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「「ケアの社会化」を再考する――有償化=分業化 の可能性と限界」

堀田 義太郎
「社会思想史学会」報告集

last update: 20151225


■「ケアの社会化」を再考する――有償化=分業化の可能性と限界
 堀田 義太郎(立命館大学)

はじめに

本報告では「ケア」という語を、すでに職業として確立された看護や施設での保育を除き、現在でも主として家族とくに女性に課されている高齢者介護や障害者 介助、そして子の養育を指す用語として用いる。そして、「社会化」という概念を、家族に無償で委ねられていたケアの供給を社会全体で公的に分担負担するこ と、として用いる。本報告が論ずる「ケアの社会化」とは、必要分の介護・介助・養育等を社会全体で分担負担することを指す。
「ケアの社会化」をめぐって問われるべき点は、ケアの具体的な活動のうち何を(どの程度)・誰が・なぜ・どのように(いかなるシステムや媒体によって)分 担負担すべきだと言えるか、である。これらは相互に連関している。とくに必要なケアを社会全体で分担負担すべき「理由」は、そのどの程度を・誰が・どのよ うに分担負担するか、という問いへの解答をある程度規制する。
ケアを社会が公的に分担負担するシステムとして多くの論者に支持されているのは、必要分のケアを個別具体的に担う活動を有償労働として位置づけ、ケア提供 者に賃金として支払われる対価を社会成員全員で分担負担するシステムである。つまり、現在の多くの議論では「ケアの社会化」は「ケアの有償労働化」と等置 されている。ケアの有償労働化は必ずしもつねに「分業化」を帰結するわけではない。ケアを提供可能な能力を持つ全社会構成員が、必要分のケア労働を分担し て担うシステムも想定できないわけではない。しかし、すでに分業化された社会においては、有償化は、貨幣と交換で行為を支出する/させることを、単に許容 するだけではなく促進する。また、分業化以外の可能性は想定されていない。
本報告では、とくに「ケアの社会化」を要請する規範的理由の観点から、ケアの「有償労働化=分業化」の可能性と限界を明らかにする。

