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「生きていることは労働だ」

運動の中のベーシック・インカムと「青い芝」

山森 亮 20070916
シンポジウム「障害と分配的正義――ベーシックインカムは答になるか?」(20070916)報告原稿
障害学会第4回大会 於:立命館大学

last update: 20151225

 *2007年9月7日バージョン:当日までに改変の可能性があります。引用の際はバージョンを明記してください)

  ベーシック・インカムなんて学者が机上でいっている空論ではないのか? そんなことはない。ベーシック・インカムがそこかしこで、女たちの、学生の、失業者の、年金生活者の、障害者の、病者の、労働者の、運動のなかで主張されていたのは、つい数十年前のことだ。

  「家事労働に賃金を」というスローガンを耳にしたことがあるだろうか? 1970年前後のイタリアで唱えられたこの言葉は、家事を労働と認知させていくことの端緒となったし、様々なフェミニズム運動の主張の一環としてあったことは、一部では良く知られている。他方でまた、この主張は、全ての人に所得を保証するベーシック・インカム(以下BI)の主張に繋がっていった。じつは1960年代から1970年代にかけては、イタリアだけではなく、あちこちでBIが要求されていたのだ。
 ではそれは実際にどのような運動だったのか、アメリカ、イタリア、イギリスでの経過をざっと見てみよう(1節)。次に運動のなかから、どのような理論が紡ぎだされたのか(2節)を整理しよう。最後に、日本にもBIそのものではないとはいえ、類似の理論的質を持った運動が展開されていたことに触れる(3節)。

1運動

アメリカの福祉権運動

  1966年6月、「まともな福祉」を求めて、オハイオ州を10日間かけて歩いた35人の人たち(そのほとんどが女性と子ども)は、「乞食(bums)」と罵られ、「働け、働け、働け」というシュプレヒコールで迎えられたという(Nadasen 2005, p.1)★01。一方では数百人の仲間が35人を暖かく出迎えた。福祉権運動と呼ばれる運動は1960年代後半に大きな広がりをみせる。各地で当時の公的扶助制度であるAFDC(Aid to Families with Dependent Children)の受給者を中心としながら、ソーシャルワーカーの恣意的な審査、嫌がらせなどに抗議すると同時に、よりまともな制度を求めた。オハイオの行進と同じ1966年には、全国福祉権団体(The National Welfare Right Organization;以下NWRO)と呼ばれる全国組織も誕生する。この運動の雰囲気をよく伝えているように思われる文章を以下に抄訳しよう。

  私は女。黒人の女。貧しい女。太った女。中年の女。そして福祉で生活している。
  この国では、これらのどれかにあなたが当てはまるなら、人間以下にしか数えられない。もし全てに当てはまるなら、あなたはまったく数えられない。統計を除いては。
私は統計。
  私は45歳。6人の子どもたちを育ててきた。
  ・・・
  福祉は交通事故のようなもの。誰にでも起こる。でもとくに女性に。
  ・・・
  本当のことを言うわ。AFDCとはまるで超性差別主義者との結婚。あなたは一人の男(a man)の代わりに、<男>(the man)を手にする。彼があなたにひどい仕打ちをしても、あなたからは離婚できない。彼からは離婚できる。もちろん。いつでも彼がしたいときに。でもその場合、彼が子どもを得ることになる。あなたではなく。
  <男>は全てを支配する。普通の結婚では、セックスはあなたの夫のためのもの。AFDCではあなたは誰ともセックスしてはいけない。あなた自身の体をコントロールすることをあきらめなきゃ駄目。それが援助の条件。福祉から外されないようにするためだけに、不妊手術にすら同意しなくちゃいけないこともある。
  <男>、福祉の仕組みは、あなたのお金をコントロールする。何を買うべきか、何を買ってはいけないか、どこで買うか、そしていくらするか、すべて彼があなたに言う。もし例えば家賃が、実際には彼が言うより高かったら、だだもうどうしようもない。
   ・・・
  福祉にも良いことが一つある。それはあなたについて、そしてこの社会についての幻想を打ち砕く。・・・あなたは闘うことを学ばなくてはならない。・・・もし福祉受給者として生き延びられるなら、あなたはどんな苦境も生き延びることができる。それはあなたにある種の自由、すなわちあなた自身の力と、他の女性たちと一緒にいるという感覚を与える。
  ・・・
  他の福祉受給者たちと一緒に、運動をしてきた。だから私たちは声を挙げることができる。私たちの団体はNWROと呼ばれている。私たち自身の福祉プランとして共に掲げているのは、適切な保証所得(Guaranteed Adequate Income: GAI)。GAIなら福祉から性差別を取り除くことができる。
  そこでは、男、女、子ども、独身、既婚、子持ち、子ども無し、なんていう「分類」はない。ただ援助を必要とする貧しい人々がいるだけ。必要と家族規模だけに応じて支払われる。・・・
  もし私が大統領だったら、・・・・女性に生存賃金(a living wage)を支払い始める。私たちが既にしている仕事-子育てと家事-への報酬として。
(Tilmon 1972)

  これはフェミニズムの雑誌『Ms. Magazine』の1972年春の創刊準備号(preview issue)に、同年NWROのExecutive Directorに選ばれたジョニー・ティルモン(Johnnie Tilmon)が寄せたものである。AFDCの受給者の多くも、またNWROに結集した人たちの多くも黒人の女性たちであった。文中GAIとして言及されているのはBIに他ならない。そしてまたそれは彼女たちがすでに行っている労働へのまっとうな支払い-生存賃金-でもあった。彼女たちの多くはひとり親として子どもを育てていた。注目すべきは、だからといって「子育てや家事を条件として支給せよ」とは要求していないことである。逆にそうした審査、ソーシャルワーカーの介入を断固として拒否しているのである。
  NWROに結集したような各地の福祉権団体は、すでに福祉を受給している人たちへの恣意的で不当な嫌がらせなどに抗議するだけではなく、適格であるにも関わらずこれまで受給申請をしていなかった人々を申請へと誘った。実際には多くの人びとが貧困に喘いでいるにも関わらず、福祉制度は少数の人びとしか対象者として想定していない、という制度の矛盾に行政当局を向き合わせ、また人々の注意を喚起することとなった。そこから先に、どのような対案を構想するかについては、様々な意見があったようだが、1969年ごろまでに、ティルモンの文章にあるようなBI的な方向性が優勢になったといわれている。
  アメリカでは1970年前後、負の所得税やBIなどの従来とは異なる福祉制度の導入に向けた議論が経済学者、政治家、官僚などの間で左右を問わず議論されていた。このことはワークフェアの起原などをめぐる最近の研究のなかで、日本でも再発見されだしている。しかしながらその背景に今紹介したような草の根の動きがあったことについてはあまり知られていないように思われる。公民権運動で有名なキング牧師も、彼の最後の著作で以下のようにBIを支持していたのだが★02。

