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「山田真に聞く」


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last update: 20160123


■■■山田真に聞く


★◇本田 勝紀(ほんだ・かつのり) 一九四一年生まれ、内科医。本田と山田の二人は、一九六七年、卒業式前日に無期停学処分を受けている(山田[2005:85-89]●)。共著に『検証医療事故――医師と弁護士が追跡する』(本田・弘中[1990]●)。東大PRC企画委員会編[1986]『脳死――脳死とは何か?何が問題か?』●。
★◇脳死=A安楽死、終末期医療を考える公開シンポジウム、二〇〇七年十月七日 於:東京・南青山。その記録が出ている。可能であればHPに掲載する。
★◇gCOE「生存学創成拠点」:http://www.arsvi.com
★◇横田 弘(よこた・ひろし) 一九三三年生まれ、詩人、脳性マヒ者。対談集に『否定される命からの問い』(横田[2004]●)、立岩との対談も収録されている。横田弘・立岩真也[2003]「二〇〇三年七月二八日の対談」●は収録された対談の一つ前に行われたもの。立岩が、横田さんの過去を聞き出すことだけに熱心だったので本には収録されず、もう一度対談がなされることになり、それが収録された。この、書籍未収録の第一回の対談で、七〇年代について横田は次のように語っている。
◇「七〇年のあの当時で、あの時でなかったならば『青い芝』の運動は、こんなに社会の皆から受け入れられなかったと思います。七〇年の学生さんの社会を変えていこうよと、社会を変えなければ僕たちは生きていけないと考えた、あの大きな流れがあったから、僕たちの言うことも社会の人たちが、ある程度受け入れようという気持ちがあったわけですよ。」(横田・立岩[2003]●)
★◇ロスマン『医療倫理の夜明け――臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』(
Rothman[1991=2000]●)、香川知晶[2000]『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』●。これらの紹介として立岩[2001-(1)]「米国における生命倫理の登場」●
★◇立岩真也[2007]「障害の位置――その歴史のために」●。
★◇毛利 子来(もうり・たねき) 一九二九年生まれ、小児科医。HP『たぬき先生のお部屋』http://www.tanuki.gr.jp/ 「学術的」な著作に『現代日本小児保健史』(毛利[1972]●)。すぐれた育児本として毛利[1987]『ひとりひとりのお産と育児の本』●、新版が毛利[1990]●、三訂版[1997]●。毎日出版文化賞を受賞している。現在は品切れ、再販未定ということになっている。その事情はよくわからない。『育育児典』がその後継ということなのかもしれない。共著書に毛利子来・山田真・野辺明子編[1995]『障害をもつ子のいる暮らし』●等。その他、著書多数。
★◇毛利子来・山田真[2007]『育育児典』●
★◇石川 憲彦(いしかわ・のりひこ) 一九四六年生まれ、精神科医。『治療という幻想――障害の治療からみえること』(石川[1988]●)が重要な著作。
★ 中井 久夫(なかい・ひさお) 一九三四年生まれ、精神科医。著書に『分裂病と人類』(中井[1982]●)、『記憶の肖像』(中井[1992])▲他。最近の著作に『こんなとき私はどうしてきたか』(中井[2007]●)がある。
   いい幻聴だってある
 「水中毒もそうだけど、幻覚だって――本人が招いているわけではないにしても―― 一種の「依存症状態」とならないともいえないですよね。酒やパチンコだって自分がしたくてしているうちはまだいいのであって、「しているのか、させられているのかわからなくなる」と危ないですね。
 ある精神科医がパチンコに凝ったことがありまして、何時間もやっていると、声とも声でないとも思えるものが聞こえてきたのだそうです。「ドンドンドンドンやれやれ。やってすってんてんになってしまえ」と。ギョッとしてやめたそうです。聞こえてよかったようなものです。幻聴はどこか自分につながっていますから。[…]
 だから幻聴が全部が悪いものではないんですよ。いい幻聴だってあります。私が東大分院にいたころ、幻聴の言うとおりに生きていって損しなかったという人がいました。彼女は病気になってからずっと家の前を掃いていたのです。あるとき牛乳配達のお兄ちゃんが通りかかったときに「あの人と結婚しなさい」という声が聞こえたのだそうです。で、結婚した。彼はダンプの運転手になりました。気のいい人で、病院の窓から見ていると、外からドーッとダンプが入ってくる。彼が彼女を連れてきているのです。……いい夫婦だったですね。幻聴は医者も選んだそうです。光栄にも私を。」 (中井[2007:181-182])
★ 小澤 勲(おざわ・いさお) 一九三八年生まれ、精神科医。「反精神医学」――と括られる――運動の時代の著書・編書として、[1974]『反精神医学への道標』●、小澤編[1975]『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』●。


『自閉症とは何か』(小澤[1984→2007])

『痴呆を生きるということ』(小澤[2003])、『認知症とは何か』(小澤[2005])他。

小澤 勲 19740501 『反精神医学への道標』,めるくまーる社,312p. 1300 ※ m.

★ 最首 悟(さいしゅ・さとる) 一九三六年生まれ、評論家、予備校講師▲。
1936年福島県に生まれ、千葉県に育つ。東京大学理学部動物学科博士課程中退後、1967年同大学教養学部助手になる。1994年退職。恵泉女子大学を経て、2003年より和光大学人間関係学部人間関係学科教授。現在、和光大学名誉教授、予備校講師。この間、1968年東京大学全学共闘会議助手共闘に参加。1977年第一次不知火海総合学術調査団に参加、1981年より第二次調査団団長

著書に[1984]『生あるものは皆この海に染まり』●、[1988]『明日もまた今日のごとく』●、『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害者の娘との20年』(最首[1998]●)他。編書に最首・丹波編[2007]『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』●。丹波[2008-]「最首悟」●(以前からあった資料を丹波が増補)。
★ 宇井 純(うい・じゅん) 一九三二年〜二〇〇六年、東大助手→沖縄大学、公害問題研究。著書に『公害原論』(宇井[1971→1988])、『キミよ歩いて考えろ――ぼくの学問ができるまで 』(宇井[1997])他
★ 自主講座公害原論 開講のことば◇
 「公害の被害者と語るときしばしば問われるものは、現在の科学技術に対する不信であり、憎悪である。衛生工学の研究者としてこの問いを受けるたびにえあれえあれが学んで来た科学技術が、企業の側からは生産と利潤のためであり、学生にとっては立身出世のためのものにすぎないことを痛感した。その結果として、自然を利潤のため分断・利用する技術必然的に公害が出てきた場合、われわれが用意できるものは同じように自然の分断・利用の一種であいかない対策技術しかなかった。しかもその適用は、公害という複雑な社会現象に対して、常に事後の対策そしてしかなかった。それだけではない。個々の公害において、大学および大学卒業生はもとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型が東京大学である。かつて公害の原因と責任の糾明に東京大学が何等かの寄与をなした例といえば足利鉱毒事件をのぞいて皆無であった。
 建物と費用を国家から与えられ、国家有用の人材を教育すべく設立された国立大学が、国家を支える民衆を抑圧・差別する道具となって来た典型が東京大学であるとすれば、その対極には、抵抗の拠点としてひそかにたえず建設されたワルシャワ大学がある。そこではぶ学ことは命がけの行為であり、何等特権をもたらすものではなかった。
 立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する。この学問を潜在的被害者であるわれわれが共有する一つの方法として、たまたま空いている教室を利用し、公開自主講座を開くこととした。この講座は、教師と学生の間に本質的な区別はない。終了による特権もない。あるものは、自由な相互批判と、学問の原型への模索のみである。この目標のもとに、多数の参加を呼びかける。」(宇井編[1991→2007:2])
★ 『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』 ジャパンマニシスト社発行の隔月刊育児誌。「こどものからだ・こころ・いのちを考えるはじめての健康BOOK」を謳い、編集委員に毛利子来、山田真、石川憲彦他、略称『ち・お』。姉妹誌に『おそい・はやい・ひくい・たかい』、略称『お・は』がある。
 「『ち・お』もおかげさまで一〇歳になります。よく育ってくれたものだと感涙にむせんでいます。これもひとえに読者のみなさんのおかげと心からお礼申しあげます。これからもよろしく。さて、『ち・お』本誌では「青春闘争録」などという個人的な昔話をはずかしげもなく開陳していますが、さらにその前史をこのホームページでさらけだそうと悪趣味なことを思いついてしまいました。
 ぼくの生育史の第一回です。ぼくは一九四一年六月二二日、岐阜市の長良川のほとりで生まれました。太平洋戦争がはじまる半年ほど前のこと、「ドイツとソ連が開戦した日に生まれました」と小学校の誕生会でいったのをおぼえています。
 ぼくの父は軍医で、転任になり一家は福岡県の甘木に移りました。それが三歳のころ。
 そして、父はさらに満州の病院へ転任になり、母とぼくは岐阜県の美濃町(現・美濃市)にある父の実家へと移りました。その後、一八歳になるまでここにいましたから、ぼくの故郷は美濃市です。美濃紙という上質の和紙で有名なこの町は野口五郎の出身地です(野口五郎は芸名で、飛騨山脈にある野口五郎岳からとったもの。これ、「トリビアの泉」なら“何ヘエ”でしょうか)。」(山田真[2004:ジャパンマニシスト社HP「編集委員のお部屋」])
★ 立岩真也・山田真 「明るくないけど、変えることは不可能じゃない――「弱く」あることのススメ」」(対談),『子育て未来視点(さきのみとおし)BOOK・下』ジャパンマシニスト社、2004:62-67.
★ 立岩真也「たぶんこれからおもしろくなる」『希望について』(立岩[2006])
★ 生田明子(いくた・あきこ)。立命館大学大学院先端総合学術研究科
★ 山田真[2005]『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』●
★ 鷲田清一(わしだ・きよかず) 一九四九年生れ、哲学。著書に『悲鳴をあげる身体』(鷲田[1998])、『教養としての「死」を考える』(鷲田[2004]) 他
 「最近、ジャンケレヴィッチの『死とは何か』(青弓社)というインタビューの新装版が出たので、参考になると思って読んでみました。さしたる予断もなく読み始めたのですが、後半になって意外なことが語られていたのでちょっと怖くなってしまいました。安楽死が、あっけないほど簡単に、むしろ肯定的な語り口で述べられていたからです。[…]
 だから、ヨーロッパのキリスト教圏では生命を操作する技術に厳しく、日本では建て前はいろいろあっても根本はいい加減なものだという思い込みがあったのですが、ジャレケレヴィッチを読んで、これはちょっと考え直してみないといけないかなと思いました。私たちはああいう人たちの言葉で自己形成し続けてきたのに、精神とか肉体とか自己といった哲学の基本的なコンテキストについて、とんでもないミスリーディングをしてきたような気がしてしまったのです。ショックを受けて、やや放心状態に陥っているというところです。で、そんなことも念頭に置きながら、死と共同体の問題を基点に考えを進めてみたいと思います。」(鷲田[2004:144-145])
と終焉』(上野[1994])他
★ 水俣病
「水俣病は終わっていない」つるたまさひで 
   はじめに
 「水俣病は終わっていない」ということについて書きたい。きっかけは八月初旬に東京都写真美術館で行われていた東京水俣展。九六年に最初に開催された水俣展にはとても興味があったのだが、日本にいなかったので行けなかった。今度、再び東京で開催されると聞いて、行って来た。そして、この展覧会で水俣病とはなんだったのかという問いをつきつけられた。そして、その会場で購入した岩波新書『証言水俣病』(栗原彬編・二〇〇〇年初版)を読んで、その問いは、より明確に私をつきつけ続けている。この本の年表なども借りながら、以下、書いてみたい。
   水俣病問題の概略
 水俣病がチッソ(新日窒)が出した工場廃液が含む有機水銀が引き起こした病気だということは説明するまでないことだが、知らない人も多いかもしれないその経過について、少し振り返ってみる。
一九五三年  この頃から水俣湾周辺で原因不明の患者散発。
一九五六年  水俣病発生の公式確認。(原因不明の脳症患者四名発生と保健所に報告、新日窒付属病院から) 
一九五九年  新日窒付属病院の実験で廃液を投与された猫発症。(この事実の発覚は六八年)
一九六〇年  患者家族互助会と新日窒「見舞金契約」締結。内容は死者三〇万円 葬祭料二万円、生存患者年金一〇万円など、「今後原因が工場排水とわかっても追加保障しない」という内容を含み、後の判決で「公序良俗に反する」と指摘されたもの。
一九六八年五月  製造工程の変更により水銀流出止まる。
一九六八年九月  政府、水俣病についての正式見解発表。厚生省、公害病認定。
一九六九年〜七三年 裁判闘争や自主交渉闘争で「補償協定書」調印へ
一九七三年〜七八年 患者認定基準の問題により未認定患者が増え、患者に補償されないという事態の発生。この問題の顕在化。
一九八九年〜九六年 「和解」への動き
一九九六年  「水俣病被害者・弁護団全国連絡会議」とチッソ、和解協定書調印。和解の内容は裁判や認定申請などを取り下げることを条件に二六〇万円の一時金と医療費・医療手当てを支給。一万人以上が対象に。(なお「関西訴訟」は和解を拒否し裁判を継続している。)
 この年表で明らかにしたかったのは第一に、水俣病の原因がはっきりしてからもチッソは製造工程が変更されるまでの約十年間、水銀を流しつづけ、行政もそれを認めてきたこと。そして、原因を認めた後も「認定制度」の問題で多くの患者を苦しめつづけ、根本の認定制度が改められることのないまま、多くの患者の高齢化などをテコに国・行政の責任をほとんど問わない、非常に不充分なこの「和解」を患者団体が受け入れざるをえない状況を作ってきたこと。
   「和解協定」について
 この九六年の「和解協定」に少し触れたい。この結果について水俣病患者連合の佐々木清登さんは「[…]高齢化が進んで身体はますます悪くなり、そしてどんどん亡くなっていくことをどうしても考えなければなりませんでした。[…]いろいろな問題が山積していましたけれども、決断を先に送れば、解決がいつになるかもまったくわかりませんでしたので、本当に身を切る思いで、和解受諾という生涯忘れられない決断をしたわけです。「山を動かすことはできなかった」、受諾通知のなかにそう書きましたが、私はそのとき初めて人前で男泣きに泣きました。」と述べている。水俣展では彼が涙ながらに、和解受け入れについて発表するビデオが流されていた。
 この和解を「水俣病全面解決」と評価する運動もあり、私たちの労働組合が参加している大田区労協の水俣支援の運動も幕を閉じたように見える。多くの未認定患者がこの「和解協定」を受け入れるなか、「支援」の運動は形態を変えざるを得ない。しかし、水俣は私たちに今なお、さまざまな問いを提起し続けている。以下、その問いのいくつかを概観してみたい。
   なぜ、原因解明後も水銀が流されつづけたのか?
