、いろんな思惑でそこにいわゆる先進国が、中国だったり、合 衆国だったりそういうところが絡んできているわけですよね。そんな話も後 のほうに置いていただくとしてですね、非常にざっくりした質問になってし まうわけだけれども、アフリカ、エイズ、貧困を絡めていった時に、どうい うふうにこれは見んとあかんのや、っていうあたり…からだんだん入って いっていただきましょうかね。 (稲場)あのアフリカについて何から話すのか、これ非常に難しくてですね、 何ていうんでしょうね、どうしたものかなあっていうのがあるんですけども、 そうですね、どこから話せばいいのかなあ。アフリカと日本はほとんど関係 がない、と思っている人方も多いと思いますので、アフリカと日本の繋がり 生存学研究センター報告 みたいなところから話をするほうがいいのか。そういうところから、実験的 に始めてみたいと思います。アフリカに最初に行った日本人─当時日本人 というナショナルなまとまりははっきりしなかったと思いますが─は、記 録に残っている限り、中世、戦国時代にローマに行ったキリスト教の使節団 です。たとえば有名な天正遣欧少年使節は、南部アフリカのモザンビーク島 などを通ってローマに行っています。五〇〇年くらい前ですが、当時はスエ ズ運河などまだありません。ぐるっと廻っていく。その方法を見つけたのが ベルトロメウ・ディアスやバスコ・ダ =ガマでした。その彼らが開拓したルー トを逆に辿って行くわけです。モザンビークに行って、モザンビークから南 アフリカを通ってヨーロッパに行く。これが最初なんですね。ですからあの 彼らの記録の中にモザンビークの話とかが出ていて、嵐などでそこに 1ヶ月 もいた、というようなことも書かれていま。モザンビーク島は世界遺産でで すね、ポルトガルが作ったお城とかいうものがまだしっかり残っているんで すが、日本人で最初に行ったのはその人たちである、というのがまずあるん ですね。  そこから鎖国時代を経て、その後近代になってアフリカに一番最初に足を 踏み入れた人たちについてですが、これは非常に特徴的です。もう亡くなっ てしまった白石顕二さんという、アフリカの映画をフォーカスして「東京ア フリカ映画祭」というのを九〇年代中盤くらいから仕掛けていった人がいる のですが、この白石さんが『ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)』(社会思 想社現代教養文庫「ベスト・ノンフィクション」、1995年)という本を書い ています★。 ★ 初版は 1981年。白石 顕二 1981『ザンジバルの娘子軍』,冬樹社 .  だいたい江戸時代の後半から明治時代の頭くらいにかけて、遠洋漁業の人 たちがケープタウンとかあの辺まで行くというそういう流れがあります。そ の本によると、その遠洋漁業の人たちをかなり追っかけるかたちでセックス ワーカーの人たちが、まずシンガポールに進出をし、そこからタンザニアの 沖合いにあるザンジバル島や南アフリカのケープタウンに進出したという経 緯があったのだそうです。これらの人々は、50年、60年もの間、これらア アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから フリカの港町でセックス・ワークやサービス業を営み、その生き残りの人が 昭和 40年代くらいに日本に帰国するということがあって、そのドキュメン トをその白石さんが書いたわけなんですね。つまり、日本人のセックスワー カーグループの拠点が明治にはすでにシンガポールにはあって、そこから拡 散する形でザンジバルには明治中期くらいにはかなりの数の日本人のセック スワーカーが住んでいるという状況だったらしいんですね。アフリカと関係 を持った日本人は、国際協力の NGOや、商社だけではなく、そういった一 般の人々が、経済の流れの中でアフリカと接点を持っているわけです。この 意味で、「遠い」ことは「関係がない」ことを意味しません。  また逆の話として、アフリカの、アフリカ出身のモザンビーク人とかです ね南アの人たち、南アの黒人が逆に当時のインドネシアやタイを通じてです ね、日本に入っていくケースというのがですね、戦国時代、室町後期から戦 国時代あたりまであったわけです。ですから織田信長の有名な家来の 1人に 黒人の人がいたっていう話がありますが、そういう意味でもやっぱりそのグ ローバリズムっていうのは基本的にはその 15世紀から進行している話です ので、そういう意味で、世界の流れ、その中でアフリカといわゆる日本の関 係というのもそのころからもうすでに存在はしているわけなんですね。 ◇東武野田線におけるグローバリゼーション  で、そういう流れの中で歴史的な流れっていうものはいちおうおさえな きゃいけないというのがひとつあるわけです。それと直接につなげるのは ちょっと無理があるかもしれませんけど、現代になってみると、たとえばケ ニアとかウガンダとか多くのアフリカ諸国の中で一番よく見かける自動車っ ていうのは日本車の中古車なんですね。ケニア、ウガンダなんかで見ると、 日本車の中古車のシェアっていうのは 9割以上に及ぶと。最近は中国のバイ クとか入って来ていますけども、バイクなんかにしても日本のバイクでいわ ゆるそのスーパーカブとかがですね、バイクタクシーとして活躍をしている わけです。で、その日本の自動車を仕入れて売るっていういわゆる輸出業に ですね、アフリカの人たちは多くかかわっていて、その関係で日本にも多く 生存学研究センター報告 のアフリカ人のビジネスマンっていうかですね、いわゆる中古車販売にかか わるアフリカ人の人たちが来て、実際に茨城県とか埼玉県の東部とかの土地 の安いところでヤードを作ってですね、そこで車を解体して部品にしてコン テナに入れてっていうそういう作業を彼らはしてるんですね。  だからたとえばこの前非常に面白かったのは、カメルーンの人たちが千人 くらい茨城、埼玉、千葉にいるわけです。この千人の人たちに対して HIV 啓発をするニーズがあって向こうの活動家を呼んでですね、いろいろまわっ たりとかしたんですけども、非常に興味深いのは、そういうヤードを持って る社長がですね、つまり有限会社を設立してヤードを持ってるカメルーン人 の社長っていうのがもう 10人とか 20人の数で存在するわけです。で、彼ら は自分たちのことを日本語で「社長」って呼んでるわけですね。それで、こ うパーティとかなんかやると、こうなんか社長同士とかだとか「社長」って こうやって握手してですね、こうやってると。それでさらに面白いのは彼ら はミスターの代わりに社長を使うんですね。次はシャチョー・ハリスのスピー チって。で、シャチョー・ハリスがスピーチして、次はシャチョー・リチャー ドを出して…(笑)  彼らはミスターの代わりに社長をつかってやってる、と。けっこうそうい う意味では日本の中小企業のオヤジとかがどういうふうにビールを注ぎあっ てるとかですね、そういう文化を社長同士で学びあってですね、いかにもス ナックで日本の社長とかがやるような振る舞いをコピーしてやってると。こ れ非常に面白いなと思って楽しく拝見させていただいたんですが。  あとはですね、実際本当にグローバリズムっていうのを感じる時っていう のがあるのは、たとえば彼らの車に乗せてもらって東武野田線の野田市の隣 の駅のあたりから茨城のほうにこう自分の宿のところにって連れてってもら うわけですけど、巨大なワンボックスカーにカメルーン人が 5人くらい乗っ ててですね、それで私だけ 1人日本人で、カメルーンとは何の関係もないよ うな田んぼとか畑が広がっていて、なんか雑木林とかがある、まったく純日 本的なところをカメルーン人だけが乗ってる車でとばすと。いう感じの大変 興味深い風景なわけですよ。 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから  実際その在日カメルーン人協会のミーティングとかも春日部市の公園とか でやってるわけですけど、30人くらいのカメルーン人が夕方くらいに三々 五々集まってですねそれで英語とかフランス語とかで話をしてるわけです が、なんでそんな、こんな公園なんかにアフリカ人が 30人も、それもカメルー ンの人しかいないわけですから、非常に変な話なわけですね。ところがその 春日部市っていう文脈ってのはそもそも、特にその埼玉東部とか茨城西南部 とかですね、千葉西北部っていう地域とかは国際、いわゆる自治体の国際化っ ていうのが一番遅れてるところなんですね。行政がそういうことを考える必 要がないと思っている。ところが、東武線沿線っていうのが家賃や地価が非 常に安いがゆえにですね、多くのカメルーン人が、カメルーン人だけじゃな いナイジェリア人もいる、そういう人たちが集中的に住んでいて、彼らは自 動車の中古車の部品を、中古車を壊して部品を作って輸出するという仕事に しっかり携わっているわけなんです。 ◇在日アフリカ人と HIV/ AIDS  それがなんで AJFの HIV/ AIDSの仕事と結びつくか、ってことです が、これはですね、非常に大きな問題としてあったのが、その自動車の中古 自動車の部品を扱う人たちの中に、カメルーンと日本を移動しながら部品の 買い付けに当たるいわゆるバイヤーの人たちがいるわけです。この人たちが やっぱりそれなりの資本を持っていて日本に買い付けに来て、これだけ買う とかやってですね、輸出して、それで実際カメルーン最大の港町であるドゥ アラに陸揚げして、支店を開いて、部品販売をするわけです。こういういわ ゆる買い付け師の間で HIVの感染が拡大したわけですね。で、彼らはやっ ぱり個人営業的にやってるので競い合いの世界なわけですよ。つまり自分が 病気だとかそういうことになると他人に蹴落とされるので、病気でもかん ばってやんなきゃいけないと。そういうような状況の中でですね、どうして も HIV/ AIDSってことを自覚したくないっていうのがこれ当然あるわけ なんですね。  で、いろんな病気があるにもかかわらず自分が大丈夫だって言ってそれで 生存学研究センター報告 日本に来て、で日本で死んじゃったりするんですね。そういうケースがたと えば去年 2件あったと。彼らはキリスト教徒ですから遺体を燃やすことはで きないので、遺体をそのままで冷蔵して向こうに返さなきゃいけない。これ にすごいコストがかかる。200万円とかかかるわけなんです。で、このコス トを皆でカンパをしあって集めて組織的に 200万円集めて、そして遺体を送 らなきゃいけないっていう、これが彼らの信仰上の任務なんでやるわけです ね。で、イスラム教徒も含めてやるわけですけども、そのコストが非常にか かるということと。  あともう一つは、やっぱりそういうかたちで仲間が死んでいくっていうの は非常に辛いと。そういう中でこの HIV/ AIDSの問題をちゃんと啓発し なきゃいけないっていうところで、向こうのですね、HIV感染者、HIV感 染して彼はもう 20年ぐらいになるすごい古株のカメルーンの活動家で、ア フリカの HIV感染者の運動、ネットワークを作った人がカメルーン人の活 動家でいるわけですけど、彼はそのへん非常にアウェアーでですね、これや んなきゃいけないと思っていたわけですね。それで日本に、彼を呼ぼうって いうことで在日カメルーン人協会と AJFとが連携して、それで彼を招聘す るということをしたわけなんですけども。なんとその彼がですね、94年に 横浜エイズ会議に来ていた人なんですね。そういう意味でグローバルなエイ ズアドボカシーと、こういった関係という非常に共通するというかですね、 上手く重なることっていうのもあるんだなというふうに思いましたけれど も。  今話したことは何かと言うと、アフリカと日本はいかに遠いといっても、 実際には否応なしにグローバル化の中で密接に結びついている。なんとかビ ジネスチャンスをものにしたいというカメルーン人や、ナイジェリア人と いった人たちが、喰らいつく形で日本に住み着き、会社を設立し、ビジネス の実績を作っている。カメルーンやナイジェリアというのは、実は、日本か ら見ると、アフリカの中で関係が濃い方の国ではありません。せいぜい、サッ カーとか。最近はナイジェリア人の芸能人がテレビで大活躍していますが、 基本的には、「日・ナ関係」というのはあまり強くはありません。ところが、 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから 向こうのアフリカの人たちの方は、日本車という経済的なメリットをきちん と位置づけて、喰らいつくようにして来ている。 ◇どんな事情でどんな商売を  さらに加えれば、どんどんディテールに入っていくとよくないんですけど も、このカメルーン人の人たちが来ているカメルーンの地域っていうのは、 カメルーンというのはですね旧英領の地域と旧仏領の地域が合体して出来た 国で、旧英領の地域はわずか 2州しかないんですね。カメルーンはギニア湾 の最奥に、直角三角形という感じで存在しているのですが、その斜辺の部分 にちょっと飛び出ているわずかの地域が英領地域です。このカメルーンとい う国は基本的に旧仏領の地域出身者が支配しています。もともとは対等な立 場で合併してカメルーン連邦共和国としてできたものを、後で旧仏領出身の 大統領が、連邦制をやめて、英領の地域を暴力的に併合してしまった。その 中で旧仏領の地域の人たちが政府・権力の権限を全部握っている。逆に、英 領地域の人たちは権力から疎外されているがビジネスはできる人たちです。 この人たちが成功するためには、とにかくビジネスでやっていかなくてはい けない。その中で、日本で会社を作って輸出に携わるというのが中産階級の 上位くらいの、ある意味エリート階層の中でひとつの成功のスタイルとして あるんです。つまり、彼らは自分の国での権力に預かれないという問題を抱 えているために、なんとかこの国際的に成功するというステイタスを得たい わけです。  そして彼らは旧英領なので英語が喋れる。さらに一定の高等教育を受ける ためには大学は旧仏領カメルーンにある、首都のヤウンデ大学に行く、そう するとフランス語も喋れるんですね。彼らは英語もフランス語も喋れる人た ちなわけです。非常に興味深いところなんですが、実際その春日部市の公園 で在日カメルーン人協会がミーティングをしているのを聞くと、だいたい基 本的には英語で喋ってるんですけど、中にフランス領の地域から来た人がい て彼らはフランス語で喋るんですね。で、英語とフランス語がちゃんぽんに なって、それで誰も困ってないっていう、そういう非常に多言語、しかも彼 生存学研究センター報告 らはだいたい北西部州という、同じ州の出身の人たちが多いのだけれども、 民族語がたくさんあるもんだから、やっぱり英語で喋らないと民族語では通 じないってことがあるわけですね。  それで、出身地から数万キロを隔てた春日部市で、英語とフランス語のバ イリンガルの会議を公園に集まってやっているという、非常に興味深い姿が あるわけです。そういう意味で、日本とアフリカの関係というのは、グロー バリズムのいわば最先端ともいえると思います。インフォーマルセクターの ビジネスが国境を越えて、英領カメルーン地域の中産階級が、のし上がるた めに日本に来る。そういうパワーを彼らはしっかり持っているわけなんです ね。  まあ、そういう意味で非常にこう何ていうんでしょうね、日本とアフリカ の関係っていうのはグローバルなものがあると。そういうことを考えると、 日本とアフリカの関係において距離とか歴史的な関係の浅さというのは実は 障壁としては重要ではなくて、逆に言うと、「のし上がる」必要のない日本 人の方があまり考えてないというだけの話だというふうに言えるかもしれま せん。 (立岩)やあ面白かったけど、今その、2万人とか 3万人って言いましたっけ。 日本在住のアフリカの人って、まあ、そういう 1000人くらい、カメルーン の人…そういう感じの、商売してる…。他はいろいろって感じですか ? (稲場)そうですね、あと、ナイジェリア人も同じような仕事してる人が多 いんですけど、あともうひとつはナイジェリア人は、都市の風俗産業に非常 に進出をしている、と。これは非常に興味深い話なんですね。たとえば六 本木とかで客引きをしているナイジェリア人っていうのはすごくたくさんい る。東京に行かれて六本木に行くとびっくりすると思いますけど、やたらア フリカ人が客引きをしているわけですね。で、その多くはナイジェリアのあ る一部の地方出身の人たちなんですけども、彼ら、日本人が経営する風俗、 いわゆるそのクラブとかですねあるいは実際の風俗産業の経営、なんていう の、その客引き員としている場合と、ナイジェリア人が社長をやっているセッ クス産業とかあるわけです、セックス産業っていうか、いわゆる何ていうん アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから でしょうね、その…ナイジェリア人が社長をしていて、たとえばナイジェリ アマフィアとロシアマフィアの関係の中で人身売買で、ロシア人のセックス ワーカーがたくさん来ていて、ナイジェリア人が社長、ウクライナ人やロシ ア人はいわゆるそのセックスワーカーとして働き、日本人が事務員をしてい る、そういうバーとかですね、クラブっていうのが六本木にはけっこうあっ たり、あるいは歌舞伎町にもあるわけですね。  ナイジェリア人の場合は、そういうかたちでその…何ていうんでしょうね、 自動車輸出にかかわる人たちと、もうひとつはそういうかたちで風俗産業の 経営とかその客引きにかかわる人たちっていうのが、かなりいるわけなんで すね。他の民族でこういう動き方をする人たちはあまりいない。在日のアフ リカ人の顕著な特徴は、オーナーシップです。日本の工場などで出稼ぎで働 く人たちもいないわけではないですが、どちらかというと、アフリカ人がオー ナーシップをもって日本で会社を作る形で存在し、そこに、同郷、同民族の アフリカ人たちが集まってくる、という形です。これは、実際向こうの中で もそれなりに資金のある層が日本に来てるという経緯もあることもあるとは 思いますが。  あとはもちろん工場で働いてる人たちもいますけれども、まあ、そんなに 多くはないと。やっぱりその多数派であるところのガーナ人、カメルーン人、 ナイジェリア人というような人たちは自動車輸出か、もしくはそういう風俗 産業、客引き系、っていうようなところで仕事をしている、かなり自営業系 の人たちが多い。ここは非常に他の民族なり、アジア人の日本に来ている人 たちとかなり違う、という…。 (立岩)アジアとも違うし中南米っていうのとも違う。 (稲場)ちがいますね。 生存学研究センター報告 ◆「先進国」(南)アフリカ ◇ GNIの巨大さと人間開発指数の低さ (立岩)へー、その話またあとで聞きたいと思う。