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「ベーシック・インカム/生活保護/働く/働かない」

野崎 泰伸 20080118
研究会 於:同志社大学

last update: 20151225

はじめに 確認しておくべきこと

 ベーシック・インカム(以下BI)の論理や思想が、私たちにもたらした意義とは、生きること、生存し続けることと、働いて生きるための財を得ることとの連関を弱めたことである。言いかえれば、「働かざる者食うべからず」という価値観からの転換を促したということである。すなわち、働かなかったり働けなかったりすることでその人の生存が脅かされてはならない、ということである。まずは、ここを確認しよう。
 私自身、「生活保護とベーシック・インカム」論文では、生活保護とBIとをあたかも対立するようなものとして描いてしまったため、BIに対して否定的なスタンスであると誤解されがちになってしまった。しかし、本文でも述べたように、けっしてBIを棄却したりするものではない。その点を修正して、障害学会のシンポジウムで報告したが、いま一度それを整理する必要があるだろう。
 本報告では、上の意義に立ち返りながら、BIの可能性と限界を再確認したい。BIの意義を過大にも過小にも評価することなく理解するということは、どのような論理的帰結を生みだすのか。その伏線として、まずは「働かない」と「働けない」という状態について、その2つに有意な差を設けてもよいのか、ということから考える。

1 「働かない」と「働けない」

 何らかの理由によって「働かない」人がいる。また、別の何らかの理由によって「働けない」人がいる。両者は、労働力ではないという点においては異なりを見出すことができない。両者が異なるとすれば、次の点においてである。すなわち、「働けない」人の「働けない」理由がなければ、働く意思をもち、働いているかもしれない、他方、「働けない」理由もないのに「働かない」のは、働く意思がないからだ、という点である。この点において、「働けない」人は、割りを食っているという非難がなされたりする。この非難はどこまで正当であろうか。それはまた、「働く意思」の有無によって境界を引くことは正当化という問いともパラレルである。
 一つに、人間の欲望の複数性というものがある。それは事実でもあるし、また、複数あってよいだろう。働いている人が全員働きたいと思っているわけでもない。また、働きたいところで働けていないということも――本来そうあるべきではないだろうが、事実として――ある。働かないでやっていけるなら、働きたくないという思いもあるだろう。他方、働きたいと思いながら働いていたり、働けなかったりすることがある。このように、人間にはときには相反するような欲望が渦巻いている。それらはけっして一人の人間のなかでも一枚岩ではないはずだ。ときに働きたくないと思う人間が、またときには働きたいと思う、このような複数の思いは否定されなくともよいはずである。
 働きたいと思えるようなやりがいのある仕事ができている人は、それはそれでよい。そのような人を妬む必要もない。自分がそうでないなら、そのような仕事をよこせと言えばよい。実際に、言ってみたところで変わるわけでもなかろうが、そしてそれは残念なことでもあるが、ものごとの筋としてはそうなる。同時に、やりがいがあるから低賃金でもよい、ということにはならない。これはいわゆる「福祉」の領域によくあることでもあるが、スタッフは月10万円強の収入でやりくりしていたりする。彼らが必ずしも全員がやりがいを感じているわけでもないだろうが、たとえばその仕事にやりがいを感じているとして、だから低賃金でもよい、と言われるのは不当である。ときに利用者と呼ばれる人の対し方に困難を感じたりして「働く意思」を削がれそうになるかもしれない。そのような思いや気持ちは必ずしも一枚岩ではないだろう。むしろ、思いや気持ちが揺れていることを常態としたほうがよいのかもしれない。
 「働く意思」の有無を基準にして、つまりたとえば「働かないのは意思が弱いからだ」というような言説で「働く意思」を称揚したりすることは、人間の欲望の複数性という単純な事実を見落としている。そのような異なりで、両者の裁断を正当化することはできない。正確に言うならば、「働く意思」のあるなしで、その人が生き続けるだけの収入が得られないなら、そのことは不当であるということである。
 ただし、この世には人の生存を守るための職業がある。前述したような福祉の仕事もそうであるし、警察や救命に関わる仕事もそうである。そして、それらは物理的・精神的に「辛い仕事」(ダーティ・ワーク)であることが多い。だから、そうした職種は社会において人の生存を守るためには必要であるにもかかわらず、人が集まらないかもしれない。そのとき、その分だけ上乗せして賃金を余分に払うことが考えられる。しんどさは賃金では賄えないかもしれないし、それは正しい指摘であろう。ただ、仕事のしんどさをこれ以上はいかんともしがたい時には、ときに賃金で「穴埋め」するしか方法がないこともある。それで十分ではないかもしれないが、それしかなければそうするしかない。金額のほかにも、身分の保障――雇用形態の安定化など――に関してもなされるべきである、
 ただ、そのときにもけっして「上乗せ」が正当であることはない。そのような職種へ人を仕向けるためにやむをえずそうしているだけであって、なくてもやるなら上乗せする必要はない。ただここでも、しんどいという気持ちを否定するわけにはいかず、それへの報いとして多少は――その金額は問題になろうが、ここでは措く――上乗せされてよい。上乗せせずともやれるなら、それでよいだろうが、上乗せしなければやってくれないならば、上乗せすることを否定しない。ただそれは「正当な取り分」としてではない。インセンティブに配慮しているだけである。そうした位相において、上乗せは正当ではないにせよ肯定される。やってもらわなければならない仕事に「働く意思」を仕向けるための方便として、上乗せすることは肯定される。
 確認しておこう。「働かない」と「働けない」に境界を設け、「働かないことは怠けているからよくない」と、それだけで「働けない」側に便宜を図るのは、人間の欲望の複数性を否定するものであった。他方で、いやいやながらでも働いてもらわなければならない職種が存在し、そこでは働いてもらわなければならない。しかし、いやだと思いながら働くのは不幸なことでもあるので、仕事内容への配慮や上乗せが検討されてよい。

