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山田真に聞く

2007/12/23 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館403.404 15:30〜
山田 真立岩 真也(聞き手)
主催:生存学創成拠点


 ■20031101 特集:争点としての生命
  『現代思想』31-13(2003-11) 1238+税=1300 ISBN:4-7917-1112-2 [amazon]
 ■20041101 特集:生存の争い
  『現代思想』2004年11月号 32-14 1300円(本体1238円) ISBN:4791711297 [amazon] ※

 以下では、2008年1月6日以降の編集作業は反映されていません。1月6日以降、かなり大幅な編集作業をする予定ですので、いったん、このファイルを編集前のファイルとして残しておくこととします。

◆立岩:今日なんでかっていうのは、一つには11月でしたっけ、東京で、尊厳死とか治療停止の問題について、山田さんの盟友といいますか、本田勝紀さん★っていう、脳死・臓器移植のことに関心がある人は彼の名前を知っているはずですけれども、その二人が主催というかんじで、ちょっとした集会をやったんです★。僕も呼ばれて少しだけお話をしたんですけれども、そのときに栗原さんもいらしてて、それでその集会をやりながらというか聞きながら考えていたときに、その時点ですでに栗原さんから、今回、『現代思想』が2号に渡って特集するっていう話を聞いていて。それを組み合わせていくと、山田さんに話聞いたらおもしろいかもって思ったっていう、思いつきなんですけどね。
  で、その思いつきがなんなのかというあたりからなんだけれども、山田さんは1941年生まれで、僕は1960年生まれです。で、今どきの院生って考えてみると、だいたい80年に生まれたって27で、80年越して生まれた人って実際たくさんいます。そうすると、僕と山田さんが20ぐらい違って、今いる院生もやっぱ20ぐらい違って、だいたい40年ぐらいかな。
  そして、僕ここの大学院とかで教えたりする中で、いま自己紹介してもらったみたいに、今日は山田さんだからそんな人だ多いというのもあるんだけど、それだけじゃなくてこの研究科で、病気や障害に関係する研究したいっていう人が割合たくさん来て、それ自体は歓迎なんですけれども、話したり、書いたものを見てる中で、「あぁそっかこんなことも伝わってないんだな」とか「知られてないんだ」っていうことにけっこう頻繁に出くわすんです。
  それが100年も200年も昔の遠いどこかのことであれば、それも当たり前かなとも思うわけですけども、そうではなくて、この国に起こった、30年、40年、20年前の出来事であったりしても、やっぱり知らない。端的に知らない。知られてないことっていっぱいあるんだなということは前から思ってまして、よく思うことなんですね。
  それでいいだろうかと。もちろん、人間の記憶容量には限界があるし、世の中にあることみんな覚えていられない。次々に忘れてしまっていいこともたくさんあるに決まってますけれども、そうとばかりも言えないことも、やっぱりこの領域に関しては、この領域に関しても、あるだろうと思うわけです。
  そういった意味で、まず非常にべたな意味で、「この間何があったのかしら」ということを記録にとどめておく仕事がやっぱり必要なんじゃないかということを痛感というか実感する部分がある。日本に限らず、この社会において何が起こって、それが今にどういう形で引き継がれたり、断絶したりしているのか、そういうことが気になる。それはそれとして押さえておきたい。ほっとけばなくなってしまう、薄れてしまう。それでぼつぼつとそんな仕事を始めているわけです。そしてここの研究科が主体になってCOEっていうのを始めている。その仕事の一つとしてもそれをやっていこうという。
  いろんな人に話を聞いたりしていて、昨日も大学院のメーリングリストでは流しましたけれども、数年前にやった横田弘さんとの対談★をひっぱりだして、ちょっと直したりとか、それもその一環なんですけども、そういうことがベースにはあります、まず。

★ 本田勝紀。本田と山田の2人は、1967年、卒業式前日に無期停学処分を受けている(山田[85-89])。共著に本田・弘中[1990]。
本田 勝紀・弘中 惇一郎 19900130 『検証 医療事故――医師と弁護士が追跡する』,有斐閣,287p. ISBN-10: 4641181306 ISBN-13: 978-4641181304 [amazon] ※ b f02
★ ”脳死”、安楽死、終末期医療を考える公開シンポジウム 於:東京
★ 横田 弘。1933生。対談集に横田[2004]。立岩との対談も収録されている。横田弘・立岩真也「2003年7月28日の対談」は収録された対談の一つ前に行われたもの。立岩が、横田さんの過去を聞き出すことだけに熱心だったので本には収録されず、もう一度対談がなされることになり、それが収録された。この、未収録の第一回の対談で、70年代について横田さんは次のように語っている。
 横田「70年のあの当時で、あの時でなかったならば「青い芝」の運動は、こんなに社会の皆から受け入れられなかったと思います。七〇年の学生さんの社会を変えていこうよと、社会を変えなければ僕たちは生きていけないと考えた、あの大きな流れがあったから、僕たちの言うことも社会の人たちが、ある程度受け入れようという気持ちがあったわけですよ。」

  □
  それと同時に、これは話しながらだんだんということなんですけれども、そういう蓄積のされ方とか歴史の経過そのものが、やっぱり日本には日本独特というかな、流れがあって、例えばアメリカ、米国ですね、だと、1950年代にこれこれしかじかの、例えば人体実験をめぐる事件が起こり、それが倫理委員会というようなものに持っていかれ、バイオエシックスっていうある種の学問が成立、確立し、教科書ができ、大学の中にそういった研究所ができたり、学科ができたりする。そういうオーソドックスなというか、学問的な制度化、体系化が起こり、現在に至っている★。
  それは学問の世界の内部にありますから、例えば日本の学者、あるいは学者志望の院生たちが過去をひも解く時、そしてその次を展望していく時に、持って来やすいのはむしろそちら側であったりする。そうするとその医療や医療の倫理をめぐる議論、社会的な動向について何を我々が語るかというと、そっちの方を語るというような状況になっているわけです。
  もちろんそれはそれで非常に大切なことであり、必要なことであるんだけれども、ではこちら側の社会において、そういったことに対応することはなかったのかっていうとそうではないわけですね。ただその形がずいぶんと違う。
  昨日ちょこっと「山田真に聞く」っていう資料★を作り、そこに、「障害の位置――その歴史のために」っていう文章★を書かなきゃいけなくて今年書いたんですが、そこからの引用を少し載せました。引用した場所はとくに内容があるわけじゃなくて、名前が列挙されているだけなんだけれども、その人たちは、アカデミシャンとして、自分の専門領域、例えば倫理学なら倫理学の専門家が専門的な主題として、学問的な場所において、本業としてそういうものを語るっていうふうにしてやってきたわけではない。山田さんにしても、あるいはもっと先輩になりますけれども、毛利子来さん★にしても、町医者として、在野というか市井のというか、そういうとこからものを言ってきた人であったり。
  学者っていうか大学に籍を置いている人たちもいます。たとえば、最首悟★とかですね、宇井純★、亡くなられましたけれども、っていう人たちはたしかに大学にはおりました。しかし大学に疎まれつつ居座って辞めないぞっていう感じでいたわけで、例えば東京大学のその学問の中でああいう仕事をしてきたっていうより、別の形で、自主講座とかですね、活動を展開してきた。それから、出版社に勤めていたり、小学校の先生だったり、なんやかんやっていう形で、むしろ、日本の今記録されておくべきことっていうか、そういうものを担ってきた人たちは、学問の領域にビルトインされた活動ではなく、言ってみれば在野の活動としてやってきたわけです。
  とするとそれは、いわゆる医療倫理なら医療倫理の歴史の中では、それをあらためてどう扱うかというのは、お定まりのように教科書を読み、学術論文を読み、というのじゃ間に合わないというか、そういったところでは捉えられない部分もあったりする。ではどういうふうに捉えるのか、あるいはそれをこれからどういうふうに生かすのかっていうことは、またちょっと別途に考えなければいけない。これってけっこうちょっと難しいことなのかなっていうか、工夫のしようがあるのかなっていう感じがしています。
  ちなみに私は、アメリカって国でバイオエシックスっていうのが学問化され、制度化されたものになったことに関して、向こうは進んでいるけれども、こちらはそういう学問的な体系化が遅れてるっていうふうに捉えてはいないわけで、プラスマイナス、双方に両方があったんだというふうに思っているわけです。そんなことを思っていて、そうしたときにやっぱり前のことを今に至るまでご存知のというか動いてきた人たちに話を聞いて、話ができたらなってことを思ってたわけです。
  それでもっと言うと、この文章に名前を出したような人たちは、僕らにとって、60年の前後に生まれてだいたい80年前後に大学生であったりした人たちのその一部にとっては、先輩っていうか先生っていうか、障害の問題にしても医療の問題にしても、なんか気に入らないことが直感的にあって、何か言わなきゃ、どう言おうかって考えた時に、考えたり思ったりした時に、誰のものを読んだかっていうことを、それがここに僕が名前を列挙したような人たちであるわけです。
  僕が山田さんに実際にお目にかかったのは、2000年をまたいで、この『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』★っていう、なかなか、なかなかじゃなくていい雑誌なんですけれども、山田さんこれの編集の中心を担ってらっしゃるんだけれども、これが10周年記念ということで対談★をしようみたいな話で、今はない「談話室滝沢」で対談しようっていうことになって、それでお会いしたのが初めてで。
  だから、生の山田さんを見るのは、僕が山田さんの本を読みだしてから、20年とか経ってからなんです。だけどそうやって、その人たちのもので育ってきたっていう思いは僕なり僕らの世代にはちょっとあったりします。
  そしてそれには、その時の対談でもお話したんだけれども、ちょっとアンビバレントなとこがあってね。一方では山田さんたちは先生である、僕らがものを考えるときの基礎っていうか、そういうものをもらった。しかしでは、それをそのまんまもらってリフレインしていけば次の話ができるのかというと、たぶんそれはそうじゃない。とするとそれに僕らの世代は何を加えていったらいいんだろうか、何を考え出したらいいんだろうか。これは僕に限ったことでは必ずしもなくて、僕らの世代がそういうふうにして前の世代というかな、継承しようとしてきて、今に至って、たいした仕事ができてるのかどうかわかりませんけど、そんな思いもあったりします。

★ Rothman, David J. 1991 Strangers at the Bedside: A History of How Law and Bioehtics Transformed Basic Books=20000310 酒井忠昭監訳,『医療倫理の夜明け――臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』,晶文社,371+46p. ISBN:4-7949-6432-3 [amazon][boople][bk1] ※ b be
香川 知晶 20000905 『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』,勁草書房,15+242+20p. ISBN:4-326-15348-2 2800 [boople][amazon][bk1] ※
立岩 真也 2001/01/25「米国における生命倫理の登場」(医療と社会ブックガイド・1),『看護教育』42-1(2001-1):102-103
★ 参考資料
★ 立岩 真也 2007/03/31 「障害の位置――その歴史のために」,高橋隆雄・浅井篤編『日本の生命倫理――回顧と展望』,九州大学出版会,熊本大学生命倫理論集1,pp.108-130,
★ 毛利子来 1929年生 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%AD%90%E6%9D%A5 HP『たぬき先生のお部屋』http://www.tanuki.gr.jp/  「学術的」な著作に毛利[1972]。
毛利 子来 1972 『現代日本小児保健史』,ドメス出版
★ 最首悟 1936年生。著書に『生あるものは皆この海に染まり』(最首[1984])、『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害者の娘との20年』(最首[1998])他。
★ 宇井純 1932年6月25日〜2006年11月11日。
★ 『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』
★ 立岩 真也・山田 真 2004/04/20 「明るくないけど、変えることは不可能じゃない――「弱く」あることのススメ」」(対談),『子育て未来視点BOOK・下』,pp.62-67,ジャパンマシニスト社 http://www.japama.jp/ http://www.japama.jp/cgi-bin/detail.cgi?data_id=163

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  というわけで前置きが長いんですけども、そんな関心が僕にはあって、それは今回の雑誌の特集にも関係があるだろうし、それから今年度から始まったCOEの企画の一部にも位置づくだろうし、てなわけでですね、遠渡はるばる東京、東京もけっこう西の方だったりするので、東京駅までけっこうかかっちゃうんですが、西東京市というという、昔はなかった地名がいま、東京にはあるんですけれども、そちらから山田さんにお出でいただきました。そんなわけで、ちょっと最初に演説をしてしまいましたが、どっからいこうかな…。
  山田さんの本はもっとほんとは、強烈に大量にあるんですけれども、うちの院生の生田がたぶんみんな持っていっちゃたりしているので、生田さんっていう院生が、こないだ山田さんにインタビューさせてもらったりして、そのときに勉強しとけって言って本貸したら、そのままなんで、このぐらいしか残ってないのですが。たとえば、ちょっと昔話で行くぞっていう感じだと『闘う小児科医』★っていう本が出てて、これはおもしろい人にはけっこうおもしろいんですよ。
  山田さんのだいたい大学入ってからのことが書いてあるんですね。そうだな、どっからお伺いしましょうか。例えば、さっき言った本田さんにしても山田さんにしても、41年生まれっていうのは、いわゆる団塊の世代の手前ですよね。あの世代は45から50年ぐらいの間に生まれた人たちじゃないですか。人文社会の領域だと、たとえば、今阪大の総長やってる鷲田清一★だとか、あるいは、今東大にいる上野千鶴子★であるとか、あの辺がだいたい48年生まれですよ。だからちょうど僕の一回り上なんですけれども。あの連中がちょうど、18、19とかの時に68年69年っていう時期なわけで、いわゆる全共闘世代というと、あの辺になるわけですね。ただ山田さんもうちょっとそれよか上ですよね。これは理系っていうかあるいは医学系っていうのは、もともと学校にいる時間が長いので、ずっと居座ってるとその端っこの方で、68、9年が来ちゃったっていうかんじのとこが。最首さんはちょっと体を悪くしたりして、その分なおさら学校にいる時間が長かったりしたってのがあるんですけれども。人文社系の全共闘世代の連中がまさにその当時の団塊の生まれであったとすると、山田さんにとちゃ、ちょっと、それかもうちょっと上の人たちが、かすったっていうか、はまったっていうか、そういう時期だったと思うんですよね。だからそういう意味で言うと、純粋にというか団塊の世代の人たちとは違うんだけれども、ただとにかく67年8年9年ってあたりに引っかかっちゃったっていう人たちです。
★ 山田 真 20050725 『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社 ,216p.  ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon] ※ b
★ 鷲田清一 1949年生。
★ 上野千鶴子 1948年生。
  これはご存知の方とまるっきりご存知の方じゃない方といるんだけれども、もとはといえば、医学生が終わって大学なり医者になっていく者の身分保障というか、インターンならインターンどうするかっていう、そういうあたりから闘争が始まっていくわけじゃないですか。それはそれでその学生が、これから自分の人生どうやっていくんだと、あるいはその大学の教員との関係でどういう力関係でやっていくんだっていう、そういう意味で言えばわかる話ではありますよね。それがもめて、いろんな偶然的な事情も重なって、もめて、話が大きくなっていく。
  それはそれとして、そういうことってあったんだなと思うんだけれども、それがその当時起こっていた医療をめぐるいろんな社会的な動向みたいなものと連接していくっていうんですかね、そのつながり方、つまり、自分たちの医師としてのあるいは研究者としての身分の保障であるとか、あるいは大学の機構改革みたいな話ともっと違うとこで起こっている、水俣であったり、スモンであったりするんだろうけれども、その辺の連続というか非連続というか関係みたいなのがね、どんなふうに起こってきたのかっていうあたりから、ぼつぼつと思うんですけども、いかがでしょうか。

◆山田:僕はね、大学へ入ったのが61年で、だから60年のその大騒ぎになっている状態は、横にいて、横目でみてたんです。61年に入った時の大学ってのは何にもない。なんか荒涼とした状態で、要するに当時の安保ブントが負けて、撤退したわけじゃなくて潜ったと思うんだけども、要するに雌伏にかかったころで、だから本当になんにもなくて、だから私なんかもどっちかっていえば、民青系の運動みたいな方に近付いたりなんかしてたんだけども、とにかくあんまり何にもない時期だったんだよね。
  ただその60年のその負けた連中の中で、それこそ十年単位で考えてた人たちがいて、要するに雌伏十年でもう一回次の安保改定のときに革命起こそうみたいな部分が残っていて、それがやっぱりなんというかいろんな形でアプローチしてたっていうか、自分たちの後継を作ろうみたいな動きをしてたんだと思うんだよね。それはあんまり具体的にそのころはわからなかったんだけども。
  だから、たんにあのころインターン闘争っていってインターン制度に反対したっていうのは口実みたいなものであって、実際に不満があったとかなんかっていうよりも、学生たち、われわれ医学生なんかのレベルで言えば、なんかとにかくなんか言いたいことがいっぱいあって、なんか言えるようになったから言おうって感じだったんだよね。インターンは口実だったと思う。
  それ以前に私なんかは、社会保障制度に対する論争みたいなのがあってね、これはやはり医学生運動っていわれる「医学連」★っていう組織を中心にした政治的な運動と別に、「医学生ゼミナール」っていうのがあって、それでそれが毎年やられていてね、僕なんかはやっぱりそれで影響を受けるっていうのが大きかったと思うんだけど。
★ 「「医学連」は「全国医学生連合」の略称で、それは全国の医学部学生の”闘う組織”でした。組織の中心には「ブント」という新左翼の党派の人たちもいて、彼らが東大闘争についての実質的な指導をしていたのでしょう。
  「ぼくは「なんとしても革命を起こさなくては」というところまではまじめに考えず、「世の中の理不尽さがいくらかでも正されれば」程度の思いで活動していましたから、「党派の連中にはついていけない」といふうに思っていました。しかし…」(山田[126])→時計台占拠
  個人的に一番インパクトが強かったのは、大学4年のときのゼミナールで、竹内芳郎★が来てたんだけどね。竹内芳郎はもうまったく難しくてわからない話だったんだけども、西村豁通(ひろみち)★っていう同志社の経済学だろうね、教授が来て、社会保障制度について、今でいえば、福祉国家論みたいなものを言って、結局その日本の健康保障制度なんかも、もとはドイツの社会保障政策の上に連なるものだから、飴と鞭であって、社会保障制度という飴を与えて、それで別の形で搾取していくっていうその国ありようの中のひとつの制度だっていう話を西村さんがして、それでそれはなんか非常に衝撃的だったっていうのはあるんだよね。
★ 西村 豁通 1961 『社会政策と労働問題』,ミネルヴァ書房,184p. ASIN: B000JALO1U [amazon] ※
――――― 1970 『増補 社会政策と労働問題』,ミネルヴァ書房
額田 粲・西村 豁通 編 1965 『日本の医療問題』,ミネルヴァ書房,294p. ASIN: B000JACZ5O [amazon] ※
  だから具体的な運動じゃないけれども、五月祭なんかで、保険制度、健康保険制度についての分析はやったりなんかはしていたので、インターンの問題からはあんまり社会的な問題にはいかないっていうか、あれ要するに身分の問題で、医者の労働収奪だって言って、医者も労働者だと規定してね、労働者で働いてるのに学生扱いされて給料もくれないのもおかしいって言ってたんだけれども、でもそれは、実際にはほとんどみんなバイトをやって、けっこういいお金をもらったりなんかしてて、生活やなんかにとくべつ困っているわけでもなかったしね。だからそのこと自体から、インターン反対運動みたいなものから学ぶっていうものはあんまりなかったんだけども、別の形でそういう医ゼミっていってたゼミナールなんかで学んだものっていうのはあった。
  それから要するに、実際に、70年に、なんかの形で蜂起しようって考えてた人たちは、やっぱり革命を目指すわけだから、だから国家のことを考え、世界情勢みたいなものを一生懸命吹き込んだりしていたので、それなりに開かれたっていうところはあるんだけど、結局そのインターン制度反対っていうこと、あるいは大学の機構改革だとかなんかっていうようなところまでしか考えなかった人はそれで終わりになっちゃった。運動終わったら、それ以上の展開がなかったし、普通の人になってしまったんだけども。そういうベースってのは一つはあったと思うね。
  いろんな運動がでてきたのは、あれまでやっぱり日本では異議申し立てをするっていう、抑圧される側が抑圧する側に対して公然と異議申し立てをするみたいなことっていうのが、あんまり見たことがなかったんだけど、それはやってもいいんだっていうことになったっていう、たとえば患者が医者に対して何かものを言ってもいい、学生が教授に対して、「バカヤローお前なに言ってんだ」っていう形でものを言ってもいいっていうのが見えたから、だからそういう意味ではその今まで抑えてた、そういう異議申し立てをしたいんだけどもできないっていうか、そういうことは日本ではしちゃいけないんだみたいなものが崩れてね、それで一斉にこうでてきたっていうふうに思うんだよね。
  ちょうど確かに公害だとか、経済成長による矛盾みたいなものがいっせいに出てくる時期でもあったし、やっぱり日本の一つの転換点だったと思うんだけれども、その森永ミルク中毒★なんていうのはやっぱり転換点の事件であることは確かだと思うんだけれども、そういうところで、だからあれが、学生の運動がなかったらやっぱり被害者の運動ってああいう形にはならなかったと思うけど、被害者自身がものを言うっていうんかな、そういうものがでてきて連動したんだと思っている。
★ この事件はいったん1956年に終結させられることになる。1969年に丸山博(大阪大学医学部)の日本公衆衛生学会での報告を期に、運動が再開される。丸山の著作集が出ている(丸山[  ][  ][  ])。この事件について何点かの書籍があるが、みな絶版になっている。
・(財)ひかり協会http://www.hikari-k.or.jp/
「ひ素ミルク中毒事件」http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e1.htm
「事件史年表」http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e2.htm
 この年表によれば、日本小児科学会「ヒ素ミルク調査小委員会」設置決議がなされたのは1971年。
・森永砒素ミルク中毒事件文書資料館(〒700-0811 岡山市番町1-10-30 Tel.086-224-0737)『森永砒素ミルク中毒事件』http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/hiso.htm 「丸山教授らは,日本公衆衛生学会をはじめ,日本小児科学会,日本衛生学会にも働きかけ,各学会もそれを受けて後遺症の調査,対策を目的とした委員会を発足させた.」(東海林・菅井[1985])  http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe5_d04.html

