HOME > 全文掲載 >

「報告者間のコメント」


渡辺 克典 2007/11/30
『声の文化を考える――ろう者の吃音者の視点から』54p+vii. pp. 40-42

last update: 20151225

  私が「ろう文化宣言」と出会ったのは大学生のときである。それは「社会構築主義」とよばれる社会学の立場についての講義の中で、ろう教育について話が及んだときだった(金澤貴之編、2001、『聾教育の脱構築』明石書店)。私にとって、手話を独自の言語体系とみなすろう文化宣言との出会いは衝撃的であった。以後、本格的に社会学を学ぶようになったのちも、つねにろう文化は私の頭の片隅に残っていた。
  「はじめに」で記したように、偶然にも澁谷さんの論文評を書く機会をいただき、それがきっかけでこのようなセッションを設けることになった。セッションの話は、澁谷さんからもちかけていただいたものである。ろう文化宣言の衝撃を経験した私にとって、このセッションに参加することに躊躇はなかった。しかし、そのときの私にはもうひとつの「顔」があった。そのころ、すでに私はカルチュラルタイフーンに実行委員としてかかわっていた。正直なところ、当初はこのセッションが「カルタイの色」と合うかということに一抹の不安を覚えたのもまた事実である。
  しかし、私は、「異文化」などといわれるときに用いられやすい「日本国外の」といった「国家の外部」にとらわれる考え方があまり好きではない。文化というひとつの領域を設定するときには、新たにその「内部」に抱え込む「異文化」についても考えるべきではないか。また、「カルタイ」という文化を考える場において、あえて「カルタイ文化の異文化」に身をおくのも楽しいのではないか。こういった「思いつき」に加え、野呂さんと坪井さんという、ほぼこれ以上を考えられないメンバーが集ったという幸運にもめぐまれた(坪井さんは、カルタイ終了の翌日にはオーストラリアに旅立った。まさに幸運であった)。セッションをオーガナイズする上で、このような小さな「たくらみ」があったのをここで告白しておきたい。
  前置きが長くなってしまった。澁谷さんの報告は、テレビや映画といったメディアで描き出される「聞こえない人」と、「聞こえない人が発する声」の表象について論じたものである。これは「聞こえない人がどのように描かれていないか」と比較をしてみるとわかりやすい課題である。たとえば、私たちはドラマの中に手話で会話をするエキストラをみかけることはない。日常的な場面を思い返してみれば、電車の中などでそういった人びとをみかけることは皆無ではないのにもかかわらず、である。そこでは、何らかの取捨選択がおこなわれている。
  もちろん、メディアで流れる情報が私たちの知識そのものであるわけではない。しかし、それが「マス・メディア」で用いられていることが重要である。それは一部のメディアの担い手がつくりだしたものであるのにとどまらず、少なくとも、そこで描かれている場面は私たちにとって「理解可能」なものとして提示されている。マス・メディアで描かれる「聞こえない人」と「聞こえない人が発する声」の表象が――それが現実の姿からかけはなれているにもかかわらず――「理解可能」であること、それ自体が問題なのである。澁谷報告は、身近にありながらなかなか気付かれない「声の規範」のメカニズムに気付かせてくれる報告であった。
  次に、野呂さんの報告は、手話の「文法」を実例として示していただいた上で、「声の規範」との関係について考察したものだった。ここで重要なのは、野呂さんが「コード・スイッチング」とよぶものである。野呂さんの発表によれば、ろう者は、声を用いない手話を用いたコミュニケーションをする上でも、対話する相手の「声の規範」との関係を無意識的に分別している。ろう者は、その都度の状況に応じた「声の規範」にそった手話を選択し、「文法」を切り替える。
  問題なのは、その切り替えがマイノリティであるろう者のみに課せられていることである。「声の規範」は、「聞こえる人」と「聞こえない人」の非対称性を浮き彫りにする。また、野呂さんが「日本語手話」とよぶ手話を用いる場面においては、そういった「切り替え」が潜在するものとして、もっといえば、切り替えなど存在せず、日本語手話のみが正当化された言語であるかのように存在してしまう。これが意味するものが何なのか。野呂さんが投げかける問いかけは、「ろう文化宣言」から10年以上たったいまでも重く心に残るものである。
  最後に、本セッションのもうひとつの主役は手話通訳とPC要約筆記であったことを記しておきたい。もちろん、それらの第一の位置づけは情報保障である。しかし、それに加えて、日本語音声、手話、文字言語であるPC要約、そしてそれに私の吃音を足してもよいかもしれないが、本セッションは別のかたちの「多言語」を実践する場でもあった。オーガナイザーとして、また実行委員として、多様な言語が入り乱れる様子はまさにタイフーンの名にふさわしいものだったと自負している。だが、残念なことに、この実践は報告書というかたちでは再現することができない。タイフーンは、一瞬で通り過ぎてしまった。
  偶然と幸運が生み出したタイフーンが過ぎ去った後に、何が残ったのか。私たちの日常に潜む「声の文化を考える」ことを通じて、これまでのあり方にとらわれない「声の文化を実践する」ことにつなげていく。これが課題として浮かび上がったセッションでもあった。



UP:20110410 
全文掲載
TOP HOME (http://www.arsvi.com)