1.「ケアの社会化」の必要性と有償労働化の可能性

「ケアの社会化」が要請される理由は、ケアを必要とする人々のニーズが十分にみたされるべきだからである。そして、家族の無償のケア負担を前提とした現在 の状況では、しばしばケア提供者に過重な負担が課され、ケアを提供される側にとっても必要なニーズがみたされないからである。
また、ケアを必要とする人に対するケア提供について、現在家族に一般的に課されている義務や責任(「扶養義務」や「保護責任」等)には、正当性はない(立 岩真也1992)。家族に無償でケアを課すことに正当性がなく、またケアが必要な人が十分にケアされるべきだという規範に照らして、家族に無償でケアを課 すことに問題があるならば、家族に無償でケアを課すべきではないということになる。
家族に無償でケアを課すことに随伴する諸問題は、ケアをめぐって一般的に指摘される非対称性にかかわる。ケアを提供する/される関係(以下「ケア関係」と する)には一般に二つの非対称性がある。第一に、ケア関係からの「退出可能性」における非対称性である。ケアを必要とする側は、ケアを必要とする身体的・ 精神的な状態から退出できず、とくに身体的ニーズをみたすためには、ケアを提供されないという選択肢を原理的にもたない。それに対して、ケア提供者はケア を提供しなくても自分自身のニーズをみたすことができる(斎藤純一2003:192)。第二に、ケア関係には「負担」における非対称性がある。ケアは提供 者に時間的・身体的な負担をかける。ケア提供者は、就業・就学・趣味娯楽・社会参加など、その他の活動に参与できなくなり、また、その間は休息をとること ができない。
第一の「退出可能性」における非対称性を完全に解消することは不可能である。ケアが必要な人はその身体から逃れられないからである。だが、個別的なケア関 係に対する選択可能性は、代わりになる可能的なケア提供者が存在しているならば、一定のレベルで保障されうる。第二の「負担」における非対称性は、何らか の財や感情、あるいは理念等によって相殺されうる可能性がある。従来(そして現在でも)、この負担を相殺するものとして想定・期待されてきたのは、家族の 「愛情」である。また、無償のボランティアに対する期待には、「善意charity」によって相殺される可能性への期待が含まれる。
だが、ケアを提供される側が個別的なケア関係から退出できるように、代替となる可能的ケア提供者を保障することは、「家族」の場合は(よほどの大家族でな い限りは)ほぼ不可能であり、ボランティアの場合にもきわめて困難である。
家族による無償のケアの問題点は、大きく三つに分けることができる。第一に、「ケア関係」を双方が選択できないという点である(もちろん、子を産む場合に は、「子の養育」負担が予見可能であり、一定の選択肢がケア提供者側にある。だが、その予見と選択可能性が、親のケア提供責任や義務を正当化するか否か、 もし正当化しうるとして、その範囲はどの程度か、といった点は曖昧である)。第二に、ケア提供者である家族の内面的な感情に、提供されるケア行為の具体的 な内容や程度が委ねられてしまう点である。第三に、ケア提供者は生活資源獲得活動を削減しなければならず、特定の他者に依存せざるを得なくなる点である (二次的依存状態に陥ることになる)。家族にケアを受ける側は、これらを認識しており、「負担/迷惑をかけないように」ニーズ要求を差し控えざるを得なく なる傾向にある。
また、ボランティアの場合にも、介護・介助を受ける側のニーズは十分にみたされない。たとえば、ボランティアに対して、「やることが終わったから帰って」 とは言い難い(丸岡稔典2006:80)。なぜなら、ボランティアの場合は、ケア関係が「ケアする側」の一方的な「善意」によって成立しているからであ る。善意は任意性を前提とする(善意は、発揮しないからといって非難されるようなものではない)。この意味で、ボランティアでケアを提供する側は、ケア関 係から退出する自由を有している。また、ボランティアは自分自身の生活を維持するための活動に従事せざるを得ず、時間的・身体的に余裕がなければできな い。したがって常に人手不足になる。ケアが必要な人間にとって、退出されたときに代わりがすぐに見つからない(人が足りない)現状では、ケア提供者が辞め ないよう、その意向に配慮せざるをえず、ニーズの直接的な表出や指示の抑制を強いられる。また、ケアを提供される側の個人的な性格や人間関係によって、ケ ア関係の成立可能性が左右される。
つまり、家族でもボランティアでも、ケアが必要な人のニーズを十分にみたし、その自己決定を保障するだけのケアの供給は困難である。
ケアの有償労働化を肯定する理由として挙げられるのは、これらの問題点に対応している。第一に、ケアに対する対価を充分に保障することにより、ケア提供者 は他の活動で生活手段を得る必要がなくなり、また善意によって余暇時間を削減しなければならないボランティアに比して参入障壁が低下するため、第一の退出 可能性における「非対称性」を部分的に解消しうる程度のケア提供者が調達される可能性が高まる(立岩真也1995:243)。また、有償化を「負担に応じ た対価」として設定することによって、第二の負担における非対称性も相殺される可能性がある。もちろん、現在のケアの対価は依然として家族によるケアが前 提として予算が設定されているため、きわめて低く抑えられている。そのことが、具体的なケアの担い手の数を不足させる一要因となっていることが指摘されて いる。