◆立岩:たとえば60年安保っていうのは確かに体制に対する反体制運動ですよね。すごく大きいものとそれに対するアンチの運動があって、それはそれであったと。でも今おっしゃったのは、たとえば大学なら大学っていう組織の中で、下のもんが上のもんになにか言ってもいいとか、医療っていう関係の中で患者が医師に対してなんか言ってもいいっていう、もうすこし中規模とかマイクロな、もう少し小さいレベルで文句言ってもいいぜ、なんかその二つのね、文句の言い方って若干違うかんじするんですよ。
  今の話でおもしろかったのは、でもバックにはそういう60年安保うんぬんからってあるその社会をどうするかって流れがあったから、その時の運動っていうか動きにもつながったっていう、そういう話が一つでしたね。
  で、ちょっと具体的な話すると、その辺のとこ詳しく知らないんだけれども、60年の運動だと、医学系ていうか理系だと、島成郎★さんとか、ああいう方々っていうのは、視野に入っていたっていう記憶はあるわけですか?
★ 島成郎 著書に島[1997]等。
島 成郎 19970925 『精神医療のひとつの試み 増補新装版』,批評社,405p. ISBN:4-8265-0236-2 2625 [bk1] ※
◆山田:島さんなんかはないね。それを継承する人たちの部分っていうのが、我々の、具体的に言うと1年上にひとり、サイトウさんっていう人がいて、彼がそのオルガナイザーとしてやってたので、だからその後ろに、後ろで島さんたちが何をしてたかどうかとか、なんかってのは知らない。島さん自身はあんまりやってなかったんじゃないかと思う。
◆立岩:そうだと思いますけどね。60年ばっとやった後、表からは退いてますよね。
◆山田:そう思うよ。精神科の運動が始まってから、ときどき顔を出してたけれども、それ以上のものではなかった。
◆立岩:そうするとね、そのバックには、そういった体制なら、社会なりを、やっぱなんかの形で、問題だって、問題にしようって動きがあったからこそっていう話はそうだなって思うんですけども、それと、たとえば大学、医局、医学部っていう組織の中で、下のもんが上のもんにとか、素人が素人じゃない人に文句言ってもいいぜみたいなものっていうのはね、どうなんでしょう、それは、どんな気分としてというかね。つまり、安保反対ってみんなで言って、国会取り巻くっていう、そういうのってのは、うまくいかなかったにしてもあって、そういうのありだっていうのは、60年安保とかの時点であったと思うんですよ。そうじゃなくて、学校の先生に言っちゃおうみたいなっていうのは、なんとなくそれはそれでありだなってかんじででてきたのかしら。
◆山田:とにかく医学部の世界なんていうのは、ものすごいヒエラルキーだったし、それはほんとに『白い巨塔』に書かれている世界そのもので、今もあんまり変わってないかな、悲しい話なんだけどね。なんていうかな、とにかく教授の権限ものすごく強くて、ほんとに、たとえば学生のときにもうすでにあいつは教授になるっていうのが決まってるような、結婚式でそのだれだれのよう教授が晩酌をしたかしないかみたいなところで、もう出世が決まってしまうとかっていう、そういう世界だったのね。
  医学部ってところはまた特別なところで、一番出世からビリまで、非常にはっきりするところなんだよね。全員とにかく同じ職につくっていうのは異常なことだと思うんだけれども、とにかく全員医者になるわけだよね。以前だと作家になった人とか芸術家になった人とかいるわけだけれども、今はもうほとんどそういうのいなくて、全員医者になってしまうと。しかも、大学に残って大学のプロフェッサーになるのが偉くて、開業医になるのはだいたい挫折したやつがなるっていうのがもうはっきりしていて、しかも普通は、ある時期までは一番最初に東大の教授になったやつが一番出世でっていう、途中からはその順番が関係なくなって、要するに大きい科の教授であるか、小さい科の教授であるかとかっていうことになるんだけど。でもとにかく同窓の中で誰が一番で誰がビリっていう、はっきりランク付けができてしまうような社会なんだよね。
  で、それはだから、やっぱり、いろんな不満はあったわけだし、言うことはいっぱいあったよね。で、そういうものが、たまたまそのインターン制度の反対運動みたいなことやったら、非常にみえてきたから、やっぱりそれに対しては、そのなんていうかな、それは一斉に声があがったっていうことはあるよね。
◆立岩:でも、そういうヒエラルキーみたいなのが、ちゃんとうまく機能してるぶんには、そういう仕組みだってことが、みんなわかりつつ、それがまさに円滑にずっと作動していくっていうこともあるわけじゃないですか。実際そうだったかもしれないけど。なんか偶然的なこともいろいろあったんでしょうけれども、それに対してそうじゃないかたちみたいなものが出てきうるというか、出てきてしまった。
◆山田:だけども、全体としては、非近代的な医学界の構造みたいなものをどうするかっていうところでとどまってしまったから、あれなんだけど。
  でもその部分部分にね、たとえば、あんまりたいした運動にはならなかったけれども、当時、学用患者っていう人がいてね、学用患者っていうのは、入院するときに、学用患者って契約を、学用患者としての誓約書みたいなものを書くっていうことで、要するに入院費はただになるけれども、その代わりに、いくら人体実験してもかまいませんっていう、そう人たちが入院してたんだよね。そういう人たちに会った時にすごいびっくりして。要するに入院費をただにしてなにやってもいいって話だから、かなりひどい実験があって、コレステロールが増えるかどうかを調べるために、30日間ほとんどチーズだけ食べさせてるとかね。それはね、やっぱり、とにかくあれはひどかったと思うけどね。そういう状況なんかがあって、そういうことっていうのはね、なんかもうほんとに、平然と行われているいるっていう事態があって。三一書房でウエルスアイリフっていう、ロシア革命のころの医者が書いてる『医者の告白”っていう本★があってね。
★ ウェレサーエフ=19551230 袋 一平 訳,『医者の告白』,三一書房,253p ASIN: B000JB21SY 150 [amazon] ※
◆立岩:あそこ(資料棚)にありますよ。
◆山田:あるんだ。懐かしい。ずっと読んでないけど。やっぱり「あぁこれだよ」っていう感じがあって、それでそれはやっぱり、医者たちがそうやって自分の権威性みたいなものっていうのを、ほとんど認識できないかたちで患者に接しているっていうか。それがやっぱり、授業の中でも普通の日常の医療の中でもあるっていうことがあって、だから、その辺でその問題性に気付いたのは、やっぱり大学の中ではどうにもならないと思って出てったのかもしれない。そこを考えたのは、出てって何かやることになったからかもしれないんだけども★。



◆立岩:その時代のコンテクストなんですけどもね、たとえば医療倫理の歴史について、通俗的な教科書ってっどう書くかっていうと、ニュルンベルク裁判があって、人体実験が裁かれて、それでうんぬんかんぬんっていう話になっているんですけど、ただこれ、アメリカの場合みても、ニュルンベルク裁判自体が医療界に具体的にインパクトを与えたかっていうとそうじゃなくて、あまり響かなかったっていうか、そんなこともあったろうねって程度だったっていうんですよ。ストレートに第二次大戦のナチスの話がきたわけじゃない。あくまでよその話だった。
  それが、アメリカだと50年代にアメリカ国内での人体実験、本人の同意を得ない人体実験をそれを一部の医師が告発というか提起していくと。それも、『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』といった権威のある学会誌を舞台にしてそういったことをやっていく。それが社会的な関心を引き起こすっていう、いったん大戦の話と切って、その国固有の話として、そしてアメリカの場合はアカデミズムの媒体を場として、出てきたんだそうです。そこのところはどうなのかな。
  日本の場合にね、どういうふうにどういう場であったのかなっていうのはちょっと気になるところはあるんですよ。それは最初に私が申し上げた、この間の運動がどこを場として行われてきたのかってことに関係があると思うんですけども。たとえばちょっと具体的なところからいくとね、ちょっとよくわからないのは、第二次大戦時に日本でなされていたこと、たとえば731部隊のことがどれだけ眠ってて、いつごろどの範囲に広がっていったのかという話も一つあります。それも一つある。中川米造先生なんかが気になりだしたのはそのへんだっていう話を間接的には聞いたことがあるんですね★。それもある。
  たとえば、第二次大戦におけるドイツのT4作戦って言われてるものについての本格的な研究書の日本語訳が出るのは、もう90年代なんですね。たとえばクレーっていう人のこんな本が今でてますけれども★、それまでそういうものはない。その当時において、ドイツにせよなににせよ人体実験みたいなことも含めた情報というか知識というか、どういうふうにどの程度伝わっていたのか。当時の運動に何かしらの影響を与えたとかね、そういったあたりはご記憶にある範囲内ではいかがですか?
◆山田:いやなかったと思うよね、あんまり。九大では生体解剖をやって問題にはなったけど★。だけれども、もっと身近なところで、69年に、東大の中で、高圧酸素タンクが爆発して、それで医者と患者さんが、医者が2人と患者さんが2人死んだことがあるんだよね。それは、留学生の人が日本へ来てて、留学期間が決まってて、その期間の間に博士号をとって帰らなきゃいけなくて、期限がせまってるんだけど学位が取れないと。で、教授に相談したら、たまたまその教授がその高圧酸素タンクを使っての治療を自分の成果にしたかったんだけど、あぶないものだから手をつけなかったのを、やってみろっていうふうに言われて、それでその高圧酸素の中に入った、タンクの中に入ったんだけども、患者さん自身はそのほとんどやる必要のない退院間際の人を無理矢理説得してその中へ入れて、で、金属製品を持ってると爆発することがあるんだけども、持って入ってしまって、それで爆発して4人死んだんだよね★。
  それはね、いかにも当時の大学にありそうな事件であって、普遍性を持ってたと思うけれども。我々が追及したのは、脳外科だったんだけど、脳外科の教授ってのはものすごい悪いやつで、だから脳外科の教授を攻撃するための材料にそれを使ったのであって、実際に中へ入ってしまった医者だとか患者さんのことについて考えるっていうことはなかったと思うよね。やらせた教授の問題じゃなくて、それは学位の問題みたいなものも含まれるとは思うんだけれども、そういう学位の問題とか、それからやっぱりそういうことのために患者さんをひっぱりこんでしまうことだとか、それからあるいは留学生に対する問題だとか、いろんな視点があったはずなんだけど、そういうのが出てこなかったね。
  だから、ほとんどやっぱり教授をどうやっつけるかっていう、大学をどう攻撃するかっていうことだから、もう少しそこをきちんとやれば、べつにその教授だけが悪いんじゃなくて、我々だって同じように手を汚すんだっていうところへ行けたんだろうけど、それはついに行かないままで終わってしまった。という、だから告発者としての位置っていうか、告発者として自分の方へもう一回、目を向けてみるっていうことができなかったんだよね。で、それは、あえて運動中心的にやっている人がさせなかったのかもしれない、っていうか、そんなところでウジウジしているんじゃなくて、要するに、だからそこがきっかけでもう一本釣りして革命家の方へっていうふうに、一方では考えられていたわけだから、だから、問題設定がそもそもはれなかったっていうことはある。
◆立岩:ちょっと今回の話の文脈そのものと中心ってわけじゃないんですけど気にはなっていて、たとえば、僕らだとギリギリ読めたのだと73年ぐらいだと思いますけど、大熊一夫が『ルポ精神病棟』★っていう本を出して、あれはかなり話題になったと思うんですね。で、あれはやっぱりあの時期それなりの影響力を持ったと思うんですよ。あれ僕も読んで、それからまた20年ぐらい経ってちょっと読み直してみたときに、すこしナチに関する言及があるんです。で、元本が何なのかなって思ってちょっと見てみたら、ベルナダクっていうフランス人が書いて、67年に原著が出て、68年かな、なんかに翻訳、早川書房かなんかから出てる本★に言及している。それは基本的には人体実験のお話なんですよ。一番最後のところに、T4作戦っていう、言葉そのものにはそこに出てこないんだけれども、障害者の抹殺の話が最後の章に出てくる。そういう意味でいくと、その部分の知識というか、みたいなものが、当時どの範囲であってっていうあたりがね、当時を生きてた人たちに会ったらきくことにしてるんだけれども。やっぱりそんなにメジャーなことではなかったのかしらね。
◆山田:ほとんどなかったと思う。
◆立岩:刑法学者の平野龍一とか、ああいう人の本にもちょろっとは出てくるんですけど★。そのへんの世界史的な流れとの連続、非連続みたいなものがどの程度あったのか、すこし気になるもんですから、ちょっとお伺いしてみたんです。

★ 中川米造 1926年〜1997年。以下は中川の弟子である医療人類学者の池田光穂の講演から。
 「彼は1945年つまり昭和20年の4月に京都帝国大学医学部に入学します。彼をパニックに陥れたのは、731部隊に関与する医学を専攻した武官が言う、「医学とは人の病気を直すものではない。今時の戦争を遂行するためのものである」とか。「お前たち医学生は、誤って静脈注射に空気を入れることがいけないと思っているが、そのような科学的根拠を知らないだろう。だが我々は知っているのだ」と言いながら、恐らく大陸で撮影された人体実験の16ミリフィルムを上映し、数ミリリットルの空気の静脈注射では死なず、何百ミリリットルの空気を入れた被験者が死んでゆく様子を通して教育したといいます。あるいは次のようなエピソードもあります。「お前たちは、人間の首を切ったら、どの角度で血が飛ぶか知っているか?」というわけで実証主義ならぬ実写が上映されたということです。血も凍るこのような情景をその教官たちは、医学生たちに見せて「教育」していたのです。もちろん、それから4カ月後にくる日本の敗戦でこのような「教育手法」は終わりをつげました。」(池田[2003])
★ 東野利夫『汚名――「九大生体解剖事件」の真相』(東野[1979])、上坂冬子『生体解剖――九州大学医学部事件』(上坂[1979])、その新版として『「生体解剖」事件――B29飛行士、医学実験の真相』(上坂[2005]、新たに加えられたのは全2頁の「『新版「生体解剖」事件』によせて」)。
★ 山本俊一『東京大学医学部紛争私観』(山本[2003])に以下の記述、引用があり、続いてこの行動に反対する側の決議も紹介されている。
 「4月11日午後2時頃、共闘系学生達が、突如、脳神経外科を封鎖し医局内に座り込み、次のようなビラを配った。「われわれ医共闘・青医連は、なぜに脳外科の医局・外来を占拠したのか。それは、あの4月4日の高圧タンクの爆発が、単に偶発的なものであったのではなく、現在の学会至上主義、売名至上主義に走り、自己の利益増大のために、患者をモルモット代りにする、医局社会の腐敗と病院の営利化・合理化に根源を持つ人的・物的な安全保障の欠落によるものであることを、実践をもって万人の前に明らかにし、ブルジュア新聞と結託して4人の死因を闇から闇に葬り去ろうとしていく売名主義者差の(脳神経外科主任、教授)と医学部当局を、徹底的に糾弾するものとして、遂行するものである……」」(山本[2003:203])
 「東大病院で酸素タンク爆発」http://www.geocities.jp/showahistory/history05/topics44a.html  「昭和44年4/4午前12時40分、文京区本郷7−3−1の東大医学部付属病院中央診療部東側1階の救急入口脇の高圧酸素治療室で、高圧酸素タンクが爆発、中にいた患者女性2人(65、56)と脳神経外科の男性助手(32)、男性医局員の合わせて4人が死去。高圧酸素タンクは100%の酸素を2、3気圧に加圧、患者に吸わせて、血液中の酸素濃度を高めて脳循環を促進するもので、全長4メートルだった。タンクの中から助手が電源を切るように覗き窓ごしに指示していて、切ったが爆発したという。助手が眼底カメラを中に持ち込んでおり、電流がスパークして引火爆発したらしい。」
 http://autofocus.sakura.ne.jp/data850/1960nendai.html
 「4月4日 東大病院高圧酸素治療室で爆発がおこり治療中の患者2人と医師2人が焼死した。原因は治療用電流の流しすぎらしい。」
★ 「山本俊一氏は著書のなかでこう書いています。
 「U内科事件は研修生、学生と医局員との間の争いで、教授会は中立の裁判の立場にあった。『喧嘩両成敗』の原則に立って、双方に対して、<0117<軽く譴責処分をして置けばこれが東大処分にまでエスカレートすることもなかったであろう。でも、教授会は研修生・学生だけを処分する片手落ち(原文ママ)の方向に動いたのである。」
 この文章は『東京大学医学部紛争私観』(本の泉社)という本からの引用ですが、この本の著者である山本俊一さんは、当時、東京大学医学部公衆衛生学の教授をしておられました。ご自身が学生だった頃に学生運動をなさっていたというような噂を聞いたこともあり、教授という立場にあってもぼくたちの運動を理解しておられたことが、この著書を読むとわかります。ぼくが処分を受けたときも、また今回の事件に対する”処分会議”の席上でも処分には反対と発言しておられたのです。
 しかし、当時ぼくたちはそのようなことかわからず、「温厚そうな顔をした山本教授にだまされてはいけない」というふうに思っていました。そんな誤解をいま、山本さんにおわびしなければなりません。
 さて、山本さんの著書では、その後の大学側の対応もくわしく書かれて<<います。」(山田[2005:118-119])
 その山本の著書『浮浪者収容所記――ある医学徒の昭和二十一年』(山本[1982])での記述は以下。
 「おそらく私たちは[…]九月末日に卒業することになっていたのらしいのであるが、八月十五日に突如として終戦が来た。これが私たちにもたらしたものは、<0006<眼の前に来ていた卒業が、無条件に延期されたということであった。さらに工合の悪いことには、その後しばらくして占領軍の命により、卒後研修すなわちインターン制度の実施が追い討ちをかけるように私たちに課せられることになった。
 これに対しては、その後私たちはほとんど全員で反対運動をすることになるのであるが、結局は占領軍命令として実施されることになってしまった。ただし特例として、その期間は今回に限り一年のところを、半年に短縮するということであった。
 いずれにしても、この一連の措置によって、私たちはいわば、大学からは閉め出され、社会からは受け入れてもらえない、中途半端な状態になり、全く途方にくれることとなった。というのは、すでに卒業試験は終わっているので、当然のこととして、大学側は私たちのために授業をやってはくれない。しかも、卒業は認めてもらえないので、それまでの一年余は、それぞれ適当に自活して、時期の来るのを待っていなければならない。終戦直後の最も社会が混乱したこの時代にあっても、学生という身分はこの上なく不安定であり、一方的に卒業時期の変更を申し渡されただけでなく、さらに医師の資格を獲得するために、インターン研修と国家試験という新たな条件を課せられた私たちの不安は、非常に大きいものであった。」(山本[1982:6-7])
 この年鴨居引揚者収容所でアルバイト。それもきっかけとなり「在外父兄救出学生同盟」で活動。厚生省が管理していた軍病院の薬品の提供を求めて厚生省の薬務課と交渉。課長に提供の約束をとりつける。
 「それから二十余年を過ぎた昭和四十三年に、東大医学部に大きなストライキが起こり、学生たちが教授団に対して大声を張り上げて私たちを難詰する学生を見ながら、私が薬務課長を追及した当時の光景を思い出していた。立場が全く逆になってしまったが、その間の時間の流れは長かったようでもあり、また、短かったようでもあった。」(山本[1982:29])
 在外父兄救出学生同盟は1947年には消滅。山本は浅草東寺本学時更生会で活動。1947年医師国家試験合格、同年東京帝国大学衛生学教室助手、1965年東京大学疫学教室教授。1983年定年退職。その後聖路加看護大学副学長などを努める。日野原重明、アルフォンス・デーケンらと「死生学」に関わる。『死生学のすすめ』(山本[1992])、日野原重明・山本俊一編『死生学・Thanatology 第1集』(日野原・山本編[1988])等。
 『わが罪 農薬汚染食品の輸入認可――厚生省食品衛生調査会元委員長の告白』(山本[1998])
 「私は短い人生の中で大事件に遭遇したことが三度ある。
 第一回目はホームレスの人たちの病気を治すために、東京浅草の浮浪者収容所に住み込んだ。この記録は単行本として残した(『浮浪者収容所』中公新書)
 第二回目は東大紛争である。この記録は医学雑誌に掲載した。
 第三回目は食品衛生調査会の委員長になったことである。私は昭和五三年当時の厚生大臣に農薬汚染輸入食品を認めるよう進言した諮問委員長を務めた責任がある。
 最近HIVウイルス汚染血液製剤の輸入を認めるよう大臣に進言した委員長が叩かれたので恐れをなしたわけではないが、良心が咎めるので自ら告白しようと思った次第である。
 この本の表題は、もともとは『価値の狭間で』と名づけるつもりであった。「経済的価値と健康的価値の狭間で」という意味である。人間にとって経済も健康もどちらも高い価値を持っているが、世の中の人は目先の経済を優先する。
 私の専門は「衛生学」である。「生を衛る学問」と書く。特に最近の経済優先の世相を苦々しく思っている一人であり、そのために本書を書いたといってよい。」(山本[1998:2])
★ 大熊一夫『ルポ・精神病棟』(大熊[1973])
★ Bernadac, Christian 1967 Les Medicins: Les experiences medaicals humaines dans les camps de concentrations, Editions France-Empire=1968 野口 雄司 訳,『呪われた医師たち――ナチ強制収容所における生体実験』,早川書房,262p.,ASIN: B000JA5B96 [amazon] ※→19790815 ハヤカワ文庫,265p. ASIN: B000J8F8NW [amazon] ※ b e04 eg eg-ger
★ 平野龍一 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E9%BE%8D%E4%B8%80
 「……第五のカテゴリーとして、いわゆる「不任意の安楽死」がある。これまで述べた安楽死の場合には、患者の方も死にたいと希望する場合があるけれども、そうでなく、希望しないものを殺してしまうという行為が、場合によっては不当にも安楽死という名前で呼ばれることがある。ナチスの時代に行なわれた「安楽死」がそれである。北杜夫氏の「夜と霧の隅で」などにも描かれているが、戦時中ドイツでだんだん食糧も少なくなるし、国民はすべて戦争に動員しなければならないというので、一九四一年にヒットラーが命令を出して、ブラントという医者に対して、その指定した医者はかなりひろい範囲で、もはや生きる価値がないと思われる精神病者などに対して、「情けの死」を与えることを許したのである。その結果、精神病者や不具者など約二七万五〇〇〇人が殺されたといわれている。これはさすがにその当時ドイツでも反対が強かったので、まもなくヒットラー自身が、この命令を撤回したのであるが、戦後、人道に対する罪として処罰され、あるいは殺人罪として処罰された。
 しかしこの不任意の安楽死という考え方はナチス以前から、すなわち一九二〇年ごろ、すでにドイツで主張されていたことに注意しなければならない。一九二〇年というと、第一次世界大戦の社会的な困窮の時代であったわけであるが、この時代にもまったく生きる価値のない生命まで、貴重な物資をつかって養う必要があるかという疑問があったのであろう。有名の刑法学者のビンディングと精神医学者のホッヘなどによって、生きる価値のない人に対して「情けの死」を与えてもいいという意見が述べられたのである。この考え方がナチスの時代に政府によってとり上げられ、政府によってとり上げられ、大規模に行なわれたということになるであろう。そしてそれがさらに拡がって、精神異常者や不具者のような者だけではなく、ドイツ民族以外の者とくにユダヤ人は生きる価値がないとされてしまったのではないかと思われる。」(平野[1966→1997:50])
平野 龍一 1966 「生命と刑法――とくに安楽死について」,『刑法の基礎』,東京大学出版会:155-182→町野朔他編[1997:046-051](抄)



