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報告レジメ:三井さよ/鈴木智之編『ケアとサポートの社会学』
「第5章 職業者として寄り添う 病院内看護職と末期患者やその家族のかかわり」から」

第3回ケア研究会 於:立命館大学衣笠キャンパス 2007/11/03
仲口 路子

last update: 20151225

2007/03/31三井さよ/鈴木智之編「ケアとサポートの社会学」法政大学出版局
「第5章 職業者として寄り添う 病院内看護職と末期患者やその家族のかかわり」から

■ 専門職/患者・家族関係に政治的に作動するセルフケアという概念 ■
0.本日報告する理由
「看護職経験者」だから。

1.テーマ設定の由来:(個人的)ルサンチマンによる
ルサンチマンのわけ
「セルフケア」という用語については初めから違和感があったが、それが自分に適応される、より、それを臨床上用いらざるを得ないこと、また、その用語をもって「診断」し続けなければならないといったこと、そしてそれによって「看護介入」(の正当性)を説明しなければならない、ように「決めている」としか思えないこと、が繰り返し、自らに反復されてきたことへの恨みかもしれない。
●「専門知」に対抗する「専門知」によって語られる言説の不在といったことを問題だ、とすることとする。

2.論文の内容
第1節 「家族のように」とは何か
第2節 患者に「深くかかわる」
1 個人的な事柄を知り「思い」を抱く
2 職務とのかかわり
第3節 「冷静さ」を失わない―家族を支えるために
1 家族を前にしての「冷静さ」
2 「冷静さ」と「思い」
3 患者の「人」としての姿と家族
第4節 「同じ重さのいのち」/「次に進む」―他の患者と新たな患者
1 家族の死との相違
2 「同じ重さのいのち」―他の患者
3 「次に進む」―新たな患者
4 残される葛藤
第5節 死にゆく他者に寄り添う生者
1 職業者として寄り添う
2 寄り添うということの矛盾と難しさ

ケアの定義「本書ではケアを、他者の『生』を支えようとする働きかけの総称である、とまずは捉えておくことにしたい」

「『ケア』をタイトルに使った書物は翻訳書を除いて多くない。そのこと自体が、『ケア』という用語の日本語としての熟し方がじゅうぶんでないことを示唆するが、最近になって、本論と同じく『ケアの社会学』〔三井2004〕と題した挑戦的な書物があらわれた。三井さよ著になる本書は、医療社会学の分野で看護労働について論じたもので、ここでは育児も介護も出てこないために、題名から期待して肩すかしをくらわされる読者も多いことだろう。『ケア』の定義は三井によって〔…〕と、きわめて非限定的なインプリケーションが与えられている。だがこの程度の漠然とした定義では、ほとんどあらゆる人間活動がそれに含まれてしまうために、分析的には何の役にも立たない。総じて『ケア』をタイトルとして持つ書物の多くは、『ケア』を定義せずに用いるか、定義を与えたとしても抽象的な本質規定か、さもなくば漠然としすぎているために、それ以降の議論の展開には意味を成さないものが多い。」
→「漠然としていることじたいの(に)意味が内包されている」ことを考えていく、といったこともありうるだろう。

まずはこれにかかわるあり方として、「専門職(=病院、といったことを考えると『看護師』)」と「家族」という考え方もあるだろう。
とすると、(個人的経験の裏づけからも)本論の議論は説得的であり、妥当性がある。

が、それで報告を終わってはいけないだろう、ということで、もう少し考えることにする。

「専門職」とは、1)知識体系(教育体系)を持つ、2)特殊な技術を持つ、3)倫理/態度を有する、といったことがいわれる一方、とくに医療専門職批判については、イリイチ 、フリードソン など(そのような大御所に登場していただかなくとも)枚挙に遑がない。すなわち、毎日、ジャーナリズムを介して「批判(あるいはお涙頂戴的な称揚)」がなされ続けているともいえる。またこれに関連してパターナリズム論的にも、肯定的・否定的・中和的に言われている。
現状として、医療専門職の精緻化・細分化は現在進行形(進歩主義の矮小化=進歩することは細かくなること)であり、これに異議申し立てすることも、またなされる必要があるだろう。