  私がここで考察したいと思う一般的な計画が、一つだけある。なぜならそれ[保証所得]は、この国家のなかでの、貧困の全廃を取扱い、それは必然的に、国際的な規模での貧困についての、私の最終的な議論を導き出すことになるからである。
  ・・・・
  私はいま、最も単純な方法が、最も効果をあげるようになるだろうと確信している--貧困の解決は、いま広く議論されている方法、すなわち保証所得という方法で、直接それを廃止することである、と。
  ・・・・
  その保証所得が、たえず進歩的な法案という形で生かされてくるのを確実にしようと思ったら、次の二つの条件を欠くことはできない。
   第一に、その所得は最低の水準にではなくて、社会の中間の水準にあわせて定めなくてはならない。・・・第二に、保証所得は・・・社会の総収入が増大したら、自動的に増加するものでなければならない。・・・・
   この提案は、いま普通に使われている意味での「公民権」計画ではない。その[保証所得の]計画によれば、全貧困者の三分の二を占めている白人にも、利益を及ぼすのだ。私が黒人と白人の両方が、この変化を遂行するために連合を結んで行動するように希望する。なぜならば、実際問題として、われわれが予期しなければならない猛烈な反対にうち勝ためには、この両方の結合した力が必要になるからである。(King 1967, 邦訳pp.172-176:ただし訳文一部変更)

  そして実際、人種を横断した「貧者の行進」をワシントンで決行しようとしていた(King 1967, 邦訳p.viii)。BI要求を旗印に、黒人と他のエスニック・マイノリティ、そして白人貧困層とが手をつなぐことこそ体制の恐れるところだったということなのか、1968年4月、行進の準備中にキング牧師は凶弾に斃され、2ヵ月後遺志を継ぐ者たちの呼びかけに応えた10万人のワシントンへの結集は、非常事態宣言によって鎮圧されることとなる。

★01 アメリカの福祉権運動のBIにおける重要性について喚起してくれたのは、筆者が2005年にイギリスで開かれた「非物質的労働」をめぐる会議で、本章のアメリカ以外の部分についての報告を行った時の、アメリカからの参加者たちである。会議中の彼らとの議論から多くを教わった。この節の内容は主に、このときの教示と、Nadasen 2005とによっている。
★02 NWROやティルモンとキング牧師との間の関係については興味深いエピソードがある。キング牧師はNWROに「貧者の行進」キャンペーンに参加するよう呼び掛けたが、以前にNWROの女性のリーダーたちがキング牧師に会おうとしても断られていたという経緯もあり、キング牧師に直接NWROの会合にくることを支持の条件とした。キング牧師は実際にやってきたが、会場からの質問にほとんど答えらず、福祉の実際についてほとんど知らないことは明らかだった。ティルモンはいう。「キング博士、もし知らないのなら、知らないと言うべきです。」これに対してキング牧師は「ティルモン夫人。そうです。福祉について知りません。学びに来たのです」と答えたという(Nadasen p.71-72)。

イタリアの「女たちの闘い」とアウトノミア運動

  こうしたアメリカの動きを注視していた人物の一人に、イタリアのフェミニスト、マリアローザ・ダラ・コスタ(Mariarosa Dalla Costa)がいた。彼女がこれらの動向をどのように理論づけようとしていたかは次節でみることにして、ここでは、彼女たち自身の運動「ロッタ・フェミニスタ(Lotta Feminista:フェミニストの闘い)」やアウトノミアと呼ばれる運動がイタリアでどのような要求を出していたかをまずは追ってみよう。
  イタリアの1969年は「熱い秋」として記憶されている。550万人の労働者がこの年ストライキをし、1万3千人が逮捕され、3万5千人が解雇された★03。この年のストライキによる損失労働時間は、1968年フランスのゼネスト、1926年イギリスのゼネストに次いで史上三番目の大きさと言われている。きっかけは、1968年春の年金問題についてのデモであった。この後数年、1969年の秋(秋はイタリアでは賃金をめぐる労使交渉の時期)を大きなピークとして、工場・街頭で様々な闘争が行わる。なかでも有名なのがトリノのフィアット自動車工場の占拠である。多くの労働者は南部からの移民であり、彼らの運動に、学生や市民が工場の外から参加した。フィアットのトリノのみならず、ミラノで、ベネツィア近郊の工業地帯で、デモ、ストライキ、減産、怠業、占拠など、様々な形態をとる闘争が、既存の組合に頼らず、民主的な開かれた場での議論の結果として生み出された。こうしたゲリラ的な戦術を象徴するのが、「工場は我々のヴェトナムである」という当時のスローガンである。直接的な要求は、賃上げのような従来からの要求の場合でも、平等な賃上げ、出来高賃金への反対、経営側による恣意的なボーナス給付の拒否など、その平等主義的傾向が以前とは異なり、また経営側の経営権の拒否など、次々とこれまで労働運動があまり要求してこなかったラディカルな要求を突きつけるようになる。工場内の労使関係にとどまらない、様々なことが議論される。例えば、ミラノのシット・ジーメンス(Sit Siemensイタリアで大手の電信会社)で働く女性たちは彼女たちが1969年4月に作成したリーフレットで以下のような声をあげている。
  
  工場での8時間の労働の後に、女性たちは家で働く。夫や子どものための洗濯、アイロンがけ、針仕事。だから彼女たちは、主婦や母としてさらに搾取されている。本当の仕事と認知されることのないまま。
  
  ここでストライキが起こったとき、事務職の90パーセントが参加し、賃労働の廃絶を掲げることとなる。工場の門には「ここで自由が終わる」と書かれたという。
  イタリアの「熱い秋」をパリの五月や他の蜂起と区別するのは、運動の大衆的規模での持続性である。このため「持続する五月maggio strisciante」と呼ばれたりもする。工場での運動は比較的早期に弾圧され「正常化」されていくが、工場の外に広がった運動は1970年代後半まで続く。インフレに対抗して大衆的に行われたのが、自己値引き(autoriduzione)運動である。例えばトリノとピエモンテでは、15万世帯が、電気代を自分たちで値引きして支払った。この運動が工場の中での運動戦術の一つ、減産闘争(autoriduzione)と同じ名前で呼ばれたことは、興味深い。イタリア南部からの北部への移民労働者たちの空家占拠も行われた。占拠運動はしばしば女性たちによって担われたという。工場の外での運動は、1977年にもう一つのピークを迎えるが、アウトノミア運動の簡潔な全体像は、小倉1985などに譲ることにして、ここではBIに直接つながる要求として、以下の二つを紹介しよう。
  まずは「熱い秋」に先行した学生たちの動きから。1967年2月にピサで大学学長たちの会合が開かれたが、これに抗議する学生たちが集まり、そこで以下のような「ピサ・テーゼ」が出される。すなわち、資本主義は先進技術に基づく生産を必要としており、高等教育を学生は、そうした生産を担う、未来の労働者である。従ってもはや学生は特権的なエリートではなく、労働者階級の一員である。したがって要求すべきは「学生賃金」であると。
  パドアの『女の闘いLotta Femminile』(後に『フェミニストの闘いLotta Feminista』として知られることになる)は、「家事労働に賃金を」という要求を始める。彼女達が1971年7月に出した『地域における主婦の闘いのための綱領的宣言』を見てみよう。
  