 「水俣の証言」の最終章「現代を問う」の扉にこんな文章がある。少し長いが途中を略しながら、引用する。
 「[…]水俣病を生みだしても製造されつづけたのは[…]アセトアルデヒド[…]オクタノール[…]当時[…]塩化ビニールは、これをもとに作られる可塑剤を大量に添加しなければ加工できなかった。[…]塩化ビニール製品の普及はチッソと業界に膨大な利益をもたらす一方で、私たちの暮らしを便利で豊かなものに変えていった。日本は水俣病に象徴される悲劇の発生を甘受したからこそ、急激な経済成長を成し遂げたのである。しかしこの半世紀、豊かさや便利と引き換えに私たちは多くを失ってしまったのではないか。不知火海とともに病みつづけた水俣病と日々向かい合ってきた患者たちの言葉は、この社会の病の深さを気付かせてくれる。」
 これにつけ足す必要はないかもしれないが、少し蛇足をつける。水俣病の原因が特定されていたにもかかわらず、水銀が流されつづけた六〇年代は日本の高度経済成長の時期とちょうど重なる。その高度経済成長のつけをいまなお、「からだで払わされ続けている」人がいることを忘れるわけにはいかない。物質的な豊かさや便利という麻薬はいまも私たちすべてを支配し、世界中で、いちばん声の小さい人びとに大きな犠牲を強い続けている。二一世紀、私たちはこの流れを変えることができるだろうか。
   緒方正人さんからのメッセージ
 緒方正人さんはこの「水俣の証言」の最後の証人として、私に上記の問いを思い起こさせてくれた。そして、制度としての救済ではなく、「個」に帰って魂を救うことの必要性を説く。(ここだけ書くと、かなりうさん臭いな。)ぼくが緒方さんと出会ったのは八〇年代。両親の実家がある水俣の隣り町、水俣市に次いで多くの患者がいる津奈木町を訪れていた。確か正月?(お盆だったかなぁ?不確かな記憶)チッソ水俣工場の前でたった一人で座り込んでいる彼の前を偶然、スクーターに乗って通りかかった。(このスクーター、その昔、水俣市の教育長をやっていたというおじのスクーターだった。)そこで、緒方さんの話を聞いた。組織や制度ばかりに頼る運動にずっと関わってきたぼくは最初に彼の話を聞いたとき、とっても混乱させられ、同時に、とてもひきつけられたのを覚えている。
 運動の世界を泳ぎまわることで、自分が存在する根拠にほとんど向かいあうことをしないで生きてきた自分がいた、というか今でもいる。緒方さんは「個」に帰ることの必要性を説くが、ぼくには帰るべき「個」が見つからない。そんなこと、考えてもこなかったのだ。
 アジアでの二年の旅を終えて、ぼくはスピリチュアリティという言葉をみやげにもらった。その正体はいまだにつかめなくて、説明がうまくできないのだが、とにかくスピリチュアリティがとても大切だということを頭ではない部分で思い知らされて、アジアから帰ってきた。緒方さんがいうところの帰るべき「個」の核に自分のスピリチュアリティがあるのではないかと、今思いついた。そこに目を向けようとしないで、バイパスしたまま社会にコミットしてきたし、それは可能だった。また、一方で社会へコミットすることを抜きにインナーワールドに閉じこもるのも間違っていると思う。その抜き差しならない関係をもう少し考えつづけようと思っている。
   「障害者にされてしまった」障害者という問題
 水俣病運動には「こんな障害者にされてしまった」という感覚や思いが、いつもつきまとっているように感じる。露骨にこういう表現が出てくるわけではないが、「こんな身体にされてしまった」とか「この子は水俣病のせいで何にもわからんようになって」という表現はある。このことは、水俣病を原因としない障害者の友人・知り合いを多く持つぼくに複雑な感情を抱かせる。
 水俣病運動の世界では、障害のある身体の写真が告発のために多用される。ベトナムにおける枯葉材の運動もそうだ。そこからは、その障害を引き受けて、ポジティブに生きていくというイメージは絶対に生まれない。それは明確なマイナスイメージのシンボルとして多用される。確かに「されてしまった」というのは書いてきた通りだ。マイナスイメージを刻印された人たちが、障害のある存在として、その生を積極的に生きていくための言説が存在しなければならない。しかし、ぼくが知る限りでは存在しない。その言説の端緒を障害学に探すことができるのではないかと考えている。そして、この「証言 水俣病」の視点はそれにつながることが出来る広さと深さを持っていると思う。
   おわりに
 前述の緒方さんの証言の最後の部分を引用する。(ちなみに後書きによると、この本の証言は水俣・東京展での講演をもとに構成されたもの。緒方さんはこの文章の確認をお願いした編集者に「講演の瞬間が大事であり、真意は伝わっているが、文章化することで自分の手を離れている」ことを強調し、一切の補足訂正をしなかったという。)
 「和解とか救済とかいう言葉が安っぽく論じられまかり通っていく。いくつもの変換装置がつくられて仕組みの中に組み込まれ、あるいは自ら進んで入ってしまう。いろんなところでそういうことが起きていると思います。私は、それぞれがそういう時代の中から身を剥がしていくということを一つ学びました。私もいまだに救済を求めています。そう願わずにはいられません。それはしかし、今までいわれてきたような患者運動、組織運動の中ではなくて、命のつながる世界に生きるという意味で、それこそこの世にいる限り、そのことを求めつづけるんだろうと思います。ただ、国のほうを見てではなくて、不知火海を見て、ずっとそういうふうにありたいと思っています。」 (つるた[2000]『すくらむ』月刊、大田福祉工場労働組合発行])
★ スモン病
「スモン被害者として」古賀 照男
 「わたくしは、スモンに罹患し、裁判に関係し、先の泉さんの話にもあったように分裂等を経て、スモン運動に参加した。東大医学部、薬学関係者を含めて、キノホルム被害者を支援する会、が発足した当初からずっと行動し、各地の支援の人々とも連携をしながら行動を共にしてきた。
   ことごとく敗訴
 まず、厚生省で一週間の座り込みをしたとき、薬害エイズで被告になっているミドリ十字社長の松下廉三が、当時の薬務局長だった。一週間の座り込み貫徹をしたときに、彼から謝罪を勝ち取った。が、そのときにすでにサリドマイド事件があり、座り込みがあった後、サリドマイド事件は和解ということになった。当時、森永ヒ素ミルク事件、そして四大薬害とも言われるコラルジル、クロロキン、スモン、サリドマイド、この四つの被害者や支援者との連携の中で、直接行政、企業にぶつかる、公開性を求める、というやり方できた。わたしは、高裁に残り、敗訴した。最高裁判所でも敗訴した。東京地裁の法廷前にテントを張った。和解案が提示されていたが、最高裁判所の可部恒雄氏がスモン問題を全面解決すべく、東京地裁に下りてきた。最高裁の調査官でスモン解決のために東京地裁の裁判長として全国地裁(スモン裁判)をまとめたのである。そして、東京地裁は他の裁判の中心である、判決も東京地裁が先である、と表明していた。金沢地裁が先ほど泉さんが話したような、奇妙などうしようもない判決をなぜしたか。それは東京地裁への援護射撃の判決である。和解案を全面的に認めさせるための判決であると、わたしは認識し、金沢地裁の結審のときに金沢に行ったときに、金沢にスモン患者自身やそれを支える人々などの何の運動もないことを知り、これは負けると思った。
 司法の動きはこれだな、と思った。判決を勝ち取ることが今後の救済につながるのではないかと考えて、法廷前にテントを張った。翌日の昼に強制退去となった。その後、裁判長と話し合いをして、現状の原告の動向から考えて、判決を出せば筋が通る。国も製薬会社も被害者を補償せざるを得ない、と話しあった。そして判決が出た。これは和解案とかわらない。ただし、わたし自身は切り捨てられている。サリドマイド事件の後、一九六七年に指導要綱というものが出ている。これによると一〇月以降の罹患は国に責任があるが、わたしはその前の六月に罹患した。指導要綱前の罹患だから、国は関係ないと切り捨てられた。そして裁判は負けた。しかし、他の薬害や公害の運動に広く係わってきた。
   ウイルス説を展開する企業と研究者
 東京高裁においてのわたしの提訴に対する裁判内容はひどい。田辺製薬はウイルス説を全面展開する。元京都大学のウイルス研究所の助教授井上幸重氏とその助手で薬学出身の西部陽子氏がウイルス説を出していた。製薬会社はそれを基本にして何の立証もなく、論文だけで終始一貫ウイルス説を展開していた。裁判長がわたしに和解を勧めたので、田辺製薬がスモンと自社販売のエマホルムとの因果関係を認め、責任を認め、患者に謝罪する、ということを要求したわけです。ところが、原告は全国でわたし一人しか残っていない。司法は、そういう弱者(少数者)にはそっぽを向いている。結局、判決内容はわたしの原疾患をいっぱい並べたてて、あれはもう田辺製薬が書いたとしかいいようがない判決文だった。そうしてわたしは裁判に負けました。
   田辺製薬への抗議行動
 終始一貫やってきた実践運動の一つとして、今月二四日にも田辺製薬への抗議行動をします。医薬品事故対策室というのが厚生省にあります。そこから通達を出させた。スモンウイルス説を撤回せよ、エマホルムとスモンとの因果関係を認めよ、スモン患者に対し責任を認めよ、スモン患者に対し謝罪せよ、と電話で話し合いました。医薬品事故対策室に、田辺製薬に質させようとしましたが、回答はありませんでした。行政と企業の癒着がはっきりしました。医薬品対策室もわたしに対してスモンであることを認めています。関西水俣訴訟を支える会と共同して、田辺製薬に行き、回答を寄越せと抗議行動を一時間毎回やっています。もしここで参加できる方がいましたら、二四日朝八時から淀屋橋でビラ撒き、一〇時から田辺製薬の前で抗議行動をしますのでよろしく。
 コメント:抗議行動は以後も続けています。今年(一九九九年)も七月二八日に淀屋橋でビラ撒きをしました。」(古賀[1999:▲]●)
★◇「「医学連」は「全国医学生連合」の略称で、それは全国の医学部学生の闘う組織≠ナした。組織の中心には「ブント」という新左翼の党派の人たちもいて、彼らが東大闘争についての実質的な指導をしていたのでしょう。
◇「ぼくは「なんとしても革命を起こさなくては」というところまではまじめに考えず、「世の中の理不尽さがいくらかでも正されれば」程度の思いで活動していましたから、「党派の連中にはついていけない」といふうに思っていました。しかし[…]」(山田[2005:126])


★ 竹内 芳郎(たけうち・よしろう) 一九二四年生れ、哲学。著書に『イデオロギーの復興』(竹内[1967])、『課題としての〈文化革命〉』(竹内[1976])他。一九八九年から私塾「討論塾」を主宰。
★ 西村 豁通(にしむら・ひろみち) ●●年生れ、社会政策学。著書に『社会政策と労働問題』(西村[1961→1970])、共編著に『日本の医療問題』(額田・西村[1965])他
★◇森永砒素ミルク中毒 この事件はいったん一九五六年に終結させられることになるが、一九六九年、丸山博(大阪大学医学部)の日本公衆衛生学会での報告を期に、運動が再開される。丸山の著作集が出ている(丸山[1989a]●[1989b]●[1990]●)。このうちこの事件にかんする文章が収録されているのは第三巻『食生活の基本を問う』。この事件について何点かの書籍があるが、みな絶版になっている。
(財)ひかり協会http://www.hikari-k.or.jp/
「ひ素ミルク中毒事件」http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e1.htm
「事件史年表」http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e2.htm
 この年表によれば、日本小児科学会「ヒ素ミルク調査小委員会」設置決議がなされたのは一九七一年。
森永砒素ミルク中毒事件文書資料館(〒七〇〇-〇八一一 岡山市番町一-一〇-三〇пZ八六−二二四=0737)
 東海林吉郎・菅井益郎[1985]●『技術と産業公害』第3章「砒素ミルク中毒事件」より。
 「丸山教授らは、日本公衆衛生学会をはじめ、日本小児科学会、日本衛生学会にも働きかけ、各学会もそれを受けて後遺症の調査、対策を目的とした委員会を発足させた.」(東海林・菅井[1985]●)
★ 島 成郎(しま・しげお) 一九三一年〜二〇〇〇年、精神科医、共産主義者同盟(ブント)元書記長。著書に『精神医療のひとつの試み』(島1997)他
 「六〇年安保闘争」で学生運動の主流を成していた共産主義者同盟(ブント)の元書記長で、沖縄で長く精神科医として活躍してきた島成郎さんが十七日午前七時半、胃がんのため北部地区医師会病院で死去した。六十九歳。自宅は本部町瀬底二〇六の一。告別式は未定。喪主は妻博子(ひろこ)さん。
 島さんは東京都出身。一九五〇年東大入学後、レッドパージ反対闘争で無期停学処分を受けたが、その後東大医学部に再入学しブントを結成。その思想や行動は大衆運動に大きな影響を与えた。
 六八年に厚生省の派遣医として来沖、七一年に再来沖し、宜野湾市の玉木病院に勤める傍ら、那覇保健所嘱託医として地域医療に努めてきた。その後沖縄を離れたが、九四年から名護市にメンタルクリニックやんばるを開いていた。
 八二年には著書「精神医療のひとつの試み」で沖縄タイムス出版文化賞を受賞している。そのほか「精神医療―沖縄十五年」「ブント私史」などがある。
 今年七月初めに、名護市内の病院で胃がんの手術を受け、療養中だった。
 山里八重子県精神障害者福祉会連合会会長の話
 島成郎さんは県内では精神科における地域医療の草分け的存在だった。とくに久米島をモデルとして県内で最初の家族会を立ち上げた意義は大きい。それが、今年の全国大会や国際シンポジウム開催につながる大きな成果だっただけにとても残念。私たちの活動にも高い評価をくださり、これからも当事者と地域が一緒に暮らせる状況づくりをやっていきたかった。先生の足跡を引き継いで地域福祉の拡充に努めたい。(沖縄タイムス2000/10/17夕刊)
