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『射水市民病院事件』の事実関係について、中島新著で新たに分かったこと

個人的なもの

富山市 四十物(あいもの)和雄 20071016

last update: 20151225


(1)メディア間及び市民との間の、情報におけるデバイトについて
中島みち著『「尊厳死」に尊厳はあるか』(岩波新書、2007.9)出版の評価。感想
――四十物をはじめとした「普通の人」の反応と、マスコミ記者(各社間においても)反応との落差

○「普通の人」――新たな事実の記述(特に、事件関係と背後にある表に出にくい信憑性の高い情報の提示)による、「射水市民病院事件」の全体像の「揺らぎ」
・病院側と伊藤医師側の情報の落差について、それを埋める情報がない中での伊藤情報への傾斜とそれに対抗する情報や批評の欠如。結果として、私自身を含めた普通の人々の間にも浸透していった伊藤医師寄り情報⇒中島氏の新著はこの情報偏向を打ち破る事実関係を出している【事件に直接関係する部分は(3)(4)を参照】
○マスコミ関係者(取材記者)――「射水市民病院事件」の刑事事件容疑に関わる新しい事実はさほどない。濃淡の差は各社によってあるにしろ。
・「射水」の全体像については、だからさほど変更の必要性を感じないが、一つにまとめたことの意義あり【註:全体像というコトバに各人の抱いている範囲の違いがある】
・「厚い壁のある」医療機関、及び関係者に対して、細やかな「共感性」「権威」と「信頼感」を持ったジャーナリスト中島氏でしか書けなかった部分(例えば、「瞳孔」問題等)の大きさ。そういう仕事の必要性と、その情報公開の重要性。
○マスコミが描いている事件の全体像と、私たち普通の市民の受け取っている全体像との、大きな落差の問題が何なのか?お互いの像が良く分かっているのか?わからないのは何を起因としているのか?(私自身は、事件を正確に刑事事件とその背景に限定するマスコミ関係者と、この事件を、医療倫理思想として議論することから、安楽死=尊厳死の医療現場における実態と結び付けて思索しようとする私どもとの違い――『身体をめぐるレッスン2』岩波書店2006所収の、美馬達哉氏「『生かさないこと』の現象学」参照。これをめぐる私どもの関連資料添付――が大きいように思われる)を深く追求する態勢の必要性。特にある会社の突出した情報提供(これは主にTV情報のチェック体制上の問題と結びついて、一方的操作に帰結しやすいこと、現に富山ではそのようになっている)に対する他社の沈黙についての疑問。
・情報を受ける側の「情報の空白や分断」に自覚的であるのか?が双方の人々に問われている!「プライバシー」を「錦の御旗」とした、公権力による情報の独占・操作に対しての奴隷根性的体質(管理されているという自覚すらなく、逆に安心しきっている体質)の改善があらゆる形、あらゆる場で要請されている!(「射水市民病院事件」そのものの背景にある医師のパターナリズムの蔓延・公権力へのパターナリズム・射水市民病院の閉鎖性⇔市民、各種メディアの連携・相互批判・交流の必要性――権力迎合性をかいくぐったゲリラ的情報交換・公開の場の創出)

