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「森岡正博の思想と生命学――障害学の視点から」

野崎 泰伸 20071128
現代思想研究会 於:大阪府立大学

last update: 20151225

はじめに

 本発表の眼目は、森岡正博が提唱している「生命学」の思想を、主として障害の視点から読み解こうとするものである。これまでのまとまった形における森岡論としては、Woehl(2001=2005)があるが、これは主として宗教論、電脳社会論を取り扱ったものである。ここでは、森岡が注目する「青い芝の会」に焦点を当て、彼らの提起した「内なる優生思想」への告発を受け展開される、生命学と障害者解放の論理の接点を取り上げ検討する。必然的に、中心となる著作は『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』の、とりわけ第6章「障害者と「内なる優生思想」」になる。

1 森岡による「青い芝」論は何を問うたか――生命倫理学から生命学へ

 森岡正博(1958-)は、「生命学」という新たな学問を提唱している。森岡自身の言葉によれば、生命学とは、次のような2つの側面をもつ「知の運動」である。すなわち、「現代文明に組み込まれた生命世界の仕組みを、自分なりの見方で把握し、表現して」ゆき、かつ「私が、限りあるかけがえのないこの人生を、悔いなく生き切るための」ものである(1)。その後森岡は、生命学の基本的発想を「生命学とは、自分をけっして棚上げにすることなく、生命について深く考え表現しながら、生きていくことである」(2)とも述べている。言いかえれば、生命学という学問の発想の根底には「生き方そのものが学問の営みと融合しているような学問」(3)の構築という、一貫した思考が見て取れる(4)。
 森岡の生命学の営みは、優生思想に反対する青い芝の会の論理からヒントを得ていることは確かであろう。森岡は、優生思想を、「生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別し、生まれてきてほしくない人間の生命は人工的に生まれないようにしてもかまわないとする考え方」(5)であるという。つまり、この社会において都合のよい人間を生み出そうとする思想こそ、優生思想の中核部分なのである。そして、こうした考え方を健全者社会におけるエゴイズムであると猛烈に批判したのが、青い芝の会である。障害をもつ者を「不良」なものであると決めつける社会の意識――それは障害者自身にも根深く存在していると彼らは言う――を鮮烈に批判した彼らは、まさに身をもって優生思想と対峙した。森岡もまた、彼らから学ぼうとしている。
 この社会は、五体満足な身体/精神をもつ者を基準にして動いている。それは、端的に言って事実である。だからこそ、障害者は「本来あってはならない存在」(6)なのである。障害者の取るべき運命は、この社会の負担にならないようにすることなのである。そのために、リハビリテーションの思想があり、巨大コロニーの思想がある。リハビリテーションが目指す障害の軽減には、「障害はないにこしたことはない」「障害は軽いにこしたことがない」という価値観が潜在化されている。また、巨大コロニーを作り、障害者を管理することには、「障害者を効率的に処遇する」という価値観が色濃く出現する。これらはいずれも、「障害者のために」と言いながら、実はこの社会の支配的な価値観による障害の価値判断、あるいは効率の考え方でしかない。
 それを裏付けるために、森岡は「予防福祉論」と「障害者共生論」とを対立的に描く。その対立を描く際に、きびしく問うているのが、「選択的中絶」の倫理的評価である。すなわち、将来に期待される、福祉の充実した社会において、障害を理由にした選択的中絶の評価をめぐる対立である。それは、森岡が整理する「障害を理由に中絶することと、いま生きている障害者を差別することは、ほんとうにひとりの人間の中で切り離せるのか」(7)という問いに収斂する。選択的中絶と福祉の充実との両立可能性を問うことは、必然的にこの問いに行きつくだろう。森岡は、この二つは両立しないと考えるし、私もそう考える。選択的中絶には、〈他者の到来〉を根底的に破壊するという問題点がある。それは、自分も含めたこの社会において、「誰かが「誰か」であること」を奪い去るものなのである。「誰か」が、「誰かである」ことのみをもって――言いかえれば、かけがえのない「誰か」の「かけがえのなさ」をもって――生きるということを、根源的に破壊する思想を体現する一つの方法が、選択的中絶なのである。この意味において、選択的中絶は、それがたとえ女性個人やカップルの「自発的選択」であったとしても、問題がないとは言えない。そしてそれは、優生思想の中核的な定義と同根なのである。
 しかしながら、森岡は選択的中絶を禁止すべきであるとは考えない。私もまた同じように考える(8)。「選択的中絶をしなくても済むような社会」を、森岡も、また私自身も模索する。それは決して、「選択的中絶の禁止」という道ではない。「中絶したくなくとも、中絶せざるを得ないならば、中絶することを禁止することはその人にとって「中絶した結果を享受することをそもそも奪われている」ことに他ならない。たとえ中絶が悪であろうとも、「悪を行うことを引き受けつつ悪を実行する」という道は、禁じられてはならない」(9)。
 ここにこそ、私が森岡の主張に最も賛同するところがある。すなわち、「生命学の第三の可能性」である。大事なところであるので、引用しておこう。

