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自由で幸福なALS療養者を支える経済と倫理

下地 真樹・川口 有美子 20070916-17
障害学会第4回大会 於:立命館大学

last update: 20151224

◆要旨
◆報告原稿

■要旨

 2006年3月、射水市民病院での呼吸器取り外し事件発覚以来、治療停止を巡る議論が活発になっている。しかし、治療停止を不可避の前提とした議論ばかりが先行し、患者の生を支えるための議論がきちんとなされているとは言いがたい。この現状はひとえに、困難な生の中にも肯定的なもの──自由と幸福──がきちんと存在していることを見落としている、そこから目を背けていることに起因する。本報告はこの現状を批判し、これら肯定的なものを事実として示し、それを支える経済的条件を測り、それを支える倫理を記述する。
 ALS療養者の生が直面する困難=制約を、概念として、次のように分類してみる。
 (1)身体的制約:資源を投下してもQOLを高められない、あるいは下がる。
 (2)資源的制約:資源を投下すればQOLは高まるが、資源を投下することができない。
 (3)社会的制約:資源を投下すればQOLは高まり、資源を投下することもできるが、なされない。
 たとえば、「治療をする意味がない」、「本人にとって苦痛である」(以上(1)に該当)、「経済的負担に耐えられない」、「家族も共倒れになる」、「政府にも財源がない」(以上(2)に該当)といったことが言われる。このような考え方においては、治療停止は不可避の前提であり、後はその合法化やガイドライン策定の議論だけが残されることになる。しかし、私たちは(1)は少なくとも一方的、(2)は不十分な議論であり、実際には(3)であると主張する。このことは、治療停止は不可避の前提ではなく、それ自体の是非を問われるべき問題であることを含意する。
 まず、(1)への反論としてALSを取り上げ、自由で幸福なALS療養者の存在を実証する。確かにALS療養者の生は困難に満ちているが、それでも適切な時期に必要な資源を投下すれば、ある程度のQOLを長く安定的に保持することができ、その中で自らの生を再び肯定できることを日本のALS患者は証明してきた。つまり、(1)は正当化できないことが示される。
 次に、(2)への反論が述べられる。第一に、成功した医療・介助供給システムとして「さくらモデル」を紹介し、その特徴を整理する。本モデルは、「当事者主体」という意味で障害者の自立生活運動に似た面を持つと同時に、医療の役割が大きいことから医療・介助分業、インフォームド・コンセントのプロセスなどの面で、独自の側面をも持っている。第二に、同モデルに即して、どれほどの医療・介助資源が必要とされるかを推計する。推計にあたり、家族介助は前提としない、もしくは、家族介助と有償介助を同等の負担として扱う。以上のことから、こうした具体的推計なしに(2)が主張されている現状が少なくとも批判されるべきであり、その意味で従来の議論に不備があることを指摘する。
 以上のことから、現状は(1)でも(2)でもなく(3)であり、その意味では治療停止は必ずしも必要ない。その認識の下に、ALS療養者を対等の人間とみなすならば、現状は変えられるべき、つまり、ALS療養者の生を支える経済のあり方が追求されるべきであると主張する。
 この点に関連し、ALS療養者のための再分配を行う/行わない経済の間での社会的選択が、「効率性か公平性か」という形で立てられることを批判する。しばしば、ALS療養者のための再分配は、公平性の観点から評価されるとしても、効率性の観点から見ればマイナスである、といった前提が置かれる。しかし、効率性とは、達成されるべき目標が定まり、その目標をよりよく達成する手段を選ぶ際に問題になることである。その意味で、ALS療養者の生を支えることが目標にされ、それを実現する様々な手法の中で「より効率的な手段」が探求される、という関係にあるはずである。ALS療養者を支える/支えない経済は、そもそも目的において異なる経済であり、両者は効率性という観点から比較可能ではない。その意味で、この両者の間の社会的選択は純粋に倫理的な判断=価値判断であり、効率性の問題ではないと言うことができる。


 
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■報告原稿

報告   「自由で幸福なALS療養者を支える経済と倫理」
氏名   下地真樹★、川口有美子 (報告担当は★)
所属   阪南大学経済学部、NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会

【本論】自由で幸福なALS療養者を支える経済と倫理
1 ALS療養者の生を否定する言説
2 資源を投下すればQOLは高められる
3 資源を投下することは社会的に可能である
4 再分配は非効率性をもたらすか