(2)「射水市民病院事件」の全体像の転換

・富山現地に於ける、「伊藤医師=悲劇のヒーロー」VS「麻野井院長=警察への売渡人」的な定着化された像を、そして「尊厳死」を美化する風潮に対して、事実を持って打ち破る武器を提供したこと(【註】:私は中島さんとは異なって、麻野井氏の「命の考え」には深く共鳴するものの、「病院管理者としての閉鎖性」には批判的である――もし立件がなされなかったり、「脳死」・臓器移植の場合のように放置されたままにされるならば、この事件の公共的議論の場はどこで保証されるのか!)。
・伊藤医師の一連の呼吸器外しは、確信的な「安楽死=尊厳死思想」からではなく、「自己の医師裁量の防衛」という動機から来ている。だからその延長に「ガイドライン全面否定論」があることを明らかにしたこと。「医師の聖域」防衛の思想というべき。
・従って、伊藤医師の生死観は、「医師の裁量で、生死の基準(「脳死状態」解釈のデタラメサ)も生死の決定(呼吸器の装着―取り外しの恣意性)も出来る」という傲慢そのものの行為と結びついていること。その傲慢さに気付いてさえいないこと(いかにも思想性があるような教祖的振る舞いを許している現実は、「とんでもない」感覚に、彼の朴訥とした言辞が重なって、何か深遠な意味があるかのように思わされた私らの方の問題でもある)。
・射水の一連の呼吸器外しは、貧困な終末期医療の格差是正がなされようとされずに、医師個人の医療技術で解決しようとする「医師万能論」(患者からの迎合を含めた)的対処の無理さから来ていること
・患者本人というより、医師あるいは一部の家族の「生きている側」の「早く終って欲しい」というご都合主義・効率主義・生者万能論の、行き着いた先が一連の伊藤医師の呼吸器外しとなっていること。
・「権威に対する弱さ、そのもとでの殺人行為も、悪と感じることのない心性(このことを、ユダヤ人絶滅虐殺に関与し後に処刑されたアイヒマンを診て、ユダヤ人政治哲学者ハンナ・アーレントという人は「悪の凡庸さ」というコトバで表現。またそれにヒントを得てなされたアイヒマン実験と略称される心理テストでの、権威の傘を着ればほとんどの人が冷酷な行為を平気で行なう事を実証したミルグラムの実験――簡単には日本の医療界をいまだ規定している731部隊に即しながら、この実験を紹介した野田正彰著『戦争と罪責』岩波書店、1998、pp166−pp180参照――必ず読んでためになる本です)、そういう心情を当たり前とする医療界全般の状態のなかで、伊藤医師や多くの同様な医師・医療関係者(射水の外科病棟もそうであったと思われる)が育ってきたこと。上記心性形成の場がいたるところにあること。その克服が今問われていること。そういう点で病院内での発覚の経緯の検証は非常に教訓になるはず(なおこの分析とその心性克服の問題意識は、中島氏の本にはほとんどない)。

(3)射水市民病院が届け出た事件での既知の事実と、新たな事実

0)カルテに書かれていない幾人かの患者の人工呼吸器はずし(1999年度?)

@)00年○月14日 男70歳代後半 人工呼吸器外し:pm5:20、呼吸停止:同30、心停止:35(注;以下同様の順番、呼吸停止のないケース有)
 (a)末期すい臓がん、「脳死状態」の証拠なし(以下いずれのケースにおいても「脳死」診断・判定を行なっておらず)、死亡時の午前中:対光反射有、処置に対して顔をしかめる。○月1日、呼吸障害が起きるや「救命目的で呼吸器装着」
 (b)伊藤医師(以下T)「延命治療をしないというニュアンスの会話をしており、本人の意思を推定」(注:以下、いずれのケースも客観的証拠・確認文書も、話し合いも行われておらず、Tの推定)
 (c)家族の説明なし(以下ない場合はこの項なし)

A)02年○月17日 女 80歳代 pm7:00、同7:02
 (a)穿孔性腹膜炎で人工呼吸器装着しながら緊急手術○月9日、その後肺炎悪化し、敗血性ショック症状、多臓器不全、DIC(抹消血管内に微小血栓と出血症状が同時に起こる厄介な症状)併発。17日午後2時DICによる気管内出血で一時心停止、心臓マッサージ(以下、心マ)で蘇生。午後4時になって、瞳孔径左右とも5,0ミリ、対光反射消失
 (b)「外しますか、と自分から言ったかもしれない」
 (c)「大往生だと思っている」
 中島コメント(以下、中):80代で過酷な手術を受け、身体のいたるところから血を噴出して、全身浮腫の状態での心停止なのに、なお蘇生処置が必要だったのか?