で、ちょっとなんかガラっ といっぺん、アフリカはアフリカの話なんだけど、ちょっと戻して違う話に 行くとね、この間栗原さん(『現代思想』編集部)と稲場さんと(アフリカ 日本協議会の総会の後)後楽園で飲んでて、南アフリカの話になって、南ア フリカは世界で一番の先進国だみたいな、そういう話があったじゃないです か。 (稲場)はいはい、そうですね。 (立岩)で、聞いて、そうかなっていうか、そうだなって思ったんだけど、 その辺の話を繰り返しつつ、もうちょい先の方にちょっと行けたらなあと思 うんだけど、そっち行ってみましょうか。 (稲場)今の在日アフリカ人の話というのは、基本的に、グローバリズムの 一端というものを象徴的に表している話です。つまり、日本人の側は、日本 とアフリカ、日本とカメルーンなんてほとんど関係がないと思っている。と ころが、実は、在日カメルーン人から見れば、日本は非常に深い関係をもっ て、大きなものとして存在している。アフリカ側の強力な経済的な意思があっ て、新しいつながりができてきている。そのひとつの例としてその在日アフ リカ人の話をしたわけです。南アフリカの話は、これとは別の意味でのグロー バリズムの現れとしてお話しできるかもしれません。  南アフリカ共和国っていうのは、ある意味非常に興味深い国なんですね。 というのは南アフリカ共和国の世界における GNI、国民総所得、これは国 民総生産、GNPと同じですが、これが何位かって見ると 27位なんですね。 非常に高いわけです。つまりミドルパワーからもうちょっと上くらい。今の ところ一人当たり国民所得で見ると、世界銀行の分類では、まだ高中所得国 なんですが、高中所得国の中でも上に位置する国なわけですね。で、もうす ぐ高所得国になる。そういう意味でその 27位、調整していない GNIで 27 位なんですね。これを購買力平価の GDPでみると 21位まで上がるんです。 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから つまり経済的には非常に大きな国である。  ところが、国連開発計画(UNDP)のいわゆる人間開発指数(HDI) ─ これはたとえば教育や保健の各種の数値、乳児死亡率とか妊産婦死亡率など を計算して一つの指数にしたものなんですが、これで見るとですね、この国 は 121位なんですね。つまり、GDPなり GNIの経済的な巨大な、いわゆる 経済的などのくらいのものを生産してるかということでいうと相当高い国に なるわけですが、ところが、1人当たりのいわゆる人間開発指数で見ると、 100位ぐらい落ちてしまう。それでも、アフリカ諸国の中では上のほうに位 置することにはなっていますが、それでも非常に低い。これだけ格差がある、 つまりその格差があるっていうのは経済的な格差っていうよりも、GNIの 巨大さと人間開発指数の低さっていうことがここまで差がある国って言うの は、南アフリカ共和国だけなんですね。  もちろんブラジルとかですね、あるいはグァテマラのような GNIと人間 開発指数を比較したときに、相当な格差がある国っていうのはいちおうある んですけど、南アフリカ共和国はその中でもずば抜けて、大きな違いがある と。これが意味しているものっていうのは何なのかっていうことなんです。 ◇低開発への開発  アフリカというのは、最近になって援助の対象として発見した日本はよく 間違えることなんですが、アフリカというのはけっして「未開」のところじゃ ないんですね。未開のところではなくて、開発はされてるんですよ。「低開発」 なんですね。つまり、未開発と低開発の違いっていうのはこれよく従属理論 なんかでよく出てくるところなんですが、ところが今従属理論勉強してる人 は誰もいないのでこれ問題あるんですが、未開発っていうのはまだ開発はさ れていない、っていう話ですね。ところが低開発っていうのはこれまで長い 歴史の中で開発をされていった結果としての低開発である、と。この「低開 発」と「未開」っていうのはまるっきり違うものなんだということをまず考 える必要がある。このいわゆる低開発の状況というものを一番象徴的に表し ている国が南アフリカ共和国である、ということなんです。つまり人間開発 生存学研究センター報告 指数が 121位である。  これはなぜ生み出されたのかというと、アパルトヘイト時代、狭い意味で のアパルトヘイト時代っていうのは 1948年に国民党が政権をとって、人種 差別の法体系というものをしっかりですね、ナチスドイツのまねしてしっか り作ったと。これが基本的に 1948年のアパルトヘイト体制ということで、 これが 46年間続くわけなんですが、実際には、人種差別と隔離、搾取の歴 史は、その前の時代から延々と続いています。このアパルトヘイトの時代に おいて、白人支配の構造の中で、もっとも近代的な、きわめて大規模なやり 方で、資本の論理に基づく労働力の持続的かつ強制的な動員システムが構築 されました。つまり、南ア全体が巨大な労働キャンプと化したといって良い と思います。黒人はあそこに住まなければならない、ここには住んではいけ ない、という黒人居住区を都市の近郊に作り、そして夜になったらそこに全 員が帰らなければならないというシステムにする。そして朝が来たら、特定 のいろいろな交通機関で、彼らを労働力として都市に送る。鉱山や白人農場 に関しても同様のシステムを作る。隔離区を作り、そこに押し込め、好きな ときに好きなだけ労働力を動員できるシステムを作る。  その極めて近代的かつ効率的な労働力の動員ということを可能にしたシス テムが、いわゆる「ホームランド」というシステムです。ホームランドとは 何かというと、南アフリカ共和国の特定の地域、産業もなく農業もできない ような荒れ地を指定して、そこをコサ人なりズールー人なりのホームランド にし、形式上、すべてのコサ人やズールー人はそこの「国民」であり、そこ に住まなければならないという原則を作る。これにより、コサであればトラ ンスカイ、ツワナ人であればボプタツワナといったホームランドが作られた わけです。コサの人たちは本来的には全員強制移住してトランスカイに住ま なければならない。トランスカイ以外の地域に住んでいる人間は、何らかの 特殊な許可を取らなければならない、という形で制度を設計するわけです。 隔離区に押し込め、そこから鉱山や白人農場に動員する、という徹底管理の 構造をこうやって作っていく。  そういう形で徹底的な管理をした結果として何が起こったかというと、こ アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから れは強制移住と移民、出稼ぎというシステムを人為的に構築するわけですか ら、当然のことながら伝統的なコミュニティというものが破壊されるわけで すね。そして一人ひとりがコミュニティに属するのではなく、単なる労働力 として分解され、資本の論理の上で新しく再編されていく。黒人居住区や ホームランドというのは、そこで何か自分たちのビジネスを始める可能性の ない地域でしかあり得ない。彼らの主体性のよってたつところをすべて奪い、 受け身の労働力へと「低開発」していくわけです。伝統は解体され、彼らが 自分自身のオーナーシップによって自分自身で何かを作っていくというよう な、近代的な生産様式を主体的に編成していくための余地も与えられない。 そういう構造の中で、徹底的な貧困、そしてまたその彼ら自身が自らの知や 資源というものを活用・発達させることができないような方向性に、ギュッ と押し込めていく。そういう流れの中で彼らは「低開発」へと「開発」され て行くわけです。この低開発が、「未開」と全く違うことは、一目瞭然です よね。低開発の状況にさまざまな制度を使って押し込めていく。これが基本 的にアパルトヘイトの構造です。その結果として、国家が巨大な労働キャン プになる。  このアパルトヘイトというものが 1994年に一応終わります。ただ、こう いうシステムが持続的に形成され延々と機能し続けた後で、「さあ、アパル トヘイトは終わりです」と言って、どうなるというものでもありません。ア パルトヘイトが政治的に終わったということは、南アフリカ共和国はこの GNI、すなわち購買力平価による GDPで世界 21位という巨大な経済規模と、 人間開発指数 121位という極めて劣悪な人間環境、これらを二つながらにし て作り出したこの経済システムを、どうしていくのか、自ら考えなければな らない状況になったということです。 ◇成長と分配  しかし、時すでにグローバリズムの時代、ソ連もなければ社会主義という ものも、資本主義に脅威を与えるようなあり方では、存在していない。ポ スト・アパルトヘイトにおいて、政権は、基本的に南アフリカのアパルト 生存学研究センター報告 ヘイトを倒すためにずっと努力をしてきた、アフリカ国民会議(ANC)と、 ANCをずっとサポートしてきた強力な労働運動組織である南ア労働組合会 議(COSATU)、そして、ANCに浸透して政治的にリードしてきた南ア共 産党という共産主義党派の三頭政治という形になりました。出自からいえば、 彼らは「左翼」であった、しかし、彼らとて今の国際経済の流れの中で南ア の優位性を維持していく上で、この経済の 21位というのを疎かにしてよい わけではありません。この 21位というものをもっと大きくしていかなけれ ばいけない、ということが発想の前提条件になる。  それでは一方、121位の人間開発指数をどうしていくのか。これを何とか するためには分配ということが当然必要になってくるわけですが、どうして も今の世界では、この分配というものが当面、世界 21位の経済を犠牲にす るものにならない形で経済政策を遂行しなければならなくなる。また、新し く支配者になった連中も、その方が儲かる。もちろん、マンデラ政権とその 後継であるムベキ政権は、そうした中で、社会保障というのも、社会保障制 度やあるいは非常に劣悪なスラム街や、スクウォッターズ・キャンプに住ん でいる人たちに家を供給するというような社会保障政策もとってはきまし た。ところが、そもそも、これまで強制労働キャンプと劣悪な収容所だった ところに、社会保障政策を急に導入しても、充分に機能はしません。機能さ せるに足るシステムもありません。逆に、社会保障制度の運用が、間接的に HIVの蔓延を促進するといった逆転現象すら生じていく。そういう中で社 会の二分化が、ますます加速化される、という形になってきています。  南アフリカ共和国というのは、そういう意味で非常に現代の世界のあり方 を象徴している国です。ある意味、ここまで引き裂かれた国家というのはあ りません。しかし、それは歴史的な流れの中で、資本の論理を先鋭化させる 中で作られてきたものです。南アというのはアフリカでも非常に特殊な国で ある一方で、一面、植民地主義に徹底的に浸食されたアフリカそれ自体を端 的な形で象徴している国家でもあります。また、資本の論理を「人種」とい うイデオロギー装置を利用する形で追求し極端に効率的な労働力の動員を実 現したという点では、新自由主義経済の独自の現れということもいえる。そ アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから の結果、極端に引き裂かれた社会。これはある意味グローバリズムの行き着 く先であるというふうに言えないことはないんですね。その意味で、南アフ リカ共和国というのは、一種、というイメージを持っ 「世界の最先端」である、 ています。 (立岩)南アフリカの場合はその、いわゆる総量っていうか GNPっていうか、 ひとつやっぱり天然資源。 (稲場)そうですね、金。 (立岩)が、ある。それがかなり寄与してると。そういう意味で言えば元手 はあるっていうか、総量はあると。総量はあるんだから単純に考えれば分け ちゃいいじゃないかっていう話になるわけだけれども、それはまあ、おっしゃ るように上手くいってないと。上手くいってないときのね、そのファクターっ て、そういう仕掛けをそもそも作ってこなかった、あるいはむしろ積極的に 破壊してきたなかでそう簡単にアパルトヘイトやめたからって新しくという か、そういう仕掛けが出来ないっていう、そういうことなの ?…か、なんか 基本的にそういう了解でいいんですか。 (稲場)南アには、金、ダイアモンドなどの巨大な鉱物資源と高い工業力が あります。先ほど中古車の話をしましたけども、南アは中古車の輸入は禁止 なんですね。南アの車は全部新車なんです。トヨタにしてもダイムラー・ク ライスラーにしてもベンツにしても、南アがヨーロッパ向けの高級車を作る ひとつの生産拠点になっている国である。さらに白人の資本主義体制が蓄積 したところで、たとえば携帯電話とか、集約的に資本を作り運営するという ような、資本の運営能力に関して、南アフリカは他のアフリカ諸国に比べれ ば格段にキャパシティがあるわけです。それは白人が中心なのですが、アパ ルトヘイトが終わって以降は、能力のある黒人が政治権力との関係もあって かなりの程度入ってきています。アパルトヘイトは、白人が白人であるとい うだけでヨーロッパ並みの生活をし、なおかつ物価は途上国並みであるとい う、白人にとっては理想郷みたいなものを作るためにあったわけですが、そ れが、ある程度シャッフルされてきたといえないわけでもない。しかし、ア パルトヘイト時代の中で教育を充分に受けられなかったアフリカ人の層は、 生存学研究センター報告 なかなかそういうところにのし上がっていけるわけではないので、結局、階 級の線は人種の線と共通する形で引かれてしまってるわけですけれども。  南アフリカ共和国の場合、「分配は可能か」という問いはなかなか難しい。 実は、南アフリカ共和国の国際競争力というのは、精密機器など、洗練され た製品を作ることに関しては必ずしも高いわけではありません。それをどう 洗練させていくのかというのは非常に大きな勝負どころであるというのがひ とつあります。そういう意味で、工業の国際競争力の確保をやらなければな らない。そういう競争力をつけなければならないというのが一方にある。ま た、競争力の弱さが意味するのは、南アフリカ製品が優位性をもって展開で きるのは、他のアフリカ地域に限られるということでもあります。つまり、 世界全体で見ると、南ア製品は、タイとかマレーシア製品と比べて比較優位 性があるわけではないんですね。そうすると、南アは、世界の他地域という よりは、他のアフリカ地域に対してどういうふうに、巨大な資本帝国として 進出するのかということが南アフリカの大きな課題になってくる。 ◇「経済成長を通じた貧困削減」という空文句  グローバリズムの中で勝負しなければならないという中で、結局彼らが 持っている国富をどう再分配するのかという、その分配と成長というものを 両方とも実現するための戦略を彼らは持っていないわけなんですね。本当は、 富の偏在を何とかしなければ、南アの持続的・長期的な発展はない。ところ が、では成長と分配を同時に進められるか、というと、現在の競争力なり経 済成長を維持するためには、分配を進めることができない、という状態に陥 る。結果として、南アは数年間に渡って相当の規模の経済成長を遂げている わけですね。この五年、六年の間、五パーセント以上の経済成長をしている。 ところが、この五パーセント以上の経済成長をしているということが、たと えば今の貧富格差というものを変えるところに繋がっているかというと、全 く繋がっていない。格差はもっと広がっている。  日本や先進国が今、アフリカ支援において打ち出しているスローガンとし て「経済成長を通じた貧困削減」というものがあります。しかし、南アのこ アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから の事例は、「経済成長を通じた貧困削減」がいかに不可能か、いかに空文句 でしかないかということを示しています。経済成長をしてもそれが一切貧困 削減に繋がらない。経済成長は、それを「通じ」れば貧困削減になる、とい うものではありません。いかに「分配」を経済構造と運営の機能の中に位置 づけていくのか、その戦略がなければ、「貧困削減」はできません。経済成 長はあくまで経済成長であり、貧困削減というのは、その経済成長というも のに対して、明確なビジョンなりポリシーなりというものを、それとの連関 関係の中で位置づけていかなければ、無理なのです。南アだけの問題ではあ りません。途上国の経済を考える上で、「経済成長」の戦略はあっても、こ れを「分配」し、「貧困の削減」につなげていくための経済戦略が、理論も 含めて全く形成されていないということが非常に大きな問題です。その結果、 「経済成長を通じた貧困削減」というのは、単なるマントラと化し、このマ ントラにおいて実践的に追求されていることは、単に経済成長をするという ことだけであって、それを通じて「貧困削減をする」というのは、単にポリ ティカル・コレクトネスとして付け足されているにすぎない。「貧困削減」が、 国内経済運営の実践に全く降りてきていない。これが南アに象徴的に現れて いると思います。しかし、分配がないままでは、南アが結局のところ、持続 的な経済成長をできず、早い段階で行き詰まることはほぼ明らかです。その とき国際社会は、南アの経済政策のまずさを責めるのでしょうが、それは誤っ ています。そのときには、国際社会は、共犯者として、より大きな責任を負 わなければなりません。 (立岩)私は『現代思想』に書かせてもらっている連載★でも、成長いらな いみたいに受け取れる話していて、いや実際、成長のために人を強制し他に 使える金をそこに回してしまう「政策」はいらないと考えているんですよ。 ただそれは、どこについても言える話ではない。それが必要でありまた本来 可能である地域は確実にあるだろうと。圧倒的な失業率があるということは 労働力はあるということでもあり、そして貧しいということは消費する財が 足りないもっとあってもよいということですから、他に必要なものが揃えば、 生産は増えるし増えるべきだということになります。 生存学研究センター報告 ★立岩 真也 2005─「家族・性・市場」,『現代思想』  ただ南アフリカは総量としてはあるんだというお話で、それだけ見れば、 あるものを分けろよという話になるはずだと。ただ、一つは国際競争の問題 があって、競争できる部門の競争力を維持するために云々、ということにな る。この話には、結局出したくない輩が出さない言い訳として使われる部分 と、そうとばかりも言えない部分とあって、そこがどうなのか、そして後者、 グローバリゼーションのもとでやむをえずというところがあったとしてそれ にどう対処するかという問題があるということだと思います。  で、とくに全体として足りないところで、何が足りないか。暮らせるため の、あるいは市場でなんとか生き残っていけるだけの、技術を含む生産財が かなり重要だろうと。日本の場合だとたとえば六〇年代に高度成長があった わけですけれども、そこで生産されたものがそこそこに、少なくとも一時期、 行き渡った。