【付録】再分配の経済学

◆参考文献
(1)山崎摩耶, 2006, 『マドンナの首飾り 橋本みさお ALSという生き方』中央法規出版
(2)「生きる力」編集員会, 2006, 『生きる力  神経難病ALS患者たちからのメッセージ』岩波書店
(3)日本ALS協会編, 2005, 『新ALSケアブック』川島書店
(4)下地真樹, 2007, 「介護の社会的総費用を試算する(仮題)」未発表
(5)川口有美子, 2007,「看護/介護/患者の経済事情の国際比較、ALS在宅療養の在り方を決める政治と経済」『難病と在宅ケア』Vol.13 No.7,日本プランニングセンター
(6)堀田義太郎, 2007,「国際的に見た人工呼吸治療の事情」『難病と在宅ケア』Vol.13 N0.7 日本プランニングセンター
(7)川口有美子, 2005,「決められない人のそばに佇んで」、立岩真也編、『生存の争い――のために・1』,90-103、http://www.arsvi.com/b2000/0504ts.htmで販売
(8)J.E.スティグリッツ, C.E.ウォルシュ, 訳=藪下史郎他, 2005, 『スティグリッツ 入門経済学』東洋経済新報社

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【本論】

◆自由で幸福なALS療養者を支える経済と倫理を支える経済と倫理

◇1 ALS療養者の生を否定する言説

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)とは、発症すると随意運動系を中心に障害が進み、呼吸筋麻痺を含むさまざまな機能の低下・喪失を経験する病気である。かつては、呼吸筋麻痺=死とされ、「発症すれば予後は短い」と思い込まれてきた。未だに、そのように思われているところもある。しかし、人工呼吸器の使用を含む十分なケア体制が整えられれば、長期療養が可能であることが次第に明らかになってきた。実際に、そのようにして十何年も生き続けるALS療養者が登場してきたからである。
 このことによるALSイメージの変容、「呼吸筋麻痺=死」から「人工呼吸器による長期療養」へという変容は、決定的である。生き続けることが以前は不可能であったことが、現在は可能だということが分かったからである。つまり、ALS療養者は呼吸不全と全身性麻痺によって生じる障害に適切に対処することにより、自由で幸福に生きることが可能である。しかし、依然として、ALSを取り巻く状況は困難を極め、その生の可能性が十分に追求されているとは言いがたい。
 現代社会においてある個人が生存するためには、その人が持つ労働ないし資本といった生産要素を市場に提供し、その対価として得られる賃金ないし利子・配当等を予算として、その範囲内で必要な財やサービスを調達することによって可能となる。このことは言い換えれば、市場に供する資源を持たない個人は生きることが可能ではない、ということを意味する。重度の障害や難病を抱える者たちは、このシステムの中では生きることが可能ではない。(文献(5)(6))
 すべての人に生きる権利がある、という規範を私たちが持っており、そこに実質を与えようと思うならば、すべての人に生きるために必要な資源が分配されなければならない。市場における生産要素提供を通じて得られるもので足りないならば、十分以上に持っている人から一部を取り上げ、足りない人に分配するしくみ(再分配システム)が必要である。
 ALSへの再分配を拒む言説は、大きく3種類に分けることができる。
 (A)身体的制約:資源を投下してもQOLを高められない、あるいは下がる。
 (B)資源的制約:資源を投下すればQOLは高まるが、資源を投下することができない。
 (C)社会的制約:資源を投下すればQOLは高まり、資源を投下することもできるが、しない。
 たとえば、「治療をする意味がない」、「本人にとって苦痛である」(以上(A)に該当)、「経済的負担に耐えられない」、「家族も共倒れになる」、「政府にも財源がない」(以上(B)に該当)といったことが言われる。このような考え方においては、治療停止は不可避の前提であり、後はその合法化やガイドライン策定の議論だけが残されることになる。つまり、ALSへの再分配は、「仕方なしに」拒まれている、という構図になっており、私たちの意思によって「できるがしない」という構図((C))は、巧妙に回避されている。しかし、私たちは(A)は少なくとも一方的、(B)は不十分な議論であり、実際には(C)であり、それは乗り越えられるべきである、と主張する。

◇1.2 資源を投下すれば、QOLを高められる(Aの否定)