ここで、患者・家族 と専門職に立ち返る。

患者・家族は、「医療の中の詳しいこと」は知りえない、といった前提がある。これは「絶対的非対象性」といったことで説明される。
たとえば、病気の話、治療の話…は「調べ」「学ぶ」ことが可能なように、現状ではさまざまなツールが開発されている。
が、残念ながら、その中の「政治」のようなものは、流動的・多面的なので「知りえない。」
→だれだれ先生が言うとすぐに入るがだれだれだと入らない(待たされる)ようなことは比較的日常的である。
これはinjustice だとか、倫理に反する、とか、rightに照らせばどうか、といったことがあるだろう。だが、この問題はまずは「人間の政治」には、ありえるだろう。「ひとの気持ちが分かる」とかいうさいには、かならずこういった問題がつけ込む隙を与えることになる。これだけでも、さまざまに考えることができる 。(が、先に進む)

では「絶対的非対称性」があるとするならば、患者・家族はどうすればいいのか。
→まずは、「要求」を突きつけていく、といった方策が考えられる。
実際、「消費者感覚の患者」ないし、もっと強烈な「モンスターペイシェント(モンスターペアレントのぱくり)」のようなものも存在するだろう。

そうすると、患者・家族と専門職の関係は「呼びかけ」と「応答」というなかに、もっといろいろなものが含まれている、すなわち、ベクトルの方向や強さ、拡散のあり具合、時間の経過、その密度の違い、といった、さまざまなことが同時的/即時的、あるいはゆるやかに流れるようにも、含まれているのだ、ということができるだろう。この状態を、一旦は「相互作用的」と呼ぶことにする。

ところで、もう一度患者・家族と専門職に話を戻すとして、つぎは制度上の区分に注目する。ここでは患者・家族は「インフォーマル」なものとされ、専門職は「フォーマル」なものとされる。
日本の福祉施策は「インフォーマル」を前提し、これを「フォーマル」が補完する、ように考えているのではないか、考えているだろう、というようなことが、批判されてもいる。そしてこれが「自立」のことばでさらに補強され、撹乱させられる。(=文脈的にはさらに個人的な問題に回収して終わらせようとする)こともあり、ことは非常に厄介である。

しかし、実際の医療現場では、「お金」のはなしはさておき(これがいいとは限らないにせよ)、三井論文にあるような「乗り越え」「試み」、すなわち「相互作用」によって、「和解」「変容」ある意味での「進化」がなされようと試みられ、みずみずしいそういった「動き」がみられている。

じゃあ、それでいいではないか、といったこともあるにはある。

しかし、ひとつ、ここに先に述べた「恨み」があるので、披露することとする。

それは、本日のテーマにある、「セルフケア」という概念をめぐる問題である。

セルフケアという概念は、アメリカの(有名な)看護学者であるドロセアE.オレムDorothea Elizabeth Oremが提唱した看護理論の中核をなす概念である。
彼女には長い看護経験があり、それを踏まえて、「看護の中心的問題とは何か」といった問いを考え続けた。それで、「看護とセルフケアに関する概念を開発」したのであるが、ここにはアブデラ、ヘンダーソン、ジョンソン、キング、レヴァイン、ナイチンゲール、オーランド、ペプロウ、リール、ロジャース、ロイ、トラベルビー、ウィーデンバックなど、さらに他の専門分野の学者としてゴードン・オルポート(社会心理学)、チェスター・バーナード(経営学)、ルネ・デュポス(生物学)、エーリッヒ・フロム(社会心理学、哲学、精神分析学)、ガトリー・ジェイコ、ロバート・カッツ(経営・管理)、クルト・レヴィン(ゲシュタルト心理学)、アーネスト・ネイグル、タルコット・パーソンズ(機能主義・システム論・社会学)、ハンス・セリエ(ストレス論・心理学)、マグダ・アーノルド(感情の脳科学)、ウィリアム・ウォレス(ヘーゲル主義哲学者)、バーナード・ロネルガン、ルドウィッヒ・フォン・ベルタランフィ(一般システム論・生物学)らの影響を受けている。(といわれている。)
オレム看護論=セルフケア不足看護理論(SCDNT; Self-Care Deficit Nursing Theory)であり、日本の(に限らず)看護界での受け入れ状況は絶大である。

この理論の主な前提は、
1.人間が天賦の能力に従って生命を維持し、機能するためには、自分自身と環境への意図的な継続したインプットを必要とする。
2.人間のエージェンシー、つまり意図的に行動する力は、必要なインプットに対するニードを明らかにし、そのようなインプットを作り出す際には、自己および他者のケアという形態をとって行使される。
3.成熟した人間は、生命維持および機能規制のインプットを作り出すことを含む、自己と他者のケアのための行為に対する制限というかたちで困難を経験する。
4.人間のエージェンシーは、自己と他者へのインプットに対するニードを明らかにし、作り出すための方法と手段を発見し、開発し、他者へ伝達する際に行使される。
5.構造化された関係をもつ人間の集団は、課題に集中し、自己と他者に必要な意図的インプットを作り出すのに困難を経験している集団の成員に対しケアを提供する責任を割り当てる。

