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山田真に聞く

2007/12/23 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館403.404 15:30〜
山田 真立岩 真也(聞き手)
主催:生存学創成拠点


 ■『現代思想』36-2(2008-2) 20080201
  特集:医療崩壊――生命をめぐるエコノミー
  青土社,246p. ISBN-10: 4791711769 ISBN-13: 978-4791711765 1300 [amazon]
 ■20041101 特集:生存の争い
  『現代思想』2004年11月号 32-14 1300円(本体1238円) ISBN:4791711297 [amazon] ※
 ■20031101 特集:争点としての生命
  『現代思想』31-13(2003-11) 1238+税=1300 ISBN:4-7917-1112-2 [amazon]


 *以下のインタビューは『現代思想』36-02(2008-02)(特集:医療崩壊――生命をめぐるエコノミー)に収録されました。ただし、雑誌掲載のインタビューには、かなりの構成の変更、かなりの内容の付加があります。また以下の長い注を付した版と比較すると、分量的には3分の1ほどになっています。雑誌掲載のインタビューを読んでいただければと思います。また、この長い版については、さらに注などを加筆した上で(他のものと合わせ?)単行本とする計画もあります。
 →山田 真立岩 真也(聞き手) 20080201 「告発の流儀――医療と患者の間」(インタビュー),『現代思想』36-2(2008-2):120-142


◆立岩:今日なんでかっていうのは、一つには11月でしたっけ、東京で、尊厳死とか治療停止の問題について、山田さんの盟友といいますか、本田勝紀さん★っていう、脳死・臓器移植のことに関心がある人は彼の名前を知っているはずですけれども、その二人が主催というかんじで、ちょっとした集会をやったんです★。僕も呼ばれて少しだけお話をしたんですけれども、そのときに栗原さんもいらしてて、それでその集会をやりながらというか聞きながら考えていたときに、その時点ですでに栗原さんから、今回、『現代思想』が2号に渡って特集するっていう話を聞いていて。それを組み合わせていくと、山田さんに話聞いたらおもしろいかもって思ったっていう、思いつきなんですけどね。
  で、その思いつきがなんなのかというあたりからなんだけれども、山田さんは1941年生まれで、僕は1960年生まれです。で、今どきの院生って考えてみると、だいたい80年に生まれたって27で、80年越して生まれた人って実際たくさんいます。そうすると、僕と山田さんが20ぐらい違って、今いる院生もやっぱ20ぐらい違って、だいたい40年ぐらいかな。
  そして、僕ここの大学院とかで教えたりする中で、いま自己紹介してもらったみたいに[公開で行われ、その参加者に自己紹介もらった]、今日は山田さんだからそんな人の参加が多いというのもあるんだけど、それだけじゃなくてこの研究科で、病気や障害に関係する研究したいっていう人が割合たくさん来て、それ自体は歓迎なんですけれども、話したり、書いたものを見てる中で、「あぁそっかこんなことも伝わってないんだな」とか「知られてないんだ」っていうことにけっこう頻繁に出くわすんです。
  それが100年も200年も昔の遠いどこかのことであれば、それも当たり前かなとも思うわけですけども、そうではなくて、この国に起こった、30年、40年、20年前の出来事であったりしても、やっぱり知らない。端的に知らない。知られてないことっていっぱいあるんだなということは前から思ってまして、よく思うことなんですね。
  それでいいだろうかと。もちろん、人間の記憶容量には限界があるし、世の中にあることみんな覚えていられない。次々に忘れてしまっていいこともたくさんあるに決まってますけれども、そうとばかりも言えないことも、やっぱりこの領域に関しては、この領域に関しても、あるだろうと思うわけです。
  そういった意味で、まず非常にべたな意味で、「この間何があったのかしら」ということを記録にとどめておく仕事がやっぱり必要なんじゃないかということを痛感というか実感する部分がある。日本に限らず、この社会において何が起こって、それが今にどういう形で引き継がれたり、断絶したりしているのか、そういうことが気になる。それはそれとして押さえておきたい。ほっとけばなくなってしまう、薄れてしまう。それでぼつぼつとそんな仕事を始めているわけです。そしてここの研究科が主体になってCOEっていうのを始めている★。その仕事の一つとしてもそれをやっていこうという。
  いろんな人に話を聞いたりしていて、昨日も大学院のメーリングリストでは流しましたけれども、数年前にやった横田弘さんとの対談★をひっぱりだして、ちょっと直したりとか、それもその一環なんですけども、そういうことがベースにはあります、まず。

★ 本田勝紀。本田と山田の2人は、1967年、卒業式前日に無期停学処分を受けている(山田[2005:85-89])。共著に本田・弘中[1990]。
本田 勝紀・弘中 惇一郎 19900130 『検証 医療事故――医師と弁護士が追跡する』,有斐閣,287p. ISBN-10: 4641181306 ISBN-13: 978-4641181304 [amazon] ※ b f02
★ ”脳死”、安楽死、終末期医療を考える公開シンポジウム 於:東京
★ COE
★ 横田 弘。1933生。対談集に横田[2004]。立岩との対談も収録されている。横田弘・立岩真也「2003年7月28日の対談」は収録された対談の一つ前に行われたもの。立岩が、横田さんの過去を聞き出すことだけに熱心だったので本には収録されず、もう一度対談がなされることになり、それが収録された。この、未収録の第一回の対談で、70年代について横田さんは次のように語っている。
 横田「70年のあの当時で、あの時でなかったならば「青い芝」の運動は、こんなに社会の皆から受け入れられなかったと思います。七〇年の学生さんの社会を変えていこうよと、社会を変えなければ僕たちは生きていけないと考えた、あの大きな流れがあったから、僕たちの言うことも社会の人たちが、ある程度受け入れようという気持ちがあったわけですよ。」

  □
  それと同時に、これは話しながらだんだんということなんですけれども、そういう蓄積のされ方とか歴史の経過そのものが、やっぱり日本には日本独特というかな、流れがあって、例えばアメリカ、米国ですね、だと、1950年代にこれこれしかじかの、例えば人体実験をめぐる事件が起こり、それが倫理委員会というようなものに持っていかれ、バイオエシックスっていうある種の学問が成立、確立し、教科書ができ、大学の中にそういった研究所ができたり、学科ができたりする。そういうオーソドックスなというか、学問的な制度化、体系化が起こり、現在に至っている★。
  それは学問の世界の内部にありますから、例えば日本の学者、あるいは学者志望の院生たちが過去をひも解く時、そしてその次を展望していく時に、持って来やすいのはむしろそちら側であったりする。そうするとその医療や医療の倫理をめぐる議論、社会的な動向について何を我々が語るかというと、そっちの方を語るというような状況になっているわけです。
  もちろんそれはそれで非常に大切なことであり、必要なことであるんだけれども、ではこちら側の社会において、そういったことに対応することはなかったのかっていうとそうではないわけですね。ただその形がずいぶんと違う。
  山田さんは小児科医で、この雑誌★の読者とどのようにかぶるのかわかりませんけど、昨年だと毛利子来(たねき)さんとの共著で『育育児典』(岩波書店)が昨年の十月に出て、順調に売れていると思います。僕は、山田さん、そして毛利さんですね、それから後でも出てきますけど石川憲彦さんといった人たちの本が一定の読者を獲得していることは、この医療という業界において数少なく喜ばしいことの一つであろうと思っています。そして山田さんや毛利さんの本は学者なんぞを相手にしてはいない。それは表紙見ただけでわかります。とくに毛利さんの本なんかは、表紙はパステルカラーで、赤ん坊の絵が書いてあって、まあとりあえず育児本以外のなにものでもない。
  昨日ちょこっと「山田真に聞く」っていう資料★を作り、そこに、「障害の位置――その歴史のために」っていう文章★を書かなきゃいけなくて今年書いたんですが、そこからの引用を少し載せました。引用した場所はとくに内容があるわけじゃなくて、名前が列挙されているだけなんだけれども、その人たちは、アカデミシャンとして、自分の専門領域、例えば倫理学なら倫理学の専門家が専門的な主題として、学問的な場所において、本業としてそういうものを語るっていうふうにしてやってきたわけではない。山田さんにしても、あるいはもっと先輩になりますけれども、毛利子来さん★にしても、町医者として、在野というか市井のというか、そういうとこからものを言ってきた人であったり。
  学者っていうか大学に籍を置いている人たちもいます。たとえば、最首悟★とかですね、宇井純★、亡くなられましたけれども、っていう人たちはたしかに大学にはおりました。しかし大学に疎まれつつ居座って辞めないぞっていう感じでいたわけで、例えば東京大学のその学問の中でああいう仕事をしてきたっていうより、別の形で、自主講座★とかですね、活動を展開してきた。それから、出版社に勤めていたり、小学校の先生だったり、なんやかんやっていう形で、むしろ、日本の今記録されておくべきことっていうか、そういうものを担ってきた人たちは、学問の領域にビルトインされた活動ではなく、言ってみれば在野の活動としてやってきたわけです。
  とするとそれは、いわゆる医療倫理なら医療倫理の歴史の中では、それをあらためてどう扱うかというのは、お定まりのように教科書を読み、学術論文を読み、というのじゃ間に合わないというか、そういったところでは捉えられない部分もあったりする。ではどういうふうに捉えるのか、あるいはそれをこれからどういうふうに生かすのかっていうことは、またちょっと別途に考えなければいけない。これってけっこうちょっと難しいことなのかなっていうか、工夫のしようがあるのかなっていう感じがしています。
  ちなみに私は、アメリカって国でバイオエシックスっていうのが学問化され、制度化されたものになったことに関して、向こうは進んでいるけれども、こちらはそういう学問的な体系化が遅れていると捉えてはいないわけで、プラスマイナス、双方に両方があったんだというふうに思っているわけです。そんなことを思っていて、そうしたときにやっぱり前のことを今に至るまでご存知のというか動いてきた人たちに話を聞いて、話ができたらなってことを思ってたわけです。
  それでもっと言うと、この文章に名前を出したような人たちは、僕らにとって、60年の前後に生まれてだいたい80年前後に大学生であったりした人たちのその一部にとっては、先輩っていうか先生っていうか、障害の問題にしても医療の問題にしても、なんか気に入らないことが直感的にあって、何か言わなきゃ、どう言おうかって考えた時に、考えたり思ったりした時に、誰のものを読んだかっていうことを、それがここに僕が名前を列挙したような人たちであるわけです。
  僕が山田さんに実際にお目にかかったのは、2000年をまたいで、この『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』★っていう、なかなか、なかなかじゃなくていい雑誌なんですけれども、山田さんこれの編集の中心を担ってらっしゃるんだけれども、これが10周年記念ということで対談★をしようみたいな話で、今はない新宿にあった「談話室滝沢」で対談しようっていうことになって、それでお会いしたのが初めてで。
  だから、生の山田さんを見るのは、僕が山田さんの本を読みだしてから、20年とか経ってからなんです。だけどそうやって、その人たちのもので育ってきたっていう思いは僕なり僕らの世代にはちょっとあったりします。
  そしてそれには、その時の対談でもお話したんだけれども、ちょっとアンビバレントなところがあってね。一方では山田さんたちは先生である、僕らがものを考えるときの基礎っていうか、そういうものをもらった。しかしでは、それをそのまんまもらってリフレインしていけば次の話ができるのかというと、たぶんそれはそうじゃない。とするとそれに僕らの世代は何を加えていったらいいんだろうか、何を考え出したらいいんだろうか。これは僕に限ったことでは必ずしもなくて、僕らの世代がそういうふうにして前の世代というかな、継承しようとしてきて、今に至って、たいした仕事ができてるのかどうかわかりませんけど、そんな思いもあったりします★。

★ Rothman, David J. 1991 Strangers at the Bedside: A History of How Law and Bioehtics Transformed Basic Books=20000310 酒井忠昭監訳,『医療倫理の夜明け――臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』,晶文社,371+46p. ISBN:4-7949-6432-3 [amazon][boople][bk1] ※ b be
香川 知晶 20000905 『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』,勁草書房,15+242+20p. ISBN:4-326-15348-2 2800 [boople][amazon][bk1] ※
立岩 真也 2001/01/25「米国における生命倫理の登場」(医療と社会ブックガイド・1),『看護教育』42-1(2001-1):102-103
★ 参考資料
★ 立岩 真也 2007/03/31 「障害の位置――その歴史のために」,高橋隆雄・浅井篤編『日本の生命倫理――回顧と展望』,九州大学出版会,熊本大学生命倫理論集1,pp.108-130,
★ 毛利子来 1929年生 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%AD%90%E6%9D%A5 HP『たぬき先生のお部屋』http://www.tanuki.gr.jp/  「学術的」な著作に毛利[1972]。
毛利 子来 1972 『現代日本小児保健史』,ドメス出版
★ 最首悟 1936年生。著書に『生あるものは皆この海に染まり』(最首[1984])、『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害者の娘との20年』(最首[1998])他。
高橋 晄正 19690228 『社会のなかの医学』,東京大学出版会(UP選書),301p. ASIN: B000JA14RO ISBN:9784130050258 [amazon][boople] ※ b d07
 「はからずも、東大闘争のなかで一人の若い生物学者がおこなった厳しい解析のなかに、わたしたちは医療矛盾の鋭い集約をみる。
 「医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか」(最首悟氏)
 この問いにたいして、わたくしたちはいま、誠実に答えなければならない。
 目を広く社会に向けて見ひらくとき、わが国はほんとうに国民の生命を守ることのできるような近代的な医療制度を持っていないことに気づかなければならない。医療が自由業であり、営利業である状況のもとでは、国民はサイエンティフィック・ミニマムの医療さえ保障されえないのだ。医療の倫理性も、それに科学性さえも、医療の営利性の前には影をひそめざるをえないのである。
 いま、医学生や青年医師たちは、わが国の医療矛盾の実態を厳しく見つめ、その本質を鋭く突きはじめている。それらを医療技術の問題に解消することは、もはや許されないだろう。それらは、高橋 晄正 19730815 「こんな教育がつくるこんな医師」,朝日新聞社編[19730815:167-220]*
*朝日新聞社 編 19730815 『医療を支える人びと』,朝日新聞社,朝日市民教室・日本の医療3,257p. ASIN: B000J9NO00 500 [amazon] ※ b
 「6医療の社会性と人間の生存基盤
   胸につきつけられるメス
 臨床医としての私の狭隘な視野を社会に向けて切り開いてくれたのは、東大闘争のなかで一つの生物学者が『朝日ジャーナル』誌のなかで投じた次の一石であった。<0198<
 ――医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか――(最首悟
 私はこの短い文章を前にして必死に抵抗しようと試みている自分を意識した。出欠多量で死に瀕している何人かの人びとを私は助けたことがあったはずだ。だから、医師は決して資本主義の矛盾の隠蔽だけをしているのではない、といま一人の自分は反論する。それにもかかわらず、助かった患者たちは助けた私に感謝するだけで、自分たちを傷つけた社会矛盾の摘発にのり出さないとしたら、最首氏の批判はやはり真実性をもつといわなければならない……。」(高橋[19730815:198-199])
高橋 晄正中川 米造大熊 由紀子 19731215 「医療の質をどうよくするか」,朝日新聞社編[19731215:133-188]
 「高橋 板倉さんの治療学のあり方からいえば、医者は看護学の訓練をうけるとともに、牧師としての修練も積まなければならない。しかし、それは病人を前にしての話であって、病気の発生源の<0181<社会性、病気を治りにくくしている社会的条件を考えるなら、”牧師性”は”革命性”へと止揚されなければならないという問題も、その延長上にあるわけです。
 これは、東大闘争の中で最首悟氏が、”医者は病院の窓口で患者を待ちかまえているだけでいいのか”という問いかけをしたことのなかに激しく表れているといえましょう。」(高橋・中川・大熊[1973:181-182])
★ 宇井純 1932年6月25日〜2006年11月11日。
★ 「自主講座公害原論 開講のことば」(宇井編[1991→2007:2])
★ 『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』
★ 立岩 真也・山田 真 2004/04/20 「明るくないけど、変えることは不可能じゃない――「弱く」あることのススメ」」(対談),『子育て未来視点BOOK・下』,pp.62-67,ジャパンマシニスト社 http://www.japama.jp/ http://www.japama.jp/cgi-bin/detail.cgi?data_id=163
★ 『希望について』所収の…