 実際に生きている人がおり、その人たちがどのように生きているかを観察してみればよい(参考文献(1)、(2)等多数)。ALS療養者が自由で幸福に生きるためには、十二分なケアの確保が必要である。これは大きく医療的ケア(呼吸器・胃ろうのケア)と日常生活支援に分けられるが(ALS療養者のケアについては、(3)(7))、逆に言えば、それがあれば可能である。
 ただし、ALSに即して考える場合、少なくとも症状のよって本人と他者の主観的QOL評価はまったく違ってくる。たとえば、重度コミュニケーション障害に陥り、意思伝達が非常に困難になる場合がある。とくに、それは、Totally Locked in State,トータリー・ロックトイン・ステイト(TLS)と呼ばれ、第三者との(随意的な)コミュニケーションがまったくとれなくなる状況で、ALSにおいては長期人工呼吸療法で稀に見られる症状ではあるが、その発症率は調査者により、かなりの誤差が生じている。(1%以下から30%まで)意思伝達できるか否かは、介護者と調査者の評価によるためにこのような誤差が生じるのである。
 TLSについては、少し話は難しい。ただし、遷延性意識障害の状態から復帰した人がその状況を振り返ったときに、必ずしも死にたいと願うわけではない。むしろ、延命を停止しようとする周囲の相談を耳にして「殺さないでくれ」と感じていた、といったケースなどはある。このように、意思伝達ができないといっても、聴覚は衰えることがないために、発信はできなくても受信はできている。ゆえに、Totally=完全なる、Locked in=閉じ込め状態などという状態は、聴覚や触覚により、外部刺激の受信が可能な植物状態やALSでは存在しないといえる。
 よって、生死について言うならば、そのように生きている状態における、本人の主観的なQOLが(そこで他者により想定される)死を常に下回ると言いうる根拠はなく、最低でも「本人はどう思っているのかは、分からない」と言っておくべきである。
 その上で、死なせないで生きているならば、衛生状態、栄養状態を保ち、周囲に人がいるなど人の存在による刺激がある状態を保つことは、その人のQOLを高める蓋然性がある。ここまでは言える。だとすれば、資源を投下して、生かし、そのQOLを高めることは可能である。
 あらためて強調しておきたいが、意識障害ないしコミュニケーション障害下にいる人たち(そのように第三者から見られている人たち)にも主観的なQOLはあり、さまざまな快適さや不快さを感じてもいる(それが定かではない人もいるが、感じていない、とは少なくても言えない)。よって、そのような状況においても、生き続けること、すなわち生存を前提にしたQOLについて議論することは十分意味があるし、その人が生きている以上は、本人の自己責任において、改善不可能な環境に対しても、十分なケアによってQOLは高めようと考える蓋然性が、その人の他者である私たちにある。
 関連して、「私だったら耐えられない」、「私だったら死なせて欲しい」という言説がなされることがある。これはつまり、「私に限定して言えば」、資源の投下がQOLを高めることはできない、という主張である。この主張自体は認めてもよい。しかし、この主張は「資源を投下することで、QOLを高めることが可能である」という命題と矛盾しない。どちらも全称命題ではないからである。よって、「耐えられない」人が存在するとしても、「耐えられる」ことを前提に資源を投下する制度を用意することは、「耐えられる」人には必要だし、そこでQOLを高めることも可能なのだから、それをしない理由にはならない。

◇1.3 資源を投下することは社会的に可能である(Bの否定)

