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「酒井隆史「「ソックスの場所」について」を読む――「働く」ことの位置」

野崎 泰伸 20070926
現代思想研究会 於:大阪府立大学

last update: 20151224

◇引用

「「ソックスの場所」とはおよそ次のようなことである。マラッツィがいうには、多くの(一人暮らしではない)男性にとって、ソックスとはいつもあるべきところにあるものだろうが、女性にとってはそうではない。女性にとって「ソックスの場所」は、適切であると判断されるべきところに戻しておくものなのである。このふるまいは、ほとんど意識下で、習慣化された身体の次元でなされている。このような些細な日常生活の動きの際の中にひそむのが、労働の強度の問題である。単位時間あたりの生産物の量が増大した場合、「むだ」な時間、生産の流れにおける、死んだ時間の除去によって労働の密度をよく上げることができるならば、その時には労働の強度の上昇があるということができるわけであるが、この労働の強度は、法権利的にも、尺度で捕捉された量的な労働力にも還元することはできない。だから、この家事労働における差異の問題は「家事労働に賃金を」という(ひとまず政治的に)量的な平面で表現される要求と、それに対抗して真に自律的で、分割不可能な単位として家族をあらしめるためには―――男性と女性のあいだでの家事活動には、完全な相互性があるべきで、この「対人サーヴィス」を商品化の論理にゆだねてはならない―――、男性と女性のあいだの、そして女性のあいだの平等を再確立するためには、「家事労働に賃金を」どころかむしろ商品化された再生産労働の領域を縮小しなければならないとするゴルツらの批判の間でかわされる議論をすりぬけるものなのである。
 強度は労働については、量ではなく、それでは測定できない質の問題にかかわっている。一見したところ男女のあいだに相互性があるような場所においても、「ソックスの場所」のようにほとんど反射的にいとなまれているような諸々の日常的なふるまいの中に、果てしなく長期にわたって行使されてきた権力関係が刻印してきた、非対称性、性別役割分業の「生きられた歴史」が凝縮され、沈殿されている。だから、男性と女性の関係において、対等なもの同士の交換に擬制することで、男性の権力を除去しようとしても、つねに剰余が生じ、「生きられた歴史」による主体が、家族における男性と女性間の交換に労働力という時間を尺度で測定することを困難にし、強度という質的側面を考慮にいれることを求める。両性間の平等が法権利において保障されていても、あるいは、たとえ労働時間において平等であっても、「ソックスの場所」の問題は、家事労働の場面において尺度の不在による男性と女性のヒエラルキーの再生産の存在を示している」(p.43)

「フォーディズムからポストフォーディズムへの移行を特徴づけるのは以下の点である。すなわち、プログラムされた生産から、市場の気まぐれの動向にますます左右されるようになる生産への、つまりフレキシブルな生産への移行である。そこでは、コミュニケーションの役割が技術的―生産的イノベーションの中心に位置する」(p.44)

◇いくつかの論点

◆私たちが「異なりの身体」を生きているということは自明であるとして、だとすれば身体の異なりに起因せざるをえない権力性は、完全には捨象できないように思われる。そのときに、「だからやむをえない」ではなく、「権力性を漸進的に少なくしていく」ことを目指すことこそが、私には正しいように思えるが、マラッツィはどう考えているのか、分からない。

◆そもそも、「ポスト・フォーディズム論」が主張しているように思える、労働形態の移行が、私には「なぜそれが有意味になるのか」がよく分からない(ネグリも「物質的労働から非物質的労働」というキーワードで、同じようなことを言っているように思える)。労働形態を分けるとき、「人間の生存に直接必要か/どのぐらい直接必要か」といったことで分けたほうがよいのでは?

◆「マラッツィによれば、労働がいま隷従的含意をおびてしまうのは、生産的労働と不生産的労働の区分ではなく、コミュニケーション的で人間関係的な活動が経済的に認知されていないことにもとづいているのである」(pp.49-50)とあるが、だとすれば「経済の言語論的転回」ではなく、もっと直截に「人間を生かすための経済体系」を考えればよいのではないか。

◆関連して、この手の論を読んでいていつも思うことであるが、新自由主義に対する批判と、合理性/効率性への批判が混同して論じられているように思う。経済体系の選択は、そもそも価値判断の問題であり、その体系において目標とされるものへ向かって、合理性/効率性が考えられる。だから本来二者はまったく別物である。「人を生かすため」にこそ働くこと(の効率性)が主張されるべきではないのか。

◆「生存収入」について。ベーシック・インカムは、(高円寺界隈の「素人の乱」に代表されるように)「働かない権利」と同時に主張されることがあるが、むしろそれは「働く義務」を組み込まないとうまくいかないのではないか。


文献
『VOL』第2号(特集1=ベーシック・インカム) 2007 以文社
『現代思想』2007年9月号(特集=社会の貧困/貧困の社会) 2007 青土社
アントニオ・ネグリ 2007 『アントニオ・ネグリ講演集 上 〈帝国〉とその彼方』、ちくま学芸文庫
野崎泰伸 2007a 「生活保護とベーシック・インカム」(『フリーターズフリー』vol.01、282-292、人文書院)
     2007b 「価値判断と政策――倫理と経済のダイアローグ」(障害学会第4回大会・シンポジウム「障害と分配的正義――ベーシックインカムは答になるか?」)


UP:20071228 REV:
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