  □
  というわけで前置きが長いんですけども、そんな関心が僕にはあって、それは今回の雑誌の特集にも関係があるだろうし、それから今年度から始まったCOEの企画の一部にも位置づくだろうし、てなわけでですね、遠路はるばる東京、東京もけっこう西の方だったりするので、東京駅までけっこうかかっちゃうんですが、西東京市というという、昔はなかった地名がいま、東京にはあるんですけれども、そちらから山田さんにお出でいただきました。そんなわけで、ちょっと最初に演説をしてしまいましたが、どっからいこうかな…。
  山田さんの本はもっとほんとは、強烈に大量にあるんですけれども、うちの院生の生田★がたぶんみんな持っていっているので、生田さんっていう院生が、こないだ山田さんにインタビューさせてもらったりして、そのときに勉強しとけって言って本貸したら、そのままなんで、このぐらいしか残ってないのですが。たとえば、ちょっと昔話で行くぞっていう感じだと『闘う小児科医』★っていう本が出てて、これはおもしろい人にはけっこうおもしろいんですよ。
  山田さんのだいたい大学入ってからのことが書いてあるんですね。そうだな、どっからお伺いしましょうか。例えば、さっき言った本田さんにしても山田さんにしても、41年生まれっていうのは、いわゆる団塊の世代の手前ですよね。あの世代は45から50年ぐらいの間に生まれた人たちじゃないですか。人文社会の領域だと、たとえば、今阪大の総長やってる鷲田清一★だとか、あるいは、今東大にいる上野千鶴子★であるとか、あの辺がだいたい48年生まれですよ。だからちょうど僕の一回り上なんですけれども。あの連中がちょうど、18、19とかの時に68年69年っていう時期なわけで、いわゆる全共闘世代というと、あの辺になるわけですね。ただ山田さんもうちょっとそれよか上ですよね。これは理系っていうかあるいは医学系っていうのは、もともと学校にいる時間が長いので、ずっと居座ってるとその端っこの方で、68、9年が来ちゃったっていうかんじのとこが。最首さんはちょっと体を悪くしたりして、その分なおさら学校にいる時間が長かったりしたってのがあるんですけれども。人文社系の全共闘世代の連中がまさにその当時の団塊の生まれであったとすると、山田さんにとちゃ、ちょっと、それかもうちょっと上の人たちが、かすったっていうか、はまったっていうか、そういう時期だったと思うんですよね。だからそういう意味で言うと、純粋にというか団塊の世代の人たちとは違うんだけれども、ただとにかく67年8年9年ってあたりに引っかかっちゃったっていう人たちです。
★ 生田
★ 山田 真 20050725 『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社 ,216p.  ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon] ※ b
★ 鷲田清一 1949年生。
★ 上野千鶴子 1948年生。

  これはご存知の方とまるっきりご存知の方じゃない方といるんだけれども、もとはといえば、医学生が終わって大学なり医者になっていく者の身分保障というか、インターンならインターンどうするかっていう、そういうあたりから闘争が始まっていくわけじゃないですか。それはそれでその学生が、これから自分の人生どうやっていくんだと、あるいはその大学の教員との関係でどういう力関係でやっていくんだっていう、そういう意味で言えばわかる話ではありますよね。それがもめて、いろんな偶然的な事情も重なって、もめて、話が大きくなっていく。
  それはそれとして、そういうことってあったんだなと思うんだけれども、それがその当時起こっていた医療をめぐるいろんな社会的な動向みたいなものと連接していくっていうんですかね、そのつながり方、つまり、自分たちの医師としてのあるいは研究者としての身分の保障であるとか、あるいは大学の機構改革みたいな話ともっと違うとこで起こっている、水俣であったり、スモンであったりするんだろうけれども、その辺の連続というか非連続というか関係みたいなのがね、どんなふうに起こってきたのかっていうあたりから、ぼつぼつと思うんですけども、いかがでしょうか。

◆山田:僕はね、大学へ入ったのが61年で、だから60年のその大騒ぎになっている状態は、横にいて、横目でみてたんです。61年に入った時の大学ってのは何にもない。なんか荒涼とした状態で、要するに当時の安保ブントが負けて、撤退したわけじゃなくて潜ったと思うんだけども、要するに雌伏にかかったころで、だから本当になんにもなくて、だから私なんかもどっちかっていえば、民青系の運動みたいな方に近付いたりなんかしてたんだけども、とにかくあんまり何にもない時期だったんだよね。
  ただその60年のその負けた連中の中で、それこそ十年単位で考えてた人たちがいて、要するに雌伏十年でもう一回次の安保改定のときに革命起こそうみたいな部分が残っていて、それがやっぱりなんというかいろんな形でアプローチしてたっていうか、自分たちの後継を作ろうみたいな動きをしてたんだと思うんだよね。それはあんまり具体的にそのころはわからなかったんだけども。
  だから、あのころインターン闘争っていってインターン制度に反対したっていうのは口実みたいなものであって、実際に不満があったとかなんかっていうよりも、学生たち、われわれ医学生なんかのレベルで言えば、とにかくなんか言いたいことがいっぱいあって、なんか言えるようになったから言おうって感じだったんだよね。インターンは口実だったと思う。
  それ以前に私なんかは、社会保障制度に対する論争みたいなのがあってね、これはやはり医学生運動っていわれる「医学連」★っていう組織を中心にした政治的な運動と別に、「医学生ゼミナール」っていうのがあって、それでそれが毎年やられていてね、僕なんかはやっぱりそれで影響を受けるっていうのが大きかったと思うんだけど。
  個人的に一番インパクトが強かったのは、大学4年のときのゼミナールで、竹内芳郎★が来てたんだけどね。竹内芳郎はもうまったく難しくてわからない話だったんだけども、西村豁通(ひろみち)★っていう同志社の経済学だろうね、教授が来て、社会保障制度について、今でいえば、福祉国家論みたいなものを言って、結局その日本の健康保障制度なんかも、もとはドイツの社会保障政策の上に連なるものだから、飴と鞭であって、社会保障制度という飴を与えて、それで別の形で搾取していくっていうその国ありようの中のひとつの制度だっていう話を西村さんがして、それでそれはなんか非常に衝撃的だったっていうのはあるんだよね。
  だから具体的な運動じゃないけれども、五月祭なんかで、保険制度、健康保険制度についての分析はやったりなんかはしていたので、インターンの問題からはあんまり社会的な問題にはいかないっていうか、あれ要するに身分の問題で、医者の労働収奪だって言って、医者も労働者だと規定してね、労働者で働いてるのに学生扱いされて給料もくれないのもおかしいって言ってたんだけれども、でもそれは、実際にはほとんどみんなバイトをやって、けっこういいお金をもらったりなんかしてて、生活やなんかにとくべつ困っているわけでもなかったしね。だからそのこと自体から、インターン反対運動みたいなものから学ぶっていうものはあんまりなかったんだけども、別の形でそういう医ゼミっていってたゼミナールなんかで学んだものっていうのはあった。
  それから要するに、実際に、70年に、なんかの形で蜂起しようって考えてた人たちは、やっぱり革命を目指すわけだから、だから国家のことを考え、世界情勢みたいなものを一生懸命吹き込んだりしていたので、それなりに開かれたっていうところはあるんだけど、結局そのインターン制度反対っていうこと、あるいは大学の機構改革だとかなんかっていうようなところまでしか考えなかった人はそれで終わりになっちゃった。運動終わったら、それ以上の展開がなかったし、普通の人になってしまったんだけども。そういうベースってのは一つはあったと思うね。
  いろんな運動がでてきたのは、あれまでやっぱり日本では異議申し立てをするっていう、抑圧される側が抑圧する側に対して公然と異議申し立てをするみたいなことっていうのが、あんまり見たことがなかったんだけど、それはやってもいいんだっていうことになったっていう、たとえば患者が医者に対して何かものを言ってもいい、学生が教授に対して、「バカヤローお前なに言ってんだ」っていう形でものを言ってもいいっていうのが見えたから、だからそういう意味ではその今まで抑えてた、そういう異議申し立てをしたいんだけどもできないっていうか、そういうことは日本ではしちゃいけないんだみたいなものが崩れてね、それで一斉にこうでてきたっていうふうに思うんだよね。
  ちょうど確かに公害だとか、経済成長による矛盾みたいなものがいっせいに出てくる時期でもあったし、やっぱり日本の一つの転換点だったと思うんだけれども、その森永ミルク中毒★なんていうのはやっぱり転換点の事件であることは確かだと思うんだけれども、そういうところで、だからあれが、学生の運動がなかったらやっぱり被害者の運動ってああいう形にはならなかったと思うけど、被害者自身がものを言うっていうんかな、そういうものがでてきて連動したんだと思っている。

★ 「「医学連」は「全国医学生連合」の略称で、それは全国の医学部学生の”闘う組織”でした。組織の中心には「ブント」という新左翼の党派の人たちもいて、彼らが東大闘争についての実質的な指導をしていたのでしょう。
  「ぼくは「なんとしても革命を起こさなくては」というところまではまじめに考えず、「世の中の理不尽さがいくらかでも正されれば」程度の思いで活動していましたから、「党派の連中にはついていけない」といふうに思っていました。しかし…」(山田[126])→時計台占拠
★ 西村 豁通 1961 『社会政策と労働問題』,ミネルヴァ書房,184p. ASIN: B000JALO1U [amazon] ※
――――― 1970 『増補 社会政策と労働問題』,ミネルヴァ書房
額田 粲・西村 豁通 編 1965 『日本の医療問題』,ミネルヴァ書房,294p. ASIN: B000JACZ5O [amazon] ※
★ この事件はいったん1956年に終結させられることになる。1969年に丸山博(大阪大学医学部)の日本公衆衛生学会での報告を期に、運動が再開される。丸山の著作集が出ている(丸山[  ][  ][  ])。このうちこの事件にかんする文章が収録されているのは第3巻。この事件について何点かの書籍があるが、みな絶版になっている。
・(財)ひかり協会http://www.hikari-k.or.jp/
「ひ素ミルク中毒事件」http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e1.htm
「事件史年表」http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e2.htm
 この年表によれば、日本小児科学会「ヒ素ミルク調査小委員会」設置決議がなされたのは1971年。
・森永砒素ミルク中毒事件文書資料館(〒700-0811 岡山市番町1-10-30 Tel.086-224-0737)『森永砒素ミルク中毒事件』http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/hiso.htm 「丸山教授らは,日本公衆衛生学会をはじめ,日本小児科学会,日本衛生学会にも働きかけ,各学会もそれを受けて後遺症の調査,対策を目的とした委員会を発足させた.」(東海林・菅井[1985])
 http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe5_d04.html


◆立岩:たとえば60年安保っていうのは確かに体制に対する反体制運動ですよね。すごく大きいものとそれに対するアンチの運動があって、それはそれであったと。でも今おっしゃったのは、たとえば大学なら大学っていう組織の中で、下のもんが上のもんになにか言ってもいいとか、医療っていう関係の中で患者が医師に対してなんか言ってもいいっていう、もうすこし中規模とかマイクロな、もう少し小さいレベルで文句言ってもいいぜ、なんかその二つのね、文句の言い方って若干違うかんじするんですよ。
  今の話でおもしろかったのは、でもバックにはそういう60年安保うんぬんからってあるその社会をどうするかって流れがあったから、その時の運動っていうか動きにもつながったっていう、そういう話が一つでしたね。
  で、ちょっと具体的な話すると、その辺のとこ詳しく知らないんだけれども、60年の運動だと、医学系ていうか理系だと、島成郎★さんとか、ああいう方々っていうのは、視野に入っていたっていう記憶はあるわけですか?
★ 島成郎 著書に島[1997]等。
島 成郎 19970925 『精神医療のひとつの試み 増補新装版』,批評社,405p. ISBN:4-8265-0236-2 2625 [bk1] ※

◆山田:島さんなんかはないね。それを継承する人たちの部分っていうのが、我々の、具体的に言うと1年上にひとり、サイトウさんっていう人がいて、彼がそのオルガナイザーとしてやってたので、だからその後ろに、後ろで島さんたちが何をしてたかどうかとか、なんかってのは知らない。島さん自身はあんまりやってなかったんじゃないかと思う。
◆立岩:そうだと思いますけどね。60年ばっとやった後、表からは退いてますよね。
◆山田:そう思うよ。精神科の運動が始まってから、ときどき顔を出してたけれども、それ以上のものではなかった。
◆立岩:そうするとね、そのバックには、そういった体制なら、社会なりを、やっぱなんかの形で、問題だって、問題にしようって動きがあったからこそっていう話はそうだなって思うんですけども、それと、たとえば大学、医局、医学部っていう組織の中で、下のもんが上のもんにとか、素人が素人じゃない人に文句言ってもいいぜみたいなものっていうのはね、どうなんでしょう、それは、どんな気分としてというかね。つまり、安保反対ってみんなで言って、国会取り巻くっていう、そういうのってのは、うまくいかなかったにしてもあって、そういうのありだっていうのは、60年安保とかの時点であったと思うんですよ。そうじゃなくて、学校の先生に言っちゃおうみたいなっていうのは、なんとなくそれはそれでありだなってかんじででてきたのかしら。
◆山田:とにかく医学部の世界なんていうのは、ものすごいヒエラルキーだったし、それはほんとに『白い巨塔』に書かれている世界そのもので、今もあんまり変わってないかな、悲しい話なんだけどね。なんていうかな、とにかく教授の権限ものすごく強くて、ほんとに、たとえば学生のときにもうすでにあいつは教授になるっていうのが決まってるような、結婚式でそのだれだれのよう教授が晩酌をしたかしないかみたいなところで、もう出世が決まってしまうとかっていう、そういう世界だったのね。
  医学部ってところはまた特別なところで、一番出世からビリまで、非常にはっきりするところなんだよね。全員とにかく同じ職につくっていうのは異常なことだと思うんだけれども、とにかく全員医者になるわけだよね。以前だと作家になった人とか芸術家になった人とかいるわけだけれども、今はもうほとんどそういうのいなくて、全員医者になってしまうと。しかも、大学に残って大学のプロフェッサーになるのが偉くて、開業医になるのはだいたい挫折したやつがなるっていうのがもうはっきりしていて、しかも普通は、ある時期までは一番最初に東大の教授になったやつが一番出世でっていう、途中からはその順番が関係なくなって、要するに大きい科の教授であるか、小さい科の教授であるかとかっていうことになるんだけど。でもとにかく同窓の中で誰が一番で誰がビリっていう、はっきりランク付けができてしまうような社会なんだよね。
  で、それはだから、やっぱり、いろんな不満はあったわけだし、言うことはいっぱいあったよね。で、そういうものが、たまたまそのインターン制度の反対運動みたいなことやったら、非常にみえてきたから、やっぱりそれに対しては、そのなんていうかな、それは一斉に声があがったっていうことはあるよね。
◆立岩:でも、そういうヒエラルキーみたいなのが、ちゃんとうまく機能してるぶんには、そういう仕組みだってことが、みんなわかりつつ、それがまさに円滑にずっと作動していくっていうこともあるわけじゃないですか。実際そうだったかもしれないけど。なんか偶然的なこともいろいろあったんでしょうけれども、それに対してそうじゃないかたちみたいなものが出てきうるというか、出てきてしまった。
◆山田:だけども、全体としては、非近代的な医学界の構造みたいなものをどうするかっていうところでとどまってしまったから、あれなんだけど。
  でもその部分部分にね、たとえば、あんまりたいした運動にはならなかったけれども、当時、学用患者っていう人がいてね、学用患者っていうのは、入院するときに、学用患者って契約を、学用患者としての誓約書みたいなものを書くっていうことで、要するに入院費はただになるけれども、その代わりに、いくら人体実験してもかまいませんっていう、そう人たちが入院してたんだよね。そういう人たちに会った時にすごいびっくりして。要するに入院費をただにしてなにやってもいいって話だから、かなりひどい実験があって、コレステロールが増えるかどうかを調べるために、30日間ほとんどチーズだけ食べさせてるとかね。それはね、やっぱり、とにかくあれはひどかったと思うけどね。そういう状況なんかがあって、そういうことっていうのはね、なんかもうほんとに、平然と行われているいるっていう事態があって。三一書房でウエルスアイリフっていう、ロシア革命のころの医者が書いてる『医者の告白”っていう本★があってね。
★ ウェレサーエフ=19551230 袋 一平 訳,『医者の告白』,三一書房,253p ASIN: B000JB21SY 150 [amazon] ※
◆立岩:あそこ(資料棚)にありますよ。
◆山田:あるんだ。懐かしい。ずっと読んでないけど。やっぱり「あぁこれだよ」っていう感じがあって、それでそれはやっぱり、医者たちがそうやって自分の権威性みたいなものっていうのを、ほとんど認識できないかたちで患者に接しているっていうか。それがやっぱり、授業の中でも普通の日常の医療の中でもあるっていうことがあって、だから、その辺でその問題性に気付いたのは、やっぱり大学の中ではどうにもならないと思って出てったのかもしれない。そこを考えたのは、出てって何かやることになったからかもしれないんだけども★。