★ ウェレサーエフ、袋 一平 訳、『医者の告白』三一書房、1955
★ 中川 米造(なかがわ・よねぞう) 一九二六年〜一九九七年、医学史、医学哲学。著書に『素顔の医者―曲がり角の医療を考える』(中川[1993])、『医療の原点』(中川[1996])他
 以下は中川の弟子である医療人類学者の池田光穂(ウェブ上の資料として池田管[2007]「中川米造」●もある)の講演から。
 「彼は一九四五年つまり昭和二〇年の四月に京都帝国大学医学部に入学します。彼をパニックに陥れたのは、七三一部隊に関与する医学を専攻した武官が言う、「医学とは人の病気を直すものではない。今時の戦争を遂行するためのものである」とか。「お前たち医学生は、誤って静脈注射に空気を入れることがいけないと思っているが、そのような科学的根拠を知らないだろう。だが我々は知っているのだ」と言いながら、恐らく大陸で撮影された人体実験の一六ミリフィルムを上映し、数ミリリットルの空気の静脈注射では死なず、何百ミリリットルの空気を入れた被験者が死んでゆく様子を通して教育したといいます。あるいは次のようなエピソードもあります。「お前たちは、人間の首を切ったら、どの角度で血が飛ぶか知っているか?」というわけで実証主義ならぬ実写が上映されたということです。血も凍るこのような情景をその教官たちは、医学生たちに見せて「教育」していたのです。もちろん、それから四カ月後にくる日本の敗戦でこのような「教育手法」は終わりをつげました。」(池田[2003]●)
★ エルンスト・クレー、松下正明 監訳『第三帝国と安楽死――生きるに値しない生命の抹殺』批評社、1999
★ 東野利夫『汚名――「九大生体解剖事件」の真相』(東野[1979]●)、上坂冬子[1979]『生体解剖――九州大学医学部事件』●、その新版として『「生体解剖」事件――B29飛行士、医学実験の真相』(上坂[2005]●、新たに加えられたのは全2頁の「『新版「生体解剖」事件』によせて」)。
★ 山本俊一『東京大学医学部紛争私観』(山本[2003]●)に以下の記述、引用があり、続いてこの行動に反対する側の決議も紹介されている。
 「四月一一日午後二時頃、共闘系学生達が、突如、脳神経外科を封鎖し医局内に座り込み、次のようなビラを配った。「われわれ医共闘・青医連は、なぜに脳外科の医局・外来を占拠したのか。それは、あの四月四日の高圧タンクの爆発が、単に偶発的なものであったのではなく、現在の学会至上主義、売名至上主義に走り、自己の利益増大のために、患者をモルモット代りにする、医局社会の腐敗と病院の営利化・合理化に根源を持つ人的・物的な安全保障の欠落によるものであることを、実践をもって万人の前に明らかにし、ブルジュア新聞と結託して四人の死因を闇から闇に葬り去ろうとしていく売名主義者差の(脳神経外科主任、教授)と医学部当局を、徹底的に糾弾するものとして、遂行するものである[…]」(山本[2003:203]●)
 「東大病院で酸素タンク爆発」http://www.geocities.jp/showahistory/history05/topics44a.html 
 「昭和四四年四月四日午前一二時四〇分、文京区本郷七−三−一の東大医学部付属病院中央診療部東側一階の救急入口脇の高圧酸素治療室で、高圧酸素タンクが爆発、中にいた患者女性二人(65、56)と脳神経外科の男性助手(32)、男性医局員の合わせて四人が死去。高圧酸素タンクは一〇〇%の酸素を二、三気圧に加圧、患者に吸わせて、血液中の酸素濃度を高めて脳循環を促進するもので、全長四メートルだった。タンクの中から助手が電源を切るように覗き窓ごしに指示していて、切ったが爆発したという。助手が眼底カメラを中に持ち込んでおり、電流がスパークして引火爆発したらしい。」
 http://autofocus.sakura.ne.jp/data850/1960nendai.html
 「四月四日 東大病院高圧酸素治療室で爆発がおこり治療中の患者二人と医師二人が焼死した。原因は治療用電流の流しすぎらしい。」
 「このことについて山本俊一氏は著書のなかでこう書いています。
 「U内科事件は研修生、学生と医局員との間の争いで、教授会は中立の裁判の立場にあった。『喧嘩両成敗』の原則に立って、双方に対して、軽く譴責処分をして置けばこれが東大処分にまでエスカレートすることもなかったであろう。でも、教授会は研修生・学生だけを処分する片手落ち(原文ママ)の方向に動いたのである。」
 この文章は『東京大学医学部紛争私観』(本の泉社)という本からの引用ですが、この本の著者である山本俊一さんは、当時、東京大学医学部公衆衛生学の教授をしておられました。ご自身が学生だった頃に学生運動をなさっていたというような噂を聞いたこともあり、教授という立場にあってもぼくたちの運動を理解しておられたことが、この著書を読むとわかります。ぼくが処分を受けたときも、また今回の事件に対する処分会議≠フ席上でも処分には反対と発言しておられたのです。
 しかし、当時ぼくたちはそのようなことかわからず、「温厚そうな顔をした山本教授にだまされてはいけない」というふうに思っていました。そんな誤解をいま、山本さんにおわびしなければなりません。
 さて、山本さんの著書では、その後の大学側の対応もくわしく書かれています。」
(山田[2005:118-119])
 その山本の著書『浮浪者収容所記――ある医学徒の昭和二十一年』(山本[1982]●)での記述は以下。
 「おそらく私たちは[…]九月末日に卒業することになっていたのらしいのであるが、八月十五日に突如として終戦が来た。これが私たちにもたらしたものは、<0006<眼の前に来ていた卒業が、無条件に延期されたということであった。さらに工合の悪いことには、その後しばらくして占領軍の命により、卒後研修すなわちインターン制度の実施が追い討ちをかけるように私たちに課せられることになった。
 これに対しては、その後私たちはほとんど全員で反対運動をすることになるのであるが、結局は占領軍命令として実施されることになってしまった。ただし特例として、その期間は今回に限り一年のところを、半年に短縮するということであった。
 いずれにしても、この一連の措置によって、私たちはいわば、大学からは閉め出され、社会からは受け入れてもらえない、中途半端な状態になり、全く途方にくれることとなった。というのは、すでに卒業試験は終わっているので、当然のこととして、大学側は私たちのために授業をやってはくれない。しかも、卒業は認めてもらえないので、それまでの一年余は、それぞれ適当に自活して、時期の来るのを待っていなければならない。終戦直後の最も社会が混乱したこの時代にあっても、学生という身分はこの上なく不安定であり、一方的に卒業時期の変更を申し渡されただけでなく、さらに医師の資格を獲得するために、インターン研修と国家試験という新たな条件を課せられた私たちの不安は、非常に大きいものであった。」(山本[1982:6-7]●)
 この年鴨居引揚者収容所でアルバイト。それもきっかけとなり「在外父兄救出学生同盟」で活動。厚生省が管理していた軍病院の薬品の提供を求めて厚生省の薬務課と交渉。課長に提供の約束をとりつける。
 「それから二十余年を過ぎた昭和四十三年に、東大医学部に大きなストライキが起こり、学生たちが教授団に対して大声を張り上げて私たちを難詰する学生を見ながら、私が薬務課長を追及した当時の光景を思い出していた。立場が全く逆になってしまったが、その間の時間の流れは長かったようでもあり、また、短かったようでもあった。」(山本[1982:29])
 在外父兄救出学生同盟は一九四七年には消滅。山本は浅草東寺本学時更生会で活動。一九四七年医師国家試験合格、同年東京帝国大学衛生学教室助手、一九六五年東京大学疫学教室教授。一九八三年定年退職。その後聖路加看護大学副学長などを努める。日野原重明、アルフォンス・デーケンらと「死生学」に関わる。『死生学のすすめ』(山本[1992]●)、日野原重明・山本俊一編『死生学・Thanatology 第1集』(日野原・山本編[1988]●)等。
 山本[1998]『わが罪 農薬汚染食品の輸入認可――厚生省食品衛生調査会元委員長の告白』●より。
 「私は短い人生の中で大事件に遭遇したことが三度ある。
 第一回目はホームレスの人たちの病気を治すために、東京浅草の浮浪者収容所に住み込んだ。この記録は単行本として残した(『浮浪者収容所』中公新書)
 第二回目は東大紛争である。この記録は医学雑誌に掲載した。
 第三回目は食品衛生調査会の委員長になったことである。私は昭和五三年当時の厚生大臣に農薬汚染輸入食品を認めるよう進言した諮問委員長を務めた責任がある。
 最近HIVウイルス汚染血液製剤の輸入を認めるよう大臣に進言した委員長が叩かれたので恐れをなしたわけではないが、良心が咎めるので自ら告白しようと思った次第である。
 この本の表題は、もともとは『価値の狭間で』と名づけるつもりであった。「経済的価値と健康的価値の狭間で」という意味である。人間にとって経済も健康もどちらも高い価値を持っているが、世の中の人は目先の経済を優先する。
 私の専門は「衛生学」である。「生を衛る学問」と書く。特に最近の経済優先の世相を苦々しく思っている一人であり、そのために本書を書いたといってよい。」(山本[1998:2])
★ 大熊 一夫(おおくま・かずお)  一九三七年生れ、元朝日新聞記者。著書に『あなたの「老い」をだれがみる』(大熊[1986])、『ルポ 老人病棟』(大熊[1988→1992])他
★ 『ルポ・精神病棟』(大熊[1973→1981])
 「精神医療の世界には「くすり漬け」という恐ろしい言葉がある。医学の美名にかくれて、患者に向精神薬(主として興奮を鎮めるくすり)を必要以上にじゃんじゃん飲ませることである。
 患者はボケて、動作も鈍る。だから病院は管理に手がかからない。人件費も浮く。投薬量がふえるほどに儲けも伸びる。しかも密室の中で行われるから、外部から疑問をさしはさまれる心配も少ない。
 精神障害者への数々の虐待の中でも、最も陰湿なのが、この「くすり漬け」だと私は思う。そして、この「くすり漬け」の背景をさぐってみると、われわれを取りまく医療環境は、もう、救いがたいほど堕落しているのがわかる。」(大熊[1973:120])
 「電パチぼけ
性格的に角がとれた、といえば聞こえはいい。しかし、その代償として人間らしい生気も失せてしまった。六十回を超える電気ショックによって、記憶力は極端に落ちた。彼の頭脳は、彼の意思には関係なく、医師の手で変造されて、「彼は」「以前の彼」ではなくなったのだ。」(大熊[1973:209)
 「電気ショック療法はすたれたとはいえ、いまでも保険医療に残っており、自殺しそうな患者には捨てがたい効果がある、という医師も少なくない。しかし、連日、アル中を魚市場のマグロのように並べて、電気をやりまくるのが医学的かどうか。」(p211)
「もっと変なことがある。「分裂病的なアル中」「躁鬱病的アル中」にE・Sが効くというが、分裂病への電気ショック療法も治療法として確かな地位を獲得していない。というよりも、ひと昔前には全盛を誇った電気ショックも、いまでは一部の医師がごく限られた症例におこなっているだけ。根本的な治療になり得ないことから、いまでは過去のものになりつつあるのだ。」(大熊[1973:212)
 「西瓜割り
アル中を電気ショック療法でなおす」などという精神医学の教科書にもないようなことが、精神科医の手でジャンジャン行われる――「ここが問題だ」と多くの人たちは思うに違いない。ところが、精神医療の世界では、脳みそに電流を通して、人間を変造することは、大した問題にはならない。電パチよりはるかに物騒なことが、十五年ほど前には日常の治療法としてまかり通っていたのだ。そして今日でも、少数ではあるがまだ続いている。それは脳にメスを入れる手術である。代表的なものに、ロボトミーがある。電気ショックもロボトミーも、程度の差こそあれ、人間をボケさせ、おとなしくする、という点で似かよっている。どちらも療法としてすたれてきたものの、とくに自殺企図者に効果あり、とされて、いまだに使われている点も共通している。」(大熊[1973:214-215)
 「ロボトミー手術そのものも安全ではない。絶命もあるし、癇癪の後遺症に悩まされることもある。手術で廃人にされたために、決定的に退院できなくなって、鉄格子の中で余生を送っている人を捜すのにそれほど骨は折れない。
精神医学は、脳の働きについて、まだほんの一部しか知らない。なのに、その脳を対象とした手術方法のみ実施される。」(大熊[1973:216)
「「死んじまえば病苦なし」という諺がある。なぜ、こんな残酷な手術が、今日まで続いているのか。考えてみれば不思議なことだ。[…]
 しかし、ロボトミーという「治療」と切りはなせぬ“心の殺害”は、はじめから、少なくとも日本で行われ始めたころからは、知ろうと思えば知ることができたのだ。ロボトミーの結果は術後にすぐ出る。きのうまで手がつけられなかった者が、すぐに手に負えるようになる、という具合に。しろうと考えにも、ぞっとする話である。それが“西瓜を割る”ごとく行われたのである。」(大熊[1973:217)
★◇平野龍一[1966]「生命と刑法――とくに安楽死について」。ビンディングとホッヘの論文を紹介。ブラントに命令して「精神病者や不具者など約二七万五〇〇〇人が殺されたといわれている。」(平野[1966→1997:50])]
 ◇ベルナダク『呪われた医師たち――ナチ強制収容所における生体実験』(Bernadac1967=1968→1979]●)
 「ヒトラーは、ドイツ全土にわたって安楽死を中止するように命じた。二七万五〇〇〇人がすでに《謀殺されて》いた*。[…]
 *国際軍事裁判の判決。子供の安楽死事件が起訴された。」(Bernadac[1968→1979:243])「このテーマに関する三冊の基本的図書――フランソワ・ベイル博士『アスクレピオスの杖に反逆するカギ十字』、ミッチャーリッヒ『汚辱の医師たち』、オイゲン・コーゴン『創られた地獄』(これらの本はすべて、解放直後に出版された)――以外に、問題全体を最近の裁判や生存者のインタヴューに基づいて扱った書物はない。私は、フランソワ・ベイル博士の著書に負うところ大きい。ニュルンベルクにおける医師裁判についての彼の労作に匹敵するようなものは、永遠に出ないだろう」(Bernadac[1968→1979:259])