 「生命学の第三の可能性は、正論の倫理学の主張をすべて理解したうえで、暴力と悪を
 自覚的に行使し、みずからの可能性を最大限に切り開いてゆくような道筋である」(10)

 選択的中絶には、上記のような問題がある。しかし、問題があると知りつつ、暴力を自覚的に行使していく立場が「生命学の第三の可能性」である。ときにこの立場は「違法行為にまで突き進むかもしれない」(11)と森岡は述べる。それはまた暴力を行使する自分と真摯に向き合うという態度でもある。森岡はこれを「不道徳な生命学の営み」(12)と言っているが、私には「不道徳」であるようには思えない。もしくは、次のように言うことはできるだろう。つまり、暴力を行使するのは不道徳であろう。あるいは、そうだとしよう。だとしても、そのことを自覚し、開き直らずに自分の意志や決意に対して嘘はつかないとする態度のうちに、私は道徳や倫理の原型を見て取る。
 これは、暴力を行使しておきながら、「それは暴力ではない」とする生き方――森岡の言葉でいえば「みずからの差別意識や悪に漫然と開き直っているだけの人間の姿」(13)――とは、正反対である。私はそこで、シンガーの生命倫理学を想起するのである。彼の倫理学は、たとえそれを目的とはしていなくても、結果的に「殺してよい生命とそうでない生命」とを峻別する。彼の生命倫理学を一言でいえば「生命の峻別の正当化とその精緻化」なのである(14)。いったん殺してもよい生命であると結論づけられれば、そうであると正当性を付与する倫理学が打ち立てられれば、そのような生命を殺すのに何の逡巡も抱かなくてよくなるのである。つまり、それを最初から「悪でない」と宣言することによって、悪であるかもしれない行為をすることに関して何も感じなくさせるのである。これに対して森岡の「生命学の第三の可能性」はそれとは全く違う。「逡巡を抱きつつも、逡巡を抱いている自分にけっして嘘をつかない」という点において、逡巡しない営みであると言えよう。
 そして、そうした態度こそ、森岡が障害者運動、とりわけ青い芝の会の思想から学んだものであるとは言えまいか。たとえ障害を持っていたとしても、そしてたとえ運動にかかわっていたとしても、自分を棚に上げることは可能である。しかし彼らはそうしなかった。彼らは、さきに挙げた「予防福祉論」――障害児の誕生の予防と、現に存在する障害者への福祉とは矛盾しないとする論理――に見られる健全者社会の論理の欺瞞性を見抜いた。その返す刀で、その論理にどっぷり浸かっている障害者自身の「内なる優生思想」をも問うたのである(15)。こうした青い芝の会の思想は、森岡が提示する生命学の中核である「自分をけっして棚に上げない」という主張に見て取ることができるだろう。