 しばしば言われることとして、「政府は赤字を多く抱えており、財源がない」ということが言われる。しかし、これはほとんど何を言ったことにもならない。政府が税金を取り、それを何らかの目的で支出する。これはつまり、第一に、税によって他の目的に使用されたであろう生産要素を減らし、第二に、政府支出によって集めた生産要素をそれ以外の目的に使用する、ということである。現に存在している生産要素の総量(日本社会全体で保有する労働と資本の総量)を何に使うか、という問題である。
 介護(および呼吸器や胃ろうのケアなどの日常的医療ケア)に必要な資源は、そのほとんどが労働力である。よって、日本全体の労働力人口(実際に賃労働に従事していないが働ける人も含めるならば、20〜60歳人口あたりが適当か)のうち、どの程度の数の人々が介護労働に従事すれば足りるのか、ということを考える必要がある。
 少なくとも、ALSのように、いずれ人工呼吸療法が必要になる療養者に限るならば、その総数は知れており、その生を支えるために必要な労働力の総計は、日本社会全体の労働力総量からすれば微々たるものである。ゆえに、その生を支えることは十二分に可能である。しかし、当然のことながら、このような分析においてはALS療養者だけでなく、介護を必要とする障害者・老人等々全部をまとめて、介護産業全体としてどの程度の規模が必要か、ということを考えなければならない。
 現在進めている試算においては(文献(4))、日本社会の20歳以上60歳以下人口が6950万人であり、年1800時間労働(現在の年間労働時間の平均)で換算して、約1200万人程度が介護に従事すれば可能である。だいたい全体の17.5%ということになる。必要介護量をかなり大ざっぱに(多めに)見積もっていることもあり、また、すべてマンツーマンの介護を前提としており、家族介護もすべて計算に入れてのことなので、多いと見るべきか少ないと見るべきかは、分からない。信頼できる数値とするためには、まだ細部の検討が必要である。
 いずれにせよ、「財源がない」といった雑駁な議論では何も言えない、ということである。20歳以上60歳以下人口のすべての17.5%ということは、介護というものはかなり大きな産業であり、その産業の取り扱い方を大きく変更するのであれば(介護の社会化、市場化)、少なくとも上記のような観点での分析が必要だ、ということである。

◇1.4 ALS療養者の生を支えることは非効率的か

 ALS療養者(も含めた障害者等々)の生は、十分な資源を投下すれば可能であるし、じゅうぶんに満足しうるものともなりうる。そして、そのために必要な資源を社会全体で負担する可能性も十分あり、それは試されていい。そのためには、十分以上にあるところから取り、ALS療養者ら足りない人のところへ再分配する、というしくみが必要である。
 続いて、本報告の後半では、再分配にまつわる問題を、経済学的に整理する。再分配とは、つまりは課税と給付をあわせて行うことであるが、そのプロセスにおいては経済の非効率化が免れない、とされる。そこで再分配はほとんど常に、「効率性か公平性か」という形で立てられる。つまり、公平性の観点から評価されるとしても、効率性の観点から見ればマイナスである、といった前提の元に語られる。しかし、その前提はどこまで妥当だろうか。以下、付録において再分配を行う経済が抱える非効率性とはどのようなものかを整理し、そこに別様の意味づけの可能性を指摘する。この指摘が妥当であるならば、再分配の問題は純粋に倫理的な判断=価値判断であり、公平性と効率性のトレード・オフは問題とはならない、ということができる。


【付録】

◆再分配の経済学(報告用草稿)

◇目次
1 市場メカニズムの効率性
  1.1 概念整理
  1.2 価格調整メカニズムの効率性
  1.3 市場が達成できていないもの

2 課税と給付と効率性
  2.1 労働−余暇の選択問題
  2.2 公害が存在する場合の最適生産量の選択問題
  2.3 再分配の非効率性
  2.4 非効率性の再検討