◆立岩:その時代のコンテクストなんですけどもね、たとえば医療倫理の歴史について、通俗的な教科書ってっどう書くかっていうと、ニュルンベルク裁判があって、人体実験が裁かれて、それでうんぬんかんぬんっていう話になっているんですけど、ただこれ、アメリカの場合みても、ニュルンベルク裁判自体が医療界に具体的にインパクトを与えたかっていうとそうじゃなくて、あまり響かなかったっていうか、そんなこともあったろうねって程度だったっていうんですよ。ストレートに第二次大戦のナチスの話がきたわけじゃない。あくまでよその話だった。
  それが、アメリカだと50年代にアメリカ国内での人体実験、本人の同意を得ない人体実験をそれを一部の医師が告発というか提起していくと。それも、『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』といった権威のある学会誌を舞台にしてそういったことをやっていく。それが社会的な関心を引き起こすっていう、いったん大戦の話と切って、その国固有の話として、そしてアメリカの場合はアカデミズムの媒体を場として、出てきたんだそうです。そこのところはどうなのかな。
  日本の場合にね、どういうふうにどういう場であったのかなっていうのはちょっと気になるところはあるんですよ。それは最初に私が申し上げた、この間の運動がどこを場として行われてきたのかってことに関係があると思うんですけども。たとえばちょっと具体的なところからいくとね、ちょっとよくわからないのは、第二次大戦時に日本でなされていたこと、たとえば731部隊のことがどれだけ眠ってて、いつごろどの範囲に広がっていったのかという話も一つあります。それも一つある。中川米造先生なんかが気になりだしたのはそのへんだっていう話を間接的には聞いたことがあるんですね★。それもある。
  たとえば、第二次大戦におけるドイツのT4作戦って言われてるものについての本格的な研究書の日本語訳が出るのは、もう90年代なんですね。たとえばクレーっていう人の 『第三帝国と安楽死――生きるに値しない生命の抹殺』っていう本が99年に翻訳で出てますけど(原著は93年)、それまでそういうものはない。その当時において、ドイツにせよなににせよ人体実験みたいなことも含めた情報というか知識というか、どういうふうにどの程度伝わっていたのか。当時の運動に何かしらの影響を与えたとかね、そういったあたりはご記憶にある範囲内ではいかがですか?
◆山田:いやなかったと思うよね、あんまり。九大では生体解剖をやって問題にはなったけど★。だけれども、もっと身近なところで、69年に、東大の中で、高圧酸素タンクが爆発して、それで医者と患者さんが、医者が2人と患者さんが2人死んだことがあるんだよね。それは、留学生の人が日本へ来てて、留学期間が決まってて、その期間の間に博士号をとって帰らなきゃいけなくて、期限がせまってるんだけど学位が取れないと。で、教授に相談したら、たまたまその教授がその高圧酸素タンクを使っての治療を自分の成果にしたかったんだけど、あぶないものだから手をつけなかったのを、やってみろっていうふうに言われて、それでその高圧酸素の中に入った、タンクの中に入ったんだけども、患者さん自身はそのほとんどやる必要のない退院間際の人を無理矢理説得してその中へ入れて、で、金属製品を持ってると爆発することがあるんだけども、持って入ってしまって、それで爆発して4人死んだんだよね★。
  それはね、いかにも当時の大学にありそうな事件であって、普遍性を持ってたと思うけれども。我々が追及したのは、脳外科だったんだけど、脳外科の教授ってのはものすごい悪いやつで、だから脳外科の教授を攻撃するための材料にそれを使ったのであって、実際に中へ入ってしまった医者だとか患者さんのことについて考えるっていうことはなかったと思うよね。やらせた教授の問題じゃなくて、それは学位の問題みたいなものも含まれるとは思うんだけれども、そういう学位の問題とか、それからやっぱりそういうことのために患者さんをひっぱりこんでしまうことだとか、それからあるいは留学生に対する問題だとか、いろんな視点があったはずなんだけど、そういうのが出てこなかったね。
  だから、ほとんどやっぱり教授をどうやっつけるかっていう、大学をどう攻撃するかっていうことだから、もう少しそこをきちんとやれば、べつにその教授だけが悪いんじゃなくて、我々だって同じように手を汚すんだっていうところへ行けたんだろうけど、それはついに行かないままで終わってしまった。という、だから告発者としての位置っていうか、告発者として自分の方へもう一回、目を向けてみるっていうことができなかったんだよね。で、それは、あえて運動中心的にやっている人がさせなかったのかもしれない、っていうか、そんなところでウジウジしているんじゃなくて、要するに、だからそこがきっかけでもう一本釣りして革命家の方へっていうふうに、一方では考えられていたわけだから、だから、問題設定がそもそもはれなかったっていうことはある。
◆立岩:ちょっと今回の話の文脈そのものと中心ってわけじゃないんですけど気にはなっていて、たとえば、僕らだとギリギリ読めたのだと73年ぐらいだと思いますけど、大熊一夫が『ルポ精神病棟』★っていう本を出して、あれはかなり話題になったと思うんですね。で、あれはやっぱりあの時期それなりの影響力を持ったと思うんですよ。あれ僕も読んで、それからまた20年ぐらい経ってちょっと読み直してみたときに、すこしナチに関する言及があるんです。で、元本が何なのかなって思ってちょっと見てみたら、ベルナダクっていうフランス人が書いて、67年に原著が出て、68年かな、なんかに翻訳、早川書房かなんかから出てる本★に言及している。それは基本的には人体実験のお話なんですよ。一番最後のところに、T4作戦っていう、言葉そのものにはそこに出てこないんだけれども、障害者の抹殺の話が最後の章に出てくる。そういう意味でいくと、その部分の知識というか、みたいなものが、当時どの範囲であってっていうあたりがね、当時を生きてた人たちに会ったらきくことにしてるんだけれども。やっぱりそんなにメジャーなことではなかったのかしらね。
◆山田:ほとんどなかったと思う。
◆立岩:刑法学者の平野龍一とか、ああいう人の本にもちょろっとは出てくるんですけど★。そのへんの世界史的な流れとの連続、非連続みたいなものがどの程度あったのか、すこし気になるもんですから、ちょっとお伺いしてみたんです。