2 働かないことを称揚する必要はない

 BIが主張される界隈においては、「働かない権利」などが言われたりもする。BIの意義を私は「労働と生存との切り離し」だと述べた。「生存のためにがむしゃらに働かなければならない社会」は不正義な社会だと思う。ただし、このことは「働かないライフスタイル」が称揚されることを帰結しない。問われるべきは、「何の労働か」であるはずである――もちろん、ここで私はアマルティア・センの「何の平等か」という提起にヒントを得ている――。
 立岩真也は、「生きることを権利とする。とすると、反射的に、そのための行ないは義務となる。ここまでも否定しようがない。とすると問題は働くという義務の果たし方である」と述べている(『現代思想』2008年1月号、vol.36-1、「働いて得ることについて・案」:37)。まったくその通りであると考える。
 つまりは、非難する側、非難の仕方を間違えているということなのである。生きていくための一つの行いが労働である。その労働によって、人は身体や精神に支障をきたしたりもする。生存のために意図した行いが、自らの生存を蝕むという逆説的な現象が起こりうるのである。ただ、「生きるための行いが労働」であるとして、それを「自ら」やる必要はまったくない。できる人がやればよいことだ。できる人にたくさんやってもらえばよい。その意味において、身体的・精神的に可能な人には、より多くの義務が課されてよい。BIの思想には、「自分が」働くことと「自分が」得ることとの連関を切り離す意味もある、ということなのである。
 だから、働かないことを称揚する必要がないどころか、称揚してはならない。働くことの価値を相対化するために、働かないことを持ち上げなくともよい。「働かざる者食うべからず」を否定するために、働かない価値を言わなくともよい、と述べている。自分が働くこと、働く能力があることを過小に見積もる必要はまったくない。「働かなければ生きる価値がない」ということを否定するために、「働くことに価値がない」ということを言う必要はないし、また言うべきではない。誰かが生きることそのものに価値があるならば、その生を肯定するためにはむしろそのための労働は肯定されるべきではないのか。きちんと調べられているわけではないが、たとえば高円寺界隈の「素人の乱」のような取り組みには、違和感がある。労働そのものを棄却するわけにはいかないのだ。問題は「誰が働くか、どんな働きか」にあるように私には思われる。