  それで、どうせ話は前後するでしょうから順不同で聞きますと、こないだの東京であったその前か、電話くださって話したときにね、今日お話した話ですけど、要するに当時あったことっていうものがやっぱり、わかってないっていうか知られてない部分いろいろあると。今日学校来たら本が届いていて。これは『水俣50年』★って、これは和光大学で最首さんたちがやった講座の記録ですけれど、開いてみたら、山田さんがまたでてきたと思ったんですが。水俣に関しては、それでも足りないってのはあるとは思うけれども、それなりに、原田正純さん★とかいろんな人がずっと長いこと追ってきて、本も出て映画も撮られっていうことがあるじゃないですか。けれども、他考えたときに何があるかなって。
  その当時、スモンにしてもいろいろあった。だけど、ほんとに一部が取り上げられて、その部分はある程度知られているかもしれないけど、そうじゃない部分がある。なおかつ、その時点において、たとえば60年代において70年代において、起こったことはその時点では語りにくいような出来事でもあったりして、語りにくい間に語らなかったからそのままになって、結局ずっと語られないみたいなことが、いくつもあった。
  で、何が語りにくいかっていうと、たとえば同じ原告っていうか告発する側の内部における意見の対立であったり齟齬であったり、そういったものは確かに裁判において原告の利になりませんからね。内輪もめとか内部対立みたいなものですから。それを出さないのは当然のことだと思うんです。戦術としてね。ただいつまでもそうであってよいことはない。森永の事件・裁判においても、ずいぶんいろいろあったんだけれどもっていうお話、お聞きしたこともありますし、この山田さんの本の中でも一部分取り上げられてる★。これは、微妙なものを含むかもしれないので、雑誌に載せるとか載せないとかっていう話は後で考えるというか見ていただくとしてですね、そういった、あったことは知ってる、教科書にその事件があったということは述べられている。しかし、その事件の内実というか、内部で起こったことが明らかでない、さまざまな…。
 たとえば、森永ってあったことは知ってますけど、50年代に始まって、ある種の解決があったのは70年代で、20年弱続いた出来事だっていうリアリティが僕自身もなかったんです。そんな程度のものなんですよ。我々の世代以降っていうのは。ということで、当時に始まっていたんだけれどもなかなか中でいろいろあったりもした出来事ですよね。たとえば、森永ってどうだったんだろう。
◆山田:森永が最初だったんだろうね。安田が落ちて、その主力が捕まっちゃって、で、我々1年先輩が上だったから残ってたわけだけれども。で、残ってる部分で、とにかくなんか運動続けていかなきゃっていうふうに思って、それで、いわゆる活動家が、当時で言えば学生と労働者がひっぱってっていう運動がもうちょっとできなくなってるから、これはもう市民運動に依拠するしかないだろうっていう感じになって、それで、その高橋晄正(コウセイ)さん★をひっぱりだそうということになって。ちょう高橋さんが医療告発を始めたころで、だけど高橋さんってどういう人かよくわからなかったのね、当時は。共産党系の人だろうっていうふうに思ってたっていう。
  晄正さんが東大闘争の中に登場してきたのは、一番最初に東大闘争のきっかけになった、春木事件っていう事件で処分された処分学生の中に現場にいなかった、当日九州へ行ってたやつが現場にいたということになって処分されてしまったっていうことがあって、それを晄正さんなりの科学的実証主義みたいなので、もう一人の精神科の原田さんっていう人と二人で九州まで行って、それで確かに九州にその日はいたという、松本清張ばりの証明をして。我々はどうしてあの人があんなに一生懸命やってるのかようわからんって感じだったんだよね★。だから確かに役には立ったけど、でも学生がいたかいなかったっていうことを問題は超えてるっていうかな、というほんとは処分全体のことみたいなのはあったので、だからそのちょっと高橋さん触れずにおこうみたいな感じだったんだけども。  高橋さん自身は本当に非常に真面目な誠実な学者で、たまたま自分が物療内科にいて、物療内科の教授から薬の検討会、製薬会社の検討会みたいなところへ行けって言われて、それで行ってみたら、そこで、アリナミンはあとで有名になったけど、グロンサンですね、グロンサンの研究会だったんだけど、ああいう製薬会社の研究会に来てる医者っていうのはみんな提灯持ちで、効くっていう宣伝をしてるにすぎないので、論文なんかもいい加減な論文がそのまま通ってる★。で、高橋さんもたまたま、武谷三男★なんかと一緒に唯物論研究会みたいなところへ入ったりして、それで、そこで正山本三郎っていう理科大にいた統計学の権威の人に教えを受けてて、だから、晄正さんずっと言ってたんだけども、「医学部の中で統計がちゃんとわかるのは僕だけだ」ってずっと言ってて、実際そうだったと思うんだけどね。
  あのころ、そういうことがわかる人ってのはいなかったので、高橋さんはよくいろんなところへ行って発言したけれども、ほとんどみんな対抗できなかったのは、要するに、科学論争みたいなのやったら、彼の正確さに誰もかなわないから。みんないい加減なことやってたんだよね。それで、要するに医者が腐敗してると、効果なんていうものはみんな捏造された効果であるっていうことを言い出して、それで独自に告発を始めて、それがけっこう受けてた。ものすごく本なんかも売れたりなんかしてたから、だから我々としてはやっぱり高橋さん使わない手はないっていうのがあって、で、高橋さんを頭にしてそれで市民運動として再生しようっていうのがあったんだよね。
  で、ちょうどそのころに、水俣だとか森永だとか、スモンはちょっと遅れるんだけれども、いろんな運動が出てきて。サリドマイドだとか、大腿四頭筋短縮症だとか、未熟児網膜症だとか。今だってあるけれども、みんな言ってないから出てこないだけで、いっぺん出てくればそのぐらいはあるわけで。で、そういう被害者がいっせいに声を出すようになったことがあって。

★ 
★ 原田正純
★ 
★ 高橋晄正 1918年生。『社会のなかの医学』(高橋[1969])、『9000万人は何を飲んだか――疑惑の保健薬=0とマイナス』(高橋[1970])。 ★ 「その頃、事件の真相はわたくしたち医局員にもよくわからなかった。しかし、事件の当日、九州でオルグ活動をしていたという医学部三年生の粒良君が、事件の直接参加者として処分を受けているという噂、それに続く同君のアリバイ発表と不当処分にたいする抗議の集会は、わたくしに強い衝撃を与えた。
 わたくしには、当然のこととして大学当局が調査活動にのり出すべきもののように思われた。しかし[…]」(高橋[1969:285])
 「ふたりの医学部の教官がわざわざ九州へ出向き、T君が「H医師糾弾」の当日、まちがいなく九州にいたことを確認しました。
 この教官のうちのひとりが、当時人気のあったアリナミンやグロンサンを”効かない薬”と告発しはじめていた高橋晄正さんという研究者だったのです。高橋さんは、T君処分の一件にも科学的精神を発揮して調査に乗<0123<りだしたわけでした。高橋さんたちも「T君はたしかに九州に行っていた」と証言してくださったので、大学側は誤認処分をしてしまったことを認めないわけにはいかなくなりました。」(山田[2005:123-124])
★ 「一九六〇年の消化器学会は信州大学で行われた。[…]その晩、松本で開かれるグロンサン研究<0020<会に大下教授の代理で出席するように言われていたのである。
  私はその頃、まだ助手だった。グロンサン研究会といえば肝臓病の大家たちの顔がズラリと並ぶことで知られている。世に時めくグロンサンや、それをつくっている製薬会社の威勢を象徴するような会合だった。松本での学会の二日目の夜が、それにあてられていた。」(高橋[1970:20-21])
★ 武谷三男



  で、我々の方の流れは、やっぱり大学だけじゃなくて、学会もよくないから学会も改革しなきゃっていうことで学会闘争を始めて、そしたら学会なんていうのは当時は小児科学会なんかは、乳業四社が全部仕切ってる、仕切ってくれてる。森永と明治と雪印と和光堂っていう乳業四社ってのがあって、それが全部、学会で医者の面倒を見てくれるっていうシステムになってて。だから、その四社と縁を切れみたいなところから運動が始まって。
  そしたら森永の被害者が小児科学会へ来て。我々も全然知らなかった、そういう事件があるっていうことも知らなかったんだけども、小児科学会の医者が自分たちの健康診断をやって被害なしって出したおかげで、長い間、偽患者扱いされてっていう話をされて。先輩がやったことではあっても我々にも責任がないとはいえないっていうような意識みたいなものっていうのは、そこで初めて出てきたのかもしれない。
  先輩がいい加減にやったことを私たちは後悔しなきゃいけないっていう感じがあって、それで、医者のレベルはだいたいその小児科学会へ集まってた部分が受け持って、共産党系じゃない医者たちが医学的な部分では関わって、でも運動としては共産党が主に関わってるっていう状況だったから、そのことが後々ちょっといろいろ齟齬をきたすわけだけど、被害者本人が来て、告発をして、医者の総体としても医者の責任を問われたっていうことが、そういう場所であったっていうか。だから、その、やっぱり医者自身が問われるっていうことはなかった、だいたい、世の中にはいい医者と悪い医者がいて、いい医者が悪い医者を告発するという構図になっていたわけだから、だからその告発してるお前らも同罪なんだっていうふうに言われる経験っていうのがずっとなくて、それがその場で初めてだったと思うね。そこに我々は立ち会えた。だから、小児科の医者で今も活動してるのがけっこういるのは、やっぱりそこから始まったからだって思うんだよね。で、おそらく精神科と小児科以外は、そういう場所には立ち会えなかったと。
◆立岩:突き上げをくらってない。
◆山田:うん、くらってない。
◆立岩:ご本の中にはそうやって患者でてきたけど、学会員ブーイングで、冷たかったって書いてあるじゃないですか★。大勢としてはそんな感じだったんですか?
◆山田:それはそうだよね。
◆立岩:なんでその人来たのっていうか。精神障害の方だと、その後になるともう勝手にやってきて、壇上占拠みたいなのはあったじゃないですか。この、そもそも、森永の時に患者の人が小児科学会にやってきてっていうそのいきさつは覚えてらっしゃいますか?
◆山田:小児科学会が騒然としててっていうことはわかってたから。一番最初のところはちょっとわかんないけど、岡山の被害者自身、高校生だった石川くんっていうのが来て、で、彼が自分で告発したんだけれども、岡山では連絡があったんだろうね、きっと。
◆立岩:その当時、すでに学会的には内紛っていうかごちゃごちゃな状況がでてた?
◆山田:うん、そう。鳥取でやった学会を粉砕したとかっていうことがあって、それこそ演壇占領しちゃってみたいなことやってたな。
◆立岩:精神と小児に関してはそういうことが少なくとも一時期あったという話は聞きますけれども、他にはあまりそれは広がってないんですか?
◆山田:広がらなかったね。内科なんかがちょっとやったけども、もうほとんどそれはなかった。
◆立岩:小児学会の中が流動化している情勢の中に、石川さんがやってきて話すと。大勢としてはブーイングだけれども、でも一理あると思ったんですか? 一理あるっていうか、言われるだけのことはあるっていうふうに山田さんなんかは思ったってことですか?
◆山田:それはそうだね。なんとなく予備的に知識はあったような気はするんだけど。東京なんかは、当時は森永の被害者はいないってことになってたからね。あれは西日本の話で、岡山から始まって大阪だとか兵庫だとかっていうところだから。だから、広島なんかで運動やってたやつはもう知ってたと思うし。で、そのへんが一番最初は被害者とつながっていくってことをやってたと思うんだけども。で、それはもう、なんかとにかく話を聞いただけで、もうこれはひどいことやったんだなっていうのがわかるようなものではあったよね。

★ 1970年。「「森永ミルク中毒事件」と初めて出会った日のことは、いまでもよく覚えています。その日、ぼくたちが学会改革のスローガンを掲げて闘ってい<0149<た小児学会の席上へし、森永ミルク中毒の被害者がやってきました。それは、ぼくにとって驚異的なてきごとでした。
  被害者の代表としてやってきた石川雅夫さんは、当時まだ高校生でしたが、「昭和三〇年当時、赤ん坊だったミルク中毒の被害者を健診して、”異常なし””後遺症なし”といいきったのは小児科学会に属する学者たちだった。その後、被害者はなくなったり後遺症に苦しんできたりしたが、検診の結果、被害なしということになったものだからずっと偽患者のようにいわれ、世間から忘れられた。この責任はあなた方、小児科学会の全員が負うべきではないか」と明快な言葉でぼくたちを告発したのです。
  会場からは「帰れ、帰れ」のやじが起こりました。それはこうした告発になんの心の痛みも感じない医者たちのひややかな応答でもありました。ぼくは怒りと悲しみの思いに包まれ、なんとかしなければと思いました。」(山田[149-150])
 石川の文章として、石川「被害者・障害者の人権解放へ――ヒ素ミルクの十字架を負って」(石川[1973])、梅崎・一番ヶ瀬・石川[1973]。
  「昭和四七年八月二〇日、私たちは一八年にわたる差別と抑圧に終止符をうち、苦しみを試練とし、解放をめざして立ちあがろうと決意した。それは、まず、仲間がつぎつぎと殺されていったこと、多くの親は結局先に死ぬ以上、今後私たちが生き抜いていくにはみずからの力で闘っていかねばならないこと、仲間で団結し私たち自身で立ちあがらなければ森永との闘いに勝利はありえないし、解放もない、という認識にみんながたったからであった。
  私たちはその日、@森永ヒソミルク中毒による後遺症の恒久的治療と、たとえ「障害」があろうとなかろうとそんなことに関係なく人間として生き抜いていけるための恒久的保障を勝ちとる、Aヒ素中毒による「障害」「病気」をもつ私たちに対する差別をなくす、B一致団結して闘い抜く、という三つの願いをこめて、「私たちのからだを返せ」というスローガンを決定した。」(石川[1973:113])



◆立岩:それ以降のね、どうやらそうらしいという後の山田さんたちのでもいいですし、もうちょっと大きいサイズの動きですよね。医療者なら医療者のそういった患者たちというの、対する関係のしかたっていうか、つながりかたっていうか、っていうどんな経緯をたどるわけですか?
◆山田:その後は、森永に関して言えば、我々は森永告発って言われる組織を作って、それで不買運動だとかなんかをやったり。で、一方では、被害者の健康診断だとかなんかをやったりはしたけども。それは副次的な話で、主にだから、森永行って、糾弾して騒ぐっていうようなことをずっとやってたよね。
  やってたんだけど、実際、裁判になって、どっちが正しいかわからないんだけれども、我々は裁判結審までやらせようっていうふうに思って、告発する側は思っていて、それで、途中で和解したということがあって、告発する側は和解に反対するっていうことだったから、運動一緒にやれなくなって、それで抜けたわけだ。
  ただ東京の森永の被害者組織っていうのは、僕ともう一人の小児科医の黒部っていうのと二人で、どうも東京にも被害者がいるらしいということで、その被害者の家をまわってっていうことで、二人で組織したようなもんだから、東京はちょっと違うできかたをしてた。他のところはみんな被害者自身が作った組織だったんだけども、東京はそういう組織だったし、それで非常に関係深いということもあったから、だから、二人ともそのまま残って付き合うということにはなったわけだよね。
◆立岩:医療過誤にしてもなににしてもね、どこかで和解でいくのか結審までずっとやるのかっていうのは、今も肝炎だってそういう話あるじゃないですか。で、どっちももっともなわけじゃないですか、常に。両方、両方が。
  その両方もっともな、その間の中に、その内部に、いろんなことが起こるわけですよね。それってどうなんでしょう。わけのわかんない質問かとは思いますけど、どうなんでしょう。たとえば、法律家・弁護士と、支援する多数派じゃないかもしれないけど医療者がいて、本人がいて、家族がいてって、少なくとも三者か四者か、その関係者がいると。そうすると、そのターゲットっていうかゴールっていうか、が、おのおのの、もちろん患者の中でも違うと思いますけれども、目標設定っていうか、違ってくる。そこの中で、どこがイニシアティブっていうか、主導権を持ってやるのか。それが結局どういう出来事、事態を起こすのか。そういうことって森永のときに限らず、起こってきたし、起こっていると思いますけど。
◆山田:医療裁判は、多くは、やっぱり医者と弁護士が主導していて、被害者自身は抜きになってるっていうことが多いよね。一貫して、そういう意味では、進められているっていう。だから、松下竜一★さんたちの運動じゃないけれども、医者とか弁護士とかなしで被害者だけでやったほうがすっきりしてるし、いい裁判できそうに思えることはいっぱいあるんだけど★。それは、最初の我々がそういうこう市民運動を始めようという時期に、やっぱり本田なんかが中心になって、「日本の医療を告発する医師・弁護士の会」かな、支援する医者と弁護士の会の集まりみたいなものをやったことがあるんだけれども、僕はそういうのは嫌で、なんかそういうのだけで集まって考えちゃうっていうのも。だけど、現実にはやっぱりその被害者は医療のことはわからないから、法律のことはわからないからみたいな話があって、で、ほとんど弁護士と医者が主導して、言ってしまうっていうことがあると思うんだよね。
  で、医者と弁護士の間でもね、医者と弁護士の会をやった最初の会のところで、水俣に関わってる後藤コウテン(孝典)さん★ていう弁護士、ゴトベンって言われてる彼が言ったことがあったんだけど、医者と弁護士でも違うって言うわけ。医者は非常に困るっていうか、なんていうかな、負けても平気だって言うんだよ。