2.ケアの有償化=分業化の両義性

ケアの有償化を支持する理由は、必要なケアの質量を社会全体が分担負担して保障すべきである、という規範を前提にして、現に家族やボランティア等の方法で は必要なケアの質量の確保が困難だからである、という点にある。この理由は妥当だろう。
だが、「ケアの有償化=分業化」には、その前提にある規範に抵触する可能性もある。それは、分業化一般に指摘される問題でもある。ケアの有償化はこの社会 ではケアの分業化を帰結する。有償で徴集するシステムもありうるが、それは従来の議論ではほとんど想定されていない。ケアの社会化の一つの方策としてのケ アの有償化は、具体的な行為コストの担い手を市場における個々人の選択に委ね、その労働に支払われるべき貨幣コストを、支出可能な社会成員で分担負担する システムである。
それはたしかに、ケア関係からの「退出可能性」における非対称性を解消する可能性をもつ。しかし、ケアの有償化による非対称性の解消可能性には、二つの方 向性がある。第一の方向性は、ケアの有償労働化を支持する論者が想定する方向性である。ケアの有償労働化がケア関係における非対称性を解消する可能性につ いて、従来の議論では次のように想定されてきた。まず、ケア労働に支払われるべき賃金は、家族のケアに期待して設定されている現在の価格よりも高く設定さ れるべきである。負担に応じた価格が設定されれば、個々人の選択対象になる労働としての価値が高まり、参入者が増えるだろう。それにより、ケア労働の条件 は改善され、ケアを必要とする側にとっての選択肢が広がる可能性がある。この想定にはたしかに一定の説得力がある。
しかし、ケアの有償労働化は、ケア労働者に労働に基づく財の配分基準が適用されることを前提にしている限り、こうした想定とは別の方向性で「退出可能性」 における非対称性を解消するシステムにもなりうる。それは、ケア労働に従事する人をケア関係から事実上退出困難にするシステムでもありうるからである。ケ アの有償労働化は、ケア関係からの退出可能性における非対称性を、生活のために労働せざるを得ないケア労働者の側の「退出可能性」を削減することによっ て、均衡させる方法でもありうる。また、ケアの有償労働化は、具体的なケア提供の行為コストの回避手段として貨幣を支出して、他人にこのコストを担わせよ うとする者の存在を許容せざるを得ない。分業システムである限りこの可能性は労働一般に指摘できる。だが、ケア提供活動は他の委託可能な労働とは異なり、 選択機会における「格差」を前提として、貨幣によって他者に委ねることが不適切な活動である。ゴミ収集や下水処理等の生活廃棄物を扱う仕事と同じく、少な くとも貨幣媒体で他者に委ねることが規範的観点から見て適切ではないハードワークである(Walzer1983=1999))。

3.ケアの有償化=分業化の限界

さらに、ケアの有償化はケア活動を単なる「貨幣獲得手段」として位置づけるケア労働者も許容せざるを得ない。もちろんそれにはメリットもありうる。だがそ れは、ケアの社会化を要請する規範に照らして適切ではない。
ケアの社会化を要請する規範は、ケアを家族に無償で課している利害関心との対立関係で把握されるからである。ケアが家族に無償で課されるのは、ケアが必要 な人の多くは他者に交換に与えるものを持たず、人は市場では自己利益に寄与しないものには一般に支払わず、行為も拠出しないからである。またこれが、「ケ アの値段」を安く抑えられている第一義的な原因でもある。有償制度の基盤になる財源につねに削減圧力がかかるのは、人は一般に自らの利益にならないものに 対する支払いをできる限り縮小しようとする利害関心をもつからである。家族に委ねられるのも、《家族ならば無償でケアするだろう》という家族規範があるか らである。それに対して、「ケアの社会化」を要請する規範は、他者に市場で支払う能力の有無・多寡にかかわらず生活の必要がみたされるべきである、という 規範である。この規範からすれば、貨幣獲得手段としてのみ行為や財を供出することは適切ではない。
また逆に、ケアの有償労働化は、ケア提供者を単なるサービス提供手段として位置づけることを許容する。ケアを提供される側の意向でケア提供者を辞めさせる ことが可能になることは、もちろんケアの質を高めるために必要なことではある。有償労働関係が成立するということは、ケアを提供される側がケアの内容や質 に対する自己決定を阻害されてきた非対称性を、一種の契約関係によって解消するというメリットはある。しかしこの点も両義的である。ケアを提供される側 は、ケアサービス消費者として、ケア提供者を単なるサービス提供者として消費する対象として位置づけ、手段化することも許容されうるからである。
もちろんニーズを十分にみたすケアが供給されるためには、ケアの「質」を評価する権利は、第一義的にケアを提供される側に保障されるべきである。だが、評 価基準を完全に主観に委ねることは、ケアを提供される側の「趣味」等によって、ケア提供者を辞めさせることも可能にするからである。また、ケアを提供され る側によるケアの質の評価の妥当性を第三者が判断することの困難は、別の方向にも作用しうる。ケアの質の評価主体が第一義的にケアされる側にあるとして も、ケアされる側のニーズをみたす単なる手段として、ケア活動を提供することが不適切な場面(ケアされる側がニーズを適切に表出できない場合、またその ニーズの実現が当人に害を与える場合)もありうるからである(丸岡ibid., 西浜優子2002)。