★ 中川米造 1926年〜1997年。以下は中川の弟子である医療人類学者の池田光穂の講演から。
 「彼は1945年つまり昭和20年の4月に京都帝国大学医学部に入学します。彼をパニックに陥れたのは、731部隊に関与する医学を専攻した武官が言う、「医学とは人の病気を直すものではない。今時の戦争を遂行するためのものである」とか。「お前たち医学生は、誤って静脈注射に空気を入れることがいけないと思っているが、そのような科学的根拠を知らないだろう。だが我々は知っているのだ」と言いながら、恐らく大陸で撮影された人体実験の16ミリフィルムを上映し、数ミリリットルの空気の静脈注射では死なず、何百ミリリットルの空気を入れた被験者が死んでゆく様子を通して教育したといいます。あるいは次のようなエピソードもあります。「お前たちは、人間の首を切ったら、どの角度で血が飛ぶか知っているか?」というわけで実証主義ならぬ実写が上映されたということです。血も凍るこのような情景をその教官たちは、医学生たちに見せて「教育」していたのです。もちろん、それから4カ月後にくる日本の敗戦でこのような「教育手法」は終わりをつげました。」(池田[2003])
★ 東野利夫『汚名――「九大生体解剖事件」の真相』(東野[1979])、上坂冬子『生体解剖――九州大学医学部事件』(上坂[1979])、その新版として『「生体解剖」事件――B29飛行士、医学実験の真相』(上坂[2005]、新たに加えられたのは全2頁の「『新版「生体解剖」事件』によせて」)。
★ 山本俊一『東京大学医学部紛争私観』(山本[2003])に以下の記述、引用があり、続いてこの行動に反対する側の決議も紹介されている。
 「4月11日午後2時頃、共闘系学生達が、突如、脳神経外科を封鎖し医局内に座り込み、次のようなビラを配った。「われわれ医共闘・青医連は、なぜに脳外科の医局・外来を占拠したのか。それは、あの4月4日の高圧タンクの爆発が、単に偶発的なものであったのではなく、現在の学会至上主義、売名至上主義に走り、自己の利益増大のために、患者をモルモット代りにする、医局社会の腐敗と病院の営利化・合理化に根源を持つ人的・物的な安全保障の欠落によるものであることを、実践をもって万人の前に明らかにし、ブルジュア新聞と結託して4人の死因を闇から闇に葬り去ろうとしていく売名主義者差の(脳神経外科主任、教授)と医学部当局を、徹底的に糾弾するものとして、遂行するものである……」」(山本[2003:203])
 「東大病院で酸素タンク爆発」http://www.geocities.jp/showahistory/history05/topics44a.html  「昭和44年4/4午前12時40分、文京区本郷7−3−1の東大医学部付属病院中央診療部東側1階の救急入口脇の高圧酸素治療室で、高圧酸素タンクが爆発、中にいた患者女性2人(65、56)と脳神経外科の男性助手(32)、男性医局員の合わせて4人が死去。高圧酸素タンクは100%の酸素を2、3気圧に加圧、患者に吸わせて、血液中の酸素濃度を高めて脳循環を促進するもので、全長4メートルだった。タンクの中から助手が電源を切るように覗き窓ごしに指示していて、切ったが爆発したという。助手が眼底カメラを中に持ち込んでおり、電流がスパークして引火爆発したらしい。」
 http://autofocus.sakura.ne.jp/data850/1960nendai.html
 「4月4日 東大病院高圧酸素治療室で爆発がおこり治療中の患者2人と医師2人が焼死した。原因は治療用電流の流しすぎらしい。」
★ 「山本俊一氏は著書のなかでこう書いています。
 「U内科事件は研修生、学生と医局員との間の争いで、教授会は中立の裁判の立場にあった。『喧嘩両成敗』の原則に立って、双方に対して、<0117<軽く譴責処分をして置けばこれが東大処分にまでエスカレートすることもなかったであろう。でも、教授会は研修生・学生だけを処分する片手落ち(原文ママ)の方向に動いたのである。」
 この文章は『東京大学医学部紛争私観』(本の泉社)という本からの引用ですが、この本の著者である山本俊一さんは、当時、東京大学医学部公衆衛生学の教授をしておられました。ご自身が学生だった頃に学生運動をなさっていたというような噂を聞いたこともあり、教授という立場にあってもぼくたちの運動を理解しておられたことが、この著書を読むとわかります。ぼくが処分を受けたときも、また今回の事件に対する”処分会議”の席上でも処分には反対と発言しておられたのです。
 しかし、当時ぼくたちはそのようなことかわからず、「温厚そうな顔をした山本教授にだまされてはいけない」というふうに思っていました。そんな誤解をいま、山本さんにおわびしなければなりません。
 さて、山本さんの著書では、その後の大学側の対応もくわしく書かれて<<います。」(山田[2005:118-119])
 その山本の著書『浮浪者収容所記――ある医学徒の昭和二十一年』(山本[1982])での記述は以下。
 「おそらく私たちは[…]九月末日に卒業することになっていたのらしいのであるが、八月十五日に突如として終戦が来た。これが私たちにもたらしたものは、<0006<眼の前に来ていた卒業が、無条件に延期されたということであった。さらに工合の悪いことには、その後しばらくして占領軍の命により、卒後研修すなわちインターン制度の実施が追い討ちをかけるように私たちに課せられることになった。
 これに対しては、その後私たちはほとんど全員で反対運動をすることになるのであるが、結局は占領軍命令として実施されることになってしまった。ただし特例として、その期間は今回に限り一年のところを、半年に短縮するということであった。
 いずれにしても、この一連の措置によって、私たちはいわば、大学からは閉め出され、社会からは受け入れてもらえない、中途半端な状態になり、全く途方にくれることとなった。というのは、すでに卒業試験は終わっているので、当然のこととして、大学側は私たちのために授業をやってはくれない。しかも、卒業は認めてもらえないので、それまでの一年余は、それぞれ適当に自活して、時期の来るのを待っていなければならない。終戦直後の最も社会が混乱したこの時代にあっても、学生という身分はこの上なく不安定であり、一方的に卒業時期の変更を申し渡されただけでなく、さらに医師の資格を獲得するために、インターン研修と国家試験という新たな条件を課せられた私たちの不安は、非常に大きいものであった。」(山本[1982:6-7])
 この年鴨居引揚者収容所でアルバイト。それもきっかけとなり「在外父兄救出学生同盟」で活動。厚生省が管理していた軍病院の薬品の提供を求めて厚生省の薬務課と交渉。課長に提供の約束をとりつける。
 「それから二十余年を過ぎた昭和四十三年に、東大医学部に大きなストライキが起こり、学生たちが教授団に対して大声を張り上げて私たちを難詰する学生を見ながら、私が薬務課長を追及した当時の光景を思い出していた。立場が全く逆になってしまったが、その間の時間の流れは長かったようでもあり、また、短かったようでもあった。」(山本[1982:29])
 在外父兄救出学生同盟は1947年には消滅。山本は浅草東寺本学時更生会で活動。1947年医師国家試験合格、同年東京帝国大学衛生学教室助手、1965年東京大学疫学教室教授。1983年定年退職。その後聖路加看護大学副学長などを努める。日野原重明、アルフォンス・デーケンらと「死生学」に関わる。『死生学のすすめ』(山本[1992])、日野原重明・山本俊一編『死生学・Thanatology 第1集』(日野原・山本編[1988])等。
 『わが罪 農薬汚染食品の輸入認可――厚生省食品衛生調査会元委員長の告白』(山本[1998])
 「私は短い人生の中で大事件に遭遇したことが三度ある。
 第一回目はホームレスの人たちの病気を治すために、東京浅草の浮浪者収容所に住み込んだ。この記録は単行本として残した(『浮浪者収容所』中公新書)
 第二回目は東大紛争である。この記録は医学雑誌に掲載した。
 第三回目は食品衛生調査会の委員長になったことである。私は昭和五三年当時の厚生大臣に農薬汚染輸入食品を認めるよう進言した諮問委員長を務めた責任がある。
 最近HIVウイルス汚染血液製剤の輸入を認めるよう大臣に進言した委員長が叩かれたので恐れをなしたわけではないが、良心が咎めるので自ら告白しようと思った次第である。
 この本の表題は、もともとは『価値の狭間で』と名づけるつもりであった。「経済的価値と健康的価値の狭間で」という意味である。人間にとって経済も健康もどちらも高い価値を持っているが、世の中の人は目先の経済を優先する。
 私の専門は「衛生学」である。「生を衛る学問」と書く。特に最近の経済優先の世相を苦々しく思っている一人であり、そのために本書を書いたといってよい。」(山本[1998:2])
★ 大熊一夫『ルポ・精神病棟』(大熊[1973])
★ Bernadac, Christian 1967 Les Medicins: Les experiences medaicals humaines dans les camps de concentrations, Editions France-Empire=1968 野口 雄司 訳,『呪われた医師たち――ナチ強制収容所における生体実験』,早川書房,262p.,ASIN: B000JA5B96 [amazon] ※→19790815 ハヤカワ文庫,265p. ASIN: B000J8F8NW [amazon] ※ b e04 eg eg-ger
◆Bernadac, Christian 1967 Les Medicins: Les experiences medaicals humaines dans les camps de concentrations, Editions France-Empire=1968 野口 雄司 訳,『呪われた医師たち――ナチ強制収容所における生体実験』,早川書房,262p.,ASIN: B000JA5B96 [amazon] ※→19790815 ハヤカワ文庫,265p. ASIN: B000J8F8NW [amazon] ※ b e04 eg eg-ger eg-naz
 「ヒトラーは、ドイツ全土にわたって安楽死を中止するように命じた。二七万五〇〇〇人がすでに《謀殺されて》いた*。[…]
 *国際軍事裁判の判決。子供の安楽死事件が起訴された(一六九一六ページ)。」([243])
 「このテーマに関する三冊の基本的図書――フランソワ・ベイル博士『アスクレピオスの杖に反逆するカギ十字』、ミッチャーリッヒ『汚辱の医師たち』、オイゲン・コーゴン『創られた地獄』(これらの本はすべて、解放直後に出版された)――以外に、問題全体を最近の裁判や生存者のインタヴューに基づいて扱った書物はない。私は、フランソワ・ベイル博士の著書に負うところ大きい。ニュルンベルクにおける医師裁判についての彼の労作に匹敵するようなものは、永遠に出ないだろう」([259])
高杉 晋吾 19710205 「安楽死と強制収容所」
 『朝日ジャーナル』1972-2-5→高杉[19720229:112-125]*
高杉 晋吾 19720229 『差別構造の解体へ――保安処分とファシズム「医」思想』,三一書房,284p. ASIN: B000J9OVWA [amazon] ※ b
 「第二次大戦中の松沢病院で、入院患者の五〇%は餓死させられた。そして何よりも、一九三三年、第三帝国を築き上げたヒトラーの思想、ナチズムそのものが、国家にとっての利用度から人間を差別する思想体系の全面的完成の上にたてられたものであった。
 医療費、社会保険に対する全面的批判とその赤字対策を野蛮に実行しつつあるヒトラーが、一九三九年、ポーランド侵攻を計画し実施する直前、奇形で盲目、白痴、片腕と片足の一部のない自分の子の安楽死をヒトラーに請願してきた父親がいた。ヒトラーはカール・ブラント博士に命じて、安楽死の許可を与えさせた。「拝啓」の先輩がここにいたのである。<0123<
 この事件が世論にいかなる刺激を与えたかは想像することができる。そしてすでに、不治の遺伝病に苦しむ人々に対して負担せねばならぬ巨大な出費数百億マルクの出費をなんとしても切ろうと考えていたヒトラーは、このうってつけの事件をフルに利用し、計画的な大量「安楽死」計画を実施した。
 カール・ブラントと、フィリップ・ブーラーを頂点とする鑑定医群は、各精神病院に送られた質問書(とくに患者の労働能力、労働価値)に対する回答をもとに、書類で患者の生死を決定し、家族には偽の死亡通知書を送って、二七万五千人の精神病者、心身障害者をガス室に送り込んだ。
 この経験が、大量隔離への誘導技術、大量収容と支配・管理、大量殺戮の技術として完成し、ナチス国家の支配体制を支える基本的暴力装置として完成し、ドイツ国民や他の被征服民族への恐怖支配の根源となったことは、人も知るところだ。この安楽死計画に敢然と反対して立上がったミュンスター教会の司教フォン・ガレンは、ヒトラーが安楽死を強行した理由をつぎのように指摘している。
 「彼らが殺されるのは、彼らが《非生産的》と評定されたからだ」と。」(高杉[1971→19720229:112-125]
高杉 晋吾 19720229 『差別構造の解体へ――保安処分とファシズム「医」思想』,三一書房,284p. ASIN: B000J9OVWA [amazon] ※ b
  コーエン『強制収容所における人間行動』※ 81
 「第二次大戦中の松沢病院で、入院患者の五〇%は餓死させられた。そして何よりも、一九三三年、第三帝国を築き上げたヒトラーの思想、ナチズムそのものが、国家にとっての利用度から人間を差別する思想体系の全面的完成の上にたてられたものであった。
 医療費、社会保険に対する全面的批判とその赤字対策を野蛮に実行しつつあるヒトラーが、一九三九年、ポーランド侵攻を計画し実施する直前、奇形で盲目、白痴、片腕と片足の一部のない自分の子の安楽死をヒトラーに請願してきた父親がいた。ヒトラーはカール・ブラント博士に命じて、安楽死の許可を与えさせた。「拝啓」の先輩がここにいたのである。<0123<
 この事件が世論にいかなる刺激を与えたかは想像することができる。そしてすでに、不治の遺伝病に苦しむ人々に対して負担せねばならぬ巨大な出費数百億マルクの出費をなんとしても切ろうと考えていたヒトラーは、このうってつけの事件をフルに利用し、計画的な大量「安楽死」計画を実施した。
 カール・ブラントと、フィリップ・ブーラーを頂点とする鑑定医群は、各精神病院に送られた質問書(とくに患者の労働能力、労働価値)に対する回答をもとに、書類で患者の生死を決定し、家族には偽の死亡通知書を送って、二七万五千人の精神病者、心身障害者をガス室に送り込んだ。
 この経験が、大量隔離への誘導技術、大量収容と支配・管理、大量殺戮の技術として完成し、ナチス国家の支配体制を支える基本的暴力装置として完成し、ドイツ国民や他の被征服民族への恐怖支配の根源となったことは、人も知るところだ。この安楽死計画に敢然と反対して立上がったミュンスター教会の司教フォン・ガレンは、ヒトラーが安楽死を強行した理由をつぎのように指摘している。
 「彼らが殺されるのは、彼らが《非生産的》と評定されたからだ」と。」(高杉[1971→19720229:112-125]
◆朝日新聞社 編 19721130 『高齢社会がやってくる』,朝日新聞社,307p. 540 [amazon] ※ b a06
 「社会保障の貧しさが「死にたい病」を
 「私は、ある病院の一室で患者として治療をうけています。毎日の検査検査で次第に体力が衰え、現在では自分で何もできず、寝たきりの病人になりました。毎日、何人かの人の世話になり、そして私は苦しみ続けております。なぜ、安楽死が許されないのでしょうか。若い人なら、いかなる病気でも治療する必要がありましょうが、八十歳をこえた私にはこの苦しみに耐えられません。どうか法律で安楽死を認めて下さい」
 四十七年五月末、こんな投書が名古屋の朝日新聞『声』欄に載り、大きな反響を呼んだ。書いたのは豊田市の松平すゞさん。投書が新聞に載った約半月後にガンで死んだ。
 すゞさんが「時々、息が苦しくなる」といいだしたのは四十七年四月末ごろ。<104<
 病院で診察したら、ろく膜付近に多量の液がたまっていることがわかり、その場ですぐ入院。五月十一日のことである。その日と翌日の二回に分けて、トマトジュースのような真赤な液を千八百cc抜いた。その後で胸と胃のレントゲン検査がたて続けに行われた。液のなかからガン細胞が見つかったからである。すゞさんが投稿したのはこのころだ。
 「八十歳を越えたら、いつ死んでもよい。健康保険が赤字だというのに、私のように治る見込みがない老人が治療を受ける必要はない」
 すゞさんはベッドで息子の浣二さんにそういった。旧士族の次女に生れ、尋常小学校を出たあと独力で教員免許をとったすゞさんは気丈な明治気質の女性であった。
 「社会的に用がなくなった人間には安楽死が許されるべきだ」
 といい、すゞさんは人間の社会的有用性の基準を八十歳に置いていた。
 み仏の 光りあまねく身に受けて 今しいかなん 西方浄土に
 死期を察したすゞさんだが、こんな辞世の句をつくるほど冷静だった。
 有吉佐和子の小説『恍惚の人』の読後に「年とってボケてしまい、しもの世話が自分でできなくなったら安楽死したい」と考える人も多い。
 が、安楽死は刑法で同意殺人とみなされ、安楽死をさせた者は六月以上七年以下の懲役か禁固<105<に罰せられる。欧米でも禁じられ、このためアメリカでは三千人、イギリスでは六百人の会員を持つ安楽死協会が「安楽死を法で認めよ」と立法化を働きかけている。
 平均寿命がのびるにつれ、老人と安楽死の問題は将来、深刻になるだろう。
 だが――
 「病気や、ボケてしまった老人に安楽死を認めよ、という考え方には危険な落し穴がある」
 と福岡の特別養護老人ホームの田中多聞園長はいう。それによると、老人の“不安愁訴”のひとつに「死にたい病」がある。
 年を取ると、こんなつらくて、いやな思いをするなら死んだほうがましだ、と「死にたい、ポックリと楽に死にたい、と口走る。しかし「死にたい」ともらす心の奥には「生きたい」という願望があって、寝たきり老人へのホームヘルパーの充実など老人への社会保障が理想的に整えば「死にたい病」しは解消する、というのだ。
 「老人の五〜一〇パーセントは何らかの精神障害を特っている。そうした老人のことばを額面通りに受取って、老人に安楽死させろ、という主張は、老人の心理や生理についてくわしい専門家が少ない日本では危険な考え方だ」
 と田中園長は指摘する。<106<
 また宮野彬・鹿児島大助教授も、
 「ドイツでは第一次世界大戦のインフレ時に刑法学者のK・ビンディングと精神病医のA・ホッヘが『生きる価値のない生命を絶つことの許容性』という論文を発表。これがナチの安楽死思想につながり、第二次世界大戦中に老人や精神障害者が二十万人もガス室で殺された。老人の安楽死を容易に認めると、そんな事態も起り得る」
 と警戒している。
 安楽自殺は認めるが、安楽他殺は許されない、という立場から評論家の松田道雄さん。
 「寿命がのびるにつれ楽に死にたい、と願う人はふえるだろうが、あくまで本人が選択することであって、医者やまわりの親族が口出しすべきでないし、立法化の必要もない。何となく生きていて何となく死ぬ。日常生活の延長線上でそっと死を選ぶ。そういう安楽死なら理想なんだが……」
 「おふくろが病気の老人に安楽死を認めて、といったのには反対でした。でも、死顔は眠るように静かでした。最後まで最善の治療を受けたのだから、これが本当の安楽死だと思っとります」
 息子の松平浣二さんは、すゞさんの遺影に手を合わせた。」(朝日新聞社編[1972:104-107])
大熊 一夫 1973 『ルポ・精神病棟』→1981 朝日文庫,241p. <262> ※
◇立岩真也・市野川容孝 2000 「障害者運動に賭けられたもの」(『弱くある自由へ』所収)
 「それでね、市野川さんはドイツのことと、日本の優生保護法下の強制断種のこと、両方ご存知なんだけども、七〇年ころ、そう詳しくではないんだけれども、ナチはどうも障害者を殺した、たくさん、何万人も殺したっていう話が、あることはあった。大熊一夫が「ルポ・精神病棟」っていう連載を『朝日新聞』で一九七〇年からやってるんですね。これは七三年に単行本で出ていま文庫版になってますけど(大熊[1973→1981])、その終りのところでナチが精神障害者を抹殺したっていう話が出てくる。僕は見たことがないんだけど、クリスチャン・ベルナダクっていう人の『呪われた医師たち』って本が早川書房から出てたらしくて、大熊さんはそれを引いています。だから問題になったとすれば、まずはその頃なのかなと。それで今またというか九〇年代になって、やっぱりナチは障害者を安楽死ということで抹殺したんだという本が――米本昌平さんがずっとやってきたことがあった上だけど――何冊か出てきた。まずひとつはナチだったらナチが何をやったかっていうことの捉え直しみたいなものが、どういうことでいつごろ出てきたのかっていうのを教えてもらいたいのですが。
 市野川 まずドイツの方から話しますと、…」
◆1973 しののめ会※
 しののめ編集部 編 19730315 『強いられる安楽死』
 しののめ発行所,53p. 200円 (東京都身体障害者福祉会館404→COPY)
  一,安楽死の行なわれている事実        3 山北厚
  二,歴史の流れの中で            13 花田春兆
  三,“安楽死”をさせられる立場から     27 山北厚
  四,福祉・社会・人間            39 花田春兆
 「一九三九年の夏、第二次世界大戦のヨーロッパでの口火となった、ポーランド進攻のはじまる直前、ある父親が、重複重症のある息子に対して、安楽死を与えることを許可するように、との手紙をヒトラーに直<0021<接親呈しているのです。
 ヒトラーは、カールブラント博士に命じて、許可の指示を与えたのです。このことは、世論を沸かせました。しかし、戦争を目前にした殺気だった事態の下では、平常の判断などかき消されてしまうものです。ヒトラーは、この父親の手紙をフルに活用して、安楽死させることの正当性を国民に向って宣伝するのでした。(この歴史は決して死んではいない、という気がしてならないのです。昨秋、いわゆる“安楽死”事件が二つ続いたとき、安楽死を法的に認めさせようとし、日本安楽死協会の設立を目指した動きが、クローズアップされたことがありました。ことさらに法的に認めさせようとする動きの底に、権力と結びついて、生産力となり得ないものを抹殺しようとする暗い圧力、となりかねない力を感じないわけにはいかないのです。たしかに、それは杞憂と呼べるものかもしれません。しかし、それが杞憂に終るのだ、という保証はどこにもな<0022<いのです)」(花田[1973:21-23])
中川 米造 19730715 「医学とは」,朝日新聞社編[19731015:187-251]*
*朝日新聞社 編 19731015 『医学は人を救っているか』,朝日新聞社,朝日市民教室・日本の医療2,251p. ASIN: B000J9NO0A 500 [amazon] ※ b
 「4医学の限界  〈科学〉の実験精神――「呪われた医師たち」
 ナチス強制収容所における生体実験については、浩瀚なニュルンベルク裁判の記録はじめ、いくつかあるが、邦訳になったのはフランスのジャーナリスト、クリスチャン・ベルナダクの『呪われた医師』だけのようである。凍死、発疹チフス、ワクチン、毒ガスなどの研究に多数の収容者たち<0223<がモルモットがわりに実験に供せられたことが、証言をもとにしてつづられている。このような記録について、ここでは詳細に述べる必要はないと思われる。ナチスという残虐な集団によっておこなわれたということで、あっさり片づけられるおそれがあるからである。
 問題は、ベルナダクが、この本に書かれている事実を、一九六七年のはじめ、五〇人以上のパリ大学医学部の学生にぶつけて反応をみたくだりである。」(中川[19731015:223-224])
小澤 勲 19740501 『反精神医学への道標』,めるくまーる社,312p. 1300 ※
 「優生保護法改正問題をめぐって
 ……
 五 ナチスの優生政策
 ここまで資料を整理してきて、何気なく私のいる病院の図書室で本をながめまわしていたところ、隅っこのほうにホコリをかぶってR・フレルクス著、橋本文夫訳「ナチスの優生政策」(理想社、昭和一七)という本があるのに気づいた。フレルクスという人がどんな人なのか私は寡聞にして知らないが、要するにナチスのおかかえ科学者らしい。これを読んで、優生保護法改正が、あるいは優生保護法自体がいかにナチスのイデオロギーをそのまま受けついだものであるかがわかって愕然とした。」(p.295)
 復刊ドットコム:http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=35117
島 成郎 198011 「「保安処分」に思う」,『精神医療』臨時増刊号・特集:保安処分新設阻止のために
 →島[1997:289-304]*
島 成郎 19970925 『精神医療のひとつの試み 増補新装版』,批評社,405p. ISBN:4-8265-0236-2 2625 [bk1] ※
 「近代的処遇の一方の極に、まだ生々しく記憶にのこされているナチス・ドイツの悲劇があります。
 数百万に及ぶユダヤ人大虐殺の暴挙はひろく世に知られていますが、ここに至る過程でまず最初の血祭りにあげられたのが七〇〇〇余名の幼い重度心身障害児と十数万もの精神病者であったことは意外と余り追求(ママ)されていません。そしてこの人類史上類をみない現代の残虐性が、ナチズムの狂気の沙汰としてのみ葬り去られていることに私は恐ろしさと不可思議さを覚えざるをえません。
 人類近代文化の数々を生んだドイツ、優れた技術のもと世界有数の高度近代社会を築いたドイツが、ただ一人の政治指導者の恣意によってこのような「野蛮な奇蹟」をなしえるでしょうか。
 むしろ私は、精神障害者は民族−社会にとって役立たずをもらたすものであって、その管理と保護に労力と金をかける価値はないと判断する近代国家の論理が極致にまで進んで、その最も合理的解決としての大量抹殺がはかられた、すなわちこの悲劇は決して一煽動家の狂気の沙(294)汰によってでなく、近代国家の理性的判断によったのだと考えるのです。そしてこの恐怖の「安楽死」計画立案に世界的に著名な精神科医が多く参画していたことを知るとき、決して遠い他国の過ぎ去った事件として看過すわけにはいかないのです。
 私は今保安処分新設を目論む刑法改訂の作業と議論のなかに、天皇制日本とナチス・ドイツで極端な形で示された精神障害者の処遇のなかに「民主主義」諸国家にも共通する近代国家理念をみないではいられません。」(pp.294-295)
◆Rothman, David J. 1991 Strangers at the Bedside: A History of How Law and Bioehtics Transformed, Basic Books=20000310 酒井忠昭監訳,『医療倫理の夜明け――臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』,晶文社,371+46p. 3600円
 http://www.shobunsha.co.jp/
 「ニュルンベルク裁判で明らかにされた恐怖の数々も、その経験から導きだされた倫理上の原則も、米国における研究体制にほとんど影響を与えなかった。裁判自体があまり大きくは報道されなかった。1945年から1946年にかけてニューヨーク・タイムズで、ナチスの研究にかんする記事が報道されたのは、わずかな回数だった。1946年の秋に42人の医師が起訴されたという記事は5面で扱われ、裁判の開始については9面で扱われた(1947年の有罪判決については1面記事になったが、その1年後7人に死(p.90)刑が執行されたという記事はまた、後ろのページに下げられてしまった)。それから15年間にわたって、医学雑誌でも一般の記事でもニュルンベルク裁判を扱った記事はほんのわずかにすぎなかった。
 残虐行為の記憶を拭い去りたいとうい戦後の強い思いが、こういった沈黙につながったといえなくもない。しかし、もっとも重要な点は、米国の研究者や批評家たちが、ニュルンベルクで明らかになった出来事を自分の国の状況と直接関係があると認識しなかったことだ。あのとんでもないことをしたのはナチスであって、医師たちではない、罪に問われるべきはヒトラーの取り巻きたちであって、科学者ではない、そんなふうに認識されてしまったのだ。」(pp.90-91)