★ 松下竜一 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E7%AB%9C%E4%B8%8
★ 水俣病裁判。1973年
  「判決が言渡される期日が近づくにつれ、事態の流れは勢いを強めて渦まきはじめた。
  三月八日、訴訟派と自主交渉派の患者が弁護団と、判決後の行動について打合わせをすること<0224<になった。ところがその会合で激論となり、患者たちと弁護団の関係に修復不能なまでの亀裂が入った。
  理由は二つあった。一つは、弁護団が判決後のチッソとの交渉を弁護団と国会議員が中心となって行うことを主張した点にあった。
  患者たちにとって、チッソとの直接交渉は、ボス交渉の場所ではなかった。魂の救済にかかわる空間であり、余人を容れようもない場であった。
  もう一つは、弁護団が一月二〇日に第二次訴訟を起こしていることであった。その原告のうち一〇人は環境庁裁決後に認定された人々であったから、この訴訟は川本たちの自主交渉を否定し、新認定患者のなかに別のグループをつくる意味を帯びていた。
  患者自身による直接交渉を否定して弁護団中心の交渉を主張し、自主交渉を否定して裁判を主張すくということは、何もかも弁護団が中心になることであり、患者は単にそのための道具にしかすぎないことになるではないか。患者たちにとって、判決が出ようとするこの時期に、チッソとの直接交渉を妨げるものは、弁護団といえども許せなかった。
  判決五日前、訴訟派患者総会が開かれ、東京交渉を患者中心でやり抜くことが承認された。判決直前に、原告たちと弁護団との縁が切れるときいう不思議が起きた。
  告発する会も訴訟支援の県民会議を脱退し、弁護団に絶縁状を叩き付けた。告発する会にとっては、訴訟の理論立てと立証準備を担ったのは水俣病研究会であるという自負があった(水俣病研究会は告発する会の主要メンバーと重なり合っていた)。弁護団は、水俣病研究会が出版しようとしていた「水俣病にたいする企業の責任――チッソの不法行為」の原稿を丸写しし、第四準備書面として裁判所に提出してしまう不信を犯してもいた(後に撤回された)。訴訟でプロ<0225<でさえなかった弁護団が訴訟外の交渉の場で指導者づらすることは許せないという理由であった。
 この一連の軋轢は、訴訟派と自主交渉派の、相互接近を触媒することとなった。訴訟派としては、判決後のチッソとの交渉を弁護団ぬきでする以上、自主交渉派と別個の組織を維持する理由はもうない。自主交渉派としては、判決を利用しない手はない。
  判決当日、訴訟派と自主交渉派は合体した。
  「水俣病患者東京本社交渉団」が結成された。」(後藤[1995:224-226])
★ 前の註で引用したのが、後藤孝典『沈黙と爆発――ドキュメント「水俣病事件」1873〜1995』(後藤[1995])。他に後藤孝典編『クスリの犯罪――隠されたクロロキン情報』(後藤編[1988])。 虎ノ門国際法律事務所のHP http://www.toranomon.com/annai/index.html
  それは、医者というよりもあのころの活動家がそういう言い方をしたっていうのがあるんだけど。究極的には負けてないっていうかな、最後に1回勝てばいいとかね。それから、負けてもこれは歴史的に意味があるとかね。で、そういうことを言うと。
  裁判なんてね、勝たなきゃしょうがいないのであって、負けたものに歴史的な意味なんかないって、私なんかは思うんだけど、医者なんていうのはその医者の側からそういう勝手なことを言ってね。結局、その患者さんがいろいろ時間をかけて、お金をかけて、最終的にほんとに一銭も取れない状態でもね、理念的に勝ったんだから意味があるとか言われると、それは違うんだっていうふうに言われて、それは私も納得したんだけども、どうもね。
  やっぱりそういう点では、一時は患者さんがどんどん、松下竜一さんが「ランソの兵」(cf.「乱訴の弊」)って言って、乱れ撃ち的に訴訟をしていくっていう。被害者が言ってくると、やろうやろうっていう感じでみんなで煽って、裁判やらせるみたいな時期があってね。で、ほとんど一件も勝てないっていう状態だったんだけども、こういうのたくさんやっているうちにはそのうち勝てるようになるかもしれないみたいな話があったりしたんだよね。
  裁判でもね、スモンの裁判最後までやった古賀(照男)さん★っていう人がいて、古賀さんなんかがやった裁判っていうのは、ほんとに、自分の意見を押し通してやる人だったから、あれは被害者自身の裁判だったと思うけれども。ほとんどそういうものはやっぱりなかったし、それぞれが、要するに弁護士が自分の利害も含めて、引くべきか進むべきか考えて、それでやめたり、進めたりしてたようなところがあるっていうか。それは今もC型肝炎でもなんとなく垣間見れるところがあるよね。なんか被害者の思いと弁護士はなんとなく取引してるような感じがあるんだけれども。

★ 「被害者のなかで、ぼくたち「支援する医者」にも鋭く批判をするのは古賀照男さんくらいでした。古賀さんはスモンの患者さんでしたが、病気になる前は労働者で、病気になった後で加害者である「田辺製薬」を追求(ママ)するときも作業衣のままだったりしました。二〇〇三年に亡くなられましたが、最後まで製薬会社の追求(ママ)をやめず、その姿勢にぼくは深く感動し、また多くのものを教えられたと思っています。
 […]<0242<[…]
 古賀さんの闘いでは古賀さんが主役で、医者も黒衣にすぎませんでしたから、スッキリした気持ちでかかわることができましたし、古賀さんの言葉からあらためて日本の医療の問題点を見直すことにもなったりしました。
 しかし、被害者の人たちと医者とがこんな関係になれるのはめずらしいことで、医者が医療被害者運動の先頭に立ってしまうこともしばしばあったのです。」(山田[2005:242-243])
 「もうひとり、忘れられない人がいる。古賀照男さんである。
 彼は、神奈川県のスモンの会会員だった。いつも茶色のビニールの長靴を履いて、クラッチという肘まである松葉杖をカチャンカチャンと鳴らして歩いていた。
 胸と背中には「薬害根絶」という文字があった。汚れた布にいつ書かれたか分からないような手書きの字だった。いつも同じようなジャンパー姿だった。「それでよー、おまえよー、何考えてるんだ、しっかりしろ」というような、言葉使いは乱暴だったが優しい心根をもった人だった。
 東京地裁の裁判が和解に向けて怒涛のように動いていったとき[…]いつもわたしと行動をともにしてくれた。
 自分たちの弁護団のところへ何度も話し合いに行った。話し合ってもちらがあかないため、新<0094<しい弁護団をつくることができるかどうかを模索するため、2人で歩き回った。あちらの弁護士、こちらの弁護士、ほんのちょっとの知り合いにも紹介してもらって、とにかく歩いた。[…]しかし前にも述べたように、社会的な地位のある弁護団を解任して新しい弁護団をつくることは、もうここに至ってはできななかった。しかし、たった1人の弁護士だけが、第一次判決のときにわたしたちを助けてくれた。
 その後しばらくして、わたしたちの原告団は頑張ってはみたが判決を求めていくことができず、和解へと追い込まれていったのは、先述したとおりである。
 ところがこのとき、古賀さんともう1人の原告だけは絶対に和解しないと言った。わたしたち判決派の原告団では、決して和解を強要することはしまいと申し合わせていたので、古賀さんにはできるだけ協力することにした。
 とは言っても体力、気力の限界まで頑張った後に和解したわれわれだったので、古賀さんの闘いにおいて、わたしたちにできることは限られていた。[…]<0095<[…]
 わたしたちスモンの原告団は、古賀さんの仲間だったはずであったが、時々のカンパを別にすれば、古賀さんと行動をともにできた者は結局いなかった。
 古賀さんは、強烈な個性の持ち主であった。彼は、自分だけを残して和解してしまったわたしたち原告団に対して、表面上はともかく、心の中に怒りを秘めていた。裁判にも負け、奥さんを失い、古賀さんの心で燃えるのは怒りのともしびだけだったかもしれない。古賀さんは、私たち昔の仲間に電話をかけては、怒りをぶつけた。
 わたしたちは、古賀さんに愛情をもっている仲間であり、古賀さんの気持ちは十分理解できると思ってはいたのだが、古賀さんに鋭く批判され、怒りをぶつけられたとき、体の具合が悪いわたしたちは、寛容の心をもってそれを聞き、ともに闘うということができなかった。
 私も電話をもらい、あまりに理不尽なことを言われて大げんかをしたことがある。同じ病で死ぬか生きるかのときちる、こちらも古賀さんのわがままをわがままとして受け止め続けることができなった。
 古賀さんは私たちを見放した。古賀さんは、自分の怒りを受け止めてともに闘ってくれる仲間と田辺に対する抗議行動を続けた。」(田中[2005:94-96])
田中 百合子 20050810 『この命、つむぎつづけて』,毎日新聞社,238p. ISBN-10: 4620317365 ISBN-13: 978-4620317366 1470 [amazon][kinokuniya] ※ b d07
古賀 照男 19860315 「薬の神話の被害者として」,東大PRC企画委員会編[1986]*
――――― 19991101 「スモン被害者として」,浜・坂口・別府編[1999]*
 http://www.npojip.org/jip_semina/semina_no1/pdf/068-069.pdf
――――― 200003 「孤独と連帯――古賀照男・闘いの記」,『労働者住民医療』2000-3,4,5
 http://park12.wakwak.com/~tity/shadow/koga.htm
◆立岩:それってけっこう個別に違うと思うんだけど。確かに医者は一本気にこれは正しいんだろってけ言う傾向ってあるのかなって気はする。弁護士は、落としどころっていうか、取るもんとらにゃって思う。そこまではわかるんですよ。そうすると、医療サイドにしても法律サイドにしても、あるいはそうじゃなくて、患者というか本人の側が主導権っていうか、持つ場合とね、一般論で語れないことなのかもしれないけれども、どういうふうに裁判なら裁判、あるいは裁判の闘い方の形態っていうのが変わってくるものなのだろうか。それどうなんですか?
  当事者にとっては、裁判ずっとやってるの待ってたら「俺死ぬかもしれない」っていうのあるじゃないですか。でも適当なとこで和解になったら悔しいっていうのもあるじゃないですか。本人自身が裂かれているっていうか、両方の望みがあると思うんですね。で、そうしたときにね、その本人の中でも、和解でいくのか、最後までいくのかって、分かれる部分がある。で、いろんな人たちが引っ張っていく中で、どっちの方に傾きがちっていうか、傾いちゃうことになるのか。そういうことっていうのは、今までのことでいかがですか?
◆山田:僕が関わった範囲で言えば、大きな社会的な事故じゃなくて、医療事故なんかによる個別の事故っていえば、被害者は、実際は、金を請求するっていうかたちでしか裁判できないから、金で請求してるけど、金いくらもらったってすむ話じゃなくて、要するに、手をついて謝ってほしいとかなんかっていうことで始まるわけだよね。でもほとんど手をついて謝ってもらえる光景には出会えない。示談である程度のお金が出ることはあっても★。
 だからほんとに裁判なんて悲惨なもんで、僕らが証言で出ててもそうだけども、被告だってほとんど出てこない。全部代理人で、代理人同士で終わってしまって、それで、原告出てきても被告にもいっぺんも会えないままで終わってしまうとかっていうことがよくあって。そこらへんがやっぱりなかなかで。そうするとね、たとえば、弁護士の利害から言えば、謝ってもらったってしょうがないっていうか、実質的に取るもの取らないとしょうがないわけだから。確かに、お金を払わないでただ謝るっていうふうなかたちになることも、まぁありえないといえばありえないから、しょうがないんだけれども。とにかくやっぱりその患者さんの思いっていうのが、その裁判やなんかやってると早い段階で抑えられてしまって、裁判はこういうもんだからこういうふうになるんだよって言われて、なんとなく納得できないまんまに裁判が終わるっていうことが多いという感じはする。それはやっぱり、僕らがその証人として出たりしてみててもそういうところがあるよね。やっぱり食い足らないっていうか、もっとやっぱり本質的に問わなきゃならない問題があったりするのに、やっぱりそこを弁護士がきちんと掘り下げるってことをしてないから。
◆Aさん:ちょっといいですか。その医療者と弁護士が主導するかたちでの告発っていうか運動を見て、その、ある意味で、積極的な意味でその主導権を被害者の方に譲り渡していくようなプランというか、案っていうのは考えられたことはありますか?
◆山田:患者さんが非常に強くてっていう、うん。強くて、あの、弁護士や医者はついていくしかないみたいなかたちになったことっていうのが、それが滅多にないけれども、たとえば、その、だから、そのスモンの古賀さんなんかはそうだったと。
◆Aさん:ある意味強い患者さんっていうのがいないと、そういうことにはあんまりなりがたいってことですよね。
◆山田:そうだよね。水俣なんかはかなり患者さんが前面に出られる運動だったと思う。それはやっぱり、最初にチッソで出てきたときに、その裁判が主たる運動はなくて直接行動を一緒にするっていうことにして、裁判を後ろにやったわけだから、そこからやっぱり患者さんがある程度主導権をにぎって運動をやれるっていうことになった。
◆立岩:近ごろ出ている話としては、裁判ってのはそもそもそういうもんで、いろいろ工夫してもそうでしかないから、裁判外のプロセスっていうか仕掛けっていうのを作りましょうかみたいな話はボツボツとあります★。僕もそれもありかなと思いつつ、でも裁判は裁判でやらざるをえない…。
◆山田:水俣ぐらいに直接行動強いものをやればね、それと平行するかたちで裁判が意味を持つことはあると思うよね。だけど裁判だけということだったら、裁判よりも直接行動の方が。たとえばひどい医者に医療ミスさせられたなんていうんだったら、裁判しても、被告出てこないからなんともないけど、病院の前で毎日ビラまきをしたりする方が有効だって感じだよね。

★  1988年「当時から医師会の弁護士らによる講習では「決して謝罪しないように」という指導がなされていたが、これこそが賠償保険というカネに歪められた本末店頭の姿勢であった。この指導は現在でもいたるところで行われており、年を経ても何ら改善されていないことが明らかである。」(森[2002:8])
 この文章の著者(1940年生、大阪市立大学医学部卒、医療事故調査会代表世話人)――医療事故への対応策として「診療工程設定管理」他を提唱――による医学部闘争についての評価は以下。
 「一九六八年に始まった医学部闘争は、当初は自治会による医学部の機構改善闘争であり、人事、教育、講座制度の実質などを改革する「医学部民主化基本綱領」としてまとめられ、教授会決定までなされた。しかし、その内容が当時としては画期的すぎたのであろう。すぐに行政からの指導があったのか、その決定は反古にされ、以後は不毛とも言うべき全共闘方式の闘争に入っていった。日本医師会は当時も保険医総辞退を武器として給付率アップを求めることに終始しており、学生や若手医師の提言に何ら応えることはなかった。
 医学部闘争が収束した後、その提言は一切否定され、医学部は倍増されても教育内容は総体的に質的低下を続けることになる。遠くの活動した医師は巷間に散り、一部は小生のように国外に研修の場を求めた。当時闘争を担った医師郡で現在は政治の場に立っている人たちもいるが、その多くは既に医学教育や医師および医療者の信任制度などの改革意欲を失っていると言わざるを得ない。」(森[2002:78])
 同じ本に収録されている対談に以下の発言。
 「あのケースを担当している教授は、仙台のほうの自分が派遣されている病院に行って「じつは間違いをしているけど、それを認めてしまうと、日本医大に傷がつく。わたしにも傷がつく。だから裁判に持っていって風化させる」と言っている。裁判に持ちこんだら終わりですからね。もうオープンにはならない。」(森・和田[2002:175]、森の発言)
★ 例えば和田仁孝・前田正一『医療紛争――メディカル・コンフリクト・マネジメントの提案』(和田・前田[2001])。



◆立岩:この話また後で戻るかもしれないんですけど、さっきの悪い医者といい医者みたいな話ですけども、医療そのものはあって、それはその科学的に検証する、高橋晄正さんみたいに、統計学的にちゃんとやれば、グロンサンもアリナミンも効きゃしないんだっていう、科学に対して科学を対置するというか、そういうタイプの議論ってあるし、当然今でもあるし、今後もあり続けるべきだと思いますけれども。
  でも、医療の中での、あるいは科学の中でのより正しい科学というか、正しい医療っていうそれだけでいけるのか、みたいな感じが、やっぱり70年代、すこし経ってからかもしれませんけど、でてきたような気がするんですよ。ここ(会場)にもそういう研究してる人がいるけれども、たとえば、高橋さんの話ってもともとを言えば、効かない薬があると、裏返せば、効く薬だったらいいわけですよね。ただ、もうちょっと後になってくると、精神障害の連中が薬どうなのって、効きゃいいってもんでもないみたいな、そういう医療批判みたいなものをやっていく部分があると思うんですけどね。
  そこのへんこんがらがり具合ていうのはどうなんだろうなってのがあって。もうちょっと後ですけど、山田さんが森永ミルク中毒の人と一緒に全障連(全国障害者解放運動連絡会議)の第2回だから77年ですか、明治大学での大会に行って話したら全然、っていう話が書いてあるじゃないですか★。そういう、間違った科学に正しい科学、間違った統計処理に正しい統計処理っていう図式と、そこからもちょっとはみでちゃうみたいなものが現われてくる、こんがらがってくる。そのあたりの感触っていうか、経験みたいなものっていうのはどうだったんですか?
◆立岩:今日は僕は山田さんの話を一応わかった上で次の話みたいな感じで聞いてしまったのでね、むしろその本来であれば、最初の読み手にとってみれば知らない話を聞いてないわけじゃないですか。つまりさっきちょっと言いかけたけど、77年に全障連の大会に行ったその話に戻るんだけど、
  一方で治りたい、もとに戻せって森永ミルクの被害者の人が言って、そんなこと言うなっていう人たちがいて、それって解ける話なのかどうかはわかりませんけれども、でも現実にそういう場に遭遇してしまうわけですよね。つまり医師っていうのは普通あんまりそういうとこにいないわけでしょ。でも問題はそういうとこに起こったりもするわけですよね。そのことはこの本の中には書かれてるけれども、同じことでもいいですし、なんかプラスアルファでちょっと思い出せることっていうの、その後のことも含めてね、もう少し足してお伺いしようと思うんですけども。
◆山田:全障連大会へいったときというのは、森永のミルク中毒の被害者に関わっていて、一方で障害者の運動にも多少関わっていたから、だからだいたいそういう公害被害者運動とそれから障害者の運動だとかなんかっていうのが別々でやってるのがおかしいから、なんとか一緒にやれるようにっていう、後々は差別や共同宣誓とかなんかって言われたようなものを構想して、盛り込んでいったんだよね、私は。
  言ってみれば、割合なんか障害者の運動っていっても狭くて、障害者のことやってるけど公害の被害者のことなんか知らないじゃないかっていう、それでそのことを啓蒙しなきゃいけないみたいな気分っていうのもどっかにあったりして、そのときに森永の被害者たちがたててたスローガンが“体をもとに戻せ”っていうスローガンだった。それを最初に森永の被害者が言った途端に、ものすごく糾弾の嵐になって、もとに戻せとはどういうことだっていう、だから、もとの体が良くて今の体は悪いっていうことかっていう話になって、それはもう全く予想もしないことだったから、そういう言われ方っていうのはほんとに初めて聞いたっていうことだったし。一緒に行った森永の被害者ってのは、まだ高校生だったから、とてもそれに答えられるような状況ではなくて、それからもう一日糾弾され続けていたというか、要するに、お前医者がどういう悪いことをしてきたか知ってるかっていうふうに言われて。
  そのときは本田一緒に行ってたんだよね。本田一緒に行ってたんだけど、いつの間にかどっかへいなくなっちゃって、もう翌日も来なかったんだけど、あれ2日連続であって、私はもうなんかほんとにつらかったけどこれはもう一日行かないといけないわと思って、翌日行って、まぁわかったっていう、何を言おうとしているかっていうのはわかった。
  ただね、基本的にそのころ、ホームレスの人たちばっかり来る診療所の医者をやってたっていうことがあって、それでやっぱり、彼らは別に治してもらおうとか思ってないっていう、シェルターみたいなもんなんだよね、病院っていうのも。たとえば、だから、それこそ暮れになると一斉に入院したいっていう人が出てくるんだけど、やっぱりさんややなんかもお休みになっちゃうから、福祉事務所が休みになっちゃって、それで仕事も何もなくて凍死するかもしれないから、お正月は病院へ非難っていうので、表でものすごいなんか苦しがってるからすぐ入院させないといけないんじゃないんですかって看護婦さんが言って、そりゃ大変だっていって入院させるとなんかすごくカツ丼が食べたいとかなんか言ってますとか、もう仮病だらけで、それでその夜のうちにもう病院の浴衣着て酒買いに行って病室で飲んでるとか、我々も一旦入院させたらもうしょうがないっていうか、それはもうすぐ裏に福祉事務所の分室があって、そこへ入院させましたっていうふうに届けるとだいたい正月いっぱいいることになるので。
  そういう医療をやってて、なんかこれは別に治るとか治らないことじゃないんだっていう感じってのはあって、それはつながったんだよね、きっと。やっぱり医者って患者さんをみたときに目標とする、治ったとか改善されたとかっていう状態っていうのがあって、それは勝手に決めるわけだよね、自分で。勝手に決めて、やっぱりそこへいくっていう。だから多少それが最近になって少し選択してもらうっていうか、いくつかの道を患者さんに選択して一緒に選ぶことになったのかもしれないけれども、それは当時はもうまったくそれは医者の理想像であって、そこへ持ってって、そこへ持っていければ成功で、持っていけなかったら失敗だっていう。それはだから、そういうものが医者にとっては成功であっても、患者さんにとって成功であるかどうかはわからないんだっていうことはなんとなくわかったっていうことだよね。そこが結局、共有できなかった。みんなやっぱりね、やっぱり自分の理想像みたなものを作って、だから治るより治らないほうがいい場合もあるとかね、っていうような言い方っていうのが、そこでたとえばだから精神科なんか行くと、幻聴は治らないほうがいい場合もあるとかっていうふうに精神科なんかでは言われるわけだよね。幻聴なくなったら寂しくて生きてられないとかなんかっていうようなことがあってって。そういうことってね、やっぱりだから、症状をとってしまえばプラスではなくて、症状があっていいこともあったりするっていうような考え方みたいなものっていうのは、それが共有できなかったね、全体と。それは今も引きずってるっていうか。
◆立岩:ひとつ、ふたつあった部分、もとに戻るとか治らないとかもとのままでいいっていう間のいろんな意味合いみたいなものが実はある。それに対する意味のつけ方みたいなものが本人がっていう場合と医者がっていう場合と、どっちやって言われると、そこの間にいろんなバリエーションがあって、そこんとこどうみるかっていう話だと思うんですよね。
  たとえば、松田さんなら松田さんでそれは本当に正真正銘のインテリでもあったわけだし、いろんなことがみえてはいると。でも山谷なら山谷で、とりあえず正月の我が命を維持するっていうか、そういうリアリティみたいなものとまたちょっと違うところがあるよね。それはたぶん、ちょっと強引だけども、山田さんはたまたまそのころそういうあたりにいて、そういう連中っていうんですかね、治るわけでもなく、でもそのまんまでもないみたいなものが、こういうふうにありみたいなことっていうのが、たとえばそこ行って糾弾されつつこういう話もありかなっていうところにあったのかもしれないですよね。

