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「「倫理的な問い」とは何か――障害/老い/病いの身体への必要に応じた分配を焦点にして」

野崎 泰伸 20071226
超高齢社会の倫理課題研究会 「厚生労働科学研究 長寿科学の推進に係るグランドデザインに関する研究」生命倫理・倫理研究班 於:日本医科大学

last update: 20151225

1 何が倫理ではないのか

 さまざまなことが「倫理」として言われる。他方で、「現場」や「臨床」の大切さが言われる。本報告では、それらの腑分けをきちんと行いながら、政策提言を見据えた倫理的検討に入る前の予備的考察を行う。
 そもそも「倫理」と名指されるものは何か、また、何であるべきか。まずは、この問いを考えてみる。そのことによって、「何が倫理的検討であるのか」も同時に考えられることになるからである。
 障害/老い/病いのただなかにある身体/精神(以下「身体」)をめぐる議論の困難の1つには、端的に「動けない」ということをどう考えるのか、ということにある。さらに言えば、動けない身体をめぐって、生産や労働をどのように位置づけ、社会的資源をどのように分配するのかを考えることは、この社会において「倫理なるもの」を考える1つの大きな柱になる。
 障害/老い/病いを生きる人たちに対して、その人たちがぼちぼちと暮らしていくためには、彼らに対する支援が必要になる。だが、人的資源や金銭的資源が制約された現場や臨床においては、そもそも倫理なるものは無力である。そのような「究極の選択」をしなければならない現場や臨床に代表されるにおいては、もう倫理が問えないのである。このことについて、有名な「ハインツのジレンマ」を例にとって検討しておこう。

 「ヨーロッパで一人の婦人がたいへん重い病気のために死にかけていた。その病気は特殊な癌だっ
 た。彼女が助かるかもしれないと医者が考えるある薬があった。それはおなじ町の薬屋が最近発見
 したラジウムの一種だった。その薬の製造費は高かったが、薬屋はその薬を製造するのに要した費
 用の十倍の値段とつけていた。かれはラジウムに二百ドル払い、わずか一服分の薬に二千ドルの値
 段をつけたのである。病気の婦人の夫であるハインツはあらゆる知人にお金を借りに行った。しか
 し薬の値の半分の千ドルしかお金を集めることができなかった。かれは薬屋に妻が死にかけている
 ことを話し、薬をもっと安くしてくれるか、でなければ後払いにしてくれるよう頼んだ。だが薬屋
 は「だめだ、私がその薬を発見したんだし、それで金儲けをするつもりだからね。」と言った。ハ
 インツは思いつめ、妻のために薬を盗みに薬局に押し入った」(1)

 障害/老い/病いを生きる人たちとともに生きようとするとき、生起する困難の重要な1つの要素を煎じつめると、この「ハインツのジレンマ」のようになるだろう。そして、臨床や現場はいつもこの時点で「正当な判断」を求め、それを学者たちは「倫理的判断」といったりする。とりわけ、生命倫理や法哲学においては、こうした判断の「正当性」を精緻化することこそが、倫理を探求することであると考えられがちである。
 しかし、これは大きな誤りのように思える。この事例で言えば、ハインツは妻を助けるか助けないか、どちらかしかないのだ。究極の選択をしなければならないハインツにとって、どちらの選択が倫理的か、そんなことを考える余裕はないだろう。ただ見殺しにするか、助けるか、どちらかなのである。それは倫理ではなく、現場における妥協である。すなわち、臨床や現場に現れる「究極の選択」を、私たちは妥協によって選ぶしかないのである。私たちは、人的・金銭的に制約のある臨床や現場においては、そのようなエコノミーによって妥協せざるを得ないのである。ゆえに、「究極の選択」をしなければならない状況において、倫理を問うことは不可能なのである。
 いま苦しんでいる者に(苦しんでいない者が)言える言葉とは、「もっと苦しんで、われわれの生け贄となれ」という言葉である。苦しんでいない者が、「いま、ここで」苦しむ者のために何かをし、苦しさから解放できるなどと、ゆめゆめ思うな。いま苦しむ者は、苦しんでいない者に対し(盗みなどの)攻撃を仕掛けてくるかもしれない。苦しまない者は全力で、いま苦しむ者の「襲い」を振り落とそうとするだろう。ただ、それだけである。ここに倫理的な行為など何ひとつない。いま苦しむ者が襲ってこないのは、それが正しいからだとか、それが倫理的な態度だからではない。「ただ、襲ってこない」だけである。苦しまない者は、ただただそれに感謝するのみである。もし、いま苦しんでいる者が死んでしまおうものなら、ただ淡々と弔うだけである。それは倫理ではない。ただ、そうするだけだ。この意味において、苦しんでいない者の、いま苦しんでいる者に対する共感/共苦的眼差し、あるいはそれに基づくような運動は、諦念せざるを得ないのである。