  家事労働は資本主義社会内部に未だ存在する唯一の奴隷労働である。
  ・・・
  いわゆる「家庭内」労働が女性に「自然に」帰属する属性であるという考え方を私たち女性は拒否する。それゆえ主婦への賃金の支払いのような目標を拒否する。反対に、はっきりと言おう。家の掃除、洗濯、アイロンがけ、裁縫、料理、子どもの世話、年寄りと病人の介護、これら女性によって今まで行われてきたすべての労働は、他と同様の労働であると。これらは男性によっても女性によっても等しく担われうるし、家庭というゲットーに結び付けられる必然性はない。
  私達はまた、これらの問題(子ども、年寄り、病人)のいくつかを、国家によるゲットーを作ることで解決しようとする資本主義的あるいは改良主義的試みも拒否する。
  ・・・・
  私達の闘いの当面の目標は以下の通りである。
  (a) 家々の掃除すべては、やりたいと思う男女によって担われるべきである。そしてそれは地方自治体あるいは国によって支払われなくてはならない。・・・・
  (b) 男女とも洗濯とアイロンがけのできる、完全無料のランドリー・サービスがある社会センターを、すべての地域に作ること。
  (c) そこで働く男女が[国ないし自治体から]支払われ、食べたい人だれもが無料で食べることができる地域食堂を作ること。
  ・・・・
  女性の明確な目標を具体的に挙げたあとで、主婦としてまた賃労働者として私達は、労働者階級とプロレタリアート全体の以下の事柄を求める闘いの一翼を担う。
  (a) 生産性や労働時間とは切り離された、保障賃金
  ・・・・・
  (Movimento di Lotta Femminile, Padova 1971, イタリックは原文、傍点は著者による)
  
  ここで、保証賃金と呼ばれているものはBIに他ならない。職場での「労働の拒否」の結果としての保証賃金要求は、家庭・地域での「不払い再生産労働の拒否」の結果としての家事労働への賃金要求と結びついている。該当箇所に傍点をふったように、彼女達は当初から「主婦業への支払い」ではないことを強調していた。しかし残念ながらこの点は誤解されることが多かった★04。女性をかえって家事に縛り付けることとなるというフェミニズム内部での論争に多くの労力を割くことになる。また労働者階級に分断を持ち込む利敵行為だ、という男性中心の運動からの誹謗もあった。こうした中で、再生産にかかる費用は支払われるか、無料であるべきだ、というBIと連なる要求や、ケアに関わる労働や、ケアの受け手の生活が家庭や施設(国家によるゲットー)に閉じ込められるべきではなく、地域に開かれて行くべきだという主張は、(綱領に誤解の余地なく書かれているのだけれども残念ながら)広く理解されたとは言いがたい。しかし少なくとも、今まで労働と認知されていなかった家事労働を労働として認知させていく大きなきっかけと、彼女たちの主張がなったことだけが間違いない。
  こうして工場の中と外との運動が、連動していくなかで、「政治賃金」あるいは「社会賃金」と呼ばれる要求がでてくる。当初その意味は職場での平等な賃金しか意味しない場合もあっただろうが、工場内外の運動の連鎖のなかで、私たちが今日BIとして知っているものとなっていく。例えばアウトノミアと呼ばれる運動は「労働の拒否」を唱えつつ、社会そのものが工場と化しているとして賃労働に関係なく、「社会賃金」を支払うべきだと理論化していくことになる。

★03 Katsiaficas(1997), p.38. 以下の記述のうち事実に関する部分は同書、Lumley (1990)および前述のケンブリッジ会議での参加者からの教示による。なおイタリアのアウトノミア運動や戦闘的なフェミニスト運動は日本でも注目されてきた。小倉利丸、伊田久美子、伊藤公雄らの一連の仕事を参照。
★04 イタリアのフェミニズム思想を英語で概括できるBono and Kemp 1991は便利な本だが、彼女たちの闘いを、「家庭における女性:主婦への賃金」という章に押し込めている。

イギリスの要求者組合運動

  要求者組合(claimants union)は1968年から翌年にかけて、バーミンガムで最初に形成されたといわれている★05。ここで「要求者claimants」とは、さまざまな社会政策、福祉サービスの受給者、請求者である。老齢年金受給者、障害者、病者、公的扶助受給者、ひとり親、失業者などである。のちに学生が加わる。これらの人たちは、それまで共通の利害を持つとはみなされていなかったが、国家の社会政策、福祉サービスをめぐって、同様の要求をもっているという点で結びつこうとしたのが、要求者組合であった。
  そしてそのような「要求者」という集合概念が自明であったのではなくて、彼(女)らがそれを創り出そうとしていたことは、当時の出版物などから読みとることができる。例えば1老齢年金受給者向けのパンフレット★06の冒頭には、「あなた(がた)」や「彼(女)ら」ではなく、「われわれ」という言葉を使うことについて注意書きがあり、その「われわれ」とは老齢年金受給者のみではなく、上述したようなさまざまな集団からなる「要求者」であることが記されている。そして「われわれ」という用語法が、当局という共通の敵に直面する、全ての要求者の連帯と団結の精神を伝えることを強調している。
  そのパンフレットは性別役割分業における女性の不払い労働の問題などをとりあげながら、賃金労働と結びついた労働倫理を問題化する。この倫理は当局や社会によって押しつけられるだけでなく、当事者によっても内面化されている。そして社会保障当局の官僚的態度や、慈善団体やボランティアなどの「貧困産業」をも批判し、「要求者憲章」として、以下の4つの要求を掲げる。
  
  1.全ての人に、資力調査なしでの適切な所得への権利。
  2.全ての必需品が無料で提供され、人びとによって直接的に管理される、社会主義社会。
  3.かくしごとの廃止と完全な情報への権利。
  4.いわゆる「救済に値する者」と「値しない者」の区別の廃止。
  