◆山田:そうだね。だからイリッチなんかもすごく入りやすかったっていうか、ああいう言い方をされても、あるいはそのパーソンズにしても、イリッチにしても、医者が持ってる役割、患者が持ってる役割があって、医者が持ってる権力みたいなものがものすごく大きいものだっていう、自分では気がついてないけれども、ものすごく大きな権力を持ってるっていうようなことっていうのは、すごく入りやすかったっていうのはあるんだけど。
◆立岩:そこはけっこうやっかいでね。イリッチって医療批判のある種のスタンダードみたいなかたちで、やっぱ結構大きな影響力、日本はともかくとして、あると思うんですね。そこの中で、言われてきた話の流れっていうのが、ある種、自然みたいな話と反専門主義、自然、患者の自立っていう話で、それぞれ三つとも結構なことであるんだけれども、それがそれこそ今の流れでいうと、それこそ、自立的な自然な反専門主義的な環境における死の選択っていう話になっちゃって、やっぱそこらへんがね、ほんとに。
◆山田:だからやっぱりそれに対してエコロジー的なものっていうか、自然といわれるものが、全体的に正しいものとして対峙されると、そこでおしまいっていうところがあるけど。だから確かにね、あのころでも、急に活動家の中で鍼灸師になる人とかすごく多かったんだけど、中国の影響っていうのがすごくあって、我々も裸足の医者っていうふうに言ってた時期だから、住民の中に入っていって、それで素人的な医療をやるっていうのが憧れのみたいだったからね。
  活動家のみんな、一斉に鍼灸師になんかなったりして、それで視力障害の人たちから文句言われてたんだよね。職が奪われたっていうか。だから視力障害の人があんま鍼灸しかできないっていうのはそれは差別だとは思うけれども、でも今それで食ってるところへ健常な人間が入ってきてね、それでしかも中国の針っていうのは電気を通じたりする、通電する針だったから、だから目の見える人じゃないとできないっていうか、危なくてできないところがあって、そういう人のところへ患者がみんな行っちゃうっていうようなことがあってね、それはちょっとほんとちょっとひどい話だったんだけども。そういうことっていうのはあんまり考えないでそっちの道へばっと行ったし、それからやっぱり高橋さんなんかがほんとんどの近代医学がダメだっていうふうに言ったら、みんな民間医療だとか漢方だとかっていう方へ行ってしまったとかいうことがあって。
◆立岩:そうですね。だから常にオルタナティブっていう話があったときに、AじゃないものはBであるみたいな話でことはすまないわけですよね。
◆山田:いずれにしても、とにかく健康を目指そうっていうふうになっちゃたら、どういうやり方をやっても同じっていうことだとは思うんだけどね。やっぱり健康がよいものっていう絶対視するところは変わらないっていうか、それを獲得する方法が違うだけであって、目指すものがそこだとすると、やっぱりかなり優勢的なふうになってしまうっていうかな・・・
◆立岩:そういう発想っていうか、アイディアっていうか、感覚みたいなものっていうのはね、たとえば、60年代末の社会運動、今日の話だと60年末といってもその準備っていうか、その背景みたいなのはもっと前からやっぱり脈々とあった中でだっていうふうにおっしゃった、そうかなって思ったんですけど。そういう土壌そのものから出てくるのか、もう一ひねりっていうかね、なんか加わらないとそういうふうにでてこないのか、なんかそのへんはちょっと気にはなるんですよ。つまり、こういう医療があると、こういう医療があってそれはこれこれしかじかの浮き沈みの中でうまくいかないと、だから医科大とか加害的であると、それに対して批判すること、いいものを対峙するっていう話と、またちょっと違う話だと思うんですよ、今山田さんがおっしゃった話っていうのはね。これはよしとした上で、その方法論なり、それを支えるシステムとしてAよりもBがいいとか、Aっていう体制よりBという体制がいいとか、っていう話とそのよしとしているものっていうのを場所を変えるっていうのはちょっと違うくて、そういうアイディアっていうか気分みたいなものっていうのはね、60年代末から70年前半のある種の体制批判のものから直に出てくるものなのか、そこらへんの関係っていうんですかね、何なんだろうなっていう気がするんですけどね。とりあえず高橋コウセイさん・・・
◆山田:それはなに?私個人の問題なの?
◆立岩:個人でもいいと思うんですよ。ただ、高橋さんたちの批判ってのは非常に重要だったと思うし、今でもあの路線でいける話っていっぱいあると思うんですけど、でもそれだけじゃすまないわけじゃないですか。統計とってみたらグロンサン効かないと、そりゃそうなんですけども、それでいける話もいっぱいあると。でもそれだけじゃすまない話ってあるわけで、その高橋さんの理由の批判をすすめていってもでてくる話じゃないと思うんですね。またちょっと違う色が入んないとでてこないような気がするんですけどね。
  それ結局ひとつね、たとえばね、そうやっていってみれば野にくだりさまざまありつつ野にくだり、ちょっと生活の場所っていうか仕事の場所自体が変わる中で、そういうなんとも定義し難い人々と仕事の相手にするってこともあったんだろうし、あとはもう、採算とかだともうほんとにそうやってブラブラしてたらこういう娘が生まれちゃってみたいな、パーソナルヒストリーにいくわけじゃないですか。それはそれでその通りだとは思うんですけどね。どうなんだろうなぁって思って。
◆山田:どうなんだろうね。だから要するにごちゃごちゃしたまんまだよね、きっと。だからすっきりしないっていうか。
◆立岩:だからごちゃごちゃしたものに出会うっていうんですか、ごちゃごちゃしないままずっと行くっていうのもあるわけじゃないですか。そういう生き方っていうか人生っていうか。でもいつの間にやらごちゃごちゃしちゃったわけですよね。山田さんの場合にしてもね。
◆山田:それは出会っちゃったからね。出会っちゃっても、もうだから、これはごちゃごちゃするからやばいと思って関わらなければそこでおしまいだったと思うけれども。なんか意地張って関わってたなぁ。だけどやっぱりごちゃごちゃしちゃって、それこそだからほんとになんか優性思想みたいなものって取っ払うことできないっていうか、まぁここらへんでしょうがないかなっていう線で・・・・・・理想の医療みたいなものって作ることができないと思うし、行ったり来たりだと思うよね。患者さんの側と医者の側とで行ったり来たり。だから、まぁ、なんていうのかな、結局どういうものがいいかわからないから何にもやらないっていうわけにもいかないんで、とりあえず、とりあえずまぁこんなところかなっていうふうに思ってやるけど、でも明日は変えなきゃいけないかもしれないとか・・・
◆立岩:でもいろいろあり、とりあえず主義っていうのは、たぶんなんかかなり正しくて、ただそのひとつには、たとえば一番今日最初にしゃべった話ですけど、たとえば、命題として一、二、三、四とかなってっていうふうになんないから、それをじゃあこっちが物を書いていったり、考えてるときに、どういう、文体とかも含めて、どういうものの言い方していくって、やっぱりなんかちょっと違うんですよ。違う言い方とかあったりする。たとえば、じゃあもうそこは何も言わなくてっていうことになると、ほんとに現場主義、ズブズブの現場主義みたいなので終始してしまって、現場主義ってだってほんとに最終的には個人に渡されてしまうわけじゃないですか。現場さぼれ、いくらでもさぼれるって話になっちゃうわけじゃないですか。そこんとこどうするかっていうことですね。結局残るわけですよね。じゃあ、法律っていう話だけでもないだろうし、結局そこもひっくるめて考えていくっていう、当たり前ちゃあ当たり前の話にしかならないんだとは思うんですけどね。

★ 「そんなときたまたま、全障連という団体の全国大会が東京でおこなわれることを知りました。これに参加することで、共同戦線が作れるだろうと考え、森永ミルク中毒の被害者のひとりと、その大会にのりこんだのです。しかし、そこで待ち受けていたのは予想外な反応でした。[…]<0246<
  森永ミルク中毒の被害者は、この全障連大会の席で「自分たちは森永に対して、『からだを元に戻せ』というスローガンをつきつけながら闘っている」と発言したのです。ところが、大会に参加していた障害者の人たちから、このスローガンがさんざんに批判されることになりました。
  全障連大会に参加していた人の多くは脳性麻痺の障害をもつ成人でした。[…]彼らの運動の中心的な課題は、障害者に対する差別と闘うことでした。[…]<0247<[…]
 そんな彼らの前に森永ミルク中毒の被害者が現れ、「からだを元に戻せと森永乳業につきつけている」と発言したのです。そこで、障害者の人たちから「あなたは自分のからだをよくないからだと思っているのか。”自分たちはこんなからだにされた”というとき、”こんなからだ”といういい方にこめられたものはなんなのだ。元のからだに戻せということは、いまのからだを否定することで、それは障害のあるからだを差別する考え方ではないのか」といわれたのです。ぼくたちはこの厳しい問いに答えることができず、立ち往生してしまいました。
  さらに彼らは「自分たちは医者というものをまったく信用していない。医者たちが障害者に対してこれまでどんなひどいことをしてきたか、知っているのか」とぼくに問うたのです。そして、その日一日は、障害者の人たちのきびしい問いかけと糾弾を受ける一日になりました。
  ぼくは大きなショックを受け、その後しばらく障害者の運動から離れる<0248<ことになったのですが、結局、またその運動と出会うことになりました。
 […]それは一九七三年に生まれた娘が、障害をもつことになったからです。」(山田[2005:246-249])
  ここでは違いが言われている。そうでない記述もある。さきに山田が言及した石川雅夫(森永ヒ素ミルク中毒被害者の会)の文章(石川[1973])横塚晃一の文章(横塚[1973]――文章自体は後に著書に収録される機関紙掲載の文章)を並べている本(朝日新聞社編[1973])があり、そのコメント(大熊由紀子が書いたという)ではこの二つの会の共通性が指摘されている。

◆山田:間違った科学に対して正しい科学を対峙するっていうところでやってればきっと楽というかな、もう少し私もいろんな人と付き合えると思うんだけど。やっぱり、間違った科学に正しい科学を対峙するのではよくないんじゃないかと思うと、そういうことをあんまり感じてくれてる人がいないんだよね。
  それは高橋さんにも限界があったし。たとえば、今のエビデンスベストメディスンみたいな、エビデンスってすごい嫌だって感じがするんだけれども。基本的にはエビデンスっていうふうに作ってる文献だって、やっぱりバイアスかかってるわけで、そんなにニュートラルなものではないと思う。ほとんどやっぱり欧米の論文を中心にしてるわけだから、我々の知らない小さな国の論文だとかなんかっていうのを持ってきてるわけではないのであって、やっぱりそれはね、それこそ欧米流の正しい科学みたいなものがあって、それで、要するにだから、欧米流の医学ってのは、いろいろその国のおかしさが反映しておかしいところがあるにしても、科学的に言えば正しいみたいな感じってのがあるよね。
  薬を告発してるひとたちの中にもやっぱりそれは残ってるっていうか。こっちに間違ったものがあって、それを告発してる私たちは正しいっていう。この正しいっていう自分はどうなのかっていうふうに疑って戻ることは、今でもしないんだよね。でね、ちょっとね、精神科の領域でいえば、新しい本が出ててね、精神科の薬の使い方みたいな本かな。神田橋さんなんかが出してる二冊組みで出してるやつがあるよね、官能的治療っていうね★。やっぱり、なんていうかな、科学ではないっていう。
★ 神田橋
  たとえば薬の効能みたいなものは、科学的に解明されるのは後で、経験的に使われてきて、なんで効くかわかんないけど効いちゃってるんだよっていうあたりのことがあってね。経験的に効いちゃって、なんで効くかわかんないけど効いちゃったっていうのはダメだ、それは科学的じゃないからダメだっていうのは危ういと思うんだけれども。
  やっぱりそのへんの危うさっていのは、ずっと高橋さん以来、そのまんまになっているよね。薬ってやっぱりほんとに人によって違うっていうか、99人に対しては効かないけれども、1人の人に対しては効いちゃたりすることがあるわけだし、それはなんていうか薬の効能だとか、それから動物実験のデータだとか、人間の統計的なデータだとかなんかっていうものを超えるものっていうのがあるはずだし、そういう意味では飲み具合みたいなね。
  だから今のたとえば、なんか問題あると一斉にリタリンを使わせなくしてしまうとかなんかっていう、乱用されたことは確かなんだけど、一挙に止めてしまうっていうような止め方っていうのはやっぱりどうかと思うところがある。やっぱり薬について告発してキャンペーンして啓蒙してきたのはずっと医者の側であって、患者の側から「そんなこと言うけど、私は飲んでみてこうだったんだ」っていうことがほとんど言われてないし、そのことを考えてみようっていう傾向はなかった。あの官能的治療っていうので初めてみたような気がする。飲み心地みたいなものを問題にしたっていう。
  たとえば、高血圧のような患者さんでは効く効かないみたいなもので割合済んじゃってるところがある。本当はそうじゃないんだけどね。でも精神科の患者さんなんかだと、やっぱりそういうことではすまないっていうか、「絶対私にとってはこの薬は、誰がなんて言おうと、他の人が全員使わなくても、これしか私にはないんだ」みたいな言われ方がされることがあって、やっぱりそこをどうするかだよね。「そんなこと言ったってお前、効かないんだからやめてしまえ」っていうふうに、強引に切ってしまうかどうかっていうレベルでは、患者さんの側からの薬に対する発言みたいなものは、ものすごく弱い。なんか科学では割り切れない部分を発言されるんだろうけれども、そこについて受け止めようっていうものはないと思うよね。
◆立岩:個体差、個人個人の差みたいなの、結局説明しようたってできないようなもんが常にあって、それをどうこうしたってわかんないところはあるし、っていうことは押さえておこうという。それはそれでひとつわかる。それをでは実際にどうすんだって話は難しいにしてもね。
  とくに精神っていうのが一つそうだったのかもしれないけれども、だんだん医療をはみ出てしまうような主張がなされてしまう、内部改革みたいな感じで、より良い精神医療をみたいな感じで、話してくんだけど、ある時点でそこからこぼれてしまうような動きになってしまったりするってようなことがあったような気がするんですよね。それって何ですかと言われても答えようがないのかもしれないけれども、たとえば、精神の領域にはそういうことがあったと思うんです。患者のサイドと、いわゆる青医連の人たちとか、改革的な精神医療者って言われてたし、実際いろんなことやってた連中の間の微妙な関係って、やっぱり10年、20年続いたと思うんですよ。
  たとえば、全国「精神病」者集団の山本さん★なんか、東大の赤レンガの連中についてそんないいことは言わない。結局やつらは医者でみたいな。聞くとなるほどって思うとこはあったりします。そういう、医療の中で、かなり基本的なとこから問題化するっていう流れであってもどうなのっていう。医療改革派っていうか批判派の射程っていうか、できたことできなかったことについて、思うことありますか?
◆山田:精神科のごちゃごちゃした部分が変にすっきりしちゃったっていうか。反精神医学みたいなかたちですっきりさせてしまったのがね。実際、障害なんかもそうなんだけれども、やっぱり障害なんてものはないんだっていう、こんなものは社会的に作られた概念であって障害なんてみたいなものはないんでみんな同じなんだよ、っていうところにいってしまうと、だいたいそこで終わりになっちゃうっていうか、確かにそうかもしれないっていうね。だけど、だけどやっぱりそのことで不利をこうむったり、苦しんだりしてる人がいるわけだから。だから、やっぱり精神科の患者さんて、ものすごくやっぱり苦しい、つらいところにいるんだけど、その苦しいつらい部分に、ちゃんと寄り添わなかったんじゃないかっていう気がするのね。
  最近私も精神科の本を読まなきゃならないシチュエーションもあってていうこともあるんだけど、一生懸命読んでるところがあって、それから昔から中井久夫★と神田橋條治★のファンだから。やっぱりあの二人から得られるものっていうのはすごく大きい。ほとんどどの科の医者が読んでも、自分の診療に役に立つようなことを彼らは言ってくれていて、それはどこかって言えば、彼が患者さんをみてるからだっていう。ものすごくよくみてる。やっぱり運動してるときにね、運動してるお医者さんたちみてなかったんだと思うんだよ。患者さんたちが発言したり運動できたりするときっていうのは、あんまり苦しくないときだから、だから、そういうところにだけ付き合って、すごいつらい思いや苦しい思いをしてるところで付き合いきれてなかったんじゃないか。
◆立岩:たしかにね。僕ちょっと別の用事で、中井久夫のものをほとんど初めてに近く読んで、よい書き手でありよい本だと思いました。それからさっき名前を出した山本さんなんかも神田橋の本はいいって言うんですよ。わりといろんなことに対して否定的、批判的な人だけどもね。そのリアリティはわかるんです。
  ただ、バイオエシックスならバイオエシックスっていうのは、医療の論理とはまた違うレベルだけれども、プリンシプルをたてて、それによって物事を整理し、その事態をなにがしか前進させようっていうふうに、まぁ何が前進かわかりませんけれども、動かそうっていう、そういう、医療、医学の内部にあるプリンシプルではないけれども、倫理のプリンシプルみたいなものを三本か四本立てて★ それでいこうぜっていうものなんですよね。そうすると、そのプリンシプルは字で書いてあるから、それを発展させたり、その命題に批判的になんか別のものを対峙するとか、そういう、学問的にノーマルなっていうか、ありがちな話ってのはタンタンタンといく。簡単なわけですよ。ところが、そういうふうにしていくと、いろんなことが実際には起こる。その通りだと思うんです。医療の中でね。そうすると、結局はその個別の個別性みたいなものにどこまで付き合えるんだっていうのは大切だよねって。
  それは全く僕はその通りだと思うんですよ。その通りだと思うんだけど、そうなるともう、なんていったらいいんだろうな、それでもう割り切るっていうか押し通すっていう手もありかなと思いつつ、でもそれはなんていうんだろう、時々山田さんみたいなね、名医かなんかわかんないですけど、いて、それから、精神だったら中井さんみたいな人がいて、認知症で京都だったら小澤さん★みたいな人がいて、そういうふうに話が流れていきもするわけで。抽象的な原理立てて、それで話がすむもんじゃないっていうのはわかりつつ、でもそれに対してある種のその経験値っていうか、だけ言っててもちょっと厳しいなっていうか。
★ 小澤勲
  じゃあその代わりはっていっても、プリンシプルをたてるってのは、なんかね、そこのへんのものの言い方の難しさっていうんですかね。だから、これからどう物事をいってくのかとか、やってくのかって、そういうやっかいさがあるような気がするんですよね。でも科学主義に対して現場主義を対峙すると。現場大切なことはもっともなんだけれども、現場主義ってのは、結局、いろんな現場があって、ほんとに個人技もあり、その他もろもろもありっていう中で、ある種こうずるずるっといってしまうみたいなことあると思うんですけど。それってどう考えたらいいんでしょう? 困るかもしれないですけど・・・
◆山田:だからね、中井さんだとか神田橋さんに、社会的な運動をやってほしいって要求してもちょっとそれは・・・
◆立岩:それはそれでいいと思うんですよ。それはそれでいいと思うんです。
◆山田:むしろだから、やっぱり社会運動をやってた部分が、社会運動やりながらっていうか、世の中変えるっていうことをやりながら、患者さんに寄り添うことってできたはずなんだ、それは。だからそこがね。私もよくわかんないんだけれども、イギリスへ留学した私の1年下の精神科医の話を聞くと、やっぱりイギリスで反精神医学をやった連中ってのは、その後ものすごくいろいろ苦労して、いろんな試行錯誤で、いろんなことをやったっていうふうに言われてて、本当はそこんとこ知りたいところがあるんだけど・・・そこだよね。やっぱりそういうふうに割り切ったけれども、そうことではやっぱりすまないというところへもう一回戻って、そこで苦悩して新しいところを切り開こうとするかみたいな努力や、なんか日本では欠けてると思う。そこをやってほしかったっていううふうに思うし。やろうとしたけど、もうなんか、そこには運動がなくなっててできなくなっちゃったっていう。だから石川憲彦★なんかは運動やる方の人じゃないけど、やっぱり何かやらなければいけないとは思い続けてはいると思うけど。
◆立岩:石川憲彦さんの著作が与えたものは大きかったです。[『治療という幻想――障害の治療からみえること』が重かったです。1988年の刊行ですね。雑誌『季刊福祉労働』の連載がもとになってますから、まず連載の方を読んだのかもしれませけど。もっと以前に出た本のような気がしていました。ずっと東大病院で小児科医してらして。「医療と教育を考える会」というのをやられいてた。いっしょに『生の技法』(安積他[1990])を書いた仲間の岡原正幸がそこに出入りしていたと思います。
 石川さんは1946年生まれだから、山田さんより若いんですね。このごろもいろいろと書物を出しておられる。岐阜大学の高岡健さんと対談した『心の病いはこうしてつくられる――児童青年精神医学の深渕から』(石川・高岡[2006])はとてもよい本だと思いました★。そして、石川さんもまた障害者の運動から受け取ったものが大きかったことを型っています★。]
  山田さんってこの間、この間っていうかもう何十年は経って、なんていうかな、全然その専門家むけじゃない本をいっぱい書いてきたわけですよね。これはそうなっちゃったからなっちゃったんだっていう答えで終わっちゃうのかもしれないんだけれども、いうなんたいったらいいんでしょうね、文体や装丁も含めて、毛利さんであるとか、山田さんであるとか、っていうのは、こういうものの言い方とか伝え方とかしていかなきゃいけないとか、してったほうがいいんだなっていう、そういう思いみたいなものはやっぱりあるんですよね。
◆山田:そうだね、だから、お母さんたちにむけて書いたらわかってくれるお母さんやお父さんいると思うけど、仲間にむけて書いたらわかってもらえないという、絶望が。ほんとにほんとに読んでくれてないないよね、仲間は。だからそれはかつて松田道雄さん★の、松田道雄さんなんて小児科医の間ではほとんど参考にした人はいなかったっていうか、だから松田道男って聞いただけでアレルギー反応を起こすような状態で、ただ憎まれていただけでね。それが現状だよね。