 ◇高杉晋吾「安楽死と強制収容所」(高杉[1971●→1972:112-125]●)。
 ◇朝日新聞社編『高齢社会がやってくる』(朝日新聞社編[1972:104-107]●)。
 ◇しののめ編集部編[1973]収録の花田春兆[1973]「歴史の流れの中で」(手紙、カール・ブラントに命じたことに言及)。
 ◇中川米造[1973]●「医学とは」。生体実験、ベルナダクに、邦訳のあるものとしては唯一として、本への言及。
 ◇小澤 勲[1974]●『反精神医学への道標』中の「優生保護法改正問題をめぐって」(小澤[1974:295])。
 ◇山名正太郎[1974]『世界自殺考』(滝川幸辰の安楽氏肯定論を紹介し、ビンディングの論文等に言及)
◇市野川容孝・立岩真也「障害者運動に賭けられたもの」
 「立岩 […]それでね、市野川さんはドイツのことと、日本の優生保護法下の強制断種のこと、両方ご存知なんだけども、七〇年ころ、そう詳しくではないんだけれども、ナチはどうも障害者を殺した、たくさん、何万人も殺したっていう話が、あることはあった。大熊一夫が「ルポ・精神病棟」っていう連載を『朝日新聞』で一九七〇年からやってるんですね。これは七三年に単行本で出ていま文庫版になってますけど(大熊[1973→1981])、その終りのところでナチが精神障害者を抹殺したっていう話が出てくる。僕は見たことがないんだけど、クリスチャン・ベルナダクっていう人の『呪われた医師たち』って本が早川書房から出てたらしくて、大熊さんはそれを引いています。だから問題になったとすれば、まずはその頃なのかなと。それで今またというか九〇年代になって、やっぱりナチは障害者を安楽死ということで抹殺したんだという本が――米本昌平さんがずっとやってきたことがあった上だけど――何冊か出てきた。まずひとつはナチだったらナチが何をやったかっていうことの捉え直しみたいなものが、どういうことでいつごろ出てきたのかっていうのを教えてもらいたいのですが。
市野川 まずドイツの方から話しますと、[…]」(市野川・立岩[1998]→立岩[2000:129-130])
 ◇島成郎「「保安処分」に思う」(島[1980]□、後に島[]『精神医療のひとつの試み』に収録)
 ◇Rothman, David J『医療倫理の夜明け――臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』
  「ニュルンベルク裁判で明らかにされた恐怖の数々も、その経験から導きだされた倫理上の原則も、米国における研究体制にほとんど影響を与えなかった。裁判自体があまり大きくは報道されなかった。1945年から1946年にかけてニューヨーク・タイムズで、ナチスの研究にかんする記事が報道されたのは、わずかな回数だった。1946年の秋に42人の医師が起訴されたという記事は5面で扱われ、裁判の開始については9面で扱われた(1947年の有罪判決については1面記事になったが、その1年後7人に死(p.90)刑が執行されたという記事はまた、後ろのページに下げられてしまった)。それから15年間にわたって、医学雑誌でも一般の記事でもニュルンベルク裁判を扱った記事はほんのわずかにすぎなかった。
 残虐行為の記憶を拭い去りたいとうい戦後の強い思いが、こういった沈黙につながったといえなくもない。しかし、もっとも重要な点は、米国の研究者や批評家たちが、ニュルンベルクで明らかになった出来事を自分の国の状況と直接関係があると認識しなかったことだ。あのとんでもないことをしたのはナチスであって、医師たちではない、罪に問われるべきはヒトラーの取り巻きたちであって、科学者ではない、そんなふうに認識されてしまったのだ。」(Rothman, David J.[1991=酒井忠昭監訳2000:90-91]
★ 平野 龍一(ひらの・りゅういち) 一九二〇年〜二〇〇四年、法学、刑事法。著書に『刑事訴訟法』(平野[1958])、『刑法概説』(平野[1977])他
★ 『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』最首 悟・丹波 博紀 編、作品社、2007
 「朝日新聞社が情報公開法に基づいて請求した環境庁(当時)召集の医学者たちの議事録があります。冒頭の環境庁の挨拶、先生方に医学基準じゃないんだけれども、医学基準としてお願いし[ママ]、それを引き受けていただいたと言っている。医学者たちが真面目であることを前提にして、どうして引き受けるか、一つには国を憂える。一つには人々を信じられないことがあります。東大医学部から新潟大に行った椿忠雄は、新潟水俣病の発見者でクリスチャンですが、あるとき態度が変わる。水俣病診断基準を厳しくする当事者になり、以後水俣病認定が激減する。それを踏襲してその後権威になるのが、東大医学部から鹿児島大学に行った井形昭弘で、今は尊厳死法の立役者です。」(最首・丹羽[2007:18])
★ 原田 正純(はらだ・まさずみ) 一九三四年生れ、医師。水俣病をめぐる複雑な政治的情勢下、一貫して患者の側に立って発言。熊本大学医学部では、退官するまで助教授のままだった。現在は熊本学園大学教授、水俣学研究センター長。
 水俣学とは(水俣学研究センターHPより)
  http://www3.kumagaku.ac.jp/minamata/index.html
・失敗の教訓を将来に生かす学問です。
・専門の枠組みを超えた学際的な学問です。
・「素人」と「専門家」の枠組みを越え、すべての生活者に開かれた学問です。
・豊富な事実のある現場に根ざした学問です。
・一人ひとりの生き方を問い直す学問です。
・すべての成果を地元に還元し、世界に発信する学問です。
 『水俣病にまなぶ旅――水俣病の前に水俣病はなかった』 原田 正純
「水俣病については、すでに多くのすぐれた研究発表や著者や写真集などが公表されている。すでに、出すぎたという感じがしないでもない。口の悪い連中は”出版公害”などと冷かすこともあるほどだ。しかし[…]『苦海浄土』(石牟礼道子著)はその美しい筆致で水俣におこった地獄と失われゆく故郷〔ふるさと〕を描いた。人人が高度成長、所得倍増にうかれて、水俣の存在を過去のものとして忘れ去ろうとしていたとき、水俣を通してこの世のありようを鋭く問い直したものであった。同様な意味では写真家の桑原史成、東大工学部の宇井純の仕事も重要な役割を果たした。多くの人たちが、石牟礼さんらの文章を通じ、あるいは写真を通じて覚醒させられたのである。そして水俣病事件の歴史で、支援に立ちあがり、重要な役割を果たした人たちの中に、これらの名著、名写真の強い影響を受けた人たちがいた。
 まさに、これらは高度成長後のわが国の未来に対する一つの啓示であった。患者が立ちあがり、市民・学生が立ちあがり、学者・弁護士をまき込んで、第一次水俣病裁判ははじまった。その間、ユージン・スミスの写真集は、水俣の現実を世界中に拡げる大きな役割を果たしたのである。」(原田[1985:307-308])
★ 高橋 晄正(たかはし・こうせい) 一九一八年〜二〇〇四年、計量診断学。東大では講師のまま1974年定年。著書に『社会のなかの医学』(高橋[1969])、『9000万人は何を飲んだか――疑惑の保健薬=0とマイナス』(高橋[1970])他
★ 春見事件 一九六九年二月一九日、 東大病院で春見健一医局長ら医局員数人と、医学部学生が小競り合い。三月一一日、東大当局が事件をめぐって退学四名を含む一七人の医学部学生の処分を発表したが、「事件」現場にいなかった学生も処分対象となったことから、闘争が更に激化することとなった。
★ 「その頃、事件の真相はわたくしたち医局員にもよくわからなかった。しかし、事件の当日、九州でオルグ活動をしていたという医学部三年生の粒良君が、事件の直接参加者として処分を受けているという噂、それに続く同君のアリバイ発表と不当処分にたいする抗議の集会は、わたくしに強い衝撃を与えた。
 わたくしには、当然のこととして大学当局が調査活動にのり出すべきもののように思われた。しかし[…]」(高橋[1969:285]●)
 「処分された学生のなかに、その日は久留米大学にオルグに行っていたという者が出てきた。それは医学部三年生の粒良君だった。私たち古い医局員たちは迷った。いったいどちらが真実なのか、と。私は旧革新的教授グループが現地調査を医共闘に申入れる橋渡しをし、彼らがそれを受入れたあとでその教授グループが不当にも調査を断ったところで、おせっかいにも精神科の原田講師(現・信州大学教授)をさそって久留米へ出掛けた、ということなのである。
 結局は、奇跡でも起らないかぎり、粒良君の主張を反論することは不可能であった。それは、「高橋・原田レポート」に詳細に書いてあるとおりである。」(高橋[1973:217]●)
 「ふたりの医学部の教官がわざわざ九州へ出向き、T君が「H医師糾弾」の当日、まちがいなく九州にいたことを確認しました。
 この教官のうちのひとりが、当時人気のあったアリナミンやグロンサンを効かない薬≠ニ告発しはじめていた高橋晄正さんという研究者だったのです。高橋さんは、T君処分の一件にも科学的精神を発揮して調査に乗りだしたわけでした。高橋さんたちも「T君はたしかに九州に行っていた」と証言してくださったので、大学側は誤認処分をしてしまったことを認めないわけにはいかなくなりました。」(山田[2005:123-124]●)
★  高橋[1970]『9000万人は何を飲んだか――疑惑の保健薬=0とマイナス』●(章立ては「グロンサンの燃えかす」「チオクタンの疑惑」「虚名のみ高いアリナミン」「サリドマイド奇形の真相」「死にいたる薬」「珍薬は大手を振って」「国民は黙っていない」)より
 「一九六〇年の消化器学会は信州大学で行われた。[…]その晩、松本で開かれるグロンサン研究会に大下教授の代理で出席するように言われていたのである。
 私はその頃、まだ助手だった。グロンサン研究会といえば肝臓病の大家たちの顔がズラリと並ぶことで知られている。世に時めくグロンサンや、それをつくっている製薬会社の威勢を象徴するような会合だった。松本での学会の二日目の夜が、それにあてられていた。」(高橋[1970:20-21]●)
★ 高橋[1969]●『社会のなかの医学』より。
 「はからずも、東大闘争のなかで一人の若い生物学者がおこなった厳しい解析のなかに、わたしたちは医療矛盾の鋭い集約をみる。
 「医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか」(最首悟氏)
 この問いにたいして、わたくしたちはいま、誠実に答えなければならない。
 目を広く社会に向けて見ひらくとき、わが国はほんとうに国民の生命を守ることのできるような近代的な医療制度を持っていないことに気づかなければならない。医療が自由業であり、営利業である状況のもとでは、国民はサイエンティフィック・ミニマムの医療さえ保障されえないのだ。医療の倫理性も、それに科学性さえも、医療の営利性の前には影をひそめざるをえないのである。
 いま、医学生や青年医師たちは、わが国の医療矛盾の実態を厳しく見つめ、その本質を鋭く突きはじめている。それらを医療技術の問題に解消することは、もはや許されないだろう。それらは、わが国の社会の体質そのものの反映として、捉えられなければならないものであるのだ。」(高橋[1969:ii-iii]●)
★ サリドマイド
 「事件の概要
 サリドマイドは「安全な」睡眠薬として開発・販売されたが、妊娠初期の妊婦が用いた場合に催奇形性があり、四肢の全部あるいは一部が短いなどの独特の奇形をもつ新生児が多数生じた。日本においては、諸外国が回収した後も販売が続けられ、この約半年の遅れの間に被害児の半分が出生したと推定されている。大日本製薬と厚生省は、西ドイツでの警告や回収措置を無視してこの危険な薬を漫然と売り続けた。米国のFDAが認可せず、治験段階の約一〇人の被害者に留めたこととは対照的な結果となった。
 戦後の薬害の原点となる事件である。
 「サリドマイドの開発から訴訟まで
 サリドマイドは、ドイツ(西独)のグリュネンタール社が開発した催眠剤で、一九五七年一〇月一日、「コンテルガン」の商品名で市販された。後に妊娠初期の妊婦が服用することによって胎児に独特の奇形(フォコメリア等)が生じることがわかり、一九六一年一一月一五日にドイツ(当時西独)のW.レンツ博士がコン照るガンが原因と警告した。一九六一年一一月二六日、グリュネンタール社は回収を決定した。
 「一九六〇年九月に米国メレル社はFDA(アメリカ食品医薬品局)に販売許可を申請したが、M・ケルシーさんはデータが不備として認可を拒否した。
 「日本では、大日本製薬が独自の製法を開発し、一九五八年一月二〇日に「イソミン」の名称で販売を開始、一九五九年八月二二日には胃腸薬「プロバンM」に配合して市販した。
 東京の都立築地産院では一九五九年から一九六一年までに三例のフォコメリア児の出産が報告されるなど、全国で被害が生じたが、大日本製薬は当時西ドイツに研究員を派遣するなどして情報を入手していたにもかかわらずこれを無視し販売を続けた。また厚生省も一九六二年二月に亜細亜製薬のサリドマイド剤「パングル」を認可するなど、世界の大勢を全く無視し続けた。
 「一九六二年五月一七日に大日本製薬がイソミンとプロバンMの出荷停止を、二四日にはサリドマイド剤メーカー五社がそれぞれの製品の出荷停止を厚生省に申し入れた。その九月一三日にようやく大日本製薬などが販売停止・回収に踏み切った(しかしその後も回収されないサリドマイド剤が市中で販売されていた)。厚生省は翌一四日、サリドマイドの被害調査を東大・森山教授に依頼した。
 「被害者は、一九六二年年末までに広島・京都などでイソミンの販売と製造許可に対し法務局に人権侵害で訴えたが、翌五月一三日、法務省人権擁護局は「侵害の事実なし」と結論。一九六三年六月二八日に大日本製薬を被告として最初の損害賠償請求が名古屋地裁に提訴された。