  それで、どうせ話は前後するでしょうから順不同で聞きますと、こないだの東京であったその前か、電話くださって話したときにね、今日お話した話ですけど、要するに当時あったことっていうものがやっぱり、わかってないっていうか知られてない部分いろいろあると。今日学校来たら本が届いていて。これは『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』★って、これは和光大学で最首さんたちがやった講座の記録ですけれど、開いてみたら、山田さんがまたでてきたと思ったんですが。水俣に関しては、それでも足りないってのはあるとは思うけれども、それなりに、原田正純さん★とかいろんな人がずっと長いこと追ってきて、本も出て映画も撮られっていうことがあるじゃないですか。けれども、他考えたときに何があるかなって。
  その当時、スモンにしてもいろいろあった。だけど、取り上げられたのはほんとにその一部だけであって、その部分はある程度知られているかもしれないけど、そうじゃない部分がある。なおかつ、その時点において、たとえば60年代において70年代において、起こったことはその時点では語りにくいような出来事でもあったりして、語りにくい間に語らなかったから、そのままになって、結局ずっと語られないみたいなことが、いくつもあった。
  で、何が語りにくいかっていうと、たとえば同じ原告っていうか告発する側の内部における意見の対立であったり齟齬であったり、そういったものは確かに裁判において原告の利になりませんからね。内輪もめとか内部対立みたいなものですから。それを表に出さないのは当然のことだと思うんです。戦術としてね。ただいつまでもそうであってよいことはない。森永の事件・裁判においても、ずいぶんいろいろあったんだけれどもっていうお話、お聞きしたこともありますし、この山田さんの本の中でも一部分取り上げられてる★。これは、微妙なものを含むかもしれないので、雑誌に載せるとか載せないとかっていう話は後で考えるというか見ていただくとしてですね、そういった、あったことは知ってる、教科書にその事件があったということは述べられている。しかし、その事件の内実というか、内部で起こったことが明らかでない、さまざまなことがあると思う。
 たとえば、森永ミルク事件にしても、あれが1950年代に始まって、いったん終息したようになってしまった後もう一度問題にされ、そしてある種の「解決」があったのは70年代で、その間20年弱の時間があった出来事だというリアリティが僕自身なかったんです。そんな程度のものなんですよ。我々の世代以降っていうのは。ということで、当時に始まっていたんだけれどもなかなか中でいろいろあったりもした出来事ですよね。たとえば、森永ってどうだったんだろう。
◆山田:森永が最初だったんだろうね。安田が落ちて、その主力が捕まっちゃって、で、我々1年先輩が上だったから残ってたわけだけれども。で、残ってる部分で、とにかくなんか運動続けていかなきゃっていうふうに思って、それで、いわゆる活動家が、当時で言えば学生と労働者がひっぱってっていう運動がもうちょっとできなくなってるから、これはもう市民運動に依拠するしかないだろうっていう感じになって、それで、その高橋晄正(コウセイ)さん★をひっぱりだそうということになって。ちょう高橋さんが医療告発を始めたころで、だけど高橋さんってどういう人かよくわからなかったのね、当時は。共産党系の人だろうっていうふうに思ってたっていう。
  晄正さんが東大闘争の中に登場してきたのは、一番最初に東大闘争のきっかけになった、春木事件っていう事件で処分された処分学生の中に現場にいなかった、当日九州へ行ってたやつが現場にいたということになって処分されてしまったっていうことがあって、それを晄正さんなりの科学的実証主義みたいなので、もう一人の精神科の原田さんっていう人と二人で九州まで行って、それで確かに九州にその日はいたという、松本清張ばりの証明をして。我々はどうしてあの人があんなに一生懸命やってるのかようわからんって感じだったんだよね★。だから確かに役には立ったけど、でも学生がいたかいなかったっていうことを問題は超えてるっていうかな、というほんとは処分全体のことみたいなのはあったので、だからそのちょっと高橋さん触れずにおこうみたいな感じだったんだけども。
  高橋さん自身は本当に非常に真面目な誠実な学者で、たまたま自分が物療内科にいて、物療内科の教授から薬の検討会、製薬会社の検討会みたいなところへ行けって言われて、それで行ってみたら、そこで、アリナミンはあとで有名になったけど、グロンサンですね、グロンサンの研究会だったんだけど、ああいう製薬会社の研究会に来てる医者っていうのはみんな提灯持ちで、効くっていう宣伝をしてるにすぎないので、論文なんかもいい加減な論文がそのまま通ってる★。で、高橋さんもたまたま、武谷三男★なんかと一緒に唯物論研究会みたいなところへ入ったりして、それで、そこで正山本三郎っていう理科大にいた統計学の権威の人に教えを受けてて、だから、晄正さんずっと言ってたんだけども、「医学部の中で統計がちゃんとわかるのは僕だけだ」ってずっと言ってて、実際そうだったと思うんだけどね。
  あのころ、そういうことがわかる人ってのはいなかったので、高橋さんはよくいろんなところへ行って発言したけれども、ほとんどみんな対抗できなかったのは、要するに、科学論争みたいなのやったら、彼の正確さに誰もかなわないから。みんないい加減なことやってたんだよね。それで、要するに医者が腐敗してると、効果なんていうものはみんな捏造された効果であるっていうことを言い出して、それで独自に告発を始めて、それがけっこう受けてた。ものすごく本なんかも売れたりなんかしてたから、だから我々としてはやっぱり高橋さん使わない手はないっていうのがあって、で、高橋さんを頭にしてそれで市民運動として再生しようっていうのがあったんだよね。
  で、ちょうどそのころに、水俣だとか森永だとか、スモンはちょっと遅れるんだけれども、いろんな運動が出てきて。サリドマイドだとか、大腿四頭筋短縮症だとか、未熟児網膜症だとか。今だってあるけれども、みんな言ってないから出てこないだけで、いっぺん出てくればそのぐらいはあるわけで。で、そういう被害者がいっせいに声を出すようになったことがあって。

★ 最首 悟・丹波 博紀 編 20071215 『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』,作品社,368p. ISBN-10: 4861821657 ISBN-13: 978-4861821653 2940 [amazon][kinokuniya] ※ b
★ 原田正純
★ 
★ 高橋晄正 1918年生。『社会のなかの医学』(高橋[1969])、『9000万人は何を飲んだか――疑惑の保健薬=0とマイナス』(高橋[1970])。
★ 「その頃、事件の真相はわたくしたち医局員にもよくわからなかった。しかし、事件の当日、九州でオルグ活動をしていたという医学部三年生の粒良君が、事件の直接参加者として処分を受けているという噂、それに続く同君のアリバイ発表と不当処分にたいする抗議の集会は、わたくしに強い衝撃を与えた。
 わたくしには、当然のこととして大学当局が調査活動にのり出すべきもののように思われた。しかし[…]」(高橋[1969:285])
 「処分された学生のなかに、その日は久留米大学にオルグに行っていたという者が出てきた。それは医学部三年生の粒良君だった。私たち古い医局員たちは迷った。いったいどちらが真実なのか、と。私は旧革新的教授グループが現地調査を医共闘に申入れる橋渡しをし、彼らがそれを受入れたあとでその教授グループが不当にも調査を断ったところで、おせっかいにも精神科の原田講師(現・信州大学教授)をさそって久留米へ出掛けた、ということなのである。
 結局は、奇跡でも起らないかぎり、粒良君の主張を反論することは不可能であった。それは、「高橋・原田レポート」に詳細に書いてあるとおりである。」(高橋[19730815:217])
 「ふたりの医学部の教官がわざわざ九州へ出向き、T君が「H医師糾弾」の当日、まちがいなく九州にいたことを確認しました。
 この教官のうちのひとりが、当時人気のあったアリナミンやグロンサンを”効かない薬”と告発しはじめていた高橋晄正さんという研究者だったのです。高橋さんは、T君処分の一件にも科学的精神を発揮して調査に乗<0123<りだしたわけでした。高橋さんたちも「T君はたしかに九州に行っていた」と証言してくださったので、大学側は誤認処分をしてしまったことを認めないわけにはいかなくなりました。」(山田[2005:123-124])
★ 『9000万人は何を飲んだか――疑惑の保健薬=0とマイナス』(章立ては「グロンサンの燃えかす」「チオクタンの疑惑」「虚名のみ高いアリナミン」「サリドマイド奇形の真相」「死にいたる薬」「珍薬は大手を振って」「国民は黙っていない」)より
 「一九六〇年の消化器学会は信州大学で行われた。[…]その晩、松本で開かれるグロンサン研究<0020<会に大下教授の代理で出席するように言われていたのである。
  私はその頃、まだ助手だった。グロンサン研究会といえば肝臓病の大家たちの顔がズラリと並ぶことで知られている。世に時めくグロンサンや、それをつくっている製薬会社の威勢を象徴するような会合だった。松本での学会の二日目の夜が、それにあてられていた。」(高橋[1970:20-21])
★ 19690228 『社会のなかの医学』,東京大学出版会,UP選書,301p. ASIN: B000JA14RO ISBN:9784130050258 480 [amazon][boople] ※ b d07
 「はからずも、東大闘争のなかで一人の若い生物学者がおこなった厳しい解析のなかに、わたしたちは医療矛盾の鋭い集約をみる。
 「医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか」(最首悟氏)
 この問いにたいして、わたくしたちはいま、誠実に答えなければならない。
 目を広く社会に向けて見ひらくとき、わが国はほんとうに国民の生命を守ることのできるような近代的な医療制度を持っていないことに気づかなければならない。医療が自由業であり、営利業である状況のもとでは、国民はサイエンティフィック・ミニマムの医療さえ保障されえないのだ。医療の倫理性も、それに科学性さえも、医療の営利性の前には影をひそめざるをえないのである。
 いま、医学生や青年医師たちは、わが国の医療矛盾の実態を厳しく見つめ、その本質を鋭く突きはじめている。それらを医療技術の問題に解消することは、もはや許されないだろう。それらは、<00ii<わが国の社会の体質そのものの反映として、捉えられなければならないものであるのだ。」(高橋[1969:ii-iii])
★ 武谷三男
★ 高橋 晄正中川 米造大熊 由紀子 19731215 「医療の質をどうよくするか」,朝日新聞社編[19731215:133-188]
「中川 先生の医学論でちょっとね私、危惧をいだくのは、七〇年代の医療は、コンピューターを使った数学中心の、いわゆるシステム医療という形で動いていくと思うんですね。そうすると、先生の考えているのがそっくり「敵側」に利用されてしまう危険があるんじゃないですか。
 高橋 科学にしろ統計学にしろ、敵はそうやって歪めて使ってくる。それは十分覚悟の上で、こちらはそれを反撃のために使わなきゃいけない。「むこうは使う」「こっちは使わない」じゃ、もう<0153<ゲバ棒しかないんですよ。(笑)先生が批判しておられる”科学”というのは、資本と権力によって毒された技術ですね。人間性を忘れ、栄誉とカネもうけにつながる技術。それに批判をもっている点はぼくも先生と同じなんですよ。
 さらに、科学技術というものは、自然の法則をいかに使うかというものだといっても、無制限に使ったのでは自然破壊がおこる。原則的には、技術はなるべくちぢめていって、自然の中で生きるようにしなければいけない。ただし、現段階では、敵が資本に奉仕する科学技術を使ってやってくるとき、われわれは、やっぱり人民のための科学技術を使わざるをえない。
 その意味で、われわれの立場は、「反技術」なんです。しかし、論理と物質性を無視した「非科学」の道はとらない。直観だけではとても勝てないですからね。武田製薬の「飲んでますか、アリナミン」に反撃するためには、こっちも学生たち有志に呼びかけて、いわば人体実験をやって、アリナミンの有害性を立証するデータを用意しなきゃならないんです。」(高橋・中川・大熊[1973:153-154])




  で、我々の方の流れは、やっぱり大学だけじゃなくて、学会もよくないから学会も改革しなきゃっていうことで学会闘争を始めて、そしたら学会なんていうのは当時は小児科学会なんかは、乳業四社が全部仕切ってる、仕切ってくれてる。森永と明治と雪印と和光堂っていう乳業四社ってのがあって、それが全部、学会で医者の面倒を見てくれるっていうシステムになってて。だから、その四社と縁を切れみたいなところから運動が始まって。
  そしたら森永の被害者が小児科学会へ来て。我々も全然知らなかった、そういう事件があるっていうことも知らなかったんだけども、小児科学会の医者が自分たちの健康診断をやって被害なしって出したおかげで、長い間、偽患者扱いされてっていう話をされて。先輩がやったことではあっても我々にも責任がないとはいえないっていうような意識みたいなものっていうのは、そこで初めて出てきたのかもしれない。
  先輩がいい加減にやったことを私たちは後悔しなきゃいけないっていう感じがあって、それで、医者のレベルはだいたいその小児科学会へ集まってた部分が受け持って、共産党系じゃない医者たちが医学的な部分では関わって、でも運動としては共産党が主に関わってるっていう状況だったから、そのことが後々ちょっといろいろ齟齬をきたすわけだけど、被害者本人が来て、告発をして、医者の総体としても医者の責任を問われたっていうことが、そういう場所であったっていうか。だから、その、やっぱり医者自身が問われるっていうことはなかった、だいたい、世の中にはいい医者と悪い医者がいて、いい医者が悪い医者を告発するという構図になっていたわけだから、だからその告発してるお前らも同罪なんだっていうふうに言われる経験っていうのがずっとなくて、それがその場で初めてだったと思うね。そこに我々は立ち会えた。だから、小児科の医者で今も活動してるのがけっこういるのは、やっぱりそこから始まったからだって思うんだよね。で、おそらく精神科と小児科以外は、そういう場所には立ち会えなかったと★。
◆立岩:突き上げをくらってない。
◆山田:うん、くらってない。
◆立岩:ご本の中にはそうやって患者でてきたけど、学会員ブーイングで、冷たかったって書いてあるじゃないですか★。大勢としてはそんな感じだったんですか?
◆山田:それはそうだよね。
◆立岩:なんでその人来たのっていうか。精神障害の方だと、その後になるともう勝手にやってきて、壇上占拠みたいなのはあったじゃないですか。この、そもそも、森永の時に患者の人が小児科学会にやってきてっていうそのいきさつは覚えてらっしゃいますか?
◆山田:小児科学会が騒然としててっていうことはわかってたから。一番最初のところはちょっとわかんないけど、岡山の被害者自身、高校生だった石川くんっていうのが来て、で、彼が自分で告発したんだけれども、岡山では連絡があったんだろうね、きっと★。
◆立岩:その当時、すでに学会的には内紛っていうかごちゃごちゃな状況がでてた?
◆山田:うん、そう。鳥取でやった学会を粉砕したとかっていうことがあって、それこそ演壇占領しちゃってみたいなことやってたな。
◆立岩:精神と小児に関してはそういうことが少なくとも一時期あったという話は聞きますけれども、他にはあまりそれは広がってないんですか?
◆山田:広がらなかったね。内科なんかがちょっとやったけども、もうほとんどそれはなかった。
◆立岩:小児学会の中が流動化している情勢の中に、石川さんがやってきて話すと。大勢としてはブーイングだけれども、でも一理あると思ったんですか? 一理あるっていうか、言われるだけのことはあるっていうふうに山田さんなんかは思ったってことですか?
◆山田:それはそうだね。なんとなく予備的に知識はあったような気はするんだけど。東京なんかは、当時は森永の被害者はいないってことになってたからね。あれは西日本の話で、岡山から始まって大阪だとか兵庫だとかっていうところだから。だから、広島なんかで運動やってたやつはもう知ってたと思うし。で、そのへんが一番最初は被害者とつながっていくってことをやってたと思うんだけども。で、それはもう、なんかとにかく話を聞いただけで、もうこれはひどいことやったんだなっていうのがわかるようなものではあったよね。