3 生活保護とBI――再論と素描――

 以上はBIの代わりに生活保護を想起しても事情は同じである。その意味においては、BIと生活保護では有意な差はない。その差が明確になるのは、やはり生存のためのニーズへの配慮に関してである。
 以前、「生活保護とベーシック・インカム」においては、ややもすると二者を対立的にとらえ、そのため私がBIについて否定的だという印象を与えてしまった。私は、BI自体を否定しないが、「現存の生活保護制度をもBIのなかに入れ、生活保護を廃止する」ということに対しては批判したい。
 生活保護からもBIからも離れて、次のような思考実験をしてみたい。ここに30万円あり、一人は10万円あれば生きられるが、もう一人は20万円ないと生きられないとする。このとき、どんな分配の仕方が正しい分配か。
 もちろん、この問いには正しさの方向がなければ答えようがない。だが、少なくとも生きることがよいことであるとするなら、各人15万円ずつという「均等分配」は正しくない分配方法である。なぜなら、言うまでもなく、15万円では足りない人が生きられないからである。またこれは、「生きることはよい」とする目標に向けた効率的な分配方法でもない、とも言える。
 このことからわかるように、「生きることはよい」というもとにおいては、生存のためのニーズが満たされるべきである。少なくともそれが正義であるとされる。BIは、普遍的な給付によってニーズを測定しないという面をもつため、生きることに多大なコストがかかってしまう――そのことは端的に「事実」であり、よくも悪くもない――人への給付は、理論上導けない。導けるとするなら、どこかで別の価値判断の指標が入っている。
 私のセーフティ・ネットに関する政策提言としては、障害学会のシンポジウムとほぼ変わらないが、BIと生活保護との合わせ技である。つまり、BIだけでは生存に多大なニーズをもつ人たちに金が回らない。そこで、BIを分配しつつ、ニーズに即した分配をも行おうというものである。言いかえれば、世界におけるセーフティ・ネットを、私は(1)BI、(2)個人のニーズに基づく分配、(3)社会の基本的な整備(労働政策、教育政策、保健・医療政策も含む)に使われるべきだと考える。もちろん、障害者の就労支援なども(3)のうちに入る。
 ニーズを測るとき、その測定に関して(1)測定することでスティグマが付与されてしまう、(2)他者が完全に測定することは困難である、という二つの批判が考えられる。だが、生きていることが肯定されるという立場に立てば、生存のためのニーズが多く必要であることは、理論上は辱めを与えるようなものではなくなる。だから、理想的な状態においては、生きるために何かを与えられるということは、その人が堂々と生きていくことに関して、何の関係もないはずである。ただし、現実はそううまくはいかないことは承知の上である。だとしても、一人ひとりの異なる身体を有する生そのものを肯定するならば、それを肯定するためになされることはすべてなされるべきことである。
 次に、他者がニーズを完全に測定するのが困難であるというのは、その通りである。ただ、だからといって困難の前に手をこまねいているわけにはいかない。部分的にであれ、ニーズを満たしていくのが妥当だと考える。確かに、他者が測る以上、そこにはずれや思い違いなどがあるだろう。それでよい、とは言わない。しかし、現実には不完全なものとして完全にニーズを把握することが目指されてよいと考える。

おわりに 確認したこと

 本報告で確認したことは次の点である。一つに、働くことが至上の価値であるという論調に対して、働かないことの価値を称揚しなくてもよいこと、むしろそこでは欲望の複数性を見落としてはならないことを述べた。そして、「何の労働か」を問うことこそが大切である、そう考えた。それはまた「働かない」と「働けない」の間に境界線を引くことの困難さをも意味すると述べた。働きたくないが働かなくてはならないことは当人にとっては望ましくないことにせよ、その働くが必要なら誰かに働いてもらうよりない。そのために様々な配慮があってよいと述べた。最後に、様々な配慮の一つとして個人への金銭的支援があるが、それはまずもってニーズに基づかなければならないことを示唆した。これは、究極的な場面において――そうならないのが望ましいが――「ニーズに基づかない(例えば均等)配分」と、「ニーズに基づく配分」との選択を迫られた場合、後者を支持しなければならないということでもある。生存することを支持するなら、その帰結はそうなるはずである。



UP:20080119 REV:
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