 「一九七四年一〇月一三日、全国サリドマイド訴訟統一原告団と国及び大日本製薬との間で和解の確認書を調印、続いて二六日には東京地裁で和解が成立した。以後、一一月一二日までの間に、全国八地裁で順次和解が成立した。
(以上、宮本真左彦『サリドマイド禍の人々』巻末年表他を参照)
「サリドマイドの被害
(以下の資料は、(財)いしずえ発行資料から転載しました。)
 サリドマイド被害香は、サリドマイド製剤の睡眠薬や胃腸薬を服用した母親の胎内で、薬の影響を受け、四肢や耳に先天的な障害を受けて生まれました。
 「日本におけるサリドマイド被害者の出生年と男女別
生年 男 女  計 
1959  6  6  12 
1960 16  9  25 
1961 34 24  58 
1962 88 74 162 
1963 24 23  47 
1964  2  2   4 
1969  1  0   1 
計 171 138 309 
 「サリドマイド製剤の販売は日本では一九六二年に停止されましたが、回収が徹底していなかったため、その後も被害者が生まれました。
 「日本におけるサリドマイド被害者の障害の種類と内訳
 サリドマイド製剤による障害は主に四肢の欠損症と耳の障害です。(()内は障害が重複する人数)
上肢が非常に不自由な人 30人(2人) 
上肢が不自由な人       88人(6人) 
前腕が不自由な人       72人(5人) 
手指が不自由な人       56人(6人) 
                 計   246人(19人) 
耳が全く聞こえない人   46人(5人) 
耳の聞こえが悪い人     36人(14人) 
                 計    82人(19人) 
 「サリドマイド事件の問題点
 サリドマイド事件では、諸外国に比べて日本の回収措置が約半年遅れており、増山によればサリドマイド被害児の約半数は回収措置が早ければ被害を受けなかった。回収の遅れが被害の拡大を招いたわけだが、製薬企業が製品の回収に至るまでには、次のような経過があった。
 「一九六一年一一月一八日 ハンブルク大学のW・レンツが小児科学会で「あざらし状奇形児(フォコメリア)」の原因がサリドマイド剤にあると発表、当時各地で誕生していた四肢奇形児とサリドマイド剤の関係が明確に指摘された。
 「レンツ氏、西ドイツの販売メーカーであるグリュネンタール社に警告したが拒否された。
一一月二六日、西独の「ヴェルト・アム・ゾンダーク」紙がグリュネンタール社のサリドマイド剤「コルテガン」を名指しで報道、同社は間もなく「コルテガン」を市場から回収し、ヨーロッパ各地のサリドマイド剤も次々に回収されていった。
一二月五日、グリュネンタール社の勧告が大日本製薬にとどき、翌日厚生省と大日本製薬がレンツ報告について協議、ところが「有用な薬品を回収すれば社会不安を起こす」として販売続行を決定。
 「一九六二年二月二一日、厚生省は亜細亜製薬のサリドマイド剤「パングル」に製造許可を付与。
二月二二日、「タイム」紙がサリドマイド被害の記事を掲載する。
三月および四月? 製造販売をやめない大日本製薬に対してグリュネンタール社が警告。
五月一八日、朝日新聞が西独についてのボン支局の報告を報道した。その後日本のジャーナリズムが一斉に動き出したため、「報道による混乱を防ぐため」として、サリドマイド剤を販売していた製薬各社が出荷停止を厚生省に申しいれた。既に出荷された在庫品はそのまま薬局で売られていた。
一九六二年九月一三日 製品が回収されたが、回収措置は十分でなく、その後も店頭で入手できた。(薬害資料館ネット版 http://www.mi-net.org/yakugai/index.html より)
★ 大腿四頭筋短縮症
 「[…]外傷や、筋炎等の病歴のない本症の原因が、注射によるものであることが、当時専門学会では、ほぽ定説化されていた[…]。
 ところが、原因が明らかとなりはじめると、医療過誤の問題に発展する可能性を恐れたのか整形外科医のあいだでは、「小児科医が介在しており、整形外科医の発言は医療過誤の問題とも関連するので慎重でなければならない」(第三七回中部日本整形外科災害外科学会、昭和四六年二月)という風潮が強くなりはじめた。注射を繁用していた小児科、産科、内科医などへの配慮が、原因公表を控えることとなり、さらに多くの不幸な被害児を作り、また多くの医師を加害者に仕立ててしまったのである。医療の極致である予防対策が十分講じられえたにもかかわらず、これをあえて行なわず、小児科医が作り、整形外科医は切ればよい≠ニいう、結果的に見れば、手術の研究材料を他の医師に産生させていたというような、医療対象の人権無視が行なわれてきたのである。また、原因公表をおさえた結果、各地で集団被害が続発し、さらに整形外科医のあいだでも注射原因に対する認識が欠如し、整形外科医の注射で筋短縮症が作られた症例も続出している。
 以上述べた事実は、いったい「医療はだれのために、また学会とは国民にとって何であるのか」という医療、医学の存立にかかわる根本問題を提起しているのである。
(『筋短縮症―-つくられた障害児たち』注射による筋短縮症から子供を守る全国協議会編、績文堂、1977)
★ 未熟児網膜症
 「未熟児網膜症は一九四二年にTerry によって初めて報告されました。この頃は、未熟児の管理に高濃度の酸素が用いられていましたが、一九五二年にはPatz が、過剰な酸素投与が未熟児網膜症の原因であると報告しました。この一九四三年から五三年の一〇年間に全世界で一万人(そのうち米国では七〇〇〇人)の未熟児網膜症による失明患者が発生しました。これを教訓として、一九五五年からは酸素投与は制限され、一九五六年にはAmerican Academy of Pediatrics が吸入酸素濃度を四〇%以下で投与する方針を出しました。このAAP の酸素投与量がスタンダードと見られたこの期間に、未熟児網膜症に関する非常に多くの医療過誤訴訟が起こされました。米国の未熟児網膜症に関する最初の訴訟は一九四九年で、以降、米国の裁判で問題となったのは、「酸素投与量や期間が過剰であった」というもので、四〇%以上の酸素を使用した症例は過失と判断され、ほかに「眼底検査が行われていなかった」「眼底検査の遅れのために冷凍凝固法による治癒の機会を逸した」というものが中心で、医師は一〇万ドルから一〇〇万ドルの高額の賠償金を支払わされました。
 一方、我が国ではTerryの報告から八年遅れて未熟児網膜症の第一例の報告がありました。我が国に閉鎖型保育器が普及したのは、酸素制限時代になってからです。米国のように未熟児網膜症の多発時代を経験しなかったために、この疾患への日本の医師の関心は薄かったものと思われます。
 一九七四年(昭和四九年)の岐阜地裁の、未熟児網膜症の最初の患者勝訴判決は、全国紙に大々的に報道され、医学界、法学界、社会に衝撃を与えました。
この裁判の争点は、全身管理から酸素投与量・期間・眼底検査と光凝固療法、さらに転医の遅滞という広範なものでしたが、争点であった酸素投与量に関する過失は否定されましたが、眼底検査にかかる過失が認められました。
 これが、未熟児網膜症最初の患者側勝訴の岐阜地裁判決の一九七四年三月二五日の報道です。
 この判決の報道を契機に、未熟児網膜症に関する医療過誤訴訟が全国各地で起こされました。ここに示す裁判以外にも、未熟児網膜症の子どもを守る会によりますと、昭和五四年の時点で一四七件の訴訟が報告されております。文字がグレーのものは患者側の訴えが認められたものであります。星印は集団訴訟であり、星印がうすいグレーのものはマンモス訴訟で、東京四三家族、京都一四家族、静岡四家族の集団訴訟でした。
 昭和四九年の判決報道を契機に、膨大な数の和文論文が出されました。また、直後に厚生省の研究班も組織され、多くの診療科にまたがる包括的研究が行われるようになりました。一九七〇年代の終わりからパルスオキシメーターが登場し、未熟児についても、酸素飽和度が継続的に、安全に測定可能になり、その結果、本症の発生率が減少しました。
 結論ですが、未熟児網膜症判決における医療側敗訴の報道は、同種の医療過誤訴訟の多発につながりました。
 一方医療界においても、医師が個別に経験していた低体重児の管理の難しさを顕在化させ、医学的知見の普及を従来に比べ加速させ、それが当該疾患の発生率の減少に寄与しました。」(鹿内[1999:11-13])
鹿内清三「医療過誤訴訟の報道が医療に与える影響に関する研究」第6回ヘルスリサーチフォーラム講演録:8-17、ファイザーヘルスリサーチ振興財団、1999
★ 高橋晄正[1973]「こんな教育がつくるこんな医師」
 「全国の新革新派学生は全共闘の占拠した安田行動に結集し、東大闘争は全国大学闘争の中核部分となったかにみえた。しかし、大学闘争には、日大闘争にみられるように別な中心もあったことからもわかるように、東大闘争の発火点となった医学部問題もまた、日本の社会がかかえている社会矛盾にたいするラジカルな追及の一つの現れであって、それらが全共闘的エネルギーのもとに一気に噴出したのが大学闘争であったのだ。
 だから、医学部内部においても、やがて医局内部の教授を頂点とする封建的体制、学位論文目あてであって社会とあまりかかわりのない研究の空虚さ、講座制にみられる学問体系の硬直性のもつ矛盾、講座制の延長上にある学閥の弊害などが、容易に動こうとしない古い医局員たちに鋭いメスとなって突きつけられた。だが、医局内部は小児科や精神科という少数の領域を除いてほとんど動かなかった。」(高橋[1973:218]●)
★ 「「森永ミルク中毒事件」と初めて出会った日のことは、いまでもよく覚えています。その日、ぼくたちが学会改革のスローガンを掲げて闘っていた小児学会の席上へ、森永ミルク中毒の被害者がやってきました。それは、ぼくにとって驚異的なできごとでした。
 被害者の代表としてやってきた石川雅夫さんは、当時まだ高校生でしたが、「昭和三〇年当時、赤ん坊だったミルク中毒の被害者を健診して、異常なし∞後遺症なし≠ニいいきったのは小児科学会に属する学者たちだった。その後、被害者は亡くなったり後遺症に苦しんできたりしたが、検診の結果、被害なしということになったものだからずっと偽患者のようにいわれ、世間から忘れられた。この責任はあなた方、小児科学会の全員が負うべきではないのか」と明快な言葉でぼくたちを告発したのです。
 会場からは「帰れ、帰れ」のやじが起こりました。それはこうした告発になんの心の痛みも感じない医者たちの冷ややかな応答でもありました。ぼくは怒りと悲しみの思いに包まれ、なんとかしなければと思いました。」(山田[2005:149-150])
 石川の文章として、石川[1973]「被害者・障害者の人権解放へ――ヒ素ミルクの十字架を負って」●、梅崎・一番ヶ瀬・石川[1973]●。
 「昭和四七年八月二〇日、私たちは一八年にわたる差別と抑圧に終止符をうち、苦しみを試練とし、解放をめざして立ちあがろうと決意した。それは、まず、仲間がつぎつぎと殺されていったこと、多くの親は結局先に死ぬ以上、今後私たちが生き抜いていくにはみずからの力で闘っていかねばならないこと、仲間で団結し私たち自身で立ちあがらなければ森永との闘いに勝利はありえないし、解放もない、という認識にみんながたったからであった。
 私たちはその日、@森永ヒソミルク中毒による後遺症の恒久的治療と、たとえ「障害」があろうとなかろうとそんなことに関係なく人間として生き抜いていけるための恒久的保障を勝ちとる、Aヒ素中毒による「障害」「病気」をもつ私たちに対する差別をなくす、B一致団結して闘い抜く、という三つの願いをこめて、「私たちのからだを返せ」というスローガンを決定した。」(石川[1973:113]●)
★ 日比逸郎[1973]「ヒ素ミルク事件と小児科学会」より。
  「問いかけにこたえられぬ学会
 昭和四三年の東大医学部紛争に端を発した医局講座制粉砕の医学生・青年医師の闘いは、各大学医学部・大学病院医局をゆさぶった。その余波は医局講座制の一支柱と化していた学会にも、学会紛争として波及した。小児科学会でも青年医師を中心とした学会改革運動が開業医会員をまきこんで、昭和四五年秋にはすでに一定の成果をあげていた。
 医学部紛争やこれらの学会紛争の過程で、大学教授のかつての絶対的権力と権威はかなりの傷をうけていた。かつて大学教授によってその理事を独占されていた小児学会も、理事の中に少数ながら開業医や病院勤務医が選出されるような状態にはなっていた。
 このような情勢をみて、守る会はまず全国の青年小児科医に、アピールを郵送した。それは、彼らに森永ヒ素ミルク中毒事件のいきさつを教え、彼らに「小児科学」が被害者を救いえなかったことを教えた。これは「学問のあり方」に対しての深い疑念から学会改革運動にとりくんでいた彼らの心をつよくゆさぶった。彼らはただちに守る会と接触し、被害者やその家族のナマの訴えを聞いた。
 四六年二月、守る会は学会の理事会に対して、森永ヒ素ミルク中毒の被害者の追跡調査と救済について、「学会の見解」を公開するように申入れた。それとともに、一六年間の空白をもたらした、かつての小児科学会の権威者たちの「小児科学」をどう考えるかと学会に問うた。すなわち、西沢六人委員会の作成した診断基準、治癒判定基準や、五人委員会の後遺症なしの結論、あるいは三一年のいわゆる精密検診、森永奉仕会と学会との関係などについて「学会の見解」を明らかにするようにとの申入れであった。
 患者が専門家集団としての学会にむかって、きわめて具体的にかつ学問的に医学のあり方について問いかけたのである。この問いかけに学会は答えるすべをもたなかった。
 一六年前に、西日本全体の小児科関係者のほとんどをまきこみ、当時、一九六編の医学論文や多数の学会報告を生みだしたこの事件について、「資料や情報の収集に努めているが、未だ見解を述べる段階に達していない」ので、理事会は小委員会を発足させて患者の問いかけに答えるべく資料・情報の収集にあたらせることを公約した。