その前に、ある種の所有形態の変更、土地改革、農地改革があっ たわけじゃないですか。そういうものが組み込まれないと、結局偏りが残る というか、是正されないというか、そういう形で成長が還元されないという ことは、これは一般的に言えることなんでしょうけど、一つにはそこがその まんまいっちゃってるということなんでしょうかね。 (稲場)そうだと思います。戦後日本の大きな特徴として、大規模公共事業 を地方でやるというのがありますね。4回にわたって繰り広げられた全国総 合開発計画が日本の高度経済成長の富を地方に移転することにおいて非常に 大きな効果をもたらしました。たとえば東京とか愛知だけが発展するという 形ではなくて、少なくともナショナルミニマムはどんな地方に行っても維持 できるという形を一応作り出した。しかし、こういう大規模公共投資みたい なものは、今の途上国の経済政策では困難です。  国際通貨基金(IMF)や世界銀行の指導が入るから、というのが一つの理 由です。社会保障にしても、日本の場合、国民皆保険や生活保護といった社 会保障制度を国家が担保したわけですが、アフリカなどでは、財政運営をコ ントロールしている IMFや世銀が、各国政府の社会保障や公共投資への支 出を極端に切りつめるように指導してきた経緯がある。 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから  また、南アフリカ共和国は高中所得国で世界銀行や IMFが財政を仕切っ ているわけではありませんが、グローバル時代に資本を呼び込むためには短 期的な経済指標をよくする必要があり、所得再分配のメカニズムである公共 投資や社会保障に巨額の資金をつぎ込むことは困難です。結局、経済政策の 中で追求されるのは経済成長で、その分配を適切にして経済的な不平等をな くしていくことは追求されない。「貧困削減」にしても、結局、基礎教育や 基礎保健どまりという不十分さは拭えない。結局、経済政策において「貧困 削減」はポリティカル・コレクトネスのためだけの、枕詞と化していて、分 配を担保するような仕組みをきちんと国家の経済運営なり経済政策の中に位 置づけろという理論なり政策的実践というものが追求されていないことが非 常に大きな問題だと思います。 (立岩)そうですね。私は、公共事業ってものが効く場面と、そうでない場面、 状況があるとは思っていて、すくなくともいまの日本だったら、私は、個人 を宛先にする直接的な分配の方がよかろうとは思ってます。ただ、それは、 生産財、労働、そして消費財を購入するためのお金というふうに局面を分け たとして、前二者を無視してよいということではない。むしろ、それらは大 切なことだと思う。ただ、お金はひとまずいろいろに使えますから、生産財 を確保するためにも使えるということもある。けれどもその方法は他にもあ る。HIV/エイズの薬にしても、薬を買う金を渡すのでよいといえばよい のだけれども、高い値段の外国のものを使うより、特許権の問題をどうにか して、安く国内で供給できるような生産体制が作れた方がよい。  だから、何を仕組むかっていうと、ひとつはさっき僕が言ったのは、いわ ゆる普通の生産財、土地とかね。やっぱり土地というのが万人のものではな くて一人のものである、もう、そこの格差というのはどんなに成長が起こっ たってデフォルトで決まっちゃってるわけだから、これはもう残るか拡大す るかどっちかなんですよね。そういう意味で言えば農地改革というのはそこ そこに効果をもつと。そういう土地を含めた生産財の分配というか、所有形 態みたいなものに多分手つけないとどんなに成長が起こってもダメだろう な、という話はひとつはありますよね。 生存学研究センター報告 ◇人的資源の流出 (立岩)ただもう一つ、実際になされる方の話というのは、人的資源の開発 みたいな話ですよね。  そうすれば、まあみんなそこそこの生産能力を持てるようになるわけだか ら、それに技術開発が伴えば、やがて、フラットにはならないにしても、格 差が小さくなっていくと、そういうストーリーがあったわけですよね。一般 には人間、生産財と言ったって、農民とかでなければ、結局多くは自分の身 体しか持っていない。それはそうだと。  そうするとそこで出てきた昔風の話というのは、その人的資源ですよね。 そういったものを、教育を与えることによって開発してもらう。するとみ んな同じくらいできるようになるわけだから、それで技術が伴えば、生産も 増え、結局同じだけの、ある意味生産財ですよね。人間が一人ひとり持って いる自分の能力という名の生産財において、そう違いは出てこないわけだか ら、ハッピーになるよ、とそういうお話が今でもあります。だけどもいっこ うにそんな現実は到来してこない。でも一方にそういうその人的資源の開発 みたいなところに話を落としていくストーリーというのはアフリカに限らず ある。あるのだけれども、直感的に、それってなんかどうなの、それがどこ まで効くのか ? という感じがするのだけれども、それは稲場さん的にはど んな感じですか。 (稲場)私は経済の話は得意ではないのですが、いわゆる人的資源の開発と いうことを言ったとき、特に植民地支配を受けた途上国で一番重要な問題は 言語の問題です。アフリカの国々の多くは、そもそも初等教育からして英語 やフランス語で行なわざるを得ない。特にアフリカの場合、民族語が多言語 あり、ひとつの民族語でなんとかできる国というのはタンザニアくらいです。 タンザニアは、独立以来、スワヒリ語を自分たちの国民語として作ってきた ので、スワヒリ語で全部何とかなる。しかし、タンザニア以外のアフリカ諸 国は、英語かフランス語、もしくはポルトガル領であればポルトガル語とい ういわゆる旧植民地の言葉を使うしかない。初等教育の段階からそうです。  人材の問題を考えるとき、これは非常に大変なことです。どういうことが アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから 起こるかというと、高等教育を受けました、お医者さんの免許を取りました、 法律家の免許を取りました、という人は、自分の国で医師や法律家をやらな くてもいいわけです。ナイジェリア連邦共和国の医師、あるいは法律家は、 イギリスに行ってもアメリカに行ってもカナダに行っても、自分の国で貰う よりもいい給料をもらって生活をすることができる。つまり、世界的に通用 する人間になってしまうわけですね。その結果として、たとえばガンビアで 高等教育を受けた人の六五パーセントは外国に住んでいるということになり ます。人材流出をしてしまうというわけです。  アジアとの違いが典型的に出てくるのはそこです。つまり、たとえば、イ ンドネシアでは、高等教育を受けた人もインドネシア語がベースで、英語や フランス語は必ずしも得意ではない。つまり彼らは、インドネシアで何とか やっていかなくてはならない。その結果、彼らはインドネシア国家を発展さ せることに貢献する事になるわけです。タイなどはもっとそうですね。この ように、アジアの場合はそういう意味で人材流出を食い止めることができる し、食い止めるに足る経済力も出てきた。経済力に関してはたとえばインド や中国がそうですね。  アフリカの場合はそういうものがない。つまり、高等教育を受けた人たち が自分の国で歩止まりにならない。言語の問題があり、よその先進国に行っ たほうが給料が高いという問題があり、さらに加えれば、その高等教育で受 けた知識を自分の国に還元しようと考えるかというと、必ずしも、そうなら ない。アフリカ各国の国境線は、極めて人為的に引かれたものにすぎないか らです。結果として、たとえば自分のコミュニティに尽くすとか、自分の家 族のために送金をするということはあっても、ナイジェリアという国家のた めに、何らかの形で自分の知識を使うということ、これが形成しにくいとい うのがアフリカの非常に大きな限界です。人的・知的資本というものを作っ たときに、それが少なくとも国家にとどまって、その国を発展させるために その能力が使われるのかというと、アフリカの場合はこれが使われない。こ れが植民地支配の負の遺産であるということだろうなと思います。 (立岩)面白いですよね。私は、よほどまともに教育やらないと普通の意味 生存学研究センター報告 での機会の平等だって達成されないし、達成されたって人の間の差はなくな らないに決まってるし、そして機会の平等が実現したって、他の条件がそろ わなければ格差の縮小なんて起こらないってことを考えたり言ってきたんだ けれども★、稲場さんが今おっしゃったのはまた別のポイントですね。 ★ 立岩 真也 2004 『自由の平等─簡単で別な姿の世界』, 岩波書店 , 第 5 章「機会の平等のリベラリズムの限界」  つまり国家が金を集めてきて人的資源の開発を行うと。しかしそこで開発 されてしまった能力というのは、なまじ、というか英語なりフランス語なり ができてしまう人間を作ってしまうから、それは世界的に流通する価値があ ると。そうするとそれは高く買われるところに流出していくと。その結果、 国家という単位で集められたお金というのはむしろ外国で使われるという か、そういう仕掛けになっちゃってる。 (稲場)つまり人材の流れが途上国から先進国に向かってしまう。知的な能 力のある人は途上国から先進国に向かい、先進国は、この人たちを大喜びで 迎え入れる。 (立岩)そしてたいてい場合安めで使える。 (稲場)ええ。つまり補助的な人員として使えるわけですから。ところが、 先進国は、一般の未熟練労働者に対しては極めて厳しく門戸を閉ざす。  先日、G8サミットに関わる市民社会運動に参加するためにドイツに行っ たのですが、ドイツの移民支援運動は強いメッセージを出していました。「地 中海は今やアフリカ人の墓場になっている」と。つまり、ヨーロッパに渡る 途中で船が転覆して、みな死んでしまう。あるいは、まずサハラ砂漠を横断 しようという人たちの中で、たとえばリビアやモロッコに着く前に、砂漠で 死んでしまう人がたくさんいる。あるいはそのソマリアからアラビア半島に 渡る船に人々が大量に乗っていて、これが沈没してしまうというケースが数 多ある、というのが現状です。  つまり、先進国が、一般の人たちは絶対に受け入れない、そして知的能力 のある人たちについては大喜びで受け入れるという状況の中で、結局のとこ ろ途上国の人的資源は、途上国の金で育てたものであっても、どんどん北に アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから 流出する。金も援助で来る金よりも、債務で返す金のほうが多い。あるいは 向こう側に還流する金のほうが多いというような状況の中で、今においても、 資源の移動というのは結局南から北への移動が圧倒的に多い。そこを考えな ければならない。それは連綿として培われてきた南から北への不等価交換の 流れというものが、いまだに逆転するというところまで至っていないという ことなのです。 (立岩)向こうの金で育ててもらったものをこっちは安く買える。その限り においてその人たちは役に立つと。それ以外のそんなに元手のかからない労 働力はもうこっちにたくさんあるから、いらないと。専門職というか、そこ そこ育成にお金がかかるのを安くやってもらって、安めに買って、その部分 は還元して、そうでないところはいらないと。こういうことは実際日本でも 起こってはいる。ただ日本の場合は、これまでの受け入れが少ないから、い わゆる単純労働の部分がまだ足りないということはあるでしょう。今フィリ ピンのケアワーカーをどうするかとか、そういう話もそれに関係あるんだろ うと思います★。そしてフィリピンの場合は、育てて輸出して、稼いでもらっ てその金を国に送ってもらおうというふうになるから、むしろ国家として積 極的に推進しようとしているわけだけれども、そうではなくて、費用使うだ けて戻ってこない場合があるということですよね。 ★永田 貴聖 2007 ─ 「ケア/国境」 http://www.arsvi.com/d/c0405.htm。 ◇方策について  そういうときに、それではどうにもならないと。その場合、考えられる対 応がいくつかあるじゃないですか。実際には、徴収の単位は国家で、もう限 られている。国家の内側で集めて内側に出すことになる。実質的によその国 からもらってこれない。でも人が出るときは、自由に出られてしまう。だか ら一つは、実際にそういうことをやってる国もあるわけだけれども、人間の 流出を人為的に、というか強制的に止めてしまう。あるいは制約してしまう。 それって普通の考えでいうと、人の移動の自由を阻害するみたいな言い方で、 人権侵害とまで言うかどうかわからないけども、よくないと、そういう話で 生存学研究センター報告 すよね。ただ、今言った話で言えば、それにもある種の合理性があるという か、もっともであるという考え方も成り立ちうるわけですね。人的な流出を 防ぐという意味での鎖国をしてしまえというやり方もあるだろう。ただ実際 には難しい。そして移動の制約がよいことかといえば、よくはない。  もう一つは、そして実現可能性の少ないところで言えば、そうやって製品 を、向こうで使っちゃう製品を出してしまう、製品じゃなくて生産財を向こ うにあげてしまっているわけですよね。だけどそのためのお金は国内で調達 してる。それはおかしいのだと。だから、税なら税を持ってくる単位みたい なものを拡げることにする。そういう案もある。  たぶん正論は後者なんでしょうが、それはなかなか難しいからとりあえず のやり方として国境を半ば閉ざすような。でもそんなことは無理なわけで、 みんなが逃げてしまう。逃げることも簡単だから、結果的には流出の流れは 止まらないというのが現状なんですよね。 (稲場)こうした流れを変えようという方向性の中に、一つの大きな動きとし て、「ミレニアム開発目標」というものを達成していこうという動きがあり ます。2015年までに世界の貧困というものをなくしていく、人間がある程度 の生活レベルをもって生存し得るような環境を、どの国においてもなんとか 実現していこうという実践は行われています。もちろん、それに使われてい る金は、世界の多くの巨大な資金流動の中では非常に小さな一部にすぎない わけですが。たとえばヨーロッパの最近の国際援助改革の流れには、必須保 健医療サービスにかかわる必要な医師の数をしっかり確保するために、保健 予算のための資金を各国の保健省なり財務省なりに注入して、なんとか保健 医療ワーカーの雇用条件を改善し、人材流出を止めようというものがありま す。そこで雇用維持できるだけの資金をそれぞれの国の政府に確保させよう という動き自体は存在しています。ただ、そこに充分な金は来ていません。  たとえば保健医療人材の比較で言うと、キューバとザンビアを比較すると、 人口はほぼ同じ 1000万人強なんですけども、キューバは医師も看護師もそ れぞれ 6万人ずついます。その結果、キューバは例外的に、途上国でお金が ないにもかかわらず、保健指標は先進国並みを実現しています。ところがザ アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから ンビアは医師が 3000人しかいなくて、看護師はキューバの半分の 3万人し かいない。その結果としてザンビアの医療状況は、HIV/ AIDSの問題も あるからですが、非常に厳しい状況になっています。ザンビアがキューバと 同様の平均寿命や乳児死亡率を達成するために、キューバに伍する形の医師 を確保しようとしても、今は 3000人、キューバの 20分の 1しかいない。で は、たとえば先進国がザンビアの保健医療人材流出を止め、なんとか人間的 な最低限度の保健医療の状況を創り出そうとするときに、それだけの金を先 進国がきっちり担保できるのかと言ったら、そうではない。そこを、市民社 会が変えていく必要があるわけです。実際、ミレニアム開発目標を達成する ために、ザンビアにはどのくらいの医者がいるのか、そこに対して先進国が 2015年までにそれを達成するために必要な資金をきちんと拠出できるのか、 ということに関しては、市民社会は、それをやるべきだということで、強い 政治的な力を行使しようとしているわけです。そこで、たとえばミレニアム 開発目標の実現に全力を尽くすといっている英国のような先進国がそこまで の政治的意思を持っているかどうかが、問われているわけです。人材流出な り資本流出なりという南から北への金の流れを逆転させるということが必要 です。その政治的意思を先進国がどこまで持っているのかということが、ど れだけ短い期間に、途上国の保健水準を上げることができるかということに おいて、問われていることだと思います。 生存学研究センター報告 ◆社会運動の戦略・戦術 ◇二つの流れ (立岩)そのいわゆる先進国、国家との関係の仕方、その辺の話がね、やっ ぱり大切でっていうか。たとえばそのエイズの絡みでいうと、アフリカ日本 協議会の活動っていったものは、結局、要するに金出させなきゃどうにもな んないじゃないかっていうところがあって、私はまったくそのとおりだと 思ってるんですけどね。そうするとその金っていうのはどこにあるのか。よ うするに税金なら税金とってきて国にあると。それを、っていう話にある意 味ならざるをえないわけですよね。  そうすると、アフリカ日本協議会にしてもさ、あるいはエイズをめぐる各 国の NGOの活動にしても、結局は政府に働きかけ、政府を動かし、やれる 範囲で協調しつつみたいなことになる。実際 AJFにしても、外務省の仕事 をある意味請け負うみたいなかたちで、ちょっとしたお金を貰いつつぼちぼ ちとやっているというのが、実際のところだと思うんですよ。そういう意味 でいえば、その手の活動を実際にやり、そしてなんらかのアウトプットを出 そうとしている組織というか活動にしてみれば、政府というのは、なんてい うんだろうな、敵であるのだけれど敵にしきれないというか、味方というの ではないにしても、ある種の交渉相手ですよね。金を引き出す相手みたいな ものですね。そういうかたちで対峙するのも、それもひとつの対峙の仕方だ と思いますが、あると。  それに対してというか、と同時に、このあいだね、ドイツ行って来られて、 私あの話は妙に面白かったんですが(笑)、そのやっぱり違うノリの方々っ ていうのもたくさんいらして、まあ気分的にはそっちのほうがね、なんかよ ろしかろうというのも確かにある。そういうあたりがね、難しくもあり面白 くもあるところでさ。で、たとえばその G8にしてなんにしても、それにど ういう対し方、対峙の仕方をしていくのか、していかざるを得ないのかって いうことなのかもしれないけれども、このあいだのドイツのデモの話あたり からね、どっちが先でもいいんだけれども、ちょっとそっちのほうをね。