B)03年○月15日(春)男、60歳代前半 am10:00、10:20
 (a)持病糖尿病悪化入院、早期胃がん発見摘出手術(○月4日);○月8日未明ベッド外で心肺停止状態⇒心マ、呼吸器装着で心拍再開、自発呼吸戻らず、原因不明
  14日脳神経内科脳死判定(注:臨床的診断か?しかし糖尿病等の除外例を無視している!)「脳死状態」

 (b)T「別の外科医が担当」自分の何らかの関与部分を明示していない。
 (c)「もう見ておれんので、お願いします」と頼んだ」

C)03年○月22日、90歳代の男性 pm6:20,6:33
 (a)認知症(?)で食事取らずに、低栄養状態で衰弱。死の5ヶ月前に入院。肺炎で抗菌化学療法を開始。中心静脈栄養。MRSA等の細菌感染→抗生物質療法。病態回復されず免疫力低下。仙骨部分の皮膚壊死開始
  ○月13日チアノーゼ、下顎呼吸(末期に見られる努力呼吸)、吸痰にも苦痛表情
  にもかかわらず呼吸器装着(1ヶ月前に家族と「呼吸器希望しない」要望を聞く)、何故この年齢で状態が悪い人に装着したのか?
 ・[その理由]学会出席不在の時の13日に、緊急連絡を受けながらすぐに戻らず、当直医に頼む。主治医である自分と家族の「看取り儀式」時までの延命のため(注:裏付け無し)
  翌日外すことを家族から要望。T「このまま様子を見る」。22日までそのまま。

 (b)「家族と前もって話し合い、延命はしないと決めていた。家族を通して本人の意思を推定した」⇔何故に認知症なのに意思表示が出来たのか?「認知症の初期」と修正。

D)05年○月15日、50歳代女性 pm1:53−2:21
(a)胃がん治療中にインフルエンザ(7日外来診察)、13日やっと頭部CT検査、慢性硬膜下血腫、DIC.脳外科医から出血傾向大→保存的治療
14日深夜から深昏睡状態、15日am一時過ぎ人工呼吸器装着(子息の到着を待つための)。午後脳外科医から「ほぼ脳死に近い状態」「回復はない」「頭蓋内圧迫による」とも説明――説明のタイミングが遅い等の問題があるが、よく説明されている方」
(b)「家族を通して本人の医師の申し入れがあった」
(c)「外してください」と頼んだ

E)05年○月24日、男、80歳代 ○月24日(春)pm4:17、5:57
 (a)胃がん再発。肺気腫有、誤嚥性肺炎を繰り返していた。痰吸のための気管切開。
死の前月末突然の心肺停止、呼吸器装着と心マで蘇生。○月6日呼吸器外す。
  ○月16日2度目の心肺停止。再度呼吸器装着
 ・Iの場合には珍しく、確かに「脳死状態」に近いまで様子見をしていから外している。(一度蘇生していること、患者家族と病院職員との近しい関係への配慮?)
 (b)「家族からの取り外しの申し出があった」――蘇生のつかの間の悪化に家族がショック状態になっていた可能性が大きい

F)05年10月4日、女、80歳代前半 pm4:35―45―50(Tは1時間時刻を間違える。このケースについてTは病院へ求めに応じてカルテを参照しながらレポート提出した経過からもせめてこれだけは正確に――中島コメント)
 (a)認知症。嚥下障害・誤嚥性肺炎(6月27日入院、29日検査)。7月15日気管切開。
  MRSA肺炎を繰り返す。10月2日am9:50、心肺停止状態で発見(下肢暖かい)
心肺蘇生で心拍戻る、自発呼吸微弱で呼吸器装着。急性腎不全か。
Tから家族に「重大な脳障害」の可能性示唆、「回復困難」。Iは「意識レベル300、瞳孔散大、対光反射消失」とマスコミで述べる⇔実際には瞳孔縮小(脳機能の神経支配があるから瞳孔が固定していない)
翌3日も瞳孔縮小しているのに、Tは「散大」、家族に「脳死状態、回復不能」
4日、瞳孔径散大気味になるが、自発呼吸有。「脳死状態」ではない。