4.「ケアの社会化」を考察する条件

 「ケアの社会化」は、ケアの有償労働=分業化では必ずしもない。必要なケアを社会全体で分担負担するためには複数の可能性がある。ケアの有償労働=分業 化は、その一つの――そして現実的だが次善の――方策である。
 ケアをボランティアや家族に委ねることでは、必要な質量のケアが供給されない。だが、だからといって有償労働化すれば問題が全て解決するわけではない。 有償労働化は、ケア関係からの退出可能性における非対称性を、ケア提供者の退出可能性と交換で解消する機能を持ちうる。またそれは、@貨幣コストのみを負 担する者がケア提供者を負担回避手段として位置づけること、Aケア提供者自身がケア活動を貨幣獲得手段として位置づけること、Bケアを提供される側がケア 提供者を単なるサービス提供手段として位置づけることを、それぞれ許容しうる。だが、これらはいずれも、ケアという活動の性質および「ケアの社会化」を要 請する規範的前提に照らして適切であるとは言えない。
これらの諸論点は、1970年代に日本脳性マヒ者協会(「青い芝の会」)がその運動の中で、未整理だったとはいえ、すでに提起されてきた論点でもある。 「青い芝の会」の運動を駆動した根本的な認識の一つは、市場で交換されうる能力がなければ生活できない社会に同化することに対する、決定的な断念である。 この非対称性に対する自覚を前提として展開されてきた運動が、ケア(ここでは障害者介助)を有償労働として位置づけることに対して批判的な態度をとったこ とは、ある意味で当然だったと言えるだろう。
この非対称性について、「青い芝の会」の非会員だが共に活動してきた金満里は次のように述べている。「私から介護者は絶対に切らない。切るなら介護者から 切らせる」(金満里1996:147)、なぜなら「あくまでも、あんたがたは切る立場なんだ、ということを突きつけたかった」(148)からである、と。 「青い芝の会」は、ケア提供可能な人間が「個人」としてこの根本的な非対称性に向き合うことを要求し、また健常者は自らが「切り棄てる」立場にあることを 自覚せよ、と迫った(そしてそれはもちろん、「非難」などではない)。それはたしかに、しばしば指摘されるとおり「過激」な要求だったと言えるだろう。も ちろん、「青い芝の会」の主張をこの要求に還元することはできないし、その主張も必ずしも一枚岩ではなかった。しかし、その主張の核心の一つを、人が他者 を自らの利益にとっての単なる「手段」とみなすことで成立する社会関係を否定した点に求めることができるとすれば、「ケアの社会化」をめぐる考察にとっ て、この主張はつねに立ち返るべきポイントであると言えるだろう。

引用文献
金満里、1996、『生きることのはじまり』筑摩書房
丸岡稔典、2006、「障害者介助の社会化と介助関係」『障害学研究』2号
西浜優子、2002、「しょうがい者・親・介助者――自立の周辺」現代書館
齋藤純一、2003、「依存する他者へのケアをめぐって――非対称性における自由と責任」『年報政治学(性と政治)』
立岩真也、1992、「近代家族の境界――合意は私たちの知っている家族を導かない」『社会学評論』43
――、1995、「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」『生の技法(増補改訂版)』藤原書店
Walzer, Michael、1983、Spheres of Justices: A Defense of Pluralism and Equality,Basic Books(=1999 山口晃訳、『正義の領分』、而立書房)


UP:20071004
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