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「Allan Young 教授のリプライ」1

Young, Allan 2008/02/29
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20080229
『PTSDと「記憶の歴史」――アラン・ヤング教授を迎えて』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告1,157p. ISSN 1882-6539 pp.54-62

last update: 20151225

Allan Young 教授のリプライ
Allan Young(慶應義塾大学 社会学研究科 特別招聘教授)

(ヤング) Thank you. I would like to make two comments before I make my comments and the first comment is to express my gratitude to the speakers for such a close reading of my text and the depth of their understanding.
The second comment that I want to make before the comments is my envy of their supervisors to have such accomplished graduate students working, collaborating with them. Commentaries that I received and read, which were just made, were not only impressive but very stimulating for me and I have very little time and will just make some very quick comments and I apologize for how brief the comments must be because in both the cases each of these presentations is worthy of a seminar session and to spend two-three hours discussing the papers and the subjects.
First of all, with regards to Risa’s presentation, I have two comments, in no way a critique, but just to signal my own connection. This paper emphasizes a distinction that is most often ignored in the literature on PTSD and it is the distinction between trauma and PTSD, and trauma as described here very well and very poignantly is an extremely complex experience, full of contradictions and worthy of investigation. PTSD, on the other hand, works in exactly the opposite direction to simplify, to homogenize and I think that for anthropologists, who are interested in the patient’s perspective with regards to PTSD, must work very hard to do exactly what you have done and that is to make the distinction in your writing between the trauma, on the one hand, and PTSD is, what I would use is a very fancy word, an epistemic object, on the other hand.
Second comment that I want to make is your question of an ethical nature and that is having described and understood the way in which PTSD is deployed, one might say almost opportunistically one feels an obligation to one’s informants, to our patient population, not to betray them in some way. All that I can say is that the parallel with the veteran' s population for myself and for other PTSD researchers is quite, quite precise in that way and even though this is a very aging population, I am a veteran from these periods, you see how old I am. In this regard, but the controversy persists even today and explains why, when I finished my research in 1988, I published my book in 1995 and parts of that delay was this rest one with the issue that you have asked here and then so I have no simple answer, I do not need to have a complicated answer to that.

(通訳) 足りないところは宮坂先生に補っていただくことにいたしまして、最初に非常に面白いプレゼンテーションを聞かせていただいたことをうれしく思っております。ありがとうございました、と申し上げないといけません。
 お二人とも、発表なさったことが非常に実生活に基づいた密接な話題で、そのことについても感謝申し上げますし、また私の出した著書をよく読んでくださったということに関して、また理解もよくしてくださっていますので、そのことに関しても御礼申し上げたいと思います。そして二つ目に申し上げたいことは、こんなに素晴らしい大学院生を抱えていらっしゃるこの大学院に関しまして、本当にうらやましいというジェラシーのような気持ちを持っております。このような素晴らしい方たちと一緒に共同で研究をなされる大学院は本当に素晴らしいことだと思っております。それに感銘を受けました。
 この二つのコメントに関しましては非常に短くて申し訳ないのですが、それぞれのケースについて、お話し申し上げたい。本当に短くてすみませんと謝っておられます。でも、それぞれが挙げていらっしゃる話題は、こんな短い時間では到底話すことができないことで、セミナーにして2〜3時間かけて多くの方とディスカッションしながら掘り下げる必要のある話題ですので、本当にコメントが短くなることを申し訳なく思っております。
 まず一つ目のことですが、私はこの一つ目のプレゼンテーションに関して、批評家として意見を申し上げるのではなく、自分自身の気持ちとしてお話ししたい点があります。PTSD の文献では、取り上げられていない無視されがちなところに注目して、プレゼンテーションの中で取り上げていらっしゃるところを、非常に面白いと思って聞かせていただきました。トラウマというのは非常に複雑で、多くの矛盾を含んでいるのですが、反対に PTSD を診断する精神科的な見地から申しますと、非常に単純化して考えて診断しなければいけないという点があります。しかし、人類学者としてこの考察を読ませていただくと、非常に面白い考察で、PTSD というのはさらに、言われたとおりのことが言えるなと考えております。
 このあたりに関してはまた先生の方から付け加えることがあるかと思いますが、コメントの二つ目ということで、PTSD というのは、症状が遅れて出てくるということもあります。そのことも少し…。自分をだまして表現するというあたりのくだりに関しては、私の研究でベトナムの復員兵もまた、補償問題に関して PTSD の診断を必要としておりますので、私の研究とかぶる点もあり、私は本当に年を取っておりますので、ご覧いただければ分かると思いますが、兵隊に行った経験もありますから、その辺の矛盾を熟知しており、1988 年と 95 年にも著作した私の本の中に、この少し遅れて出てくるPTSD という問題について少し触れさせていただいております。足りないところは宮坂先生に。