 守る会はさらに追打ちをかけた。四月の学会総会に参加して、多数の小児科医に被害者として直接、語りたいと理事会に申入れたのである。理事会は困惑し、この申入れを拒否したが、改革派会員の働きかけに押されて、「休憩時間を利用して発言の機会を与える」ことを渋々みとめた。
 その日、守る会の岡崎事務局長は、被害者家族を代表して、小児科医に直接語りかけた。
 「事件発生後わずか三カ月で後遺症なしと判定した西沢説の非科学性は、被害者とその家族に一六年間の暗黒をもたらした。この悲劇はすべて医学の名において被害児に押しつけられたもので、この問題を避けて小児科医が医学や医師の倫理を語るほど罪深いことはない」
 この年はちょうど四年に一度の日本医学会総会開催の年にあたっていて、小児科学会も参加していた。主要テーマは「医の倫理」であった。
 岡崎氏は最後に、@森永乳業に働きかけて、同社のもっている被害児の名簿などの資料を学会に提出させてほしい、A被害児の救済に学会をあげて緊急にとりくんでほしい、という二点を学会の総意として議決してほしいと訴えた。
   森永事件は政治の問題
 守る会の一連の働きかけは、決して陳情ではなく、明らかに「小児科学」の本質とあり方についての問題提起であった。この問いかけては学会内部にさまざまな波紋を生んだ。もっともうろたえたのは、かつての西沢委員会のメンバーであり、岡山県で守る会の反対をおしてふたたび「官製検診」を強行しつつあった、いわゆる官製委員会のメンバーたちであった。
 彼らは理事会に対して、学会が森永問題をとりあげぬよう圧力をかけた。官製委員会のメンバーたちは岡崎発言の直前の評議員会や総会で、異様なまでのハッスルぶりで、学会が森永問題をとりあげることと被害者代表に発言の機会を与えることに反対して猛烈なキャンペーンをはった。彼らのやり口は「森永事件は政治の問題である。守る会は政治的変更のある団体である。守る会は被害者のごく一部の組織で被害者の代表たりえない」といった、学会員の政治アレルギーを利用した偏向助長のアジであった。
 一六年前の事情を知る会員には「古傷にさわられたくない」という気分をひきおこさせ、事件のいきさつを知らぬ会員には「森永問題はどうもタブーのようだ」というタブー意識をもたせることに成功した。しかしそれと同時に、改革派の会員には、森永問題こそ学会改革の上で避けて通れぬ重要な試金石となることを本能的に察知させてしまった。
 守る会の問いかけは、会員間の医学のあり方についての意見の分裂を鮮明に浮き出させたのである。学会は右に左に大きくゆれ動いた。
 「被害者どうせ一六年お待ちになったのだから、ついでもう少し待っていただいて、学会での発言などご遠慮いただこうではないか」という官製委員会メンバーの提案はさすがにとおらなかったが、「患者の訴えを真正面から聞くところから医学は始る。被害者代表を正式に学会に招待して十分にその訴えをきこう」という改革派委員の意見もとおらなかった。妥協の産物が、「休憩時間を利用して、非公式に一五分間だけ発言することを許してあげます」という結論であった。
 岡崎発言のあと、会員間の医学に対する意識の分裂はさらに鮮明となった。岡崎発言にひきつづいて森永問題を最重要議題として十分討論しようという改革派の声は、圧倒的多数の保守派によって葬りさられた。しかし、森永と学会の癒着を徹底的に追及した改革は医師の努力は、岡崎発言の重みとあいまって、「被害者救済を第一義とする」森永砒素ミルク中毒調査小委員会を総会の総意として発足させることに成功した。
 長時間にわたる議論にわく会議場や廊下を、心配顔の森永の社員が自由に出入りしていた。患者を会場に入れることには神経質な学会員も、森永とうい一企業の社員が会場に入ることにはなんの疑問も示さなかった。」(日比[1973:▲]●)
★ 松下竜一(まつした・りゅういち) 一九三七年〜二〇〇四年、作家、市民運動家。全集に『松下竜一その仕事』全30巻 +別巻(松下[1998〜2002])。豊前火力発電所建設反対運動で「環境権訴訟」を展開。「環境権訴訟をすすめる会」の機関紙「草の根通信」は、一九七三年創刊、松下没後の二〇〇四年七月第三八〇号で終刊するまで、一号も休むことなく発行された。
 「「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で、公害を冤罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに――誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。じゃあチョンマゲ時代に帰れというのかと反論が出る。必ず出る短絡的反論である。[…]「いったい、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。反開発の健康な出発点であり、そしてこれを突きつめれば「暗闇の思想」にも行き着くはずなのだ。」 (松下[1974→1985→1999:140-141])
★ 水俣病裁判。1973年
 「判決が言渡される期日が近づくにつれ、事態の流れは勢いを強めて渦まきはじめた。
 三月八日、訴訟派と自主交渉派の患者が弁護団と、判決後の行動について打合わせをすることになった。ところがその会合で激論となり、患者たちと弁護団の関係に修復不能なまでの亀裂が入った。
 理由は二つあった。一つは、弁護団が判決後のチッソとの交渉を弁護団と国会議員が中心となって行うことを主張した点にあった。
 患者たちにとって、チッソとの直接交渉は、ボス交渉の場所ではなかった。魂の救済にかかわる空間であり、余人を容れようもない場であった。
 もう一つは、弁護団が一月二〇日に第二次訴訟を起こしていることであった。その原告のうち一〇人は環境庁裁決後に認定された人々であったから、この訴訟は川本たちの自主交渉を否定し、新認定患者のなかに別のグループをつくる意味を帯びていた。
 患者自身による直接交渉を否定して弁護団中心の交渉を主張し、自主交渉を否定して裁判を主張するということは、何もかも弁護団が中心になることであり、患者は単にそのための道具にしかすぎないことになるではないか。患者たちにとって、判決が出ようとするこの時期に、チッソとの直接交渉を妨げるものは、弁護団といえども許せなかった。
 判決五日前、訴訟派患者総会が開かれ、東京交渉を患者中心でやり抜くことが承認された。判決直前に、原告たちと弁護団との縁が切れるときいう不思議が起きた。
 告発する会も訴訟支援の県民会議を脱退し、弁護団に絶縁状を叩き付けた。告発する会にとっては、訴訟の理論立てと立証準備を担ったのは水俣病研究会であるという自負があった(水俣病研究会は告発する会の主要メンバーと重なり合っていた)。弁護団は、水俣病研究会が出版しようとしていた「水俣病にたいする企業の責任――チッソの不法行為」の原稿を丸写しし、第四準備書面として裁判所に提出してしまう不信を犯してもいた(後に撤回された)。訴訟でプロでさえなかった弁護団が訴訟外の交渉の場で指導者づらすることは許せないという理由であった。
 この一連の軋轢は、訴訟派と自主交渉派の、相互接近を触媒することとなった。訴訟派としては、判決後のチッソとの交渉を弁護団ぬきでする以上、自主交渉派と別個の組織を維持する理由はもうない。自主交渉派としては、判決を利用しない手はない。
 判決当日、訴訟派と自主交渉派は合体した。
 「水俣病患者東京本社交渉団」が結成された。」(後藤[1995:224-226]●)
★ 後藤孝典(ごとう・たかのり) ●●年生れ、弁護士。著書に『沈黙と爆発――ドキュメント「水俣病事件」1873〜1995』(後藤[1995]●)。他に後藤孝典編『クスリの犯罪――隠されたクロロキン情報』(後藤編[1988]●)。虎ノ門国際法律事務所のHP http://www.toranomon.com/annai/index.html
★ 「被害者のなかで、ぼくたち「支援する医者」にも鋭く批判をするのは古賀照男さんくらいでした。古賀さんはスモンの患者さんでしたが、病気になる前は労働者で、病気になった後で加害者である「田辺製薬」を追求(ママ)するときも作業衣のままだったりしました。二〇〇三年に亡くなられましたが、最後まで製薬会社の追求(ママ)をやめず、その姿勢にぼくは深く感動し、また多くのものを教えられたと思っています。[…]
 古賀さんの闘いでは古賀さんが主役で、医者も黒衣(ルビ●くろこ●)にすぎませんでしたから、スッキリした気持ちでかかわることができましたし、古賀さんの言葉からあらためて日本の医療の問題点を見直すことにもなったりしました。
 しかし、被害者の人たちと医者とがこんな関係になれるのはめずらしいことで、医者が医療被害者運動の先頭に立ってしまうこともしばしばあったのです。」(山田[2005:242-243])
 「もうひとり、忘れられない人がいる。古賀照男さんである。
 彼は、神奈川県のスモンの会会員だった。いつも茶色のビニールの長靴を履いて、クラッチという肘まである松葉杖をカチャンカチャンと鳴らして歩いていた。
 胸と背中には「薬害根絶」という文字があった。汚れた布にいつ書かれたか分からないような手書きの字だった。いつも同じようなジャンパー姿だった。「それでよー、おまえよー、何考えてるんだ、しっかりしろ」というような、言葉使いは乱暴だったが優しい心根をもった人だった。
 東京地裁の裁判が和解に向けて怒涛のように動いていったとき[…]いつもわたしと行動をともにしてくれた。
 自分たちの弁護団のところへ何度も話し合いに行った。話し合ってもちらがあかないため、新しい弁護団をつくることができるかどうかを模索するため、二人で歩き回った。あちらの弁護士、こちらの弁護士、ほんのちょっとの知り合いにも紹介してもらって、とにかく歩いた。[…]しかし前にも述べたように、社会的な地位のある弁護団を解任して新しい弁護団をつくることは、もうここに至ってはできなかった。しかし、たった一人の弁護士だけが、第一次判決のときにわたしたちを助けてくれた。
 その後しばらくして、わたしたちの原告団は頑張ってはみたが判決を求めていくことができず、和解へと追い込まれていったのは、先述したとおりである。
 ところがこのとき、古賀さんともう一人の原告だけは絶対に和解しないと言った。わたしたち判決派の原告団では、決して和解を強要することはしまいと申し合わせていたので、古賀さんにはできるだけ協力することにした。
 とは言っても体力、気力の限界まで頑張った後に和解したわれわれだったので、古賀さんの闘いにおいて、わたしたちにできることは限られていた。[…]
 わたしたちスモンの原告団は、古賀さんの仲間だったはずであったが、時々のカンパを別にすれば、古賀さんと行動をともにできた者は結局いなかった。
 古賀さんは、強烈な個性の持ち主であった。彼は、自分だけを残して和解してしまったわたしたち原告団に対して、表面上はともかく、心の中に怒りを秘めていた。裁判にも負け、奥さんを失い、古賀さんの心で燃えるのは怒りのともしびだけだったかもしれない。古賀さんは、私たち昔の仲間に電話をかけては、怒りをぶつけた。
 わたしたちは、古賀さんに愛情をもっている仲間であり、古賀さんの気持ちは十分理解できると思ってはいたのだが、古賀さんに鋭く批判され、怒りをぶつけられたとき、体の具合が悪いわたしたちは、寛容の心をもってそれを聞き、ともに闘うということができなかった。
 私も電話をもらい、あまりに理不尽なことを言われて大げんかをしたことがある。同じ病で死ぬか生きるかのときちる、こちらも古賀さんのわがままをわがままとして受け止め続けることができなった。
 古賀さんは私たちを見放した。古賀さんは、自分の怒りを受け止めてともに闘ってくれる仲間と田辺に対する抗議行動を続けた。」(田中[2005:94-96]●)
★ C型肝炎特別措置法について、北村健太郎[2008a]●「C型肝炎特別措置法の功罪」[2008b]「C型肝炎特別措置法に引き裂かれる人たち」●。
★ 一九八八年「当時から医師会の弁護士らによる講習では「決して謝罪しないように」という指導がなされていたが、これこそが賠償保険というカネに歪められた本末転倒の姿勢であった。この指導は現在でもいたるところで行われており、年を経ても何ら改善されていないことが明らかである。」(森[2002:8]●)
 この文章の著者(一九四〇年生まれ、大阪市立大学医学部卒、医療事故調査会代表世話人)――医療事故への対応策として「診療工程設定管理」他を提唱――による医学部闘争についての評価は以下。
 「一九六八年に始まった医学部闘争は、当初は自治会による医学部の機構改善闘争であり、人事、教育、講座制度の実質などを改革する「医学部民主化基本綱領」としてまとめられ、教授会決定までなされた。しかし、その内容が当時としては画期的すぎたのであろう。すぐに行政からの指導があったのか、その決定は反古にされ、以後は不毛とも言うべき全共闘方式の闘争に入っていった。日本医師会は当時も保険医総辞退を武器として給付率アップを求めることに終始しており、学生や若手医師の提言に何ら応えることはなかった。
 医学部闘争が収束した後、その提言は一切否定され、医学部は倍増されても教育内容は総体的に質的低下を続けることになる。遠くの活動した医師は巷間に散り、一部は小生のように国外に研修の場を求めた。当時闘争を担った医師群で現在は政治の場に立っている人たちもいるが、その多くは既に医学教育や医師および医療者の信任制度などの改革意欲を失っていると言わざるを得ない。」(森[2002:78]●)
 同じ本に収録されている対談に以下の発言。
 「あのケースを担当している教授は、仙台のほうの自分が派遣されている病院に行って「じつは間違いをしているけど、それを認めてしまうと、日本医大に傷がつく。わたしにも傷がつく。だから裁判に持っていって風化させる」と言っている。裁判に持ちこんだら終わりですからね。もうオープンにはならない。」(森・和田[2002:175]●、森の発言)
★ 例えば和田仁孝・前田正一『医療紛争――メディカル・コンフリクト・マネジメントの提案』(和田・前田[2001]●)。