2 森岡による「青い芝」論は何を問わなかったか――生命倫理学から障害学/倫理学へ

 以上が、森岡の生命学が青い芝の会から学んだと思われる部分の要約である。無論、これだけではなかろう。ただ、その大きな部分においては捉えられているように思う。
 私の言葉でいえば――森岡はこのような言い方を嫌うかもしれないが――森岡の生命学は明らかにマクロな倫理の話をしている。多くの倫理学者が提示する「倫理なるもの」とは別様に、森岡の倫理学は、青い芝の会やウーマン・リブ、その他との格闘によって「生命学」として生み出されようとしている、そう私は解釈する。実際に、私もまた青い芝の会は――もちろん本人たちにはそんなつもりもないだろうが――倫理について身をもって思考し、提示してきたと解するのである。
 ただ、青い芝の会は、そうしたマクロな倫理だけではなく、ミクロな部分における政治についても語った。大きな枠の話だけではなく、枠の中での「生の技法」(Ars Vivendi)についても語ったのである。実際に、たとえば横塚の書には、所得保障の問題、生活保障の問題、労働の問題についての記述がある(16)。こうした制度や政策をめぐるミクロな政治の問題をも、当然ながら彼らは視野に入れていた、いや、入れざるを得なかったのである。
 私自身が障害者運動のどこに「魅力」を感じるのか、考えてみた。とりわけ重度の障害を持つ者にとっては、毎日が生と死の問題に直面するといっても過言ではない。1日介護者がいなければ死ぬという可能性もあるだろう。
 そのような状況の中で問題の切実さを訴え、「今日介護がおらんかったら俺は死ぬ」と、しごく当然のことを言ったから、私は魅かれてしまったのであろうか。正直に言えば、それもある。しかし、それだけではないもっと重要なことを彼らは提起したからこそ、私はこの運動に魅かれるのだ。飢えた人が「食べ物をくれ」と主張するのは、まっとうなことであるし、正しい主張だと思う。その上で、それは「生存の権利」の問題以上でも、以下でもない。ただし、その主張を受け止める必要があることは、言うまでもなかろう。
 生と死の問題に自ら身を賭して生きざるを得ない者は、生きようと思えば必然的に生きるための実行可能な手段を要求するだろう。それを私たちは「生きる権利」を要求する、と言ったりする。その主張は間違ってはいない。
 だが、障害者運動が問うてきたのは、それだけではなかった。障害者である私たちを、「生と死の問題に自ら身を賭して生きざるを得ない」ように仕向けたのはどんな価値であり、どんな思想であるかをも問うたのである。なぜ、私たち障害者が「生きるか死ぬかを問われなければならないのか」という前提をもこの社会に投げかけたのである。言いかえれば、「権利」以前の問題にも照準しなければならないことを主張したということでもある。
 つまりは、このように整理することができる。生きるか死ぬかの瀬戸際の者たちにとって、「生の技法」は必要である。それはまたこの社会において十全に生きる権利を要求するものでもある。そしてそれは実現可能性の問題であり、制度や政策の問題と直結する。それが大事なことであるとしたうえで、この運動は「生きるか死ぬかの瀬戸際」に追いやられていること自体をも問うたのである。この問いは、「権利」といううちにおいて答えることはできない。なぜなら、「権利」にはあらかじめ「権利を有する枠」が措定されるが、この問いはその枠自体を問うことになるからである。そして、これこそが倫理に関わる問いなのである。すなわち、障害者運動は、法哲学研究者よりよほど「倫理と実現可能性の違い」について携えているということなのである。さらに言葉を継ぎ足せば、障害者にこのような主張をさせる私たちはいったい何者なのか、という問いをも惹起することになるだろう。
 現実には、障害者運動がここまで分節化し、言語化したかどうかについては、あやしい部分はあるだろう。しかし、それを障害者運動の責任にすることはできるだろうか。いったい、どんな資格があって「このとき、もっとこのように言うべきだった」と言えるだろうか。無論、障害者運動への内在的な論理的批判は可能だろうと思うし、大筋では一貫した主張をしていたとしても、そこには穴やほころびだらけだとは思っている。だとすれば、不肖ながらも私たちがその穴やほころびを埋めるべく、継承すればいい話である。その意味ではむしろ、責任は障害者運動に魅せられた人たち一人一人にあると言っても過言ではないだろう。
 森岡の「青い芝」論を唯一批判的に継承できるとすれば、森岡はこの運動の倫理的な側面を大きく取り上げるばかりに、現実の政策、すなわち介助の制度や生活保護制度を獲得するために奔走した歴史がほとんど取り上げられていないことにあるのではなかろうか。ただし、これは内在的な批判ではない。それが足りなければ後に続く者が考えればよいだけのことである。私自身は、あくまで青い芝の会が問うた、マクロな倫理的課題とミクロな政治的課題について取り上げたいと思っている。そうすることによって、権利偏重の生命倫理学や法哲学を食い破っていくことができると考えるからである。権利の重要性を、権利の基礎づけという権利論内部では答えることができないのと同じように、政治的課題も倫理なしで答えることはできない。