★ 石川憲彦 石川[1988]が重要な著作。
★ 高岡健との対談『心の病いはこうしてつくられる――児童青年精神医学の深渕から』(石川・高岡[2006])
 「石川[…]例えば、ある年齢ぐらいまでの子どもは大人だったら戻らない発語機能戻るのは左側が壊れると右側が利用可能だからということはよく知られてきた。かつて医学はこのような器質的以上論からスタートしたわけです。ところがいつの間にかこれが機能的異常という言葉を生み出すようになると――これは脳死臓器移植まで行ってしまいますが――逆に機能の問題を脳の中の活用方法の異常という仮説を持ち出して、ついには病気を量産しようとしている。ここに今の精神医学の中で一番のトピックス[ママ]になっていると思うのです。
 だから「心の理論」は、因果関係が問題にならない。そこから出てきている理論の怖さは、最適理論です。脳は活用方法を一定の方向に決めたのですから、そこは個性で変えられない。しかし、個性的なありように負担を与え過ぎず、しかも個性を生かすためにどうやって最適の刺激を調節して与えるかが問題だという理論です。それはある意味では当たり前のこ<0040<とで、使い過ぎは疲れるし、使わなくては機能は低くなる、というようなことにすぎないのに、あたかも「自閉症」の子どもには最適があるように言い繕う。脳の動きにまで最適基準として特殊化されて導入されることになったら、これはもう薬づけの世界に突入するしかない。」(石川・高岡[2006:40-41])
 「石川 私も、医者の立場から親の育て方に対するアンチテーゼとして自閉症脳障害説を認めたというところでは、そこは半分そうだと思う。でも、それを医者が言ってはおしまいだとも思う。高岡さんがよく言われるうつ病の話と同じだと思います。「うつ」は日本では根性のせいとか、甘え、だからというふうに批判的にみられてきた。それに関するアンチテーゼとして「うつ」は病気です、というのはいいように見えるけれども、気がついてみたら祖結果アメリカでは女性の4分の1は「うつ」で10%位の人が薬を飲んでいるという話にまでなってしまった。
 そこまでいったときに、専門家が病気だと宣伝していく裏に進行する社会的無意識の動向みたいなも機を相当注意していないとヤバイと感じる。「自閉症」もどんどんインフレのようにふえていく。スペクトラムという言葉自体がどういう広がりと可能性を誰にでも導いていきかねない。しかし誰にでも可能性があるなら特別視を止めてチャラにすればいいじゃない、という社会の方向はなかなか生まれない。」(石川・高岡[2006:42])
 ライフサイズで考えてみると、セルフエスティームが滅茶苦茶になってしまって打ち砕かれた子が沢山いるのは事実です。しかし、彼らはそこからしかスタートできないし、それが大切な力になのではないかと私はいつも思っています。大人は子どもの自信を奪ってしまってはいけない。つまり自分より弱い者を圧迫してはいけない。しかしそれはエスティームによるのではなく、リスペクトによって回復されるのです。人間はどんな子どもであろうが赤ちゃんであろうが大事な人間としてリスペクトされることで、外部が失わせた評価によって生まれる無理を克服していくのだと思う。
 それなら一遍打ち壊れされてもお互いにリスペクトし合う関係を構築すればいいと思うのです。AD/HDの子どもで一度しんどくなったけど、青年<0056<期以後徐々に変わっていった子どもを沢山観ています。それがセルフエスティーム論に対する問題提起です。」(石川・高岡[2006:56-57])
 「石川 私もリタリンの使用はゼロではないです。ただその殆どは既に余所の病院やクリニックで使用が始まっていた例です。この薬剤は子どもに依存が起こらないというのは?で、親に「覚せい剤を子どもに飲ませているのと同じです」ときつい言い方をすると、「いや、子どもの方がこの薬は納得して喜んで飲むのです」と言う。納得して喜んで飲むというのは、既に覚せい剤依存の始まりなのですね。つまり、イヤだなと言いつつ飲むのが薬で、納得して喜んで飲むというのは凄く危険なんです。
 薬を私が使わない理由は、先ほど高岡さんが言われたAD/HDの診断のところでの、病状が二つ以上の場面であるという点とからみます。場とは子どもにとっては大体学校か非学校的な家庭かです。私がリタリンを使う理由は限られています。家庭で困るなら使うのです。例えば旅行。最近は減りましたが夜汽車で行くというときに心配ですね。汽車から飛び出して迷子になったりしたらとか、親も気が気じゃないことがある。そんな時にリタリンを飲んで安心してみんなで楽しく旅行できるならそう悪いことじゃないと思っています。
 つまり多動行動が病的で本当に困るというこのは、診断基準にあるように多様な場所で困ることです。そういう場合使用もしょうがないと思います。日本で多いのは、隣の家との住居環境が悪いので薄い壁一枚で隣の家から怒鳴り込まれるといったこと。それでは一家の生活が成り立たない。そうなると親は、子どもはやはり静かにしてくれ、というふうになってしまうことは現実に少なくないですし致し方ないと思います。ですけど、リタリンを飲んでいる子どもの90数%までは家では飲まないのです。学校での限定的使用という綺麗な言葉で正当化されますが、私にはそこにもの凄い?っぽさを感じます。
 高岡 夏休みは飲まないとか。
 石川 そうです。つまり学校や社会のために飲まされているのです。」(石川・高岡[2006:71])
 「偶然の要素というものを誰がつくるかという問題ですね。治療がよかったという言い方を私は信じません。治療的根拠がないから信じないというだけでなく、治療者もそういう偶然の要素を呼び込み得るような存在であることをあり得るといきう非可視的な事実をどう評価するかだと思います。私はその根拠というのは比較的簡単ではないかと思います。虐待の連鎖のなかで先祖まで遡っていくと、西洋の世界ではアダムとイブまで行くわけですね。[…]
 […]誰もが永遠に苦労を背負って生きなければいけないと楽園から追い出されるわたげす。しかし神はアダムとイブを消滅させなかったというストーリーこそ、メソポタミアの創造神話です。そのアダムとイブの子ども同士に虐待とも言える差別を与えて兄貴殺しを神がさせるわけです。兄を殺した弟はあらゆる人間から人殺しだと責め立てられる可能性を予測し、自分は生きていく自信がないと嘆く。しかしそのとき、神は弟に向かって、そうはさせない、お前に手を加えたら手を加えた者に何十倍もの責めが帰るのだ、と勇気づける。私は、ここは凄くおもしろいところでと思<0082<います。
 小さいころ虐待を受けた人。凄まじい思いを生きて、「うつ」になったり、PTSDになったり、人格障害と診断されたり、命を絶とうとしたり、そんな和い人との付き合いは、いつもこの神話に帰着します。自分が人間として生きていくときに、その人が最終的に求めているのは「自信」よりもっと根底的な、「生きることとの和解」です。自らに襲いかかってつくるようなものに対してなお自分でいつづけられるような「ゆとり」の回復ですね。そうしたものを生み出すのは診療室の治療というより、社会的な「和解」のストーリーの実現だと思います。原因を親に遡るなら、人類の最初の先祖まで遡って考えて生きていくしかない。そのために一番いやな人間と生きていくことを支え合うしかないし、どんなことをしても死んではいけないし、殺してはいけない。そうした和解が恨みや憎しみの中から親子や家族の間で生まれてきたときに、何となく楽になってくるというのが30年ぐらい付き合ってきた人から読み取れるストーリーなのです。」(石川・高岡[2006:82-83])
 「石川[…]リストカッティングを、必ずしも新しい現象だと思っていない。遡れば日本社会では指を詰めたりしたわけですね。あれはヤクザの世界、義理人情の世界の特殊事情ということになるけれども、私は、自罰性というのはそもそも修行者の世界に端を発する普遍的行動だと思う。断食の行ちるしても――摂食障害とも通底すくかもしれませんが――食を断つという形で自らの身体を傷めるわけですね。リストカットする子も、ある意味では身体を傷めリセットするわけです。世界的にも宗教行事に伴って、さまざまな身体罰を伴った自虐性、自罰性というのは一つの意味がある行為とされている。私は、その自罰性の意味合いが変化したところにリストカットを見ているところがあるのですね。これ<<は、宗教性の変化と言ってもいいのです。摂食障害の子どもと初めて出会った時に、私は食べないっていうことにもの凄い聖なるものすら感じました。自分のしている行為を確実に何らかの形で認識できる絶対性の中で確認するというのは、悟り以前の修行の特徴です。体重計は自らが食べないということで自分を罰するという行為を確実に測定して評価してくれる。しかしそれ以外の世の中の評価というのは、努力しようがしまいが、その努力をきちんとした形で想定して正しい評価を返してこないわけです。
 つい最近まで宗教性というのは、世俗的価値に対する対極的な意味として主観的絶対価値を的確に反映していく方法として存在した。自傷というのは、世俗性に対決する明確な宗教性がなくなったために起ってきた。リストカットする子を見ていると、見せたくないリストカットと、誰かに見てほしい、家族に見てほしいリストカットと、家族には見せないかわりに友だちだけには見てほしいリストカットなどがあります。それぞれ気メッセージ性は宗教的なレベルで全然違うのではないかと思います。」(石川・高岡[2006:104-105])
 石川「私はすべての患者さんにそのように対処できるとは思いませんが、ある医者のところで滅茶苦茶な投薬量の薬を飲んでいた人たちが、1剤か2剤まで投薬薬を減少すると調子がよくなることがほとんどです。なぜかと言いますと、確かに病気だったかもしれないし、薬剤の力を借りなければ乗り越えられないこともあったかもしれませんが、薬剤は対症療法です。歯を抜く時に傷み止めが要るように、薬を使わなくても歯は抜けるのです。しんどいところも抱えつつ、そこを乗り切っていく姿に人間は凄いなと感動したりしながら治療関係をつくっていく時と、大量投薬の時とでは全然違った症状になるわけです。特にそうしたことを強く感じるのは、今流行りのボーダーラインという診断名をつけられて薬が出されている場合です。ボーダーラインという診断名をつけたら、薬を使ってはいけないと思う位です。私は、ボーダーラインの場合、単一の症状に限局して薬を使うことはあるけれども、それ以外はしんどいけれども耐えていけるなら耐えていこうという形で投薬を抑制すべきだと思います。」(石川・高岡[2006:115])
★ 「春以来寝たきりだった義父が、一〇月に他界しました。義父の看病を通じて、老化と障害について再び考えはじめていた矢先、金井康治さん、熊谷あいさんと相次ぐ突然の悲報がまいこみました。金井さんは二〇年前から、熊谷さんは現在、障害児が普通学級で学ぶ道を、きりひらき、共生への歩みを求めつづけてきた障害児者でした。
 そして、義父の葬儀に追われてほんの数日留守にした間に、追いうちをかけるように母が入院。あれよあれよというまもなく、寝たきりになってしまいました。<0135<
 一〇年前、父が九〇歳で死んでから、母は希死願望をもつようになりました。「何もできなくなった。生きていてもしかたない」というのです。とりわけ身体の衰えが目立ちはじめた八〇代後半からは、私の顔を見ると「なんか、医者やろ、楽に死ねる方法、教えて」と訴え、ついには「殺して」があいさつになります。
 職業柄「死にたい」と訴える人とのおつきあいは少なくありません。しかし、親子となると、つい口論になります。
 […]「自分より弱い人のことを、自分以上に大切にしなさい」が口ぐせで、私は小さい頃から毎日念仏のように聞かされて育ちました。私が医者になったのはこの口ぐせの影響が大です。
 その母から、「殺して」と頼まれると、むなしくて、つい本気で怒り<0136<をぶつけてしまいます。[…]
 「気持ちがわからないのではありません。その生いたちから気位だけで人生を支えてきた母のこと。人にしてあげることは大好きでも、されることにはがまんできない。それが、自分がどんどん無力になって、一方的にされる立場になっていく。金井さんをはじめ、障害者とのつきあいがなかったら、きっと私も、母の気持ちに深く同調し、尊厳死を願っていたことでしょう。
 「できなくなったら終わり」「人のお世話になりたくない」。この潔癖すぎる個人主義は、人間と人間の本来の関係を否定します。できないままの自分を素直に生き、おたがいに迷惑をかけあうところから、初めて本当の人間関係が始まる。障害者の主張を、そんなふうに聞けるようになり、すべてを一人で背負いこむ自己完結型の自立を幻想であると理解できるまでには、ずいぶん時間がかかりました。」(石川[2005:136-137]、初出は『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』2000冬(200202?) ★ 松田道雄 1908年〜1998年 『育児の百科』は1967年刊行、以後毎年改訂された。現在は岩波文庫に収められている。
石川 憲彦 19880225 『治療という幻想――障害の治療からみえること』,現代書館,269p. ISBN-10: 4768433618 ISBN-13: 978-4768433614 2060 [amazon] ※ b
松田 道雄 1967 『育児の百科』,岩波書店,770p. ASIN: B000JA707M [amazon] b

◆立岩:それが素朴に不思議な感じがするんですよ。ゴリゴリの科学者は、やる商売が違うじゃないですか、小児科医と。互いに参考にならないっていうかな、ちょっと生きてる世界が違う。これはわかるんですけど、勤務医にしても開業医にしても小児科やってるときにそこにいるのは子供じゃないですか。そうしたときに、僕ら素人眼で、松田さんの本でも毛利さんの本でも読んだときに、説得力っていうか、納得できる部分っていっぱいあるわけです。そうすると、患者、子供を相手にしたときに、やっぱこういうものって、素朴に考えてね、臨床医の参考になるんじゃないかとか役に立つんじゃないかって僕なんか思ってしまうんだけれども。でもそれが顧みられないとか読まれないって、なんなんでしょう?
◆山田:要するにね、読んでなるほどとは思うかもしれないんだけれども、それを納得してしまって、自分が同じような医療をやってしまうと、集団の中から外れてしまってすごいやばいことになるから、そういうものはなるべく見ないようにするっていう、というところがあると思う。
  そういう感じで言われたことはよくあるよね。医者の集団って、やっぱ逸脱した部分にはならないっていうことがあって。実際はこれが正しいんだけれども、これをやることになってるからこっちをやるっていうようなことを言うっていうか。非常に具体的に言うと、三種混合っていう予防注射は3回やって翌年に1回追加をするっていう4回方式なんだけど、大阪の小児科医の人たちが、2回やって翌年1回の3回方式でも十分免疫はつくっていうデータを出してくれてる。現実によくあることなんだけど、お母さんたちの中に2回やったけど忘れちゃって3回目やらなかったと、それで間があいちゃったんだけどどうしたらいいかっていうことで、たとえば保健所みたいなところ、保健所だとか市役所だとかに電話をかけると予防接種担当は、「そういう場合は2回でやめて翌年の1回をやればいいんです」って答えることになってるんだよね。そう答えるんだったら2回でいいやんかっていうことがあって、それで私も私の連れ合いも2回でやってたんだけど、そしたら、私の方は八王子では触れないようにされてるからなんにもお咎めがないんだけども、連れ合いの方はまだ、開院してから短かったし、女性だしっていうことがあって、医師会から呼び出されて、その小児科の地域でチーフをやってる人が、僕も2回でやっていいっていうデータなんかは知ってるしそれでいいと思うけれども、医師会では3回やることに決めていて、どの医者も3回やっているのにお宅だけ2回をやってるとトラブルが起こると、だから3回にしてくれないかって言われたっていう話があって、非常になんていうか象徴的。
  そういう言い方なんだよね。わかってなくて、私は絶対3回が正しいって思ってるなら別だけど、わかっていて、2回でいいと思ってるけれども、でも、っていう。だから、自分を逸脱させてしまうような疫病神みたいなものには触れないっていうことがあるんじゃないかな。
  中川米造さんは医者にも呼びかけてたんだけどね。医者向けの雑誌にもあの人けっこう書いてたから。だけど誰ものらなかったと思う。で、もう、諦めたんじゃないかと思うんだけど。それでそこは、阪大とか滋賀医大とかに聞いてみたいっていうのがあるんだけど。中川さんの考え方を継ぐ医者って阪大や滋賀医大にはいるの? 他行っちゃった?
◆Bさん:出たって聞きました、みんな。中川先生が九大からいって、阪大に入って、そこで一応ひとつの位置で、そこで自由にやっていて、最初の話で言ったんだけれども、阪大を辞めた中川先生を支持した医師が言っていたのは、結局中川先生が言ってる授業に共感した医師たち、それが学生から医師になって、そこに医局におれなくなって、みんな出たってその医者たちは言ってました。
◆山田:出た人はどうしてるんだろうねぇ。
◆Bさん:そのお医者さんが言うには…
◆山田:いやぁ、何を実践してるんかなぁと思うけど。
◆立岩:中川さんにしても、医療者自身の仲間に対して呼びかけるっていうスタンスはあったと思うんですよね。逆にそれが、今言ったような、ほんとにしがらみに近いような部分もひっくるめて、なかなかそこは動かないっていうときに、そういうこう・・・じゃあどこへ持ってくかってときに、いろんな方法があると思うんです。
  たとえば、ドイツとかの医師会とかっていうことになってきたときに、これはうちの同業者だと市野川が得意な分野だけども、もうすこしそのいわゆる倫理的問題にセンシティブな医師会だそうです。僕は具体的には知らないけれども。それは過去の経験もあるんでしょう。そうしたときに、同業者組合がもうちょういちゃんと具体的に動くっていうような。あの国でさえもというか、そういった戦時下の医療体制に対する批判とか搬出、反省ってのは、80年代の終わりぐらいにならないと出てこないんですけど、それでもやってる。そういうこうドイツ型の同業者組合の倫理とか、内部ルールみたいなものでやってこうっていう、そういう流れが一方に、ひとつのタイプとしてあると思うんですけど。
  それから、あとは、内部っていうのは内部のほんとに既得権とかしがらみがやっぱあるから、外部にルールを作ってって、ある意味抑え込むとかやるっていう。アメリカは一概にそうだとは言い切れないところあるけれども、でも法律作ったりだとか、外部の人入れた倫理委員会作ったりだとか、なんやらかんやらで、そういうこう外部のルールっていうのを作っていくっていう、そういう動き方をするわけですよね。
  両方、長短あるとは思うんですけど、日本の場合だと、少なくとも今のところ、中途半端であったり、どちらでも、いずれでもないっていうことがある。それはおそらく、さっきの話で言うとさ、たぶんその60年代から70年代の改革を担おうとした中核部分っていうのが、いずれにしても体制内変革、医師会をなんかするとか、あるいは医師会は頼りになんないから法的なルールを作るとか、あるいは患者を組み込んだようなルールを作って締めるっていうやり方と違う部分に、本来的な社会改革のあり方みたいなものを設定したと、が故にというか、故には強すぎると思いますけれども、そういうこう、方になかなか行きずらかったっていうことはありえますかね?
  つまり社会とか、ガラッと変えなきゃしょうがないじゃん、究極的には。そうするとそんなふうに視界がどうやらとか法律がどうたらとかって、それはしょせんみたいなね。そういうこう部分っていうのはあったのかなって。なのか、でもそれもあったんだけど、結局、現にある体制自体が強固なものであって、ちょっとやそっとじゃ動かなかったっていう、両面あるって可能性もあると思うんですが、そこはどうですかね?
◆山田:僕はずっとそうやって、しばらくして八王子へ行って診療所の医者になってしまったんだけど。たとえば、地域でシコシコやる型の運動っていうのは日和見だっていう感じがあったから。とにかく革命主義しか変えられないと。だからベ平連なんかだって馬鹿にしてたもんね、ああいう市民型の運動っていうのは。結局だけど、最終的には、ああいうものが残って他はなくなっちゃったんだけど。
  でもやっぱり当時はね、基本的に原則的に活動できないやつがああいうところへ行くっていうか、特に若くてべ平連なんか入ってたら、あれはもうなんか、だいたい我々のころっていうのは、やっぱり今と違って、なんていうか、30歳以上の人間っていうのはもうダメだっていう感じがね、非常にそういう時代だったんだよ、本当に。だから、僕らもう、それがまたびっくりしちゃうっていうかな、若い人に「よくやってますね、すごい」とかなんか言われると、そういうことを言う年代じゃないだろうっていうふうに思うんだけど。我々のころはそうだったから。ベ平連なん中年以上のもうラディカルに活動できなくなったやつがやる運動みたいな感じがあって。そこはだから、きっとクラスなんかとは決定的に違ってるっていうふうに思うんだけど、自分のやっぱり内なる論理をどうするかみたいな作業へは行かなかったっていうふうに思うよね。
◆立岩:僕は、日本のそういった動きを全面的にだめだとは思わない。さっきの言い方だと非常にネガティブに受け止めているみたいなでしょうけどは、それだけではなくてね。倫理委員会作ったり法律作ったりっていうのは、どんな法律作るかにもちろんよるけれども。やっぱりそれでよかったのか、そういうふうにやってきたやり口、アメリカならアメリカの…・
◆山田:あれは結局、現状を進めるために…
◆立岩:現状はむしろ進んできたわけですよね。そういった場合に、あれが唯一の解ではなかったと思うんですよ。もちろん僕は、ルール作りはルール作りで必要だと思うんですけれども。ただそこにあるバックグラウンドっていうのは、基本的にはなんていうかな、ある種の消費者主義というか、以上でも以下でもない。消費者主義そのものは大切ですけれどもね。そこの中でひかれるラインっていうのはおのずと決まってきて、と思うんですよ。
  たとえば、英国っていうのは午前中の報告であったけども、アメリカ型の消費者主義とは違って、専門家主導の良きようにっていう部分がある。専門家の組織が強いって、同じ英米の中でも言えることじゃない。では、そこでしかれた路線っていうのは、じゃあ、それもよかったのかって考えると、どうもそういうふうにも思えない。そういうふうに考えるとね、必ずしもよそみたときに、「これでいいじゃん」「これだったらよかったわけ」っていうそういうモデルっていうんですかね、成功例っていうのがあったわけではなく、そうやって考えてみると、少なくともなんだろう、今やってる医療としてやってることとか、やらないでいることっていうのが、これでどうなのよかったの、そういうことでいいんだろうかっていう問いかけみたいなのも含めてね、ある種の思想っていうんですかね。
  僕だったら、石川憲彦さんの本であるとか、そういったものの中に、なんだろうな、かなりこう本質的なというか、そういう部分があり、なおかつ、それはその必ずしもアカデミズムの世界に向かって語られたことではなくて、一般の読者であったり、そこらの人にむかって語られたということの意義みたいなものがね、これはあんまり、あまりというか否定する必要はない。積極的にね、評価したうえで、とはいえっていう話ですよね。やっぱりルールはルールで必要な場面もあるだろうし、同業者は同業者でいつまでもやってもらっても困るわけだしっていう話になると。だから、僕はその、そうやってフニャフニャっとしたね、何やってんだか我ながらわからない、数十年ではあったんだけれども、そこの中でこう、右往左往言われたり、考えられたことと、のはやっぱりあるんだろうなって。
◆山田:俺、それはびっくりしたんだけど、今井みちに会ったときにね、「山田さんみたいなことを言ったりなんかしてると、アメリカではもう医者を、医師会を除名されたり、医者をやめさせられたりするんだ」って言われて、「えぇ!?」て思ったの。そういう国なんだっていうか。実際は、いろいろしゃべられてるようで、一定の枠の中でしゃべったりしてるわけだから。そういう意味ではいい加減な自由さみたいなものっていうのがあるんだね、きっと。