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◇1 市場メカニズムの効率性

◇1.1 概念整理

 私たちは、財やサービスを求め、それらを利用して生きている。それらを利用しなければ生きていけない。ここで、私たちと財やサービスの間にある関係の全体を経済と呼ぶことにする。経済には単純なものから複雑なものまでさまざまにあり、たとえば、狩猟採集経済のように、単に、私たちの生活の外に広がる世界から、必要な財やサービスを取得するというだけの経済もある。
 それに対して、私たちの生きている現代社会はずっと複雑なしくみを持ってはいる。けれども、基本的には「私たちの生活の外に広がる世界から、必要な財やサービスを取得する」ことには変わりはない。たとえば、私たちの生活の外に広がる世界にでかけ、そこで土地を耕し、そこに作物を育て、収穫し、それを別の誰かのところまで運び、それぞれの作物が誰かの手に渡っていって、それぞれの生活の中で消費される。以上の無数のプロセスのさまざまな段階があるが、その基本型は同じである。
 その上で、現代社会における経済の際立った特徴は、その無数のプロセスの多くで、貨幣を用いた取引が行なわれることである。私たちが現に生きている経済を考えるためには、貨幣を用いた取引、とりわけその中で重要なメディアとして機能している価格というものの役割を考えておかなければならない。
 以下、準備として、経済を構造的に把握するための語句をラフに整理しておく。まず、全体の経済を指す言葉として、「経済」という語を使う。ただし、ここでは世界経済のようなものではなく、日本経済のような一国経済を考える。ある程度実態に即した独立性を持っているため、この簡単化は許容されると考えられる。その経済全体は、貨幣との交換で財やサービスが流通する領域(市場経済)とそうではない領域(非市場経済)に分けられる。
 非市場経済とは、ある程度曖昧なものである。季節ごとに商品を贈り合うといった習慣は、貨幣を用いないある意味での交換とも言えるし、しかし、交換と言い切ってしまうのも変な気がする。また、家事労働なども、たとえば家族のための家事労働は、家族の得てくる収入との交換として捉えることも可能ではあり、その点もある程度曖昧さを残している。
 市場経済は、フォーマルな商品経済の領域であるが、生産・分配・消費という経済循環を考慮するとき、市場経済とは、生産物市場全体と等価であり、生産要素市場全体と等価である(たとえば、マクロ経済学における三面等価の原理)。表面的には、ある商品の市場と、その商品を作る労働力や資本を取引する市場はまったく別物に見えるところもあるが、生産物市場と生産要素市場は川の上流と下流のようなものである。だから、生産物市場だけを扱う、あるいは生産要素市場だけを扱う、という場合にも、それは市場経済の「全体」として捉えることができる。これに対して、たとえば労働市場とか資本市場のような「個別の」生産要素市場、米市場や書籍市場のような「個別の」生産物市場は、市場経済の「部分」として捉えられる。
 以上、経済全体、それを分割したところの市場経済と非市場経済、市場経済全体としての生産物市場・生産要素市場、市場経済の部分としての個別生産物・個別生産要素市場の包含関係・相補関係を整理した。

◇1.2 価格調整メカニズムの効率性

 さて、市場は効率的だ、と言われる。そこで鍵となるのは、価格情報の働きである。ここでは、その意味を直感的に確認しておこう。
 交換において、私たちは、手放すものと獲得するものを比較した上で、獲得するものの方がより望ましいならば交換を実行する。市場における交換では、「手に入れる財」と「手放す貨幣」を比較することになる。手放す貨幣の量は、つまり、その財の価格ということになる。価格が高ければ、手放すものが大きく、価格が低ければ、手放すものは小さい。価格は低いほど、買い手は嬉しいし、より多く入手しようとする。
 では、そもそも価格とはどのように決まるのか。需要と供給の関係によって決まる、とされている。つまり、欲しい人が多ければ多いほど、価格は高くなる(需要が多いほど、価格は高い)。また、市場に提供される量が少なければ少ないほど、価格は高くなる(供給が少ないほど、価格は高い)。
 ここで、次のような状況を考えよう。あるとき、例年より強い日照りの影響で、水不足が生じたとする。水の供給が減った、ということになる。すると、人々が以前と同じくらい水を需要しているとすれば(他の条件が同じであるならば)、水の供給減少を反映して、水の価格は上がる。当然、水を必要とする人々は困るわけだが、しかし、水の価格高騰に直面して、さまざまなことを考えるはずだ。第一に、水の利用を節約する、ということが行なわれる。第二に、新たな水源の捜索に乗り出すことになる。第三に、水の再利用方法を考案するといったことが行なわれる。などなど。
 第一から第三、そして他にもいろいろありうる人々の行動には、それぞれ、さまざまな費用がかかる。水の利用を節約するためには、日々の水の利用にもっと多くの神経を使い、無駄があればそれを減らすように工夫をする。水資源の捜索であれ、再利用であれ、そこには追加的な資源を投入することが行なわれる。これはつまり、水資源を、水以外の資源で代替することを意味する。
 以上の現象を、一歩引いたところから、遠景として眺めてみよう。私たちの社会全体は、その外に広がる世界に直面しつつ、その中で可能な体系として成立する。水が希少な世界で、水をじゃぶじゃぶと無駄遣いする経済を成り立たせることはできない。広がる世界を前提条件として、成立可能な経済が成立する。そして、その中で、私たちはそれぞれの生活を営んでいる。世界の実際のありようを制約条件として、その中でできるだけ豊かで快適な生活を営むために、できるだけ効果的な資源配分が試みられなければならない。しかし、個々の生活の場にいる人々は全体の状況を見渡すことはできないのだから、また、見渡すことができたとしてもそれら膨大な情報を処理して適切な解を導くことなどほとんど不可能であるから、水不足などのさまざまな配慮すべき事態を十分に考慮に入れることは不可能である。
 このようなメカニズムが、個別生産物・個別生産要素の市場で働いている。それらどこかの個別市場で発生した変化は、すぐさまその市場の価格に反映され、他の個別生産物・個別生産要素市場に波及していく。そのようにして市場経済全体、(非市場経済をも巻き込んで)経済全体が調整されていく。
 しかし、私たちは全体を見渡すことができなくても、価格は全体の状況を反映して変動する。であるならば、私たちが価格を見て、その価格にあわせて自分の行動を調整することさえするならば、まるで全体の状況を把握して適切な配慮をしているかのような行動を取ることが実際に可能となる。水不足という全体の状況について、その深刻さについての正確な情報を得ることが難しくとも、価格という情報がそれを仲介してくれるのである。