★ 高橋 晄正 19730815 「こんな教育がつくるこんな医師」,朝日新聞社編[19730815:167-220]
 「全国の新革新派学生は全共闘の占拠した安田行動に結集し、東大闘争は全国大学闘争の中核部分となったかにみえた。しかし、大学闘争には、日大闘争にみられるように別な中心もあったことからもわかるように、東大闘争の発火点となった医学部問題もまた、日本の社会がかかえている社会矛盾にたいするラジカルな追及の一つの現れであって、それらが全共闘的エネルギーのもとに一気に噴出したのが大学闘争であったのだ。
 だから、医学部内部においても、やがて医局内部の教授を頂点とする封建的体制、学位論文目あてであって社会とあまりかかわりのない研究の空虚さ、講座制にみられる学問体系の硬直性のもつ矛盾、講座制の延長上にある学閥の弊害などが、容易に動こうとしない古い医局員たちに鋭いメスとなって突きつけられた。だが、医局内部は小児科や精神科という少数の領域を除いてほとんど動かなかった。」(高橋[19730815:218])
★ 1970年。「「森永ミルク中毒事件」と初めて出会った日のことは、いまでもよく覚えています。その日、ぼくたちが学会改革のスローガンを掲げて闘ってい<0149<た小児学会の席上へし、森永ミルク中毒の被害者がやってきました。それは、ぼくにとって驚異的なてきごとでした。
  被害者の代表としてやってきた石川雅夫さんは、当時まだ高校生でしたが、「昭和三〇年当時、赤ん坊だったミルク中毒の被害者を健診して、”異常なし””後遺症なし”といいきったのは小児科学会に属する学者たちだった。その後、被害者はなくなったり後遺症に苦しんできたりしたが、検診の結果、被害なしということになったものだからずっと偽患者のようにいわれ、世間から忘れられた。この責任はあなた方、小児科学会の全員が負うべきではないか」と明快な言葉でぼくたちを告発したのです。
  会場からは「帰れ、帰れ」のやじが起こりました。それはこうした告発になんの心の痛みも感じない医者たちのひややかな応答でもありました。ぼくは怒りと悲しみの思いに包まれ、なんとかしなければと思いました。」(山田[149-150])
 石川の文章として、石川「被害者・障害者の人権解放へ――ヒ素ミルクの十字架を負って」(石川[1973])、梅崎・一番ヶ瀬・石川[1973]。
  「昭和四七年八月二〇日、私たちは一八年にわたる差別と抑圧に終止符をうち、苦しみを試練とし、解放をめざして立ちあがろうと決意した。それは、まず、仲間がつぎつぎと殺されていったこと、多くの親は結局先に死ぬ以上、今後私たちが生き抜いていくにはみずからの力で闘っていかねばならないこと、仲間で団結し私たち自身で立ちあがらなければ森永との闘いに勝利はありえないし、解放もない、という認識にみんながたったからであった。
  私たちはその日、@森永ヒソミルク中毒による後遺症の恒久的治療と、たとえ「障害」があろうとなかろうとそんなことに関係なく人間として生き抜いていけるための恒久的保障を勝ちとる、Aヒ素中毒による「障害」「病気」をもつ私たちに対する差別をなくす、B一致団結して闘い抜く、という三つの願いをこめて、「私たちのからだを返せ」というスローガンを決定した。」(石川[1973:113])
★ 日比 逸郎 19731015 「ヒ素ミルク事件と小児科学会」,朝日新聞社編[19731015:87-160]*
*朝日新聞社 編 19731015 『荒廃をつくる構造』,朝日新聞社,朝日市民教室・日本の医療5,254p. ASIN: B000J9NNZG 500 [amazon] ※ b
 「4 「森永アレルギー」に苦しむ学会
 問いかけにこたえられぬ学会
 昭和四三年の東大医学部紛争に端を発した医局講座制粉砕の医学生・青年医師の闘いは、各大学医学部・大学病院医局をゆさぶった。その余波は医局講座制の一支柱と化していた学会にも、学会紛争として波及した。小児科学会でも青年医師を中心とした学会改革運動が開業医会員をまきこんで、昭和四五年秋にはすでに一定の成果をあげていた。<0133<
 医学部紛争やこれらの学会紛争の過程で、大学教授のかつての絶対的権力と権威はかなりの傷をうけていた。かつて大学教授によってその理事を独占されていた小児学会も、理事の中に少数ながら開業医や病院勤務医が選出されるような状態にはなっていた。
 このような情勢をみて、守る会はまず全国の青年小児科医に、アピールを郵送した。それは、彼らに森永ヒ素ミルク中毒事件のいきさつを教え、彼らに「小児科学」が被害者を救いえなかったことを教えた。これは「学問のあり方」に対しての深い疑念から学会改革運動にとりくんでいた彼らの心をつよくゆさぶった。彼らはただちに守る会と接触し、被害者やその家族のナマの訴えを聞いた。
 四六年二月、守る会は学会の理事会に対して、森永ヒ素ミルク中毒の被害者の追跡調査と救済について、「学会の見解」を公開するように申入れた。それとともに、一六年間の空白をもたらした、かつての小児科学会の権威者たちの「小児科学」をどう考えるかと学会に問うた。すなわち、西沢六人委員会の作成した診断基準、治癒判定基準や、五人委員会の後遺症なしの結論、あるいは三一年のいわゆる精密検診、森永奉仕会と学会との関係などについて「学会の見解」を明らかにするようにとの申入れであった。
 患者が専門家集団としての学会にむかって、きわめて具体的にかつ学問的に医学のあり方について問いかけたのである。この問いかけに学会は答えるすべをもたなかった。
 一六年前に、西日本全体の小児科関係者のほとんどをまきこみ、当時、一九六編の医学論文や多数の学会報告を生みだしたこの事件について、「資料や情報の収集に努めているが、未だ見解を述べ<0134<る段階に達していない」ので、理事会は小委員会を発足させて患者の問いかけに答えるべく資料・情報の収集にあたらせることを公約した。
 守る会はさらに追打ちをかけた。四月の学会総会に参加して、多数の小児科医に被害者として直接、語りたいと理事会に申入れたのである。理事会は困惑し、この申入れを拒否したが、改革派会員の働きかけに押されて、「休憩時間を利用して発言の機会を与える」ことを渋々みとめた。
 その日、守る会の岡崎事務局長は、被害者家族を代表して、小児科医に直接語りかけた。
 「事件発生後わずか三カ月で後遺症なしと判定した西沢説の非科学性は、被害者とその家族に一六年間の暗黒をもたらした。この悲劇はすべて医学の名において被害児に押しつけられたもので、この問題を避けて小児科医が医学や医師の倫理を語るほど罪深いことはない」
 この年はちょうど四年に一度の日本医学会総会開催の年にあたっていて、小児科学会も参加していた。主要テーマは「医の倫理」であった。
 岡崎氏は最後に、@森永乳業に働きかけて、同社のもっている被害児の名簿などの資料を学会に提出させてほしい、A被害児の救済に学会をあげて緊急にとりくんでほしい、という二点を学会の総意として議決してほしいと訴えた。
 「森永事件は政治の問題」
 守る会の一連の働きかけは、決して陳情ではなく、明らかに「小児科学」の本質とあり方につい<0135<ての問題提起であった。この問いかけては学会内部にさまざまな波紋を生んだ。もっともうろたえたのは、かつての西沢委員会のメンバーであり、岡山県で守る会の反対をおしてふたたび「官製検診」を強行しつつあった、いわゆる官製委員会のメンバーたちであった。
 彼らは理事会に対して、学会が森永問題をとりあげぬよう圧力をかけた。官製委員会のメンバーたちは岡崎発言の直前の評議員会や総会で、異様なまでのハッスルぶりで、学会が森永問題をとりあげることと被害者代表に発言の機会を与えることに反対して猛烈なキャンペーンをはった。彼らのやり口は「森永事件は政治の問題である。守る会は政治的変更のある団体である。守る会は被害者のごく一部の組織で被害者の代表たりえない」といった、学会員の政治アレルギーを利用した偏向助長のアジであった。
 一六年前の事情を知る会員には「古傷にさわられたくない」という気分をひきおこさせ、事件のいきさつを知らぬ会員には「森永問題はどうもタブーのようだ」というタブー意識をもたせることに成功した。しかしそれと同時に、改革派の会員には、森永問題こそ学会改革の上で避けて通れぬ重要な試金石となることを本能的に察知させてしまった。
 守る会の問いかけは、会員間の医学のあり方についての意見の分裂を鮮明に浮き出させたのである。学会は右に左に大きくゆれ動いた。
 「被害者どうせ一六年お待ちになったのだから、ついでもう少し待っていただいて、学会での発言などご遠慮いただこうではないか」という官製委員会メンバーの提案はさすがにとおらなか<0136<ったが、「患者の訴えを真正面から聞くところから医学は始る。被害者代表を正式に学会に招待して十分にその訴えをきこう」という改革派委員の意見もとおらなかった。妥協の産物が、「休憩時間を利用して、非公式に一五分間だけ発言することを許してあげます」という結論であった。
 岡崎発言のあと、会員間の医学に対する意識の分裂はさらに鮮明となった。岡崎発言にひきつづいて森永問題を最重要議題として十分討論しようという改革派の声は、圧倒的多数の保守派によって葬りさられた。しかし、森永と学会の癒着を徹底的に追及した改革は医師の努力は、岡崎発言の重みとあいまって、「被害者救済を第一義とする」森永砒素ミルク中毒調査小委員会を総会の総意として発足させることに成功した。
 長時間にわたる議論にわく会議場や廊下を、心配顔の森永の社員が自由に出入りしていた。患者を会場に入れることには神経質な学会員も、森永とうい一企業の社員が会場に入ることにはなんの疑問も示さなかった。」(日比[1973:133-137])



◆立岩:それ以降のね、どうやらそうらしいという後の山田さんたちのでもいいですし、もうちょっと大きいサイズの動きですよね。医療者なら医療者のそういった患者たちというの、対する関係のしかたっていうか、つながりかたっていうか、っていうどんな経緯をたどるわけですか?
◆山田:その後は、森永に関して言えば、我々は森永告発って言われる組織を作って、それで不買運動だとかなんかをやったり。で、一方では、被害者の健康診断だとかなんかをやったりはしたけども。それは副次的な話で、主にだから、森永行って、糾弾して騒ぐっていうようなことをずっとやってたよね。
  やってたんだけど、実際、裁判になって、どっちが正しいかわからないんだけれども、我々は裁判結審までやらせようっていうふうに思って、告発する側は思っていて、それで、途中で和解したということがあって、告発する側は和解に反対するっていうことだったから、運動一緒にやれなくなって、それで抜けたわけだ。
  ただ東京の森永の被害者組織っていうのは、僕ともう一人の小児科医の黒部っていうのと二人で、どうも東京にも被害者がいるらしいということで、その被害者の家をまわってっていうことで、二人で組織したようなもんだから、東京はちょっと違うできかたをしてた。他のところはみんな被害者自身が作った組織だったんだけども、東京はそういう組織だったし、それで非常に関係深いということもあったから、だから、二人ともそのまま残って付き合うということにはなったわけだよね。
◆立岩:医療過誤にしてもなににしてもね、どこかで和解でいくのか結審までずっとやるのかっていうのは、今も肝炎だってそういう話あるじゃないですか。で、どっちももっともなわけじゃないですか、常に。両方、両方が。
  その両方もっともな、その間の中に、その内部に、いろんなことが起こるわけですよね。それってどうなんでしょう。わけのわかんない質問かとは思いますけど、どうなんでしょう。たとえば、法律家・弁護士と、支援する多数派じゃないかもしれないけど医療者がいて、本人がいて、家族がいてって、少なくとも三者か四者か、その関係者がいると。そうすると、そのターゲットっていうかゴールっていうか、が、おのおのの、もちろん患者の中でも違うと思いますけれども、目標設定っていうか、違ってくる。そこの中で、どこがイニシアティブっていうか、主導権を持ってやるのか。それが結局どういう出来事、事態を起こすのか。そういうことって森永のときに限らず、起こってきたし、起こっていると思いますけど。
◆山田:医療裁判は、多くは、やっぱり医者と弁護士が主導していて、被害者自身は抜きになってるっていうことが多いよね。一貫して、そういう意味では、進められているっていう。だから、松下竜一★さんたちの運動じゃないけれども、医者とか弁護士とかなしで被害者だけでやったほうがすっきりしてるし、いい裁判できそうに思えることはいっぱいあるんだけど★。それは、最初の我々がそういうこう市民運動を始めようという時期に、やっぱり本田なんかが中心になって、「日本の医療を告発する医師・弁護士の会」かな、支援する医者と弁護士の会の集まりみたいなものをやったことがあるんだけれども、僕はそういうのは嫌で、なんかそういうのだけで集まって考えちゃうっていうのも。だけど、現実にはやっぱりその被害者は医療のことはわからないから、法律のことはわからないからみたいな話があって、で、ほとんど弁護士と医者が主導して、言ってしまうっていうことがあると思うんだよね。
  で、医者と弁護士の間でもね、医者と弁護士の会をやった最初の会のところで、水俣に関わってる後藤コウテン(孝典)さん★ていう弁護士、ゴトベンって言われてる彼が言ったことがあったんだけど、医者と弁護士でも違うって言うわけ。医者は非常に困るっていうか、なんていうかな、負けても平気だって言うんだよ。

★ 松下竜一 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E7%AB%9C%E4%B8%8
★ 水俣病裁判。1973年
  「判決が言渡される期日が近づくにつれ、事態の流れは勢いを強めて渦まきはじめた。
  三月八日、訴訟派と自主交渉派の患者が弁護団と、判決後の行動について打合わせをすること<0224<になった。ところがその会合で激論となり、患者たちと弁護団の関係に修復不能なまでの亀裂が入った。
  理由は二つあった。一つは、弁護団が判決後のチッソとの交渉を弁護団と国会議員が中心となって行うことを主張した点にあった。
  患者たちにとって、チッソとの直接交渉は、ボス交渉の場所ではなかった。魂の救済にかかわる空間であり、余人を容れようもない場であった。
  もう一つは、弁護団が一月二〇日に第二次訴訟を起こしていることであった。その原告のうち一〇人は環境庁裁決後に認定された人々であったから、この訴訟は川本たちの自主交渉を否定し、新認定患者のなかに別のグループをつくる意味を帯びていた。
  患者自身による直接交渉を否定して弁護団中心の交渉を主張し、自主交渉を否定して裁判を主張すくということは、何もかも弁護団が中心になることであり、患者は単にそのための道具にしかすぎないことになるではないか。患者たちにとって、判決が出ようとするこの時期に、チッソとの直接交渉を妨げるものは、弁護団といえども許せなかった。
  判決五日前、訴訟派患者総会が開かれ、東京交渉を患者中心でやり抜くことが承認された。判決直前に、原告たちと弁護団との縁が切れるときいう不思議が起きた。
  告発する会も訴訟支援の県民会議を脱退し、弁護団に絶縁状を叩き付けた。告発する会にとっては、訴訟の理論立てと立証準備を担ったのは水俣病研究会であるという自負があった(水俣病研究会は告発する会の主要メンバーと重なり合っていた)。弁護団は、水俣病研究会が出版しようとしていた「水俣病にたいする企業の責任――チッソの不法行為」の原稿を丸写しし、第四準備書面として裁判所に提出してしまう不信を犯してもいた(後に撤回された)。訴訟でプロ<0225<でさえなかった弁護団が訴訟外の交渉の場で指導者づらすることは許せないという理由であった。
 この一連の軋轢は、訴訟派と自主交渉派の、相互接近を触媒することとなった。訴訟派としては、判決後のチッソとの交渉を弁護団ぬきでする以上、自主交渉派と別個の組織を維持する理由はもうない。自主交渉派としては、判決を利用しない手はない。
  判決当日、訴訟派と自主交渉派は合体した。
  「水俣病患者東京本社交渉団」が結成された。」(後藤[1995:224-226])
★ 前の註で引用したのが、後藤孝典『沈黙と爆発――ドキュメント「水俣病事件」1873〜1995』(後藤[1995])。他に後藤孝典編『クスリの犯罪――隠されたクロロキン情報』(後藤編[1988])。 虎ノ門国際法律事務所のHP http://www.toranomon.com/annai/index.html

  それは、医者というよりもあのころの活動家がそういう言い方をしたっていうのがあるんだけど。究極的には負けてないっていうかな、最後に1回勝てばいいとかね。それから、負けてもこれは歴史的に意味があるとかね。で、そういうことを言うと。
  裁判なんてね、勝たなきゃしょうがいないのであって、負けたものに歴史的な意味なんかないって、私なんかは思うんだけど、医者なんていうのはその医者の側からそういう勝手なことを言ってね。結局、その患者さんがいろいろ時間をかけて、お金をかけて、最終的にほんとに一銭も取れない状態でもね、理念的に勝ったんだから意味があるとか言われると、それは違うんだっていうふうに言われて、それは私も納得したんだけども、どうもね。
  やっぱりそういう点では、一時は患者さんがどんどん、松下竜一さんが「ランソの兵」(cf.「乱訴の弊」)って言って、乱れ撃ち的に訴訟をしていくっていう。被害者が言ってくると、やろうやろうっていう感じでみんなで煽って、裁判やらせるみたいな時期があってね。で、ほとんど一件も勝てないっていう状態だったんだけども、こういうのたくさんやっているうちにはそのうち勝てるようになるかもしれないみたいな話があったりしたんだよね。
  裁判でもね、スモンの裁判最後までやった古賀(照男)さん★っていう人がいて、古賀さんなんかがやった裁判っていうのは、ほんとに、自分の意見を押し通してやる人だったから、あれは被害者自身の裁判だったと思うけれども。ほとんどそういうものはやっぱりなかったし、それぞれが、要するに弁護士が自分の利害も含めて、引くべきか進むべきか考えて、それでやめたり、進めたりしてたようなところがあるっていうか。それは今もC型肝炎でもなんとなく垣間見れるところがあるよね。なんか被害者の思いと弁護士はなんとなく取引してるような感じがあるんだけれども。

★ 「被害者のなかで、ぼくたち「支援する医者」にも鋭く批判をするのは古賀照男さんくらいでした。古賀さんはスモンの患者さんでしたが、病気になる前は労働者で、病気になった後で加害者である「田辺製薬」を追求(ママ)するときも作業衣のままだったりしました。二〇〇三年に亡くなられましたが、最後まで製薬会社の追求(ママ)をやめず、その姿勢にぼくは深く感動し、また多くのものを教えられたと思っています。
 […]<0242<[…]
 古賀さんの闘いでは古賀さんが主役で、医者も黒衣にすぎませんでしたから、スッキリした気持ちでかかわることができましたし、古賀さんの言葉からあらためて日本の医療の問題点を見直すことにもなったりしました。
 しかし、被害者の人たちと医者とがこんな関係になれるのはめずらしいことで、医者が医療被害者運動の先頭に立ってしまうこともしばしばあったのです。」(山田[2005:242-243])
 「もうひとり、忘れられない人がいる。古賀照男さんである。
 彼は、神奈川県のスモンの会会員だった。いつも茶色のビニールの長靴を履いて、クラッチという肘まである松葉杖をカチャンカチャンと鳴らして歩いていた。
 胸と背中には「薬害根絶」という文字があった。汚れた布にいつ書かれたか分からないような手書きの字だった。いつも同じようなジャンパー姿だった。「それでよー、おまえよー、何考えてるんだ、しっかりしろ」というような、言葉使いは乱暴だったが優しい心根をもった人だった。
 東京地裁の裁判が和解に向けて怒涛のように動いていったとき[…]いつもわたしと行動をともにしてくれた。
 自分たちの弁護団のところへ何度も話し合いに行った。話し合ってもちらがあかないため、新<0094<しい弁護団をつくることができるかどうかを模索するため、2人で歩き回った。あちらの弁護士、こちらの弁護士、ほんのちょっとの知り合いにも紹介してもらって、とにかく歩いた。[…]しかし前にも述べたように、社会的な地位のある弁護団を解任して新しい弁護団をつくることは、もうここに至ってはできななかった。しかし、たった1人の弁護士だけが、第一次判決のときにわたしたちを助けてくれた。
 その後しばらくして、わたしたちの原告団は頑張ってはみたが判決を求めていくことができず、和解へと追い込まれていったのは、先述したとおりである。
 ところがこのとき、古賀さんともう1人の原告だけは絶対に和解しないと言った。わたしたち判決派の原告団では、決して和解を強要することはしまいと申し合わせていたので、古賀さんにはできるだけ協力することにした。
 とは言っても体力、気力の限界まで頑張った後に和解したわれわれだったので、古賀さんの闘いにおいて、わたしたちにできることは限られていた。[…]<0095<[…]
 わたしたちスモンの原告団は、古賀さんの仲間だったはずであったが、時々のカンパを別にすれば、古賀さんと行動をともにできた者は結局いなかった。
 古賀さんは、強烈な個性の持ち主であった。彼は、自分だけを残して和解してしまったわたしたち原告団に対して、表面上はともかく、心の中に怒りを秘めていた。裁判にも負け、奥さんを失い、古賀さんの心で燃えるのは怒りのともしびだけだったかもしれない。古賀さんは、私たち昔の仲間に電話をかけては、怒りをぶつけた。
 わたしたちは、古賀さんに愛情をもっている仲間であり、古賀さんの気持ちは十分理解できると思ってはいたのだが、古賀さんに鋭く批判され、怒りをぶつけられたとき、体の具合が悪いわたしたちは、寛容の心をもってそれを聞き、ともに闘うということができなかった。
 私も電話をもらい、あまりに理不尽なことを言われて大げんかをしたことがある。同じ病で死ぬか生きるかのときちる、こちらも古賀さんのわがままをわがままとして受け止め続けることができなった。
 古賀さんは私たちを見放した。古賀さんは、自分の怒りを受け止めてともに闘ってくれる仲間と田辺に対する抗議行動を続けた。」(田中[2005:94-96])
田中 百合子 20050810 『この命、つむぎつづけて』,毎日新聞社,238p. ISBN-10: 4620317365 ISBN-13: 978-4620317366 1470 [amazon][kinokuniya] ※ b d07
古賀 照男 19860315 「薬の神話の被害者として」,東大PRC企画委員会編[1986]*
――――― 19991101 「スモン被害者として」,浜・坂口・別府編[1999]*
 http://www.npojip.org/jip_semina/semina_no1/pdf/068-069.pdf
――――― 200003 「孤独と連帯――古賀照男・闘いの記」,『労働者住民医療』2000-3,4,5
 http://park12.wakwak.com/~tity/shadow/koga.htm