  このうちの最初の要求がBIであることはいうまでもない。そしてこれはそのパンフレットの呼びかけの対象である老齢年金受給者の要求として掲げられる13項目の中でも第一のものとして挙げられている。すなわち「権利として個人に適切な所得を保障する、自由な福祉社会」★07。自由な福祉社会、社会主義社会がめざされるべき社会として提示されるが、その前提として現状の福祉国家は「不自由」なものとして、そしてその目的は「国家による管理」に他ならないと把握されている。
   さてそれではこのような要求を掲げる要求者組合はいったいどのようなものだったのだろうか。まず当事者のあいだでの議論を重視していたようである。彼(女)たちは当局によって自らの表明する必要を否定されてきていたからである。全ての要求者が参加する会議を毎週持ち、そこでは専門家による「ケースワーク」が存在しないことが強調されている。そして従来の運動が「雇用」を目標にしていたのに対して、「要求者」として尊厳のある生活をしていくことが対置される。そのような要求者組合は自然発生的に各地にでき、最盛期では120くらいあったと言われている。それらは「要求者組合全国連the national federation of claimants union」という全国組織を構成していた。しかしそれは単なるネットワークで、年4回の大会を持つものの、各組合の自律性を阻害するものではないとされていた。彼(女)らが批判する、当局や既存の運動団体の相似形となってしまうことを拒否したのである。
  1972年ごろの組合文書にBIについての記述を見つけることができるが、残念ながらこの運動のどの時点で、どのように最初にBIについて語られたかについての正確なところは明らかではない。そのかわりにとある要求者組合におけるエピソードを紹介したい。ここで取り上げるのはニュートン・アボット(Newton Abbot)というイギリス南西部の町で1971年頃結成され、1975年くらいに自然消滅した組合である。この組合は幾つかの点で典型的な要求者組合とは異なるようである。当時の多くの組合が中産階級出身者をそれなりに含んでいたのに対して、この町には大学がないということもあって、そういった階層の当事者をほとんど含んでいなかったという点。また最盛期には400人を超えたという規模の大きさの点。家庭菜園などを運営し、賃金労働を批判するだけではなく、別の仕事の形を模索した点などである★08。
  さて運動の初期のとある日、週次ミーティングで、「全てのひとにミーンズテストなしでの所得を」という他の要求者組合の主張について議論することとなった。この主張について事前に話し合った中心的活動家の数人のメンバーは、当初懐疑的であったが、話し合いの末、これは自分たちの運動に必要な主張だと考えるようになったという。それでもこの主張がメンバーに受け入れられるかどうかについては、確固たる見通しがあったわけではないという。ところが実際のミーティングでは、即座に共感をもって支持されたというのである★09。何故支持したのかについて当時のメンバーに数年前にインタビューをしたところ、病者であったり障害者であったり、失業者であるというだけで(雇用にアクセスできないというだけで)、人間としての生活を奪われることは許されないという強い信念を繰り返し語っていた★10。
  要求者組合が基本所得構想を唱えることができた一番の理由は、なんといっても「労働」からの排除という共通点を構成員がもち、しかも「労働」に従事することのできる可能性についてはバラバラであったことが上げられよう。そのため一方では従来の労働組合の反失業運動のように雇用への復帰を目標とするのではなく、また他方で社会政策の個別の領域での給付(の改善)を最終的目標とするのではなく、「普遍的な」基本所得を要求することとなったといいうるだろう★11。かれらにとって社会的な分断線は資本家と労働者のあいだ(のみ)にあるのでなく、資本家・労働者と要求者のあいだに(も)あるのである。労働者が資本家にならなくてはいけないわけではないように(「ならなくてはいけない」という言説が幅を利かせつつあるけれども)、要求者が労働者にならなくてはいけない訳でもない。
  もちろんそのような共通利害が、いいかえるなら「要求者」としての集合性が必ずしも安定的なものではなかったことは、運動のその後を見れば明らかである。ニュートン・アボットの組合は、'75年頃、比較的若い短期的失業者たちが雇用に復帰していくことによって、組合の活動的な構成員の多くを失い、自然消滅へと向かう。多くの組合は'70年代なかばから後半にかけて、消滅していったようである。なおBIの要求こそいつしか消えてしまったけれども、1980年代まで続いた組合、あるいは現在まで活動している団体、あるいは折々に新しく形成された要求者団体もある。また当時の幾つかの組合は地域における福祉権擁護団体へと変貌を遂げて今でも活動している。

★05 この節の記述は、山森(2003)、Yamamori(2006)と重なる。なおそれらの文献では資料上の制約から、要求者組合はロンドン地域で始まったとしていたが、Roger Carlingrove氏の教示によりバーミンガムの試みの方が先に始まったことを知ったので、ここで訂正したい。なおバーミンガムの要求者組合は1985年ごろまで続いたという。
★06 The National Federation of Claimants Union発行のパンフレット"Pensioners Struggle: A Handbook from the Claimants Union Movement"。発行年は1974年頃と推察できるが正確なところは不詳である。
★07 その他の項目は以下の通り。(2)仕事、給付、年金、その他いかなる点に置いても年齢や性別に基づく差別をしない。(3)稼得ルールと、国家年金への所得税の廃止。(4)退職者への、一つの普遍的な所得または年金。(5)早期退職の名の下に解雇をしない。(6)権利としての死亡手当。(7)全ての高齢者に社会サービスとしての無料の燃料の割り当て。(8)「年老いて寒いold and cold」はもうやめにしよう。(8)地方自治体の給付での資力調査の廃止。無料の旅行。老齢年金受給者のための無料の電話。無料の休日。テレビ受信料の無料化。(9)地域共同体の保健センターと、包括的な社会主義的保健サービス。私的診療の廃止。(10)無料の住宅。家賃の廃止。それを望む全ての老齢年金受給者のために特別に設計された共同体住宅。(11)慈善のための特別報酬。(12)60才での男性女性双方の選択的退職。(13)社会主義社会のための闘いにむけて行動をするための、全ての要求者と労働者の団結。そこ[社会主義社会]では生活の必需品(ひとびと自身が何が必需品かを定義する)が無料で提供され、人々によって直接に管理される。
★08 加えて当時地域のソーシャルワーカーであったB.ジョーダンさんがSecretaryとして組合に関わっていた点。この点が当事者主義を掲げる組合の理念からの逸脱であると、そして家庭菜園の運営が、労働倫理批判を掲げる組合の理念からの逸脱であると、全国大会などでは厳しく批判されたという。なおこの組合について彼の視点からの説明は、Jordan[1973]に詳しい。この本のなかにbasic incomeという言葉が数度でてくるが、実際の運動のなかでその言葉が使われたかどうかについては、本人も私がインタビューした二人の活動家も記憶していなかった。ただし二人ともその理念自体は当然のものとして主張していた。なお運動のなかではguaranteed incomeという言葉の方が多く使われていたようである。
★09 B.ジョーダンさんへのインタビューによる。仲間に受け入れられるか不安があった自分をむしろ恥じたという。
★10 夫が病者であることから組合に参加した女性や、労働災害による怪我による失業者として組合に参加した男性へのインタビューから。
★11 もちろんそのような要求を可能にした諸条件をあげることは容易い。例えば公的扶助や社会手当など国家による現金給付を受給する人口が、他の福祉国家に比べて比較的大きかったこと、'60年代末〜'70年代初頭にかけての時代の雰囲気など。South Shields Claimants Unionで1970年代活動していた Jack Grassbyによれば、ケースワークや既存のNPOの援助相談などで、個人化、客体化される状況から抜け出して、自分たちの実存を賭けた能動的な活動をしようという熱気があったという。