そ アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから れと同時に、いってみればアフリカっていうものが、日本はちょっとなんて いうの鈍いところがあるにしても、たとえばそのヨーロッパにしても、アメ リカにしても、あるいは中国にしても、ある意味なんていうかなあ、アフリ カって目の付け所っていうかそういう対象になっているわけですね、すでに ね。そういったあたりも含めて、いずれもでかい話なんだけども、ちょっと 見立てを。 (稲場)そうですね、この辺の話はなかなか経済の話とかも絡んでくるので、 私は経済の話は強くないので、どこまで話ができるかっていうことはちょっ と微妙なんですけども。  そうですね、二つの戦略、二つの戦略っていうか市民社会運動の中には二 つの潮流があると。一つには、これは非常に重なり合ってるんですけども、 特にドイツにおいて非常に顕著だったのは「もう一つの世界は可能である」 という、今の世界秩序というものをある意味その根底から変えることを究極 的な目的にする部分がある。これはわれわれも、私もそうではあるんですけ ども、そのもうひとつの世界は可能だという流れの中で、たとえば G8とい うものに関してどういう向かい合い方をするのかっていう、非常に興味深い 話なわけなんですね。  でちょっと日本の社会運動なんかの話も含めてやる必要があると思うんで すが、2005年の G8サミット、グレンイーグルズ・サミット、イギリスのグ レンイーグルズでやったサミットっていうのは、このもうひとつの世界は可 能だっていうのはある程度共通語にはなってもですね、どちらかというと、 いわゆるその貧困をなくすという意味でのその個別イシューに関して、どれ だけの成果を挙げるのかっていう短期的な成果ですね。つまり、いつか世界 を全部変えてやるんだというような非常に長期的な成果ではなくて、たとえ ば 2015年にミレニアム開発目標でいくつか挙がっているところの目標を、 しっかり達成させるための資金を確保するためにどれだけのことをするのか という、非常に、個別イシュー、貧困を取り巻く個別イシューに対してどう いう成果、成果ベースのアドボカシーというものが中心になって、それで大 衆的な運動っていうのがイギリスを中心に起こったと。 生存学研究センター報告  で、このグレンイーグルズに代表されるような、そういう何ていうんで しょうね、個別イシューにフォーカスをし、短期的な成果を目標にする、そ ういうかたちでの市民社会運動っていうのが一方ではあって。これはどっち かっていうと、イギリスを中心にしながらアメリカにおいて、アメリカの HIV/ AIDSに関わる運動っていうのは非常にそういう意味で今はそうい うフォーカスが非常に強いわけなんですね。英米を中心としたこういった個 別イシュー系の運動っていうものが一方である。  それに対して、こういう区分っていうのが実際にいいのかどうかわからな いんですけど、私自身がドイツで見た限りでは、とくに大陸ヨーロッパにお ける、フランスにしてもそうだと思いますが、フランス、ドイツ、イタリア の 3カ国においては、どちらかというとそういった G8に対してエビデンス ベイスド(証拠に基づいた)な成果、しかも短期的な成果を追求するかたち でプレッシャーをかける運動ではなくて、そもそも G8それ自体が世界を搾 取し抑圧する構造のひとつでこれは絶対に許すことができないというです ね、G8自体を否定する、それに対して徹底的にこう妨害をしてですね、権 力を震えあがらせると。そういうことを目標にした運動というのが逆にドイ ツ、あるいはイタリアを中心に、そういう運動の方が強いわけなんです。 ◇ハイリゲンダム G8サミット  今回、ハイリゲンダム G8サミットに向けた最初のデモっていうのが 6月 2日にあったんですが、この6月2日のデモっていうのがですね、参加者の 構成を見ると非常に明確になるかと思うんですね。つまり一部の暴徒が、っ て言い方がやっぱあるんですけど。 (立岩)日本のメディアはそういう言い方しましたよね。ごく一部がちょっ とはしゃいだっていうか騒いだって、そういう言い方しましたよね。 (稲場)そうなんですね。ところがそうでは実際のところなくて、たとえば 貧困の問題、あるいは開発の問題に関してエビデンスベイスドなかたちで の成果を求めよう、っていうような人たちっていうのは、「オックフファ ム」、「アクション・エイド」、あるいは日本から来た「GCAP」、「貧困をな アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから くすための地球規模の行動提起」(Global Call to Action against Poverty: GCAP)っていう、途上国の貧困をなくそうっていう運動なんですけど、こ の運動の流れの人たちっていうのは非常に少なかったですね。非常に多い隊 列というのが何かというと、ブラックブロック★なわけです。アナーキスト な、アナーキストの隊列が一番多いわけです。 ★ 「ブラック・ブロック(英語:Black bloc)とは、何かの抗議行動、デモ ンストレーション、あるいは他の階級闘争、反資本主義、反グローバリゼー ションに関連する催しがある際に集合するアフィニティ・グループである。 黒い服装をするのは、ひとつの大きな集合に見せることで連帯感を強め、 明白な革命的存在を創り、権力に身元を特定される事を避けるためである。 大手のニュースメディアの間では特に、ブラック・ブロックが何かの国際 組織であるという認識がある。しかし、それは抗議行動者の集団が使う戦 術以上のものではない。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%8 2%AF%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF  彼らは「資本主義を歴史的遺物に」、メイク・キャピタリズム・ヒストリー というですね、巨大な横断幕を掲げてそして巨大なトレーラーを隊列の中に どーんと置いて、そしてものすごい人数、たぶん 1万 5000人くらいいたと 思いますけど、そういう直接行動派のアナーキストの方が人数が多いわけな んです。彼らはデモの最中はおとなしくしてるんですよ、もちろん。ただ歩 くだけのデモの隊列、他の参加者に迷惑かけると困るから。彼らも困ると。 デモの最中は別に何もしないわけですけども、デモが終わったあとに市街戦 をするということになるわけなんですね。  そしてそのブラックブロックだけではなくて基本的に G8それ自体が問題 だという人たちが非常に多かったんですね。そういう直接行動をしない人た ちの中にもそういう人たちが非常に多かった。実際トービン税とかを主張し ている「ATTAC」っていう、ヨーロッパでは非常に強力なグループ、大き なネットワークがあるわけなんですけども、このアタック、アタック関連の 人たちが非常に多かった。つまりドイツの G8に関わる市民社会運動という 生存学研究センター報告 のは G8から具体的なリザルトを引っ張ってくるというよりは G8それ自体 の問題点を明らかにし、そしてこれが世界を仕切っている状況を告発しよう という、そういうベクトルが非常に強かったわけですね。  つまりそういう意味で 2005年のグレンイーグルズ・サミットに対するマ スモビライゼーションと 2007年のドイツにおけるマスモビライゼーショ ンっていうのは非常に対極的なものであったということが言えるだろうと思 います。さらにドイツの場合は国内の環境問題に関する運動だとか、農業、 いわゆる遺伝子組み換え作物に反対する運動とかそういういわゆる消費者運 動、環境運動の強力さっていうのがあって、そこがモビライゼーションの中 心をなしていたので、いわゆる貧困とかアフリカとかそういった課題に関す る取り組みというのは、個別の取り組みというのは非常に少なかったと、残 念ながら。もちろんなかったわけじゃないんですよ、あったんですけども非 常に少なかったと。  そういう意味で今のグローバリズムなり G8をめぐる非常に対極的なかた ちが、たとえばイギリスでやったサミットと大陸ヨーロッパでやったサミッ トでは、ぶつかっていると。とりあえずドイツにおいてもそれは協力しなが らやってるし、足を引っ張らないように、両方が両方の足を引っ張らないよ うに最低限の調整をしてやってるわけですけど、ある意味非常に対極的な運 動であったと。その結果 2005年に中心的な役割を果たしたイギリスの開発 強力 NGOの連中は、ドイツの運動というのは大変非効率な運動であったと いうふうに意味評価をしている、というところがあるわけなんですね。  で、日本というのを考えたときにこの非常に難しいのはどちらも厳しい状 況にあると。 ◇両方が要る (立岩)どちらもない、と。 (稲場)どちらもないということなんですね。どちらも必ずしも十分な力を 持っているわけではなく、なおかつどちらも洗練されてはいない、その部分 でどういうふうに来年の G8組んでいくのか G8に対する市民社会運動を組 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから んでいくのかっていうのが非常に大きな問題なわけですけども…。とりあえ ず市民社会運動っていうのはそういう状況にあると。  一方でたとえば 2015年までに MDGミレニアム開発目標において、乳児 死亡率というものをどういうふうにしていくのか、あるいは妊産婦の健康と いうものをどう改善していくのか、ヘルスサービスをどう確保していくのか、 あるいは HIV/AIDS、結核、マラリヤっていったものに関して、今すで に実際にそれなりの計画のあるところをどういうふうに G8の政治的な意思 を引っ張り出していくのかと、いうことで考えたときに、これはただ、基本 的には両方なきゃいけないわけですね。つまり改革運動だけあっても、これ はアメリカの 80年代の HIV/ AIDSに関する戦略っていうものが非常に上 手く表していると思うんですけども、ロビィをし、アドボカシーだけがあっ ても別に権力はなんにも怖くないわけですよ。  で、そこだけしかないと要求のつりあいが出来ないっていう問題がもう一 つある。つまり、同じ 50をとるためにどうするかっていったときに、50要 求しても 50取れないんですね。50要求すると 10くらいしかとれないわけ ですよ。そこで直接行動をする団体が 200くらいを要求すると。で、200く らい要求している連中がいると 50要求することはさして過激ではない、そ ういう構造になるわけですね。その中でたとえばロビィやアドボカシーをし ていく人間が 50をしっかりとる、っていうそういういわゆるチームプレー が必要になってくると。これは両方なきゃいけないんですね。  つまり 50だけを言う人がいても結局その要求は5、10くらいしか通らな い。そのときにいかに直接行動を主張し、そもそも権力に対して、お前らの 正当性はないんだというような勢力が、いかに高い要求を突きつけ、なおか つその要求についてわれわれには正当性と力があるんだということを見せつ けることができるかという意味で、直接行動をする、そもそもの正当性をと る、そしてその上で正当性がないのに偉そうにしている以上はこのくらいは やってくれなきゃ困ると、いうようなかたちでの落としどころを迫る、その 中でロビィをする勢力、アドボカシーをする勢力がしっかりと出せるだけの 部分をさらってくる。 生存学研究センター報告  そういうかたちにしなければ権力はそもそもやる気はないわけですか ら、そういう意味でその直接行動、あるいはそれなりの怖い意味でのプレッ シャーをかけるグループ、震撼させる、揺るがすと、いうことをやるグルー プと、実際にものごとを取ってくるグループっていうのが連動してしっかり その国家権力を、ある意味操るというかですね、そういうようなところが非 常に重要なんじゃないかな、と。 ◇市民社会セクターと国家セクターの相互乗り入れ  逆に言うと国家の側も今やたとえばイギリスのような政府の場合は市民社 会運動を使うということを非常に熱心に考えてるわけなんですね。たとえば グレンイーグルズのサミットの場合、非常に驚いたのは毎月イギリスの高官 がくるわけですよ。そして毎月日本の NGOに会いたい、市民社会に会いた いと言って、そして、実際そういうミーティング、小さい規模のミーティン グを主催して、そしてあなたちのやりたいことはなんですかということを、 政策を聞いてくる。で、そういうかたちでつまり逆に言うと彼らはグレンイー グルズ・サミットにおいて日本からそれなりの MDGにむけたものを引き出 したい、そのときに市民社会運動を使いたいっていうのがあるわけです。  そういうことで考えたときにイギリス政府っていうのは非常に巧妙に市民 社会運動を活用してくる。逆にその国家の側が自分の意思を、自分の国際的 な方針における意思を貫徹させるために他の国の市民社会運動を活用するっ ていうですね、そういうベクトルを今使ってくる、そういう意味で今たとえ ばイギリスはいわゆる国家政策、世界戦略というものが複数のセクター─ つまりいわゆる国家セクターがあり、民間営利セクターがあり、民間非営利 セクターがあり、そしてまた知的セクターがあると、このセクター─とい うものを動員することによって、様々なかたちで動員することによって初め て自分の世界戦略が実現するんだという頭を彼らは持ってるんですね。そう いう意味でイギリスっていうのは非常に巧妙に市民社会運動への接近や働き かけというものをやってくる政権であると、いう部分があるわけです。  あるいはフランスも、より洗練されてはいないけれども、たとえば自分の アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから ところが国際航空税というのを導入して、つまりフランスから出国する飛行 機便のうち1人1ユーロをいわゆる税としてとるわけですね。ビジネスクラ スだと 10ユーロ取ると。これをかれらは国際医薬品購入ファシリティとい う組織、ユニットエイド(UNITAID)という組織を作って、このユニット エイドにプールするわけです。このユニットエイドは何をするかというと、 第 2世代の抗レトロウィルス薬ですね、つまり比較的最近開発された、より 副作用が少ない、またよりその効果が高くて第 1世代のものを服用したあげ く耐性が出来てしまった人たちに対して、提供する第 2世代の抗レトロウィ ルス薬、あるいは子どものエイズ治療薬ですね、あるいはその耐性がたくさ んある結核に対する特殊な結核治療薬や、耐性マラリヤに効く特効薬ですね。 こういったものを大量購入して、大量購入することによって低価格を実現す るという、そのいわゆるユニットエイドという枠組みをつくったわけなんで すね。このユニットエイドを作るうえで世界の市民社会を効果的に動員した わけです。シラク政権は。  そういう意味でですね、今はヨーロッパ諸国の政府というのは、市民社会 セクターというのを非常に高いレベルで位置づけて、そして、共同でやって いくというね、あるいはその自分の戦略を上手く洗練されたものにする。た とえばユニットエイドに関してもフランス政府だけが考えたら、そういうよ うなものにはならないわけですね。それを市民社会のいろいろな、たとえば 「国境なき医師団」はこういうロビーしたと、で世界のエイズセクターはこ ういうロビーをした、とそういうロビーを上手く取り入れていく中で、より 洗練された設計の国際機関をつくっていくようなかたちにも利用する。  そういう意味で、いわゆる市民社会セクターと国家セクターの相互乗り入 れというのが、特にヨーロッパの国においては非常に連携されたかたちで出 来てきている、というのが一方であるわけですね。それで取っているものも かなりある意味でかなりあると。そういう点で言うと日本という国はそこま では行ってないどころか、全然行ってないわけですけども…。市民社会セク ターと国家セクターの相互乗り入れというのは、現実的で成果を短期的にも たらしうる政策の実現という意味では、特に最近はかなりのレベルでそれが 生存学研究センター報告 できてきているっていうのが、ここ最近 21世紀以降の流れとしてはあるの かな、というふうには思いますね。 (立岩)今の話は大切なことだと思うんです。まず一つ、二つの両方が必要 だということ。  基本的にそのロビィングやって何ぼくれって言って取ってくるって言うタ イプのね、まあ、モノ取り型の運動と、それから、まあ外にいてなんか時々 壊しちゃったりしながら、騒いでるっていうタイプの運動っていうのが一番 基本的なところでは対立しないって言うか、対立しないように仕向けること は、少なくとも基本的なレベルでは可能なはずだ。可能でありまた必要であ る… (稲場)そのとおりだと思いますね。必要である、そうしないとダメだと思 うんですね。 (立岩)それはそのとおりだと思うんですよ。現実にはそこの中でいろんな 争いとか摩擦っていうのは当然あるわけなんですけども、しかし、両方あっ て、両方ないとものごと上手く行かないっていうのはそのとおりで。で、そ ういったときに確かにその英米型のっていうかなあ、NPOとか NGOって いうのは、そのマネージメント、組織のマネージメントも含めてあるいはロ ビィングの技術も含めてかなりその、高等な、ものをもっていると。 (稲場)そうですね。 (立岩)で、そいつらそれが得意だということがあって、それはそれで必要 であると。そしてどっちかっていうと AJFっていうのは、今の位置取りで 言えば、HIVに関わらざるをえないでやっているという位置取りでいえば、 そっち系のNPO、NGOの道を歩まざるをえない。それはそれがもっとも効 果的であるという意味でね。そうなんだろうと。しかしまあ違うタイプの、 ちょっとこうはしゃいだ感じっていうんですかね、も、あると。  で、両方必要である。だが両方ないってことも事実で、そういったときに 当座 AJFにしたって、両方を一つ組織がっていうのはそもそも不可能なこ とだから、さし当たって今の位置取りで言えば、地道なというか、ある種の ロビィング系の組織として、ふるまわざるをえない、だけど、それだけでは アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから 淋しいわけで、他の方々もどうぞ、みたいなことだろうと。それはそうだと 思うんですね。  もう一つ、さっきの話でけっこうきちんと考えなきゃいけないと思うのは、 かなりそういう「アナザー」っていうか、「可能だ」っていうかなりでかい 話をする話っていうのが、実質的にはっていうか、僕はその地域農業を守る ことが悪いことだとはけっして思わないんだけれども、しかしその時と場合 によってはですね、自らも、ある種の既得権益ですよね、その先進国の。