理論上の主張は、
看護の一般理論として提示されたSCDNTは、(1)看護システム理論、(2)セルフケア不足理論、(3)セルフケア理論、の3つの理論で表現され、この3つの理論が相互に関連し合い、SCDNTを構築している。看護システム理論は統合理論であり、すべての諸要素を包含し、セルフケア不足理論とセルフケア理論を包摂する。セルフケア不足理論は、人々が看護から恩恵を受ける理由を扱い、セルフケア理論は他の2つの理論の基礎をなし、自己ケアの目的と方法、成果を表している。

その後の展開は、
SCDNTじたいも継続して概念化の開発が進められつつ、さまざまな教育、実践、研究に活用されている。
また理論に基づくコンピュータシステム、査定方式、ケア提供全体の構造化への開発が進められている。
ということがあり、(それじたいもどうかという問いはあるが)
それの「日本輸入版」では、おおよそ「看護診断」とセットで、臨床適応されてきている。
そこでは、この「重厚な」概念が、ものすごく簡潔・明瞭にされている。

NANDA看護診断 定義と分類 によれば
摂食 セルフケア不足 FEEDING SELF-CARE DEFICIT
定義 Definition
食事行動を遂行または完遂する能力の障害

入浴/清潔 セルフケア不足 BATHING/HYGIENE SELF-CARE DEFICIT
定義 Definition
自分のための入浴行動/清潔行動を遂行または完遂する能力の障害

更衣/整容 セルフケア不足 DRESSING/GROOMING SELF-CARE DEFICIT
定義 Definition
自分のための更衣行動および整容行動を遂行または完遂する能力の障害

排泄 セルフケア不足 TOILETING SELF-CARE DEFICIT
定義 Definition
排泄行動を遂行または完遂する能力の障害
看護診断に列挙されるセルフケア不足にかかわる診断名は以上、である。
これが、「看護の専門性」の一端、ないし、発露だとしている。

ここで「セルフケア」をその俎上に乗せることにする。
日本の看護の臨床で「セルフケア」といった概念を使ったことがない、という場面は少ないのではないだろうか。これはいうまでもなく、「成熟」といったオレムの用語が示すように、「発達しその途上にある人間」像が前提され、本来ならば(それくらいのことは)自分で行えることが、一時的/継続的に自分では行えないので、看護(ケア)がこれを補完する、という考え方の看護界への浸透である。
だから、これが間逆に作動すれば、全面的/永続的な依存も「ある意味ありえる」人間像を想定していることになる。
これを拡大すれば、「だから看護(ケア)は『必ず』必要なんです」といった専門性(家)の主張でもある。そういった専門性とか、あるいはオリジナリティのような主張は必要であるし、それは(まずはざっくりと)よいとして、「進歩的」「発達論的」または「啓蒙的」な人間像を想定する ことがいつもいつも、専門職にとっても、患者にとっても、家族にとっても、あるいは制度/施策にとっても「よく」これが促進される場合はいいかもしれないが、はたしてそうなのか、といった問題があるだろう。
まずは、ひとつには、とくに看護診断において、オレムのいう(1)看護システム理論、(2)セルフケア不足理論、(3)セルフケア理論、の3つの理論で表現されたことについて、「不足」にたいしてのみ、診断名が挙げられているのはなぜだろう。オレムの看護論では看護(ケア)は、「不足」に対してのみかかわるのではないはずであった(ように最初はいわれたように見える)にもかかわらず、「不足」があるかどうかといったことが、「限定された不足」によってのみ問題化(=診断)される思考の枠組みが提示されることによって、「不足」以外のものごとは、どこかにしまって置かざるを得なくなっているのではないか、といった疑念がわく。上記のように「不足」の診断名が限定され、かつ「不足」をいうことで、「不足でない」とし、(しかし可能性は絶大なのに)まず「不足でない」こと以外は不問に付す、といった考え方は、「潜在能力」 などという用語をも用いて提出された概念をかなり矮小化している、といわざるを得ない。
 ここに「専門職/患者・家族関係に政治的に作動するセルフケアという概念」という考え方を提示することができる。このように考えてくると、セルフケアといった概念はいまや「権力化」しているとさえいえるであろう。これを推し進めるネオリベ、個人化、市場主義…といった議論はさておくとしても、多くの「ケア」を扱う話では「他者との関係性」、といったものが、(程度の差こそあれ)すなわち「配置」「配分」というように「自明視」されているなかで、ここでは「セルフ」と(への)「ケア」、すなわち「自己内」での問題、ケアの自己完結型への変容、とも考えられるのではないだろうか。もちろん、ケア関係を通じての「自己」へのフィードバック、といったことが考えられるが、それがむしろ、「開放」に向かう力よりも、「閉鎖」、あるいは問題の「自己への回帰」といった力のほうが、より強力に働いてしまう、といった問題が指摘できる。
 一般的な「ケア」の表現に含まれるものとしては、「○○のケアが不足している」、という場合、だいたい入浴回数が少ない、などの、「ケア行為」が行き届いていない、というような「狭義の」意味で用いられることが多い。これを無視してよいといった議論にはならないが、しかしここで扱う概念としての「ケア」は(オレムのいうように)「人間の存在」じたいにかかわるような枠組みにあえて設定を拡大し、そのなかで「セルフケア」といっているのである。
 ここには多くの問題が考えられる。(が、とりあえず今回は黙認する。)
が、一点だけ、強調しておくとすれば、「ケア」の概念を探求するにあたり、これを根底から覆してしまう「監視装置」として作動する「セルフケア」概念、といったことがある、ということを申し述べたい。それは、われわれが「ケア」に想定する世界とは程遠いところで、「ケア」を名乗っている。そしてとりあえず、それはそれほどまでに、現実において「セルフ」といったことにattentionが集中し、それに看護(ケア)も(ある意味で)『汚染』されている、といったこと、そしてそれをもって、その支配からは逃れえずに、(よくも悪くも)患者・家族、への「ケア」やその関係性のありようを考え、行為しているのである。
 看護専門職者がいう「家族のようでありたい」「しかしありえない」、そしてそれに含まれる両義性/多義性、そこに含まれる「可能性」といったもの、の存在は「真実」ないし、「現実」である。これをじゅうぶんに考察することは重要である。しかし、一方で、そういった「美しく」語られる物語の裏に、潜んでいて、潜みすぎて、隠れていることすら忘れられてしまったかのような問題、についても、同時に問うていく必要があるのではないだろうか、と考える。