2 理論

  今日はここまで、運動のなかでベーシック・インカム要求が出現したことを、アメリカ、イタリア、イギリスの事例で追ってきた。このなかでやはりイタリアの事例が一番有名だろう。その理由の一つとして、1970年代に入って運動は持続するものの、イタリア以外では規模の面では小さくなっていったのに対して、イタリアでは比較的長期にわたって、体制の側から「もう一つの社会」と呼ばれるほどの規模で様々な取り組みが続いたことがあげられるだろう。そうした物質的基盤のうえに、狭義の運動と、より広範な人々の生活上の変化とを結ぶ、一貫した抵抗の論理を発見しようとする理論家たちの作業があった。

ダラコスタのアメリカ福祉権運動のユニークな解釈と「労働の二重の拒否」

  先述のダラコスタは、自ら家事労働への賃金要求やBI要求を含む、フェミニストの運動に関与すると同時に、アメリカの福祉権運動にも注目していた。イタリアにおけるその紹介が、運動の担い手が女性であることを見落としていることを指摘すると同時に、福祉権運動以前の「闘い」にも着目する。すなわち、第二次大戦後一貫して増大していく、家事代替的な市場サービスや社会サービスの展開、市場サービスの購入が標準化すればその結果生計費は増大し、それが福祉給付額をも押し上げる。また社会サービスの展開は当然のことながら財政支出を増大させる。こうした動向を、女性の「家事労働の拒否」という闘いの結果と位置づけるのである。福祉権運動におけるBI要求は、一方で行ってきた家事労働への支払い要求であると同時に、家事労働を拒否することによって標準化しつつある家事代替サービスの購入のための必要経費でもあるというのだ。このことは後述するように「社会賃金」としてのBIが生生産への支払いであると同時に、賃労働の拒否でもあるという論理に対応している。つまり賃労働の拒否と家事労働の拒否という、労働の二重の拒否の帰結として、BIがある。
  またダラコスタは自分たちの運動の「家事労働へ賃金を」というスローガンに対して、それを性別役割分業の肯定であるとか、女性の家庭外での労働を軽視しているという批判を退ける。

  家事労働への賃金要求闘争は、女たちに共通しているこの第一の労働に対して、コストを支払わせる運動であるかのように装いながら、また、各々の労働はすべて賃金労働であるのだと主張しているように装いつつ、実際には、女たちが、家庭外労働の諸条件(もし、私が、家事労働で15万リラもらっていれば、7万リラで秘書として身売りする必要はないのだ)を、そしてまた、サービスの諸条件(もし、家庭内で展開されているのが、労働の名に値するなら、私は、あらゆる労働者たちと同様、この二次的な労働との引き換えということではなく、現在行っている労働の時間を短縮し、労働の耐えがたさを軽減するためにこそ、無料のサービスを受ける権利をもつと考える)提示しうるような力を構築するための、最初の段階を作り出しているのだ(ダラコスタ 1986, p.115)。

  このように家事労働と賃金労働の双方を貫く要求として、家事労働への賃金要求があるということは、女性の賃金労働の多くは、それが女性によって担われている故に安く買いたたかれているという、世界中いたるところに存在する現実への的確な視線があるだろう★12。その点で、後に、例えば看護婦と消防士の仕事を比較し、看護婦の給料が不当に安いことを問題化していくことになる、コンパラブル・ワース(comparable worth)、同一価値労働同一賃金を求める運動の萌芽もあるいえよう★13。

★12 例えば、日本の福祉関係者向けの雑誌を紐解くと、「お母さんには休みはないのだ。施設の保母は母親の役を果たしている。だから二十四時間勤務で、休日のないのも当然だ。私は他の人達にそう話して廻っているのに何事だ」と週休を願い出た保母の願いを蹴った施設長の言葉が記録されている(後藤 1959)。
★13 この運動については、Blum (1991)参照。

ネグリの「生きていることは労働だから支払われるべきだ」という論理

  同時代の運動のなかで出てきた新しい要求を、理論化しようとした一連の人物たちのなからら、もう一人、アントニオ・ネグリ(Antonio Negri)の言い分に耳を傾けてみよう。イタリアで「もう一つの社会」としての運動が様々な取り組みを繰り広げていたころ、労働(者)のあり方が、それまでの「大衆化された労働者」から「社会化された労働者」へと変わりつつあったと彼は分析する。この変化はフォーディズムからポスト・フォーディズムへという生産様式の変化に対応している。大量生産・大量消費を特徴とするフォーディズムのもとでは、人々は工場に動員され、そこで同一のものを大量に効率的に生産するための様々な仕掛けのもとで働かされることになる。もちろん全ての人々がそうした工場に動員されるわけではないが、このような工場労働の形態が、この時期の資本主義の生産のあり方を主導するものとなる。
  このような工場労働者主体の「大衆化された労働者」というあり方も、ポスト・フォーディズムのもとで「社会化された労働者」へと変容する。生産のあり方を主導するのはもはや工場ではなく、社会全体が工場と化す。そこでは賃労働以外の、これまで労働と認知されてこなかった様々な活動も、資本によって生産に利用される。賃労働も家事労働も、賃労働者も失業者・福祉受給者もともに生産的なのであるという(Negri 1989, Hardt and Negri 2000)。
  いったいどういうことだろうか。労働はますます工場労働のような時間的・空間的に限られた形で行われるのではなく、人々のコミュニケーションを媒介する形で行われるようになる。二つの相対的に別個の動きがある。一つは一部の論者たちによって「労働の女性化」と名付けられることもある趨勢であり、ネグリと彼の共同研究者のマイケル・ハートが「情動労働」と呼ぶものである。彼らはこれを「安心感や幸福感、満足、興奮、情熱といった情動を生み出したり操作したりする労働(Hardt and Negri 2004, 邦訳p.185)」と定義している。家庭内で伝統的に女性が担ってきた、ケアなどの労働はもちろんこうした労働の一形態である。ダラコスタに従えば戦後一貫して女性たちによって担われてきた「家事労働の拒否」によって社会化した代替サービス(例えば介護労働など)ももちろんそうである。そればかりではない。サービス産業の多くの領域で、情動が労働の主要な要素として動員されている。教育の場においても「雇用可能性(Employability)」を高めると称してコミュニケーション技能に焦点が当てられたりしているのはそのことを反映しているだろう。「スマイル0円」というコマーシャルはこのような労働(と搾取)の有り様を端的に示している。もう一つは、情報化、ネットワーク化といったような言葉で表現されてきた趨勢である。ハートとネグリは「知的ないし言語的な労働(Hardt and Negri 2004, 邦訳pp.184-5)」と呼んでいる。
  こうした生産の有り様を主導する労働をイタリアの理論家たちは「非物質的労働」と名づけ、ネグリとハートもそれを踏襲している。彼らによればこうした労働は三つの特徴をもっている。第一に