(b)「『延命治療してきた上に呼吸器に繋がれるのもかわいそうだね』と言うと家族から『もう助からないのなら』と言う発言があった」

(4)問題の集約されたものとしての呼吸器外し未遂事件

・呼吸器外し未遂事件:05年10月12日(水)、装着のまま21日死亡
[経過] 10月9日(日)pm6:00、tel呼出、対象者:70年代後半の男(10年前に赴任したばかりのTの初の手術者、ウツ状態患者として、睡眠剤等処方通院中)
・内科当直医「首吊りの患者は外科の担当」。空きベッドなく内科特別病室501号室入院 
 Nsは内科、睡眠剤の大量服用の可能性もあるケースで、Tは状況を掌握してないまま、深昏睡に陥っているからといって、脳の器質障害判定の常識である急性薬物中毒の除外規定を無視した「深昏睡→回復不能」との判断を家族に言うことは論外」「瞳孔散大」についても論外の無知(固定、散大の大きさ等の知識なし)⇒「脳死」に関する知識がいい加減。
・10日:自発呼吸有、「無駄な延命治療の中止」「本人も望んでないはず」と家族訴え
・11日:T「自発呼吸なし、意識レベル300、対光反射消失、瞳孔散大、全身浮腫」
 「患者は脳死状態で回復ない」、水に呼吸器外しの約束
・呼吸器外しの儀式をきいた(午前の師長会議)内科Ns長⇒副院長(看護師出身、副院長2人制――05年麻野井院長体制発足時からの病院改革の産物)⇒院長
・院長⇒T「呼吸器外しの中止」要請。T抵抗(家族の同意を理由に)、脳神経内科医に脳死判定依頼⇔断られる(院長反対、呼吸器外し目的への異議)
・T⇒家族に謝罪・説明「植物人間とは違いますので、そんな長い間頑張れる状態ではありません」(マスコミへ発表したとされる彼の覚書)
・15(16)日の正午:院長に呼び出されたT
 院長「早く警察への地震からの届出を希望」
 T「殺人ではなく尊厳死です」と反発
 院長「今回の事は見過ごせない」
T「尊厳死です」
院長「死を招く事を一人だけの医師の裁量権ですることは許されない」「自分で美化しています」「人の死に対して傲慢です」「診療に出てもらうことは出来ない」
T「診療させない懲罰」
院長「予防です」
T「家族が院長のいう抜菅禁止に対して、『アメリカでは抜かないのが罪です。医療費が高くつく(社会的損失)』と抗議している」
・Tの心情は「他の医師もやっているのに何故自分だけ不当な目に合うのか」

・2006,3月末に自宅前に張り出した文章「(私から)尊厳死を主張したことはない」
「一般的な意味で(尊厳死)を言ったので、今回の具体的例で指したのではない」(前述覚書)と矛盾

○この最後のやり取りの中に、患者からの「尊厳死」願望が、如何に医療現場を支配する医師によって「勝手気ままに」「独断」で自己正当化の手段にされるのか!という現実を凝縮して示している。
 【治療義務の限界(性の自覚)=「生命保護義務の解除(『延命中止』)」】という等式が「医師の免責」規定を根拠付ける危険性、それを実現する法制化やガイドライン策定策動の危険性を自覚しておかねばならない。