◆立岩:僕、いったんじゃあ、また再起しますけど。いったんひっこんで質問ためますんで、ちょっと栗原さんとか、誰でも。
◆栗原:じゃあ今のお話、せっかく濃密なお話をしていただいた後にこんなひきになるようなのはあれなんですけど、一応今回、特集に医療崩壊うんぬんってつけようかなとは思ってるんですよね。そのときに山田さんなり中川さんなりっていうのが、医者から医者への呼びかけっていうのがあんまり通じないとか、むしろ市民というか患者さんというかお母さんというか、に通じる話をしてきたという中で、まさに医療崩壊っていう名前のタイトルのついた、虎の門病院の小松さんっていう方のあれなんですよね。あれは逆の意味で、医者同士の中のものすごくうけたはずで、衝撃されたはずで、そん中にはやっぱり、これまで、それこそ60年代70年代の患者の権利運動みたいなことの蓄積をまったく顧みないかたちで患者不在で議論が進んでいる。崩壊の原因はクレーマー患者だという話にもなってるし、そういう最近の、まず漠然とどうご覧になってるかっていうのを少しお伺いしたかったんですけども。
◆山田:私の同級生にも、小松秀樹ほど有名じゃないけど、医療立国論っていうのを書いてるのがいて、彼も急に医師会やなんかに呼ばれてお話することになって忙しくなったっていうふうに言ってるんだけど。ようするに被害者意識だよね。こんなに一生懸命今までやってきたのに、なんにも評価をちゃんとしてくれなくて、こういう状況になって、騒いで知らないよっていうあれだよね。
  基本的に、僕は何も困ってない。実質的に困ってないし、このことで怒ってるわけでもないんだけども。昨日ちょっと仲間内で話してて、それは茨城県にある国立病院の話なんだけども、全然採算が立たなくなって、400床ぐらいの入院ベッドで今もう320ぐらいしか入らないと。かつてだとベッドが埋まってないっていえば、無理やり入れたりしてたからね、ちゃんと埋まってたんだけど、このごろそういうことができなくなったから赤字になったっていうふうに言ってるんだけどね。現実に確かに入院してなくてもいいような人が入院していたっていうようなことはあって、ものすごい過剰な医療がされてた。過剰な医療が一方でされてて、こっちで不足した医療が歴然とあって、それはさっきの学用患者なんていう極端なことじゃなくても、たとえば生活保護者だとか外国人だとか、いろんなマイノリティの人に対する医療みたいなものはものすごいことになっていて、それはだいたい病院の中で、そりゃぁもう6人部屋なんて外国では考えられないっていうか、プライバシーもへったくれもない、あんなところへ病気なのに押し込められてっていう感じだけれども。そういうひどいのがありながら、一方ではものすごく過剰な医療がされてたわけだよね。
  格差があるから、病院の勤務医はたいした給料じゃなかったし、そんなに儲けてはいなかった。でも彼らだっていったん開業すればいくらでも儲かるっていう可能性を持ってたわけだよね。今金を持ってるかどうかだけじゃなくて、ほしいと思えばいくらでも稼げるような時代にずっと生きてきて、それが、そういう過剰な医療を多めにみられるような余裕が国になくなってしまって、一挙に新自由主義的に改革されたときに、今までの既得権益みたいなものが一挙になくなってしまうわけで、そのことで騒いでるわけだよね。
  それをなんか患者さんとこに大変だっていう話にしていてね。やっぱりこういうことになってしまっていることについては、医者の側の責任ってものすごく大きいと思うし、それは医学教育にしたってそうだったっていう。たとえば地方に医者が行かないっていうのも、一番大きい原因は子供の進学ができないっていう。だから、いくら何千万あげるから村の医者になってくれって言っても、そんなところへ行ったら息子が医者になれないっていう、それが一番大きいって言われてるんだよね。医者にとってはね、だいたいほんとにもう医師会なんかの話題っていうのは、子供の進学のことと二代目をどうするか、嫁さん探し、婿さん探し、もうほとんどその話しかないような状態になってるわけだよね。特に開業医なんていうはそういうふうになっていて。そうやってだからほとんど世襲制みたいにしてやって、しかも世襲制にするのはやっぱり生活が安定してるっていうか、いい生活できるからっていうことがあって、やってきていて。
  それが、そういうツケが今全部一挙に来ちゃったっていうことだし、確かにだから過剰な部分をへこまして平坦化すればいいものを、過剰な部分だけじゃなくて、不足していた部分もなお不足した状態にするっていうようなことをしてるからね。それは問題が大きいけれども。少なくとも過剰な部分を平坦化されてここまで持ってくるっていうことについては、それは文句は言えないはずだし、それは率先してきっと医者がやらなきゃいけなかったことだと思うんだよね。そういう意味で医師会なんかも日本の医者は自浄作用がないっていうふうに言われてて、自分たちの中でお互いに批判し合ってどうこうするっていうようなことができないから、で、それはわかってたわけだよね、
  たとえば脳死やなんか臓器移植が全然進まないのは医者が信用されてないからだっていうのも医者はわかっていて、要するにああいうのにこういうことやらせると何するかわかんないっていう一般の感情みたいなね。そういうその一般の人が医者に好きなようにさせるとなにするかわからないっていう感情を持たれたっていうのは、医者としては決定的にまずいことだと思うんだけれども、そこに対してやっぱり何にも言ってこなかったっていうことがあって、それでだからほんとに被害者意識しか残ってないっていう状態だよね。
  だから、産婦人科でも医療ミスでの話なんていうのは、それはもうみんな一斉にあれはひどいっていう、あんなミスを言われたら、誰だって医者行かなくなっちゃうしっていうようなことを一斉に言うんだけど、あそこでほんとに医療ミスはなかったのか、死ななきゃいけなかったのかみたいな患者側のことをいうやつっていうのはほとんどいないもんね。それはすごいおそろしいことだよね。だから、医者の被害者意識を共有するっていうかたちのものなら、すぐ固まって、なんか声があげられるっていう状態になっていて、そういうときにやっぱり、患者側でっていう人がほとんどなんだよね。
◆立岩:勤務医のある部分っていうのが、昔はわりと随時開業医に乗り換えられるっていう状況があったのだが、それがなくなって、なおかつ、かなり労働条件やその他考えるとこれはちょっと不平のひとつも言いたくなると、もっともであるっていう状況は確かに生まれてるんで、それはそれでなんかしないとそれはまずいだろうと。それはその通りだと思うんです。ただその労働条件全般どうするかって話とね、その鬱積のやり場を誰に対していくかって話とこれは別の話で、それはお門違いだってことは多々あると。
◆栗原:今日それこそ新幹線で来るときに、ニュースで流れたのは、富山の射水は殺人ではないというか、24時間内に延命中止したけれども、どっちみち24時間内に亡くなることがわかっていたから事件性はなくて立件しないことになったんですけど、ちょっとダイジェスト版でみたからわかんないんですけど、そんなことも流れていたのかなって思って。あと、医療事故、医療過誤みたいなのに対して、ある意味、司法の介入うんぬんっていうことで、医者の側がそれはないよって話を・・・これってどうお考えですか? 司法とか刑事事件としてそういう医療過誤が持ち出されるってことに対して。
◆山田:日本って法医学者がほとんどいないんだよね。法医学の専門家ってものすごくいない。大学なんかではね、すごくなり手がないのがあって、たとえば、衛生学だとか公衆衛生学っていうのは日本ではものすごく人気ないから、だから、我々のころは活動しててなんも勉強しなかったやつは公衆衛生か精神科いくとかいうふうになってたりしてて、だから、その保健所だとかなんかの医者みたいなのはものすごく下にみられてるとかなんかっていうのがあったりするんだけど、だからもともと、実際に、我々なんかが亡くなった人のところへ往診して行って、それで鑑定してたというか、という状態なんだよね。
  だから法医学そのものがきちんと成立していないし、それからそういう人気のない科っていうか、収入は少ないよね。法医学じゃ開業できないし。そういうところで、そういうところへちゃんと誰かが養成するっていうシステムがないから、だから希望者が希望する科の医者になってるって状態だからね、もともと。それはだから、そういうなんていうか、司法の手でやるかっていうか医者の手でやるかっていう話よりも先に、法医学的な知識を持ってる人があんまりいないというあたりからどうするかっていう・・・。
◆立岩:一方ではガイドラインなり法ってかたちでこういうことやってもいいんだってお墨付きはもらいたいわけじゃないですか。そういう意味じゃその法の介入を歓迎してるわけですよ、ある部分は。でありながらある部分は、立ち入らないでくれっていうんで使い分けてる、今やってることは法律で認めてもらわないとちょっと危ないからっていうのと、あんまり口出さんでくれっていうのは、本人たちの中では両立してるわけですよね。だからそれに対して、どういうところでルールが必要で、どういうところでまたいらないとかっていう話を、その利害は大変、その心情は大変よくわかりつつ、別途たてないとぐちゃぐちゃになってしまうわけですよね。

◆Dさん:今、新しい医師会を作ろうって言ってますよね。第二医師会で。勤務医自体を暇だから、よくあつさんとか今いっぱい呼びかけてますよね。
◆山田:勤務医師会を作ろうって言ってる。
◆立岩:芽はあるんですかね?
◆山田:いやぁできないと思うよ。そういう団結力がもうないし。やっぱりその医師会の権威がものすごく落ちてきたから。だから・・・・・・
◆立岩:むしろ勤務医でしょ。病院に勤めてる医者たちがもうちょっと正常なというか、まともな文句の言い方とか、文句を言う回路みたいなのをきちんと作るっていうか、あることの方が正常だと思うんですけどね。
◆山田:だけどねほんとに基本的なところでね、たとえばその産婦人科なんかだって、僕なんかは割合、助産婦さんたちの集まりやなんかに呼ばれたりすることがあるからあれなんだけど、とにかく産婦人科医が助産師に対して協力しないっていうか、面倒くさいのだけ押し付けられてみたいな話で、要するに、やっぱり助産師の側も連携してやらないとなんか異常出産の時やなんかは、ちゃんとすぐ受け入れてくれるようなところがないとあれなんだけど、だいたいうちへずっと検診にも来てないで、そんな事が起こったときに来るようなのっていうのはやりたくないとかなんかって言われて、協力するっていう体制がないんだよね。
  そういう意味で、日本ではやっぱりそれぞれのいろんなパラメディカルって言われてる部分の職種のチームプレイみたいなのはないから、お互いに自分の権益を主張してるっていうことだから。たとえば医療行為みたいなものをもっといろんな人ができて、介護福祉士なんかにも医療行為がある程度できるようにしなきゃみたいな話をすると、一番反対するのは看護師連盟だったりするっていうか、看護婦の仕事をとるなっていう話になっちゃうとかね。ものすごいせまい世界の中でやっていて、協力関係なんかもない。だからもっと助産師だとかなんかってのを活用すればね、今病院よりも助産師さんのところで産みたいってお母さんってすごい増えてるんだけど、やっぱり病院の医療っていうのは、やっぱり非常に、だいたい時間に合わせて産まれる時間を調節するような医療っていうのが、今までもう当たり前でやられてきたけれども、おかしいんじゃないかっていうふうに思い始めて、なるべく自然なお産をしてくれるところって人気があるんだけれども、でもやっぱり助産師さん自体はどんどんやっていけなくなって、もう人が減る一方だよね。
  そういうところに対する関心みたいなのが医者の側に全くないし、それから小児科医なんかだって忙しいっていっても、だからアメリカなんかだいたい一日に30人か40人ぐらいの子供しかみないというふうになっていて、ほとんど予約でやってる。それだけですませるには、やっぱり、こういう場合は病院へ来なくても家でみればいいんだよっていう患者教育みたいなものを一方でちゃんとしないといけないわけで、一応そういうことをやってるってことはあるよね。
  だけど、日本では、医師会にしろ勤務医にしろ、そういう患者教育みたいなものは一切やってないという、だから、僕らが書いてきたなんていうのは結局そういうことなんだよね。本来、だから、全体の医者が自分の患者さんに対して、こういう時は来て、こういう時は自分でみていいし、自分でみてる時にはどういう注意をしたらいいんだっていうことを、普段話していなきゃいけないことで。我々の本がある程度売れてしまうっていうのは、そういう話をほとんどされてないからっていう。病院でいちおう説明聞いたけど何もわかんなかったから家へ帰ってきて本のその項をひいて調べてやっとわかったとかなんかっていうことが日常行われているわけだから。   だからやっぱり、こういうふうになった状況が何によって生まれたかっていうことで、その中には自分たちにも責任があるわけだから、その部分はまず何とかしていかなきゃいけないと。だから行政に求めるものは行政に求めるとしても、やっぱり自分たちの方にあるっていうかな、でもかなりやっぱり被害者意識があって、その今の親たちがわけわかんないからそうやってなんでもかんでも病院へ来るとか、なんでもかんでも文句を言うとかっていう、被害者意識になってるんだけど、僕らはやっぱり、親が不安になってたりするのも医者が不安にさせるような検討をしてきたからそうなったわけで、最初からそうだったんじゃなかろうと言うんだけど。