  仕事時間と余暇時間との区別がどんどん曖昧になり、従来の労働日という概念が変質する。・・・生産の目的が問題の解決やアイデアまたは関係性の創出ということになると、労働時間は生活時間全体にまで拡大する。アイデアやイメージはオフィスの机に座っているときばかりでなく、シャワーを浴びたり夢を見ているときにもふと訪れるものだからだ(Hardt and Negri 2004, 邦訳p.190)。

  第二に、「情報、コミュニケーション、協働が生産の基準となり、ネットワークが組織の支配的形態となる(Hardt and Negri 2004, 邦訳p.192)」。第三に労働関係が安定した長期的雇用から、「フレキシブルで移動性が高く不安定な(同p.190)」ものとなる。
  これらから従来の労働日や労働時間で測ったような賃金形態は時代遅れのものとなる。このようにいうと「ホワイトカラー・エクゼプション」を唱える日経連のようだが、日経連は「労働の成果」を個人に帰属させることができると考えているのに対して、ネグリたちは成果は協働の結果であると捉える点が決定的に異なる。ところで、ネットワークは同質の人間だけではなく、異質の人間を結びつけるからこそ意味がある。その意味で一人ひとりの違い--ネグリたちの言葉で言えば特異性(singularities)--そのものが価値を生み出すこととなる。個人に帰属させることができるものがあるとすれば、それは分割された「成果」なるものではなく、個々人の「生」そのものである。したがってポスト・フォーディズムのもとでの支払いは「生」への支払いとなる。先述のイタリアの運動で「社会賃金」と呼ばれていたものは、このように理論付けられることとなる。現在のイタリアの運動では「市民権所得」(reddito di cittadinanza)と呼ばれ、また英語でのネグリたちの著作では保証所得と呼ばれるものは、まさしくBIに他ならない。
  ここまでのネグリ(たち)の議論が興味深いのは、一方での介護労働などの情動労働と、他方でのネットワーク型の分析・問題解決にかかわる労働を統一的に捉えようとしているところである。こうした視点を可能にしているのが、彼らの極めてユニークな主張である。すなわちこれらの労働の変容は、人々の抵抗の結果としてあるという主張である。抵抗とはダラコスタが理論化したような、日々の生活のなかでの家事労働の拒否のような、静かで持続的なものでもあり、また「社会的工場」「もう一つの社会」などと呼ばれた目に見える蜂起といってもよいような運動でもあり、また第三世界の脱植民地化闘争のような戦争など様々な形をとって現れたものでもある。これまで家庭のなかで見えなくさせられていた家事労働が「労働の拒否」によって一部市場化や社会化していくことを通じて、支払われる形態としての情動労働が増加し、また支払われない形態の情動労働も労働として顕在化する。運動のなかで構築される様々なネットワークと、そこで生み出される新しい価値が、あとから資本によって簒奪される。たしかに例えば、先述のBIを要求していく運動のなかで繰り広げられたソーシャルワーカーの恣意的な生活への介入への抵抗や福祉国家批判が、ネオリベラリズムに流用・簒奪されてしまったこと、ベトナム反戦という連帯の想像力とネットワークが、世銀やIMFといった国際機関の力を背景にした先進国に都合のよい市場構造の押し付けに先行したということ、などは思い出し記憶しておいてもよい。
  なお「非物質的労働」という概念に関連して注意すべきことが二つある。第一に「非物質的」というのは、労働そのものが非物質的だということではなく、その生産物が非物質的だという意味である。サービス、文化的生産物、知識、コミュニケーションなどである。第二に、全ての労働が非物質的労働になるとネグリは言っているわけではない。すべての労働が工場労働になったわけではなく、工場労働の形態が支配的傾向として他の労働形態に影響を与えていたように、現在は非物質的労働が支配的傾向となり、その他の労働形態にも影響を与えているということである(Hardt and Negri 2004, 邦訳pp.186-7)。たとえば解体などの物質的労働を考えてみよう。今も昔も日雇いという形での就労はそうした仕事では一般的である。一昔前であれば、山谷、釜が崎といった寄せ場がそうした就労形態の大都市における主要な労働市場として機能していた。労働者たちはそうした地域のドヤと呼ばれる簡易宿泊所に寝泊まりし、早朝路上で人夫出し業者と労働者が相対した。現在では、日雇いといえども、派遣会社に携帯電話から登録したり、あるいはネットカフェなどでインターネットを通じて翌日の仕事を探したりしなくてはならなくなってきている。こうした情報化の傾向は、一方で資本の側に労働者の選別をより容易にする(現在時点での寄せ場と携帯・ネット派遣を比べた場合、寄せ場の方が選別がきついかも知れないが、これは後者の拡大などによる前者の労働市場の縮小という別の条件が働いていよう。)が、他方で反撃の潜在的条件も高まる。日雇いにおける賃金ピンハネは昔から続いているが、人夫出し業者によるピンハネに比べて、派遣会社によるデータ装備費などの名目でのピンハネの方が、データとして残っている分、反撃の条件は整備されつつあると言えるかもしれない。
  なおネグリはハートとの共著『帝国』と『マルチチュード』のなかで、「マルチチュード (the multitude)」について語っている。このマルチチュードとは、先述の「社会化された労働者」を人々の違いに焦点を当てて再概念化したものに他ならない。『帝国』において「グローバルなマルチチュードのための政治綱領」として3つの要求が掲げられている。第一の要求が「グローバルな市民権」であり、第二の要求が「社会的賃金と全ての人への保証所得」」★14で、第三のそれが「再領有への権利」である。フレキシブルで移動を伴う不安定な働き方で、労働力移動が促進されている現実を踏まえ、真に移動の自由が認められるべきだとする第一の要求、労働形態の変化に伴う新しい支払形態としてのBIを求める第二の要求、協働の結果である非物質的生産物から、知的所有権などの形で生産者である私たちが阻害されてしまうことを阻止するための第三の要求。これらはなにか革命的なもの、だいそれたものとして提起されているのではなく、当り前の、私たちが真っ当な生を営むための前提条件として要求されている。