1.2004/08/25三井さよ「ケアの社会学 臨床現場との対話」勁草書房.p 2.
2.2005/09/30上野千鶴子「ケアの社会学」クォータリーat 1号.太田出版.p20.
3.1977,1978 Ivan ILLICH, John MCKNIGHT, Irving Kenneth ZORA, Jonathan CAPLAN, Harley SHAIKEN [DISABLING PROFESSIONS] =1984/07/15尾崎浩訳「イリイチ・ライブラリー4 専門家時代の幻想」新評論 ほか
4.1970 Eliot Freidson[Professional Dominance: The Social Structure of Medical Care]=1992/09/15進藤雄三/宝月誠訳「医療と専門家支配」恒星社厚生閣 など参照
5.ただし、ここでは患者・家族があまり「問題ない」場合を想定し、「家族にこそ言わないでほしい」というような(こともありえるが)さまざまな「親密性」が異なる場合は別途、考察することとする。(?)
6.reasons for justiceなどを参照するべきか?
7.2002.Ann Marriner Tomey and Martha Raile Alligood [Nursing Theorists and Their Work]=2004/09/01都留伸子監訳「看護理論とその業績」医学書院.pp197−219.
8.NANDA international [NANDA Nursing Diagnoses; Definitions and Classification 2005-2006]=2005/07/01日本看護診断学会監訳「NANDA看護診断定義と分類」医学書院
9.こういったことへの批判は多い。例として2002/04/22仲正昌樹「ポスト・モダンの左旋回」情況出版.pp174-175「『逃走論』の中で浅田は、スキゾ・キッズの戦略を以下のように定式化している。『誰もが相手よりも少しでも速く、少しでも先へ進もうと、必死になっている社会。各々が今まで蓄積してきた成果を後生大事に背に負いながら、さらに少しでも多く積み残そう、それによって相手を出しぬこうと、血眼になっている社会。これはいささか病的な社会だと言わなければならない。ドゥルーズ=ガタリにならって、このような社会で支配的な人間類型をパラノ型と呼び、スキゾ型の対極として位置づけることにしよう。(…)』」
10.オレム看護論の「普遍的セルフケア要件(UNIVERSAL SELF-CARE REQUISITES)」の中に「人間の潜在能力」といった概念が導入されている。

*作成:仲口 路子
UP: 20090709
全文掲載  ◇ケア研究会  ◇ケア  ◇介助・介護  ◇三井さよ・鈴木智之編『ケアとサポートの社会学』
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