◇1.3 市場が達成できていないもの

 しかし、一般的な感覚として、水のような生活必需品の価格が高騰することは、それに対する支払いができない庶民の生活を苦しいものにする、そういう欠点であると見なされることが多い。しかし、それは誤解である。むしろ、このような文脈においては、価格が高騰しないことは人々の節約等々の工夫を引き出さないという意味で問題であり、価格規制をするべきではない、というのが大方の経済学者の一致した見解である。
 もちろん、水資源が手に入らない人の存在は問題である。だから、次のように述べるとしよう。問題は、価格が高騰することではなく、実際に水資源が入手できないことそれ自体である。私たちが考えるべきは、価格を低く抑えることではなく、価格を自由市場に任せても必要な財やサービスが必要な場所に届けることそれ自体である。
 一般化して言えば、次のようになる。経済は、二つの面で見なければならない。第一に、経済はその外に広がる世界そのものという前提条件と両立可能であるかどうか。第二に、その中で私たちの生活が実際に満足の行くものになっているかどうか。市場経済が優れているのは、主に、第一の面においてである。希少な資源の価格は高く、そうではない資源の価格は相対的に低くなる。それによって、価格は経済の外に広がる世界の現実を反映する。価格がそれを正しく伝えている限り、そして、私たちが価格に反応して自分達の行動を調整していく限り、私たちの経済は第一の面での調整を速やかに進めて行くことができる。こうした情報の伝達が資源の効果的な使用を促し、社会全体をより豊かにする、つまり、第二の面でもよりよい状況をもたらしうるだろう。しかし、問題は、第二の面において、実際に実現した社会状態において、ある種の人々の生活が可能ではないという状況がしばしば生じるということである。
 そこで、私たちの抱える問いは、第一の面に配慮しながら、第二の面での問題に対処することである。そこで課税と給付による再分配という手法がとられるのだが、それは、この再分配が価格に及ぼす影響に配慮しながらなされなければならない。

※ ここでの「市場が達成できていないもの」は、「市場の失敗」と呼んでもよい話ではあるが、ただし、一般に経済学において「市場の失敗」が述べられるときには、上記の意味とはかなり異なる話であることに注意する。ここでは詳述しない。

◆2 再分配と効率性

◇2.1 労働‐余暇の選択問題

 まず最初に、課税の非効率性が何を意味するのかを確認する。ある個人は、一日二四時間という時間を持っている。この時間を、労働時間とそれ以外の活動時間(経済学者はこれを余暇と呼ぶ)に分ける。これを労働‐余暇の選択問題と呼ぼう。ここでの選択は、「労働時間1時間から得られるもの」と「余暇時間1時間から得られるもの」の大小関係に配慮しつつ、なされる。すなわち、それぞれをW(Work)、L(Leisure)と置くと、次のようになる。
 W>Lなら、その時間は、働く。
 W<Lなら、その時間は、働かない。
 W=Lなら、どちらでもいい。
 Wとは、基本的には賃金のことであり、Lとは、余暇時間を通じて得られるさまざまな便益である。たとえば、余暇に遊んで過ごすならば、そのたのしさが得られる。WとLの相対的な大きさは、すなわち価格であり、私たちの生きている世界のあり方を前提として組み込んでいる。そして、私たちはそれに反応して働く時間・それ以外の時間を選ぶことにより、効率的な時間配分を達成していると理解される。
 さて、このような問題設定において、課税=労働所得税はどのように理解されるだろうか。Wから一定割合を取り除いて税収とする、ということを意味する。それはつまり、WとLの関係(相対価格)を変更して、労働を相対的に不利にすることを意味する。その分だけ、WとLの相対的な大きさは価格としてのシグナルをゆがめられることになり、それに起因して労働時間が減少・余暇時間が増大するという形で非効率が発生する。
 当然の反応として、「余暇といっても、働いているではないか」という言い分があるだろう。たとえば、家事労働などである。しかし、ここで余暇とされている時間の活動が持っている特徴は、すなわち、「その時間の活動による成果物を活動者本人が受け取る」ということである。たとえば、家事労働といっても、その成果を受け取るのは、家事労働をする本人である(とみなされている。後に、この点は問題となる)。
 やや注意が必要なのは、自分以外の家族のための家事や介護などである。この場合も、たとえば「主婦による夫のための家事」は、「夫の提供するさまざまな便益と交換でなされる活動」であり、家庭内経済における交換関係とみなされたりする。あるいは、「子どものための家事」は、子どもが便益を享受することが、親自身の利益にもなっており、それゆえに、その便益はやはり親自身が受け取っている(とみなされることもある。この点も、問題となる)。