★14 a social wage and a guaranteed income for all (p.403)。邦訳では保証所得ではなく、保証賃金となっている(邦訳p.500)。

3 青い芝の会:日本の障害者運動

  以上見てきたように、BIを主張したイタリアのアウトノミア運動の背景にあったのは、ネグリの理論化に従えば、「いまや生きていること自体が労働だ」、あるいはより端的に「生きること自体が報酬の対象になる(Negri 2002,邦訳p.82)」という主張ということになる。じつは日本でも同様の主張があった。ちょうどイタリアやイギリス、アメリカでBIを要求する運動が盛り上がりを見せていた頃である。
  「青い芝の会」という1957年にできた脳性マヒ者たちの団体は、1970年ごろから運動団体としての性格を強くもち、健全者中心の社会に対して様々な問題提起を行っていく(横塚1981, 立岩 1998)。今でもその会に集う障害者たちがおり、筆者も1990年代に、「寝返り打つのも労働だ」という声を青い芝の会の周辺で耳にした覚えがある。彼ら彼女らの運動について、社会福祉学においては否定的に言及されるか黙殺されることが多かったが、いまでは当事者の声も、インターネットなどを通じてアクセスしやすくなっているし、当事者がおおく参加する障害学会なども産声を上げている。だから運動の詳細についてはぜひそうした声や学問の成果に直接あたってもらうことにして、以下では、1972年の大阪青い芝の会の会報から、今日のこれまでの議論に関連する個所を紹介することにしよう★15。

  ・・・・
  今まで、障害者は働く事は良い事なのだ。働けない事はいけない事なのだ、と教えられ、重度のものは、それゆえ、人間の生活のない施設に送りこまれてもあきらめて一生をそこで過ごしていました。また、働ける障害者は、どのような事業所、授産所、福祉工場でもおどろく程の低賃金で働かされています。・・・私達は、人間の本当の価値を創り出す事が、障害者にとっての労働であると考えます。
  ・・・・
  事あるごとに「働く事はいいことなのだ。働く所がなければ授産所へ行ってでも働け」と言われ続け(授産所で働き過ぎて死んだ兄弟を、私達は多く知っています)、街を歩けば「どこの施設から逃げてきたのだ」と言葉をかけられるこの現実を私達は拒否します。そのために、私達は、私達自身の手による生活拠点を作ろうと考えつきました。他人に管理されるのではなく、自らを自らで生活管理する、日常の生活地区に私達の自立生活を打ちたてるのです。
  ・・・・
  障害者は、日本労働市場の賃金体系からのけものにされ、その事を実証として、労働者の安い賃金が維持されているのです。したがって、生活保護費が最賃制をこえる時、日本の賃金、通貨体系は根本からひっくりかえるのです。・・・私達は、今、私達自身の価値観を生み出しつつあります。それは、逆説的であれ、労働、働く事に対する私達の疑問の提出であり、障害者であってなにが悪いのか、と問う事にあるのです。
  ・・・・
  「福祉国家」日本は、・・・養護学校、施設、コロニー増設等を、「善悪」の名でかざりたて、親のしんどさをたくみに利用し、実は障害者自らの本当の想いを、命を、闇から闇へ葬り去ろうとしています。私達は、こう考えます。障害者にとっての労働とは、即、生きていくことであり、即、社会性であり、即、自立であると。
  ・・・・
  私達は、何か特殊な要求をしているのではありません。私達にかけられてくる差別によって生ずる苦悩は普遍的なものであるがゆえに、私達の要求が普遍的性格を持ち、なにか特殊な不正をこうむっているのではなく、不正そのものをこうむっているために、どんな特殊な要求もしない。・・・・労働に対する考え方をかえる。障害者は、まず、自立を前提として労働を考える。従来は、労働と賃金を同一視して考えられていたが、私達は、生きる事を尺度として労働を福祉工場内で働く、健全者、障害者を同一賃金とし、たらざる所を行政に保障させつつ、そこに働く者の、おのおのの立場を共同して確認し、相互の価値にめざめ、新しい労働意識を創りだしていく。
  ・・・・

  直接BIが主張されたわけではない。ただここで展開された思想は、ネグリたちの思想や、BIを要求していく運動の論理と親近性をもっている。瓜二つといってもよいかもしれない。日本のアウトノミア、日本の要求者組合は確かにあったのだ。逆にアウトノミアや要求者組合において、青い芝が唱えたような要求との普遍的共通性はべつにして、障害者という特異性がどこまで踏まえられていたかは怪しい★16。むしろアウトノミアや要求者組合は青い芝への途上だといっても良いのかもしれない。とはいえここではさらに二点ほど、興味深い類似性を駆け足でみておこう。
  一つは、イギリスの要求者組合と青い芝の会の、現代における賃金労働(者)の占める位置についての認識の共通性である。横塚晃一は、大仏空★17から受け継いだものとして、親鸞の悪人正機説のユニークな解釈について語っている。悪人正機、すなわち「悪人こそまず救われるべきである」というのは、仏教の教えるところの善い行いに集中できる物理的な基盤を持つ支配層の人々ではなく、生きるために殺生を行わざるを得ない労働貧民こそ救われるべきであるという意味である。そして現代において、「善い行いとは究極のところよく働くことだ」とされている。そうした善い行いから排除された人々、すなわち障害者こそ救われるべきではないのか、というわけである(横塚 1981, pp.93-94)。ながい歴史の中で、虐げられ、逆に言えば社会を変革する主体として期待されてきた、労働者階級の位置に今いるのは、いまや労働者階級ではなくて要求者階級である、と考えたのが、イギリスの要求者組合であった。社会運動のなかで、ともすれば労働中心主義的な世界観で不可視のものとされて主体としては排除されがちであった「働かざる者たち」を、再度主体として位置づけなおそうしたのが、横塚の議論であり、要求者組合の議論であったといえるだろう。
  もう一つは、イタリアのBIを唱えたフェミニズム運動と、青い芝の会との類似性である。先に引用した「パドア女たちの闘い」の綱領にある、家庭というゲットーの拒否と国家ゲットーの拒否とは、まさしく青い芝の会の綱領の有名な一節、すなわち「愛と正義を否定する」と呼応しているという点である。彼女たちのクレジットには年寄りや病者はいても、障害者はいない。この点は踏まえたうえでなお、介護関係を理由として、介護を受ける者たちの生活が、家庭や施設に閉じ込められてならない、という彼女たちの発想と青い芝の会の綱領との呼応関係には目をみはらざるを得ない。なお10年近くの後、イタリアの運動は精神病棟の解体に成功する。