◆立岩:今日、前半の話ってちょっと違うトーンで終始進んだような気がするんですけど、山田さんたちって、ほぼ95パーセントぐらいすごい普通の、普通のっていうか、当たり前に考えればそうだろうっていうことを言ってきたんだろうと思うんですよ。
◆山田:そうだよね。
◆立岩:だからこそ読まれもしたし、受け入れもしたと思うんですよ。ただそれはほんとに普通に合理的なことをちゃんとやりましょうっていうことだったと思うんですよね。そこはけっこう大切なことで、つまり、仕事が多すぎるって文句を言ってるわけでしょ、今人々は、医療者たちは。だけど仕事はほんとは減らせるってことですよね。
  それは産科に関して言えば、ほんとに助産師さんたちでほぼやってける、ほぼやってけるのに、そういうふうなシステムになってないから、助産師さんたちに仕事が任せられないっていう状況が産科では起こっている。小児科は今おっしゃった通りだと思うんですよ。だからほんとそこらへん普通に合理的に考えていけばいいわけで、あんたら仕事が多すぎて困るって言ってんでしょと、だからちゃんと合理的に仕事を減らするような状況をきちんと作っていくのが正解でしょっていう話をしていく以外ないですよね。それがそういうふうに話がいかないまま、余計な奴が来やがるっていうで繰言を言って、っていうところでグルグルまわってるっていうのが今の状況ですから。
 そういう意味で言えば、それだけでは言えないような・ことを山田さんたち言ってきた部分あるけれども、でも、同時に非常に当たり前のことを言ってきたわけで、それをやっぱり引き取るっていうんですかね、それはできることでもあるじゃないですか。それはそれで、ほんとはリアル、非常に現実的な解のある話だと思ってるんですけどね。
 みなさんいかがでしょう?。あと30分ぐらいやりますが。
◆Eさん:仕事が多すぎるってことを立岩先生がおっしゃいましたよね。他方で自分たちの現実を主張するっていう話があると。このへんはどういう関係になってるんですか?
◆立岩:仕事が多すぎるって言いながら、でも仕事が減るっていうことを非常に嫌がってるってことはあるわけよ。忙しい、忙しいって言いながら、忙しくさせてね、もっと時間を作ってあげるよって言われると、実は軸足はそっちじゃなくて、今ある確かに忙しいかもしれない仕事を守るってことの方が実際は大切にしてるんだってことが、わかる。
◆Eさん:それは仕事が減ると収入が減るから?
◆立岩:収入もまぁ…。
◆Fさん:日本の保健医療制度って出来高払いなわけだよね。病院の場合は。実際アメリカとかってやっぱり安く抑えてるんですよね。たとえば、非常に専門的な人が手術をしても、研修医の一年目が手術をしても、医設だったら同じ値段なんですよね。保健診療とか。アメリカの場合はコンサルタントとかになると、もうそれでかなりフィーがとれるし、イギリスの場合もコンサルタントになると、自分のプライベートの患者いくらでもみれる。でね、医者の先生にちょっと質問なんですけど、医者の立ち位置ですよね、社会的な価値っていうのがやっぱり日本ってそんなにえらくはないんじゃないかと思うんですよね。えらくなったのはごく最近で、アメリカとかイギリスとかと比べると、社会的に日本の医者って、そんなに戦前とかすごいえらい存在じゃなかったように思うんですけど。
◆山田:要するに集団としての医者っていうのはね、大して尊敬されてないけど、主治医は尊敬されてるっていう。それはね、アンケートみたいなのとって医者相対としていいか悪いかって言われるとね、その支持率すごい少ないんだけど、自分のみてもらってる医者はよいっていうふうに言うみたいなね。それで安心しちゃってるっていうか、医者が、世間に悪い医者いるかもしれないけど私はいいっていうふうに、自分への問い返しがあんまりないっていうところはあると思うよね。
◆Fさん:私だったらイギリスの方とかやったんですけど、やっぱりイギリスってメンバーオブロイヤルカレッジオブフィジシャルのメンバーになるならないってすごい大きいじゃないですか。それはもうすごい歴史があって、そのメンバーシップになったっていうだけでステータスも全部ついてくる。たぶんアメリカもボウドをとるっていうのはそういう意味だと思うんだけど。日本の場合は、たとえばどっかの学会の専門医になったからといって、それだけでステータスがまったく変わっちゃうっていうのはなくて、むしろ今まで大学の教授になるとすごかったのがもうだんだん崩壊してるから、教授がなんぼのもんやっていう時代に今なってきてますよね。
◆山田:そうだよね。要するに、今まで実力じゃなくて肩書きみたいなもので見られていたのが、アメリカ型の実力でっていうね、神の手みたいなやつっていうのは、だいたいだから今までね、ものすごくできるやつってだいたい変わり者が多くて、集団の中に日本ではいられなくて外へ出てるんだよね。私の1年下の福島っていう脳外科の神の手とかね、南口あきひろってまたの原作書いたりもしてる循環器の医者だとか。彼はやっぱり、南口君は知らないけれども、福島なんていうはちょっともう性格的にはもう付き合いたくないっていう(笑)、ただ付き合いたくないやつでもあいつにしか出来ない手術みたいなのがあると頼まなきゃしょうがいないのかなみたいなところがあるんだけど。日本の中では割合やっぱり、すごくすごくできるやつは大学から追い出されていて、野に出てるんだけど野での評価はないっていうか、一般の医者と同じ目で見られていたっていうのが変わってきたんだよね。むしろだから、野の方にどうもいるらしいと、それから、今、サカリヤナって雑誌が評価やなんかをすると、普通だったら、京都だったら京大がトップになるはずなんだけど、京大じゃなくて京都日赤の方が上だったりとかねなんかっていう、ああいうことでランクがやっぱり違う目で見られるようになったから。だから過渡期だろうね、今。
◆Fさん:それでたとえば、医者が自分たちの職業ってことに対して、この職業をやっていくためには絶対守らなくちゃいけないというようなコードっていうかね、そういうのが非常に日本の医者の場合は私は弱い気がしていて・・・
◆山田:武見太郎っていう医師会長がいてね、彼はやっぱりそれを守るっていう。ただね、彼がすごいおもしろかったのは、たとえば患者さんは意見なんか言わなくていい、医者が言ったことを患者さんが聞いてればいいんだっていう感じだったんだけど、ただそういうふうにする上ではね、医者は絶対間違ったことをしてはいけないっていう。
 だから医者はもう不乱に勉強をしてね、やっぱり自分の技に磨きをかけてね、ちゃんと信頼されるような医者になっているということがまず条件としてあって、その上で、患者さんはもう何にも考えないで全部お任せしとけばいいっていうふうに彼は言ってたんだよね。ところがその頃でも医師会の多くは自分を磨くことはしないでお任せ主義で、最終的には、武見は失意の中で死んでいったっていうか。彼なんかはやっぱりかつてあった権威みたいなものがね、落ちていくっていうことは見据えてたと思う。医者は医療は仁術っていうことがあって、貧しい人からはお金はとらないみたいな医者ってのが世の中にはたくさんいるみたいなイメージっていうのがある時期まではあったんだよね。今やっぱりそんなこと思ってる人ってほとんどいなくなってると思うから、もう仁術だっていう概念はなくなってるので、武部はその仁術だっていうのを守ろうとした最後ぐらいの人かもしれない。
◆Fさん:武見太郎の息子も選挙落ちましたからね。医師会が応援したけどもダメだったですもんね、今回ね。
◆立岩:武見さんって確かにね、権益を守る側にいるとともにそういうある種のモラリストでもあるという人だったと思うんですよね。その時勢で、現実はそこまでもいってないと。それに対してたとえば、今日話の最初に出た松田さんとかね、それはまた全然違うスタンスというか、場所です、ポジションですよね。一方は日医の会長であり、一方では京都の町医者みたいな。でもメディア的にはどうなのっていうあたりで、それこそ患者の権利とかね、そういう路線で言ってきて、ほぼそれは当たりでというか、大変最もなことであったと思うんだけれども、たとえばそれが今それこそ終末期医療うんぬんの議論の中で言うと、じゃあそのモラリズムなり専門家主義に対して、松田さんの線でいけるのかって話がやっぱりあるわけじゃないですか。
  山田さん自身がね、松田さんっていう医者っていうのは非常にある種の模範ではあったんだろうし、高く評価されてるっていう文章も書かれてる★。それはそうでありながら、ご存知のように、松田さんご自身も、一貫してともいえるし、あるいは晩年においてとも言えるんだけれども、終末期に関してああいう発言というかスタンスをとられてる。そうするとそこに隘路があるわけですよね。つまり、従来どおりの仁術専門家主義、モラリズムでいくっていうんでも、そうはなかなかいかんよ、現実にいかんやろうと。それに対して、じゃあ患者のある種の消費者主義と権利で押してきたときに、まるまるオッケーみたいな、なんでもオッケーみたいな話になってきて、それの方がある意味医者楽じゃないですか。言われた通りにやるだけです私みたいな、っていうね。
  どっちに行ってもそれでいいのっていう話にやっぱなってくるときに、そこんところをなんだいっていう話ですよね。最近の話ってのはやっぱり、そこにいる人をみろっていう、付き合えっていう話が一方にあってさ、それはその通りだなって思いつつ、でもそれはいってみればひとりひとりの医師のある種の心意気というか、みたいなものに委ねられてる部分もあるわけだから、さぼろうと思えばさぼれるわけですよね。付き合うやつは付き合うかもしれないけれど、付き合わなくたって世の中医師の仕事は進んでいく。そういう意味で言えば、本人をきちんとっていうのは正解ではありつつも、二つの方向に対する代案、システムとしての代案にはなりにくいわけですよね。というようなやっかいな状況にあるんだと思うんだけれども、どうなんでしょう?

◆山田:そっから先の代案でないからね。
◆立岩:どうです?たとえば、ほんとに小児科で言えばね、日本の戦後ここに一番まず言われたのは松田さんであり、それがまた10年ぐらい経ったあとで今、育々本だと思うんですよ。そういう中で、たとえば松田さんみたいなね、先達というか、みたいなものをどう評価してどこを受け継ぐっていうのはありますか?
◆山田:松田さんはやっぱり基本的には結核の専門家であって、そういう意味では、だからもうそういうことを知らない人たちの時代だったら尊敬はされなかったかもしれないけれども、一定といえばやっぱり尊敬はされたっていうか。
 だからこういうことっていうのはほんとに、医者の世界みたいなのはさ、なんか嫌なやつでもやっぱり学歴が上のやつには一応敬意を表さなきゃいけないみたいなものってあるから、大学の格差みたいなものがあって、それは毛利さんなんかも言うんだけど、毛利さんと私の間でもやっぱり医者の間だと評価が違うところがあるんだよね。毛利はむちゃくちゃだけど、山田はまだ少しましとか言われたことがあって、どうもそれはね、卒業大学だとかなんかの問題みたいなんだよ。そういうとこって残るんだよね、どうしても。やっぱり松田さんは京大出て、それで結核の専門家であって、そういう人が一介の町医者になったっていうのがあるから。
◆立岩:同時に偉大な知識人でもあったんですよね。ロシア語バリバリ読んで、みたいなね。
◆山田:そう。だから医学的にもやっぱり優れた人だっていう評価があった上でのことで、それで、だから我々とは評価のされ方が少し違うと思うし、松田さん自身の問題で言えば、あの人書斎の人だから、だから実際に、たとえば障害を持った人だとかなんかの生活に接したとかなんかっていうことはなかっただろうと。
  それはあれだけ学識広い人だから、被差別部落の人たちがどういう人たちだとかなんかっていうのはわかってたとは思うけど、やっぱりその人たちがどういう生活をしてどういう生活環境を持ってるかっていうことろまでは、分け入っていなかったと思うし、そのことがやっぱり最終的に、実際そういう抑圧された人っていうか、だから、松田さんがやっぱり見てた首尾っていうのは、やっぱりそれは一定のレベルの人たちであるわけだし、しかもそこらへんがあれなんだけども、やっぱりある程度医者として有名になったりすると、有名になったなりにそういう患者さんが集まってきちゃったりするわけだよね。すごくものわかりのいい、ある程度、ものわかりがいいのがいいのか悪いのかわかんないけど、ある程度のレベルの知識を持ったりなんかしてる人だから、あんまりとんでもないことを言ってもびっくりしないとかね。そうするとなんかすごくやりやすいわけだけど、そういうところっていうのはどうもあって、特にやっぱりもう後年は自分で臨床もやらなくなってしまったから、だから理論的にはいろいろわかっても、要するにごちゃごちゃした部分っていうところへいくと限界があったんじゃないかなっていうふうに思うよね。
◆立岩:そうですね。彼自身が立派な市民であり、彼が相手にした人たちっていうのがまた立派な市民でありっていう、そういう制約っていうのはやっぱり松田さんに関してはすごくあったんだろうなぁっていうのはそうですよね。


  みなさんどうでしょう。ボツボツ、さすがに三時間もやってますから。
◆Gさん:私はその出会っちゃったから、そこにそういう人たちがいるのに、会っちゃったらごちゃごちゃしようが何でも引き受けなきゃいけないっておっしゃってたじゃないですか。こないだ原田さんのね、お話を学会で聞いたんですよ。原田さんも同じように、そこで水俣の人たちが、たとえば水俣病って診断がつけば法的な救済があるけれど、そうじゃないと何も僕たちは知らないとかいうような行政がいて、そこで実際に困ってる人たちに出会ってしまったので、もうこれは逆に原田さんの場合は、開業医として在野に帰るのではなくて、大学にずっと残って、その死んだ、出会って見てしまったからやらなくちゃいけないって思ったっていうのはね、そうやって思う人たちと、たとえば出会ってる医者はいっぱいいるんだけど、だけどそこで引き受けない医者もいっぱいいる。私だとそこが何なのかなってちょっとすごい気になっているんですけど。ちょっとぜんぜん、今日の話とは・・・
◆山田:だからそこがどうなんだろうね。
◆立岩:今日の話に関係あってさ、だからその現場主義で関与してたら、現場、そういう現場いっぱいあるわけだから、結局そうなっちゃうよねって話。
◆Gさん:だから、そうなっちゃう人とそうなっちゃわない人の違いというか、そうなっちゃう人はなんでそうなっちゃうんだろうというか。なんかうまく言えないんですけど・・・
◆Hさん:最首さんが内発的義務みたいな話するところが[聞き取れず…]
◆Iさん:なんか仕方がなかったみたいな感覚ってありますか?出会ってしまった。で、面倒くさいなぁとか、たとえば、いわゆる正義感みたいなんだけじゃなくて、発するっていうんですかね。その・・・
◆山田:嫌でもないんだもんね、だから。
◆Iさん:むしろそうですか。
◆山田:うん、嫌でもないんだもんね。だから確かにね、だから、一番最初にホームレスの人たちの診療所へ行ったときっていうのは、結局大学で騒いで無期停学になって、どっかに居場所を作らなきゃいけないっていうのがあって、そういう活動家のたまり場みたいな診療所があるからっていうので行って、最初はびっくりしたんだけども、でもね、それは、つぶれたからやめたけど、あれつぶれてなければずっとあそこにいたっていえるよ。だから嫌いじゃなかった。今でも一番好きな場所だったかもしれないっていうふうに思うよね。だから決して、だいたいそういう言い方をするんだと思うんだけど、原田さんやなんかでも、しょうがなくてやったんだみたいなことを言うんだと思うけれども、やっぱりでもそうではないと思うよね。
◆Jさん:だからそこの引き受けねばというかね、引き受けてやっていこうって、たとえばもっとたくさんの医者が思っていれば、今までいろいろあったようないろんなことっていうのはやっぱり、もうちょっと違った景色になったのかなって思っちゃうんですよね。医療過誤の問題にしても、薬害にしても。
◆Kさん:やっぱり引き受けるっていうことにもやっぱりいろんなありかたっていうか、ありかたっていうより、いろんな道行きがやっぱあるんじゃないのかなっていうのを、今の話聞いてて僕も思った。だからいわゆる義務みたいなんに走って、まさにそういうのから、人が仕方ないとか、ある種の底辺じゃないですけど、とか、今山田先生がおっしゃったみたいな、なんていうか、好きって言ったら変ですけど、なんかそういう、その人の出会いはもちろん含めてっていうか、なんていうか、なんかやっぱりそこはもう一筋縄じゃないっていうか、説明できないですよね。だから、その・・・・・・っていうのをなんかすごい思うんですけど・・・・・・還元できないなぁ。
◆山田:だからこう、なんていうかな、たとえば、自分の同級生やなんかと会ったときにも、やっぱり運動やってたころに、こういうことを言ってたのに、ちょっと今言ってること、それあんまりじゃないっていう、っていう、そこらへんのとこで、なんかああ言ってしまったんだから、やっぱりこれじゃあなぁっていう引っかかりみたいなものがね、ちょっとでも残っててくれればっていうふうに思うんだけど、まったく何かひっかからないっていうのが多いのが残念だよね。だから引っかかってくれればね、長いことやってなくても、なんかのときに頼めたりなんかするっていう関係性があるんだと思うんだけど。だから別の道を生きていくためには、引っかかっちゃダメだから、もう引っかからないように努力するんだよね、きっと。そういうことをちょっと思い出しちゃったりするとやばいから。そういうメガニズムが働いているかも。

◆Lさん:佐久総合病院とかね、雪国大和とか、あそこらへんの先生方みんな、ある意味引っかかって外に行って、それなりの逆に中央が見本にするようなシステムを作ったりしてるといっていいのかな、私もそのへん詳しくはないんですけど。
◆山田:あれは、やっぱりね、いい医療をやると目指して、いい医療をやったと思ってるからよくないんだよね。田舎ってすごくやりやすいんだよね。医者がいい医療をやろうっていうふうに目標たてたらね、みんな協力してくれるし、やりやすいの。だからある意味ではね、それはいい医療をやることによって全総管理されているようなもんなんだよね。
  だから「健康日本21」みたいなああいう発想っていうのは、ああいうところからでてきてるわけで、極端なのが九州の久山町っていう、もう死んだらみんな解剖されることになってるし、九大のデータ作りのために町民全部やってるところだけれども、やってる本人たちは、それでみんな全員、成人病の予防ができてるわけだから、こんないいことはないと思ってやってるわけだよね。
  地方の過疎のところへ行って、そこへ来てくれる医者は神様みたいに思われてる地域へ行って、医者が理想的な医療をやってしまうということは、それで満足したらやばいなぁっていう。だからほとんどああいうところで、たとえば厚労省なんかがいわゆる病院やなんかをカード制にするとかね、なんかIT化していくのの、実験的に一番最初にやったの雪国大和なんだよね。そういうふうにやっぱり使われてしまうっていうか、だからすごく不思議なことに、たとえば今の健康政策みたいなものは、やっぱりなんていうかな、これは医療経済上の問題ではあっても、とりあえず予防医学という線だよね。どこがお手本になってるかっていうと、あのへんの医療が、地域医療がお手本になって、それを全国化するっていう。
◆Lさん:男性の平均寿命が長野県で一番長いのは、そういうその地域、そういったところが非常に進んでるからだっていうような言い方をしますよね。それを目指せみたいになりますよね。
◆山田:「ぴんぴんころり」は佐久市の三浦さんが言い出したことだけれども。だから、なんていうか、革新的なところから安楽死的な発想っていうのが出てくるようになるというか。紙一重なんだよね、すごく。その紙一重の怖さみたいなものっていうのがなかなかわかんなかったわけだし。
 なんていうか、民医連だとかなんかっていうようなところがやってきた医療なんかも、やっぱり患者さんのためということだけれども、非常に濃厚な、濃厚な医療をやった。だからある意味では過剰な医療の典型みたいなね。たくさんいろいろやってあげるのが患者さんにとっていいことだっていうような発想っていうのが、なるべくは手をださないっていうふうにはどうしてもならなかったと。
◆Mさん:そこらへんちょっとすごく自分でわかってないんですけど、その過剰な医療とかね、やっても仕方がないことを医者のほうのあれでやってくっていうのは非常によくないっていうのは、わりと医者はみんな共有して持ってると思うんですよね。その一方で、やらないとなったらほんとに徹底的にやらないのをオッケーで、今実際現場で起きてることって本当に医療がひいちゃってるんですよね。
◆山田:だからそれはね、学校で不登校の子供たちにやったことと同じようなところがあって、やっぱりね、最初のうちは医者もそうだし、先生たちもそうだけれども、登校刺激をして学校へ来させることがいいことだっていうの、だから一生懸命がんばってたわけだよね。それがあるときそういうことがよくないっていうか、来なくてもいいんだっていうふうに言った方がいいっていうことを覚えたらね、すごく楽なんだよね。それがいいっていうふうに正当化されたら、やっぱりその線でやるのが楽で、しかも正しいんだからっていうことになっちゃった。そこで起こったのはやっぱり。
  だから、刺激はしなくてもいいけど気にはしておいてほしいとか、そういう子がいるっていうことはね、忘れないでほしい、せめて、と思うんだけど、やっぱりもう無視するようになっちゃったとか、それからそういう特別な子はもう触れないようにするのがいいとか、っていうことにすぐなっちゃうんだよね。そういうことって、だから医療なんかでもやっぱり、ここはパターナリズムだよっていうと、きっと、ごちゃごちゃするっていうか、これはパターナリズムだとか、そうじゃないのかっていうね、おせっかいなのか親切なのかっていう、そのわからないところでごちゃごちゃしながらやってると思うんだけども、それをすっきりさせて、おせっかいはしないとかね、おせっかいはしないという途端にお世話もしないとか、っていうところへいってしまうんで、みんなそれはだからごちゃごちゃするのが好きじゃないから。
◆Nさん:今、延命治療が極端にそうだと思うので、一時もうほんとにすごいもうマジってぐらいやっていたのが、やらない方がいいんだってなったら、今もうほんとにやらないですから。
◆山田:ガイドライン主義みたいなのがあるんだよね。
◆Nさん:ガイドラインの中にいさえすれば、それで訴えられることもないし、ガイドラインで外せるとか言えば、外して、呼吸器つけると管理もむっちゃくちゃ大変じゃないですか。そのあたりのことを。 ◆立岩:僕も今、それこそ民医連係の病院の倫理委員っていうのやってるんです。ほんとに聞くと、そうなんですよね。だから、かつてはやってた、もうやんなくていいことになっちゃった。やらなくていいことになってしまうと、そっちのほうが楽だったわっていう話になっていく。それこそ不登校児に関わんないほうが楽だ。いわれてみればたしかに、来い来いっていうふうに引っ張るよりほっといた方が楽なんですよね。それとほとんどパラレルのことがやっぱ実際、医療現場に起こっていて。
  昨日も新聞のインタビューでそういうこと話したたんですけど、まさにそうなんです。じゃあそれでどちらでもないんだっていう話を、現実にじゃあどこに持ってくのかっていうのは、確かにそれは言いにくいんですけど、でもこういう道もこういう道も根っこは同じで同様に間違ってるっていうのは、これは論理的にいえることだと思うのね。だからたぶん、学問みたいなものができることっていうのは、たぶん最終的に具体的なこのケースに関して、明確な処方箋が出せるっていうのは、たぶん出せないっていう、考えればそういうことになるのかもしれないけれど、この道もこの道も同様に同じく間違ってるっていうようことはね、これは理詰めで言える話だと思うんですよ。それはそれでやっぱりやんなきゃいけない。
  なんていうんだろうな、そういう道筋が、学問っていうのかな、には残されてるというか、必要なんだろうなと。どっちの極端に行っても、それは楽かもしれないけれども、それは違う、どういうふうに違うのかっていうことを言いながら、じゃあそこんとこをどうしようかねっていうような形の、現場と現場にいない人の仕事の仕方っていうのは、僕はたぶんあるんだろうなと思うんですけどね。
◆山田:こっちもダメ、こっちもダメっていうと、じゃあこれだっていうのを出してくれなきゃダメじゃないかって言われるから、それできついんだよね。私らの雑誌なんかもやっぱり評判悪いのもそこっていう、どっちもダメって言った上で、じゃあこれっていうのを言ってくれないじゃないかっていう、そこはもうこっちもごちゃごちゃだから、みんなも考えてよっていうふうに投げ出すわけだけど。
  そこはやっぱり、松田さんなんかやっぱり断定的に書く人だったから、これは正しいっていうふうに書く人だったんだけど、やっぱりそれが書けないっていうか、どっちが正しいっていうふうには言えないっていうかな、今どっちをとれって、今こっちをとらざるをえないだろうっていうような感じでいうと、やっぱりすごく評判悪いよね。 ◆立岩:ただそれはなんていうかな、それの方がある意味高度なっていうかね、学問としてもちゃんとしてる。つまり、こういうのも、こういうのも、論理的におかしいっていうことが言えて、具体的な解っていうのはなかなか定まりにくいっていうことも論理的に言えたりするっていうようなこともあるんだよね。ただそこがだから、たぶんそれがなんかちょっと見方違うと、ズブズブの現場主義に見えるんだけれども、でもそれは必ずしもそうではないっていうような言い方っていうのが、たぶんその、たとえば、英米系のバイオエシックスの流れをそのままくんで、ああだこうだっていう話よりも、実はもの考えた上でこうなるんだっていう代案、代案っていうかな、そういうの代案って思う人と思わない人といると思いますけど、あるんじゃないかなっていうことは思います。

■文献

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*記録作成:長谷川唯
UP: 20071226 REV:20071227,28,29,31 20080102,03,05,06
生存学創成拠点
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