終わりに

 森岡の「青い芝」論が提起したものとは、ひとえに倫理にかかわる部分においてのものであった。森岡自身はそれを生命学と呼ぶが、私は、従来の生命倫理学とは違う形で、生命について倫理的な視座から考察する営みであると解する。つまり、森岡の提唱する生命学とは、「生命倫理学から倫理を引いた、除いたもの」ではけっしてない。生命倫理学の枠組み自体を問いなおす「倫理学」なのである。それに付け足す形で、私は青い芝の会の思想には、倫理と政治の峻別を行ったという形跡を見出す。彼らは確かに体系的な理論を構築していないかもしれない。しかしそれは、後世に残された課題として、私自身も取り組んでいかねばならないと考える。本発表がその入口になれば幸いである。




(1) [森岡 2001:400]
(2) [森岡 2007a:448]
(3) [森岡 2001:421]
(4) なお、私自身は森岡が特段新奇なこと、奇をてらうようなことを行っているようには思わない。むしろこうした態度こそ、哲学の伝統を継承する営みであると考えているが、これについては稿を改めて論じる必要があるだろう。
(5) [森岡 2001:286]
(6) [横塚 2007:25]など。
(7) [森岡 2001:341]
(8) 私のとる立場としては、まずは発想のレベルでは[野崎 2008]を書いた。次いで、中絶に特化して考えるとき――この報告に書いたように、「選択的中絶」に焦点を当てたわけではないが――、関西倫理学会での報告([野崎 2007c])のように考えることになる。
(9) [野崎 2007c]
(10)[森岡 2001:395]
(11)[森岡 2001:396]。ただしその直後に、「そのときは、いさぎよくみずからの違法性を担うべきである」と述べている。
(12)[森岡 2001:396]
(13)[森岡 2001:397]
(14)私は、彼が功利主義者であるから、つまり、生命の峻別の基準を功利主義的に正当化するから、という点において批判しているのではない。そもそも、生命につけられる序列は正当化できるようなものではない、と述べるのである。現実には私たちは序列をつけてしまうが、それは根源的には正当化できないものとして付けているにすぎない、というのが私の論である。いわゆる平等主義者も、正当化主義の罠にはまっている([野崎 2007a]第3章・第4章参照)。
(15)[野崎 2006]
(16)たとえば、[横塚 2007]には、障害者の施設に関し、次のような記述がある。
 