◆立岩:それってけっこう個別に違うと思うんだけど。確かに医者は一本気にこれは正しいんだろうと言う傾向ってあるのかなって気はする。弁護士は、落としどころっていうか、取るもんとらにゃって思う。そこまではわかるんですよ。そうすると、医療サイドにしても法律サイドにしても、あるいはそうじゃなくて、患者というか本人の側が主導権っていうか、持つ場合とね、一般論で語れないことなのかもしれないけれども、どういうふうに裁判なら裁判、あるいは裁判の闘い方の形態っていうのが変わってくるものなのだろうか。それどうなんですか?
  当事者にとっては、裁判ずっとやってるの待ってたら「俺死ぬかもしれない」っていうのあるじゃないですか。でも適当なとこで和解になったら悔しいっていうのもあるじゃないですか。本人自身が裂かれているっていうか、両方の望みがあると思うんですね。で、そうしたときにね、その本人の中でも、和解でいくのか、最後までいくのかって、分かれる部分がある。で、いろんな人たちが引っ張っていく中で、どっちの方に傾きがちっていうか、傾いちゃうことになるのか。そういうことっていうのは、今までのことでいかがですか?
◆山田:僕が関わった範囲で言えば、大きな社会的な事故じゃなくて、医療事故なんかによる個別の事故っていえば、被害者は、実際は、金を請求するっていうかたちでしか裁判できないから、金で請求してるけど、金いくらもらったってすむ話じゃなくて、要するに、手をついて謝ってほしいとかなんかっていうことで始まるわけだよね。でもほとんど手をついて謝ってもらえる光景には出会えない。示談である程度のお金が出ることはあっても★。
 だからほんとに裁判なんて悲惨なもんで、僕らが証言で出ててもそうだけども、被告だってほとんど出てこない。全部代理人で、代理人同士で終わってしまって、それで、原告出てきても被告にもいっぺんも会えないままで終わってしまうとかっていうことがよくあって。そこらへんがやっぱりなかなかで。そうするとね、たとえば、弁護士の利害から言えば、謝ってもらったってしょうがないっていうか、実質的に取るもの取らないとしょうがないわけだから。確かに、お金を払わないでただ謝るっていうふうなかたちになることも、まぁありえないといえばありえないから、しょうがないんだけれども。とにかくやっぱりその患者さんの思いっていうのが、その裁判やなんかやってると早い段階で抑えられてしまって、裁判はこういうもんだからこういうふうになるんだよって言われて、なんとなく納得できないまんまに裁判が終わるっていうことが多いという感じはする。それはやっぱり、僕らがその証人として出たりしてみててもそういうところがあるよね。やっぱり食い足らないっていうか、もっとやっぱり本質的に問わなきゃならない問題があったりするのに、やっぱりそこを弁護士がきちんと掘り下げるってことをしてないから。
◆Aさん:ちょっといいですか。その医療者と弁護士が主導するかたちでの告発っていうか運動を見て、その、ある意味で、積極的な意味でその主導権を被害者の方に譲り渡していくようなプランというか、案っていうのは考えられたことはありますか?
◆山田:患者さんが非常に強くてっていう。強くて、弁護士や医者はついていくしかないみたいなかたちになったことっていうのが、それが滅多にないけれども、たとえば、そのスモンの古賀さんなんかはそうだったと。
◆Aさん:ある意味強い患者さんっていうのがいないと、そういうことにはあんまりなりがたいってことですよね。
◆山田:そうだよね。水俣なんかはかなり患者さんが前面に出られる運動だったと思う。それはやっぱり、最初にチッソで出てきたときに、その裁判が主たる運動はなくて直接行動を一緒にするっていうことにして、裁判を後ろにやったわけだから、そこからやっぱり患者さんがある程度主導権をにぎって運動をやれるっていうことになった。
◆立岩:近ごろ出ている話としては、裁判ってのはそもそもそういうもんで、いろいろ工夫してもそうでしかないから、裁判外のプロセスっていうか仕掛けっていうのを作りましょうかみたいな話はボツボツとあります★。僕もそれもありかなと思いつつ、でも裁判は裁判でやらざるをえない…。
◆山田:水俣ぐらいに直接行動強いものをやればね、それと平行するかたちで裁判が意味を持つことはあると思うよね。だけど裁判だけということだったら、裁判よりも直接行動の方が。たとえばひどい医者に医療ミスさせられたなんていうんだったら、裁判しても、被告出てこないからなんともないけど、病院の前で毎日ビラまきをしたりする方が有効だって感じだよね。

★  1988年「当時から医師会の弁護士らによる講習では「決して謝罪しないように」という指導がなされていたが、これこそが賠償保険というカネに歪められた本末店頭の姿勢であった。この指導は現在でもいたるところで行われており、年を経ても何ら改善されていないことが明らかである。」(森[2002:8])
 この文章の著者(1940年生、大阪市立大学医学部卒、医療事故調査会代表世話人)――医療事故への対応策として「診療工程設定管理」他を提唱――による医学部闘争についての評価は以下。
 「一九六八年に始まった医学部闘争は、当初は自治会による医学部の機構改善闘争であり、人事、教育、講座制度の実質などを改革する「医学部民主化基本綱領」としてまとめられ、教授会決定までなされた。しかし、その内容が当時としては画期的すぎたのであろう。すぐに行政からの指導があったのか、その決定は反古にされ、以後は不毛とも言うべき全共闘方式の闘争に入っていった。日本医師会は当時も保険医総辞退を武器として給付率アップを求めることに終始しており、学生や若手医師の提言に何ら応えることはなかった。
 医学部闘争が収束した後、その提言は一切否定され、医学部は倍増されても教育内容は総体的に質的低下を続けることになる。遠くの活動した医師は巷間に散り、一部は小生のように国外に研修の場を求めた。当時闘争を担った医師郡で現在は政治の場に立っている人たちもいるが、その多くは既に医学教育や医師および医療者の信任制度などの改革意欲を失っていると言わざるを得ない。」(森[2002:78])
 同じ本に収録されている対談に以下の発言。
 「あのケースを担当している教授は、仙台のほうの自分が派遣されている病院に行って「じつは間違いをしているけど、それを認めてしまうと、日本医大に傷がつく。わたしにも傷がつく。だから裁判に持っていって風化させる」と言っている。裁判に持ちこんだら終わりですからね。もうオープンにはならない。」(森・和田[2002:175]、森の発言)
★ 例えば和田仁孝・前田正一『医療紛争――メディカル・コンフリクト・マネジメントの提案』(和田・前田[2001])。



◆立岩:ただですね、山田さんたちは一方で、ひどく単純なことを言いながら、同時にというか、いったんそう言ってしまったからかもしれませんが、だんだんとぐちゃぐちゃにもなってくる。その一つは、先ほどの悪い医者・良い医者の話です。高橋晄正さんのように科学的・統計学的に検証すれば、グロンサンにしてもアリナミンにしても効きやしないのだという、科学に対して科学を対置するタイプの議論は当然今でもあるし、今後もあり続けるべきだと思います。
  でも、医療の中での、あるいは科学の中でのより正しい科学というか、正しい医療っていうそれだけでいけるのか、みたいな感じが、やっぱり70年代、すこし経ってからかもしれませんけど、でてきたような気がするんですよ。ここ(会場)にもそういう研究してる人がいるけれども、たとえば、高橋さんの話ってもともとを言えば、効かない薬があると、裏返せば、効く薬だったらいいわけですよね。ただ、もうちょっと後になってくると、精神障害の連中が薬どうなのって、効きゃいいってもんでもないみたいな、そういう医療批判みたいなものをやっていく部分があると思うんですけどね。
  そこのへんこんがらがり具合ていうのはどうなんだろうなってのがあって。今日は僕は山田さんの話を一応わかった上で次の話みたいな感じで聞いてしまっているのでね、むしろ本来であれば、最初の読み手にとってみれば知らない話を聞いてないんですが。
 この時期よりもうちょっと後ですけど、山田さんが森永ミルク中毒の人と一緒に全障連(全国障害者解放運動連絡会議)の第2回だから77年ですか、明治大学での大会に行って話したら全然、っていう話が書いてあるじゃないですか★。
  そういう、間違った科学に正しい科学、間違った統計処理に正しい統計処理っていう図式と、そこからもちょっとはみでちゃうみたいなものが現われてくる、こんがらがってくる。そのあたりの感触っていうか、経験みたいなものっていうのはどうだったんですか?
  一方で治りたい、もとに戻せって森永ミルクの被害者の人が言って、そんなこと言うなっていう人たちがいて。それって解ける話なのかどうかはわかりませんけれども。でも現実にそういう場に遭遇してしまうわけですよね。医師っていうのは普通あんまりそういうとこにいないわけでしょ。でも出来事はそういうとこに起こったりもするわけですよね。そのことはこの本の中には書かれてるけれども、同じことでもいいですし、なんかプラスアルファでちょっと思い出せることっていうの、その後のことも含めてね、もう少し足してお伺いしようと思うんですけども。
◆山田:全障連大会へいったときというのは、森永のミルク中毒の被害者に関わっていて、一方で障害者の運動にも多少関わっていたから、だからだいたいそういう公害被害者運動とそれから障害者の運動だとかなんかっていうのが別々でやってるのがおかしいから、なんとか一緒にやれるようにっていう、いくいくは反差別共同戦線といったようなようなものを構想して、乗り込んでいったんだよね、私は。
  障害者の運動っていっても狭くて、障害者のことやってるけど公害の被害者のことなんか知らないじゃないかっていう、それでそのことを啓蒙しなきゃいけないみたいな気分っていうのもどっかにあったりして、そのときに森永の被害者たちがたててたスローガンが「体をもとに戻せ」っていうスローガンだった。それを最初に森永の被害者が言った途端に、ものすごく糾弾の嵐になって、「もとに戻せとはどういうことだ」っていう、「もとの体が良くて今の体は悪いっていうことか」っていう話になって、それはもう全く予想もしないことだったから、そういう言われ方っていうのはほんとに初めて聞いたっていうことだったし。一緒に行った森永の被害者ってのは、まだ高校生だったから、とてもそれに答えられるような状況ではなくて、それからもう一日糾弾され続けていたというか、要するに、お前医者がどういう悪いことをしてきたか知ってるかっていうふうに言われて。
  そのときは本田と一緒に行ってたんだよね。本田一緒に行ってたんだけど、いつの間にかどっかへいなくなっちゃって、もう翌日も来なかったんだけど、あれ2日連続であって、私はもうなんかほんとに辛かったけど、これはもう一日行かないといけないわと思って、翌日行って、まぁわかったっていう、何を言おうとしているかっていうのはわかった。
◆立岩:これは、この後、幾度も現れる問題ですよね。チッソを糾弾することと障害者運動で言っていることと折り合いがつくのかとか、奇形児が産まれるから原発反対でいいのかとか★。その、言おうとしていることはわかったという感じですけど。
◆山田:ただね、そのころ、ホームレスの人たちばっかり来る診療所の医者をやってたっていうことがあって、それでやっぱり、彼らは別に治してもらおうとか思ってないっていう、シェルターみたいなもんなんだよね、病院っていうのも。だから、暮れになると一斉に入院したいっていう人が出てくるんだけど、やっぱり山谷なんかもお休みになっちゃうから、福祉事務所が休みになっちゃって、それで仕事も何もなくて凍死するかもしれないから、お正月は病院へ避難っていうので、「表でなんかものすごい苦しがってるからすぐ入院させないといけないんじゃないんですか」って看護婦さんが言って、そりゃ大変だっていって入院させると、「カツ丼が食べたいとか言ってます」とか、もう仮病だらけで、それでその夜のうちにもう病院の浴衣着て酒買いに行って病室で飲んでるとか、我々もいったん入院させたらもうしょうがないっていうか、それはもうすぐ裏に福祉事務所の分室があって、そこへ入院させましたっていうふうに届けるとだいたい正月いっぱいいることになるので。
  そういう医療をやってて、なんかこれはべつに治るとか治らないっていうことじゃないんだっていう感じってのはあって、それはつながったんだよね、きっと。やっぱり医者って患者さんをみたときに目標とする、治ったとか改善されたとかっていう状態っていうのがあって、それは勝手に決めるわけだよね、自分で。勝手に決めて、やっぱりそこへ行くっていう。
 多少それが最近になって少し選択してもらうっていうか、いくつかの道を患者さんに選択して一緒に選ぶことになったのかもしれないけれども、それは当時はもうまったくそれは医者の理想像であって、そこへ持ってって、そこへ持っていければ成功で、持っていけなかったら失敗だっていう。そういうものが医者にとっては成功であっても、患者さんにとって成功であるかどうかはわからないんだっていうことはなんとなくわかったっていうことだよね。
  そこが結局共有できなかった。みんなやっぱりね、やっぱり自分の理想像みたなものを作って、だから治るより治らないほうがいい場合もあるとかね、っていうような言い方っていうのが、そこでたとえばだから精神科なんか行くと、幻聴は治らないほうがいい場合もあるとかっていうふうに精神科なんかでは言われるわけだよね。幻聴なくなったら寂しくて生きてられないとかなんかっていうようなことがあってって。そういうことってね、やっぱりだから、症状をとってしまえばプラスではなくて、症状があっていいこともあったりするっていうような考え方みたいなものっていうのは、それが共有できなかったね、全体と。それは今も引きずってるっていうか。
◆立岩:立岩:もとに戻すとか、治るとか治らないとか、もとのままでいいっていうことのいろんな意味合いみたいなものが実はある。それに対する意味のつけ方みたいなものが本人がっていう場合と医者がっていう場合の違いも含めて、いろんな違いがあって、そこんとこどうみるかっていう話だと思うんですよね。
  たとえば、松田道雄さんは松田さんでそれは本当に正真正銘のインテリでもあったわけだし、いろんなことがみえてはいると。でも山谷なら山谷で、とりあえず正月の我が命を維持するっていうか、そういうリアリティみたいなものとまたちょっと違うところがあるよね。ちょっと強引だけども。山田さんはたまたまそのころそういうあたりにいて、そういう連中っていうんですかね、治るわけでもなく、でもそのまんまでもないみたいなものが、こういうふうにありみたいなことっていうのが、たとえばそこ行って糾弾されつつこういう話もありかなっていうところにあったのかもしれないですよね。