(宮坂) 要するに、トラウマと PTSD というのは違うわけです。トラウマは矛盾に満ちて極めて複雑な苦悩の経験、PTSD というのは、認識の一つの枠組みであるということで、多様で複雑なものを単純化して同質だとして認識した結果の産物である。そういうところが区別しないで論じられている研究が非常に多いのですが、ご発表はその区別を取り上げるという態度がありましたので、その点は非常に注目されました。
 2番目の質問は倫理的な問題ですね。つまり、話をして教えてくれた人、あるいは患者の人々を PTSD だと認定していく方が、ある意味ではその人たちにとって有利な場合もある。それは、ある意味で不実なやりかたでもあるわけですね。そういう「倫理的なジレンマ」を含んでいることはよく分かるのです。というのは、アラン・ヤング先生自身がやはり同じ問題に直面していたからです。ベトナム戦争に徴兵され除隊した復員軍人であるという立場の先生が研究者として調査した。自分と同じ立場の人間がいわゆる PTSDに苦しみ、彼らがある意味で、社会的に救済されなければならないという同情、共感を持ちつつ、しかしながら、その現場で人類学者として PTSD 概念やその治療を認識の文化と見る場合には、さまざまな問題をやはり見据えなければいけない。そういうジレンマがあって、同じ問題を抱えていたわけですね。そのために 1988 年に調査が終わったにもかかわらず 95 年まで7年間も著作が出せないという遅れがありました。そうした倫理的葛藤を先生自身が抱えられていたからこそ、全体をまとめる作業が大幅に遅れてしまったということなのです。ですから、 今回の先生のコメントは通常の批判的コメントではまずなくて、 私も実はあなたと同じ問題を抱えている人間だという共感の表明ということになるわけです。
(ヤング) Thank you and apologize for the brevity of my comments. When I read Dr. Katayama’s comments, I became progressively more and more excited going through it and since he is a clinician I will tell him I just stopped before the point of hysteria. So, just the hyperexcited and particularly if I could just read one sentence that and just a follow up on the sentence, a point at which Dr. Katayama’s speaking about traumatic memory and writes I cannot understand them without understanding their current context. These memories identified as traumatic memories, every time they are repeated,are given meaning and are reweaved up in anew.
Well, I could not agree with you more and I feel very passionate about this and I think that if one could choose a single target in the discourse on post-traumatic stress disorder that deserves to have an arrow shot into it, it is precisely this point, the determination in the conventional discourse to treat traumatic memory as an essence. To treat it as if it were a photograph locked away in a file cabinet, somewhere in the minds or the brains, when we know that simply is not true.
We know this from neuroscience and particularly very recent developments in neuroscience involving functional neural imaging, the act of remembering draws together various parts of the brain simultaneously, it is not a little homunculus in the brain, going to a file cabinet, then pulling it out, and what is remarkable is we have known this for a long time. Arguably, the greatest book, maybe Professor Sato will tell us the third greatest book, but I think with regards to memory, a great landmark was published in 1932 by Frederick Bartlett on memory, but when he wrote this book he did not call it “memory,” he called it “remembering,” and he emphasized the fact that it is a creative effort, the assembling you do or spinning as Dr. Katayama describes in his paper, so I congratulate
you on this and I will put it in this frame.
In my talk today, I spoke about PTSD and the official version being a process, this is the way in which its represented: events, memories, symptoms, syndrome, and so on and so forth, but there is a second process that is involved and that is the process not at the level of post-traumatic stress disorder, but at the level of the individual trauma itself and that too is a process, it is not an essence, it is a process, and I am happy to say that I published an article just this year making exactly this point in the Journal of Anxiety Disorders, together with a close friend, a very famous epidemiologist.
I am very, very happy to say I agree with you in this regard.
Your emphasis on the idea of a site and a particular place, the site of remembering is, I again agree, absolutely important and it is important I think clinically, it is a important phenomena logically, and it should be important to anthropologists sociologically where those sites are and you put it in the context of a minority subject that I am not only interested in, but I think I know a lot from the inside as well as from the outside.
Unfortunately, there is not enough time to explore that and also your very provocative question about the injection of the ideology, again subject that I could go on and bore you for an hour with, but I must stop now.