◇2.2 公害が存在する場合の最適生産量の選択問題

 では、課税は常に非効率性をもたらすのであろうか。そうとばかりも言えない。むしろ、課税が効率性を回復するようなケースを考えてみる。企業活動は、生産したものを売り、それによって原材料費等の費用を支払い、これを継続することで成り立っている。ある企業が、追加的な財の生産を決定するにあたって考慮することは、「追加的な生産によって得られる売上」と「追加的な生産によって失う費用」の大小関係である。追加的な売上をR、追加的な費用をCと書くことにすると、次のようになる。
 R>Cなら、その財を生産する。
 R<Cなら、その財を生産しない。
 R=Cなら、生産してもしなくてもどちらでもいい。
 基本的な構図は、先ほどの労働時間決定問題と同じである。ここで、この企業が周囲の環境を悪化させることで近隣住民に迷惑をかけているとしよう。この迷惑による損害の大きさをDと置くと、社会的に効率的な生産を行なうためには、次のような配慮が必要となる。
 R>C+Dなら、その財を生産する。
 R<C+Dなら、その財を生産しない。
 R=C+Dなら、生産してもしなくてもどちらでもいい。
 このようになる。しかし、環境悪化による被害Dについては、この企業は気にしなければ自分が負担するものではないため、企業が被害Dを考慮にいれる理由はない。よって、依然として、RとCの大小関係のみに基づいて意思決定を行なうことになる。すると、R<C+Dであるにも関わらず、R>Cであるような状況が存在することになる。これはつまり、「社会的には費用の方が大きいため生産しない方がいいのだが、生産の実行を決定する企業の立場においては費用の方が小さく、利益を出すことができるため、生産されてしまう」ことを意味する。このような生産においては、考慮に入れられなかったDの大きさによって、非効率が発生してしまう。
 この問題を回避するために必要なことは、少なくとも理論的には単純なことであり、すなわち、この企業に生産量に応じてDに相当する税を課せばいい。すると、企業は生産量を決めるにあたって、被害Dを考慮に入れなければならないため、社会的に効率的な意思決定と企業にとって都合のよい意思決定が一致することになる。