  1968年前後の「熱い季節」の中で具体的に要求されたことの多くは、現実はともかく、少なくとも理念においては常識となりつつある。男女や人種の平等しかり。まともな労働への権利しかり。そうしたなかでBIの主張は、(少なくとも日本では)いまだ理念の上でも常識になり損ねているように思われる。今こそ忘れ物を取りに行く時ではないだろうか。

★15 以下の引用いずれも、関西青い芝(1975)より。ただしインターネットに再録する際の誤変換と思われるものは修正した。なお下線は筆者による。なお筆者は青い芝の会で日本の障害者運動が代表されるというつもりはない。同様にNWROがアメリカの福祉権運動を代表しているとか(そう思う人は多いだろうけれども)、要求者組合がイギリスの福祉権運動を代表しているとか(そう思う人はほとんどいないだろうけれども)、「ロッタ・フェミニスタ」がイタリアのフェミニスト運動を代表しているとか(激しく反発する人もいるだろうけれども)いうつもりもない。これらの運動がBIとのかかわりで(少なくとも筆者にとっては)重要であり、また相互に関連性を持っているということを論じているつもりである。
★16 Newton-Abbot Claimants UnionのBill Jordan、Birmingham Claimants UnionのRoger Carlingroveの証言によれば、障害者の組合員もいたという。ここで怪しいといっているのは障害者の参加が無かったということではなく、例えば同じ組合でジェンダーの問題が真剣に取り上げられたように、障害の問題が取り上げられただろうか、という疑問である。
★17 横塚や大仏について、様々な文献があるだろうが、さしあたり倉本 1997.

【補論】「リバタリアン・バージョンvs.アウトノミア・バージョン?」

  BIは通常(1)一律の額を給付。(2)賃労働をしている場合、その賃金は上積みされることになる。だがネグリの正当化を字義通りに受け取った場合、違う絵が見えてくる。どういうことか。
  第一に、BIが生きていることそれ自体への支払いであれば、生きるための費用を弁済するものでなくてはならない。生きるのにかかるお金が人によって異なるなら(現状はそうだ)、支払われる金額も異なることになるのではないか? 第二に、成果を個人に帰属させることができ、また労働量を時間を尺度として測ることができることを前提とした賃金という支払い形態が妥当性を失うことで、代わりにBIが出てきたのだとすれば、BIと賃金を二重取りすることにはならないのではないか? 
  具体的に考えてみよう。仮に通常のBI理解をリバタリアン・バージョン(とし、ここでネグリの読みから提示されるBI理解をアウトノミア・バージョンと呼ぼう。どちらの場合でも最終的な所得は人によって異なりうる。仮に、多くの障害者に公的給付以外の所得を得る手段をほとんど閉ざしている今と同じような仮想社会を想定しよう。そうした障害者で賃金収入0円のAさん、健常者で賃金収入20万円のBさんがいるとしよう。リバタリアン・バージョンの場合、仮にBIの支給額を10万とすれば、実際の所得はAさんで10万円、Bさんで30万円となる。ヴァン・パレースらの分析哲学者の議論や、多くの経済学者たちの議論では、これでよい、ということになる。アウトノミア・バージョンでは、賃金収入はない。Aさんの生活には30万円かかり、Bさんの場合20万円だとすると、そのそれぞれの額がBIとして支給される。リバタリアン・バージョンでは賃金所得によって最終所得に違いが生じるのに対して、アウトノミア・バージョンでは「各人の必要に応じて」違いが生じる。
  ネグリの仲間たちの経済学者たちも、近年BIについて彼らの理論的な議論を展開しだしているが、彼らの多くの議論はリバタリアン・バージョンである。賃金がなくなるべきかどうかについては、そこまでネグリの議論を字義通りに受け取らなくてはいけないこともないかもしれないが、BIそのものが必要に応じる、というのは、BIが今日扱ったような運動の中からでてきたという側面を踏まえた場合、捨てられないのではないかと思う。1970年代のイギリスやイタリア、アメリカの運動で、この問題がどのように扱われていたかは一言では言えない。アメリカの場合であれば、障害者たちは「救済に値するもの」として、福祉権運動に結集した人たちより上位にいたと考えられていた(実際はともかく)。イギリスの要求者組合は、障害者の仲間もいたが、運動の中心だったわけではない。一方で必要が人それぞれ違うということは要求のなかででてくるが、他方で漠然と必要の平等を仮定していたようなところもある。こうした要求を素直に読むと、もっとも必要を満たすためにお金がかかる者の必要額にあわせて、BIの額が決まるという考え方もあるだろう。イタリアのアウトノミアの議論にもそうした方向性に読める内容もある。
  ところで、必要に応じてBIの額が変わるとして、だからといってソーシャル・ワーカーに恣意的な裁定者になってもらわなくてよいだろう。当事者たちの合議にそれを任せればよいのである。たとえば自立生活センターのような場で、障害者の必要が議論されるというのはどうだろうか。もちろんBIはあくまで一律で設定し、それで満たされない必要については別立てで、という考え方もあろう。これはBIという言葉をどう定義するかという問題に過ぎない。この場合でも、その別立ての仕組みでは、必要を決めるのがソーシャル・ワーカーなり国であってはならない。
  いずれにしてもアウトノミアなどの運動と青い芝の同時代性と共通の質に着目した上で、それぞれの特異性から出てきた大事な主張を、相互に共有することで運動の経験を豊富化していくという方向こそ、今の時点で数十年前の運動を振り返ることを意義あるものとする方向だろう。そうであるなら、障害者の必要を満たすものでなくては、あるいは所得の面で健全者と比較して障害者を不当に罰するようなBI(あるいはBIをその一部とする社会政策)なら、それを主張する意味はない。
  
参考文献

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横塚晃一 (1981)『母よ!殺すな(増補版)』,すずさわ書店

謝辞
  イギリスの要求者組合について、Roger Carlingrove (Birmingham), Jack Grassby (South Shields), Thomas Ashton(Liverpool), Bill Jordan (Newton-Abbot) や、ここで名前を挙げることが出来ない幾人かの元組合メンバーたちとのインタビューから、多くを得ている。彼ら彼女らからの励ましなくして本稿が書かれることはなかった。また参考資料の収集に際して、小林勇人さん、村上慎司さん(ともに立命館大学)にはお世話になった。ともにここに記して謝意を表したい。


UP:20070902 REV:20070912
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