「先日、青い芝と府中療育センター労組三役との話し合いの席上、労組側から「施設は
 必要と考えるか否か」という問いが出されました。その時私は、「そういう設問の仕方
 はまちがっている。施設は本来、人間の生活形態としては不自然なものだ。にも拘らず、
 施設がないと困る人がいるということは施設そのものが必要悪だということである(後
 略)」と答えました」 (p.32)

 明らかに、これは「倫理」を問う語り口である。そもそも、障害者を施設へと収容する考え方がおかしいのだということである。しかし、だとしても、いまここで生活できない障害者は存在する。そのことを横塚は見据えている。たとえば次のような記述がある。

 「これは一つの提案であるが、我々青い芝の会として小さな施設をつくり我々の手で運
 営していくというのはどうであろうか。施設といっても前述の巨大施設ではなく、むし
 ろそれに対抗する形で四、五人〜十人くらいのものでよいのである。我々が地域社会で
 暮らす一段階として、このような小さな施設が全国各地に作られるべきであるが、我々
 のやることはこの方向の手始めとなるものである」(pp.48-49)

 これをいま私たちの知る言葉で言い直せば、「当事者主体のグループホーム」であろう。横塚ももちろんそれができたからといって、「障害者の問題の解決とは思わないし、思ってはいけない」(p.49)と述べる。しかし、「倫理」の問題と同時に、現実のただ中を生きる技法をめぐる「政治」の課題をも問わなければいけないことを、横塚は気づいていたのではないかと思われるのである。


(参考文献・引用していないものを含む)

森岡正博 2001 『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』、勁草書房
      2003 「書評:『障害学の主張』」、信濃毎日新聞2003/1/12(http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20070423
          /1177332710
      2006 「米国の障害者運動の現在」、『われら自身の声』(DPI日本会議)22-2:30-32
      2007a 「生命学とは何か」(『現代文明学研究:第8号』2007:447-486)
      2007b 「書評:『障害・病いと「ふつう」のはざまで――軽度障害者どっちつかずのジレンマを語る』」、
          『人間科学:大阪府立大学紀要 2』141-143(http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20070616
          /1182009672
野崎泰伸 2006 「青い芝の会と分配的正義――誰のための、何のための正義か」、『医療・生命と倫理・社会 
          第5号』124-135(http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ5/nozaki.pdf
      2007a 「「生の無条件の肯定」に関する哲学的考察――障害者の生に即して」(大阪府立大学博士
          学位論文)
      2007b 「価値判断と政策――倫理と経済のダイアローグ」、障害学会第4回大会シンポジウム「障害と
          分配的正義――基本所得は答なのか」(http://www.arsvi.com/2000/0709ny2.htm
      2007c 「中絶の規範理論のために――「生の無条件の肯定」は中絶をいかに考えるか」、2007年関西
          倫理学会自由報告(http://www.nozakiy.org/gakkai/200711a.html
      2008 「私と生命学――他者、正義、暴力、歓待、責任、そして倫理」(未定?)
立岩真也 2002 「森岡正博の本」、『看護教育』43-02(2002-02):118-119(http://www.arsvi.com/0w/ts02
          /2002002.htm
      2007a 「障害の位置――その歴史のために」、高橋隆雄・浅井篤編 2007 『日本の生命倫理:回顧と
          展望』,九州大学出版会:108-130(http://www.arsvi.com/ts2000/2007040.htm
      2007b 「解説」([横塚 2007])
横塚晃一 2007 『母よ! 殺すな』、生活書院
Woehl, Ulrike 2001 "Die Ambivalenz des Lebens und die Unmoeglichkeit der Religion: MORIOKA MASAHIRO und
            Seine SEIMEIGAKU"(=雨宮徹訳 2005 「生命のアンビバレンスと宗教の不可能性:森岡
            正博の生命学」、『現代文明学研究:第7号』398-409、http://www.kinokopress.com/civil
            /0701.htm


UP:20071228 REV:
生存学創成拠点・成果  ◇青い芝の会  ◇哲学/政治哲学/倫理学
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