(通訳) お話のされ方からも、 先生がどれくらい興味を持たれたかをお分かりいただけると思いますが、まず片山さんに、非常に興奮してしまいまして、本当にヒステリーを起こしそうになるくらいに hyperexcited になってしまいましたと、プレゼンテーションを聞かれたときに気持ちを話していらっしゃいます。特に、今、文面で読まれたところですが、何度も何度も繰り返しに記憶をつむぎだしているうちに、その記憶がまた積み重なっていくというくだりに関しては、本当にそのとおりだと思いました。記憶というのは、 矢が突き刺さったときに生まれるのですが、その後、 治療を受ける間でも写真のようにキャビネットの脳の中にしまっていくだけではなくて、 そんな単純なものではなくまた新しい脳の神経細胞のつなぎができて、 機能的なイメージとして浮かび上がってくるものであると。そういうもので非常に同意いたします。
 それで、 このあたりになるとちょっと PTSD とトラウマの区別が通訳としては分かりにくいので、また宮坂先生の方からご説明があるかと思いますが、PTSD から離れて個人的なトラウマ自身になっていく。そしてそのプロセスの問題についても、先生は非常に今回のお話を聞いてうれしく思ったとおっしゃいました。今年、こういうことについて不安障害に関する疫学的な学術文献の論文を書かれたらしく、その中でもまさに言われたことと同意する内容を書いたということをおっしゃっています。強く強調したいのが、memory という言葉ではなく remembering という言葉を、フレデリック・バートレットさんが 1932 年に作られているということで、このremembering ということを思い出されたということです。本当におめでとうと申し上げたいです。プロセスのことに関しても書いてあって、一つ目のプロセスと二つ目のプロセスがあるということも書いていらっしゃったのですが、そのあたりのことに関して宮坂先生お助け願えますか。

