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「R・ローティの「正義」論」

安部 彰
第60回関西倫理学会

last update: 20151225


■R・ローティの「正義」論
 安部 彰(立命館大学)

[報告要旨]

本発表の目的は、R・ローティの「正義」論の構造の解明と吟味である。すなわち、(1)ローティにおいて「正義」とは何か。(2)「正義」が問題となるのはいかなる状況か。(3)「正義」はいかなる仕方で達成されるのか。以上を明らかにし、その議論の限界と射程について論究する。

(1)ローティにおいて「正義」とは「残酷さの回避」のことである。彼自身はそのように定めていないが、それは、私的な価値(=善)と公的な価値(=正義)の分離のうえで、後者が「残酷さを最も忌避すべき事柄とみなすこと」であると説明されることからも明らかである。そこで避けられるべき「残酷さ」には、物理的な「苦痛 pain」のみならず、精神的な「屈辱 humiliation」も含まれる。

(2)ところで、ローティによれば、「正義」が問題となる、固有の状況というものがある。それは、見知らぬ他者への道徳的責務が生起するような状況である。というのも、家族など身近な他者の「残酷さ」を回避しその必要に応じることは自然なことであるが、見知らぬ他者の場合、それは自然なことではないがゆえに、ここにおいて初めて「道徳」や「責務」が取り沙汰されることになるからである。そしてローティによれば、この問題は、「我々とは誰か」という問い、すなわち我々がそれを問うことを通して自らの道徳的アイデンティティを決定する問いと密接にかかわることになる。

(3)ローティによれば、「正義」の達成のためには、「我々」の範囲が、すなわち、「残酷さの回避」の対象となる他者の範囲が拡張される必要がある。そのさい、鍵となるのは「他者の受苦への共感」であるが、それは「正義」の基礎/源泉といったものではなく、「事実としての価値」であるにすぎない。そのような事実に希望を賭しながら、教育とそれによる想像力の涵養をつうじて、共感可能な他者の範囲をひろげていくことが目指されるのである。 以上のローティの「正義」論からは、いくつかの論点を取り出すことができよう。ここでは、「残酷さ」に焦点を当て、その限界と射程を示す。まずその限界は、(精神的な)「屈辱」を回避せよとの主張、つまり私的な善や信念を承認すべしという多元主義は、我々がその達成のために連帯する「政治的」要請たりえないという点にある。したがって、その「正義」論の「政治的」実効性を担保しようとするのであれば、「残酷さ」は(物理的な)「苦痛」に限定される方がよい。またそのように限定し、さらにかれのいう「アイロニー」を媒介させることで、ローティの「正義」論は、グローバルな分配的正義論へと拡張されうる。すなわち、私にとって身近である/ないといった、他者との「距離」にかんする信念にアイロニカルに対することができれば、ローティの「正義」は、より「苦痛」を被っている者を優先する規範となりうると考えられるのである。


UP:20071115
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