★ 松田道雄 一九〇八年〜一九九八年、小児科医。著書に『私は赤ちゃん』(松田[1960]、『育児の百科』(松田[1967]●)他
 「日本の一般の人が、死にぎわのすさまじい情景をみて、もっと静かに私事として(病院の行事としてでなく)死にたいと思うことが多くなると、それを一部の新聞がとりあげて「安楽死」や終末の医療について、かきたてるようになりました。一般の人が「安楽死」を考えるのも、そういう記事をもとにしてです。
 だが私は、そういう記事が不正確なのに腹をたてています。私たちが問題にしているのは年をとって、絶望的な状態になった時の延命です。その時の気持は年をとって弱ってきた人間でないとわかりません。ところが新聞に記事を書いている人は、大抵三十歳代の健康な人で、年をとった親の死病を介抱したことのない人です。
 医者に同調して延命至上主義の立場に立ちます。」(松田[1997:17])
★ 『育児の百科』は1967年刊行、以後毎年改訂された。現在は岩波文庫に収められている。
★ 市野川 容孝(いちのかわ・やすたか) 一九六四年生れ、社会学。著書に、『身体/生命』(市野川[2000])、『社会』(市野川[2006])他
★ 山田[1988]「われらの内なる優生思想を問う」
 「自分の体内に宿した胎児の染色体に異常があると告げられた親は、そうした世の中の固定観念の中で将来を思いえがくのだ。そこでは「障害児と共に歩む不幸な人生、周囲から迷惑がられ邪魔にされながら生きてゆく人生」といった悲しい未来像しか見えてこないだろう。そして目の前にいる医者は、たとえはっきり口に出しては言わなくとも、やはり同様の考え方を持ち、「このような不幸な子どもは生れてくるべきではない」と無言のうちに語りかけている。そのような状況にあって多くの親は結局胎児の生を絶つことを選ぶだろう。それはとりもなおさず「障害を持った胎児は殺せ」という、社会の要請にこたえていることになるのだが。
 親たちがそのような選択をする時、優生思想は貫徹されるのであり、胎児診断に当った医師たちも「社会にとってお荷物になる人間」が一人増えることを阻止できたという点において国手≠ニしての任務を全うしたことになるのだ。」(山田[1988:161-162]●)
★ 「そんなときたまたま、全障連という団体の全国大会が東京でおこなわれることを知りました。これに参加することで、共同戦線が作れるだろうと考え、森永ミルク中毒の被害者のひとりと、その大会にのりこんだのです。しかし、そこで待ち受けていたのは予想外な反応でした。[…]
 森永ミルク中毒の被害者は、この全障連大会の席で「自分たちは森永に対して、『からだを元に戻せ』というスローガンをつきつけながら闘っている」と発言したのです。ところが、大会に参加していた障害者の人たちから、このスローガンがさんざんに批判されることになりました。
 全障連大会に参加していた人の多くは脳性麻痺の障害をもつ成人でした。[…]彼らの運動の中心的な課題は、障害者に対する差別と闘うことでした。[…]
 そんな彼らの前に森永ミルク中毒の被害者が現れ、「からだを元に戻せと森永乳業につきつけている」と発言したのです。そこで、障害者の人たちから「あなたは自分のからだをよくないからだと思っているのか。自分たちはこんなからだにされた≠ニいうとき、こんなからだ≠ニいういい方にこめられたものはなんなのだ。元のからだに戻せということは、いまのからだを否定することで、それは障害のあるからだを差別する考え方ではないのか」といわれたのです。ぼくたちはこの厳しい問いに答えることができず、立ち往生してしまいました。
 さらに彼らは「自分たちは医者というものをまったく信用していない。医者たちが障害者に対してこれまでどんなひどいことをしてきたか、知っているのか」とぼくに問うたのです。そして、その日一日は、障害者の人たちのきびしい問いかけと糾弾を受ける一日になりました。
 ぼくは大きなショックを受け、その後しばらく障害者の運動から離れることになったのですが、結局、またその運動と出会うことになりました。
 […]それは一九七三年に生まれた娘が、障害をもつことになったからです。」(山田[2005:246-249])
  ここでは違いが言われている。そうでない記述もある。さきに山田が言及した石川雅夫(森永ヒ素ミルク中毒被害者の会)の文章(石川[1973]●)横塚晃一の文章(横塚[1973]●――文章自体は後に著書に収録される機関紙掲載の文章)を並べている本(朝日新聞社編[1973]●)があり、そのコメント(大熊由紀子が書いたという)ではこの二つの会の共通性が指摘されている。
★ 松枝亜希子。学会報告に[2007]「薬を使用する際の葛藤・逡巡――病を巡る負担における力学について」●、論文に[2008]「向精神薬への評価――1960年代から80年代の国内外における肯定的評価と批判」●。作成している資料として[2008-]「薬について(とくに精神医療で薬の使うことを巡る言説)」●。
★ 立岩[2002]「ないにこしたことはない、か・1」。
★ 「なぜ小児科かっていうと、これも幼いときから母に刷り込まれていたようなのです。母はこどものぼくに「東京と京都には偉い小児科医がふたりいる。東京には内藤寿七郎先生、京都には松田道雄先生。こういうお医者さんにあんたがなってくれたらうれしい」とよくいっていたものでした(松田さんは『育児の百科』で有名ですね。内藤さんは愛育病院の院長を務められた方です)。そんなことを聞かされているうちに、「松田さんのようなやさしい町医者になりたい」という思いがだんだんふくらんできたのです。それで「まず小児科医になり、それから松田さんの家に置いてもらって町医者修行をしよう」なんて考えたのでした。」(山田[2005:96]●)
★ 遷延性脳障害=遷延性意識障害
 「「全国遷延性意識障害者・家族の会」が一一月六日、結成一年の総会を大阪で開く。
 長い間、全国組織がなかった。二四時間態勢で続く介護に追われ、家族の社会活動に大きな制約があった。病院から見放され「医療と福祉の谷間」にいた人々であり、全国規模の実態調査さえなかった。
 呼び掛けても反応がなく微動も自発呼吸もできない人を含む最重度の障害。会は「植物状態」という言葉に大きな抵抗感があるとし、遷延性意識障害と呼ぶよう求めている。
 この家族の抵抗感には、深い怒りが込められているように思う。
 厚生労働省のある検討会であたかも「終末期」のように扱われている人たちでもあり、医療保険や障害者福祉制度にきちんと位置づけられていない。いくつかの「安楽死・尊厳死」事件では長く意識障害の人が亡くなった。救急救命段階で、医師から「手術をすれば助かるが、ご家族が大変ですよ」と言われた家族もいる。「尊厳ある生なのに、無駄な生と軽視されてきた」とある母はいう。
 遷延性意識障害は▽自力移動ができない▽眼はかろうじて物を追うこともあるが認識できない▽意味ある発語ができない−などの状態が三カ月以上長期化した障害をいう。
 目の輝きのわずかな変化から家族は患者の感情を読み取り、きずなを感じ取る。音楽や味覚の刺激、根気強い声掛け、リハビリを通じて、一〇年を越すような意識障害から回復した例がいくつもある。
 交通事故で頭部外傷を負い、また医療過誤や犯罪被害者など原因は多様だ。脳卒中などの病気でも生じる。人生の中途でだれにでも起こりうる。患者は全国一万五〇〇〇人以上と推計される。
 三カ月ほどで病院から「治療は終わった」と退院を迫られ、病院を転々とする。まだ医療で改善する余地があるのに、在宅介護を余儀なくされる。数時間おきのたん吸引は「医療行為」とされ、ヘルパーには認められていなかった。夜に何度も家族が起きざるを得ず「ヘルパーさんが来ている間に、せめて仮眠がしたい」との願いは切実だ。
   法の趣旨から転倒
 たんの吸引やチューブによる栄養補給、人工呼吸器の管理など「医療行為」の壁により、福祉施設が受け入れを断る。素人である家族が学んだ介護技術やリハビリによって、在宅介護が支えられている現状は危うく、法の趣旨から転倒している。
 遷延性意識障害者の会の代表桑山雄次さん。次男の敦至さん(18)の事故から一〇年。敦至さんは小学二年の時、車にはねられ頭部に重傷を負った。重度の意識障害で、何度も生死を乗り越えた。
 最近ほほ笑んでくれないとこぼす桑山さんに、眠る敦至さんの横から妻の晶子さんが「お父さんが家にいない時は、わたしによく笑うよ」と返す。「ヨーグルトの食べっぷりはすごい。味の好みははっきりしているんです」。表情は豊かになった。次は手を握り返してほしい。口から食事できるまでのリハビリの道も試行錯誤を繰り返し、ゆっくりゆっくりだけど、敦至さんの歩みは家族の大切な存在であり、希望だ。
 結成から一年、家族会の要望を受けて本年度から全国で実態調査が始まり、ヘルパーのたん吸引も容認された。だが実現する仕組みがない。「容認されただけで、実質はなんら変わっていない」と会は訴える。」
 (京都新聞社会報道部・岡本晃明[20051104])
★ オルタナティヴ
 高橋「中国医療に関連して大きな誤解が親中国派のなかにもある。ハリ・キュウや漢方は、中国人民が二〇〇〇年来親しんできた「土法」ではあるが、近代科学としての検証をうけたものではない。しかし、病気の初期や軽いときはあれで十分彼らは健康を守ってきた。腕の接合術にみるような高度の上部構造の医療の、底辺を支える初期治療、軽症治療の基盤として、かりにその大部分がプラシーボ的なものであるとしても、有害度の強い西洋薬の不必要な浸入を遮断する役割を果たしている。
 その中国社会主義社会での巧妙な位置づけを見おとして、技術だけを盲従的に日本に導入しようとする誤った親中国派が、学生層のなかにまである。だが、新しい科学的社会主義社会の建設を目標とする新中国に、超科学的神秘性をもった技術を期待することほど矛盾していることはないですね。ハリ麻酔剤を別として、ハリ・キュウ・漢方はすべて、”伝承仮説”として私たちは科学的にとらえなおさないといけないのです。」(高橋・中川・大熊[1973:173-174])
★ 神田橋 條治(かんだばし・じょうじ) 一九三七年生れ、精神科医。著書に『精神療法面接のコツ』(神田橋[1990])他
★ 『精神科薬物治療を語ろう――精神科医からみた官能的評価』(神田橋・兼本・熊木編[2007])
★ 『精神科のくすりを語ろう――患者からみた官能的評価ハンドブック』(熊木[2007])
★ 青年医師連合 一九六七年、東大メンバーの呼びかけで全国的に組織化され、医局講座制などを告発。山田は四二青医連(昭和四二年度卒による青医連の意)委員長。
★ 山本 真理(やまもと・まり) 一九五三年生れ、全国「精神病」者集団会員、ペンネーム長野英子(ながの・えいこ)。著書に『精神医療』(長野[1990])、訳書に『精神医療ユーザーのめざすもの――欧米のセルフヘルプ活動』(オーヘイガン著、長野訳[1999])他
★ そこで働いてきた医師が記した著作として富田三樹生[2000]『東大病院精神科病棟の三〇年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』●。
★ 経験知●
★ 『治療という幻想――障害の治療からみえること』(石川[1988])
「「『障害』は病気ではない。だから直す対象として『障害』をとらえることが誤っている」という障害者からの指摘は正しいと思う。しかし、病気と「障害」との差異を強調することだけで(p.35)は不十分である。それは、たちまち「障害」だけを孤立させることになる」(石川[1988:35-36])
★ 『季刊福祉労働』 障害者・保育・教育の総合誌。季刊福祉労働編集委員会編、現代書館発行、一九七八年創刊、第一号の特集は「義務化される養護学校とは」最新一一八号は特集「 学テと特別支援教育が同時に始まった」。
★ 医療と教育を考える会 東京大学付属病院内に事務所がおかれ石川憲彦らを中心に運営された。
★ 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(安積・尾中・岡原・立岩[1990●→増補改訂版1995]●) 
★ 岡原 正幸(おかはら・まさゆき) 一九五七年生れ、社会学。著書に〕『ホモ・アフェクトス―感情社会学的に自己表現する』(岡原[1998])、『感情の社会学―エモーション・コンシャスな時代』(岡原[1997])他
★ 高岡 健(たかおか・けん) 一九五三年生れ、精神科医。著書に『人格障害論の虚像―-ラベルを貼ること剥がすこと』(高岡[2003])、『自閉症論の原点―-定型発達者との分断線を超える』(高岡[2007])他
★ 石川・高岡[2006]●『心の病いはこうしてつくられる――児童青年精神医学の深渕から』から。
 「石川[…]例えば、ある年齢ぐらいまでの子どもは大人だったら戻らない発語機能が戻るのは左側が壊れると右側が利用可能だからということはよく知られてきた。かつて医学はこのような器質的異常論からスタートしたわけです。ところがいつの間にかこれが機能的異常という言葉を生み出すようになると――これは脳死臓器移植まで行ってしまいますが――逆に機能の問題を脳の異常として追求し出し、本来の医学的な傷が見つけられなくても、脳の中の活用方法の異常という仮説を持ち出して、ついには病気を量産しようとしている。ここに今の精神医学の中で一番のトピックス[ママ]になっていっていると思うのです。
 だから「心の理論」は、因果関係が問題にならない。そこから出てきている理論の怖さは、最適理論です。脳は活用方法を一定の方向に決めたのですから、そこは個性で変えられない。しかし、個性的なありように負担を与え過ぎず、しかも個性を生かすためにどうやって最適の刺激を調節して与えるかが問題だという理論です。それはある意味では当たり前のことで、使い過ぎは疲れるし、使わなくては機能は低くなる、というようなことにすぎないのに、あたかも「自閉症」の子どもには最適があるように言い繕う。脳の動きにまで最適基準として特殊化されて導入されることになったら、これはもう薬づけの世界に突入するしかない。」(石川・高岡[2006:40-41])