(宮坂) 現在の PTSD 研究者にしても記憶というものが文脈や歴史によって動いて、その都度また作り直されてくるということに自覚的でないわけです。しかも、脳のどこかに写真のようにしまって所蔵される、精神のどこかのファイルにしまわれ、そこから引き出してはまたしまう、ということで済ませてしまっているのですが、これは一方―1981 年以降でしたか、脳磁計というものが出てきて、人間の大脳の、脳の血流が立体的に見えるようになった時代においては―あまりにも簡単な記憶の片づけ方なわけです。機能神経画像をとってみる神経科学の最近の展開では、記憶作用過程は脳の複数の部位を巻き込んでいることがわかってきたのです。そればかりか、この最近の神経科学の知見は実は私たちがずっと前から知っていたことに合致した、ということでもある。佐藤先生もご存じのように、フレディック・バートレットという過去の人と思える人が、記憶を memory という用語ではなく remembering という概念で捉え、動きのある、つむぎだされてくるのだという、創発性のあるプロセスを強調した概念をすでに 1932 年に提出していた。この記念碑的な意義をもつ彼の概念に照らしてみても、現代主流のPTSD 研究者の理解はまだ足りないわけです。
 そういうことから考えると、今日の片山先生は臨床医でもあるわけですが、臨床的見地を含む英文発表内容を読むにつれてヤング先生は我を忘れてしまうほど非常に興奮してしまった。ヒステリーになる一歩手前くらいまで、といえば臨床医なのでおわかりでしょう、と―理論的洞察に満ちた優れた臨床報告を読むと実際にそうなる方なのですが―そのようにおっしゃっていました。
 そういうことで、本日、PTSD についての講演で述べましたが、出来事があり、記憶、複数の症状、症候等々がつぎつぎにあらわれる過程をひとくるみにして捉えられるときに PTSD という DSM-IV にもとづく公式定義が成立するという点を述べました。これもプロセスを考えてはいるわけですが、PTSD という概念で記憶を強調する見方は、結局は認識論としての文化の枠組みであり、それが盲点となって、本当は記憶作用自体がプロセスをもつ点は見逃している。第二のプロセス、つまり、個々のトラウマそれ自体のレベルに横たわるプロセスがあります。PTSD 研究はトラウマは不変の本質としてみなしてしまい、それ自体プロセスである点を見逃しています―つまるところ PTSD 理論に放つべき矢の標的をひとつに絞るなら、この誤解こそがその標的になるはずとヤング先生は考えています。さまざまな相互作用のプロセスがはたらいてトラウマ自体も個人の中で、その都度、作り変えられていくという面があるのです。この点に関してまさに、親友の大変著名な疫学者と共著で本年度にヤング先生が Journal of Anxiety Disorder という学会誌に論文を書いたばかりです(註2)。今日の片山先生が指摘された側面は重要で、その点に関して私はまさしく同意見なのです。
 そしていわゆる場所(サイト)、場ですね。場合によっては landscape という言葉を使うかもしれません。彼は landscape とは言いませんでしたが、そういう記憶の作用は場所と結びついて動いていく。そこでは、先生はあまりおっしゃらなかったけれども、政治的なものもあるでしょうし、こういう場所というものを捉えるのは、実は臨床ではもちろん大切なのですが、理論的論理的にも重要です。人類学者や社会学者たちは、記憶が動き形成される場がどこにあるかを考えなければいけないのです。
 この点に関して、片山先生はその場をマイノリティの文脈におき、内側の人間として、また外側の人間として非常に語っているわけですが、実はこれをやり始めるとヤング先生も内側の人間としていろいろなことがあるわけですが、そういうことを言い始めると時間がなくなるので、そういう興奮を非常に共有したということにとどめます。それから、特にイデオロギーが注入されるという点について鋭い指摘があったことに興奮したということです。

(通訳) そのイデオロギーの注入に関して非常に provocative とおっしゃって、これから議題にしていかなければならない、非常にいい発表であったと思いますということでした。ありがとうございました(拍手)。

(註2) Allan Younga and Naomi Bresla 2007 “Troublesome memories: Reflections on the future.” Journal of Anxiety Disorders, Vol.21, Issue 2:230-232.

(佐藤) アラン・ヤング先生、指定討論のお二人、どうもありがとうございました。それでは、時間ですので休息ということにしたいと思います。
Thank you for your very heartful comment, Professor Young. We should apologize to you because we had the manuscripts of students just last night, so you had much more hard homework after the banquet. It is time to break.
 ちょっと時間が押していますので 15 分。So, we shall start at 3:30. 20 分と書いてありますが、15 分間休憩ということでお願いいたします。質問用紙に関しては、後ろに箱がありますので、そちらに入れてください。お手洗いにつきましては、先ほど申し上げたとおりで、入試を行っている関係上、できれば向かいの建物に行っていただきたいと思います。それでは休息15分よろしくお願いいたします。

***休憩***

(佐藤) 15 分遅れで開始させていただきます。後半は、本学先端総合学術研究科の植村さんと櫻井さんに研究報告という形でお願いしております。お手元の資料の中にお二人のハンドアウトがありますので、ご参照ください。先端研院生に大変お褒めの言葉をいただいて、つきっきりで指導していたアドバイザーの天田先生も安堵していますが、1番、2番バッターもすごかったけど、3番、4番バッターもすごいということで、期待していただきたいと思います。
 それでは、研究報告1です。植村要さんに、先端医療におけるインフォームド・コンセントということでお願いしたいと思います。よろしくお願いします(拍手)。


□立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20080229 『PTSDと「記憶の歴史」――アラン・ヤング教授を迎えて』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告1,157p. ISSN 1882-6539


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