◇2.3 再分配の非効率性

 2.1においては、課税が価格が発するシグナルを歪めるため、非効率を生じさせる、ということを述べた。2.2では、元々価格というシグナルに反映されない情報を反映させるために、課税という手段を用いることが却って効率を増すことになっている。以上の議論を整理すると、課税がない場合とある場合で異なる市場均衡があり、一方を基準として他方を非効率と見なす、という論立てになっている。
 あるときは、課税が非効率をよび、別のときには、課税が非効率を補正する。これを分けるのは、企業の生産に伴う環境悪化などの要素、行動を決定する主体の考慮に入らない要素の有無である。これを外部性と呼ぶ。つまり、外部性がないときには、市場均衡は効率的であり、外部性があるときには、外部性の分だけ補正するような課税を行なった後の市場均衡の方が効率的だ、というわけである。
 2.1、2.2の分析に共通するのは、課税が人々の行動に影響を及ぼす(租税を回避する行動)をどう評価するか、という問題である。同じことが、給付についても言える。何らかの対象に給付を行う場合、これもまた人々の行動に影響を及ぼす(給付条件を満たすように行動を変える)。そして、この行動の変化自体が非効率を意味するのであった。
 課税による非効率化を評価するには、第一に、その介入による行動の変化がどの程度であるのか、ということ、第二に、変化があるとして、その大きさを課税の大きさが対応しているかということが問題になる。2.2で取り上げた環境汚染物質に対する課税の場合、環境悪化の影響が価格には反映されないので、それを補正するものとして税が用いられれば、効率化をもたらすことになる。
 それでは、介護や医療といったニーズに対する給付はどうであろうか。しばしば、医療への給付が、日常的な健康への配慮を少なくしてしまう、といった問題は生じうる。しかし、給付を受け取ることを目的としてALSになることを選択する個人は存在しないので、この点での問題は生じない。
 さらに、ALSに限定せず、重度障害一般に話を広げてみよう。この場合でも、「給付を受けない非障害者」の方が、「給付を受けた障害者」よりも、その可能な行動範囲等々といった利便性の意味でより優位である、ということはそうそうないのではないか。重度の障害を持つ人に多くの資源を投じて十分に高い水準のQOLを達成したとしても、障害を持たない場合に比べて行動が制限されるなどのさまざまな不便は完全には解消しえていない。これは技術的な問題である。既にある障害を肯定するということと、わざわざ障害を獲得するということは別の話である。よって、難病や障害を理由にした給付は、そもそも人々の行動変化を引き起こさないと言うことができる。
 ただし、残る問題は一つある。給付の財源の問題である。給付の財源は、広く税によって負担を求めることになる。ここで、付録第1節の概念整理を思い出していただきたい。経済全体は、市場経済と非市場経済に分けることができる。課税は、このうち、市場経済の領域に対してしか行なうことができない。市場経済と非市場経済の両方に課税することはできない。だとすれば、給付の財源を獲得するための税のレベルにおいては、市場経済と非市場経済の間の相対価格を変更してしまうことになる。これは言い換えれば、労働時間と余暇時間の選択問題において、余暇がより有利になり、労働がより不利になってしまう、という問題を生じさせてしまうのである。経済理論的な意味で回避できない非効率性は、ここにおいて生じる。とされている。
 経済全体に課税できない(最大限、市場経済の領域にしか課税できない)ということが、再分配問題における非効率性の原因である。逆に言えば、経済全体に課税することができるならば、まったく効率性の問題は生じない、ということである。

◇2.4 非効率性の再検討

 ここまでは、比較的標準的な経済学的解釈である。しかし、ここで非効率性とされているものについて再検討してみたい。大きく二点ある。
 第一に、もし、経済全体に課税する手段が存在しないのであるならば、存在しない手段を前提にして達成しうる経済状態を基準にして、それよりも非効率だ、という論法はどこかおかしいのではないか。私たちが、経済全体に課税することができるのに、あえて市場経済の領域にのみ課税しているのであれば、それは相対的に非効率だ、という話になるだろう。しかし、そのような手段は存在しないのである。
 だとすれば、経済全体に課税する手段が存在しないことによる労働‐余暇の相対価格の歪みは、それ自体、再分配の費用として、一種の取引費用として考えられるべきものではないか。このように考えうるとすれば、先の非効率は非効率だと言うのはおかしいことになる。
 第二に、そもそも、非市場経済の領域を「行為者が、行為の成果物をすべて取得している領域」、余暇の領域とみなすこと自体に問題があるのではないか。しばしば指摘されるように、いわゆる人間の、ひいては労働の再生産を支える労働は非市場経済においてなされているのである。そこで行なわれている再生産労働は、確かに行為者本人が受益している部分もあるが、しかし、社会がそこから受益していることは間違いなく、そこに外部性が存在しているとみなすことができるのではないか。
 このように、非市場経済の領域で行なわれていることのうち、「本人が受益している」とは限らない、それには収まらない行為が多くある。いま一つ指摘するならば、政治参加、および政治参加の前提となるこの社会のしくみに対する理解を深める学習・研究といった活動は、本人ではなく(本人が好きでやっているところもあるにせよ)、社会全体も同時に受益しているのであり、それは外部性とみなすことができる。
 ゆえに、労働を不利にし余暇を有利にする(これはいまや、賃労働を不利にし、不払労働と余暇を有利にする、と言い換えねばならない)課税は、外部性を適切に補正する効率化政策と捉えることも可能である。
 以上の検討は、さらに考察を進め、その妥当性をより詳細に調べてみなければならない。しかし、課税の非効率性という前提には疑う余地がある。このことは指摘できると思われる。


UP:20070808 REV:20070913
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