ま、 農業は農業として僕は守られるべきだと基本的に思うけれども、しかしある 種の地域主義みたいなものも結びついて、結局それがその非常に素朴な意味 でのアンチ・グローバリズム、単純な地域主義みたいなものに、なってしま うっていう。  これは非常にラディカルで、場合によっては過激であるような運動ってい うものが、ある意味、地域に閉じるっていうんですかね、そういった傾向っ ていうものをまた持ってしまうっていうことは、そのそういった二つのタイ プの運動が連帯していくというかな、にあたっても考えなければ、考えに入 れなければいけないファクターのひとつであろうと思うんですよ。これが二 つ目ですね。  でね、三つめ、最後おっしゃった、今や大国というかな、国家にしても市 民社会レベルの様々なものを使ったり、連結しながらやっていかないとって いう話だと。それ、少なくとも今例に挙げたフランスであったりイギリスで あったり、にしてみればそのとおりだと思うんですよね。そうしたときにそ の、たとえば、そういった類の大国ですよね。今、アフリカっていう国、国 たちっていうか地域ですね、というものがどういうふうに映っているのかっ ていうと、どうなんでしょうね。 ◇何をもう一つのものとするか (稲場)幾つかの点があると思うんですけど。どこからいきますかね。まず いわゆる直接行動的な市民社会運動と、ロビィング的な市民社会運動の連 携っていうことを考えたときに、ロビィ運動型の運動が気をつけなければい 生存学研究センター報告 けならず、なおかつ見えていないっていうことは、両方が協力したときにどっ ちが国家から評価され、どっちが国家から弾圧されるかっていうことなんで すね。それを考えたときにロビィング型の運動の方が一方的に被害は少なく、 直接行動型の運動っていうのは徹底的に弾圧される。つまり協調した時に、 きわめて著しい利益の不均衡が起こると。この部分をですね、どうするかと いう問題は非常に大きな問題なんですよ。  つまりロビィング系の NGOっていうのはそういう意味では、ある意味主 流に、あるいは国家戦略の政策的な意味での位置取りを高くもっていくこと が、できてしまうと。一方で直接行動型っていうのは、常に牢屋入りとかで すねひどい目に会うと。そういう時に、実際にどういう意味でのいわゆる利 益の均衡を確保するのか。もう一つは、いわゆる直接行動型の運動が社会的 に担っている役割をきちんと評価されるのかっていう、そこの部分が本当は ちゃんと考えなきゃいけない。そうでないと直接行動型の方が一方的にです ね、ひどい目にあって終わりということになりかねませんので、そういう意 味ですごく考えなければいけない部分だな、というふうには思っているわけ なんですね。  あともう一つは、ロビィング型の運動の問題っていうのは、ある意味、本 来到達すべき地点、あるいは本来目指さなければならない世界、ロングター ムに目指さなければならない世界っていうもの、世界像っていうものを見失 いがちであるということなわけです。つまり、ミレニアム開発目標が 2015 年までに達成されればそれでいいという話になるのかどうか、つまりミレニ アム開発目標っていうのはつまり 2015年までにある一番のところっていう のは、1日 1ドル以下の人間、あるいは極度の飢餓状態にある人たちを半減 すると。この半減というのは、一方で半減して残った人たちはもっと貧乏に なるかもしれないわけですね。そういう意味でミレニアム開発目標がすべて を解決するわけでは全くないわけです。  さらに 2015年になったときに、一番見受けられるかもしれない可能性っ ていうのは、フランスなりイギリスなりヨーロッパ、アメリカの国々が、 彼らの主観としてはここまでたくさんのお金を動員して貧困開発を一生懸 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから 命やってやったのに、2015年になってまだ達成できてないのは自己責任 だ、ということにすぐ転化してしまう。それは十分あるわけですね。つまり 2015年以降貧困があってもそれは途上国の責任だと。われわれ植民地主義 の責任は全部清算されたのであると、言い出しかねないわけですね。で、そ こはそれ全然間違いなわけですよ、実際に。そういうようなかたちでそのい わゆるロビィング中心の団体が当面の政策課題を達成するということに関し ては出来るかもしれないけれど、ロングタームな、どういう世界を目指すの かっていうその理念のところに関して、彼らがきちんとその直接行動型の団 体と対話をしながら世界のありうべき姿の像っていうものをしっかり作って いかないと、結局のところ権力に吸収されるだけであると。ここのリスクと いうのは、すごく考えなきゃいけないところなわけなんですね。だからそう いう意味で、市民社会が両方のその勢力が無ければならない、そして非常に 広いベクトルで、広いフォーカスでものごとを見ていくという姿勢をつけな ければならない。そこは相互批判がなければならないと思うんですね。  そして日本の直接行動型の市民社会運動がやっぱり身につけなければなら ない部分ていうのが、ある意味そこなわけです。つまりどういう世界をめざ すのかという理念の部分に関してもっときちんとした論理、あるいは設計と いうものが打ち出されてこなければ、それは難しいわけですよ。そういう点 で、ありうべき世界像というようなものを考えるということをより意識的に やっていく必要がある、これはどっちもですけどね。どっちもやっていく必 要があって、そこの対話がなければ、あるいはそのいわゆる「もうひとつの 世界は可能だ」というスローガンが、それだけで終わるとすると、それは非 常にまずいだろうと。どういうアナザー・ワールドなのかということを、も う少しいろんな意味で考えなきゃいけない。それがやっぱり社会主義、共産 主義というものが、ああいうかたちで、冷戦が壊れて、冷戦が終わって退場 したあとで、目指すべき国家理念、世界理念というようなものが、結局のと ころ、今のところたとえばその大国が打ち出す MDG、ミレニアム開発目標 であるとか、あるいは…ある意味茫洋とした、あるいはパターナリスティッ クなね、そういうような世界像しか打ち出されていないという現状がある中 生存学研究センター報告 で、市民社会が、もうひとつの世界は可能だということで、何を目指そうと するのか。  たとえば、今中南米では幾つかの実践が、いろいろ非常に大きな問題があ るだろうけど、ベネズエラでたとえばチャベス政権が打ち出そうとしている ものが、たとえばアナザー・ワールドのひとつになりうるのか、それともな りえないとすれば、どういうふうにすればなりうるように変わるのか、そう いうような世界像というか、市民社会が出していかないと。  今、世界の中で打ち出されている世界像というのは、権力者が打ち出して いるものなんですね。つまり、チャベスにしたって権力者は権力者なわけ ですよ。その意味で市民社会はどういう、そのありうるべき世界像というも のを打ち出すのかっていう、その市民社会としてのアナザー・ワールドとい うものをもう少し具体的なイメージを持つものとして作っていかないと、結 局ロビィ団体は MDGを達成するということになり、直接行動団体は「アナ ザー・ワールド・イズ・ポッシブル」と言っていればいいということになって、 その結果としてのその市民社会運動の思想的な弾圧が起こると、いうことが 非常にある意味懸念されるべきことなんじゃないかな、というふうに思って いるわけなんですよ。 (立岩)そういう意味じゃどうなんですか、仏・独・伊のブラックブロック の連中っていうか、にしても、そこらへんはまあ、どうなんですか。 (稲場)ある意味、微妙なところなんだと思う。あとはそこをたとえば、そ れなりにね、打ち出している人たちもそれなりにいることはいるわけなんで すけども、またそのブラックブロックなりアナーキストグループの人たちっ ていうのは、逆にいわゆる大陸ヨーロッパが持っている様々な伝統とか、つ まり暴力的な市民社会運動というものを一定程度容認しうるような、まあそ ういうある意味寛容な伝統とか、あともうひとつはたとえばスクォッティン グとかキャンプっていうようなものに代表されるような彼ら自身のコミュニ ティの、そういった基盤とかね、そういったものに裏打ちされている運動で あると、いうことなので、それはある意味当然、それはそういう限界持って いててもしょうがないと思うんです、彼ら自身、自体が。ただ、でもその中 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから で生み出されるものもあるわけだからそれを言語化してもらって普及してい くっていうことは、やっぱり目的意識的にやってもらえるといいな、ってい うふうには思っています。それはもちろん当然やりたい人は当然いると思っ てるんですけどね。 ◇アフリカの条件・可能性 (立岩)でね、さっき、最初に僕がその南アフリカで、って言ったのでそうなっ たんですけど、南アフリカの場合まがりなりにもっていうか、まずたまたま、 天然資源が大量にあり、それでそれも背景にしつつ、第二次産業が、アフリ カの全体のレベルでいえば高いものをもっている、そういう意味で言えばあ とはもう、なんかしてその成果を分ける仕掛けさえつくっときゃ、本来はい いはずだと。今度の『現代思想』で牧野さん、アジ研(アジア経済研究所) の牧野(久美子)さんが南アのベーシック・インカムの話をされると聞いて います★。どういう話になるかわかりませんけれども、まあ理屈としてはそ ういう話は成り立ちえますよね。ところが、アフリカ全体で、そんなに資源 にしてもなんにしても、それから過去の蓄積というか、その低開発の結果と いうことであるんだろうけども、もっともうハンディついちゃってるってい うか、そういう地域っていうのは広大にあるわけじゃないですか。そういっ たことを考えた場合にね…そういった地域に対してね、まあ、やりようって いったらなんか、ざっくりした話ですけども…。 ★ 牧野久美子 2007 「, 「南」のベーシック・インカム論の可能性」 『現代思想』 35-11(2007-9)(特集:社会の貧困/貧困の社会) (稲場)そうですね、難しいと思うんですけど、まず南アフリカ共和国に関 しては歴史的な負の遺産が非常に大きいので、分配構造っていうものを作っ たとしても、それがちゃんと機能するとはかぎらない、と。そこをたとえば 今の犯罪の多発、つまり圧倒的な多くの凶悪犯罪の多発であるとか、あるい は人々の精神的な荒廃ですよね。こういったものが非常に大きく存在してい るので、負の遺産と言ったときに、いわゆる何も無いアフリカと、南アフリ カ共和国のような、非常に強力なネガティブな負の遺産がある国と、これ比 生存学研究センター報告 較した時にどっちが大変っていうのは、非常に難しい問題だろうな、という ふうに思うんですね。たとえば社会保障制度っていうのはいちおう南アフリ カにはあるんですね。あの、いろいろ幾つかの制度が。ところがこれらがあ の恐ろしい貧困の中でさらに暴力と、そしてめちゃくちゃにされてしまっっ て完全に崩壊したコミュニティ、そういう中で、社会保障がまともに機能し ないと、いう状況がやっぱりあるわけですよ。  たとえば圧倒的に複雑な家庭環境、かれらやっぱ貧困層のおかれる家庭環 境っていうのは、いろんな意味で恐ろしく複雑なものがあるわけで、そこに 対して社会保障を一つ一つ落としていくうえで、やっぱり客観的にみて、ちゃ んと社会保障制度を運用できるソーシャルワーカー、これ絶対必要なんです ね。ところがソーシャルワーカーといえば 1人 2000件みてるとかそんな話 ですから、しかも能力ない人がね、そういうような南アフリカ共和国の社会 保障制度っていうものをどういうふうに再考して新しいシステムを南アフリ カにおける社会保障というものを作っていくか、ってことを考えたときに やっぱりものすごい工程が必要だろうな、と。そういう意味では南アフリカ 共和国で非常に大変だと思うんですね。  他のアフリカ諸国ってことを言ったときにですね、これはまたいろんな国 でいろんなことがある、南アフリカに劣らぬ様々な歴史的な負の遺産を抱え ている国がやっぱりあるし、すべての国が分断国家、すべての国が多民族国 家であると。さらに、そもそも他の国の人の言葉で何もかもしなきゃいけな いと、そういう圧倒的な負の、マイナスからのスタートを強制されているア フリカの国々がどういうかたちでやっていくのかって言ったときに、やっぱ りひとつ考えなきゃいけないのは…もちろん今の問題解決をするというこ と、たとえば HIV/ AIDSの問題、いろいろ貧困の問題、病気の問題、教 育の問題、そういったものを解決するっていうことが必要なのと同時に、ア フリカっていうものをいかに統合していくのか。  アフリカは、非常に興味深いと思うんですが、8億 5000万人しかいないん ですね、北アフリカ合わせても。あんな巨大なアフリカ大陸に。ところが 54 カ国もあると。これはサハラアラブ民主共和国っていう、いわゆる西サハラ アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから を入れて 54カ国なんですが、54カ国もある、8億 5000万人しかいないのに 54カ国もある。つまり 1つの国が、平均すると東北地方くらいの規模しか持っ ていないんですね。こういう国がですね、しかも植民地主義で分断をされ、 なおかつ自分の国にいくつもの民族がいて、ところが隣の国に同じ民族がい たりする。そういうような状況の中でひとつひとつの国が自立した経済規模 をもつ国家として成立するわけがないわけですよ。で、そうした時にいかに 過去の植民地主義による分断を克服して経済的な統合というのを、たとえば 地域レベルでなしていくのかっていうのが非常に重要になるわけです。  南部における、今、もうすでに経済共同体っていうのがいちおう出来てる わけですね。つまり「南部アフリカ開発共同体(SADC)」っていうのが出 来ていて、西アフリカは「ECOWAS」っていう「西アフリカ経済共同体」っ ていうのが出来てると。これがそのいかにその過去の植民地主義の分断され た部分を統合して、一つの地域単位として成長していくことができるのか、 この視点が、つまり分割統治で 54カ国もあるわけですから、それをどうい うふうにひとつの経済単位として、過去の分断を克服してユニットをなして いくのか、そしてアフリカ全体が、かつてアフリカ全体が独立したときに掲 げて、なおかつそれが理想主義的だったために、成立しなかったパンアフリ カニズムというものをですね、どういうかたちで現在に、それもいわゆるそ の欧米のアフリカ共同管理という観点を乗り越えるかたちでリバイバルさせ るのか、そこがやっぱりアフリカの今の市民社会とアフリカの国家権力に問 われてるところだろうな、というふうに思うわけなんですよ。  だからその点はやっぱり非常に重要なポイントだろうなと思っています し、今、たとえば AUがですね「アフリカ連合」がある。もちろんアフリ カ連合っていうのはいろんな側面がありますけれども、アフリカ連合の中で、 やっぱりそのアフリカの統一であるとかあるいはその経済的な分断をどう乗 り越えていくかというビジョンっていうものを、ある程度 AUの中で、そ ういうプランがですね、自ら形成するものとして出てきているということは、 これは過大評価ではなく評価すべきことだと。 生存学研究センター報告 ◇諸国にとってのアフリカ  そして、この部分をいかに、たとえば日本がかつての植民地主義に、欧米 の植民地主義、アフリカに対する植民地主義とはある意味縁もゆかりも無い 日本がですね、そこをどういうふうにサポートできるか、っていうのがひと つあるだろう。だからそういう意味でその非欧米諸国がアフリカにコミット する場合にいかに分断、いわゆるヨーロッパによる分断というものを克服し、 あのユニティを回復することができるのか、その非欧米諸国のアフリカ支援 は持つべきだろうと、思うわけです。だから逆にいうと中国やインドという 非欧米が、アフリカにしっかり経済的にコミットする場合にそこのいわゆる 連帯というものは非常に重要になってくるわけなんですね。  今のところ中国やインドのアフリカ進出っていうのは、そういうビジョン を全く持ってないわけですけど、経済的な利権というベクトルを持っていて、 そしてたとえば中国なんかかつてのそのいわゆる社会主義の友好と連帯での 支援っていうのは、あるいは平和 5原則とかそういうところでの支援ってい うのはいわゆる建前上のものにしかなってないわけだけれど、逆に言うとそ この理念を、実態として復活させることっていうのは、ある意味重要なんじゃ ないかなというふうに思っています。  そこができることによってアフリカというのが、そのいわゆるアジアが今、 これだけ浮上してきて、そして欧米中心の世界システムというのが大きく変 わる中でアフリカがそこで、今までの欧米中心の経済システムの中で一番末 端に位置づけられていたものが、どう浮揚できるのかっていうのは、非欧米 の大国がどれだけそういう観点からいかにその植民地主義で分断されたアフ リカの歴史を終わらせるために取り組めるのかと、いうところに鍵があるの かな、と。で、それをリードしていくアフリカの指導者と市民社会の知恵と いうのが非常に重要だろうなというふうに思っているところなんですね。そ の知恵というのは、今ある意味出てきてはいるだろうというふうに思ってい るところなんです。 (立岩)基本的にそうだし、そうでしかありえないというふうに思うんだけ れども、そのさっきの、その手前の、まだ聞いてない話としてね、インドな アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから り中国っていうアジアの大国にしても、あるいはその手前でその旧来の、欧 米の大国にとってのアフリカっていう話なんですね。  一つ単純に考えられるのは、マーケットとして、原料の産地であり、製品 を売る場所としてもそういうマーケットとしてのアフリカってことだけれど も、まあそれはそれとして、今でもあるし、ある部分成長していくだろう、っ ていうこともあるのかもしれないし、もっとっていうこともあるのかもしれ ない。  ただそういう経済的な部分と、それから一方で、たとえば立命館に来た人 だとバリバールなんかが書いてるけど★、もう放っちゃっといた方がある意 味、コストかかんない、そういうマーケットとしての利益は利益としてほっ といてもある程度とれるだろうし、それ以上、たとえばエイズなんかも、ま じめに関わって、莫大なお金を使うことになって、そういう意味でのメリッ トって少なくて、そういう意味で捨てとくか、とっとくかみたいなね、そう いうあたりにあるとすればね、その辺の位置取りの、現状としての位置取り としてはどの辺にあるのか。 ★「真に連続した不幸の連鎖といったものを、形作る、自然的かつ文化的な 絶滅的過程への一般化した非介入[…]チェチェン、コソボ、パレスチナ、 イラク、チベットは、ルワンダ、アフガニスタン、アルジェリア、コロンビ ア、ブラジルと肩を並べ、また、アフリカのエイズ問題、洪水によって荒廃 したインドの地方とも肩を並べている。すなわち、また実際には考察されて いない絶滅的な生─政治あるいは生─経済の現実」(Balibar, Etienne「暴 力とグローバリゼーション─市民性の政治のために」、2002年10月16日、 21世紀・知の潮流を創る、パート2 於:立命館大学→松葉祥一・亀井大輔 訳『現代思想』30-15(2002-12):16-27  でも、ほっときたいけど、完全にほっといてそれでどうなのかって言え ば、ある程度人道的な批難っていうのも当然受けるだろうし、それからテロ リズムにしてもなんにしても軍事的な意味も含めた不安要因というものにな ると。そういうことも、様々関わっている可能性あると思うんですけど、と りあえず現状どうなのか、そこが今後どういうかたちで変わりうるのか、あ 生存学研究センター報告 るいは変えるべきなのか、それを…。 (稲場)そうですね、そこは難しい問題ですけど。まず、アフリカ支援って いうものがこれまでどういうかたちでなされてきたのかっていうことを振り 返ったときに、80年代後半の構造調整政策というものがひとつあって、つ まりソ連とのですね、単純に言ってそのソ連に取られないために莫大な援助 をしてきた時期っていうのが、冷戦期にあるわけですね。つまり、どんな独 裁者であろうが、どんな連中であろうがソ連に取られないためにとにかく援 助をするという時期っていうのがあったわけですね。それがソ連が崩壊する 中で、アフリカに援助をする必要がなくなるという中で援助っていうものが 途切れていくという 90年代があったと。  この 90年代にアフリカはどうなったのかっていう、つまり今まで独裁者 を支援して膨大なお金をこうとにかく注いでいたところが、何も来なくなっ たと。その結果どうなったかっていうと、なおかつ構造調整政策でなけなし の公共事業に出してきた、教育や保健に出していたお金が全部借金を返す方 向に流れていくと。そういう中でアフリカにお金がなくなる中で、どうなっ ていったかっていうと、きわめて悲惨な状況が起こってきたと。つまりアフ リカ諸国の多くが内戦に陥り、なおかつ HIV/ AIDSに至っては、毎年レ ポートが出ていて、それで何百万人という人たちが次々と感染をし、そして 感染率が20%になり、南部アフリカでは。そして平均寿命が 30代に落ちると。 そういう破局的な状況が生じていった。  これをどうみるかっていったときに、結局世界経済なり世界貿易に占める アフリカの割合っていうのはわずか3%だろうというのが一方である中で、 ところがたとえばフランスっていう国を考えたときに、フランスっていうの はアフリカ植民地がなければ、旧植民地が無ければただのヨーロッパの二等 国に過ぎない、非常に端的に言ってしまえばですね。つまり本国部分だけし かなくなるわけですからね。彼らが帝国であるという、フランス帝国という ものの、いわゆるアイデンティティ上の根拠というものがどこにあるかって いうと、これは当然のことながらフランスは帝国である、フランスが世界帝 国てあるっていう根拠はアフリカ植民地にあるわけですね。アフリカ植民地 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから が自分の権益を守り、自分を支えるということが無くなったら、フランスは あそこしかないわけですから。 (立岩)フランス語を喋る人はフランス人しかいないと。 (稲場)フランス人しかいないと。つまり、貿易上は3%しかないにしても、 フランス帝国というものの根拠というのはアフリカ植民地にあり、フランス 帝国っていうものはアフリカ植民地がなければフランス帝国たり得ない、つ まり逆に言うとフランスはアフリカに依存しているわけですよ。このいわゆ るアイデンティティ上の依存っていうものがやっぱりある。イギリスについ てだってそれは同じですね。ジンバブウェとイギリスは今すごい大変なこと になっていますけれども、なんでかっていうとジンバブウェにイギリスはも のすごい利権があるからですね。たとえば白人の土地を全部取ろうとしたム ガベ大統領を、独裁者だといって延々と責め立てて、ムガベとフセインは同 じだっていうところまでいったですね、そういったイギリスのやり口の、そ の中にはやっぱりその自分の島だっていう意識がすごく強い。  つまりそのいずれにせよアフリカというのはヨーロッパにおいては自分の 存在意義というものを位置づけるためにアフリカに依存している部分って言 うのは、すごくあるわけなんですよ。そこっていうのは経済では測れない。 なおかつそれっていうのは逆の意味でも正当なこと、正当なことって言うか、 逆の意味でもですね…その位置づけを持っている。つまり今のヨーロッパ先 進国がヨーロッパ先進国になった歴史的な経緯って言うのは、いわゆる三角 貿易なりなんなり、その重商主義による、数百年にわたるアフリカと新大陸 とヨーロッパを結ぶ連鎖的な不等価交換を延々と続けたことによって彼らは 先進国になってるわけですから、そこでの歴史的な依存関係というものが存 在しているわけなんですね。  そういったことを考えたときに、今における経済的な量っていうのがたい したことなかったにしても、彼らは結局アフリカというものと、関わりなく はいられないっていう状況にあるわけです。つまり自分の国のすぐ南にこん な巨大なところがあるわけですからね、そりゃ関係ないとは言えないわけで すよ。そういうような状況の中で、特に 20世紀の末っていう 90年代末から、 生存学研究センター報告 援助が増大していくわけですね。 ◇腹くくればさほどでないこと  他の金に比べればたいしたことないんですね、援助の金っていうのは、多 くは見えますけど。イラク戦争の戦費とかですね、そういったものに比較 してそんなでかくはないわけですよ。たとえば HIV/ AIDSに、HIV/ AIDSを…たとえば 2010年までに予防ケア、治療の包括的なユニバーサル アクセスというものを実現するために必要な経費を UNエイズが見積もっ ていて、それは 2008年において 221億ドルであるといってるわけですから、 221億ドルつまり 2兆 4000億円、2兆 6000億円っていう金っていうのは、 日本の歯科治療費総額と一緒なんですね。 (立岩)歯科。歯ね。 (稲場)歯です。つまり、日本の歯科治療費総額と同じものを世界全体でエ イズ治療費として撒けば、1年間にですけどね、それで包括的なエイズ・ユ ニバーサルアクセスが実現するっていうふうに言ってるわけなんです。これ は結核やマラリアに関していえば、数年前の見込みでは 6000億円でなんと かなると。今は膨大に増えてますけど。6000億円っていうのは NHKの年間 予算と一緒なわけですよ。つまり先進国でそういうようなかたちでの経済単 位、一つの巨大な組織の経済単位くらい、予算くらいのものをそこに投入す れば、なんとかなる。ところがこの金が出ない、っていう話なんですね。つ まりそれっていうのは世界のいわゆる予算組みの配分を、ある程度発想を転 換して変えることで容易に動員できる金であるということはいえるわけなん です。そのレベルにまで達してるわけでもないんだけど、ただ援助の金って いうのはある程度増えてきている。  これはやっぱりアフリカの人道危機というものがあって、それに対してど ういうふうに世界が向かい合うかっていったときに、いわゆる最低限に足り ないけれども、ある程度動員しなければいけないっていう部分の中で出てき たことであると。そしてミレニアム開発目標が 2000年に設定されて、2015 年までのこの世界人権宣言での社会権っていうものをなんとか実現してい アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから くっていう方向性っていうのがいちおうある。ただそれに対する資金ってい うのは全然追いついていないという現状であるということなんですけども。  つまりアフリカに対する認識っていうのは、アフリカがヨーロッパに対し てもっている認識、もう非常に複雑な、やっぱ長い植民地主義の歴史、ある いは奴隷貿易といった関係性の中で築かれた長い、いろんな認識があるので 非常に難しい。端的にこうだとはいえないわけですけど。逆もまたそうであっ て、たとえばアフリカを放置すればいいということに関しては、日本のよう な立場だとね、そういう関係が無いからそういうことを言えるわけだけれど、 ヨーロッパにとってはそういうものではないことを、ある意味共依存の関係 にあるというふうに言ってもいいくらいのものだろうと思うわけなんです。 そしてその共依存の関係は、共依存だからこそ病的な関係であるということ なわけですね。  その病的な関係をどういうふうに健全化していくかっていったときに、結 局アフリカとヨーロッパだけでやっていても、これ絶対、共依存である以上、 共依存の人たちがこう両方やってもなかなかこううまくいかないわけで、だ から第三国というものがちゃんと登場していかなくてはいけないと。そして その第三国っていうのは金っていう問題ではなくて、どういうふうにこの共 依存関係を解くかっていう部分を考えていかないといけない、そういう介入 の仕方をしなければならない、そこのファシリテイトするのはどこなのかっ ていったときに、中国、インド、今それできるか微妙ですけど、いわゆるヨー ロッパでないアメリカではないところが、それをしなければいけないんじゃ ないかというふうには、思っていて。そういうそのアフリカを取り巻く世界 像というものをやっぱり、ひとつはアフリカ側がきっちりこうリードしてい くっていうことが必要だし、それは今、徐々に出来てきているだろうと、思 うんですけども、そこの部分をもうちょっと考えた方がいいかなと。  あと日本はそういう文脈をしっかりとらえる必要があるだろうなと。とこ ろが日本のこの間の援助論理っていうのは、ODAが減って行く中で、非常 に内向きのものになっていると。つまり ODAを増やすためにどういうふう な仕掛けをするかっていうのはいろんな人が考えているわけですけども、そ 生存学研究センター報告 の中に結局出てきているのは ODAは国益のためであると。別にそれでいい んだけどただ、ODAはわが国は ODAを国益のためにやるのであります、 というのをどこか国際会議の場所で大きな声で言えるかっていうとそれは言 えないわけで、いくらそんなこと言っててもしょうがないわけですね。だか ら国益でいくかどうかっていうそこら辺はとりあえずおいといて、まあ国益 のためのものであるにしても、じゃあそれでは説明できないわけだから別の 言い方をちゃんと考えなきゃいけない、これはひとつあるわけです。  あともうひとつは日本が、これまた非常に逆説的な、市民社会側の意見と してはなかなか正当ではない意見になるとは思うんですけれども、日本とい う国がですね、つまり世界第二の規模を持ってる日本という国が、アフリカ とは関係が無いからということで、自らのアフリカに対する戦略を持ちえな いとするならば、そもそもそれは日本が世界に対する、つまり世界帝国って いうのは世界に対する影響力を世界のどの部分に対する影響力も持たなきゃ いけないのが世界帝国なわけですから、そのアフリカっていう地域は遠いか ら、あるは関係がないから関係持たなくていい、あるいは援助しなくていい というのであればそれは日本はそういうレベルの国家として今後生きてい くっていうことになるわけですね。つまり、自分のところと特に関係が無い 国に関しては何の戦略も持たない国家として生きていくと。これっていうの はいいのかっていうのは国家の側はちゃんと考えなければいけないわけです よ。ここに関して充分な思考がないっていう、非常にある意味日本の国家権 力っていうものの、いわゆる戦略性の無さ、あるいは弱さというものをある 意味認識せざるを得ないところかな、っていうふうには思ってるわけですね。 (立岩)たしかにね、国家統治のサイドに対する物言いとしてはそういう言 い方はありだと思うんですね。面白かったです、僕はほんとうに。  一つは、特にヨーロッパというのはアフリカ、共依存という言葉使われた けど、しがらみがあると。しがらみがある以上、なにがしかのことはしなきゃ いけなくて、やってると。しかし、それは共依存であるがゆえにというか、 いろんな歪み、うまくいかないところを必ずもたらすと。もたらしていると。  もう一つのポイントは、まあたしかに金はかかると。そりゃ、腹くくんな アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから きゃいけないと。だけれども、むちゃくちゃかかるっていう話じゃない。 (稲場)うん、そうですよ。 (立岩)そうですよね。そういう意味でいえば実現可能性がもともとない話 じゃなくて、あるっていうとことから発すればいいと。  それプラス、別の利害からヨーロッパは動いてると。だけれどもしかじか だと。そういった場合に、日本が、金が無いわけではない日本が別のスタイ ルで、っていうか別のスタンスでこれに関わることは出来るだろうし、ま、 そのときのあり方っていうのはアフリカのひとつひとつの国を単位にしたも のというよりは、あるいはアフリカのある種のユニティ、みたいなものを、 とか、に関わるものであるだろうっていう。ある意味明確なビジョンという かな、方向っていうのは私も同意できるという。で、僕はすごい面白かった ですよ。で、こんな時間たっちゃいました。 (稲場)すいません(笑) (立岩)すいませんっていうのはこっちの方で。僕はよく授業とかで 2コマ 続きで 3時間ぶっ通しで休みなしで喋ったりするので、私は慣れているんで すが(笑)、稲場さんどうも大変でございました。 (稲場)皆さんどうもお疲れ様でした。 (立岩)っていうわけで今本当に 7時でございます。めしも食わなきゃいけ ないし、やったらもっとやっていけると思いますけど、だいたいあと 30分 くらいでね、質疑とかにしましょうね。 生存学研究センター報告 ◆質疑応答 ◇ターゲット/モビライズ… (稲場)あと、あのテーマにあった話でしたでしょうか。 (栗原)うん、それは大丈夫ですよ(笑)。 (立岩)栗原さん、補足してっていうか…。あれば。 (栗原)なんかこう、僕としては単純にこんだけひどいよ、って話だけじゃ なくて、どこをどうとっていくかみたいな話が聞けるだろうな、って思って いたので、具体的にはその、たとえば僕らの特集に勝手に絡めてもらえれば、 「社会」ですけど、だいたい、社会的なものをどうやって取るかみたいな…、 その動態としての運動というか方向としての運動というか、そういう話を厳 しいところもあり、かつどっかの何か…複雑なんだけどちょっと楽しみなが ら、というか…。そういうことで面白い話聞けて非常に嬉しかったんですけ れども…。  最初の方で具体的な話がでましたよね、その日本における茨城に来ている ナイジェリアの人とかカメルーンの人とか。そういうこう個別な事象があり つつも、かつ、その何かちょっといかにも COEっぽい話かもしれないんで すけど、エイズとかそういう話の中から、国際的な医療保険システムとか抜 本的な医療システムみたいなのの、どうやって構築するのかみたいなところ が、あってしかるべきかなと思うんですね。それってちょっと大きな話だし、 抽象的な話なので具体的にどうっていうの、たとえばそのナイジェリアの人 たちの話聞いちゃうと、それのバランスで、ちょっとどう目指していいのか とか、どういうことイメージすればいいのを、がちょっと知りたいかな、と いうかたちなんですけど。 (稲場)はい、わかりました。つまり、たとえばいくつかの目標があり、あ るいは HIV/ AIDSに関する普遍的なアクセスっていうものを達成するた めに何が必要かと。その話っていうのは、今すごく考えられている話なんで すね。そこの部分っていうのは非常にある意味最先端っていうか、今のいわ ゆる保健に関する援助を、あるいは保健っていうものを国際保健っていうも アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから のをどういうふうにしていくのかっていう、ある意味世界の援助潮流ってい うかそういうものの最先端にあたる部分である。ここに関してはいろんな各 国が競ってですね、たとえば先進国が競って、国連機関が競って、国際機関 が競ってこう作っていく、という部分なわけです。  これはまた話すときりがないわけなんですけども、今ひとつ、そこは論文 が一つ書けてしまうくらいの話なんですが、まあ三つあるとして、まず一つ は政策的なターゲット、グローバルな政策的ターゲットを作るっていう話で す。たとえばHIV/AIDSでいえば2002年から3年に打ち出された「3バイ5」 ★。その当時は今すぐ HIV治療を必要とする人は 600万人いると。ところ が 2002年の段階では 20万人しかアクセスできてなかったんですね。そのう ちの 10万人が、途上国で唯一、必要な人にエイズ治療薬を供給してきたブ ラジルの人たちだったと。つまり膨大な途上国の中で、600万人、590万人 がですね、治療薬を必要としている中で 10万人しかアクセスできていない と。その中でターゲット設定というものをしっかりする必要が、これ当然で てくるわけですね。このターゲット設定をするっていうのが市民社会と UN エイズ、あと WHOがターゲット設定の役割を果たす。つまり 2002年から 3年においてターゲットとして設定されたのは 2005年末までに 600万人の うち 300万人の治療を実現するんだというターゲットだったわけです。 ★ 世界保健機関(WHO)による、2005年末までに途上国のエイズ患者 300 万人に治療薬を配るという計画  このターゲットを達成するために、アメリカでいえば「アメリカ国際開発 庁(USAID)」であるとか、いくつかの二国間援助機関、そしてさらに一番 推進力になったのは 2002年に設立された世界エイズ対策、結核・マラリア 対策基金、このグローバルファンドですね。このグローバルファンドが多国 間の機関として資金を集め、もう一つは世界銀行が、多国間エイズプログラ ムというものをやって保健システムとか、そういったことを含めて、ある程 度お金を出すと。さらにアメリカ合衆国が、これいろいろ政策上の問題はあ るんだけれども、世界において治療を格段に増やす大きな推進力となったの がブッシュ大統領の、「米国大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)」なわ 生存学研究センター報告 けですね。  