2 何が倫理であるのか

 だとすれば、私たちは臨床や現場に対して、倫理を問うことそれ自身を諦念しなければならないのであろうか。私は、そうではないと考えるのである。ただし、1で見たように、倫理を問うことは「いま切迫する臨床や現場」においては無力である。そうした中で行えることは、ただ妥協の産物でしかない。
 「いま、ここ」において、倫理を問うことは無力である。なぜなら、「いま、ここ」の臨床や現場は、エコノミーによる制約を受けてしまうからである。倫理を問うことは、未来のあるべき社会に向けて、制約を漸進的になくしていく方向を目指すことなのである。
 さきのハインツの例で考える。ここでハインツは「究極の選択」を迫られた。私は、この時点においてハインツの取るべき行動について、その倫理性を問うことはできないと結論する。倫理を問うべき地点は、もっと手前にあるのである。この点に関して、アンソニー・ウエストンはこう述べる。

 「道徳的問題や「ジレンマ」に直面したときに必要なのは、問題自体を変えたり、深刻でなくした
 りできないか、解消することさえ可能なのではないかと問うことだ。問題をより広い脈絡の中にお
 いて、問題状況の根っこや原因を探り、その根っこや原因について何ができるかを問題にする」(2)

 つまり、端的に言えば、「ハインツのような人がジレンマを抱えずに済むようにすること」こそ、倫理を問うということなのである。すなわち、問題となっている論点を変えるのではなく、その問題の準拠枠のほうをずらし、拡大することで、ジレンマを解消していこうとすることこそ、倫理を問うということなのである。実際ウエストンは、「なぜハインツの妻は保険に入っていないのか。なぜ公的な援助が利用できないのか。そうした助けが現実的な選択肢としてあったなら、ハインツのジレンマはそもそも起こらなかっただろう」(3)と言う。倫理とは、極限の状況におかれた人々の行為の正邪ではなく、極限の状況をいかに予防し、起こらないようにするかにこそかかわるものなのである。言いかえれば、人間の生活において、いかに「妥協せざるを得ない状況」を起こらないようにするかが、倫理的な課題であると言うべきなのである。
 倫理的な課題は、「正義」と密接にかかわるものである。私は、正義を「どのような生であっても、肯定されてよい」という、「生の無条件の肯定」として定義した(4)。言いかえれば、生きること、生き続けて在ることについて、その生の内実にかんして条件つきではなく、無条件に肯定されてよいということである。そして、私たちは正義を実現するために社会を整備していかなければならない。そのために法制度が必要とされる。この「無条件」が意味するものは、私たちが出会ったことのない、見知らぬ他者たちの生を肯定するということでもある。言いかえれば、私たちが言語においては「その内実を肯定的な表現では言い表すことのできない存在」を、語り得ない何者かとしてその存在を肯定しようとすることである。
 しかし、法は言語によって書きこまれたものである以上、論理的にそれは人の生に条件を課すことになる。だが、法制度の内部にいる人間が、外部の他者を締め出す正当性はどこにもない。それはただ単に、法に守られているだけに過ぎない。法そのものが正義に反しているかもしれないのだ。他者の生が否定され、その存在が「あってはならないもの」とされるとき、その法は正義に反している。他者の存在やありようが、当該の法の不備を示しているといえるのだ。その意味において、他者の存在はこのような法体系をもつ社会への反証であるということができるだろう。そして、法が他者の存在によって反証にさらされながら、よりよい法へと改変されるプロセスによって正義の社会へと漸進的に近づけていくことこそ、倫理にかかわることなのである。
 ここまでの議論をまとめておこう。倫理とは、「いま、ここ」の臨床や現場においては無力である。「いま、ここ」でなされる、極限の状況における決定とは、すなわち妥協のことである。現実には、制約内という条件で動かざるを得ないのである。裏を返せば、そうした決定を倫理的に正当化できるという議論は、間違っている。現実を目の前にして諦念せざるを得ない倫理は、しかしながら、「人がしなければならない妥協」を減じていくためにこそ問われるべきなのである。そして、「究極の選択」というジレンマを解消していくために、すなわち未来のために、倫理とは要請されるべきものなのである。