 「石川 私も、医者の立場から親の育て方に対するアンチテーゼとして自閉症脳障害説を認めたというところでは、そこは半分そうだと思う。でも、それを医者が言ってはおしまいだとも思う。高岡さんがよく言われるうつ病の話と同じだと思います。「うつ」は日本では根性のせいとか、甘え、だらけというふうに批判的にみられてきた。それに関するアンチテーゼとして「うつ」は病気です、というのはいいように見えるけれども、気がついてみたらその結果アメリカでは女性の四分の一は「うつ」で一〇%位の人が薬を飲んでいるという話にまでなってしまった。
 そこまでいったときに、専門家が病気だと宣伝していく裏に進行する社会的無意識の動向みたいなものを相当注意していないとヤバイと感じる。「自閉症」もどんどんインフレのようにふえていく。スペクトラムという言葉自体がどういう広がりと可能性を誰にでも導いていきかねない。しかし誰にでも可能性があるなら特別視を止めてチャラにすればいいじゃない、という社会の方向はなかなか生まれない。」(石川・高岡[2006:42])
 「石川 […]ライフサイズで考えてみると、セルフエスティームが滅茶苦茶になってしまって打ち砕かれた子が沢山いるのは事実です。しかし、彼らはそこからしかスタートできないし、それが大切な力になのではないかと私はいつも思っています。大人は子どもの自信を奪ってしまってはいけない。つまり自分より弱い者を圧迫してはいけない。しかしそれはエスティームによるのではなく、リスペクトによって回復されるのです。人間はどんな子どもであろうが赤ちゃんであろうが大事な人間としてリスペクトされることで、外部が失わせた評価によって生まれる無理を克服していくのだと思う。
 それなら一遍打ち壊れされてもお互いにリスペクトし合う関係を構築すればいいと思うのです。AD/HDの子どもで一度しんどくなったけど、青年期以後徐々に変わっていった子どもを沢山見ています。それがセルフエスティーム論に対する問題提起です。」(石川・高岡[2006:56-57])
 「石川 私もリタリンの使用はゼロではないです。ただその殆どは既に余所の病院やクリニックで使用が始まっていた例です。この薬剤は子どもに依存が起こらないというのは嘘で、親に「覚せい剤を子どもに飲ませているのと同じです」ときつい言い方をすると、「いや、子どもの方がこの薬は納得して喜んで飲むのです」と言う。納得して喜んで飲むというのは、既に覚せい剤依存の始まりなのですね。つまり、イヤだなと言いつつ飲むのが薬で、納得して喜んで飲むというのは凄く危険な話です。
 薬を私が使わない理由は、先ほど高岡さんが言われたAD/HDの診断のところでの、病状が二つ以上の場面であるという点とからみます(ママ)。場とは子どもにとっては大体学校か非学校的な家庭かです。私がリタリンを使う理由は限られています。家庭で困るなら使うのです。例えば旅行。最近は減りましたが夜汽車で行くというときに心配ですね。汽車から飛び出して迷子になったりしたらとか、親も気が気じゃないことがある。そんな時にリタリンを飲んで安心してみんなで楽しく旅行できるくらいならそう悪いことじゃないと思っています。
 つまり多動行動が病的で本当に困るというのは、診断基準にあるように多様な場所で困ることです。そういう場合使用もしょうがないと思います。日本で多いのは、隣の家との住居環境が悪いので薄い壁一枚で隣の家から怒鳴り込まれるといったこと。それでは一家の生活が成り立たない。そうなると親は、子どもはやはり静かにしてくれ、というふうになってしまうことは現実に少なくないですし致し方ないと思います。ですけど、リタリンを飲んでいる子どもの九〇数%までは家では飲まないのです。学校での限定的使用という綺麗な言葉で正当化されますが、私にはそこにもの凄い嘘っぽさを感じます。
 高岡 夏休みは飲まないとか。
 石川 そうです。つまり学校や社会のために飲まされているのです。」(石川・高岡[2006:71])
 「石川 偶然の要素というものを誰がつくるかという問題ですね。治療がよかったという言い方を私は信じません。治療的根拠がないから信じないというだけでなく、治療者もそういう偶然の要素を呼び込み得るような存在であることもあり得るという非可視的な事実をどう評価するかだと思います。私はその根拠というのは比較的簡単ではないかと思います。虐待の連鎖のなかで先祖まで遡っていくと、西洋の世界ではアダムとイブまで行くわけですね。[…]
 […]誰もが永遠に苦労を背負って生きなければいけないと楽園から追い出されるわけです。しかし神はアダムとイブを消滅させなかったというストーリーこそ、メソポタミアの創造神話です。そのアダムとイブの子ども同士に虐待とも言える差別を与えて兄貴殺しを神がさせるわけです。兄を殺した弟はあらゆる人間から人殺しだと責め立てられる可能性を予測し、自分は生きていく自信がないと嘆く。しかしそのとき、神は弟に向かって、そうはさせない、お前に手を加えたら手を加えた者に何十倍もの責めが帰るのだ、と勇気づける。私は、ここは凄くおもしろいところでと思います。
 小さいころ虐待を受けた人。凄まじい思いを生きて、「うつ」になったり、PTSDになったり、人格障害と診断されたり、命を絶とうとしたり、そんな若い人との付き合いは、いつもこの神話に帰着します。自分が人間として生きていくときに、その人が最終的に求めているものは「自信」よりもっと根底的な、「生きることとの和解」です。自らに襲いかかってくるものに対してなお自分でいつづけられるような「ゆとり」の回復ですね。そうしたものを生み出すのは診療室の治療というより、社会的な「和解」のストーリーの実現だと思います。原因を親に遡るなら、人類の最初の先祖まで遡って考えて生きていくしかない。そのために一番いやな人間と生きていくことを支え合うしかないし、どんなことをしても死んではいけないし、殺してはいけない。そうした和解が恨みや憎しみの中から親子や家族の間で生まれてきたときに、何となく楽になってくるというのが三〇年ぐらい付き合ってきた人から読み取れるストーリーなのです。」(石川・高岡[2006:82-83])
 「石川[…]リストカッティングを、必ずしも新しい現象だと思っていない。遡れば日本社会では指を詰めたりしたわけですね。あれはヤクザの世界、義理人情の世界の特殊事情ということになるけれども、私は、自罰性というのはそもそも修行者の世界に端を発する普遍的行動だと思う。断食の行にしても――摂食障害とも通底するかもしれませんが――食を断つという形で自らの身体を傷めるわけですね。リストカットする子も、ある意味では身体を傷めリセットするわけです。世界的にも宗教行事に伴って、さまざまな身体罰を伴った自虐性、自罰性というのは一つの意味がある行為とされている。私は、その自罰性の意味合いが変化したところにリストカットを見ているところがあるのですね。これは、宗教性の変化と言ってもいいのです。摂食障害の子どもと初めて出会った時に、私は食べないっていうことにもの凄い聖なるものすら感じました。自分のしている行為を確実に何らかの形で認識できる絶対性の中で確認するというのは、悟り以前の修行の特徴です。体重計は自らが食べないということで自分を罰するという行為を確実に測定して評価してくれる。しかしそれ以外の世の中の評価というのは、努力しようがしまいが、その努力をきちんとした形で想定して正しい評価を返してこないわけです。
 つい最近まで宗教性というのは、世俗的価値に対する対極的な意味として主観的絶対的価値を的確に反映していく方法として存在した。自傷というのは、世俗性に対決する明確な宗教性がなくなったために起ってきた。リストカットする子を見ていると、見せたくないリストカットと、誰かに見てほしい、家族に見てほしいリストカットと、家族には見せないかわりに友たちだけには見てほしいリストカットなどがあります。それぞれのメッセージ性は宗教的なレベルで全然違うのではないかと思います。」(石川・高岡[2006:104-105])
 「石川 […] 私はすべての患者さんにそのように対処できるとは思いませんが、ある医者のところで滅茶苦茶な投薬量の薬を飲んでいた人たちが、一剤か二剤まで投薬量を減少すると調子がよくなることがほとんどです。なぜかと言いますと、確かに病気だったかもしれないし、薬剤の力を借りなければ乗り越えられないこともあったかもしれませんが、薬剤は対症療法です。歯を抜く時に傷み止めが要るように、薬を使わなくても歯は抜けるのです。しんどいところも抱えつつ、そこを乗り切っていく姿に人間は凄いなと感動したりしながら治療関係をつくっていく時と、大量投薬の時とでは全然違った症状になるわけです。特にそうしたことを強く感じるのは、今流行りのボーダーラインという診断名をつけられて薬が出されている場合です。ボーダーラインという診断名をつけたら、薬を使ってはいけないと思う位です。私は、ボーダーラインの場合、単一の症状に限局して薬を使うことはあるけれども、それ以外はしんどいけれども耐えていけるなら耐えていこうという形で投薬を抑制すべきだと思います。」(石川・高岡[2006:115])
★ 『こども、こころ学――寄添う人になれるはず』(石川[2005])
 「春以来寝たきりだった義父が、一〇月に他界しました。義父の看病を通じて、老化と障害について再び考えはじめていた矢先、金井康治さん、熊谷あいさんと相次ぐ突然の悲報がまいこみました。金井さんは二〇年前から、熊谷さんは現在、障害児が普通学級で学ぶ道を、きりひらき、共生への歩みを求めつづけてきた障害児者でした。
 そして、義父の葬儀に追われてほんの数日留守にした間に、追いうちをかけるように母が入院。あれよあれよというまもなく、寝たきりになってしまいました。
 一〇年前、父が九〇歳で死んでから、母は希死願望をもつようになりました。「何もできなくなった。生きていてもしかたない」というのです。とりわけ身体の衰えが目立ちはじめた八〇代後半からは、私の顔を見ると「なんか、医者やろ、楽に死ねる方法、教えて」と訴え、ついには「殺して」があいさつになります。
 職業柄「死にたい」と訴える人とのおつきあいは少なくありません。しかし、親子となると、つい口論になります。
 […]「自分より弱い人のことを、自分以上に大切にしなさい」が口ぐせで、私は小さい頃から毎日念仏のように聞かされて育ちました。私が医者になったのはこの口ぐせの影響が大です。
 その母から、「殺して」と頼まれると、むなしくて、つい本気で怒りをぶつけてしまいます。[…]
 「気持ちがわからないのではありません。その生いたちから気位だけで人生を支えてきた母のこと。人にしてあげることは大好きでも、されることにはがまんできない。それが、自分がどんどん無力になって、一方的にされる立場になっていく。金井さんをはじめ、障害者とのつきあいがなかったら、きっと私も、母の気持ちに深く同調し、尊厳死を願っていたことでしょう。
 「できなくなったら終わり」「人のお世話になりたくない」。この潔癖すぎる個人主義は、人間と人間の本来の関係を否定します。できないままの自分を素直に生き、おたがいに迷惑をかけあうところから、初めて本当の人間関係が始まる。障害者の主張を、そんなふうに聞けるようになり、すべてを一人で背負いこむ自己完結型の自立を幻想であると理解できるまでには、ずいぶん時間がかかりました。」(石川[2005:136-137]●、初出は『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』2000冬(200202?)
★ 小松 秀樹(こまつ・ひでき) 一九四九年生れ、泌尿器科医。著書に『医療崩壊――「立ち去り型サボタージュ」とは何か』(小松[2006])、『医療の限界』(小松[2007])他
★ このことについては立岩[2004:●]にも記述がある。
★ 武見 太郎(たけみ・たろう) 一九〇四年〜一九八三年、医師。一九五七年から連続13選日本医師会会長、一九七五年世界医師会会長。著書に『寸鉄医言』(武見[1972])、『医心伝真』(武見[1976])他、評伝に『誰も書かなかった日本医師会』(水野[2003]●)他
 「武見太郎は昭和十四年(一九三九年)以来、死ぬまで銀座で診療所を開設していたが、健康保険は終生扱わなかった。全額自費診療だった。かつての武見診療所には、入口に「次の人はすぐ診察します」と書いてあった。
  一、特に苦しい方
  一、現職国務大臣
  一、八〇歳以上の高齢な方
  一、戦時職務にある軍人
 おそらく戦時中に書いたものを、そのままにしていたのだろう。よく話に出るのは、それで武見の診察料はいくらだったかという話である。武見の患者は偉い人が多く、高額の金を払っていたにちがいない。料金表はない。いくらでも置いていってくださいという姿勢である。政治家で武見の患者だったある人に、「いくら払うんですか」とズバリ聞いたら、「いくらでもいいと言われると、少額というわけにはいかない。ちょっと診てもらったら一〇万円ですよ」と言っていた。昭和五十年代の終わりごろの話である。」(水野[2003:51‐52])
 「武見自身が終生描いていた医師像は「名誉ある自由人」といわれるもので、「自分の努力によって研鑽を一生続け、他から指揮を受けず、自己のおもむく方向に行く」というものである。武見の時代のドクターは、教育の中でこういうことを植えつけられた人が多い。」(水野[2003:96]●)
 「岡本 日本に医療問題を論ずる人はたくさんいる。しかし、武見さんがテレビなどで相手にするのは、水野肇さん一人。医療経済の学者もたくさんいるが、そのなかで武見さんのレクチャーの相手をつとめるのは一橋大学教授の江見康一さんだけだ。この二人なら、武見さんの急所をつくような発言はしないからです。これは非常に露骨なんですよ。しかし、テレビをみている人はそんなことは知らない。この二人がいちばん立派な医事評論家であり、医療経済学者であると思っている。」(岡本・高橋・毛利・大熊[1973:182]●)
★ 横塚


REV: 20160123
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