この 3つというものがそれぞれ相乗効果をもってですね、2005年末まで に 300万人はいかなかった、結局百数十万、そして 2006年の半ばくらいに 160万人という数字が出ていますけども、そのターゲットの設定のために、 そういうかたちでの国際機関が動いたということがあります。  まずターゲット設定というのが一つ。そしてターゲットに対して資金をど れだけモビライズするかという仕組みの中で一つは「世界エイズ・結核・マ ラリア対策基金」というものが設立されて、そしていくつかの資金拠出機関 がどういうかたちで連携してそれを実践するのかっていったときに、いくつ かの戦略というものがでてきたと。ところがこれ 2005年末までに達成でき なかったがゆえに、どういうかたちになっているかというと、2010年の末 までにユニバーサルアクセスを達成するんだと。つまり治療が必要な人は治 療を受けられるようにする、そういう体制を作るという目標が、国連と G8 で承認されて、それに向けてですね、UNエイズは、モニタリングプロセスを、 来年と 2011年にモニタリングプロセスを発動すると。そしてグローバルファ ンドは資金をしっかり担保すると。目標がいちおうこういうかたちであり、 資金があると。さらにそれぞれの目標達成のための資金を担保していく、そ してそれをどう使っていくかっていうことに関していろいろな国家が、国家 セクター、市民社会セクターがこう動いていくと、そういう枠組み作りって いうのが特に HIV/ AIDS、感染症に関して非常に発達したのがこの 10年 間、2000年の沖縄サミット以降の、沖縄サミット以降、その部分っていう のは非常に発達した部分なんですね。つまりこうやってこうやってこうやる んだということがものすごく理論化され、なおかつ実践ベースにおいても応 用されていったと。  それはたとえばエイズワクチンの開発であるとか様々な予防手段の開発に 関してもそういう動きが出て、実際にそこでなされているし一定の資金も投 入されてると。一方でその社会保障というか保険部分ですね。保険の部分に 関してはこれはまだまだ全然動いてないんですけども、いずれにせよそうい うような枠組みの理論化と実践というものがこの 8年の間に非常に大きく発 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから 達して来ているということがひとつは言えます。  あと、これと同様のかたちで基礎教育の充実に関してもひとつの枠組みと いうのが出来てるんですね。つまりそういうかたちで世界の保健水準と教育 水準を包括的にに向上させていこうと、そういう枠組みというのは、今相当 進んできてはいると。ただ進んできている一方で、資金が充分には投入され ていないっていう大きな問題が残っているというふうにいえるのかな、そこ ら辺は、まあもっと詳しく話せば話せるんですけども、まあ、それくらいかな。 (栗原)はい、ありがとうございます。 ◇傷/ウィリングネス (立岩)で、まあだいたい今7時10分なんで、まあいくらなんでもというか、 僕は長いのはけっこう体質的に大丈夫なんですけど(笑)、それはただたん に私の体質のなせることであるにすぎないので、いくらなんでもってこと で、半には終わりたいと思います。だからあと 20分ぐらい。あとはもうめ し食いに行ってそこで個別にというか、みんなでというか話せばいいんじゃ ないかなと思います。っていうことなんでだいたいそろそろ店じまいモード に入っていこうと思うんですが、まあ、その飲み屋でわあわあっていう手前 のところで一つ二つ、質問っていうんですかね、あれば、皆さんいかがですか。 (N)本当いろいろ々と詳しいお話を伺って大変勉強になりました。ありが とうございました。今日のテーマに貧困っていう言葉があったんですが、心 の貧困っていうことに関してのお話はなかったような。ですから、すべて あらゆる立場から人間たちの心の部分の貧困にはどういうふうな手が打てる かっていうふうなことが、今日のお話の中にはなかったような気がしまして、 でやはり心の貧困にどういういったいどんなような栄養であるとか、何かが 注げるのかっていうことに私は非常にお話伺いながら、とても気になりまし て。  で、たとえばひとつ考えたときに、日本で来年サミットがあるときに日本 の市民運動が何ができるかっていう話にちょっと引きつけますと、昨日街中 に行きましたら、増税反対、増税反対っていう演説があって、ま、たしかに 生存学研究センター報告 今の自民党政権で消費税増税なんかしたらどうかっていう話はあるんです が、先ほどからのお話で、日本の歯科医療費 1年分っていう時に、すごく具 体的な数字をお出しくださったときに各、日本人が全員 1年間我慢っていう わけにはいかないですよね。そしたらその具体的な数字をもとに、日本の市 民団体が私たちが何年間か、その分増税したら出来るんですよみたいなそう いうずごいポジティブで熱い心で、自分が出来る、是非したいって一人一人 の市民が思えるような方向付けみたいな、そういう痛みを引き受けましょう みたいなことを、やっぱりすごく人材もあり、情報もある市民運動がなさる ことが出来たら、すごく世の中変わると私思うんです。だから何かそういう ふうなこと来年日本にサミットが来るのであれば、つながるのであれば、っ ていうふうなことを考えさせていただきました。 (稲場)ありがとうございます。ちょっと二つくらい言うことがあるのかな と思うんですけど。ひとつは途上国における心の問題っていうのは非常に厳 しいものがあり、 (N)先進国だけの心の問題じゃなくて。 (稲場)そうですね、もちろん先進国もそうなんですけど、たとえば南アフ リカ共和国っていうのは先ほど申し上げたとおりなんですけど、非常に過酷 な歴史を持っていて、なおかつその過酷な歴史に対する代償というものが、 きちんとされていないんですね。つまり南アフリカ共和国の代表的ないわゆ るその和解プロセスとしてあったのが、いわゆる「真実と和解委員会」とい う非常に有名な、ネルソン・マンデラとデズモンド・ツツ司教という二人の 偉人というかですね、二人のいわゆる哲人ですね、この二人を看板として行 われたこの真実と和解委員会というのがあって、それがいわゆる和解のモデ ルということになったわけなんですけど、このいわゆるこの和解プロセスに おいて実際に多くの人々が納得できたかどうかって言ったときにこれ非常に 難しいことがあるわけです。つまりそんなに簡単に忘れることもできない、 アパルトヘイトによる虐殺というものを忘れることはできない。  あるいは、アパルトヘイトに対して戦った側の暴力も裁かれたわけですけ れども、これまたですね、BC級戦犯的な意味での問題点があったわけなん アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから です。つまりそのたとえば、アパルトヘイトに対して戦おうとしたいろいろ な若者たちがどういうことになったかというと、アフリカの社会主義の国々 の支配者グループの勝手な都合でですね、アンゴラで戦わされたり、引き回 されて、いろんなところで戦わされるということになった、しかもそこでやっ たことを問われたりとかするなかで、結局その、自分たちの戦ったことはあ れは何だったのかとかと、いうことになってしまった部分があるわけですね。  つまり真実と和解委員会っていうのは、とくに南アフリカにおいては、ネ ルソン・マンデラとそしてデズモンド・ツツという、非常に偉大な二人がい た結果として形の上ではなんとか収まったけども、実際にそれによる代償、 和解効果というものが個別のレベルで本当にどの程度あったかっていうと非 常に厳しい。さらにそれが途上国における和解モデルというふうな形になっ てしまっている。つまり、ネルソン・マンデラもツツもいない国で和解、真 実と和解委員会をやっても厳しいわけですよね。だけどもそれは和解モデル になってる。非常に大きな問題なわけですね。つまりその、きわめて長期的 なしかも残酷な残虐行為と人種差別というものが起こり、そしてそれが非常 に多くの人々にとってネガティブな意味で精神的にダメージを与えていて、 それをどういうふうに和解プロセスにもっていくのか、和解プロセス、あと もうひとつは様々な精神的な手法をもっての癒しというものをどう追求する のかっていうのはすごく難しいことなんですね。  たとえばルワンダなんかの大虐殺というものがあって、それに対して今い ろいろなかたちで、今の政権が和解プロセスをやってはいるわけですけど、 あれはあれでまた非常に、詳しく言うとまた大変なんですけど、そういう意 味で途上国におけるさまざまなその歴史的な経緯、それによる精神的なダ メージそれをどう乗り越えていくかっていうそこって言うのは本当に手当て がされていないところですね。感染症に関しては今言ったようなことがある わけですけども、途上国の精神医療をどう向上させるかってイニシアティブ は WHOがちょっと考えているけれどもほとんどお金あてがわれてないです ね。そこもやっぱり非常に大きな問題だと思います。これからの健康問題だ ろうなっていうふうに思います。 生存学研究センター報告  それで、も一つはそのいわゆる増税というような問題なんですけれども、 一方でそのやっぱり欧米における市民社会運動と「貧困を歴史的遺物に」と いうとかそういう社会運動っていうのが、そういうそのウィリングネス、世 界のウィリングネスというものを動員しているということも非常に大きな要 素であって、これは事実であって、それと同様のことを日本でどれくらい展 開できるのかっていうことはなかなか難しいですね。気候変動っていうのは、 自然がもっとも大きな啓発メディアになってくれてるので、つまり台風がく ればみんな台風大変、気候変動大変、ってみんないやおうなしに思うという のがある。ところが感染症の場合は、HIV/ AIDSなんかの場合、そうな らないと。しかも気候変動は自分の問題だけどアフリカのエイズは他人の問 題だという中でどういう形でそこにウィリングネスっていうものを動員して いくのかっていうのはすごく難しいことだなあと思うんですけど。  日本がイノベイティブな海外支援メカニズムをつくるってことが出来るの かどうか、なかなか難しい問題で、気候変動に関しては何らかの形で出来る だろうと思うし、やった方がいいと思うんですけど、やった方がいいってい うか、ある程度できる政治的な圧力があると思うんですけど、同様にそうい うものを感染症であるいは途上国の保健支援で作れるかどうかっていうのは 市民社会にとって非常に大きなチャレンジだと思います。それなるべく出来 るようにはしたいと思いますんですけど。そこをまだアイデアが充分ないで すね。まあなるべくちょっと検討してっていうか、頑張っていきたいなとは 思ってますけど。はい、すみません。 (立岩)たしかに、しゃあしゃあと、っていうか正直にというか、税金余計 に払おうぜ、みたいなものの言い方っていうのはある意味ストレートでいい かも知れないと、僕も思うんですね。明日の『京都新聞』にちっちゃくコラ ムが載るのもそういう話ではあって★。私もある意味で増税論者なんで、ま あ、僕の場合はその必ずしもみんな均等で増やせっていう話じゃないんで、 累進性もっときちんとつけるみたいな話なんでね、またストレートな増税論 者ではないんだけど、ま、そういう話も関係はあるかな、と思います。さて、 あと 10分ですが。 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから ★立岩真也 2007/08/03 「削減 ?・分権 ?」,『京都新聞』2007-8-3夕刊:2  現代のことば(掲載は遅れて8月3日になった) ◆質疑応答2:アフリカにおけるゲイおよびゲイ・アクティビズムの状況 (K)あと 1点ですが、まず最初に今日のお話、すごいエキサイティングで 面白かったですし、やっぱり僕、稲場さんのアクティビストだなあという感 じが(笑)ひしひしと伝わる、僕はすごく感動しました。で、それはいいん ですけど、僕はお聞きしたい点はアフリカにおけるゲイおよびゲイ・アクティ ビズムの状況について、概観だけでけっこうですので、教えていただければ と思います。というのはニュースで伝わってくることというのは、ナイジェ リア悲惨だよとかそういう話しか来ないんです。その中でどのような運動が 展開されていてあるいはどのような運動上の困難があるのかというあたりを 聞かせていただければと思うんですけど。 (立岩)そうですね、それ忘れてたっていうか、案内のホームページの下の 方には書いてあったんだけど。稲場さん書かれた話もね、『現代思想』に書 いていた話もその前も、アフリカっていうのもあるけれど、イスラムにおけ るゲイの位置っていうのがあって、それはイスラムにおける FGMの問題で あったり、それにたとえばフェミニズムがどう対するかみたいな、本当に厄 介な問題でもあるんですよね、これを答えろっていうのもたいへんなことで すけど、まあ概観っていうのと、僕まだちょっと、じゃあそれどうするべ、っ て話と、両方ともでかい話ですがまあちょっと残り時間で(笑)やれるとこ ろをって感じですね。 (稲場)そうですね、まずアフリカのゲイの状況なんですけど、ひとつやっ ぱり一番大きな問題になってるのはやっぱり、これ伝統的なものなのかそれ とも近代的に構築されたものなのか、両方だと思うんですけど、やっぱりそ の男性優位主義、マチスモですよね。いわゆるそのジャマイカなんかでもよ くあるところのつまり男性は女性とセックスするものであって、男性、とく にその男性と男性がセックスする場合でも特にその受身側になるほうですね 生存学研究センター報告 そちらに対する暴力とか差別とかっていうものが非常に強いわけですね。そ のマチスモの問題と非常に大きな問題として暴力の問題としてあるところで す。で、あともうひとつはその、それは日本の 80年代とかもそうだったと 思うんですが、ゲイとしてのライフスタイルというものが誰も追求してない 場合、自分どう生きていいのかわかんないっていう、そこはかなり大きな問 題としてあるわけですね。  つまりゲイ、たとえば身近にゲイカップルで生活している人とかあるいは ゲイのアイデンティティをもってそれを大事にして生活している人とかって いう人たちが身近にいれば自分もそうしてみようっていう話になるわけです けど、ロールモデルがいないと結局そういう、自分は誰で、どういうふうに 生きることが適切なのかっていう、複数のオプションとかモデルっていうも のが提示されない。その結果として伝統的な生活スタイルに従わざるをえな くなってしまうということは非常に大きな問題だろうと思います。つまり宗 教的なファクターを除くとその 2つの問題が非常に大きいのかなと。つまり 伝統的なマチスモと、そしてどう生きればいいのかっていう道がオプション が示されないっていうこの 2つの問題ですね。 ◇ナイジェリア/ガーナ/ウガンダ…  ただ、現状でたとえばナイジェリアは非常に悲惨な状況であるということ が新聞報道でいくつかあったかもしれないんですけども、一方でそのナイ ジェリアっていうのはゲイ解放運動がそれなりに存在している国でもあるわ けですよ。つまり、ナイジェリアの一番古い、古いっていうかナイジェリア で一番最初にゲイの運動起こした人がヨルバ人でいるんですけど、彼が「ア ライアンス・ライツ・ナイジェリア」っていう団体を作ったんですね。5人 のゲイと一緒に作って、それがけっこう西アフリカの中ではゲイの運動とし ては一番早くできたグループなんですが、この 5人がどうなったかという と 2人はエイズで死に、1人は親に迫害されて南アフリカに亡命して、1人 は団体を別にラゴス、一番でかい町で作ってその創設者はイバダンっていう ナイジェリアで 2番目に大きな町で同じ団体をずっとやっていると。つま アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから り、5人のうち 2人は死んで 1人は亡命、少なくともこの 3人はもう運動か ら脱落してるわけですね。物理的に 2人は脱落しているわけ。でこの 2人は HIV/ AIDSなりなんなりを中心にしながらゲイの団体をしっかり作って いるわけなんです。  私が非常にナイジェリアに行ってびっくりしたというか、ナイジェリアの エイズ会議に行ってびっくりしたことは、ナイジェリアのエイズ会議でゲイ・ レズビアンのパーティがあってですね、そのパーティに行ったときにナイ ジェリア人のゲイとトランスジェンダーの人たちがたくさんいたんですね。 若者。この若者達がみんなしっかりしたゲイライツの考えというものを持っ ていて、そしてゲイとしての人権ということに関して1人1人がしっかりと したことを言える、そういう状況であったと。  ナイジェリア自体はその旧ソドミー法がですね、イギリス領の時代にビク トリア朝時代に導入されているので、同性間性交渉は非合法なんだけど、そ のゲイバーっていうのはゲイバー自体を作るとまずいんですけど、ゲイ中心 で運営されている、別にヘテロセクシャルも来られるんだけど、ゲイ中心で 運営されているバーというのがいちおうあるんですね、ちょっと私は行く時 間がなかったんで行かなかったんですけど、ラゴスにもあればいくつかの大 きな町にも存在してると。  でまたその HIV/ AIDSに関する啓発運動っていうのはイバダンとラゴ スっていう二つの大きな町ではいちおう展開はされていて、なおかつ彼らは ナイジェリアのエイズ活動家のコミュニティの中ではそれなりの発言力を 持ってるんですよ。そういう意味でかなり私自身は、ナイジェリアっていう のは、たしかに非常に厳しい状況である一方で、一定その石油成金とかお金 持ちがいる国でもあるので、それでいわゆる中産階級以上の部分の中でゲイ ソサエティっていうのは一定あって、そしてそこがある程度ゲイコミュニ ティを、運動としてモビライズしている部分はしっかりある国だっていう感 じを持ったんですね。  ちょうどそのパーティにガーナのゲイのグループの人が来ていて、私はそ のあとガーナに行ってその人の事務所に行ったんですけどナイジェリアの場 生存学研究センター報告 合、自分の団体の事務所を看板つきで掲げるっていうのは非常に難しい状況 にあるんです。ナイジェリアっていうのはガーナに比べると格段に暴力的な 国でなにが起こっても不思議ではないので、ある意味なんか、ここ襲おう ぜ、って言って襲っちゃうみたいなことはいくらでもあるので、公然とって いうのはなかなか難しいんだけど、ガーナの場合は実際にもうオフィスを構 えていて、何人か活動家がいてエイズキャンペーンにしてもなんにしてもそ れなりにできているということだったんですね。そういう点で非常に興味深 かったなと思います。  アフリカのゲイ運動に関してやっぱりその一定の梃入れが特に国際機関か らあるんですよ。というのはたとえばナイジェリアで、アライアンス・ライ ツ・ナイジェリアのその年間総会をやる資金を出したのは、これは、アメリ カ国際開発庁、USAIDが資金をだして、それでそういうのやると。