3 2つの論点

 以上で、私の提起したい倫理的検討の提起は終わるが、2点だけ最後に確認しておく。

 1 資源の希少性をめぐって

 「福祉を充実して…」と言うと、かならず返ってくる反論がある。それは「そんなに財源はあるのか、なかったらどうするのか、責任を持てるのか」というものである。この問いにいかに答えるか。
 確認しておこう。いまだかつて、「財源がない」ということは検証されたことはない。そしておそらく、「財源があるかないか」を実証的に検証しようとするのは非常に困難である。
 私の立場は以下のようなものである。「資源の希少性」という言葉の前で躊躇する必要はない。財源があるかないかわからない、そのような状況でニーズに応じて資源を支給すればよい。そして、理論的に考えれば、枯渇したときに「なくなりました」と言えばよい。そのときに、「資源を支給すればよい」という命題が反証されたと考えるのだ。すなわち、資源の希少性の問題は、検証できずとも、反証は可能なのである。
 もっとも、現実には資源が枯渇しそうになればわかるので、その前に政策的に実行できることはあるはずだ。それでも、まずは「ニーズに即して支給してみる」ということを実行すべきである。それでなくなったら死になさいというのは、一見無責任のように思えるが、何も実行せずに「資源の希少性」の前に躊躇している現実よりは、よほど整合的であり、よほど真摯な態度であるように思える。

 2 ガイドラインの位置取り

 もう1つの論点として挙げるのは、私の提起のなかでガイドラインや指針はどこに位置づくものであるかにかんするものである。端的に言って、ガイドラインや指針そのものは、臨床や現場における処方箋である。よく、「倫理ガイドライン」や「倫理的指針」なるものを見かけるが、これは間違っている。臨床や現場で「考えなくても済むように」こそ、ガイドラインや指針は存在すべきものなのであり、決してそれらに沿う行為が正しいからだとか、何かしらの正当性をもって存在すべきものなのではない。臨床や現場において、考えていては助かる生命も助からなくなるからこそ、すなわち思考を停止するためにこそ、ガイドラインや指針は存在すべきなのである。これらの存在理由を誤ってはならない。



(1) http://www.tiu.ac.jp/~hori/horilab/index.files/Page1625.html
(2) [ウエストン2001=2004:60]
(3) 前掲書:60-61
(4) [野崎 2007]


文献
野崎 泰伸 2007 「「生の無条件の肯定」に関する哲学的考察――障害者の生に即して」、大阪府立大学大学院人間文化学研究科博士学位論文
Weston, Anthony 2001 A Practical Companion to Ethics 2nd. Edition=2004 野矢茂樹・高村夏輝・法野谷俊哉訳、『ここからはじまる倫理』、春秋社


UP:20071227 REV:
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