◆山田:そうだね。だからイリッチなんかもすごく入りやすかったっていうか、ああいう言い方をされても、あるいはそのパーソンズにしても、イリッチにしても、医者が持ってる役割、患者が持ってる役割があって、医者が持ってる権力みたいなものがものすごく大きいものだっていう、自分では気がついてないけれども、ものすごく大きな権力を持ってるっていうようなことっていうのは、すごく入りやすかったっていうのはあるんだけど。
◆立岩:そこはけっこうやっかいでね。イリッチって医療批判のある種のスタンダードみたいなかたちで、やっぱ結構大きな影響力、日本はともかくとして、あると思うんですね。そこの中で、言われてきた話の流れっていうのが、ある種、自然みたいな話と反専門主義、自然、患者の自立っていう話で、それぞれ三つとも結構なことであるんだけれども、それがそれこそ今の流れでいうと、それこそ、自立的な自然な反専門主義的な環境における死の選択っていう話になっちゃって、やっぱそこらへんがね、ほんとに。
◆山田:だからやっぱりそれに対してエコロジー的なものっていうか、自然といわれるものが、全体的に正しいものとして対峙されると、そこでおしまいっていうところがあるけど。だから確かにね、あのころでも、急に活動家の中で鍼灸師になる人とかすごく多かったんだけど、中国の影響っていうのがすごくあって、我々も裸足の医者っていうふうに言ってた時期だから、住民の中に入っていって、それで素人的な医療をやるっていうのが憧れのみたいだったからね。
  活動家のみんな、一斉に鍼灸師になんかなったりして、それで視力障害の人たちから文句言われてたんだよね。職が奪われたっていうか。だから視力障害の人があんま鍼灸しかできないっていうのはそれは差別だとは思うけれども、でも今それで食ってるところへ健常な人間が入ってきてね、それでしかも中国の針っていうのは電気を通じたりする、通電する針だったから、だから目の見える人じゃないとできないっていうか、危なくてできないところがあって、そういう人のところへ患者がみんな行っちゃうっていうようなことがあってね、それはちょっとほんとちょっとひどい話だったんだけども。そういうことっていうのはあんまり考えないでそっちの道へばっと行ったし、それからやっぱり高橋さんなんかがほんとんどの近代医学がダメだっていうふうに言ったら、みんな民間医療だとか漢方だとかっていう方へ行ってしまったとかいうことがあって
◆立岩:そうですね。だから常にオルタナティブっていう話があったときに、AじゃないものはBであるみたいな話でことはすまないわけですよね。★
◆山田:いずれにしても、とにかく健康を目指そうっていうふうになっちゃたら、どういうやり方をやっても同じっていうことだとは思うんだけどね。やっぱり健康がよいものっていう絶対視するところは変わらないっていうか、それを獲得する方法が違うだけであって、目指すものがそこだとすると、やっぱりかなり優勢的なふうになってしまうっていうかな・・・
◆立岩:そういう発想っていうか、アイディアっていうか、感覚みたいなものっていうのはね、たとえば、60年代末の社会運動、今日の話だと60年末といってもその準備っていうか、その背景みたいなのはもっと前からやっぱり脈々とあった中でだっていうふうにおっしゃった、そうかなって思ったんですけど。そういう土壌そのものから出てくるのか、もう一ひねりっていうかね、なんか加わらないとそういうふうにでてこないのか、なんかそのへんはちょっと気にはなるんですよ。
  つまり、こういう医療があると、こういう医療があってそれはこれこれしかじかの浮き沈みの中でうまくいかないと、だから医科大とか加害的であると、それに対して批判すること、いいものを対峙するっていう話と、またちょっと違う話だと思うんですよ、今山田さんがおっしゃった話っていうのはね。これはよしとした上で、その方法論なり、それを支えるシステムとしてAよりもBがいいとか、Aっていう体制よりBという体制がいいとか、っていう話とそのよしとしているものっていうのを場所を変えるっていうのはちょっと違うくて、そういうアイディアっていうか気分みたいなものっていうのはね、60年代末から70年前半のある種の体制批判のものから直に出てくるものなのか、そこらへんの関係っていうんですかね、何なんだろうなっていう気がするんですけどね。とりあえず高橋コウセイさん・・・
◆山田:それはなに?私個人の問題なの?
◆立岩:個人でもいいと思うんですよ。ただ、高橋さんたちの批判ってのは非常に重要だったと思うし、今でもあの路線でいける話っていっぱいあると思うんですけど、でもそれだけじゃすまないわけじゃないですか。統計とってみたらグロンサン効かな、そりゃそうなんで、それでいける話もいっぱいある。でもそれだけじゃすまない話ってあるわけで、その高橋さんの理由の批判をすすめていってもでてくる話じゃないと思うんですね。またちょっと違う色が入んないとでてこないような気がするんですけどね。
  それ結局ひとつね、たとえばね、そうやっていってみれば野にくだりさまざまありつつ野にくだり、ちょっと生活の場所っていうか仕事の場所自体が変わる中で、そういうなんとも定義し難い人々と仕事の相手にするってこともあったんだろうし、あとはもう、最首さんとかだとそうやってブラブラしてたらこういう娘が生まれちゃってみたいな、パーソナルヒストリーにいくわけじゃないですか。それはそれでその通りだとは思うんですけどね。どうなんだろうなぁって思って。
◆山田:どうなんだろうね。だから要するにごちゃごちゃしたまんまだよね、きっと。だからすっきりしないっていうか。
◆立岩:ごちゃごちゃしたものに出会うっていうんですか。ごちゃごちゃしないままずっと行くっていうのもあるわけじゃないですか。そういう生き方っていうか人生っていうか。でもいつの間にやらごちゃごちゃしちゃったわけですよね。山田さんの場合にしてもね。
◆山田:それは出会っちゃったからね。出会っちゃっても、もうだから、これはごちゃごちゃするからやばいと思って関わらなければそこでおしまいだったと思うけれども。なんか意地張って関わってたなぁ。だけどやっぱりごちゃごちゃしちゃって、それこそだからほんとになんか優生想みたいなものって取っ払うことできないっていうか、まぁここらへんでしょうがないかなっていう線で。・理想の医療みたいなものって作ることができないと思うし、行ったり来たりだと思うよね。患者さんの側と医者の側とで行ったり来たり。だから、まぁ、なんていうのかな、結局どういうものがいいかわからないから何にもやらないっていうわけにもいかないんで、とりあえず、とりあえずまぁこんなところかなっていうふうに思ってやるけど、でも明日は変えなきゃいけないかもしれないとか・・・
◆立岩:でもいろいろあり、とりあえず主義っていうのは、たぶんなんかかなり正しくて、ただそのひとつには、たとえば一番今日最初にしゃべった話ですけど、たとえば、命題として一、二、三、四とかなってっていうふうになんないから、それをじゃあこっちが物を書いていったり、考えてるときに、どういう、文体とかも含めて、どういうものの言い方していくって、やっぱりなんかちょっと違うんですよ。違う言い方とかあったりする。たとえば、じゃあもうそこは何も言わなくてっていうことになると、ほんとに現場主義、ズブズブの現場主義みたいなので終始してしまって、現場主義ってだってほんとに最終的には個人に渡されてしまうわけじゃないですか。現場さぼれ、いくらでもさぼれるって話になっちゃうわけじゃないですか。そこんとこどうするかっていうことですね。結局残るわけですよね。じゃあ、法律っていう話だけでもないだろうし、結局そこもひっくるめて考えていくっていう、当たり前ってば当たり前の話にしかならないんだとは思うんですけどね。

★ 「そんなときたまたま、全障連という団体の全国大会が東京でおこなわれることを知りました。これに参加することで、共同戦線が作れるだろうと考え、森永ミルク中毒の被害者のひとりと、その大会にのりこんだのです。しかし、そこで待ち受けていたのは予想外な反応でした。[…]<0246<
  森永ミルク中毒の被害者は、この全障連大会の席で「自分たちは森永に対して、『からだを元に戻せ』というスローガンをつきつけながら闘っている」と発言したのです。ところが、大会に参加していた障害者の人たちから、このスローガンがさんざんに批判されることになりました。
  全障連大会に参加していた人の多くは脳性麻痺の障害をもつ成人でした。[…]彼らの運動の中心的な課題は、障害者に対する差別と闘うことでした。[…]<0247<[…]
 そんな彼らの前に森永ミルク中毒の被害者が現れ、「からだを元に戻せと森永乳業につきつけている」と発言したのです。そこで、障害者の人たちから「あなたは自分のからだをよくないからだと思っているのか。”自分たちはこんなからだにされた”というとき、”こんなからだ”といういい方にこめられたものはなんなのだ。元のからだに戻せということは、いまのからだを否定することで、それは障害のあるからだを差別する考え方ではないのか」といわれたのです。ぼくたちはこの厳しい問いに答えることができず、立ち往生してしまいました。
  さらに彼らは「自分たちは医者というものをまったく信用していない。医者たちが障害者に対してこれまでどんなひどいことをしてきたか、知っているのか」とぼくに問うたのです。そして、その日一日は、障害者の人たちのきびしい問いかけと糾弾を受ける一日になりました。
  ぼくは大きなショックを受け、その後しばらく障害者の運動から離れる<0248<ことになったのですが、結局、またその運動と出会うことになりました。
 […]それは一九七三年に生まれた娘が、障害をもつことになったからです。」(山田[2005:246-249])
  ここでは違いが言われている。そうでない記述もある。さきに山田が言及した石川雅夫(森永ヒ素ミルク中毒被害者の会)の文章(石川[1973])横塚晃一の文章(横塚[1973]――文章自体は後に著書に収録される機関紙掲載の文章)を並べている本(朝日新聞社編[1973])があり、そのコメント(大熊由紀子が書いたという)ではこの二つの会の共通性が指摘されている。
★ 高橋 晄正中川 米造大熊 由紀子 19731215 「医療の質をどうよくするか」,朝日新聞社編[19731215:133-188]
 高橋「中国医療に関連して大きな誤解が親中国派のなかにもある。ハリ・キュウや漢方は、中国人民が二〇〇〇年来親しんできた「土法」ではあるが、近代科学としての検証をうけたものではない。しかし、病気の初期や軽いときはあれで十分彼らは健康を守ってきた。腕の接合術にみるような高度の上部構造の医療の、底辺を支える初期治療、軽症治療の基盤として、かりにその大部分がプラシー<0173<ボ的なものであるとしても、有害度の強い西洋薬の不必要な浸入を遮断する役割を果たしている。
 その中国社会主義社会での巧妙な位置づけを見おとして、技術だけを盲従的に日本に導入しようとする誤った親中国派が、学生層のなかにまである。だが、新しい科学的社会主義社会の建設を目標とする新中国に、超科学的神秘性をもった技術を期待することほど矛盾していることはないですね。ハリ麻酔剤を別として、ハリ・キュウ・漢方はすべて、”伝承仮説”として私たちは科学的にとらえなおさないといけないのです。」(高橋・中川・大熊[1973:173-174])

◆山田:間違った科学に対して正しい科学を対峙するっていうところでやってればきっと楽というかな、もう少し私もいろんな人と付き合えると思うんだけど。やっぱり、間違った科学に正しい科学を対峙するのではよくないんじゃないかと思うと、そういうことをあんまり感じてくれてる人がいないんだよね。
  それは高橋さんにも限界があったし。たとえば、今のエビデンスベストメディスンみたいな、エビデンスってすごい嫌だって感じがするんだけれども。基本的にはエビデンスっていうふうに作ってる文献だって、やっぱりバイアスかかってるわけで、そんなにニュートラルなものではないと思う。ほとんどやっぱり欧米の論文を中心にしてるわけだから、我々の知らない小さな国の論文だとかなんかっていうのを持ってきてるわけではないのであって、やっぱりそれはね、それこそ欧米流の正しい科学みたいなものがあって、それで、要するにだから、欧米流の医学ってのは、いろいろその国のおかしさが反映しておかしいところがあるにしても、科学的に言えば正しいみたいな感じってのがあるよね。
  薬を告発してるひとたちの中にもやっぱりそれは残ってるっていうか。こっちに間違ったものがあって、それを告発してる私たちは正しいっていう。この正しいっていう自分はどうなのかっていうふうに疑って戻ることは、今でもしないんだよね。でね、ちょっとね、精神科の領域でいえば、新しい本が出ててね、精神科の薬の使い方みたいな本かな。神田橋さんなんかが出してる二冊組みで出してるやつがあるよね、官能的治療っていうね★。やっぱり、なんていうかな、科学ではないっていう。
  たとえば薬の効能みたいなものは、科学的に解明されるのは後で、経験的に使われてきて、なんで効くかわかんないけど効いちゃってるんだよっていうあたりのことがあってね。経験的に効いちゃって、なんで効くかわかんないけど効いちゃったっていうのはダメだ、それは科学的じゃないからダメだっていうのは危ういと思うんだけれども。
  やっぱりそのへんの危うさっていのは、ずっと高橋さん以来、そのまんまになっているよね。薬ってやっぱりほんとに人によって違うっていうか、99人に対しては効かないけれども、1人の人に対しては効いちゃたりすることがあるわけだし、それはなんていうか薬の効能だとか、それから動物実験のデータだとか、人間の統計的なデータだとかなんかっていうものを超えるものっていうのがあるはずだし、そういう意味では飲み具合みたいなね。
  だから今のたとえば、なんか問題あると一斉にリタリンを使わせなくしてしまうとかなんかっていう、乱用されたことは確かなんだけど、一挙に止めてしまうっていうような止め方っていうのはやっぱりどうかと思うところがある。やっぱり薬について告発してキャンペーンして啓蒙してきたのはずっと医者の側であって、患者の側から「そんなこと言うけど、私は飲んでみてこうだったんだ」っていうことがほとんど言われてないし、そのことを考えてみようっていう傾向はなかった。あの官能的治療っていうので初めてみたような気がする。薬の飲み心地みたいなものを問題にしたっていう。
  たとえば、高血圧のような患者さんでは効く効かないみたいなもので割合済んじゃってるところがある。本当はそうじゃないんだけどね。でも精神科の患者さんなんかだと、やっぱりそういうことではすまないっていうか、「絶対私にとってはこの薬は、誰がなんて言おうと、他の人が全員使わなくても、これしか私にはないんだ」みたいな言われ方がされることがあって、やっぱりそこをどうするかだよね。「そんなこと言ったってお前、効かないんだからやめてしまえ」っていうふうに、強引に切ってしまうかどうかっていうレベルでは、患者さんの側からの薬に対する発言みたいなものは、ものすごく弱い。なんか科学では割り切れない部分を発言されるんだろうけれども、そこについて受け止めようっていうものはないと思うよね。
◆立岩:個体差、個人個人の差みたいなの、結局説明しようたってできないようなもんが常にあって、それをどうこうしたってわかんないところはあるし、っていうことは押さえておこうという。それはそれでひとつわかる。それをでは実際にどうすんだって話は難しいにしてもね。
  とくに精神っていうのが一つそうだったのかもしれないけれども、だんだん医療をはみ出てしまうような主張がなされてしまう、内部改革みたいな感じで、より良い精神医療をみたいな感じで、話してくんだけど、ある時点でそこからこぼれてしまうような動きになってしまったりするってようなことがあったような気がするんですよね。それって何ですかと言われても答えようがないのかもしれないけれども、たとえば、精神の領域にはそういうことがあったと思うんです。患者のサイドと、いわゆる青医連の人たちとか、改革的な精神医療者って言われてたし、実際いろんなことやってた連中の間の微妙な関係って、やっぱり10年、20年続いたと思うんですよ。
  たとえば、全国「精神病」者集団の山本さん★なんか、東大の赤レンガの連中についてそんないいことは言わない。結局やつらは医者でみたいな。聞くとなるほどって思うとこはあったりします。そういう、医療の中で、かなり基本的なとこから問題化するっていう流れであってもどうなのっていう。医療改革派っていうか批判派の射程っていうか、できたことできなかったことについて、思うことありますか?
◆山田:精神科のごちゃごちゃした部分が変にすっきりしちゃったっていうか。反精神医学みたいなかたちですっきりさせてしまったのがね。実際、障害なんかもそうなんだけれども、やっぱり障害なんてものはないんだっていう、こんなものは社会的に作られた概念であって障害なんてみたいなものはないんでみんな同じなんだよ、っていうところにいってしまうと、だいたいそこで終わりになっちゃうっていうか、確かにそうかもしれないっていうね。だけど、だけどやっぱりそのことで不利をこうむったり、苦しんだりしてる人がいるわけだから。だから、やっぱり精神科の患者さんて、ものすごくやっぱり苦しい、つらいところにいるんだけど、その苦しいつらい部分に、ちゃんと寄り添わなかったんじゃないかっていう気がするのね。
  最近私も精神科の本を読まなきゃならないシチュエーションもあってていうこともあるんだけど、一生懸命読んでるところがあって、それから昔から中井久夫★と神田橋條治★のファンだから。やっぱりあの二人から得られるものっていうのはすごく大きい。ほとんどどの科の医者が読んでも、自分の診療に役に立つようなことを彼らは言ってくれていて、それはどこかって言えば、彼が患者さんをみてるからだっていう。ものすごくよくみてる。やっぱり運動してるときにね、運動してるお医者さんたちみてなかったんだと思うんだよ。患者さんたちが発言したり運動できたりするときっていうのは、あんまり苦しくないときだから、だから、そういうところにだけ付き合って、すごいつらい思いや苦しい思いをしてるところで付き合いきれてなかったんじゃないか。
◆立岩:たしかにね。僕ちょっと別の用事で、中井久夫のものをほとんど初めてに近く読んで、よい書き手でありよい本だと思いました。それからさっき名前を出した山本さんなんかも神田橋の本はいいって言うんですよ。わりといろんなことに対して否定的、批判的な人だけどもね。そのリアリティはわかるんです。
  ただ、バイオエシックスならバイオエシックスっていうのは、医療の論理とはまた違うレベルだけれども、プリンシプルをたてて、それによって物事を整理し、その事態をなにがしか前進させようっていうふうに、まぁ何が前進かわかりませんけれども、動かそうっていう、そういう、医療、医学の内部にあるプリンシプルではないけれども、倫理のプリンシプルみたいなものを三本か四本立てて★ それでいこうぜっていうものなんですよね。そうすると、そのプリンシプルは字で書いてあるから、それを発展させたり、その命題に批判的になんか別のものを対峙するとか、そうい