【補足】医療による〈治療義務〉は生命保護が目的(生命倫理でいう「命の尊厳」=SOLの維持・向上の側面と、「命の快適さ」=QOLの維持・向上の側面有)。
これまでは前者が重んじられ、後者が軽視されてきたことから、最近は後者が逆に重んじられ、SOLの側面が軽視されている――私の感じ方(QOL的観点ばかりを優先すると自殺や安楽死・尊厳死の肯定、しかもオランダのように終末期と迎えていなくともそれが可能になってしまうことに注意!QOLはいくらでもパーソン論に転化する。現にUSAではそういう使用法が一般的らしい)
 安楽死=尊厳死、あるいは医師の立場からは延命治療の中止、の主張は〈治療義務の限界〉という法理論から、〈生命保護義務の停止〉(このいい方は少なくとも私の造語らしくて、別のいい方があるかもしれません)=「延命中止」を引き出す。
 私は〈治療義務限界〉≠〈生命保護義務の停止〉の立場を採る。治療義務がSOL面でもQOL面でも限界に直面したとしても、救命(生の向上)が完全に100%不可能である事はまず考えられないこと。「自然に死に至る経過」を重視するならば、それまでの治療を打ち切るには「死を選択することの決断」という論理的飛躍が伴う。
 「生きることが死ぬことよりもつらいこと(QOLがどん底であること、耐え難い苦痛でしかないこと)等」から「延命を中止する」こと自体の患者意思の容認をせざるを得ない場合――勿論最も後の時期での患者意思尊重が基本ですが――(【註】)、そこにおいても、医師や他人が「延命を中止する」には「価値判断(QOL優先の)=決断=飛躍」とそれに伴う倫理的責任が問われはず。人工呼吸器外しの行為は、明らかにその範疇に入る(医師が殺人という作為であることがマヒしていたとしても)。
〈治療義務の限界〉から必然的論理的なされるのではなく、その条件下で患者の意思を尊重した上でのQOL的観点優先か、SOL的観点優先かという価値判断がなされる行為として考えるべき(延命中止ガイドラインのマニュアル化批判)。
伊藤医師の行為は消極的尊厳死(安楽死)ではなく、「死に至ることを目的とした(呼吸器外しの儀式はそれを美化する儀礼)」積極的尊厳死(安楽死)――従来の安楽死・尊厳死の定義そのものが問題を混乱させている。再定義の必要――と見るべき(苦痛の軽減を目的化した死へ至らしめることが安楽死。精神的苦痛の軽減も安楽死といいうるので尊厳死を含んでいるといえる。尊厳死はその人の人間としての尊厳を守るために死へと至らしめる行為で、積極的作為殺(=殺人)行為を含んでいる!)。
 呼吸器を外すことが可能な条件については、「医療現場を誰が支配するのか?」「患者中心か?それとも従来どおり医師中心か?」という問いを不問した上での議論は無意味。患者側の意思に対して医師の側は適当に自分の都合の良い形で妥協的医療を実際はしている、という現実をどう評価するのか?(医師の密室での合意と、患者・家族に対する誘導――本日報道された日本救急学会の終末期指針はその条件において曖昧にされている!)
患者が医療の現場を支配=管理出来るのならば、命を守る(SOL的視点優先)よりも、自分の人としての尊厳や生きがい(QOL的視点)を優先させる尊厳死も可能かも知れない。しかし、現実には患者自体が理性的な判断が出来にくい状況が終末期医療の特徴であって(自己決定自体がある程度の安定し持続した自己判断の出来うる人の存在を前提にしている以上)、それが可能でない事を前提に考察するしかない。
 呼吸器を外すための一般的条件を整備する前に、問題となるケースを一つ一つ医療関係者による医療ケアチームに任せるだけではなく、患者・関係者や司法関係者等外部者を交えて検討可能にしていく常設機関(医師仲間による「聖域化」の打破)の創説が必要不可欠(その中に患者の視点を盛り込む元・現患者の組合結成が大切)。
【註】:理論上は、欧米近代の考え方のように、個々人に自由権を認めること(この中には例外者が存在していて、多くの障傷病老異者がそういう能力・権利を持たない者として排除されている)を優先すれば、自殺権を認めなければならないのに、実際の「法による支配国家」では認められていない問題が一つ――暗黙の内に市民社会=国民国家構成員から自殺権は除外されている。【市民社会=国家の個々人に対する優先性、各種の社会契約説で差異がある】
 「個々人の存在=生命のかけがえのなさ」論も、国家=市民社会の防衛(「公共の福祉」・「他人の権利尊重義務」論からする)制限がある、ということ。近年の「個々人の幸福追求権」を人権の中心に置く上記理論補強の中では(日本国憲法では13条、また、QOLの重視もそれと関連している)、かえって他人の「幸福追求権」尊重義務を侵害するものとして、「リスク(政治的社会的経済的)の高い人々」は排除される傾向が大になっていることに注意!いわば「安楽の全体主義」化の中で、「個々人の命よりも大切な価値がある」(これ自体の判断することは否定できない。例えばQOL重視で緩和ケアを選ぶこともこれに該当する)という圧力が増大していることに注意!
 上記の理論に対してはその一般化や法制化と対決していく必要性を述べるにとどめる。
                               以上

中島 みち 20070920 『「尊厳死」に尊厳はあるか――ある呼吸器外し事件から』,岩波新書・新赤版1092,209p. ISBN-10: 400431092X ISBN-13: 978-4004310921 735 [amazon] ※

■言及

◆立岩 真也 2008 『唯の生』,筑摩書房 文献表


UP:20071103
射水市民病院での人工呼吸器取り外し  ◇安楽死・尊厳死  ◇四十物(あいもの)和雄  ◇ARCHIVES
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