つまり、 それはゲイコミュニティにおける HIV/ AIDSのことをやるっていう動き があるからですね。ガーナなんかにおいても UN機関が一定そういうグルー プを作るうえでのそれなりの働きをしているということがあります。ですか らそういう意味で国際的な、国際機関の支援っていうのが一方でそれなりに あるんですね。そういうところが特にナイジェリアやガーナの運動を見てる 場合には国際的な支援てものがあることがあって、一定のその運動を継続さ せる、あるいは市民権を持たせる上でも重要なのかなっていうのがあります。  逆に、ウガンダに行った時にウガンダのゲイの団体の人たちから言われた のは、ウガンダっていうのは国際機関のトップもウガンダ人がやっているの で、ウガンダ人の国際機関トップはゲイ・レズビアンの運動に全然理解がな くて、そういう国際的な支援というものを全然得られないと。そういう意味 で非常に大変であるということを言ってた。ただ一方でウガンダっていう国 もある程度 90年代から経済成長して都市部にはゲイコミュニティはそれな りにあるんです。そのゲイコミュニティがある程度、運動団体を組織化して そしてかなりその、民族主義的な色彩の濃い今のムセヴェニ政権に対してゲ イの権利っていうの主張したときにすごい暴力で弾圧をされて無期懲役とか になったりした人もいたわけですけども、逆にそこを国際的に発信したこと アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから によってムセヴェニ政権もそんなにひどいことは出来なくなったという状況 が、ウガンダの今の状況ですね。 ◇南アフリカの当事者運動  こういうアフリカのそのゲイ・レズビアンの運動に対して非常に精神的な 支えになったのが南アフリカの HIV/ AIDSに関する当事者運動なんです ね。その南アフリカのトリートメント・アクション・キャンペーン(TAC)っ ていうその、HIV陽性者の運動を一番進めていった団体のトップであるザッ キー・アハマット氏が、ゲイ、マレー系の南ア人なんだけどゲイの活動家で、 彼のリーダーシップっていうのは、HIV陽性者の中ですごい尊敬されてる わけですね。彼がゲイであったっていうことは、ゲイっていう存在をアフリ カの HIV/ AIDS運動の中で非常に高い存在に位置づけ直したというのが あります。だからそういう点で南アフリカ共和国のトリートメントアクショ ンキャンペーンの運動っていうのは HIV/ AIDSだけではなくて、ゲイ解 放運動にとっても非常に大きな象徴的な運動としても存在しているというこ とが言えるわけですね。  そういう意味でもっていうか、けっこう今はアフリカのゲイの運動はそれ なりに進展しつつあって、いくつかの国のネットワークが南アフリカに集 まって会議をしたりとかそういうモビリゼーションがだんだん出来てきてい るという状況かなと思います。90年代にもそういう動きが若干あったんだ けどけっこう白人主導だった部分があって、それを今は乗り越えてそれなり の土壌が出来てきているともいえる、ということで、その点はまあ、一方で すごい進歩だっていうふうに言うこともできるのかなあ、というふうには 思っています。 ◇イスラム圏のゲイ  イスラム圏のゲイの話っていうのは非常に難しいところでですね、これは 前なんかの集会でプレゼンをしたことがあったような気がするんですけど、 あれなんだったっけなあ、いわゆる女性性器切除に対する運動とそれを批判 生存学研究センター報告 する側の言説の問題とかっていうことにちょっといくつかプレゼンをしたこ とがあったような気がするんですけど、いずれにせよイスラム世界において 同性間性行為っていうのはかなり頻繁にみられるものではあるんです。それ が機会同性愛である以上はそれなりの寛容さって言うか見逃されるっていう 部分がある中、同性間性行為っていうこと自体はイスラム圏には非常に多く みられる、それはイランにおいてもある意味そうなわけですね。ところがこ れが同性愛である、そして同性愛者の権利を求める政治運動であると言った ときに、どういうことが起こるかといったときに、そこで権力が牙をむいて くるわけですよ。  で、ここの違いというものを日本の裁判所は見ることが出来なかったがゆ えに、Sさんは両方とも裁判で負けることになってしまったわけなんです。 つまりその同性間性行為は一般的に存在しているわけですよと、しかも同性 間性行為をした人が全員つかまって死刑になってるわけじゃないだろうと。 そういうロジックの中でそのことと同性愛者としての人権を訴える政治運動 をすることとが混同されてしまう、そしてなおかつ日本の東京裁判所は東京 地裁も東京高裁も、あと東京地裁の判決でですけど、自分が同性愛者である ということを主張するのは性表現であると、性表現に対してどんな規制を加 えようと国家権力がそれぞれの法律において行うことであるから、それは各 国の自由に任されるべきであって、たとえば自分が同性愛者であるというこ とを言う言わないということに対する規制をするしないっていうのは、これ は別に何の弾圧でもなんでもないんだ、っていうすさまじい理屈ですね。そ して彼は、彼の主張は政治的意見ではないっていう判断でそして、敗北して しまったと。こちらはそれに関して、そもそもそういうような考えがあるこ とは見込んだ上でいろいろなことは言ってたんですけど、結果としてそうい うようなかたちになってしまったわけですね。 ◇想像のゲイ共同体  イスラム社会というところにおいて、そこの中で非常に微妙な問題ってい るのはたとえば女性性器切除の問題で、たとえば岡真理さんが言っているロ アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから ジックというものに関しては私は徹底的に批判的なんですが、つまりたとえ ば、ここはその本を読んでない人がおおいからあんまりそこ話してもしょう がないですよね。 (立岩)よろしかったら、あっさり…、あっさりした話じゃないですけど。 (稲場)あっさりした話じゃないですね…、岡真理さんの指摘っていうのは 必ずしも、ある意味間違ってないともいえるわけです。女性性器切除に反対 する運動っていうのは、女性としての連帯なり女性としての「階級」という ものをそこで出してしまうわけだけれども、そもそも途上国の女性と先進国 の女性の間には大きな開きがあるわけで、そこの部分に関して同じ女性だか らということで、そういうレズビアン連続体(注:アドリエンヌ・リッチが 提唱した概念)じゃないけれどもそういう連続体としてのね、…そういうこ とを主張できるのかと、本当はそこが分断されてるんじゃないかということ を言う。  そう言うわけだけれども、じゃあ、たとえばその理屈をイスラム圏におけ る同性愛者弾圧っていうことにひっくり返していったときに、途上国のゲイ と、先進国のゲイと同じゲイであるから連帯できるというふうにいえるの かって言ったときに、われわれは言えるというところから始めないといけな いわけですよ。つまり、いえるというところから始めなければ運動はできな いわけですし、実際そこの途上国でわれわれはゲイであるということをいっ てる人がいる以上その間の連続体も想像、いわゆる想像の共同体としてもそ こを広げていかなければ運動としては成立しないし、またそれを望んでいる 途上国の人たちが、途上国のゲイなりいるわけですね。そこにわれわれは、 もちろんそこのその分断線はあるわけだけれども、逆にそこを想像上の共同 体としてそこを仮定するところから話を始めて、断絶を、断絶はそこからし か乗り越えられないわけだから。  この部分をですね、もっといわゆる分断状況から話をはじめなければ素直 な話じゃないっていうね、そういう指摘っていうのは逆に言うと、ある意味 分断を固定化することにしかならないし、そういう点で言うと、彼女のその 主張っていうのがある意味運動破壊の部分をすごくもっているとしか言いよ 生存学研究センター報告 うがないわけですね。  つまり、ゲイの問題、ゲイに対する弾圧っていうこととパラレルに考えた ときにある意味そこを非常に見えやすくなるわけですけどね。つまり女性性 器切除の問題の場合はある意味その見えにくい部分もあるのかもしれないん だけれども、それをゲイの問題に照らし合わせていくと、その理屈だとゲイ、 イスラム圏におけるゲイに対する弾圧に関してもわれわれは反対できないと いうことになりますよね、と。いうことになってしまうので、その部分では 私自身はいわゆるそこの分断線というのを強調するとするならば、じゃあ逆 に想像上の共同体としての担保というものをどこにじゃあ置くのか。  あともう一つは、われわれがこちら側としてどう応答するのかって言った ときに、中身は考えなきゃいけないけれども、一方でそこで、言語表現の 意味で、ある意味粗雑な言説なり配慮にたらない言説が出てきたときに、そ れに目くじら立てて噛み付くっていうことがどれだけ生産的なことであるの かっていったときに、やっぱり非常に非対称的な言説構築にしかなってない んじゃないかっていう感じが非常に受けるわけなんですね。だからその点で 私自身は岡真理さんの指摘に対してしては非常にまあ、懐疑的というかです ね、こちらとしては批判的に考えているわけです。 (K)戦略上のものであるにしても実質的なものであるにしても、トランス ナショナルなゲイムーブメントはゲイネイションっていうのものを、いわば 想定し…。 (稲場)そうそうそう、そのとおり。 (K)そのなかにいわば様々な社会保障なり、あのあるいは再分配なりのあ り方を考えていかないと運動として成り立たないと、で、その意味で言うな らば先ほども話でましたけども医療保障っていうところ、国内でさえ、たと えば他の国からやってきたいわばオーバーステイのゲイに対してさえ、医療 保険が提供できておらず、それに対してあんまりゲイ全体として関心もたれ てない現象っていうのは、ゲイネイションっていう視点からしたときに、よ り強く問題化されるべきだろうなあっていうふうに思います。ありがとうご ざいます。 アフリカ/世界に向かう─稲場雅紀さんから (稲場)そうですね。つまりやっぱり結局のところ、想像上のコミュニティ なりアイデンティティとして、こちらがその連続体っていうのを考えていか ないと、やっぱりそこからしか話始まらない。つまり運動作る場合、そこか らしか話始まらないということをやっぱり位置づける必要があるのかなと、 そういう中でたとえば Sさんの問題とかいろんなことについて取り組んで いくわけだけれど、そういう意味では逆にコミュニティの部分で、そこに乗 り出そうっていう力っていうのが今のところ働かないっていうのも日本の現 状でもあるのかなあと、それはある意味しょうがないといえばしょうがない 部分ではあるんですけど。まあ努力していくしかないのかもしれないですね。 今その努力ができないのが残念なんですけど。まあ、そんな感じ。 ◇南アフリカの当事者運動についての補足 (立岩)さっきの南アフリカの人、ザッキー・アハマット、あの方は今は、っ ていうか。 (稲場)元気にしてます。南アのエイズ政策がちょうどその南アの非常にど うしようもない保健大臣がおそらくはエイズとおもわれる症状で入院をし て、引退というかですね、実質上保健大臣としての役割が果たせなくなった ので今の副大統領と、保健副大臣とがそのエイズ政策を新しく担うことに なったわけですよ。彼らが TACの路線を路線として採用することになった んですね。その結果今の TACの副議長であるそのマーク・ヘイウッドって いう、マーク・ヘイウッドがあの南アのその南ア国家エイズ委員会の副議長 をやると、いうかたちでかなりその TACの HIV/ AIDSムーブメントは 南アの中心的な、路線に今なりつつあると、そういう意味で非常に大きな勝 利を。 (立岩)大臣さんはいつ、引退っていうか退かれたんですか。 (稲場)彼はね、去年の夏くらいかな。 (立岩)するともうだいたい 1年くらい。 (稲場)そうですね、大きく変わりましたね。 (立岩)ザッキー・アハマットのファイルはわれわれのホームページにもあ 生存学研究センター報告 りますのであとでご覧ください★。 ★ Achmat, Zackie[ザッキー・アハマット] http://www.arsvi.com/w/ az01.htm(稲場)彼は非常に偉大なゲイ活動家でもあり、HIV陽性者の活動家でもある。 (立岩)さっきの岡さんも近所にいる人なので、京都在住の人なのでそのへ んのリクエストが皆様に高まれば、また、またちょっと別のネタになります けど、マルチカルチュラルななんとかとなんとかみたいな話で、議論という かな、することはできるかと思いますけど、まあそれはみなさんのリクエス ト次第ですから、あったら考えてみましょう。というところで3時間40分たっ ちゃいましたよ。 (稲場)すいません。 (立岩)いやすいませんてことじゃなくて(笑)、非常にありがたかったんです。 どうもありがとうございました。まあ、そんな感じでこれを基本的には全部 起こして、適宜編集したバージョンが『現代思想』の 9月号に載るんじゃな いかと思っていますので、皆さん楽しみにしていてください★。 ★『現代思想』2007年 9月号 特集:社会の貧困/貧困の社会 あとがきに代えて 天田 城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科 准教授)  本報告書は、2007年9月6日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された「歴 史のなかにおける問い─栗原彬先生に聞く」および 2007年7月29日に立 命館大学衣笠キャンパスにて開催された「アフリカ/世界に向かう─稲場 雅紀さんから」の全記録である。そして、この 2つの企画の全記録をまとめ 合わせ、生存学研究センター報告「時空から/へ─水俣・アフリカ…を語 る栗原彬・稲場雅紀」という名を付し、刊行するものである。  上記の企画の趣旨や経緯、お二人の経歴やこれまでなされてきた仕事につ いてはすでにまえがきならびに本文中で詳細に述べられているので、ここで は割愛させていただくが、改めて読み返すと、この 2つの企画が 1つの冊子 としてまとまったことはきわめて大きな意義があると実感することができ る。2つを続けて読むことで、私たちは、お二人が語る歴史的事実について、 その時空における身体をめぐって起こった/現に起こっている出来事につい て、それらをめぐって語られてきた/現に語られている言説について、私た ちのいまこの世界に内属しつつ、これまで問われてきた問いの仕方とは異な る形で思考することが可能であることを実感することができる報告書になっ ている。一読者として嬉しい限りである。  お二人によって語られたことの何をいかに受け取るかは基本的には読者一 人ひとりに委ねられているのであろうが、そのいくつかだけを彼是と考えあ ぐねても容易には解析することが困難な問いであることに気づく。いや彼是 と考えるのは比較的容易だが、それを解析せんとすれば幾重にも入り組んだ 話になり、またその解決への道筋を示すことが相当に厄介にならざるを得な い問いであるのだ。むろん、であるからこそ大切な問いでもある。  第一には、何がいかにして起こってきたのか/現に起こっているのか、そ れらをめぐって何がいかに語られてきたのか/現に語られているのかという 事実を知った上でも─その作業自体が行われることがまずは大切かつ必要 生存学研究センター報告 な作業であるのだが─、多くの場合、ある学問領域において完結して閉じ てしまうような事実をめぐる言説とはならず、またそうであるがゆえに、そ れらの言説は別の諸言説と接合/分離していくという現実がある。そうした 現実を踏まえた上で、もう一度、その時空に立ち戻って思考・考究すること、 それ自体はなかなか難儀な仕事であるように思うのだ。更には、私たちがこ の世界に内属して思考せざるを得ない限り、ある歴史−時代のなかで問われ た問いを引き継ぎつつ論考する作業は論理的に相当な困難を随伴せざるを得 ないように思うのである。だが、それでも、そうであるからこそ、私たちは それを考えていくことが求められているとも言えるのだ。  第二に、上記のような私たちがこの世界に内属するゆえのこの世界を捉え ることの困難と厄介さがあると同時に、現在起こっている現実それ自体を捉 えなおし、組み替えていく作業もまた困難であり、しんどい仕事である。栗 原氏ならびに稲場氏の報告にあったように、水俣であれアフリカであれ、私 たちは既に作動してきた/作動している構造の只中にいるからこそ、それを 捉えなおし、組み替えることは難しいところがある。具体的に言えば、水俣 という場所において水俣病患者や企業や市民などが相互に別様な形で経済的 にも政治的にも組み入れられてきた歴史とその構造ゆえに、その現実は当然 ながら様々な利害と力学が錯綜する困難な現実となり、またそれを組み替え ようとすれば当然ながら更なる亀裂・軋轢・対立を召還してしまうことにな る。また、グローバリゼーションにおけるアフリカ諸国においても歴史−時 間的にある現実を背負わされ、その現実を引き受けることを今日においても 余儀なくされてきたゆえに、現在の諸々の現実の困難があるのだ(使用され ている言語然り、南アフリカ共和国の分配の困難然り)。だからこそ、私た ちは現在起こっている現実の困難を知ったうえで、それを捉えなおし、組み 替えていくことは相当に大仕事にならざるを得ないのだが、それでも栗原氏・ 稲場氏の報告から、すでにその道筋は指し示されていると思うのである。だ から、私たちは考え抜いていけばよいのである。  最後に、その困難から抜け出る方策とそのための戦略・戦術をめぐる困難 がある。複数的で多層的な戦略・戦術があり得るとして、あるいはある一つ あとがきに代えて の戦略・戦術それ自体は肯定されるものだとしても、この困難かつ厄介な現 実を組み替えていくことをめぐって更なる亀裂・軋轢・対立が作り出され、 そうであるがゆえに、遂行せんとする戦略・戦術が頓挫してしまうことがあ る。このような戦略・戦術上の困難もまたあるのだ。だが、栗原氏・稲場氏 の報告ではそうした一定の厳しさがありながらも、すでに解決のための方策 があること、そのための道筋の一つを指し示してくれている。  私たちはここから考えていくことができるし、考えていくべきなのである。  上記のような幾重にも折り重なる思考の道筋を指し示していただき、また 本企画のために多大なるご尽力いただいた栗原彬氏と稲場雅紀氏にこの場を 借りて厚くお礼申し上げたい。まことにありがとうございました。 発行日 2008年3月7日 発行者 立命館大学グローバル COEプログラム「生存学」創成拠点 発行所 立命館大学生存学研究センター TEL.075-466-3335 印刷所 株式会社田中プリント